天高く屹立するタワーマンション群が朝日を浴びて煌びやかに輝く。暁の帝国の今日の空模様は、快晴で真夏の太陽光を遮る無粋な雲もなく、いつも通りに日中は四十度近い気温をたたき出すことは目に見えていた。
暁の帝国はその国土のすべてが人工物で構成された人工島だ。もともとは土もなければ、木々もないコンクリートと金属の塊で、それを魔導科学の粋を結集して海上に浮かべているのである。おまけに、位置するのは太平洋上の赤道付近である。そのため、真夏の暁の帝国はかつて日本の一部だったとは思えないほどに高く、熱帯性気候に近い蒸し暑さに襲われるのが日常となっている。
幸い、この国は世界の最先端を行く魔導科学の本場である。
この二十年でヒートアイランド現象対策は大幅に進化している。例えばビルの外壁に塗布するナノマシンのおかげでビルの外壁に熱が篭らないようになっているし、街中にはドライミストの発生装置が普及し、街路樹や屋上庭園も推奨されている。上空から街を見下ろせば、昔に比べてもずいぶんと色合いが賑やかになったことが分かるだろう。
蒸し暑い夏を戦うという分かりやすい戦略は人々に受け入れられ、一つの産業として成長していた。
それでも、やはり暑いものは暑い。
気温四十度が、気温三十度になったからといって、涼しくなったと諸手を挙げて喜ぶわけではない。
結局、技術がどれだけ発展しようとも、自宅では冷房を付けて生活するスタイルに変わりはない。窓を開けられないタワーマンションの高層階ならなおのことである。
遮光カーテンを閉め切って、真っ暗な部屋の中に明かりが灯る。
スマホの画面が点灯し、無機質な着信音が鳴る。
「んー……」
もぞり、と布団の中から顔を出した東雲がけだるそうに枕元でがなり立てるスマホを手にした。
しょぼしょぼとする目を擦り、画面を見ると電話の相手は萌葱だった。
「あい……」
『……あんた、もしかしてまだ寝てた?』
「ん……?」
東雲は働かない頭を掻いて、萌葱の言葉を理解しようと努める。
寝起きで意識がはっきりせず、萌葱が言っていることが頭に入ってこない。
時間の感覚もはっきりしない。カーテンの隙間から差し込む太陽が眩しくて、目が眩む。
「なんだっけ?」
『何寝ぼけてんのよ。紅葉を迎えに行くって、言ってたでしょ。もう時間なんだけど?』
「……へあ……?」
『もう八時半よ。早めに出るって、あんたが言ったんじゃん』
「……あ、ああッ。ごめんッ」
冷房の冷気が首筋をぞくりと舐め上げる。寝汗が一気に引いて寒気がする。おかげで目が覚めた。今日は紅葉が暁の帝国に帰ってくる日だ。せっかくだから空港に迎えに行って、街を散策しようとしていたのである。
忘れていたわけではないが、完全に寝過ごしていた。
「すぐ準備するから」
『準備できたら呼んで。それまで、部屋で待ってるから』
呆れたような萌葱の声を最後に通話が切れる。
やってしまったものは取り返せないが、スマホに憎々しげな視線を送る。アラームを三つも設定していながら、結局、目を覚ますことができなかった。確認してみると、どうも自分で止めた形跡がある。まったく記憶になかった。
「あー、早く夏終わらないかなぁ」
東雲は照りつける太陽の下で意味もない恨み言を呟いた。
ブラックのカンカン帽を頭に乗せた東雲の額にはすでに薄らと汗が滲む。日傘と帽子と日焼け止めは暁の帝国に生きる女子高生の必需品だ。肌の白い東雲には尚のことである。
「秋になっても大して涼しくはないわね」
と、隣を歩く萌葱は答える。
日傘こそ差していないものの萌葱はキャスケットを被ってお洒落に決めている。デニムのショートパンツで大胆に足を出しているのは、細身でそれなりに身長のある萌葱には似合う。低身長にコンプレックスのある東雲はなかなか真似できないので恨めしい。萌葱や麻夜がするような「格好いい」コーデは、東雲には手が届かない。どうしても、衣装に着られているように見えてしまうのだ。それよりは、低めの身長と童顔を活かした可愛い系で纏めるのが安パイになる。挑戦したい気持ちはあるものの、なかなか踏み出せないうちに時間が過ぎていく。
