月灯りに照らされた雲海を2つの黒い影が飛び抜ける。月と星、そして宇宙へと繋がる果てしない暗闇だけが見える雲上の虚空で2つの影は自由を謳歌するように風を切っていた。
『クネヴィッチ。こちらフィーリエン
『フィーリエン1。こちらクネヴィッチ、了解した。目標との距離は現状を維持しつつ観測を続行せよ』
『フィーリエン1、了解』
『フィーリエン
ウラジオストックエリア空軍所属の戦闘機 Su-35、識別コード《フィーリエン1》、《フィーリエン2》は、とある任務を帯びて日本海上空・高度20000フィート、ウラジオストクエリアの東方400kmを飛行していた。
任務内容は「飛行ガストレアの監視」
“ガストレアは躊躇いなく撃ち殺せ。肉親の成れの果てだとしても撃ち殺せ”――と教育されてきた彼らからすれば、群れを成さずたった1体で飛行するガストレアを攻撃せず、“一定の距離を維持したまま監視するだけ”という任務内容は奇妙に思えた。
しかし、与えられたガストレアに関する情報、フィーリエン1、フィーリエン2の眼前に広がるこの世のものとは思えない光景が、2人の疑問を払拭した。奇妙な任務内容にも納得がいく。奴を殺せるのであれば、殺したい。今の人類に、“あれ”を殺せる手段があれば。
今、この空を支配しているのは鳥でもなければ、人類の航空機でもない。マッハ3で飛行する全長100メートルの巨大な貝殻だった。三角錐を横に倒したような形状をしており、出来立ての石膏のように不気味なほど真っ白だ。貝殻には細かい彫刻のような溝が入っており、その溝を空気が通ることで翼を持たなくても浮力を獲得している。貝殻の後部には軟体生物の噴出口と触手が伸びている。噴出口はタンパク質で作られたロケットエンジンとなっており、体内で化学合成した未知の液体燃料により、マッハ3の超音速飛行、瞬間最大速度マッハ50という現実離れした飛行を実現している。更に触手による空気抵抗の操作はハリケーンの中でも微動だにしない安定性を獲得しており、人類が築き上げた航空力学を真っ向から否定する飛行をそのガストレアは実現していた。
ステージIVガストレア コードネーム“スピカ”
現在確認されている中で世界最大の飛行ガストレアであり、“人類から空を奪ったガストレア”の悪名を持つ。
最初に発見されたのは、2033年のイスラエル・テルアビブエリア。その日、レーダーで飛行ガストレアを捕捉したパルマヒム空軍基地は高高度からのガストレア侵入を警戒したため、バラニウム弾頭空対空ミサイルを搭載したF-15E ストライクイーグル2機を出撃させた。悠々と飛行する異形のガストレアにイスラエル航空宇宙軍は躊躇いなくバラニウムミサイルを発射。全弾が命中し、ガストレアは絶命して墜落したかと思われた。しかし、次の瞬間、飛行ガストレアはマッハ50という驚異的な速度で移動し始め、その甲殻による体当たりで2機のF-15Eを撃墜。更に地上部隊からのミサイル攻撃を軽々と回避すると、速度を維持したまま地上から数メートルの超低空飛行でテルアビブエリアを蹂躙。戦車の砲撃も防ぐ甲殻で次々と高層ビルを突き崩し、超音速飛行により発生したソニックブームにより周囲の建造物も粉砕、そして、去り際に一つのモノリスを突進で崩壊させながら、空の彼方へと消えていった。
その後のテルアビブエリアは地獄だった。モノリスの倒壊により大量のガストレアがエリア内になだれ込み、イスラエル軍とガストレアの総力戦が始まった。陣地形成も住民の避難もままならない突発的な状態で始まった戦いは混迷を極め、エリア内にいる全ての民警、兵役を受けた市民も徴用し、2年にも亘る泥沼の総力戦を繰り広げた。
30分足らずで一つのエリアを壊滅させ、モノリスを倒壊させたスピカは空飛ぶ厄災として恐れられるようになった。
