夏休みも中盤に差し掛かり、連日猛暑日を記録する暁の帝国。長らく叫ばれ続けている地球温暖化の影響か、かつての同胞である日本では、各地で最高気温の記録更新が話題になる中、魔導科学の粋を結集して建造された人工島をベースとする暁の帝国は、南国でありながらも人口密集地については日本よりも平均気温が若干低い状態を維持していた。
コンクリートや金属が多用された人工島だが、同時に様々な呪術や最先端科学技術が街中に張り巡らされている。
一見するとコンクリートだが、熱を吸収しにくい特殊なコーティングが施されているというのは序の口だ。
資源に乏しい暁の帝国は太陽光をエネルギーとして効率よく利用するための技術開発には余念がない。その過程で、太陽光による弊害を防ぐ技術も開発されている。
技術大国らしく、こうした技術は世界中に輸出されている。大都市であればあるほどに、ヒートアイランド現象を初めとする都市化の悪影響を受けやすくなる。九十九パーセントが人工物の暁の帝国は、都市化に伴う環境問題を研究する上でも重要なサンプルであり、猛暑対策は世界をリードする。
だが、やはりそうはいってもものには限度がある。
今日の最高気温は中央行政区で三十六度である。耐熱コーティングが施された都市部でこれなので、もしもこの技術が確立されていなければ、四十度を超えていただろう。
確かに、何もないよりはマシだが真夏日に相当する気温をたたき出しているので暑いものは暑い。
南国の人工島の宿命ではある。連日、どこの家庭や施設でも冷房をガンガン付けていなければ、熱中症で死者が出ることにもなるだろう。
それもあって、公共施設には冷房がフル稼働中だが、加減を知らないのか管理者が暑がりなのか、異様に冷房が効いていて寒いくらいだというのは珍しい話ではなかった。
帝国立南呪術試験場の大ホールもそんな状況で、夏場なので薄着でやってきた凪は、時折身震いして鳥肌が立つ二の腕を擦っている。
帝国内でも最大級の呪術関連施設の大ホールは、主に呪術関連の講演会や研究発表の場として利用される。
特別な理由もなく、凪が夏休みの貴重な一日を利用してここにいるのは、攻魔官の資格に絡む講演があるからだ。
中学校を卒業して攻魔師の資格を得た凪だが、まだまだ先は長い。
国家攻魔官の資格は将来的に必要だろう。それには大学で専門課程を修了する必要があるので、当面の目標は国家攻魔官の資格が取れる学部のある大学へ進学だ。勉強は嫌いなほうだが、資格を取らなければ目標の仕事ができないのだから、仕方がない。
今、壇上には那月がいる。
半円形の客席には、現役の攻魔師だけでなく、将来攻魔師を目指す少年少女もたくさん集まっている。攻魔師自体、難関かつ生まれ持った才能に依拠する職業なので、なかなかこれを仕事にする者は少ないのだが、攻魔師という言葉ができる前から魔族と戦ってきた人間の家系であったり、強力な魔力を生まれつき持っている魔族は、この道を初めから志すという者もいる。そういう観点で見ると、伝統芸能に近い世界だ。
スポットライトの下で那月が淡々とした語り口で、過去の魔導犯罪について語っている。
おなじみのゴシックロリータのファッションは、ここではあまりにも場違いだが、南宮那月を知るものなら、いちいち指摘するようなことはしない。
彼女の実力と実績は、誰の目から見ても明らかだ。
世界を見渡しても、真祖と正面から戦える個人戦力など彼女くらいしか存在しない。
専門性に特化した呪術関連の講演会というのは、普通は大入り満員とは行かないし、大ホールを使うこともまずないが、那月の講演となると話は別だ。
大ホールの四分の三は席が埋まっている。
これは、この手の講演では希有な客入りと言えるだろう。
講演は午前九時から十二時の三時間、途中に二十分の休憩を挟んで行われた。
凪は、タイミングを見計らって講師控室のドアをノックする。許可を得てから、控室に入った。
那月はパイプ椅子に腰掛けて、タブレット端末を眺めているところだった。
「失礼します」
「来たか、馬鹿弟子」
「イマドキ、そんな呼び方余所ですると何を言われるか分かりませんよ」
「言うようになったじゃないか。まあ、いい。わたしの講演で居眠りしなかったようだから、それでチャラにしてやろう」
どうやら凪のことはチェックしていたらしい。
ここに来て講演を聴くよう課題を出してきたのは那月だ。自分で出した課題の進捗状況は、きちんと把握しているのだろう。
那月は言葉遣いこそ上から目線だが、面倒見は悪くないし、目配りはしっかりしている。当然、真面目に取り組んでいるかどうかも見ている。
「これ、差し入れです」
「ん」