「四十一度」
東雲が不意に呟く。
「気温?」
「今、そこの電光掲示板に出てた」
「日向じゃ、まあそうなるわよね」
やって来た空港のエントランス前に設置された温度計に表示された気温は、今年が猛烈な酷暑であることを立証するかのように厳しい数字を表示している。
日向での気温の計測は太陽光の影響を受けるものなので、「気温」としての正式な数字ではないが、日常生活を送る上では重要な数字である。
暁の帝国の技術を費やしても、太陽光に直接曝される市民が快適な夏を送るのは、少なくとも屋外においては難しいということだ。
それこそ、日光を直接遮るくらいしなければ、肌を焼くような厳しい暑さからは逃れられない。
「紅葉ちゃんの便って、何時だったっけ?」
「十時着の予定だから、後二十分。ちょうどいいわね」
「お腹減った。割とガチで」
「朝、食べてないの?」
「食べてないんだよね」
「寝坊すんのが悪いのよ」
「ごめんて」
「昨日何時に寝たの?」
「多分、二時くらい」
「夏休み明けから彩海くるんでしょうが。それで大丈夫なの?」
「
「それは分かるけどね。それとこれは関係ないから。あたしはあんたを毎日起こすの嫌だからね」
「分かってるって。新学期が始まったらちゃんとしますよー」
彩海学園の編入試験を終え、東雲は制服を新調した。
新たな皇族を迎えるに当たり、今頃は学校関係者は忙しく駆け回っているところである。
彩海学園がこの二十年で大きく発展したのは、皇族の出身校というブランドの後押しを受けたことも大きい。第二世代のお姫様も彩海学園に進学したことで、ますますそのブランド力は強くなっているし、それに相応しい設備投資も行われている。
二十年前とは彩海学園の学術機関としての機能も規模も様変わりしていると言っても過言ではないだろう。
萌葱と東雲は、ターミナルビルの展望デッキに上がった。
暁の帝国最大の空港であるセントラル国際空港の展望デッキは屋外と屋内の二種類が用意されていて、強い日差しを嫌う女性たちは、屋内展望デッキから飛行機の離発着を見ることが多い。
屋内展望デッキの天井は99パーセントUVカットが可能と謳う特殊なガラスで覆われていて、太陽光を気にせず空を見上げることができるのも、この展望デッキの特徴である。
「あれじゃない?」
東雲が目を細めて空を見る。
豆粒ほどの大きさの黒い点が晴れ渡る空にぽつんと浮かんでいる。
人間以上の視力を持つ萌葱と東雲の目にはそれが正しく飛行機であると分かっていた。
「それっぽいね。ばっちり時間通り」
東京から暁の帝国までは、ジェット機ならば二時間もかからない小旅行だ。
かつての絃神島は完全な学術都市で、出入りは厳しい制限があったので、外国扱いになった今のほうが気軽に移動できるという皮肉な状況がある。
観光業としては日本からの旅行客が圧倒的に多いのも特徴か。
この二十年で魔導科学に偏重していた島の産業は緩やかに変化していて、特に観光業の比率は大きく伸びているらしい。
紅葉が展望デッキにやってきたのは、さらに二十分ほど後だった。
しっとりとした黒い長髪に切れ長の双眸は、どこか近寄りがたい固く冷たい印象を抱かせるが、それは「付き合いの浅い人間にとっては」という条件付きのものでしかない。漆黒の前髪の奥に覗く空色の瞳に親愛の情を滲ませているのが分かる程度には、身内には心を許している。
「遅かったわね」
と、萌葱が言った。
「仕方ないじゃない。外国から帰ってきたんだもの。入国手続きって、いろいろと面倒なのよ」
「最近、ますます厳しくなったみたいね」
「そう。面倒だけど、こればかりはね」
紅葉は背筋を反らして伸びをした。
「お疲れ?」
と、東雲が聞く。
「まあね。ずっと同じ姿勢で座ってたから、身体がガチガチ。ちょっと、運動したいわ」
「言うと思った。じゃあ、次の行き先は決まりね」
紅葉の答えを聞いて萌葱が言う。
「あら、いいとこあるの?」