『クネヴィッチより、フィーリエン隊。そちらに2機の戦闘機が向かっている。しかし、我々の目標はスピカだ。忘れるな』
『フィーリエン1よりクネヴィッチ、了解。戦闘機をレーダーで確認』
雲海を飛び抜けて、更に2機の戦闘機が浮上してきた。札幌エリア航空自衛隊所属の戦闘機F-15Jだ。スピカともSu-35とも距離を取っている。
『サッポロの連中か』
ここはウラジオストックエリアの西方400kmの空域。そこはウラジオストックエリアの防空識別圏であるが、それは同時に札幌エリアの防空識別圏にも該当している。両エリアは日本・ソ連時代からのにらみ合いを2030年代後半になっても続けている。
しかし、今は互いに領空のことを気にしていられる状態ではなかった。
イスラエルでの悲劇から、世界中のエリアで共通のスピカ対応策が取られた。
“近づくな。攻撃するな。刺激するな。”
触らぬ神に祟りなしと言わんばかりの消極的な対応だ。こうして監視しているのも気休め程度でしかない。仮にスピカが何かしらの行動を開始したとして、今の人類に対応策がない。
4機の戦闘機が見守る中、スピカの甲殻に光の文様が浮かび上がる。触手で空気の流れを操作し、甲殻の先端の方角を変えた。後部にある噴出口でアフターバーナーを吹かせ、速度を上げて雲海の中へと消える。
札幌エリア航空自衛隊のF-15Jもスピカを追って、雲海の中へと機首を下げていった。
『フィーリエン1よりクネヴィッチ。スピカが東に方角を変えた。指示を乞う』
『クネヴィッチよりフィーリエン隊。貴君の任務は完了した。直ちに帰投せよ』
『フィーリエン1。了解』
『フィーリエン2。了解』
*
ガストレアテロから2日後の朝。カーテン越しに陽光が差し掛かるワンルームで壮助と詩乃は食卓を囲んでいた。朝食を口に詰めながら、壮助は朝のワイドショーに目を向けていた。
話題の内容は言うまでもなく、ガストレアテロと里見蓮太郎のことだった。事件から36時間も経過すると、メディアも様々な情報を仕入れてくるようで、蓮太郎の犯行演説と被害の凄惨さを物語るだけの内容から、ガストレアの行動を分析したり、蓮太郎の演説の内容を解説したりと報道の重点がテロの“結果”からテロの“起因”に重きを置くようになった。蓮太郎の生い立ちや人間関係、民警としての功績などが紹介され、その経歴から英雄がテロリストになった原因を探るような内容だった。
どの番組でも天童家の汚職がクローズアップされる。不正を隠すための家族殺しが横行した天童家で過ごした幼少時代が彼の世界に対する憎しみを育んでいき、民警時代の活躍は歪んだ自分を隠し、憎んでいる世界に適応しようとした結果だと論じている番組が多かった。今回の事件は里見蓮太郎が幼少時代から持っていた憎悪が発現したものというのが、一般論となりつつあった。
「壮助。これからどうするの?」
食べ終わった食器を片付けながら、詩乃が尋ねる。
壮助は口の中の朝食を飲み込んで、一呼吸置く。
「あの仮面野郎を追う」
「いや、それは分かるけど、具体的にどうするの?こっちから探す?それとも、向こうが動くまで待つ?」
「こっちから探す。家でジッとしてたら身体が鈍っちまう」
「何か探す当てはあるの?」
詩乃が尋ねると、壮助は「ん~」としばらく思いふける。詩乃は何のプランもなく探すと言い切った壮助の無謀さに今更ながらため息を吐く。
「15区に情報屋やってるダチがいるから、とりあえずそっちに行ってみるかな」
壮助が詩乃の顔を見た時、彼女はハトが
「なんだよ。その凄く何かを言いたそうな目は」
「壮助……。友達いたんだね」
それは、彼女の実年齢からは想像できないくらい慈愛に満ちた目だった。
*
勾田署の近くにある雑居ビル。その裏口の前で2人の男がタバコを吸っていた。
