Neverwinter Nights - Deekin in Halkeginia   作:ローレンシウ

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第百十話 Agony

 

 御伽噺の中に出てくるような魔法の指輪を細い指で押さえながら、タバサは喘いだ。

 この指輪が、もしかしたら私の望みをかなえてくれるかもしれない……。

 

 組み合わせた指が、小刻みに震えている。

 気が遠くなりそうなほどの興奮が、体の中に渦巻いている。

 

『この人に、私を愛させてください』

 

 心の底から、そう望んでいた。

 それこそ、熱情のあまりからからに喉が渇ききって、臓腑が焼け爛れてしまいそうなほどに。

 

 ……なのに、どうして?

 

「…………」

 

 自分の中の何かが、そう願うことを止めていた。

 タバサは困惑しながらも、その理由を探ろうとする。

 

(願いを、かなえてくれる指輪……)

 

 少し前までの自分なら、こんなものを手に入れたら、望むことは決まっていただろう。

 どうか母の心を元通りに直してほしい、と。

 

 なのに、今では自分自身の願望を満たすためにその魔法を使おうとしているのだ。

 それも、その母を救ってくれた恩人の心を、本人の意思を無視して変えようなどとして……。

 

「あ……」

 

 そのことを認識すると、タバサは愕然とした。

 

 それまで思考の大半を占めていた身を焦がすような熱情も、一瞬でどこかにいってしまう。

 代わりに、自分自身に対する恐ろしさ、嫌悪感、情けなさ……、そんな感情が混じり合って噴き出してきた。

 

「……っ!」

 

 思わずしゃくりあげそうになって目を閉じ、組んだ掌を解いて、両手で顔を覆った。

 

 私は、なんてみすぼらしくなってしまったのだろう。

 邪魔だからというだけの理由で母の心を壊したあの叔父と、想い人の口から否という言葉を聞くのが耐えられないからというだけの理由で彼の心を捻じ曲げようとした先程の自分とが、どれほど違うというのか。

 

 これでは、身勝手な対抗意識を持って彼に戦いを挑み、傷つけようとしたあの時と同じだ。

 いや、それよりもなおひどい。

 もう少しで、自分は取り返しがつかないほどに堕落してしまうところだった。

 

 タバサはしばらくそのまま顔を押さえていたが、やがて心の中で両親に懺悔し、そして祈った。

 

(父さま、母さま……)

 

 どうかシャルロットを、もう一度昔のように正しく導いてください。

 私の弱い心が道を踏み外さないように、お守りください。

 

 それから震える手で指輪を外すと、あえてディーキンの姿を見ないようにして、彼の寝袋の傍にそっと置いた。

 本当は二度とこんな衝動を感じないように、その誘惑をかろうじて退けることのできた今のうちに指輪を壊してしまいたいくらいだった。

 だが、これはディーキンの所有物であり大切なものなのだから、そんなわけにはいかない。

 

 それが済むと、タバサはディーキンからなるべく距離を置くようにして努めて心を鎮めながら、見張りを始めた……。

 

 

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「…………」

 

 ディスパテルはその頃、ハルケギニア某所に設けられた秘密の城塞の中で玉座に体を埋めながら、先程の部下からの報告について思案を巡らせていた。

 正確にはディスパテル本体の上級アスペクトであり、本体は第二階層ディスの鉄の塔を離れてはいないのだが。

 

『ラ・ロシェールのクロトートとメンヌヴィルからの報告が、予定の時刻を過ぎても届いておりません』

 

 その報告の意味するところは、おそらく2人とも、連れていた部下共々死んだということだろう。

 秩序の来訪者であるデヴィルが、理由もなく報告を怠ることなどありえない。

 メンヌヴィルについては単に捕えられただけの可能性もなくはないが、クロトートは一瞬念じるだけで瞬間移動できる能力を持っているのだから、捕えられて脱出できずにいるとは考えにくい。