「ロードスタジアムが、先月こっちにも進出してね。行ってみたいなって思ってたのよ」
■
甲高い金属音を奏でて白球が舞い上がる。
紅葉が振り抜いた金属バットが時速百三十キロのボールを打ち上げた音だ。
「残念、ダメね」
紅葉は言葉とは裏腹に対して残念そうでもなく呟いた。
手元の操作パネルには、ゲームオーバーの文字が映し出されている。
ここはスポーツアミューズメント施設であるロードスタジアムの南朝日通店の中にあるバッティングセンターである。
ロードスタジアムは日本国内に百二十店舗を構えており、今年の七月についに暁の帝国にも一店舗を出店した。
暁の帝国における一号店ということで気合いが入った施設になっていて、バッティングセンターの他にもボウリング場やキックターゲット、ゴルフの打ちっぱなし、卓球、バスケットボール、スケートボードといったスポーツを楽しむことができる。
野球は暁の帝国ではマイナースポーツだ。それは野球場という野球に特化した施設を作れるほど、土地に余裕がなかったという人工島ならではの理由が大きいし、バットやグローブといった用具を揃えなければならなかったり、ピッチャーとバッター以外の動きが少なく体育の授業として成立させにくいという背景もあって、野球に触れる機会が生まれないまま今に至っていた。
それでも、暁の帝国の国民の大半はかつて日本人だったので、野球の芽がないわけではない。
野球場がなくてもバッティングセンターができれば、話題になる。競合他社もいない。そういう目算で力を入れたバッティングセンターは、とりあえずは成功と言ってもいいくらいには人が入る人気のアトラクションになった。
金属バットを籠に刺し、紅葉はベンチに腰掛けた。
「おつかれー」
萌葱が差しだしたペットボトルを受け取った紅葉は、ヘルメットで乱れた髪を整えながらスポーツドリンクで喉を潤した。
「思ったより当たらないものね」
「見てる分には簡単そうなんだけどね」
二つ隣のブースでは仕事の合間と思しいスーツ姿の男性が見事な金属音を奏でている。軽々とバットを振り抜く者がいる一方で、萌葱も紅葉も芳しい結果を得ることができなかった。
「まあ、わたしはバットに当たりはしたからいいけれど」
「あたしはそもそも運動苦手なんだって」
ふてくされる萌葱は、空振りばかりで掠りもしなかった。
残念なことに、萌葱の身体能力は吸血鬼の平均値にも届かない。その上、センスもない。バットを振る姿を見るだけで、偶然以外に白球を打ち返せる要素がないことが誰の目から見ても明らかだというほどであった。
「萌葱ちゃんは腕だけで振ってるからね。明らかに振り遅れてるし、そりゃ当たらんよ」
東雲の指摘のとおり、萌葱のスイングには棒を振っているだけで力が乗っていない。全身の連動がないのでバランスも悪い。運良くバットにボールを当てたとしても、大した飛距離は期待できない。
「そんなに言うんならお手本を見せてよ。次、あんたの番でしょ」
「いいよ。混沌界域じゃあ、ベースボールはメジャーなスポーツだからね。あっちで磨いた腕を見せてあげるよ」
ヘルメットを被った東雲がブースに入る。
ピッチングマシーンが動き出し、紅葉の時とは比較にならない剛速球が発射された。その球速は時速百五十キロ。人間のプロ野球でも、この速度を安定して投げ続ける投手はいない。もちろん、素人が打ち返すのはまず不可能だ。
それを東雲のバットは完璧に捉えた。
白球は左中間を飛んでいき、ヒットとなった。
「あいつ、本当にやりなれてるな」
「野球選手でも目指してたのかしら」
「あっちじゃ体育でもやるんだよ、野球。人気スポーツだよ。まあ、学校の敷地がこっちと全然違うってのもあるのかもしれないけどね」
二球目はホームランだ。
カーブをあっさりと見破って、しっかりと打ち返した。
「余裕ね」
「これくらいなら、人間でもできる速さじゃん」
紅葉に答えながら、東雲はバットを振る。球速を上げても、苦慮する様子は見せない。時速百七十キロを超える魔族用の剛速球も目で追ってしっかりとバットを当てに行く。
