続きを待ってくれたみなさん。すみません。
その日、俺たちは朝早く家を出て学校へ向かった。昨日の下校中、俺が最高に面白いイタズラのネタを提案し、2人がそれに乗っかったからだ。この仕掛けは誰もいない教室でやる必要があったため、3人で朝早く教室に来て仕掛けようと約束した。
父さんは仕事で朝早くに家を出て、母さんも疲れが溜まっていたのか死んだように眠っていた。
俺は準備を終えて学校を出ると、通学路で井上、間島と合流し、3人揃って朝7時30分の校門を潜った。
誰もいない学校というのは新鮮な気持ちだった。普段なら校門には雇われた民警がいて、他の同級生や先輩・後輩が一緒に学校に来ているのだから。普段たくさんの人間がいるはずの場所に誰もいない、その光景は不気味であり、真夜中の学校に通ずるものがある。
既に来ているかもしれない先生を警戒しながら、昇降口で上履きに履き替える。
俺たちの教室は昇降口からまっすぐ進み、その先の階段で2階に上ったところにある。階段までの廊下の途中には職員室があり、俺たちが教室に向かうために、職員室の前を通るのは必然だった。
職員室に灯りが付いていた。先生たちの話し声も聞こえる。その声調からして、良い内容の話では無いのは俺たちでも察することが出来た。今、ここで見つかってしまうと普段以上にお叱りを食らうだろう。「遅刻しないように早く来ました!」なんて言い訳も通じない。
身を屈めて早足で職員室を通り抜けて行く。職員室の中では怒号のような声が飛び交っており、声と共に険悪な雰囲気が嫌でも伝わって来る。俺たちの担任の佐原の声も聞こえた。
「ウチの学校に赤目が……忌々しい!」
「今は問題の解決を図るべきです。誰にも気づかれることなく、自然に彼女を退学させられればそれが理想です」
「問題行動を誘発させるのにどれだけ時間がかかると思ってる!」
「我々も民警と契約している手前、表だって赤目を差別することは出来ない」
「絶対に保護者に勘付かれるな。PTAなんぞに出られたら溜まったものじゃない」
「まったく…可哀想な話ですが、仕方ありませんね」
「佐原くん。彼女の処遇については君に一任する。可及的速やかに彼女を処理しろ」
「分かりました」
小学生でも理解できる不穏な会話だった。赤目、退学、問題行動、PTA、etc…教師の口から飛び出す言葉一つ一つに恐怖が乗せられている。聞いてはいけない話を聞いてしまった。そう思ったのは俺だけではないようだ。
見つからないようにそそくさと職員室の前を通り抜け、階段を昇って教室に辿り着いた。しかし、もうその時にはイタズラのトラップを仕掛けるような気力は俺たちに残されていなかった。誰もいない教室で俺たち3人は俯いたまま何も語らなかった。
「赤目がいるって、本当なのかな?」――と最初に間島が口を開いた。
「先生があそこまで騒ぐんだから……本当じゃないか?」
間島の疑念に答えたのは俺だ。
「で……でも退学って…」
「馬鹿。小学校は“ぎむきょういく”ってやつで、退学は無いんだぞ」
「そ、それはそうだけどさ」
俺は案外冷静だった。赤目なんて通学路で民警をイニシエーターとして何人も見かけるし、大角さんとペアを組んでいた飛鳥とも少しだけだが会話する。イニシエーター以外の赤目に遭ったことは無いが、俺にとって赤目は「ものすごく強い女の子」ぐらいの認識でしかなかった。ガストレアウィルスの感染経路や抑制剤のことは大角さんから聞いていたので、俺は正しい知識を身に付けていて、過度な偏見は持っていなかった。
「何で……お前らはそんな平気なんだよ」
井上の口から低いトーンの腹に響く声が聞こえた。その一言は俺たちに悪寒を走らせるのには十分だった。
井上はガストレア大戦で親戚全員を失っており、今は里親のところで過ごしている。自分から全てを奪ったガストレアに対して強い憎しみを抱いている彼が、赤目に対して何も抱かないわけがなかった。そんな事情を知っていても、俺は井上の憎悪の深さを理解することが出来なかった。いや、理解しようともしなかったのだろう。今の3人の関係を崩したくないあまり、俺の心は井上から逃げていた。
「ただ赤目ってだけだろ。そんなの登下校の通学路に何人もいるじゃねえか」
「あいつらは民警だ!管理されているだろうが!」
「い、井上」