 人間相手と思って油断し、撤退のタイミングを誤ったのだろうか。

 してみると、あの男はなかなか有能な方だと思っていたのだが、見込み違いだったか。

 

 それにしても、あのメンヌヴィルまでが後れを取ったというのはいささか意外だった。

 人間としては稀に見る力を持ち、いささか狂的な部分はあるものの、信頼のおける戦力だったのだが。

 

(あの有用な手駒を失ったとは、残念なことよ)

 

 とはいえ、もちろん埋め合わせの効かないほどの損失ではない。

 ディスパテルが行動を起こすに際して、複数の予備計画を持っていないなどということは絶対にないのだ。

 

 それに、メンヌヴィルは確かに優秀な力の持ち主だったが、いささか破壊的過ぎた。

 現在進めている、自分達をブリミルとやらの神聖な御使いだと信じさせる計画においては、味方側にあのような男が存在することは信憑性を損なう要因にもなりかねない。

 そのため使いどころがやや難しく、しかるにあの男は暴れ回り、焼いて回らずにはいられない性情の持ち主だったので、少々持て余していたことも確かだ。

 

(まあ、厄介払いして魂を収穫するいい機会だったと思っておけばよかろう)

 

 あっさりとそう割り切ると、今後の行動の検討にかかる。

 

 ひとまず、クロトートとメンヌヴィルを始末したのが何者か、情報を集めておく必要はあろう。

 件の子爵とやらが連れていた学生や使い魔がやったのか、あるいは他に何者かが介入したのか。

 クロトートに話を持ち込んできた子爵自身が実は二重スパイでこちらを裏切っていた、というような可能性もなくはない。

 

 場合によってはマークしておく、刺客を差し向けて報復するなどの必要も出てくるかもしれない。

 麻薬ルートも、潰されたりしたのでなければ誰か代員をやって維持しなくてはなるまい。

 もしくは、面倒なことになっているようならひとまずラ・ロシェールからは手を引いて、本命であるアルビオンの方に注力するか。

 こちらの世界での人員は未だ豊富とは言えぬのだし、街ひとつにあまり多くの人手をさくわけにはゆかぬ。

 

 ディスパテルは細かく計画をまとめると、従者を呼び出して指示を伝えた。

 それが済むと一息ついて、窓の傍でプレゲトスの火葡萄で作った年代物のワインを開けながら、この物質界の美しい月が輝くのを眺める。

 

「ハルケギニア、か……」

 

 いささか奇妙な理をもっているようだが、素晴らしく獲物に溢れた魅力的な世界だ。

 何よりも、ここには油断のならぬ競争相手のデヴィルも、面倒な介入をしてくるセレスチャルや神々も、不快なデーモンの群れもいない。

 

 ディスパテルはそこでふと“盟友”であるメフィストフェレスのことを思い浮かべて、皮肉っぽく口を歪めた。

 このアスペクトは固有の自我を持つ存在であり、厳密にはディスパテル本人ではない。

 しかし、本体の基本的な記憶や性質を受け継いでおり、自身と本体とを事実上同一の存在と見なす分身のようなものだった。

 

(君がこの世界のことを知れば、さぞや無念がることだろうな)

 

 長年に渡るディスパテルの同盟者であるメフィストフェレスは、先日フェイルーンの物質界において大胆不敵な計画を立てていた。

 その世界を丸ごと九層地獄バートルに引きずり込み、第十階層として取り込むという計画だ。

 それにより、第九階層の支配者であるアスモデウスよりもさらに深い層の支配者となることで、地獄の王の座を奪い取ろうと考えていたのである。

 

 だが、その計画は結局、当地の英雄たちの妨害を受けて失敗した。

 メフィストフェレスは苦い敗北を味わわされた上に第八階層のカニアに送還されてしまい、当面の間は物質界に赴くことはできなくなったのだ。

 