東雲が初めて空振りをしたのは、時速百八十キロを超えてからだった。
「ちょっと、ミスった」
「そこまで連続して当てられるんだから、十分でしょ」
「前は二百キロまではノーミスで行けたこともあるんだよ。また練習しよっかな」
東雲がバットを籠に入れる。
ルビーのように紅く染まっていた東雲の瞳の色が戻る。
極限まで集中力を高め闘争本能を加速させた彼女の目は、普通の人間よりも遥かに優れた動体視力を発揮する。その証として瞳の色が深紅に染まるのだ。吸血鬼ならではの生理現象である。
東雲の身体能力は吸血鬼の中でもかなり高い。
幼少期から混沌界域に渡り、特訓を重ねた彼女の基礎能力は、デスクワークを得意とする萌葱とは比較にならないのだ。
それは単純な身体能力だけでなく、能力の使い方や引き出し方といった技術も含めてである。
「瞬間的な集中力を発揮する訓練にはなるってところかしらね」
「当たり。そういう意味もあって、ちょいちょいやってたんだよね」
高速で飛んでくるボールを目で追い、バットに当てるという一連の流れは一朝一夕にできるものではない。動体視力を養い、集中力を鍛え、身体の動きをコントロールする技術が必要だ。
必要な時に必要な集中力を引き出す。
そういった能力もまた訓練によって培われるものだ。
東雲は華奢な外見の割に身体能力は非常に高く、またそれを活かす訓練を積んでいる上に、もともと運動面のセンスがあるので、萌葱とは比較ならない結果が出るのも当然であった。
「動いたら、ますますお腹減った」
東雲が腹部を押さえた。
朝食を抜いたおかげで、空腹状態が続いていた。軽めにゼリー飲料を口にしていたが、それも空腹を満たすようなものではない。
「いい時間だし、わたしは賛成だけど、萌葱は?」
紅葉は携帯端末のスリープモードを解除して時間を確認した。
正午を周り、世間的にも昼食時だ。
「もしかして、ダイエットでもしてる?」
「してるのは、ソイツ。あたしは普段からちゃんと考えて食事してるからね」
萌葱に視線を向けられた東雲は失敬なと反論する。
体重管理に一時失敗した東雲だったが、不断の努力で目標体重まで減量していた。
成長期ということもあって、エネルギーの出入りをしっかり管理すれば、あっという間に体重は戻せることが実証された訳である。
「そういえばこないだ東雲がそんな騒ぎをしてたわね。もう戻せたの」
「もともと大して増えてないからね。増加率にビビっただけだよ」
取り繕う東雲は、咳払いをして話題を逸らそうとした。
東雲だけではないが、姉妹は全員が細身の体型だ。年頃の女子らしく、スタイルの維持には全員が気を遣っている。
東雲は少し油断しただけだ。
取り返しのつくところでブレーキを掛けた。
そのおかげで体形が崩れるという悲劇を未然に防げたのである。
「で、結局どこで昼食べるのよ」
萌葱が話を戻した。
身体を動かしてエネルギーを欲しているのは萌葱も同じだ。
カロリーの話をした直後ではあるが、それはそれとして食事自体は日々の楽しみだ。久しぶりに帰ってきた紅葉もいるので、少しくらいは羽目を外してもいいだろうというくらいには気持ちが盛り上がっていた。
■
紅葉が古城に挨拶に行く時間になったため、昼食を終えて早々に萌葱と東雲は自宅マンションに帰ることにした。
東雲が昼食に選んだ大衆食堂は、どちらかと言えば体育会系の男子高校生が好むタイプの店で、イマドキの女子高生の選択肢にはあまり入らないところだが、東雲はこういう店がむしろ好みのようで、帰国してからというものラーメン屋とともに、暇を口実に色々と開拓しているようであった。
妹が行くというから付き合った萌葱と紅葉だったが、これには少々戸惑いを隠せなかったし、東雲が選ばなければ、まず暖簾を潜ろうともしなかっただろう。
萌葱ならばお洒落なカフェを選んだだろうし、紅葉であれば多少の出費を覚悟して高級感のあるレストランを選んだだろう。
東雲がこういった食事を好むのは、本人の性格もあるが、「混沌界域にはない故郷の味」を実感するからであった。