「民警やってる奴が学校に来るわけない。管理されていない化物が学校に来ているんだぞ。そんな奴を野放しにして、平気でいられるかよ」
「おい!今のは言い過ぎだ!」
「そ、そうだよ。一旦、落ち着こう。先生たちがデマに流されただけかもしれないし」
間島が俺と井上に間に入り、なんとか一触即発の事態を回避させようとする。こういうところでいつも間島には苦労をかけているなと我ながらに思う。
井上はばつが悪そうに舌打ちすると乱暴に椅子を引き、自分の席に座った。
それから気まずい静寂の30分が始まった。俺たちは自分達の席につき、誰にも視線を向けず、ただ俯いていた。
井上は時折「チッ」と舌打ちを鳴らして俺たちを一瞬飛び上がらせる。俺はどうしようかと考えたが、何も良い案は浮かばない。間島も同じようで、心配するように井上と俺を交互に見るが、その視線には不安と焦りを感じていた。
胸が苦しくなり、胃がキリキリと悲鳴を上げる。俺は責任を感じていた。今回は珍しく俺の発案でこうなった。俺が何も言わなければ、いつも通りの時間に登校しただろう。赤目のことも知らなくて済んだだろう。井上の憎悪を増長させることも、ひとまず無かったかもしれない。例え偶然だとしても――俺が悪かった。
普通の登校時刻になり、教室に次々と生徒が入って来た。皆は俺たちが一番乗りであることを物珍しく感じていたが、席で俯く俺たちのことを察して声をかけようとはしなかった。声をかけても軽い挨拶だけだ。
ぞろぞろと生徒が入り、ほぼ9割が朝のホームルームまでの間を雑談して過ごす。
「よう。井上。お前が一番乗りなんて珍しいじゃねえか」
「まぁ……な」
井上の野球仲間である森岡が空気を読まずに話かけた。井上は相変わらず機嫌が悪そうだったが、親友の好意を無碍には出来なかったようだ。
「けど、面白いネタを拾ってきたぜ」
その一言を聞いた途端、俺の全身に悪寒が走った。井上は不気味な笑みを浮かべる。憎悪と復讐を込めたどす黒い笑みだ。今、あいつの中では学校に混ざった怪物(赤目)を追い詰める算段を組み立てているんだろう。
「この学校に、赤目がいるらしいぜ」
クラスに、爆弾が投下された。
爆風で全ての音がかき消されるように、クラスから音が消えた。そして、全員の耳が「赤目がいる」という爆発音に支配される。
「え……嘘?」
「やだ~こわい」
「おいおい。マジかよ。誰だ?」
「分かんねえけど、先生たちの口振りから、ウチのクラスらしいぜ」
男子たちが慌てて席から立ち上がり、女子と距離を取る。全員に疑いの目を向ける。男女の間で大きな溝が出来上がった。
呪われた子供たち、赤目はガストレアウィルスと性染色体の関係から女児しか生まれない。赤目といえば少女なのは確定事項だ。
男女で睨み合う中、担任の佐原先生が教室に入って来た。
「ホームルームだ。お前らちゃんと座れ」
先生の一声でクラスメイトが渋々席につく。不完全燃焼に疑惑、嫌疑をかけられた怒りは未だにクラス中で燻っていた。
女子の一人が挙手した。
「先生。このクラスに赤目がいるって、本当ですか?」
「赤目?何の話かな?」
分かり易い誤魔化しだった。子供騙し、いや、こんな三文芝居じゃ子供も騙せないだろう。こんな言葉一つで誤魔化し切ったと思い込んでいるあたり、この男は教師のくせして子どもを理解していないのが分かる。
「それじゃあ、出席を取るぞ」
何事も無かったかのように佐原は名簿を取り出し、一人一人の名前を呼んでいく。まるで葬式のようにしんと静まり返った教室で名前を呼ぶ佐原の声と「はい」と答える生徒の声がけが響く。
佐原が男子全員の名前を呼び終わり、続いて女子の名前を呼ぶ。最初に来るのは出席番号18番、女子では一番先頭になる藍原延珠だ。
「あ、藍原……延珠さん」
明らかに佐原の態度が違った。唇は震えて、瞳孔が開いていた。それは教師が生徒を見る目では無かった。大きな怪物を目の前にして恐怖する目だった。
その異常はこのクラスの全員が気づいていた。そして、赤目が誰なのか、ただ1人を除いて全員が抱いていた疑問、18通りの予測が一つに絞られつつあった。
「はいなのだ!」と藍原延珠はいつものように――何事も無かったかのように――元気な声で答えた。それは昨日までの日常を保つための最後の抵抗だったのかもしれない。
佐原は平然を装い、次の女子の名前を呼んだ。
