二十年後の半端者   作:山中 一

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第六部 四話

 夏休み後半戦となる八月下旬は、一年で最も気温が高くなるタイミングだ。常夏の島国である暁の帝国は、日中の最高気温が四十度を上回ることは珍しくなく、毎日のように熱中症対策を呼びかけるCMを目にする。

 まだ日が昇って時間が経っていないにもかかわらず、すでに暑くなりそうな予感がする。

 ゴミ捨てのために家を出た凪は、雲一つ無い快晴の空を憎々しげに見上げた。

 マンションのゴミ捨て場は、エントランスを出てすぐのところにある駐輪場の脇だ。屋外に出た途端に、ぬるく湿った空気の壁にぶつかった。今日は風もあまりないらしく、この調子なら今年の最高気温を更新するのではないか。

 積み上がったゴミ袋の山に昏月家のゴミ袋を積み上げる。今日は生ゴミの日なので、なかなかの臭いだ。

 生ゴミの多くは資源として有効活用される。発電に使われたり、肥料に加工されたりだ。暁の帝国は小さな島国で、しかも人口島なので天然資源には乏しい。そのためリサイクルやリユースは必要不可欠な産業となっている。

 朝日がすでに熱い。日に当たる背中があっという間に熱を持った。すぐに空調の効いた館内に戻ろうと踵を返したところで、ちょうど外から帰ってきた雪菜と目が合った。

「あ、凪君。おはよう。早いね」

 ワンピースの上から薄いカーディガンを羽織ったラフな格好の雪菜は、仕事中とはまったく異なる柔和な雰囲気だ。雪菜の仕事は治安維持である。かつて日本で剣巫と呼ばれた攻魔官が担当していた魔導犯罪者対策を引き継いでいて、雪菜はその長官である。国内の魔導犯罪対策を一手に担う組織を背負いつつ、時に古城に随行して皇妃としての公務も行うなど、彼女の生活は多忙を極めている。

「おはようございます。もしかして、仕事帰りですか?」

「違う違う。ちょっと宅配をお願いしに行ってたの」

「宅配便ですか」

「そう。霧葉さんから頼まれてね」

 霧葉は日本に赴任している古城の妻の一人である。雪菜とは恋敵にあたるわけだが、それはそれとして関係が悪いわけではないらしい。良きライバルといったところなのだろうか。親世代の微妙な力学については、あまり深入りしていないしするつもりもないというのが子ども世代の認識である。

 骨肉の争いというのは世の中珍しい話ではない。特に吸血鬼の貴族級ともなれば、血で血を洗う壮絶な戦争に発展するケースもある。どこの夜の帝国でも何かしら一族内での火種は燻っているもので、家族仲が良好な暁の帝国は珍しい部類なのだ。

 歴史が浅く古城も含めて人間出身で、他の貴族のような領地を持つということがないからかもしれない。

「凪君、朝ご飯は?」

「まだです」

「そう。じゃあ、よかったうちで食べていかない?」

「いいんですか? ありがとうございます」

 空菜はすでに部活があるということで学校に行ったので凪一人ということもあり、朝食は適当に済ませるか抜くかどちらでもよかったが、雪菜が用意してくれるというのなら、その誘いを断る理由はまったくない。

 雪菜に案内されて、そのまま家に上がらせてもらう。凪の自宅は同じフロアで徒歩十秒もかからない。内部の基本構造もまったく同じなのだが、やはり普段使う人が違えば雰囲気も変わってくる。家具やカーテンの色合い、テーブルと椅子の位置による視点の違い、室内の香り、これらが違えば、まったく別の空間に様変わりする。

 雪菜と零菜だけが使う空間なので、当然女性物しか見当たらないし乱雑に床に物が落ちているということもない。零菜は普段は自分の部屋にいるようなのでリビングの生活感は極端に薄くなっている。

「今日は何かあるの?」

 と、鍋を火に掛けながら雪菜が尋ねてきた。

「何かあるって訳じゃないですけど、体育祭の準備があるんで学校には行きますね」

「そんな時期なの?」

「パネル作るんですけど、夏休みのうちに作っとかないとダメだって話で。クラスから美術部と暇なヤツ選んで駆り出されてます」

「彩海学園でもあったなぁ、そういうの。零菜はどうなのかな」

 体育祭は各学校の特色があるが、大体は似たり寄ったりだ。公立校では予算が潤沢というわけではないし、学校行事の一つにそこまで力を注げるほど暇ではない。一方で私立校はこうしたイベントを売りの一つにしているところある。勉強、部活、学校行事の三つは学校の差別化の大きなポイントだ。