マンションに戻った二人が向かったのは、凪の家だった。
凪は零菜と麻夜と一緒に出かけていて不在だが、空菜は家にいる。いつもよりも賑やかなのは、紗葵と瞳、夏穂も揃っているからだった。
暇になれば一カ所に集まって駄弁る。しかし、自分の部屋は年頃なので姉妹だろうと入れたくはない。そういう事情で、自然と凪の家に集まることが多くなっていた。
「騒がしいわね」
瞳と夏穂がリビングを走り回っているのを見て萌葱が呟く。
「さっきまで昼寝してたんだけどね。まあ、そのうち静かになるでしょ」
答えたのは紗葵だ。
机に頬杖をついて携帯端末を眺めている。
「ところで、お二人は紅葉さんを迎えに行ったんでは?」
ソファに腰掛けていた空菜が振り返る。
瞳が空菜の傍に駆け寄って、その上半身によじ登り始めたが、注意するでもなく自由にさせている。
「紅葉は古城君のとこ行ったよ」
「ああ、そうですか」
空菜にとって、それは重要な情報ではなかったのだろう。紅葉に触れることなく、肩に足を掛けた瞳を掴まえて抱き抱えた。
「そのままくすぐっちゃえ」
「了解」
紗葵の提案を受けて空菜が瞳の脇をくすぐる。
「はぎゃー! やあ、やーめーてー!」
瞳は身悶えして空菜の膝から転がり落ちて、逃げるように夏穂のところに走っていく。
「落ち着きないですね」
「あんなもんだよ、あの年頃は」
「そういうものですか」
東雲の答えに空菜は色のない視線を瞳と夏穂に向ける。しげしげと幼女を観察する空菜には、あの二人の言動が不思議に見えるのかもしれない。
空菜には子どもの時期が存在しない。人工的に生み出された彼女からすれば、瞳や夏穂の言動というものは、理解も共感もできない不可思議なものでしかなかったのだ。
昼間に元気に走り回っていた幼女二人が疲れ果てて眠りに就いた頃からがお楽しみの本番だ。
誰の親の目もない家の中が一番自由に羽目を外せる。他人の目もない。姫という立場がついて回る外は、なんだかんだ気にすることが多くて気疲れするのだ。
自家製ピザを口に運んだ東雲は、幸せそうに相好を崩す。
「これ美味い。やっぱ、ベーコン多めに入れたの正解でしょ」
「野菜食べなよ」
「分かってるって。萌葱ちゃん、人のことばっか気にしてるとなくなるよ」
「分配ってのがあるでしょうが」
作ったのは五種類のピザだ。
姉妹で具材を持ち寄り、闇鍋風にトッピングして焼いたのである。
「海獣のスライスハムピザ、悪くないわね。海獣が何なのか分からないけど」
紅葉が食べたのは巨大なハムをチーズの上に乗せたピザだ。ハムの直径は三十センチ近くはあり、一枚でピザをまるごと覆えるほどであった。
「紗葵、海獣って何肉?」
「えー、確か、シーホースじゃなかったっけ」
「もとはジビエか何かかしら」
紗葵が持ってきた「海獣のスライスハム」は、紗矢華が知人からもらってきたものだ。
原料となったシーホースは海上に暮らす低級の魔獣で、縄張りに入ってきた船を攻撃することがあるので、駆除の対象になることがある。
とはいえ、駆除の件数自体は多くなく、市場価値も低いため、その肉が出回ることはほとんどない。駆除した業者が経営するジビエ料理店や通販で入手するくらいしかないものだ。
「そういえば、霧葉さんはどうしてるの?」
と、東雲は紅葉に尋ねた。
「さあ?」
「さあって」
「親が何してるかなんて興味ないわよ。お父様に挨拶した後は別行動だもの。夫婦水入らずに口を挟む気はないわ」
日本で暮らしている霧葉は暁の帝国で暮らす他の皇妃に比べて古城との接点が少ない。そのため、帰国した時には、「気を遣う」ことになっているらしい。これは同じく日本で暮らす唯里にも当てはまる暗黙のルールだ。
そして、さすがに高校生になって親がいちゃついているところに同席したいとは思わない。
紅葉にとっても親子で一緒に過ごす機会は滅多にないことだが、それはそれとして気恥ずかしさのほうが勝るのであった。
その時、五人の携帯端末が一斉に鳴った。
それぞれ別々の通知音だが、内容は同じだ。