一人は勾田署刑事課の遠藤弘忠、もう一人は松崎民間警備会社の大角勝典だ。スーツ姿のくたびれた中年刑事とミリタリージャケットを羽織った筋骨隆々な民警という異様な組み合わせだが、誰も利用しない裏口でそれを気にする者はいなかった。
遠藤弘忠は刑事であり、大角勝典は民警である。現場の主導権や曖昧な法の枠組みから対立が続いているが、警察外部で動かせる手と足が欲しい人間と、警察内部の情報を集める目と耳が欲しい人間の利害が一致した時、警察関係者と民警の奇妙な関係が生まれる。遠藤と勝典の関係もある事件を切っ掛けに“警察外部で動く手足”“警察内部を覗く目と耳”という関係を構築していった。
「……なるほどな。本庁の奴らが騒がしいと思ったら、防衛省でそういうことがあったのか」
「ああ。お陰で、大金を目の前にしてもほとんどの民警が尻すぼみしている。どこぞの民警会社の社長は里見蓮太郎に殺されるって思い込んで、他のエリアに高飛びしたって話らしい。その上、報酬を巡って潰し合いまで起きているからな」
「そういえば、民警課の奴らが騒いでいたな。片桐玉樹に逮捕状を出すとかどうとかで」
「今じゃ、潰し合いの手が届いていない個人経営の民警や俺達みたいな小規模な会社、あと最大手の我堂民間警備会社ぐらいしか動いていない」
「里見蓮太郎の所在は?何か掴めているのか?」
「いや、確かな情報は何も掴めていない。我堂の連中にも探りをかけてみたが、向こうも同じだ。ただ――」
「ただ?」
「ウチの社長が気になることを言っていた。『ガストレアテロは被害者が出ないように仕組まれていた』って」
「お前んとこの社長が……か。確かに、ガストレアが4体も暴れ回って死者0名ってのは奇跡にしちゃ出来過ぎている」
「ああ。だから、里見蓮太郎の真意は世界への復讐とは別のところにあるかもしれないって社長は考えている。その真意が分かれば、苦労はしないんだけどな」
「世界への復讐とは別のところにある真意か……」
「ところで、警察の方は何か掴めているのか?」
「いや、何も掴めてない。“警察としては”……な」
遠藤がタバコを左手に持つと、ポケットからスマートフォンを取り出した。右手で操作しながら、彼は話し続けた。
「俺の警察学校時代の先輩で、里見蓮太郎と一緒に仕事した人がいる。今は退職して隠居してるんだが、その隠居生活6年を“ある都市伝説”の調査に費やしていた。――これだ」
遠藤はスマートフォンであるサイトのページを開き、それを大角に渡した。多田島が見つけたものとは別のスマートフォン用の都市伝説サイトだ。個人が作ったホームページなのか、デザインはそれほど洗練されていないが、古臭さも感じられない。
「五翔会か……。現代版のフリーメイソンやイルミナティみたいなものだな。この都市伝説がどうかしたのか?」
「俺の先輩曰く『この五翔会ってのは実在していて、里見蓮太郎は五翔会をぶっ潰すためにガストレアテロを仕掛けた』ってさ」
「その先輩大丈夫か?酔っ払ってなかったか?部屋に白い粉や注射器は無かったか?」
「そんなわけあるか」
勝典は遠藤に渡されたスマホでそのページの文章を読み進める。各エリアの政治中枢に入り込んで暗躍、羽根のタトゥーを持つ構成員、東京エリアで関わったとされる事件がつらつらと記されている。子供の頃や若い頃にアニメで何度も見たことがあるような設定の組織の解説に半信半疑を通り越して、一信九疑の気持ちで読み進めている。
「なんというか、とことん胡散臭い都市伝説だな。それで、この都市伝説と里見蓮太郎に何の関係があるんだ?」