ビニール袋に入れたジュースと和菓子の詰め合わせを那月に渡す。
高価なものではないが、贈答用として和菓子専門店で販売されていたものなので問題はないだろう。世界的に有名な攻魔師への贈りものとしては安物過ぎるかもしれないが、学生の懐事情ではこんなものだろう。
「アスタルテさんはいないんですね」
「アスタルテには買い出しに行かせた。お前がもう少し早く来ていれば、その必要もなかったんだが、間が悪かったな」
「俺を足にしようとしてますよね。というか、自分が転移すればいいだけなのでは?」
那月が得意とする空間転移は、最高難度の呪術だ。高度な計算を必要とする上に魔力の消費も激しい。入念な準備が必要になる大技なのだが、那月はこれを片手間で発動させる。世界広しと雖も、那月ほど空間転移を扱える者は他にいない。
「知らないのか? 転移は私用では使えないんだぞ?」
「いや、知ってますけど」
日常生活では呪術は魔力を行使することにも制限がかかる。
第四真祖を頂点に戴く
魔力そのものが普通の人間からしたら脅威なので、共存共栄を図る上で、こうした異能は使用制限の対象となる。
現代社会で魔力を有効活用しようと思えば、攻魔師や魔導技師のような専門職に就くほかないのだ。
「ふむ」
那月は手元のタブレットに視線を戻した。
「何見てんですか?」
「夏限定のガトーショコラの懸賞が当たった」
「懸賞なんてやってるんですね」
「アスタルテが応募したものだがな。ちょうどいい。凪。この帰りに店に寄って、現物を交換してこい」
「俺ですか?」
「わたしはまだ仕事がある。アスタルテもな。開店時間中には取りに行けないから、弟子に行かせるのは仕方ないことだろう?」
「師匠の日常生活のお世話とか昔の徒弟制じゃないんですから」
そもそも那月の弟子ならば、実のところ他にもいる。
彼女ほどの実力者には後進の育成も期待されるものだ。
とはいえ、高校教師の傍らで国家攻魔官として働くという多忙さなので、凪を最後に弟子を取らなくなった。卒業生は十人程度であろうか。現役は凪を含めて三人で、その中には麻夜もいる。
「まあ、午後は暇ですし、取りに行くのはいいんですけど引換券とか」
そう言った傍から、凪の携帯端末が鳴った。
那月からメッセージが届いていて、引換券のURLが張ってあった。
「なるほど、了解しました。で、引き換えたらどうするんです?」
「配送サービスで明日の午前九時にわたしの自宅住所を指定しろ」
「分かりました。……ここ、聞いたことありますよ」
「何だ、意外だな。スイーツ店など、興味ないと思っていたが」
「興味ないですけど、ネットで見ました」
ネットでの流行廃りは多々あることで、ブームが落ち着いてからも安定経営できるかどうかが重要だ。この店ができたのはほんの二、三ヶ月前で、駅ビルの地下に広がる商店街に出店しているので立地は悪くないのではないか。
学生が学校帰りに立ち寄って楽しめる程度の値段設定なので、若者中心に噂になっている。
麻夜あたりはチェックしていそうだ。
「じゃあ、ちゃっちゃと行って交換してきますよ」
「ああ。あまり遅くなると、また混むからな」
時間は一時過ぎで、昼食を終えた頃だろう。今から行くと二時前には店に着きそうなので、時間的にはちょうどいい。
思わぬ形で余計な仕事を背負い込んだ凪だったが、那月相手に言い訳は通用しない。午後に急ぎの用事がないということもあって、素直にお使いに勤しむことにした。
■
噂の店は「エルミタージュ」といった。ガトーショコラは看板メニューで、開店三ヶ月記念で抽選で百名にプレゼントするという企画だったらしい。
南呪術試験場からはバスとモノレールで四十分弱。
この辺りはベッドタウンとして発展してきたこともあり、柳葉駅周辺は開発が進んで近年人口が増加傾向にあり、その流れで大きなショッピングモールも建設されている絶賛都市開発中のエリアだ。
その潮流のど真ん中にあるのが駅ビルの改修工事で、それが終わったのが昨年だ。
エルミタージュはそんな新生した駅ビルに新規出店した新進気鋭の洋菓子店なのだった。
エスカレーターを下りて地下二階の食べ歩きエリアにやってくる。
サッカーのスタジアムがまるごと入りそうな床面積の中に、多くの店が軒を連ねている。地下二階は若者向けを狙ったコンセプトの店が大半だ。甘い匂いがそこかしこから漂ってくるのは、クレープ屋やアイスクリーム屋、パン屋にカフェのチェーン店と甘い物に溢れているからである。さながら、甘味の博覧会だ。
建物の中は外に比べて空調が整っていて涼しいということも利点だ。
夏休みで暇を持て余した学生たちは、こうしたショッピングモールに流入する。