 彩海学園の体育祭は施設が公立校よりも大きいこともあって、中央高校とは比較にならないほど派手だ。

「ごめんね、凪君。こんなのしかないけど」

 と、雪菜が持ってきたのは焼きたてのウインナーをレタスとパンで挟んだホットドッグとオニオンスープだ。食欲をそそる香りに思わずお腹がなってしまう。

「男の子にはちょっと少ないかな?」

「そんなことないです。いただきます」

 シャキシャキしたレタスと歯ごたえのある熱々のウインナーが堪らない。ケチャップの塩気がレタスでほどよく抑えられていて、嫌みにならない。オニオンスープは自家製コンソメスープを使ったもので、簡単に作ったので具材はタマネギのみにしているが、味がしっかり染み込んでいてとても美味しい。あっさりとしていて朝から口に入れるものとしては完璧だ。

「零菜は?」

「まだ寝てる。でも、そろそろ起きてくるんじゃないかな」

 時計の針は七時三十分を刺している。学校に行くのならそろそろ家を出る頃合いだが、今は夏休み中である。凪だってゴミ捨てや登校の予定がなければ昼前までベッドの上で惰眠を貪っていただろう。

 凪がホットドッグの最後の一口を頬張ったとき、背後でガチャンと音がした。

 雪菜の言うとおり、零菜が起きてきたのだ。

「おはよー……」

 と、眠そうに目を擦りながら入ってきた零菜。艶やかな黒髪はところどころが跳ねていて、暑くて寝苦しかったのかパジャマの前が大きく開いているというあられもない格好だ。パジャマの下には無地のTシャツを着ていたので素肌が見えるというわけではないにしても、だらしない服装ではある。

 零菜はリビングに入ってくるなり足を止めて、凪を見て目を見開いた。

「は……? え、なんで凪君がいるの!?」

「雪菜さんに朝メシをいただいたからだぞ」

 一気に目が覚めたらしい零菜は固まってから慌てて髪を手櫛で整え始める。

「零菜、その格好……」

「分かってる。ていうか……ああ、もう」

 雪菜が零菜を注意しようとしたが、零菜は雪菜が言い切る前に走ってリビングを出て行った。向かったのは洗面所のようだ。

「凪君、ごめんね。慌ただしくて」

 雪菜は苦笑いしながら零菜が走って行ったほうを見ている。二、三分してから零菜が戻ってきたが、今度はそのまま自室に入っていく。

「零菜、ご飯できてるよ」

「はーい」

 返事は扉の向こうから聞こえる。どうも着替えをしていたらしく、すぐに出てきた零菜は学校指定のジャージに袖を通していた。

 紺色の長袖と長ズボンのジャージは、飾り気がまったくないありふれた体操着だ。制服が可愛いと有名な彩海学園ではあるが、一方で体操着は普通すぎると不評だったりする。

 零菜は凪の隣の席に腰掛ける。一口サイズに切り分けられた卵サンドイッチとサラダ、ウインナーと苺ジャムのヨーグルト、そしてオニオンスープというメニューだ。

「凪君、こんなに朝早いの珍しいんじゃない?」

「今日は学校行くんだよ」

「ああ、パネルのヤツ?」

「そう」

 凪がパネル係に選出された経緯は零菜に伝わっている。大した話ではなく、伝統的に帰宅部や文化部がその役割を担うことが多いというだけだ。運動部の多くは夏に大会があり、パネル作成に参加できないし、体育祭で中心的役割を果たすことも多いので、文化部や帰宅部の生徒にスポットライトを当てようとするとこうした裏方に大仕事を回すというのが学校なりの配慮ということだろうか。

「零菜は今日なんかあるの?」

「わたしはない。強いて言うと明日の準備があるかなってくらい」

「プレパーティ、何時に出るんだ?」

「六時くらい?」

 と、言いつつ零菜はキッチンで何やら戸棚の整理をしている雪菜に視線を向ける。

「六時半でいいかな」

 雪菜は零菜の問いに答えた。

 プレパーティに凪の出番はなく、空菜と家でいつも通りに過ごしているだけなので、さほど関心があるわけではないが、零菜たちにとっては大事だ。

 仲のいい友だちとパーティするという程度の話ではなく、政治的な意味合いもある重要な顔合わせという側面がある。ここに出る零菜たちはただの高校生ではなく皇女としての顔で振る舞わなければならず、それなりの重責を負っているのだ。