「聖天子狙撃事件、冤罪事件と警察の大規模人事異動、リブラ事件、関東会戦1周忌式典襲撃、いずれの事件も五翔会が関っていて、それを解決してきた里見蓮太郎は五翔会の敵になっていた。そして、五翔会は里見蓮太郎から大切なものを奪った。俺達はあの放送の“世界”が現代社会そのものではなく、その裏側に潜んで世界を動かしている五翔会を指しているんじゃないかと思っている」
勝典が訝しそうな視線を遠藤に向ける。
「そんな目で見るなよ。正直、俺も100%この話を信じているわけじゃない。――が、否定できる材料も揃ってない。何も情報を掴めてないなら、都市伝説だろうが何だろうが縋らせてもらうさ」
「その都市伝説が事実だとしたら、里見蓮太郎は本格的に五翔会のメンバーを襲撃することになる。だとしたら、狙われるのは誰だ?」
遠藤は懐から雑誌を出すと、あるページを開いて大角に渡す。博多黒膂石重工の若き最高経営責任者 芹沢遊馬を紹介した記事であり、東京エリアで防衛技術関連企業向けに行った講演会での写真が掲載されている。
「ガトレアテロの翌朝。河川敷で首のない死体が発見された。背格好と身分証明書からその死体は一時的にだが、芹沢遊馬だとされていた」
「“されていた”?」
「ああ。何もかもが偽物だった。身分証明書も非常に高いレベルに偽装されたもので、この仏さんは芹沢遊馬に成りすました“誰か”さんだった。残された胴体からDNA解析を進めているが、警察のデータバンクに該当する人物はいない。今でも名無しの仏さんだ」
「その首なし死体と里見蓮太郎にどういう関係があるんだ?」
「殺し方だよ。被害者の頭部は左右から鋭利な刃物でスッパリと切断されたものだった。鋏か、二振りの刀か何かが凶器だと推定されている。それで人間の首を、骨までぶった切れるような奴、まず普通の人間じゃない。赤目じゃないとできない芸当だ」
「二振りの刀を持った赤目の殺人鬼……。蛭子小比奈か」
「正解だ。6年前の十月コーポレーション社長殺害事件の時と同じやり口だった。防衛省の時、里見蓮太郎と蛭子小比奈は手を組んでいたんだろ?だとしたら、こいつは、里見の命令で殺した可能性は高い」
「なるほどな。本物を殺したと思っていたら実は影武者だった。だから、次こそ本物を狙いに来る」
「もしくは、その逆か」
「逆?」
「ああ。五翔会と芹沢の関係については、俺達も分かっちゃいない。だから、とりあえず2つの仮説を立てて、その両方を前提に調べることにした」
仮説1
芹沢遊馬は五翔会のメンバーであり、里見蓮太郎に命を狙われている。芹沢は自分の影武者を用意していたが、ガストレアテロの際に影武者を殺害される。里見は自分たちが殺した男は影武者だと分かり、次こそ本物を殺そうと行動する。
仮説2
芹沢遊馬は五翔会のメンバーではなく、五翔会とは敵対関係にある。五翔会は芹沢の偽物を用意し、芹沢のフリをして何かをしていたが、それに気付いた芹沢は同じく五翔会を敵とする里見蓮太郎に偽物の殺害を依頼し、里見と蛭子が実行した。今後も東京エリア内にいる五翔会メンバーを殺害するために協力する可能性がある。
「勾田署としては、どう動くつもりだ?」
「こっそり私服警官を配置させるくらいだ。都市伝説と引退した元刑事の情報だけが根拠だからな。大々的に動けないし、もしまた里見が他所でテロをやらかしたら、そっちに動かなきゃならない。それに、ガストレアテロを理由に警視庁警備部がエリア内部の要人警護に動き出している。芹沢遊馬も警護対象に含まれている。セキリュティポリス(SP)が目を光らせているし、有事に備えてSATも待機状態に張っている。里見蓮太郎が出て来たところで、俺たちの出る幕はない。悔しい話だが、手柄は本庁の奴らにくれてやる」
勝典が持っている遠藤のスマホ画面が切り替わった。時刻が表示され、バイブレーションで一定のリズムで振動する。
「おっと。もうこんな時間か。そろそろ戻らないと怪しまれちまう」