 ハルケギニアにおけるディスパテルの計画は、それほどに劇的なものではなく、より長期的な計画に基づいたものだった。

 しかし、いずれにせよ、やがてはこの世界を手中に収めるつもりでいる。

 

(君の大胆な行動力にはいつも敬服しているよ。しかし、率先して危険に飛び込んでくれる君の影で最後に勝利を得るのは、やはり私の方なのだ)

 

 この世界で得た力をもって、ディスパテルはついに地獄への堕天以来永劫の長きに渡って自分に命令し続けてきたアスモデウスを屈服させ、下賤なデーモンの群れを放逐する。

 そして天上界に攻め入り、遥かな昔に自分達をその地から追放した神々とセレスチャルの軍勢をも滅ぼすのだ。

 

(待っているがいい、アスモデウスよ。そして、天上の神々よ――)

 

 その日のことを思って昏い愉悦に浸りながら、ディスパテルは重なり合った月に向かって掲げたグラスをゆっくりと傾けた……。

 

 

 

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「……っう……、っ――」

 

 タバサはぎゅっと自分の胸を押さえて、苦しげな、それでいてどこか熱っぽい喘ぎを漏らした。

 

 彼女は、ひどく苦しんでいた。

 あらゆる意味で、夜明けは遥かに遠いように感じられる。

 それまでの間、自分の気持ちに正直になれ、誇りや倫理観なんか捨ててしまえと、事あるごとにそそのかしてくる欲望を抑え続けることはできそうもなかった。

 

 一度は罪悪感によって追い払われたはずの熱情は、隙あらばまた胸の中に入り込もうとあらゆる方向から絶えず押し寄せ続けてきたのだ。

 その圧力で心の薄い隔壁はひどい軋みを上げ、今にも崩壊しそうになっている。

 もはや、何よりも大切にしてきた両親のことを思い浮かべてさえ、その衝動はほとんど弱まらなくなっていた。

 

(……こんなのは、違う……)

 

 やはりなにかがおかしいと、僅かに残った理性が必死に叫んでいる。

 

 自分がこの人のことを好きなのは、それはいい。

 急にその気持ちが大きく膨れ上がったことは不思議だけれど、決して嫌ではないし、後悔もしていない。

 亜人などを相手にとか、そんなことを言う者には言わせておけばいいのだ。

 自分はこの感情を抱いたことを誰に嗤われようと、責められようと、恥ずべきところなど少しもないと胸を張っていることができる。

 だって、彼は私の勇者なのだから。

 

 だが、愛情を得るためなら彼自身の意志を捻じ曲げてもいい、両親に顔向けできないような卑しむべき行為に手を染めても構わない、などと自分が考え出したのは、絶対におかしい。

 それも、少し頭を掠めるくらいならまだしも、抑制できないほどにその衝動が膨れ上がってくるなんて……。

 

 タバサは、普通の貴族なら眉をひそめて避けるような様々な所業にも、任務の関係で手を染めてきた。

 従姉妹の気紛れで残飯を口にさせられようと、足元に這いつくばらせられようと、母のため、そして復讐のためだと自分に言い聞かせて、黙って耐えてきた。

 けれど、それでも譲れない一線が確かにあった。

 両親の名誉を傷つけるようなことは決してしようとはしなかったし、2人のことを悪しざまに言う輩に対しては決闘を挑むことも辞さなかったものだ。

 

(いくら恋に目が眩んだからといって、私がこんな考え方をするようになるはずがない……!)

