空が青い。夏休みの足音が徐々に近づいてきている。臨海学校から帰ってきた生徒たちはまだ潮の香りを鼻腔に残しているのか、授業に身が入っていない姿がちらほらと見える。今日が通常授業だからかもしれない。ISの授業と比べて教師の態度は軟化しているから、少しくらい気持ちが入っていなくて良いと思われてしまっているのか。それとも、男である俺を見下しているから身が入っていないのか。どちらにせよ、教える側としては気分を害する光景だった。
教師としての職務に誇りは持っていないが、ある程度のやりがいを持っている。生徒のやる気ない態度に、授業が苦行に感じられてしまう。ディスプレイ上の公式を本当に理解してくれているのかも分からない。そもそも公式として認識できているのかを気にしてしまう。かつては俺も授業を受ける側の人間だったので、そりゃあサボりたいだ早く授業終われだと舐めきった態度を取っていたこともある。だけど、教師になって今はよくないと理解できる。やっぱり教え教えられの関係なんだから、礼節を大事にすることが大事だと思う。授業を受けたくないならどっか行け、授業を受けるならせめて表面的だけでいいから態度を改めろ。
一学年のボケきった連中に授業をする苦痛。しかも、普通授業だって言うのに更識簪が居ない。日本の代表候補生だか、姉に負けない為に独りでISを作っているだか知らないが、通常授業ぐらいは出ろ。何を朝一番の授業でサボってんだ。
朝から苛々させんなよ。パソコンを操作して新しい公式をディスプレイ上に映し出す。キータッチが多少乱暴になっているが、とりあえず壊れなきゃいいだろ。どうせ私物なんだから。
俺自身、授業態度が悪くなっている。心がとげとげしてくるのをマズい、と思っていたらポケットに収まるケータイが震えだした。授業中ということもありヴァイブレーションは最少になっていて、熱中していれば気がつかないのだが、集中力が散漫になっているので気がついた。
生徒たちの目を盗んで受信を確認する。メールが一件届いていた。送り主は不明。おそらくフリーメールだ。内容は『あんまり怒るな(怒)』の一文だけ。広場天子の仕業に違いない。ところでなんで(怒)なんだ。怒るなと他人に言っておいて、なんで勝手に怒ってんだアイツは。
変わったメールに頭を悩ませながら授業を進める。何だかんだあのメールのおかげで冷静さが帰ってきた。おかえり。
授業はそのままやる気のない奴らに根気強く公式を解説するので終わってしまった。教えられなかった悔恨よりも、ようやく終わった解放感が強い。
一年四組の教室を出ると、俺は三つ隣の教室へと足を運ぶ。授業が終わったばかりの教室からは現国の教師が溜息を吐き出しながら姿を現し、そのまま意気消沈の背中を見せながら職員室へ続く廊下を歩んでいった。彼女もおそらくやる気の回復していない生徒たちを相手に暖簾に腕押しの気分を味わったのだろう。
いいや。もしかしたら詳細は違うかもしれない。
当初の目的通りに、ぐったり教師の出ていった扉から教室内部を覗き込む。着替え中の生徒がいたらラッキースケベ通り越して犯罪者になるので、そこは気をつける。どこを気を付けるかと言えば、俺が授業をする教室の付近の時間割を確認して、覗き魔の誹りを受けないよう気をつけているとこだ。
教室を覗いて見えるのは、どこか腑に落ちない表情を浮かべている生徒たちだ。先の授業で理不尽なことでも言われたのかと疑問を持ったが、すぐに違うと首を振る。
「よっす、オルコット」
俺は何気ない様子で教室に入り込むと、手を挙げてこの原因を作り出している元凶を呼ぶ。そいつは自分の席に大人しく座っていた。机の上に勉強道具が一つもないことからきっと授業を真面目に受けてはない。アイツの日頃からの態度を考えればすぐに分かる。