ここは駅ビルの地下なので、部活や塾帰りの学生の利用率も高い。
午後二時過ぎという半端な時間帯でも、学生、特に女子が多いのも、狙い通りの結果が出ている証だろう。
この駅の利用者だけでなく、区外からもこの地下街を目的に訪れる客も多そうだ。
今、各地で街の再開発が進んでいる。
若者狙いのショッピングモールを展開する地域は多く、モノレールの駅がその核を担っている。
駅ビルやその周囲にショッピングモールや学習塾を誘致し、その外周部に住宅地を整備するという方向性で、駅同士はモノレールで繋がるので、学生たちを中心に駅から駅に活気を伝播しようという試みである。
有力な繁華街が名乗りを上げ、この連動プロジェクトに参画しているらしい。
「結構いるな」
エルミタージュの外観は小さな喫茶店である。
地下二階フロアの奥まったところにあり、正面はラーメン屋で隣は学習塾という立地だ。
塾の夏期講習を終えた学生が、小腹を空かせて立ち寄るという光景が目に浮かぶ。
そして、覗いてみると、この時間でもそれなりの客入りだ。
昼食を終えて、そのままデザートを食べながら駄弁っているのだろうか。
と、そこでふと後ろを振り返ると、見知った顔があった。
十メートルほど後ろに、どういうわけか零菜がいる。
制服ではないので学校帰りというわけではなさそうだ。
凪と視線があった零菜はそのままトコトコとこちらに歩いてくる。
「やっぱり凪君だ。こんなとこにいるの珍しいね」
「それはこっちの台詞なんだが……一人か?」
「まあね。訓練終わりで、駅前までは送ってもらったんだよ。今はGPSもあるしね」
零菜は一国の皇女で、攻魔師の護衛が付くことが多い。
ただ本人の実力も身についてきて、高校生に上がって自由に動けるようになった零菜個人の護衛をガチガチに固めるというのも難しいということで、今はGPSによる居場所の把握に留める場合が多くなってきたらしい。
もちろん、それは魔導科学が発展した暁の帝国だからこそできる護衛のあり方だ。
零菜に異常があれば、その居場所を即座に感知して救援を出せるし、零菜が一人で移動できる範囲や時間にも条件がある。
そこは、やはり一般人とは扱いが別になるのだ。
「で、凪君はここで何してんの? ラーメン食べてた?」
零菜は凪の背後のラーメン屋に目を向けた。
「俺が用事あんのはこっち」
と、凪はエルミタージュを顎でしゃくる。
「南宮教官にお使いをな」
「ああ、そういうこと。そういえば、今日は那月ちゃんの講演会だったね」
「終わって挨拶に行ったら、ここにガトーショコラを取りに行けだってよ」
「那月ちゃんらしい横暴さだねぇ」
零菜は凪の空いた手を見る。
「まだ買ってない?」
「ちょうど今来たところだ。買うんじゃなくて交換な。アスタルテさんが懸賞当たったって」
「へえ、じゃあ、これからなんだ」
「そうそう」
「ここさ、結構評判なんだよね。麻夜ちゃんがさ、ガトーショコラがいいって言ってたんだよ」
「麻夜はチェック済みだったか。まあ、そうだろうな」
麻夜は甘い物に目がない。
こういった店に一番詳しいのは、麻夜で間違いない。
零菜が露骨に店内を伺っているので、凪は苦笑した。
「偵察していく?」
「うん」
二つ返事で零菜は頷いた。
店の中は思ったよりも大きい。
縦長のL字構造だったようで、入り口から見えない部分も多かったのだ。
駅地下ということもあり、景色を楽しむことはできないが、白と木の素朴な色合いをベースにした内装は、地下の閉塞感を和らげ、落ち着いた雰囲気を出している。
凪と零菜は、一番奥のテーブル席に座った。
備え付けのタブレットから注文するスタイルで、支払いもセルフレジだ。
注文方法の説明は店員がするが、それ以外に店員とコミュニケーションを取ることはなさそうだ。
「ガトーショコラだけで何種類あんだここ」
タブレットをテーブルの上に置いてメニューを表示すると、想像以上に品目が多い。
特にガトーショコラへの熱の入れようは執着すら感じさせるほどだ。
「大中小、大きさも選べるんだ。へえー。さすが、麻夜ちゃんが気にするだけあるね。フルーツミックス、ホイップたっぷり、ベリー三種盛り、ええ、どうしよっかなー」
零菜は楽しげに画面をスワイプする。
ぱっと見、ガトーショコラかそれ以外かで項目が分かれていることからも、この店の推しはガトーショコラなのは間違いない。
ここまでガトーショコラばかりだと、それ以外を頼むのが申し訳なくなってしまうし、他の客を盗み見てもガトーショコラ以外食べている客はいなそうだ。
「ほんと、多いな。ガトーショコラ専門店かここは」
「こういうのって見てるだけでも楽しいよね」
「分かる。ん、なんだ白いのもあんのか」