 

 だが、それとは別に、自分自身のもののような、それでいてまるで別人のもののような、奇妙に甘ったるい声もまた頭の中に響いていた。

 

『別に、何もおかしくない。本にも、恋は盲目的なものだと書いてあった。私もそうなっただけのこと。人はいつまでも、両親の教えた道に従って生きるわけでもない』

 

(そんなはず……)

 

『あなたは真実から目を背けたいだけ。倫理や誇りの定義なんか、時代や場所によっていくらでも変わることをあなたは知っているはず。そんなはかないものはさっさと捨てて、何よりも貴重な人を手に入れればいい』

 

(だめ……)

 

『望みのない恋をいつまでも続けたいの? 彼があなたに告白してくれることはないし、あなたにも彼に告白する勇気はない。したところで、受け入れられる望みはない。わかりきっている。なら、獣も同然のやり方でもいい、機会がこの手をすり抜けてしまわないうちに……』

 

 甘やかな声はどんどんと饒舌になり、それに反して理性の声は弱く短く、途切れがちになっていた。

 しかし、タバサはなおも抗った。

 

(……うるさい! うるさい、うるさいっ!! 黙って! 黙れっ……!!)

 

『…………』

 

 普段の彼女らしからぬ、理屈も何もないまるで幼子の駄々のような絶叫を心の中で張り上げると、ようやくその得体の知れない声は静まってくれた。

 

「……。は、ぁ……」

 

 だが、それは一時の勝利に過ぎない。

 じきにまた同じ声が自分を誘惑し始めるであろうことを、タバサはもうよくわかっていた。

 

 その声は、ある程度までは彼女の内から出た部分もあったのかもしれない。

 しかし最大の要因は、やはり先刻戦ったデヴィルのクロトートが彼女に浴びせた惚れ薬の作用だったのだ。

 

 クロトートは、その薬を浴びせたほとんど直後にタバサを自分の虜にすることができ、しかも仲間に対して牙を剥かせられるものと想定してそれを使用していた。

 だが、普通はいかに相手を魅惑しても、それは自分と相手との関係を変えるだけで相手と他人との関係を変えるものではないため、本来の仲間を裏切らせたり攻撃させたりすることは単に魅惑するだけでは難しいのだ。

 それを可能にするために、クロトートはハルケギニアの惚れ薬の成分にさらにある種の毒素を混ぜ込んで、効果をより悪質な方向に強めていた。

 定命の存在の持つ判断力や道徳観を衰えさせるという効果を持つ毒素だ。

 いうなれば、魅惑の呪文と《道徳崩壊(モラリティ・アンダン)》の呪文とを同時にかけるようなものである。

 

 タバサは魅惑の効果の方には、その対象がディーキンだったこともあって簡単に侵されてしまったものの、既存の道徳観を捨てさせようとする効果の方には強く抵抗していた。

 とはいえ、毒が回るにつれて彼女の判断力は低下し、感情はより不安定になり、その抵抗力は確実に衰えてきつつある。

 全身に浴びた毒素を洗い流してしまえば少なくともそれ以上の状態の悪化は防げるだろうが、激しい感情を抑えるのに精一杯の今のタバサが自らの置かれている状況に気が付くことはまずあるまい。

 

「…………」

 

 次にまた同じ衝動が襲ってきたら、そのときにも抗えるものかどうか、タバサにはまるで自信がなかった。

 けれど、それに屈してしまうことは決してあってはならない、許されないことだ。

 

 タバサはなけなしの理性をかき集めると、この状況に対処する方法を熱っぽくてうまく回らなくなってきた頭で必死に考えた。

 このまま自分一人でいては、朝までもたないのは目に見えている。

 

 なら、見張りを放棄してでも宿に戻って、キュルケと一緒にいたら?

 

 いや、それは駄目だ。彼女は間違いなく自分の様子がおかしいことに気付いて、何があったのか探ろうとするだろう。

 親友に私の気持ちを悟られて、応援するわよとか言われてしまったら、もうだめ。

 この感情を承認されたら、きっとそれが免罪符になって、それこそ抑制が効かなくなってしまう……。

 

 では、あの指輪をもう一度手にとって、この感情を沈めてくれるように願ったら?