遠藤は勝典からスマホを返してもらうと、アラームを消して、ポケットに入れた。
「随分と時間に余裕がないんだな」
「先日、可愛い後輩を囮にして、公安の黒服から尻尾を巻いて逃げたからな。監視の目が厳しくなってる。今だって、トイレって嘘吐いて、裏口から抜け出してきてるんだ。そろそろ戻らねえと、便秘でも言い訳がつかねえ」
*
博多黒膂石重工東京エリア支社の正面に1台の黒塗りの高級車が泊まっていた。その高級車を守るように白黒の見慣れたパトロールカーや防弾仕様の警護車両が周囲を囲んでいる。制服の警官やスーツ姿のSPが神経を尖らせ、周囲に目を光らせる。
支社の入口から2人の男と1人の女性が姿を現した。芹沢遊馬と彼の秘書、そしてスーツ姿の恰幅の良い中年男性だ。遊馬と秘書が中年男性よりも1歩前に出て歩き、男が見送るように背中を見届ける。
車を目の前にして、芹沢は振り向いた。
「それでは、予定通り私は博多の本社に戻る。東京エリア支社のこと、よろしく頼む。倉木東京エリア支社長」
「ええ。大船に乗ったつもりでいてください」
――と倉木は胸を張り、自信満々に答える。
「それは頼もしいな。本社で君からの吉報を心待ちにしているよ」
両側の後部座席のドアが自動で開き、遊馬と秘書が後部座席へと座った。運転席には表情の硬い生真面目な男が既にハンドルを握って待機しており、慣れた手つきでボタンを操作し、後部座席の扉を閉じる。
「では、エスコートを頼むよ。東京エリアの警察諸君」
彼の言葉に応えるかのように、運転手はアクセルペダルを踏み始めた。
東京エリア支社から、空港までは20分近く。その長いようであっという間の道のりの中、遊馬は窓から東京エリアの景色を眺めていた。大戦前と変わらないコンクリートジャングル、行き交うビジネスマンたち、お昼のひと時を楽しむOLたち、公園に集まる失業者たちを目に焼き付けていく。
「そんなに東京エリアが名残惜しいですか?」
「ずっと仕事続きだったからな。せめて、観光地の一つでも寄りたかった」
コンクリートジャングルを抜けると、そこは青い景色だった。視界を覆いつくさんとする青い空と青い海、そして数本の灰色の線――海上の高速道路だった。東京湾を一望できる絶景、数本の高速道路とJR線、そして海上に浮かぶ孤島の空港が彼らの行先だった。
東京エリア・アクアライン空港 第四連絡通路。遊馬と警護車両が走る道路の名前だ。
2037年の東京湾にはいくつもの孤島が存在する。数百年前、人々は海を埋め立てることで少ない平地を拡大し、陸地を繋ぎ、そこに巨大な都市を建設した。それは江戸と呼ばれ、時代を経て東京都と呼ばれた。しかし、ガストレア大戦による都市機能の壊滅、地盤沈下、地震による液化現象、超弩級ガストレアの闊歩により埋立地の大半が崩壊して水没し、陸続きとなっていた埋立地の大半が沈むか、あるいは一部が沈んで東京湾の孤島となっていった。
東京エリア・アクアライン空港もそんな東京湾の孤島の一つだ。かつては羽田空港と呼ばれ、世界と日本を繋ぐ出入り口の一つだったが、ガストレア大戦で埋立地の一部が水没して孤島となり、陸地と繋いでいたJR線や高速道路、アクアラインも崩落。そこから10年もの歳月をかけて、空港としての機能を再建し、陸地と繋ぐインフラを再建したのが、アクアライン空港である。
アクアライン空港を繋いでいるのは、洋上に建設された4本の高速道路、そしてアクアライン線と呼ばれる線路だけだ。
連絡通路を走り抜けると、防弾ガラス越しに空港の駐車場が見えた。ハリウッドスターでも来日するのだろうか、報道関係の車両で駐車場がごった返しているのが分かる。
運転手が内心戸惑っているのが分かる。片手で小型マイクを口元に寄せ、連絡を取る。
「本部。聞こえるか?空港が報道関係者だらけだ?どうなっている?」
