どうしてセシリアの部屋で朝を迎えたのか。そもそもどの段階で部屋に入り込んでいたのか。
今朝起きた不思議な出来事について、ラウラは午前の授業時間をふんだんに使って考えた。板書をノートに書き写す隙を与えずに熟考していた。千冬主導の授業中に内職したりうわの空でいることは、生肉を体中にぶら下げてライオンの前に躍り出ることと同義だ。もちろんライオンは空腹の絶頂期。見つかった瞬間に喰い殺されるだろう。
だけど、そこらのライオンとは違って理性ある人間であるから、千冬が叱りつけることはなかった。普段からラウラの授業態度は一貫しており、ノートは取らず修行僧のように瞑想にふけっているのだ。これでは叱っても意味がない。
不良の意志を突き通しきったラウラは今日もノートを閉じたまま授業をうわべだけ聞いていた。
夜は自分の部屋でナイフを研いでいた。作業が終了した後にすぐに寝たはずだから、アイツの部屋に行く暇は一切なかったはずだ。最初から行く気なかったしな。
鉄壁の無視で午前一杯乗り切ったラウラは、昼休みの時間になるやいなや立ち上がった。
「おい」
向かった先はセシリアの席。いやいや声をかけるが、席の主は机にべったりくっついて眠っていた。
「起きろ」
机を蹴飛ばす。
「うげっ!?」
机に上半身を預けていたセシリアは、机を蹴飛ばされたことによって支えを失った。前のめりに転がって頭から着地した。
頭部への衝撃でパッと目覚めたセシリアは痛む頭を押さえて立ち上がると、無言でラウラの顎に膝を叩き込んだ。
「ぶふぉっ!?」
脳を揺さぶる一撃に、ラウラは下の歯と上の歯が衝突して砕け散りそうになった。未遂で終わったが、舌を突き出している時に喰らえば舌を噛みきって死ぬ。セシリアによるラウラへの殺意がにじみ出た証拠だった。
口内が大惨事になることはなかったが、顎部の感覚が狂ったラウラは顎に手を添えて何度も歯をカチカチ打ち鳴らす。
「飯奢れ!」
ようやく感覚が元に戻ったラウラが叫ぶ。
「草でも喰ってろ」
未だに痛みを引き摺っているセシリアは吐き捨てる。
「というかわたくしにたかるな。こっちはたかられる派じゃなくて、たかる派なんだ」
セシリアは全然誇れないことを誇っている。
「知らない。私は腹が減っているんだ。奢れ。」
「一夏にでもたかれ。わたくしはそうする」
「なんであんな弱い奴に媚びへつらわなければならないんだ?」
「つまりわたくしには勝てないんだな」
「前言撤回。あんな論外には頼まない」
「あー、そう」
軌道修正に成功したと思い込んで胸を張るラウラに、セシリアはめんどくさいとおざなりな返事をした。
「お前が居たからかもしれねぇが、今日は寝足りないんだよ」
ラウラとしてはまったく寝不足感を感じていなかったが、セシリアは違ったようだ。日常生活において周囲に無関心なラウラから見ても、セシリアはどこか苛立っているようだった。先ほどの襲撃が関係ないのだとしたらだが。
「分かった。じゃあ金を寄こせ」
ラウラが手のひらを見せる。
恵むつもりがあるのかないのか、セシリアはその手のひらに一円玉を乗っけて再び眠りについた。
たかが一円されど一円。塵も積もれば山となる。一円を笑うものは一円に泣く。
良い言葉は沢山あるが、今のラウラにとってたかが一円で塵でしかなく、一円を笑うものだった。
一体一円で何ができるというのか。そう思いつつラウラは一円玉をしまう。
教室内は昼食に出かけていて二人以外の人はいない。
ラウラは無言で周囲を見渡す。それも念入りにだ。さらに念を入れて近づいてくる音がないかを確かめる。
突っ伏して眠りについているセシリアが起きないことを確認しつつ、ゆっくりとしゃがみ込む。
ラウラは無機質な顔でそろりと手を伸ばしてセシリアのポケットを漁り始める。目的は財布の入手。汚い言い方をすればスリだ。
罪悪感なく伸ばした手の、探りを入れる指先は震えることはなかった。
沈黙の中に僅かな衣擦れの音。そして忘れたころに聞こえてくるラウラの静かな息遣い。
「…………ん」
獲物を求めて這い回る手。いまだに獲物を見つけられずにいるが、焦りはない。