【何事も無かった。いつものクラスとホームルーム】
もしかしたら、この時だけ藍原延珠と佐原先生の利害は一致していたのかもしれない。事を荒立てずに藍原延珠を追放したい佐原と事を荒立てずに別れを告げたい藍原延珠との間で――。
その後、“何事も無かったかのように”1限目の授業が始まった。
藍原延珠は普通に授業を受けた。周囲の視線を無視して、普通を装って…
誰も藍原延珠に関わろうとしなかった。井上は憎悪の視線を向けるだけだったが、ここで殴り掛かれば赤目の力を前に返り討ち遭うと理解できるぐらいの理性は残っていた。
俺と間島は、罪悪感で押し潰されそうになっていた。まだ教室に3人しかいなかった時、あの時が悲劇を防ぐ最初で最後のチャンスだったんじゃないかと――。俺たちが立ち上がれば、ただ先生の様子がおかしいと少し疑問に思うぐらいで済んだんじゃないかと――。
魔女狩りの場となった教室で俺はずっと心の中で藍原延珠に懺悔していた。罪悪感に押し潰されそうな意識を必死に保つ。いっそのこと教室で暴れ回って、クラスの空気を滅茶苦茶にしてしまおうかという衝動にかられる。
だけど、俺は何も出来なかった。一個人の差別なら、教育や説得で本人の差別意識をなくせばいい。しかし、その差別が社会構造となると、差別の否定、被差別者の抵抗そのものが“悪”となる。俺は怖かったんだ。ここで“悪”になってしまうことに――。
そして、俺は何もできないまま、事件は起こった。
給食の時間、各々がトレーを持って給食係の前に並ぶのだが、男子の一人が藍原の顔にめがけてスープをかけた。鍋から出たばかりの熱々のスープ、普通の人間なら火傷は必至だったが、藍原の顔は一度赤くなっただけで、すぐに元に戻った。
「化物だ…。やっぱりお前は化物なんだ!出て行け!人の皮を被ったガストレアめ!」
その瞬間、藍原延珠はクラスから飛び出していった。ランドセルも教科書も何も持たず、着の身着のままで…。
もうあそこは教室じゃない。魔窟だ。ほとんどの人間がガストレアへの怒りと憎しみに囚われていた。呪われた子供への恐怖と敵愾心に溺れていた。その全ての矛先が藍原延珠という一人の少女に向けられる。中世の魔女狩りのような集団ヒステリーがこの教室で起こっていた。
昨日まで何事も無く笑い合っていた子供たちが、今にも人を殺しそうな形相で、教室で蠢く。多くの子供が図工の時間で使う彫刻刀を取り出し、井上も黒板の下にある大きな三角定規を抱える。「殺せ」「ガストレアを殺せ」と声が木霊する。
俺は教室から飛び出した。あの中にいたらまともな精神が保てない。同じ気持ちであろう間島や藍原の親友だった舞のことも全部放置して、俺は逃げ出した。
俺は保身のためにクラスメイトを見捨てた。
藍原延珠は友を失った。
彼女はクラスメイトから怪物(ガストレア)になった。
もう戻れない。何も取り戻せない。
俺の胸は罪悪感でいっぱいだった。
胃の中まで入ったはずの朝食が喉元まで登ってきた。
吐いたことを悟られないよう、教室の隣のトイレは使わなかった。
わざわざ1階の昇降口近くのトイレまで我慢していった。
俺はとにかく吐いた。朝食も昨日の夕食も吐けるだけ洗面台に吐いた。吐けるものが無くなっても消化液らしきものが口から出てくる。血が混じり赤くなった粘性のある液体が洗面台を染める。
口を水で濯いで、洗面器に溜まった吐瀉物を流す。
「はぁ……はぁ……保健室……行かないとな」
俺はふらつきながらも1階のトイレから出ようとした。
「どういうことだよアンタッ。延珠は本当に――ッ」
俺の足は止まった。物陰に隠れながら、声のした昇降口を見る。
黒い制服を着た目つきの悪い高校生が掴みかからんばかりの剣幕で佐原に詰め寄っていた。佐原もどっと汗が噴き出て、何度も額をハンカチで拭う。
「ええ、藍原さんが『呪われた子供たち』だという噂がどこからともなく立ちまして。給食の頃には、藍原さんに対する………その……嫌がらせのようなものが始まりまして」
何が「どこからともなく」だ。何が「嫌がらせのようなもの」だ。とんだ嘘じゃないか。
「そんな……だって。延珠は否定、しなかったのか?」
「里見さん。あなたはいままで、『呪われた子供たち』だということを私たちに黙って藍原さんを通学させていましたね」
「事前に言えば、アンタらは理由をつけて、延珠の入学を断ったんじゃねぇのかよッ?」