「ホワイトガトーショコラだね。こっちもいっぱいあるんだ」
「三十はあるんじゃないか」
大きさの別を除いても、ずいぶんと品目が多い。
よく見るとベースになっているガトーショコラは同じで、上に乗せるフルーツで違いを出しているということだろうか。
「凪君、決めた?」
「俺はビターショコラチーズケーキ」
凪が選んだのはカカオ80のチョコを使ったガトーショコラとチーズケーキを組み合わせたものだ。下半分がチーズケーキになっている。ものすごくカロリーが高そうだが、凪のエネルギー消費量を考えれば何も問題ない。
「零菜は?」
「フルーツ盛り合わせカップケーキ」
それは一口サイズのガトーショコラにブルーベリーやオレンジ、バナナ、いちごといったフルーツを乗せた六種のカップケーキである。
お手頃価格で食べ比べができる人気商品であった。
本当は複数人で楽しむものではないかと思ったが口にするのはやめておいた。
那月のお使いがあるので、あまり店に長居はできない。
明日の午前一番に届くように時間指定をして配送しなければならない。それも食品となると、区内の配送しか受け付けてもらえないので、中央行政区の大手運送会社の直営店に立ち寄った。
那月にメールをして、確かに発送手続きをした証拠写真も添付した。これで届かなくても凪に責は及ばない。トラブルが起きて八つ当たりを喰らう可能性は、万に一つはあるかもしれないが、その時はその時だ。
ここから駅に戻ってモノレールに乗り、自宅マンションに帰る。バスでもいいが、少し遠回りになる。この辺りは以前に凪が暮らしていたマンションの近くなので、少し懐かしい気分だ。引っ越してちょうど一年が経つが、公園のベンチの色が変わっていたり、道路が綺麗になっていたりと少しずつ変化しているようだ。
少し日が西に傾いてきた。
零菜は黒い日傘を差しているが、それでも暑いことには変わりない。
「さすがに暑いな。用事も終わったし、とっとと帰ろうぜ」
「そうだね。那月ちゃんみたいに転移できたら楽なのにね」
「日常では使わないらしいぞ。さっき言ってた」
「嘘だぁ、バンバン使ってるでしょ。人が見てないとこで」
「だよなぁ」
この辺りの会話も本人に聞かれると後日大変な目に合うのだろうが、とりとめのない愚痴は鬼の居ぬ間にしかできないのだ。
土台から作られた街なので、碁盤の目状に整地された区画ばかりだ。
この周辺は特に区画整理された四十年前に建てられた集合住宅が多い。同じ見た目で同じように並んでいる古い団地である。
太陽が九階建てマンションの影に隠れる。
直射日光が遮られるだけで体感温度はずいぶんと変わるものだ。
不意に、冷たい風が吹いた。空を見上げると黒い雲が流れ来て、太陽を覆い隠している。ゴロゴロと雷も聞こえてきた。
「これ、ヤバい。降るわ」
「え、きゃッ」
零菜が小さく悲鳴を上げた。
ごう、と突風が吹いて零菜の日傘が壊れてしまった。
「ええ、うそぉ」
「一気にいったな」
「これ買ったばかりなんだけど」
ショックを受けた様子の零菜は、ため息をついた。
だが、そんな零菜の感傷に思いを巡らす余裕はなかった。
風が強くなり、雨も降り始めた。
近くに落雷があったらしく、爆発かと思うほどの雷鳴が耳朶を打つ。
「うちまで走るぞ!」
「うちって!?」
「そこ!」
凪が指差すのは、以前住んでいたマンションだ。
大粒の雨が強風に乗って吹き付けてくる。
靴の中まで水が入って気持ちが悪い。
凪は零菜と一緒にかつて暮らした部屋の前にやって来た。
「使えるの?」
「まだ、契約はしてるんだよ。母さんの荷物とか、
そう言って鍵を開けて、中に入った。
さすがに暮らしてないので、閑散としているが、電気も水道も通っているのでいざとなればこっちでも生活はできる。
「まあ、雨が止むまでここに避難だな……ん」
と、零菜を見た凪が慌てて視線を逸らす。
零菜の服が濡れて肌に張り付き、うっすらと下着が見えていた。
凪の目線ではどうしても、自己主張の強い零菜の一部分が目に入ってしまう。
それに気づいた零菜は顔を紅くして、両手で前を隠しながら凪に抗議する。
「こんなの見ないでよ」
「見、えたのは不可抗力だから」
「知ってる。でも恥ずかしいからもうこっち見ちゃダメ。今日の可愛くない」
「……十分に可愛いと思うが」
「んッ」
零菜に小突かれて凪は口を噤む。
零菜の下着は特徴のない桃色の布地だ。ブラウス越しなので細かい図柄は分からないが、これといって凝った意匠ではなさそうだ。
下着を凪に見られることを前提に選んで来たわけではない。
零菜からすれば、これも不可抗力だ。