メッセージアプリの姉妹のグループに投稿があったのである。
それは麻夜からのメッセージで、ブルーエリジウムのコテージでバーベキューをしている自撮り写真付の投稿だった。
麻夜の背後には凪と零菜、そして依頼主の千咲が映っていて、楽しげに肉を食べていた。
「なんだこれ自慢か?」
東雲が口にした言葉と同じ文言で返信する。
「ブルエリわたしも行きたかったなー。しかもコテージでお泊まり。姉さんたち役得すぎでしょ」
紗葵も唇を尖らせて、お土産を強請る投稿をした。
空菜は「お疲れ様でした」と一言呟き、萌葱と紅葉も当たり障りない反応を返す。
「ブルエリのコテージって、評判いいよね」
紗葵はよほど羨ましいと思っているのか、麻夜と零菜が送ってきたコテージの写真を眺めている。
「ブルエリの中に泊まれるんだし、そりゃね」
「あの三人、今日はそこに泊まるんでしょう? 大丈夫なのかしらね」
ブルーエリジウムのコテージは普通はキャンセル待ちになるほど夏休み期間中は例年争奪戦になる。そこに零菜たちが宿泊できたのは、今年のブルーエリジウムはリニューアルオープン前で、一般の客がいないからである。
コテージ内はいくつかの部屋があるから、まさか同じ部屋で寝るということはないだろう。
しかし、年頃の男女が一つ屋根の下というのは、如何なものか。
「凪君だし、大丈夫でしょ」
萌葱がウェットティッシュで指を拭きながら答える。
凪が積極的に零菜や麻夜に手を出すとは思えない。生まれた頃から凪の気質は二人との関係を知っているので、そこを不安には思わない。
「凪君はそうかもしれないけど、一緒にいるのは零菜と麻夜よ? 萌葱と東雲じゃあるまいし」
「ちょっと待ちなさい。最後のいる?」
「名誉毀損も甚だしいんだけど?」
萌葱と東雲が 口々に紅葉に抗議の意を示す。
「わたしも萌葱ちゃんも吸血経験者だからね? 紅葉ちゃんはどうなのよ」
「わたしだって吸血くらいしてるわよ」
「へえ……! え、誰?」
東雲が身を乗り出して紅葉に問う。
紅葉は日本で生活していて暁の帝国には一年に数回しか帰ってこない。凪の血を吸ったという話は聞いたことがないので別の誰かということになる。
萌葱も紗葵も、興味深そうに紅葉に視線を向けた。
「別に大した話じゃないけど、ルームメイトと後輩の二人ね。可愛い娘よ」
「何だ女子か」
「いいじゃないの。将来的には誰かしら血の従者になってもらう人を探さないとダメなわけでしょう?」
「その娘たち候補ってこと?」
「さあ、どうかしら」
少しだけ笑みを浮かべて紅葉は嘯く。
どこまで本気か分からないが、血の従者の問題は姉妹の誰もが将来的に直面する課題ではある。異性で恋人であれば血の伴侶等とも呼ばれるが、実際は性別に関わりなく血の従者にすることは可能だ。
永遠を共に生きることになるうえ、絶対服従が課せられるという重すぎる契約を引き受けてくれる相手となると限られるが、一国の姫が血の従者を持たないというのも、それはそれで外聞が悪い。
とある吸血鬼の貴族は、百を超える血の従者を抱え、強力な血の従者の軍団を組織しているというくらいで、血の従者は古い吸血鬼ほど、感情を抜きにして戦力、あるいは富貴の象徴として重視しているのである。
そうなってくると、第四真祖の第二世代という重要な地位にある萌葱たちも、いつかは誰かを血の従者とすることになるだろう。
本人が望まなくても、周囲が放っておかない。
彼女たちはそういう立場の吸血鬼なのだ。
「まあ、それはそれとして、確かに零菜ちゃんと麻夜ちゃんだもんなぁ」
と、東雲は不意に話を戻した。
「大丈夫でしょ、さすがに」
萌葱はそういいつつ表情に影が差す。
「零菜姉さんは、ラッキースケベ王だし、麻夜姉さんは最近なんかちょっと雰囲気変わったよね。凪はいつもの調子だけどさ」
姉の話に耳を傾けていた紗葵が横から口を挟む。
若干辛辣なのは年頃の所為もあるだろう。基本的には親愛の裏返しだ。
「零菜は置いといて、麻夜は確かにね」
「方向性変えてきたよね。高校デビューってヤツ」