 

 それこそ馬鹿げている。自分を騙そうとしている。

 今の私が指輪を手にしたら、違う願い事をしようとしてしまうに決まっているのだ。

 

(他のこと……。今の私に、できること……)

 

 タバサは、ひとつの行動を思い浮かべた。

 

 それを実行に移すのは恥ずかしい、そしてどうなるかと思うと恐ろしい。

 しかし、これ以上自分を抑えておけない今、問題を解決してくれる方法はもうそれしかないように思えた。

 このままでは私は駄目になってしまうのだと自分に言い聞かせ、意を決してディーキンの方に向き直ると、寝息を立てる彼に向かっておずおずと震える手を伸ばした。

 

 途中、先程置いた指輪が目に入り、それを手に取りたいという強い衝動が湧き起こる。

 しかし、彼に触れたいという別の欲求の方をあえて強く意識することで、なんとかそれを振り払った。

 

「……っ」

 

 ディーキンの鱗に覆われた腕に手を触れた途端、タバサは焼けつくような熱さを感じた。

 もっと触れたいという衝動が、激しく全身を貫く。

 それを努めて抑制して、震える手で彼の体をそっと揺さぶった。

 

「――――ンァ? ……ファァ、アー……」

 

 ディーキンは目を覚ますと、寝惚け眼をごしごしこすりながら寝袋から這い出し、大口をあけて体を伸ばした。

 

「……タバサ、どうしたの? なにかあった?」

 

 そういって不思議そうにこちらを見つめてきた彼と目が合った途端、タバサはこれから自分がしようとしていることの結果を思って、恐ろしさに身を震わせた。

 やっぱり、やめておけばよかっただろうか……。

 

 だが、もう遅い、遅すぎる。

 私は疲れて休んでいる彼を、こちらの都合だけで起こしてしまった。

 正直に話す以外に、どうやってその言い訳ができる?

 

 指輪に手を伸ばすことは呪われた行いであり、手を伸ばさずに耐えることも、逃げ出すこともできないとわかった以上、とるべき行動はそれだけだ。

 その結果がどうなろうとも、誘惑に負ける前に自分の手で決着をつけてしまうしか、あの呪わしい声を永遠に黙らせる方法はない。

 

「起こしてしまって、ごめんなさい……」

 

 タバサは潤んだ目を隠すように顔を伏せると、掠れた声でそう言って詫びた。

 

「……どうしても、あなたに伝えておきたいことがあった。どうか、気を悪くしないで、聞いてほしい」

 

「……なに?」

 

 ディーキンはその言葉に籠もった深刻さを感じ取って居住まいを正すと、話の続きを待った。

 

「ディーキン、私は……」

 

 タバサは目を閉じて一度深呼吸をすると、覚悟を決めて顔を上げ、ディーキンの顔を真っ直ぐに見つめる。

 

「……私は、あなたの……、あなたの、側に……、ずっと……、ずっといたいと、思っているの……」

 

 その声はかすれて震え、ためらいがちにたびたび途切れている。

 普段は白い彼女の肌は、夜でもわかるほどはっきりと紅色に上気している。

 こちらを見つめる眼鏡の奥の瞳が、熱っぽく潤んでいる。

 

 そのただならぬ様子にディーキンは戸惑ったが、一体何が起きているのか、状況がよくわからなかった。

 言葉の内容は、もちろん嬉しいのだが……。

 

「その、ありがとうなの。ディーキンはそんな風に思ってもらえて、感謝してるよ。でも……」

 

「ちがうの……」

 

 首を傾げながらもとにかく嬉しいことを伝え、なぜ今その話をしたのか聞こうとした彼の言葉を、ふるふると首を振ってタバサが遮った。

 それから顔を伏せて、ぽつぽつと言葉を続ける。

 

「ずっと、というのは、本当に、ずっと……。朝も夜も、今日も明日も……。一年後も、十年後であっても……」

 

「……えっ?」

 

「あなたがいつか、来たところに帰るのなら、私もついていきたい……。そこが、知らない世界でもいい。暗い洞窟の中でもいい。あなたの傍にいられるのなら、私はきっと、後悔はしない……」

 

「……タバサ?」

 

 ディーキンは、いつになく熱っぽく、それでいてどこかしおらしく話を続けるタバサを、目を丸くしてまじまじと見つめた。

 

 ええと、この様子はもしかして、本とかで読んだ……。

 いや、でもまさか、そんなことなんて?