状況が状況なので、服越しでも見られたことは仕方がないが、評価されるような見方をされるのは恥ずかしい。
「とりあえず、タオル取ってくる。後、シャワー使っていいから」
「え、シャワー!?」
「変な勘ぐりすんな。その服ずっと着てるわけにはいかないだろ」
「あ、うん、そうだね。凪君は?」
「俺はまあ、何でもいい」
「家主は凪君だし、凪君最初がいいと思うな」
「零菜びしょ濡れで放置するのは無理だろ。着替えだって俺が探さないとダメなわけだしさ」
凪が先にシャワーを浴びたところで、零菜の着替えはないのだから濡れたまま待たされることになる。零菜が先にシャワーを浴びればその間に凪は自分の昔の服を引っ張り出して着替えることができるし零菜の分も調達できる。
もちろん、シャワー前に全部用意することもできるが、時間の無駄は否めない。
「……分かった。じゃあ、お言葉に甘えて」
零菜はしぶしぶ凪の申し出を受け入れた。
ずぶ濡れのままいつまでも玄関で口論しても何も始まらない。
「おじゃましまーす」
玄関を上がった零菜は、雨水の足跡を残しながらまっすぐ脱衣所に入っていった。
雨風が窓を打つ音が続いている。
ゲリラ豪雨は長時間続くものではない。だが、時間雨量こそ落ち着きはしたものの、そのまま雨雲が居座っているらしく、雨雲レーダーの予測を見てももうしばらくは雨が続きそうだ。
「凪君、ドライヤー使う?」
脱衣所を出た凪にリビングにいた零菜が声をかける。
彼女は一足先にシャワーを浴びていて、凪がシャワーを浴びている間にドライヤーを使っていたのだ。
「ああ、パス」
「はい」
零菜からドライヤーを受け取った凪は、そのまま脱衣所に戻って髪を乾かす。
本来、脱衣所で使うものだ。
零菜がリビングに持って行ったのは、脱衣所を使う凪と鉢合わせないようにするためだ。
零菜は髪が長いので時間が掛かったが、凪はそうでもない。一、二分もあれば十分に乾く。
「やっぱ、男の子って髪乾くの早いよね」
ドライヤーを片付けて戻ってきた凪に零菜が言った。
零菜の場合は単に乾かすだけでなく、ヘアオイルにも気を遣っている。
射干玉の髪の艶を維持するために、それなりに努力しているのである。
一方で、凪は髪について全くと言っていいほど気にしていない。いっそ、雑ですらある。風呂上がりのドライヤーも乾けばいいという程度であった。
「短いからな。坊主なら、そもそもドライヤーいらんし」
「まあ、坊主の人はそうかもね。野球部とか」
「彩海の野球部も坊主ばっかなのか」
「そうだね。あ、でも九月から坊主禁止にするらしいよ」
「なんで?」
「さあ。でも、坊主が嫌で野球しない人もいるらしいし。部員減ってるっぽいからね」
「彩海は勉強も大変だからな。スポ専もあるんだったか」
「野球、サッカー、バスケ、卓球、バドミントンもかな。推薦枠があるのは。でもテストは同じ内容だって。赤点の基準が違うって聞いたよ」
「さすが私立の進学校。うちはスポ専がそもそもないな」
「中央って何が強いんだっけ」
「スポーツは全然聞かんなぁ。将棋は強いみたいだけど、あそこも部員が五人くらいしかいなかったな」
零菜は床にぺたんと座って、ストレッチしている。
日常的に身体を動かしているだけあって、ずいぶんと柔らかい。
片足前屈をしている零菜の格好は、白いTシャツと黒い短パンだ。どちらも凪が中学生の頃に使っていたもので、昔のものであっても零菜にとっては大きめだ。
この家に女性用の服がなかったというのが、ちょっとした問題だった。
凪沙は何年も海外暮らしで、空菜もここではほとんど暮らしていない。荷物は全部、引っ越しの時に持って出た。今あるのは、持ち出す必要のなかった凪の衣服だけで、数えるくらいしかない。
「……何、変なところある?」
「いいや、別に」
「えー、何」
凪の視線に気づいたのか零菜が尋ねてくる。
凪の目線からだと、襟から零菜の身体が見えてしまいそうだ。
何より、自分の服を零菜が着ているというのが、やたら興奮する。
ということで、これはこれで困ったことになった。
「雨、止みそうにないね」
と、零菜が窓の外を見て言う。
大粒の雨は、未だに窓ガラスを打ち付けていて、空を覆う分厚い黒雲のために夕暮れ前なのに薄暗い。時折、雲の中で雷光が明滅している。久しぶりに荒れた天気だ。台風の時期はこれからなのだが、その前にこれは先が思いやられる。
「あまり、続くんなら迎えを頼むか、傘買いに行くしかないな。レーダーだと、あと二……三時間で雨雲抜けそうだけど……」
「コンビニ近い?」
「走れば二、三分ってとこ」
「じゃあ、もうちょっと待とうよ。せっかくシャワー浴びたのに傘買いに行って濡れるんじゃ本末転倒だよ」
「まあ、だよな」