『こちら警備本部。どうやら、SNSで芹沢遊馬が今日、空港に来ることがリークされている。発信元は不明。だが、計画に変更はない。搬入路に向かってくれ』
警察は遊馬の警護に集中している。外に目を向けているが、あくまで対象は遊馬の身に危害を及ぼす人間だけだ。空港の警備隊は予想外の報道陣や野次馬の対応に追われていて、当初の警備計画が破綻。目の前の処理で手一杯になっている。警察が入る搬入路と利用客や報道陣でごった返す出入り口以外の警備は後回しにされ、手薄になっている。
――テロを起こして、注目を集めるには絶好の機会だな。舞台は整えてやったぞ。里見蓮太郎。後は、君の奮闘次第だ。
*
東京エリア第一区の作戦本部、
『――以上が、司馬第三技術開発局で行われた解析結果だ。そして、私の見解だ』
薄暗い作戦本部のモニターに映っていたのは、目に生気を持たない白衣の女――室戸菫だった。彼女はガストレアテロで使用されたガストレアの脳内から摘出されたバラニウム機器を司馬第三技術開発局で解析した結果を安全保障会議に報告していた。
報告を受けているのは、東京エリア首長である聖天子だ。会議室を一望できる円卓の上座に腰をかけている。テレビの前で見せるドレスのような装束とは打って代わり、白を基調としたフォーマルなスカーとスーツを身に着けており、今の彼女からは純白の令嬢というより、東京エリアを預かる為政者としての一面が強くイメージされる。
「ガストレアを洗脳し、支配する装置。夢のようではありますが、まさかこのような形で利用されるとは思いませんでした。それほどまでの装置、作れる人間に心当たりはありますか?」
『こんなの作り上げる人間なんてグリューネワルト翁しか思いつかない。それ以外だと、100万歩譲ってエインの糞野郎だが――』
「室戸先生。ここは公の場です。言葉は選んでください」
『おっと、これは失礼。とりあえず、個人で思い浮かぶのはこの2人だけだが、洗脳装置の構造が賢者の盾に酷似していることから、製作者はグリューネワルト翁で間違いないだろう』
「ですが、アルブレヒト=グリューネワルトは4年前に何者かにより暗殺されています。仮に生きていたとしても彼には、里見さんと敵対する理由は数あれど、里見さんに協力する理由がありません」
『聖天子様。私が話しているのは、あくまで製作者の話だ。あれはグリューネワルト翁の遺産かもしれない。たまたまそれを手に入れた蓮太郎が、協力者を得てガストレアテロに使った』
「協力者……ですか?」
『ああ。あのテロには確実に協力者が必要だ。洗脳装置の運用にはグリューネワルト翁と同じかそれ以上にガストレアの脳機能に深い知識とガストレアを患者にして脳外科手術を行う技術が必要になる。蓮太郎じゃ無理だ』
聖天子はガストレアテロが蓮太郎の単独犯でないことは薄々分かっていたが、こうして人類最高の頭脳の持ち主に言われると尚更それを自覚させられる。あの放送の中に蓮太郎の真意はどこにあるのか、本当に彼の言葉なのか、それとも背後にある組織の手駒としての言葉なのか。もう里見蓮太郎はガストレアテロを引き起こしたテロリストとなった。彼が正義の味方に戻る道はもう残されていない。しかし、その心にまだ良心が、正義が残っているのであれば、聖天子としての立場をフルに活用して、彼を救うことが出来るかもしれない。そう期待せざるをえなかった。
――里見さんには、確実に次の一手は打たせない。
「室戸先生。さきほど、賢者の盾と洗脳装置は構造が酷似していると仰っていましたね」
『ああ。洗脳装置と賢者の盾は構造が酷似している――と言うより、同じ装置を異なる用途で運用していると言った方が正確だ。斥力フィールドを発生させるためのプログラムが違うだけだ。試しに洗脳装置のプログラムを書き換えたら、出力は小さいが、賢者の盾と同じ斥力フィールド発生装置になった』