 零菜は黙々とトーストを口に運ぶ。

 その隣ですでに朝食を終えた凪は手持ち無沙汰になりつつある。会話が途切れ途切れなのは食事のためだが、雪菜の存在もある。何となく大人がいる場であけすけな話をするのは気が乗らない。特に零菜からすれば自分の母親に話を聞かれるのは気恥ずかしいという感情もあった。

 凪が黙っているのは、零菜の服装にも問題があった。

 ありふれた特徴のないジャージだが、ファスナーをしっかり閉めていないのだ。凪の視点からだと、零菜の首元や鎖骨までが丸見えである。それはとても困ることだ。一昔前の凪ならともなく、今の凪には明確に吸血衝動がある。こんな風に白い首を見せられると、つい先日、零菜から血を吸ったときを思い出してしまう。雪菜がいるのに零菜に対して吸血衝動を向けるというのは、ちょっとした自殺行為だ。とてもよろしくない。そのためできるだけ意識しないように衝動を我慢している。うっかりすると目が赤くなって吸血衝動が出ていることがバレてしまうので、かなり頑張っている。

 零菜も零菜で朝から凪と鉢合わせするとはまったく思っていなかったので、この不意打ちには驚いた。寝起きの油断していた姿を凪に見られたのは、大失態だったといっても過言ではなく、この状況を引き起こした雪菜に色々と言いたいことがあるのだが、雪菜には悪意は微塵もなくただ親切心で凪を自宅に上げているだけなので言うだけ無駄だろう。

 そもそも、凪も凪で雪菜に誘われたからといってあっさりとその誘いに乗るのはどうなのか。まさか、自分の母親に吸血衝動を向けたんじゃないだろうな、と内心で悶々としつつ凪を盗み見ながら朝食を食べ進める。

 トーストを囓っているが味に意識が向かない。隣に凪の気配があるというだけで吸血衝動が湧いてきてそちらに意識を取られている。

 朝一番に自分のテリトリーに凪がいるというのは、日常的にもあまりない状況である。飛んで火に入る夏の虫というか、蜘蛛の巣に飛び込んできた蝶というか、誰にも邪魔されずに吸血できそうな環境に近づいているというのが、吸血欲を大きくしている要因だ。

(零菜、ジャージくらいちゃんと着ろっての。吸血衝動、ヤバいかもしれん。めっちゃ吸血してえ)

(ママそろそろ仕事じゃないの。早く行かないかな。もう喉渇いてきたし、凪君の首が無防備すぎるのが悪いんだよなあ)

 二人並んでイライラしながら、吸血衝動を我慢している。お互いに悶々としていて相手と雪菜に気取られないようにしているので、結局、状況が変わることもない。

 二人揃って、吸血衝動なんて起きていないとばかりに振る舞っているので表面上はいつも通りだ。

 朝食を終えた零菜が食器を洗っていると雪菜がスーツに着替えてやって来た。

「じゃあ、わたしは仕事に行くから、出かけるんなら火の元と戸締まり気をつけてね」

「分かった」

「行ってきます」

「はーい」

 零菜は素っ気なく返事する。素直に「行ってらっしゃい」とは言えない年頃だ。

 雪菜が玄関の扉を閉める音がする。

(ママがいなくなった。どうしよう。朝からだけど、イケる? うーん、欲求不満でいやらしいヤツだと思われないかな?)

 吸血衝動と理性が頭の中をぐるぐると駆け回っている。

 吸血していいか悪いかの一定のラインを越えた関係ではあるので、後は状況が整うかどうかだ。そして、雪菜がいなくなった今、状況そのものは整ったと言えるだろう。残すは互いの意思確認である。

 食器を洗い終えた零菜がリビングに戻った。

 改まって話をしようと思うと、話題の切り出し方に困ってしまう。話のネタを探していると、不意に凪の携帯端末が鳴り出した。

「何、電話?」

「いや、アラーム。学校行く準備しないとだ」

 集合時刻は九時だ。モノレールの時間に合わせて家を出るなら、そろそろ準備をしないと間に合わない。時間に助けられたのか、それとも余計な邪魔だったのかは判然としない。

「じゃ、俺行くわ」

「うん、じゃあね」

 後ろ髪を引かれる思いで席を立つ。

 吸血衝動は一過性のものだ。

 時間をおけばすぐに落ち着く。

 自宅に戻り、歯を磨いてジャージに着替える。授業を受けるために登校するわけではないので、荷物は貴重品だけで十分だ。

 通学用の鞄に必要最小限の持物だけ突っ込んで、凪は足早に自宅を後にした。

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 太陽が元気に自己主張を始めた頃、凪は中央高校で額に汗して絵筆を握っていた。