凪はソファに座って、背もたれに首を預ける。
午前中に那月の講演を聴講してから、動き回っていたこともあって、ようやく一息ついたという感じだ。土砂降りに襲われるというのは想定外で、まだこれから家に帰らないと行けないという課題が残っているのだが。
「凪君、テレビってなかったっけ」
と、零菜が尋ねてくる。
ソファの前にテーブルがあって、その向こうにテレビという配置だったが、今はテレビがあったところに何もない。
「あれ、引っ越しの時に売った」
「そうなの?」
「ちょっと古かったからな」
「へー。あんま埃もないのは、時々帰ってきてるから?」
「一応ね。月一くらいで掃除しに来てる。物置代わりにもしてるし。だから、電気と水道が動いてんだよね」
この部屋の管理ができるのは凪と空菜くらいだが、空菜自身の私物はもうここにはないので、凪が気が向いたときに来て掃除をするというくらいだ。それでも、誰も管理していない部屋に比べると劣化は少ない。月に一度でも人の手が入るというのは重要なことだ。
そのおかげで、今日のような緊急避難ができたので、無駄にはならなかった。
ストレッチを終えた零菜は凪の隣に腰を下ろす。ポスンと音を立て、スプリングが上下に揺れる。
テレビはないし、マンガも小説もパソコンも娯楽に使えるものは今のマンションに引き上げている。この部屋は避難所としては使えるが、日常生活のために必要なものはない。電気は通っているが、携帯端末の充電器がないので、ネットサーフィンもゲームも長時間はできない。これから状況次第では迎えを呼ぶなりタクシーを呼ぶなりするのも、充電切れではできなくなる。
特に会話もなく、ぼうっと十分程度座っている。
「凪君」
「んー?」
「何かある?」
「何かって?」
「食べるものとか」
「ない。水道水くらい」
「だよねぇ」
零菜は暇そうに横になって肘掛けに肘を突いて体勢を崩した。
外では絶対に人に見せない気の抜けた姿勢だ。
あまり零菜のほうを見ると、あられもない姿すぎて目のやり場に困るので、あえて零菜を見ないようにしていると、Tシャツの袖が引かれた。
「思った。血ぃ吸えば暇つぶしになるんじゃない?」
「それ暇つぶしになる?」
「……ダメ?」
起き上がった零菜が上目遣いで聞いてくる。
これは反則だ。
特に今は大きめのTシャツのせいで、胸元が見える。本人にどこまで自覚があるのか分からないが、今の零菜は日常生活感がありながら、今まで見せたことのない姿をしているのだ。
「ダメじゃない」
誘惑に屈した凪は頷くほかなかった。
「やった。ふふふ、みんなには悪いけど、ちょっと多めにもらっちゃおっかな」
凪の血を吸うのは慣れたものということか。文字通り目の色を変えて、身を乗り出してくる。
「シャツの替え、もうないから汚さないでくれよ」
「大丈夫、上手く吸うから」
下手な吸血だと血が零れて服が汚れることもある。唇に血がついていて、気づかずに他の場所を汚してしまうという場合もある。血のキスマークと呼ばれる失敗談である。
零菜は凪の血を吸おうと首筋に唇を寄せて、少しもたつく。
「何してんの?」
「体勢、どうしようかと」
牙を突き立てると決めたところに噛みつきたいのだが、上手く身体を支えられない。
「正面からがいいや。凪君、こっち向いて」
「はい」
零菜に言われたとおりに凪は身体を横に向ける。ソファの上で横になる体勢だ。それで零菜が凪の上に乗って、しがみついてくる。
シャワー上がりの零菜のしっとりとした髪が頬をくすぐる。とてもいい匂いで、これだけで興奮してしまうし、柔らかくしなやかな零菜の肢体がひっしと密着しているから、さらに興奮する要素が揃っている。血を吸われるのは慣れている。何だったら空菜に毎日吸われているので、作業のようなところもあるが、今日はいつもと条件が違い過ぎた。
零菜もいつもより積極的だ。それは、凪と同様に普段とは違う環境、雰囲気に当てられているということが大きかった。
邪魔者が入ってくる余地のない場所。それも男の部屋に連れ込まれる格好になっているし、男物の服を借りている。
実のところ、割と最初のほうから吸血衝動が出ていたし、血を吸うことしか考えられなかった。
これでも、理性は頑張っている方だ。
密着して準備万端。いつでも噛めるところまで来たら、今更後戻りは不可能だ。
大胆に誘いすぎたと反省しながら、零菜は凪の首を噛む。
いつも通りに吸血。
牙を使って二つの穴を皮膚に開けて、滲み出る血を吸い出す。じわじわと鉄錆にも似た味わいが舌の上に広がって、それと同時に凪の霊力が零菜の中に入ってくる。これが堪らない。身体中の細胞が、歓喜するような快感だ。吸血鬼として上質な霊媒から血を得ているという喜びと意中の男から血を吸っている喜び。強烈な多幸感はやみつきになる。凪の血は姉妹みんなが求めているものでもあるので、それを独り占めしているという優越感もあった。