「賢者の盾も洗脳装置として機能するということですね」
『ああ。しかも人間の胴体サイズの装置だ。あれでガストレアを服従させるとなると、ステージIVかステージVだろうな』
菫の言葉に聖天子と周囲の大臣たちは驚愕する。ステージIV、もしくはステージVガストレアを使用したガストレアテロなど想像したくもなかった。そして、ここにいる全員があるガストレアの存在を知っていた。
イスラエルの悲劇を引き起こした世界最速のガストレア ステージIV“スピカ”
「この近くだと、ステージIVガストレアと言えば、あれしか考えられない」――と防衛大臣をはじめとした閣僚が戦慄する。数分たらずで一つのエリアを壊滅させた正真正銘の怪物に人の悪意が伴い、自分たちに牙が向けられる事実に愕然とするしかなかった。
『だが、そう悲観する必要はない。スピカを使ってガストレアテロを仕掛けるには問題が残っている。これはガストレアの脳に埋め込む必要があるが、今の人類にはスピカを捕獲して手術台に乗せる手段がない。攻撃して撃墜しようにも人類最速のミサイルも回避されてしまう。“天の梯子”でも残っていれば、話は別だがな」
天の梯子――東京エリア未踏領域に鎮座している線形電磁投射装置、金属飛翔体を亜光速まで加速させて撃ち出すレールガンモジュールである。ガストレア大戦時に建造されたが、大戦が終わった後は放棄されていた。6年前に里見蓮太郎が東京エリアに出現したステージVガストレア“スコーピオン”を迎撃する際に利用し、スコーピオンを撃ち抜くが、その衝撃でレールガンモジュールとしての機能は失われ、現在は世界最大の物干し竿となっている。
菫の言葉を聞いた途端、聖天子の顔が青ざめる。会議室にいる防衛大臣、幕僚長も同様の反応を示していた。その反応について、誰も口を開こうとしなかったが、菫は彼らの表情だけで察した。
『まさか……』
「ええ。そのまさかです。天の梯子は1年前に発射可能な状態まで修復されています」
静まり返る作戦本部の中で突如、アラームが鳴り始める。オペレーター達が慌ただしくなる。作戦本部の画面が菫の顔から警告に切り替わる。
「おい!どうした!何が起きてる!」
聖天子の隣に座っていた防衛大臣が立ち上がり、身を乗り出す。
「ここのシステムがハッキングされています!防護プログラム、効果ありません!」
「ハッキングを受けているのは、天の梯子の遠隔操作システムです!」
大画面が切り替わり、天の梯子の管理モニターに切り替わる。天の梯子が発射形態に移行し、バラニウム弾の装填も完了していた。
≪天の梯子 発射まで、あと30秒。30……29……28……≫
機械音声がカウントダウンを始める。何の感情も籠らない淡々と続けられる秒読みが人の感情を加速させ、安全保障会議にいる全員を焦燥させる。
「駄目だ。どの対策プログラムも即座に対応されてしまう」
「なんて対応の早さだ!このハッカー!人間じゃねえ!!」
「シャットダウンしろ!」
「シャットダウンコマンド応答しません!!」
「ケーブルを切断!物理的にネットワークを遮断しろ!」
「駄目です!間に合いません!!」
≪天の梯子。発射まで5……4……3……2……1……≫
≪発射≫
その光の軌跡は、東京エリアの空を切り裂いた。
――さあ。始めましょう。ヒトが、再び神を目指す物語を。
何とかここまでたどり着きました。
妄想とノリと勢いで書き始めたものの、その場のノリと勢いで色んな要素をぶち込んだ結果、ちょっとしたプロローグのつもりだった第一章が予想の数倍にまで膨れ上がり、2年経ってやっと第一章のラストバトル(の序幕)に辿り着きました。
この勢いを維持したまま、「勝ったッ!第一章完!」まで書きたいものです。