「よお、是っ清。どーした、ナンパでもしに来たのか?」
声をかけると、緩慢な動作で顔を向けてきたセシリアが手のひらをプラプラさせて返事を返してきた。目上の人間に対する態度ではないと思ったが、そこで説教の一つでもたれようものなら、試したことないけど冗談抜きで指をへし折られる。
生徒たちの納得がいかない顔をする原因は、やはりセシリアなのだろう。彼女の一挙一動に全員がおかしいくなるくらい注視していた。
そうなるのも仕方がない。臨海学校から帰ってみればクラスメイトの様子が違っているのだから。別に宇宙人みたく毒電波を送受信しているわけではないのだが、なんとなく雰囲気が違う。前のセシリアは手の付けられない獣といった感じの雰囲気を出していた。
しかし、今のセシリアは理性的な猛獣といった感じになっている。おそらくセーブしてあれだ。出会ったばかりの頃は、広場天子の顔を殴りまくったすぐ後だったのか、今目の前にいるのよりも危険な匂いを漂わせていた。血の匂いと言えばいいか。全身を返り血だらけのサイコパスに出会った気分にさせられるというべきか。分からないけど、要は人智を超えた恐怖をビシビシと感じられた。
「別にそうじゃねえよ。現国の教師が疲れ切った顔で出ていったから、ちょっと原因を探りにな」
「仲間意識が強くてなによりだ。隠蔽するには打ってつけの友情だぜ」
「ははは。残念だけど興味本位なだけさ。べっつにそこまでべたべたした関係性を持とうとは思わないって」
「で、興味を満たすものはあったか?」
「おお。お前が原因だって分かった。オルコット、もしかして威張るだけで能無しなんで、気合を入れてやったとか言うんじゃないだろうな。それしたらあの先生は二度と学校に来なくなるぞ」
「何言ってんだ? 馬鹿じゃねーの」
俺の渾身のギャグは見事に打ち砕かれた。そういや、俺とコイツは居た世界が違ってたな。じゃあ、俺の世界で通じていた笑いの多くが通じないじゃないか。
「そういう時は愛想笑いで流してやるのが大人だ」
一年一組の生徒たちの前で奇妙なことを言ってしまったが、羞恥で赤面しない自分を褒めたくなった。あのオヤジギャグで有名な一夏でさえ奇妙な視線を向けてくるが、俺は自分を褒めたい。世界で一人だけ生き残ってしまった気分だったが、自身の生存を褒め称えたい。
「じゃあ、とりあえず次の授業があるから帰るわ」
真セシリアと出会ってから、俺の中の真面目に取り繕う部分がぶっ壊れている気がする。真面目を演じるのが異常に面倒に思って、その通りに面倒になってやめてしまっている。今の俺は不真面目な先生と烙印を押されてしまっている。だが、落ちるところまで落ちれば、評価の低下を怯えることはなくなるので、今はもうこれで構わない。
だからお前らもちゃんと授業を受ける準備をしろよ。教室内を見渡して目で釘を刺しておく。そう思わせておいて、実は特定の生徒たちの様子を窺った。
一人は主役こと織斑一夏。なんというか平和ボケした日本人みたいだった。実際は平和とは程遠い場所で生活しているのだがな。主観ならなんでも言えるのさ。
一人はヒロインその一こと篠ノ之箒。なんというか一夏をチラチラ見ながらも不機嫌そうな顔をしている。臨海学校で嫌なことでもあったのか。細かいことまで覚えてないから、コイツの機嫌の悪さの理由が分からない。
一人は転生者ことラウラ・ボーデヴィッヒ。なんというかセシリアの様子の変化に目を輝かせて身体をうずうずさせている。どうした? マジでどうした? もしかして好敵手登場とでも思ったのか。馬鹿なのか?