 

「……でも、それでも、ひとつだけ……、怖いことがあるの」

 

 そう言ってもう一度顔を上げたタバサの表情には、キュルケならずとも感じ取れるほどに、そして普段の彼女を知るものであれば間違いなく驚くであろうほどに、内心の不安がはっきりと表れていた。

 その目は、今にも涙がこぼれ落ちそうなほどに潤んで揺れ動いている。

 

「あなたには……、そのうちに、きっと、恋人ができる……」

 

 タバサは、話しながら顔をくしゃくしゃに歪めた。

 

 感情がこんなにも露わに顔に出るのは、何年ぶりのことだろう。

 そんな機能はもう衰えきってしまっているものと、自分でもそう思っていたのに。

 

「その、きれいなコボルドの恋人と、仲良くして……、いつか、結婚して。……それを、側で見ることになると思うと、……辛いの……」

 

 一息ごとに、血を吐くような思いをしている。

 心臓が口から、張り裂けた自分の心と一緒に飛び出してきそうになっている。

 

 それでも、震える声を懸命に絞り出すようにして、話を続けた。

 

「……私、その時が来るのが、怖くて、苦しくて……。だって、私は人間だから……。何も、何もできないから……」

 

「…………タ、バサ?」

 

 ディーキンは呆気にとられたように目を丸くして、これまでに見たこともないほど潤んだ彼女の目を見つめ返した。

 こんな顔をした女性に正面から見つめられたことは、今までに一度もなかった。

 

 さすがに、これはもう疑いようもない。

 疑いようもないけれど、それでもとても信じられない。

 それもまさか、人間の女性からだなんて……。

 

「…………」

 

 タバサは絶句したディーキンの表情をじっと見つめて、そこに表れている感情を読み取ろうとした。

 

 彼女がそこから見て取れたのは、ただ純粋な驚きだけだった。

 嫌悪感や、怯え、拒絶……。何よりも恐れていたそのような反応は、一切ない。

 

 それがわかると、タバサは心の底から喜び、そして安堵した。

 そうして、不安に張り詰めていた気が緩んだことで、彼女の不安定に揺れ動く感情はついに限界を迎えた。

 

「ディーキン……」

 

 タバサは突然ディーキンに倒れ込むようにして抱き付くと、彼の小さな体に腕を回して、しっかりと抱き締めた。

 想い人をその腕に抱いた喜びからか、目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。

 

「わたし……、あなたが好きなの……。だいすき……」

 





モラリティ・アンダン
Morality Undone /道徳崩壊
系統:心術[悪、精神作用]; 5レベル呪文
構成要素:音声、動作、物質(細かく砕かれた聖印)
距離:近距離(25フィート+2術者レベル毎に5フィート)
持続時間:術者レベル毎に10分
 この呪文は、犠牲者の属性の善-悪軸を一時的に悪側に変化させる。
秩序-混沌軸や基本的な人間関係などは変化しないが、犠牲者は新たに得た利己的で残忍な価値観に基づいて行動し始める。
そのため、犠牲者は友人から密かに貴重品を盗んだり、呪文をかけて自分に都合よく操ろうとしたり、なんらかの利益になると思えば攻撃することさえあるかもしれない。
 この呪文は、チャームやサジェスチョン、ドミネイトなどの呪文によっても本来ならば侵させることのできない一線を根本的に変えてしまうので、そのような呪文とあわせて用いると特に効果的である。

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