「はー……最高」
零菜は凪にしがみつきながら、感嘆のため息をついた。
唇を離したところに牙の痕跡がある。そこから、僅かに血が滲む。零すと服が汚れるので、舐め取った。
「満足した?」
凪は聞いた。
「え、まだ」
と、零菜は答える。
「だって、雨止んでないじゃん」
何時間吸血する気なのかと問おうとしたら、零菜は凪の首を噛んだ。甘い痺れるような痛みが凪の問いを封殺する。
零菜はじっくりといつもより時間をかけて血を啜る。時折、熱い吐息を漏らして小休止を挟みながら、噛むところをずらして吸血を再開する。
部屋の中は風雨と衣擦れの音以外に何もない。僅かな環境音しかないのは、無音以上に静かに感じる。
しばらくそうしてから、零菜が身体を起こした。ふう、と一息ついて、何かに気づいたように凪の顔を覗き込む。
「凪君、目、赤いよ」
「マジ?」
「うん。すごい、初めて見た」
凪は自分の目が赤くなっている自覚はない。吸血鬼は気持ちの昂ぶりに合わせて目を赤くする。今の零菜がそうなっているように。
凪の目が赤くなるということは、吸血鬼化が進んでいるということなのだろうか。
「凪君さ、してみる?」
零菜は髪を耳に掻き上げて首を見せた。
吸血衝動のトリガーは性欲だ。ただでさえ魅力的な零菜が、白い首筋を見せたら凪の衝動は抑えようがなくなる。
「吸血鬼は血を吸われるの嫌がるんじゃないの?」
「……普通はそうだけど、凪君の血はいっぱいもらってるし。それに、東雲ちゃんの血も吸ったんでしょ?」
零菜が言うのはクリスマスの事件の時のことだ。凪は東雲に誘われて、彼女の血を吸った。初めての吸血衝動のままに東雲に流れる第四真祖に由来する力を取り込んだのだ。
ただ、一般に吸血鬼は吸血されるのを嫌う。それは吸血という行為は単なる愛情表現や魔力の補給というだけでなく、相手の血に宿る力を吸収する行為でもあるからだ。特に吸血鬼の場合は、吸血によって存在そのものを
今日の零菜は積極的だ。
この状況に浮かれて舞い上がっているのである。そして、凪も同じだった。
「じゃあ、零菜。噛ませてもらうぞ」
「う、うん」
零菜が差し出した首筋に凪は噛みついた。不思議な感覚だ。噛みついてどうすればいいのか分かる。息をするのと同じだ。零菜の香りと体温を感じながら彼女の首から熱い血が口の中に溶け込んでくる。
「はぅ、い、つ……」
「痛かった?」
「ん、大丈夫。びっくりしただけ。続けていいよ」
そうは言うが凪も二度目だ。
普段は血を吸われる側なので勝手が分からない。手探り状態ではあるが、感覚は掴めたので、零菜を抱き寄せて首を噛む。
耳元で零菜の小さな声と吐息が聞こえる。
吸血される快感は知っているが、吸血する側になるとこれはこれで別の快感があって興奮する。今までは受動的だったのが能動的にアプローチする側になるのだ。
そもそも相手の首を噛むという行為自体、吸血に関係なく特殊な行為である。「血を吸う」のと「噛む」のでそれぞれ別の興奮要素があるということに、凪は今気づいた。
零菜の血を吸ったからか、活力が湧いてくる。
吸血鬼化の証だ。
何となく疲れを感じていたのが吹き飛んだ。
少ししてから、零菜は顔を上げた。
「凪君、交代」
瞳を潤ませた零菜は頬を紅潮させていた。
そして、そのまま凪の首に顔を埋める。ちくりとした痛みの後にぞくぞくする危険な気持ちよさがある。
こうして密着していると零菜の首が無防備なのが分かる。
零菜が凪の首を噛んでいる時に凪も零菜の首を噛んだ。
「は、ひゃん!?」
可愛く零菜が声を上げる。
「ちょっと、今はわたしが吸ってるのに」
「まだ、俺噛んでる途中だった」
「あ、もう……! んく……がぶ!」
「いてぇ、おい」
「んー」
凪の抗議に耳を貸さず零菜は噛みついて離れない。こうしている間にも血と魔力が少しずつ零菜に流れていくので、こうなっては凪もやり返すほかない。零菜の首の付け根が口元に来たので噛んだ。服がぶかぶかだから噛みやすかった。
零菜の愛らしい呻き声も、ちょうどいいスパイスだ。
血を吸われながら、その分を吸って取り返す。
魔力が互いの身体を循環しているような錯覚があって、蕩けてしまいそうだ。
厳密には吸血鬼同士というわけではないが、血を同時に吸い合う行為は共食いを連想させる。あるいは
天候が回復する兆しはまだなく、離れる理由も見つからない。
吸血を続ける理由を探しながら、凪と零菜は延々と噛み合い続けた。