一人は生徒会こと布仏本音。なんというかセシリアの変化に、いつもほわほわした顔が硬くなっている。ヤバいな。あの触り心地の良さそうな頬も硬くなってるのか。ちょっと確認させてくれないかな。
確認するものを確認し終えた俺はそそくさと一年一組から出ていく。セシリアの変化は確実に何かをもたらしている。
昼休みになると、俺はいつも通り備品室に引きこもって飯を食う。購買の弁当の中で一番ボリュームのある弁当を買ってきたが、これが量だけでなく質も揃っていて美味い。箸が進む美味さに、この学園に務めて良かったと思う。
しかし、悪いこともある。この学園に務めたせいで女教師たちにこき使われて奴隷根性が培われてしまったこと。人外の化け物たちと知り合ってしまったこと。
「うーん。もうちょっと掃除した方がいいんじゃないですか?」
そして生徒会長に目を付けられてしまったことだ。水色の髪を外に跳ねさせた楯無は快活な女子を見せつけながら、裏では策士の部分で色々とやっているのだがら質が悪い生き物だ。笑顔に騙されて、迷惑ごとに巻き込まれても結局は許してしまえる恐ろしさがある。
俺はトンカツを咥えながら「男所帯でね」と義理で返事を返す。我がオアシスが学園の強力な権力に脅かされつつある状態で、ウェルカムムードなど出せるはずもない。かといって強く拒絶の意志を見せられるほどの度胸はないので、ちょっとした言葉選びで小さな拒絶を忍ばせる程度のことしかできない。
「なら掃除でもしてやればいいじゃない。自称学園最強の生徒会長様」
代わりに、同じく備品室を当たり前の場所にしつつあるセシリアが攻撃的な言葉を投げつけて、わざとらしく扇子で口元を隠した楯無を挑発する。惣菜パンにかぶりつく姿は女子らしくないワイルドさで惚れ惚れしてしまう。
「うぅっ!? それに関しては強く言い返せないわね」
扇子を持つ手を振るわせる楯無は、数日前の大敗によって学園最強から自称学園最強となってしまい、ISの実力関係では猛威を振るえなくなった。あの試合は圧倒的だったが、そもそも原作の楯無が強かったかどうかも定かでなかったから、俺としては最初から自称最強だった。
楯無からしてみれば自分の実力が疑われることは避けたいようだが、セシリアはそんなことなど知ったもんか、と攻撃の姿勢は崩さずにいる。前セシリアの恨みを引き摺りまくっているのかもしれない。
ちなみに、セシリアにブレーン的な立ち位置にいる広場天子は、楯無の訪問を事前に察知していたのか、飲み物を買ってくると宣言して出ていったきり帰ってきていない。きっと楯無が居なくなるころに帰って来るはずだ。
「それよりもさ。どーしてお前がここに来るんだよ。綺麗な生徒会室で大人しく書類仕事でもやってな」
「ふふふ。一体全体どうして居るのでしょうね」
扇子で口元を隠したまま不敵に笑う楯無だったが、左耳のすぐそばを高速で通り抜けていった何かに、笑顔を引き攣らせて背後を振り返った。背後に壁があるだけだった。彼女は視線を落とすと何かを拾い上げた。
「冗談にならないわよ」
拾い上げたの先端が潰れた爪楊枝だった。楯無のそばを通り抜けていったのは凶器に成り得る物体だった。セシリアの人間離れした力がたかが爪楊枝を危険な武器に変えてしまったようだ。余裕の笑顔を取り繕う楯無を見れば、あれが鍛えている人間からしてみてもおかしいものだって分かる。
「コイツは勘がいいぞ。本当のこと言えよ」
助け船を出す。俺なりの優しさだ。
「正直に言うわね。セシリアちゃんにはぜひ生徒会に入ってほしいの」
「……はぁ?」
セシリアの反応は俺の気持ちも代弁していた。急に何を言っているんだコイツは。
「その反応は予想できたわ。でもね、ちょっと考えれば分かることなの。セシリアちゃんみたいな強い子を野放しにしておくほど生徒会は寛容じゃない。隠してもバレそうだし言うけど、監視の意味もあるのよ。既に上層部には伝えておいたから公式なもの」
「監視ってなぁ。それで止められるとでも思ってんのかよ?」
「思ってないわ。直接試合をしたから分かる。この学園内で貴女を物理的に止められる人はいない。正直そのパンを食べてなんともないなら、毒で封じ込めることもできなさそうだし」
楯無はやれやれと深く息を吐き出すが、俺はそんなことよりもセシリアの手にある、ほとんど食べきった惣菜パンを見つめてしまった。楯無の言い方からすると、この惣菜パンに毒が仕込まれていたことになる。問い詰めるように楯無に視線を向けると「普通の人なら半日は苦しむ毒よ」と暗に肯定された。
「ああ、やっぱり毒入ってたんだな。だとしたら残念なお知らせだ。その毒入りパンはこっちだぜ」
俺の心配を他所に、セシリアは背後からビニール袋を引っ張り出すと、中から今食べているのと同じ惣菜パンを取り出してきた。彼女は毒入りだというパンの包装袋を破ると、毒のことを忘れたのかパンにかぶりつき始めた。
「もっと残念なことに、アタシにこの程度の毒は効かねえぜ」
規格外の化け物が楯無の仕掛けた毒入りパンをムシャムシャと胃袋に収めていった。
「あ……あははは。どうしましょう?」
楯無が渇いた笑い声を漏らした。