「麻夜はわたしも驚いたわ。久しぶりに会ったら、ずいぶんと雰囲気変わっていたもの。何かあったのかしら?」
かつての麻夜はボーイッシュな雰囲気だった。装飾品を身につけることもなく、服装も中性的な格好を好んだ。
ところが、最近の麻夜は髪を伸ばして、お洒落にも気を遣っているように見えた。
雰囲気の大幅な転換は、従前の麻夜とのギャップが大きく、他者には強い印象を焼き付ける。
高校入学と同時に印象や生活習慣を変える者はどこにでもいるが、麻夜はその中でも特に顕著に、意識的に変えてきたと言えるだろう。
「最近の麻夜はなぁ……」
「油断ならんとしたら、麻夜ちゃんじゃないかな……万が一、凪君の血を吸うとしたら、可能性が高いのは、麻夜ちゃん」
「まあ、零菜姉さんもその場の雰囲気次第じゃ大胆なことする人だし、怪しいっちゃ怪しくない?」
「結局、どっちもギルティってことですね」
空菜の総括に全員が揃って首を縦に振った。
■
ブルーエリジウムで夏を謳歌する零菜たちに対抗するように、萌葱たち残留組も一夜を楽しもうと決めた。半ば当てつけではあるが、こちらは紅葉が帰ってきたという大義名分があった。
凪宅の押し入れの中には、レトロなボードゲームが押し込まれている。祖父が子どもの頃から使い続けてきた年代物もある。
紅葉が日本から持ち帰ってきた貰い物のコスプレ衣装を着ることを罰ゲームとして、人生ゲームやダイヤモンドゲームに興じた。
コスプレの衣装は全員分が用意されていた。
ゲームの回数にも制限はない。
つまり、勝ち負けによらず最終的には全員が何かしらの衣装を身につけることになるのが、最初から決まっていた。
着用する衣装はくじで引き、袋を開けるまで中は見えない。
負けた時、どんな衣装を着ることになるか分からないので、緊張感が生まれた。
序盤の人生ゲームでビリになった空菜がメイド服を着ることになったのを皮切りに、紗葵が大正時代のハイカラな着物と女袴を引き当て、萌葱がナース服、そして紅葉が婦警の制服を着ることになった。
「紅葉さあ、妙に似合ってるね」
「あらそう? 萌葱にそう言われるの、嬉しいわ。逮捕したくなっちゃう」
「なんでよ。手錠を回すな、危ない」
妖しく微笑みながら付属の手錠を指で回す紅葉から萌葱は距離を取る。
コスプレなのは見ての通りだが、紅葉の大人びた雰囲気と婦警の衣装の噛み合い方が絶妙だ。
「それを言ったら萌葱もすごいわよ」
「ナース服が?」
「ええ、とても似合ってる。本当に、本物そっくりのナース服なのにコスプレ感がすごいのがすごいわ」
「失礼ね。というか、そもそも好きで着てるんじゃないわよ!」
萌葱がソファの上のクッションを紅葉に投げつける。
紅葉はクッションを受け止めて、くすくす笑っている。
「あたしも紗葵みたいに可愛いのがよかったわよ」
「これって当たりだよね、多分。綺麗だし」
紗葵がひらひらと袖を振る。
黒を基調とした着物には桜の花弁が舞っている。袴はシンプルに紺色一色であり、コスプレと言いつつも、式典でも着用できそうなデザインだった。
可愛いし綺麗だが、罰ゲームのネタとしては弱い。
一人目の空菜が、ミニスカメイドというコスプレの王道だったこともあり、紗葵としては複雑な心境だった。
「東雲さん、遅いですね」
空菜が呟く。
吸血パックから直接血を啜りながら、自分の部屋のドアに視線を向ける。
最後の敗者である東雲が空菜の部屋で着替えているのである。
「どんなコスなのよ?」
「知らないわよ。わたしも開けたことないもの」
萌葱の問いに、しれっと紅葉が答えた。
コスプレ衣装を用意したのは、紅葉のルームメイトだ。
何とかして紅葉に着せようと画策したらしいが、暁の帝国に同行できなかった彼女は紅葉のコスプレを目にすることはできなかったのである。
「空菜、さっきから何飲んでんの? 人工血液……でも、なんか違うような?」
萌葱は空菜の吸血パックに視線を向ける。
「凪さんの血の予備です」
「凪君の血!」
「はい。念のためにと凪さんが用意してくれている冷凍血液。わたしは、まだ吸血が必要なので。一応」