「藍原さんはショックを受けていたようなので、早退させました。こんなこと言えた義理ではないのですが、一緒にいてあげてくれませんか、里見さん?」
この時、俺はサトミという男に羨望を抱いていた。俺が恐れて何も出来なかったことを今この男は成し遂げているからだ。俺はクラスの悪になりたくなかった。保身のために救えたかもしれない一人の少女を見捨てた。俺と同じ思いを抱いて苦しんでいる間島と舞を見捨てて教室から逃げた。だけど、
あの人みたいになりたい。
あの人のような“強さ”が欲しい。
――しかし、俺の記憶はここで途切れた。
目が覚めた時には知らない天井、知らないベッド、俺の傍らで眠りこける母の姿だった。
俺は倒れたところを教師に発見され、病院に搬送された。診断はストレス性の胃腸炎で2週間の入院だった。
長かったようで短かったような入院生活を終えて、俺は学校に戻って来た。まだ藍原の件で心残りがあったがそれを口に出すことなど出来なかった。出来れば、学校に戻りたくなかったが、それも言えなかった。
退院後初めての教室。俺が来たことに周囲が視線を向けた。俺は一瞬、蛇に睨まれた蛙のようになったが、その視線が睨みではないことはすぐに分かった。
クラスメイト達が「大丈夫だったか?」「今日から来れるのか」と俺のところにわらわらと集まって来て、手術がどうだったとか入院生活がどうだったとか根掘り葉掘り聞かれる。しかし、袂を別った井上の姿は見えず、間島も視線をずっとそらしていた。
まるで藍原の一件が夢のように感じた。元々、このクラスに藍原延珠なんて少女はいないと言いたくなるほど、それは自然で、かつ不自然な日常だった。
「みんな、席につきなさい」
俺の背後から担任の佐原が現れた。彼の一声でみんなが蜘蛛の子を散らすように席に戻っていく。俺の席に戻った。
佐原が教壇に立った。
「えー。みなさん知っての通り、義塔くんも学校に来たことで、クラス全員が揃いました。みなさんの“脅威”も取り除かれ、心機一転、学校生活を楽しんでいきましょう」
いや、やっぱり夢じゃなかった。あれは現実だ。藍原延珠は怪物としてこのクラスを去った。俺は何も出来なかった。
そして、サトミという男の姿とその時抱いた彼への憧れが鮮明に浮かぶ。
――何も恐れるな。正義を貫け。
俺は飛び上がった。病み上がりの身体とは思えないほど軽く感じた。そして、佐原の顔面を殴った。眼鏡が割れ、佐原は飛ばされ、その体重で教卓を倒した。
「何のつもりだっ?義塔」
「ふざけんじゃねえっ!!なにが“脅威”だ!あいつが何かしたのか!?あいつの何かが悪かったのか!?ええ!?言ってみろよ!何も言えないだろ!そりゃそうだ!アンタらは藍原のことを悪いとは思っちゃいねえ!けど、アンタらは藍原を生贄に出したんだ!自分達の保身のために生徒を生贄に出したんだ!このクソッたれ共が!!」
この怒りは自分の生徒を“脅威”と吐き捨てた教師への怒り、そして正義を裏切った自分に対する怒りだった。
一個人の差別なら、教育や説得で本人の差別意識をなくせばいい。
しかし、その差別が社会構造となると、差別の否定、被差別者の抵抗そのものが“悪”となる。
この日、俺は、“悪”になった。正義を貫く悪になった。
それからの人生は想像に難くない。友人を失い、不良のレッテルを貼られ、払拭しないまま卒業。中学に入学しても一匹狼のスタンスは変わらず、先輩に目をつけられては喧嘩を繰り返す日々。成績は高校進学を考える必要もないくらい絶望的、就職も不可能で、先生に投げやりに薦められた民警の資格を得た。
そして、森高詩乃と出会った。
少年は力を手に入れた。
贖罪の仮面で顔を隠した。
Q.もしここで壮助が延珠(もしくは呪われた子供)を守ろうと行動していしたらどうなっていたか。
A.壮助も「赤目の仲間」としてクラスから迫害を受ける。また、延珠一人に向けられていた憎悪が壮助、そして延珠の親友の舞も飛び火し、迫害の対象が1人から3人に増える(もしかしたら、間島も含めて4人)。延珠は自分だけが迫害されることには耐えられるが、自分のせいで他人まで迫害の対象にされてしまうことには耐えられないため、壮助と舞の存在は延珠にとっての“救い”ではなく、“罪”として精神的な負担になるだろう。
結論:原作以上に延珠の精神状態がヤバくなる。