雨が上がって自宅に帰ってきたのは、午後七時を回った頃だった。
さすがにぶかぶかの服で外を歩くわけには行かないので、零菜は凪からジャージを借りた。雨は上がったが、蒸し暑く湿気がある。長袖長ズボンのジャージは良い選択ではないが仕方がない。
帰ってきて早々に濡れた服を洗濯機に放り込み、シャワーを浴びてさっぱりすると、帰宅途中で買い込んできた菓子が入ったビニール袋を持って外に出る。
行き先は同じフロアの萌葱の部屋だ。
「零菜、おそーい」
と、リビングの萌葱が言う。
東雲と紗葵も一緒にいた。
「麻夜ちゃんいないね。空菜も」
「麻夜は空菜んとこ。漫画がどうとかって言ってた」
「ふぅん」
麻夜と空菜はよく漫画の貸し借りをしている。最近も、麻夜が大人買いした漫画のやり取りがあるようだ。面白そうなら自分も借りようと零菜は思う。
「はい、これ。お土産」
「サンキュ。ポテチばっかじゃないの」
「他にも入ってるから。奥見て、奥」
凪の旧宅で雨宿りすることは伝えていた。
帰宅する際に、今から帰ると伝えたところ買い出しを頼まれたのだった。
萌葱はうす塩味のポテトチップスの袋を開いた。
テーブルを囲んでいた東雲とともにそれを口に運ぶ。
「で、零菜。詳細報告」
と、萌葱が言う。
「え?」
「え? じゃねーんて。凪君んとこ、ずっと二人でいたんでしょ。何もなかったとは言わせないわよ」
こういうとき、嘘をついても仕方がない。こういう尋問があることは初めから分かっていたし、萌葱たちもある程度想像はついていることだ。
「吸血しました」
「うーん、アウト」
「何でよ。別にいいでしょ、吸血なんて」
「アウトってことにしときたい。東雲先生どうです?」
「そうだね。零菜ちゃんは役得が過ぎる感じある」
萌葱と東雲が口々に零菜を非難する。
笑みを浮かべているのは本気ではない証だ。
「そんなこと言って、二人とも同じ状況だったらどうするのさ」
と、零菜は反撃する。
冷蔵庫から持ってきたトマトジュースを飲みながら、ポテトチップスを摘まんだ。
「まー、吸うかな」
と、萌葱は答える。
「そりゃ、吸うけどね」
東雲も同意する。
「同じ穴の狢なんじゃないの?」
呆れたと言わんばかりの声音で紗葵が呟く。
凪と姉たちの関係性には思うところがないわけではないし、血を吸うことには自分も興味はあるが、血を吸った吸わないで一喜一憂する盛り上がりには、まだ入り込めていない。性格的に物事を俯瞰して、一歩引いたところに自己を置く癖があるからだろうか。
「あ、でもね。あれはよかったよ。東雲ちゃんの好きなヤツ」
「は、わたし?」
「うん」
「……え、どれのこと?」
「どれって」
東雲は食い気味に尋ねる。
東雲はいろいろと妄想癖があり、好きなことと言われても候補が多いのでピンとこないのだ。
放っておくと話が逸れて、変な方向に進みそうなので零菜は自分の首を擦って見せる。
「ここ噛まれた」
「へぁ」
東雲が変な声を出し、萌葱が隣で目を見張る。
「え、マジ?」
と、萌葱も身を乗り出した。
「マジマジ。東雲ちゃんの言ってたとおりだったね。最初はちょっと痛かったけど、何かよかった」
「えー、うそぉ、したのぉ」
東雲はショックを受けたような顔をして不服そうに頬杖を突いた。
「わたしだけの思い出だったのにー」
「あんだけよかったアピールしてたらね、試したくなるじゃん」
「んー、わたしだって半年前に一回しかないのに」
悔しげに東雲は眉ねを寄せた。
「血を吸われるって、そんなにいいもん?」
と、未経験の萌葱は興味深そうに聞いてくる。
東雲だけでなく零菜までとなると、信憑性も高まる。
実際、ネットには体験談が上がっている。吸血鬼の本能的な抵抗感を克服できれば、吸血鬼カップルの基本的な交流の一つになり得るものだとは言われているが、やはり最初はハードルが高い。
「零菜姉さん、それでこんなに遅くなったの?」
紗葵も興味があるのか会話に入ってくる。
「遅くなったのは雨宿りしてたからなんだけどね」
「でも、雨宿りしてる間に吸血してたんでしょ?」
「まあ、そうだね」
隠す必要はないし、隠したところで意味がない。
どうしたところでバレるものだ。
零菜の初体験談は、姉妹間の女子トークで詳らかにされていく。
凪に関する情報共有は、もはや特別なものではなかった。
特に吸血は日常になりつつある。最近はどうやって吸血まで持ち込むかではなく、どのように吸血するかという方法論が話題の中心になっているくらいである。
それでも、血を吸われるというのは新鮮だ。
零菜と東雲の話を聞きつつ、体験談をネットで検索し、こういう吸血はどうだとか、こういう吸血はないといった話で夜遅くまで盛り上がった。