暫くセシリアの身体に手を這わせていたラウラは、ようやく落胆の溜息と共に手を遠ざけた。表情が成果なしと如実に物語っている。
分かったことは一つ。セシリアは財布を所持していない。
ラウラは心の中で、役立たずが、と罵り教室を去っていった。
ラウラは、退室した後に狸寝入りをやめたセシリアが「残念だったな」と机の中から財布を取り出したことなど知る由もなかった。
放課後も過ぎた時、ラウラは寮の廊下でセシリアを見かけた。
昼食は結局得られずに過ごしたラウラは少し気が立っていて、不快感を撒き散らすセシリアを見つけるなり声をかけようとした。
声をかけようとしたが、セシリアがニヤニヤいやらしい笑みを浮かべて扉の前にいたので、声かけをやめる。
表情と雰囲気から何やら企んでいることは明白だった。
もしや、アイツはこれから強盗でもするのではないか。
殺伐とした予想を立てるラウラ。
場合によってはセシリアを倒して手柄を横取りしようと身構えたラウラは、次の瞬間に発せられた言葉に肩の力が抜けた。
「一夏ちゃーん。飯行こうぜ」
トントントン、とリズミカルに扉を叩くセシリア。
何度か叩いてから、鍵がかかっていなかったようで扉を開けて侵入していった。
ラウラは好奇心に駆られて後に続く。
部屋に入るとセシリアの背中と、その向こう側に一夏、ベッドに横になって布団から顔だけ出したシャルルがいた。
一夏とシャルルの部屋だった。内装は地味を突き詰めたかのようにものがなく殺風景だ。おそらく二人共大した趣味を持っていないのだろう。もしくは物を必要としない趣味しか持っていないか。
殺風景な部屋模様ではあるのだが、装飾に興味のないラウラは特異な光景とは思わなかった。ラウラ自身の部屋もこれくらいだったのだ。
「お、おう。ちょっと待ってくれセシリア……なんでラウラがいるんだ?」
どこか挙動不審な一夏。チラチラとシャルルに視線を送りながらの対応に、ラウラは何かしら隠し事をしていると判断した。
「よっす、ラウラ。お前も来たのか?」
満面の笑みを浮かべて振り返るセシリア。普段の争いを知る人からしてみれば、ここまで機嫌よくラウラを出迎える彼女の姿は信じられるものではないだろう。もしも信じるとしたら、彼女の笑顔の裏に悪事が潜んでいるということだ。
笑顔を向けられたラウラはふん、と鼻で笑う。この女の笑みは何かを企んでいるのと同義だ。
だけど、とラウラは続ける。
どーせ、しょうもないことだから気にする必要も感じない。
これから虐められるであろう一夏もしくはシャルルを見捨てるラウラ。傍観者であることをアピールするために、壁に背を預けて成り行きを見守る姿勢を取った。
「ところでシャルルはどーした? さっきまであんなにはしゃいでいたのに」
「え!? ……ええと」
「いや、ちょっと風邪ひいちゃったみたいでさ。休ませてるんだよ」
「あ、うん。ごほっ、ごほっ」
嘘をつくならまともにつけ。
ラウラは憐みを込めて道化二人を見る。たとえ出来の悪いコントにしか見えなくても笑わない。そもそもどこがどう面白いのか分からないからラウラは笑えない。
「風邪か。そりゃあ大変だな。もしかして昨日無理したんじゃないのか?」
無理、という単語を強調するセシリア。確実に何かを企んでいた。
「男同士だからって無理はいけんよぉ。痔になりかねないしな」
セシリアが言いたいことに、ラウラは感づいた。平たく言えば下ネタ。
セシリアの下ネタに対して一夏は一切動じなかった。何故なら言葉の意味を理解できなかったからだ。
もう一人の標的、シャルルは言葉を聞くなりみるみると顔を赤くしていった。
「違うよ! ボクと一夏はそんな関係じゃないから! そもそもボクは男の子じゃないから……あっ!?」
布団を蹴飛ばして抗議の声を上げたシャルルが途中で言葉を止める。
「……シャルル!?」
シャルルの失言に気づくも遅れた一夏。
「……えっ?」
炙り出しておいて目を丸くさせるセシリア。
そして傍観者を決め込んでいたラウラは、壁から離れると一つ提案した。
「毎食奢れば黙っておいてやろうか」