 よりにもよってパネル製作は屋外での活動で、今日集まったのは十人だ。本当は十二人のチームだが、二人は帰省の関係で欠席である。

 皇女たちが周囲にいる今の環境ではプレパーティが直近のイベントだが、世間の注目度はさほど高くない。もちろん、他国の大使や企業のトップも参加するイベントなのでメディアは毎年報道するが、有名人のコスプレに関心が向けられるくらいのものだ。はろういんフェスタの本番は二ヶ月後であり、若者の間で機運が高まってくるのも一ヶ月以上は先だろう。

 中央高校を始めとする多くの学校は毎年九月から十月にかけて体育祭が開催され、学校を上げてのイベントとなるため、多くの学生にとってははろういんフェスタよりも体育祭が目先のイベントになるのだった。

「マジであっちぃ」

 凪は額の汗を拭って空を見上げる。

 燦々と輝く太陽が真上にある。目も眩むような熱線は、大気のみならずアスファルトの路面やコンクリートの校舎外壁を熱し続け、その照り返しも相まって体感温度は苦痛を伴うほどになっている。これでまだ辛うじて午前中だというのが恐ろしい。まだまだ気温が上がり続けることが容易に予想され、体力のない人間ならば命にも関わるほどの真夏日だ。

 暁の帝国人は、生まれた時からこうした環境で生活しているので暑さには慣れているし、ナノテクノロジーを用いたヒートアイランド現象対策も都市全体で実施しているのだが、だからといって不快指数が冷房の効いた快適な屋内と同レベルになるということはあり得ない。

 凪がいるのは体育館の脇の小道で、この道はグラウンドに続いている。そこに縦三メートル横六メートルの木製のパネルを敷き、美術部員が手がけた下絵に黙々と色を付けている。

 中央高校の体育祭では各学年が赤、青、緑の三つの軍に分かれて得点を競う。このパネルは凪のクラスが所属する赤軍の桟敷席を彩るものであった。

 グラウンドではサッカー部と野球部が練習中。そして体育館ではバスケ部とバレー部の声がする。校舎のほうから聞こえてくる「新世界より」は吹奏楽部の演奏だ。夏休みであっても、学校は賑やかだ。こうして運動部が汗を流している隣で、凪たちはまったく士気が上がらない色塗り作業に従事させられている。

「凪、赤取ってくれ」

「はいよ」

 クラスメイトの大場に絵筆と赤いインクのパレットを渡す。

 大場は髪を短く刈り上げた大柄の男子生徒で、凪よりも十センチばかり背が高い。中学時代には柔道部に入っていたというが、今は囲碁部に転向している変わり種だ。

「今日、妹さんは?」

「空菜? 部室にいるんじゃね」

「そうか。生物だったっけ?」

「そう。なんか、コウガイビルとかいうのを部室で飼ってるらしい」

「なんだそれ。血ぃ吸うヤツ?」

「ナメクジ食うらしい」

「やっぱ、不思議ちゃんだよなぁ」

「生物のヤツら、みんな似たり寄ったりだろ」

「あー、まあな。ちょっと、昔ながらのオタク系多い部活だよな」

 生物部は十人弱の少人数の部活だ。

 活動内容は動植物の観察から釣りや虫取り、バードウォッチング等の屋外の活動もあり意外とアクティブだ。

 暁の帝国は人工島なので、手つかずの自然というのは存在しない。

 その一方で、人工的に作られた自然公園は各地にある。小高い丘であったり、森であったり、地域によってバリエーションは様々だ。

 固有種はいないので、町で見かける生き物も自然公園に棲息する生き物も、渡り鳥のような長距離を移動する生き物以外は人の手で持ち込まれたものだ。

 人工島で一から用意された環境下にあっても生物というのは逞しいもので少しずつ独自の生態系を形成してきている。

 空菜の所属する生物部が活動できるのも、それなりの自然と生き物がいるからだ。今日、空菜は朝一でバードウォッチングに出かけ、その後に部室で飼育しているマニアックな生き物の給餌と観察に精を出しているのだった。

 

 

 パネルの完成は目前となっている。色塗りも終わりが近く、若干の微修正を必要とする部分もあるが、夏休み中に完成という目標は達成できそうな進捗である。

「よぉし、大分形になってきたわね」

 と、腰に手を当てて現場監督の女生徒が言う。

 二年生のチームリーダーの佐藤某である。某というのは下の名前を凪が記憶していないからだ。自己紹介の時に聞いた後、誰も彼女を下の名前で呼んでいないのだ。

 見た目の特徴は小柄で栗毛。性格は快活。美術部の新部長というだけあって、パネルの下絵のデザインは様になっていた。

 太陽と海をモチーフにした背景に書道部員がデザインした「赤」という漢字が、崩した楷書体で描かれている。

 体育祭までは時間があるが、夏休みが終わるといくら文化部が運動部ほどの活動量がないからといって、放課後に集まって作業するというのは難しくなる。

 体育祭の準備の中でも大物であるパネル作成は、夏休み中に片付けてしまわないと後が苦しくなる。いくらなんでも作業が間に合わず、体育祭当日に赤軍だけパネル未完成というのは前代未聞の失態だ。それを避ける目処が立ったというのは、安心材料だ。

「これ塗り終わったら、完成ってことでいいんですか?」

 と凪は佐藤に尋ねた。

「うん、そう。今んとこ七割くらいだし、次で完成できそうだね」

 佐藤はパネルに視線を巡らせる

 彼女は色塗りの過程で美術部のこだわりはあまり見せない。細かなミスは、それはそれでオッケーと流してくれるし、そうでなくても彼女自身で手直ししてくれる。パネル完成が重要であって、完成度を上げようとまではしていないのがありがたい。

「もう十二時だし、今日はこれで終わりにしよう。しゅーりょーです。片付けしましょーう」

 手を叩いて佐藤が声を掛ける。

 この集まりは基本的に午前中だけと決まっている。。

 気温が上がる午後に屋外で活動するのは、熱中症リスクが高まるからである。

 本当は屋内で取り組みたいところだが、パネルを広げられるような都合のいい場所はない。体育館はそれこそ運動部が使っている。

「力持ちの皆さん、パネルよろしく」

 と、佐藤が指示を飛ばす。

 相手は主に凪と大場である。

 攻魔師を始めた凪と元柔道部の大場は、他の生徒よりも筋力があるというのは周知の事実だ。自然と大物のパネル片付けの仕事を頼まれることが多くなる。

 一同は手分けをして片付けを始める。駄弁りながらではあるが、その動きに遅滞はない。誰しも、灼熱の太陽の下から一刻も早く抜け出したいのだ。

「よっしゃ、大場、そっち持て」

「おう、こっち全然乾いてねえな。危ねえ」

 生乾きのインクに触れないように気をつけながら凪はパネルを持ち上げる。二人ではバランスが悪いので、応援を呼んで倉庫に運び入れた。パネルは全部で四枚あり、体育用具を管理する倉庫の片隅に倒れないように立てかける。うっかり表面に触れないように、最後にカラーコーンとコーンバーで囲んで終わりだ。

 パネルの片付けを終わった頃には、他の小物の片付けも終わっている。

 凪と大場が戻ってきたところで、無事に解散となった。

 パネルの絵のために集められた烏合の衆だ。終わったから皆でお昼にしようというようなフレンドリーな展開にはならない。この後、午後から部活がある生徒も少なくないということもあって、バラバラに解散していく。

「終わった、終わったー、超腹減ったー。なあ、凪、メシ行かねえ?」

 校門を出てすぐに大場が凪を昼食に誘う。

 空腹は凪も同じだった。

「いいぞ。なんか行きたいとこあんの?」

「山海龍門ってラーメン屋知ってるか?」

「なんか、どっかで聞いたことはあるな」

 山海龍門はこってり背脂ラーメンが有名なラーメン屋だ。絃神島ができた最初期からずっと同じ場所で店を続けている最古参である。

 行列ができる店というタイプではないが、地元民から愛される店ではある。

 凪はラーメン屋に詳しいわけではないしメディアから積極的に情報収集する性質でもない。それでも聞いたことがあるというのは、よく覚えていないが、どこかで話題になったのだろう。

「最近はカップ麺の監修してたな」

「そういうの最近多いよな」

「それに、井島がバイトしてる」

「井島のバイト先か」

 複数のバイトを掛け持ちしているクラスメイトの顔を思い出す。高校に入ってから、何かと話をする機会の多い友人の一人である。金に困っているわけではないが、金を稼ぐのが楽しいという理由でバイト漬けの毎日を送っている変わり種である。

 そんなクラスメイトのバイト先ならば、名前を聞くこともあるだろう。

「で、井島が言ってたんだけどな」

「おう」

「めっちゃ可愛い娘が来るらしい」

「なんだそれ。客で?」

「そう」

「店員が客を物色するのはいいんか」

「仕事してりゃいいんだろ」

「うちの学校の生徒?」

「制服で来たことないからどこの誰だか分からんらしい。でも、うちの学校じゃないっぽいな。そんな美人がいたら話題になる。お前の妹さんみたいに」

「まあ、そうだな」

 恋多き年頃の高校生活に美男美女の話題は彩りを添える。

 学年を越えて話題になるような顔立ちの整った生徒がいることは希だが、だからこそ、もしもそういう生徒がいればすぐに噂は広がる。

 空菜が入学早々注目を浴び、ついでにその義兄ということで凪があれこれと噂されたのもそのためである。

「いつも来るわけじゃないんだろ?」

 と、凪は尋ねる。

 友人がわざわざ可愛いと評するような女生徒だ。凪も男子生徒の端くれとして気にはなる。

「そりゃ、そうだ。でもいたらラッキーだろ。今は夏休みだし、遭遇率は高いはずだ」

 夏休みで遭遇率が高いというのは、どうだろうか。

 同じ学生なら、カレンダーは一緒だろう。休日が被るはずなので、昼食を外食で済ませようと思えば、運が良ければ同じタイミングで同じ店を利用するということもあり得なくはない、ということだろうか。

「そもそも可愛い娘ってどんな感じなんだ?」

「井島が言うには、多分年下だってよ。背が低めで、幼い系」

「じゃあ、中学生じゃん。あの辺りなら、第一か三浦中?」

「いいとこのお嬢様っぽいから私立じゃねーかな。魔族登録証つけてるらしいから、魔族だろうなぁ」

「魔族なら見た目じゃ歳、分からんぞ。吸血鬼だったら俺らの百倍上かもしれないしな」

「かもな。平日の昼間も来ることあるみたいだからな。ただ、井島の勘だと年下らしい」

「それ、あいつの願望入ってるだろ。私立中学に通ういいとこのお嬢様が、平日の昼間にラーメン食べに来るか? しかも制服見たこともないんだろ?」

「ま、仮に年上だったとしても、それはそれでいいんだよ。見た目幼くて実は百戦錬磨のお姉様だったら、逆に興奮するだろ」

「相手が吸血鬼とかなら、そういうのも全然あり得るからな」

 外見で年齢が分からないのは吸血鬼や血の従者といった不老の種族があるからだ。吸血鬼の外見年齢は個人差が大きく、千年近く生きている者でも外見は人間の十代前半という極端な事例もある。若い吸血鬼にとっては自分の外見年齢がどこで止まるのかというのは大きな関心事で、戦々恐々としているところでもある。近年は外見年齢を若く抑える方法も編み出されていて、吸血鬼であってもアンチエイジングは重視されているのである。

「それと、もしかしたら外国人かもしれんそうだ。日本語は話してたけど金髪で色白だっていうからな」

「金髪……? 染めてんじゃなくて?」

「そりゃ知らねーよ」

 すべて井島からの受け売りだから、大場がその謎の女生徒の仔細を知るはずもない。

 一方で、凪の脳裏にはその女生徒の像が形を為していた。

 金髪色白で幼く見える、平日昼間にもラーメンを食べに行く吸血鬼というのが身近にいる。暁東雲という名前の凪の従姉だ。年下という予想は外しているが、いいとこのお嬢様というのも、第四真祖の娘――――国内最高ランクのお嬢様なのだから当たっている。まさか、そんな娘が出入りしているとは店員一同夢想だにしていないだろうが。そう言えば、山海龍門というラーメン屋の名前は東雲の行きつけのラーメン屋の一つとして話に出てきたことがあった。聞き覚えがあったのは井島のバイト先だからではなく東雲から聞いたからだったのだろう。

 自分の従姉が友人たちの話題に上るというのはこそばゆいものだ。

 今日東雲が山海龍門を利用するかどうかは知らないが、もしもばったり出くわしたらどうしたものか。今のうちに、連絡をとっておいたほうがいいかもしれない。

 そんなことを考えながら、凪は大場と連れだって山海龍門に向かった。


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