空菜は主と認めた相手から吸血しなければならない特殊体質だ。不死の呪いで克服しつつあるものの、まだ凪の血を身体が求めている。凪が長期間空菜の元を離れる時のために、凪は定期的に血を保存していた。
「そ、そういうのがあるのね。知らなかったわ」
「冷凍庫にけっこう入ってるのかしら」
萌葱と紅葉は興味津々といった様子で空菜を見る。紗葵も無言で空菜の手元に視線を向けている。吸血鬼ならば凪の血を欲するのは自然な反応だ。
「あまりならありますよ」
「ほんと?」
「はい」
空菜は頷く。
「どの道、長期保存できないので、消費する必要はありますから」
そう言った空菜は冷凍庫から吸血パックを人数分取り出した。
凍り付いた赤黒い血がパンパンに詰まっている。
人工血液だと何も感じないが、それが凪の血だと言われると思わず生唾を飲んでしまう。
萌葱も紗葵も凪の血の味は知っている。紅葉はまだ凪から血を吸っていないが吸血経験があるので、血を味わう快楽を覚えている。
ベストは相手から直接血を吸うことで、それに勝るものはない。
人工血液は味気ないし魔力も篭っていないので、まだ不味い。
「解凍は常温?」
「常温からレンチンでもいいですけど時間がかかるので、だいたいお湯で戻しますね。熱しすぎるとダメになるので、そこだけ気をつけて」
鍋に水を入れて吸血パックを浸して火に掛ける。
空菜が血の解凍をしている間に、東雲が空菜の部屋から出てきた。
羞恥心に顔を真っ赤に染めているのは、衣装の所為だろう。
「あははははははあはは、何その格好!」
萌葱は思わず吹き出した。
「うるさい! なんで最後の最後にこんなのが残ってるのよ!」
「知らないわよ。くじ運がなかったんじゃなくて?」
「くう……!」
東雲の格好は肌面積の多いビキニ風だ。動物をモチーフにしたんだろうか。もふもふとしたボア生地を紐で繋いでいる。
昔、日本のオタク界隈で流行ったデンジャラス・ビーストというコスプレだという。
「東雲姉さん、それ、ほとんど紐じゃん」
「狙いすぎでしょ、可愛いけど。いや、ヤバいな、それ。写真とっていい?」
「いいわけないでしょ! ねえ、これ脱いでいい?」
萌葱に抗議しながら東雲は紅葉に尋ねる。
「ダメよ。一日その格好ってルールじゃないの。どうせ、暑いし、涼しい格好でいいんじゃない?」
「いいわけあるか!」
約束は約束だ。
東雲の抗議が通ることはなく、東雲は投げやりにソファに腰掛ける。
「東雲さんも、血、いりますよね?」
「血?」
「凪さんの予備の血。今、解凍したんですけど」
「凪君の? マジ? いるいる」
東雲は機嫌を取り戻した。
空菜から吸血パックを受け取り、口を開ける。
各々が吸血パックから血を啜る。
吸血鬼の家庭では、時折見られる光景ではある。
「うーん、悪くない。人工より全然いい」
というのは萌葱の評価だ。
「生のほうがいいけど、凪の血って感じ。ちょっと、魔力が抜けてるのが残念だけど」
紗葵も血を舌の上で転がして分析している。
頻繁に凪から血を吸うわけではないが、何度か血を吸っているので違いが分かる。
「紅葉はどんなん? あたしたちは凪君の血しか知らないんだけど、あんたとしては」
「いいわね。言葉にするのは難しいけど、魔力もしっかり残ってるようだし、身体に染み込んでくる感じもある。これで冷凍保存で何日かしたものだっていうのなら、人工よりずっといいに決まってるわね」
もちろん、最もいいのは凪から直接吸血することだ。
魔力の無駄もないし、人肌の温かさもある。凪自身の体温も息づかいも匂いも感じられるので、単純に血を味わうだけでは得られない多幸感が一緒に押し寄せてくる。吸血パックの血液だと、そういった肌の温もりがないので物足りなく思えるのだった。
一通りボードゲームをやり尽くし、乱雑に広げた駄菓子を適当に啄みながら紅葉は紗葵と雑談をしていた。
姉妹全員で一緒にゲームを楽しんでいたかと思えば、飽きればそれぞれがバラバラに活動し始める。堅苦しいことは何もない、自由気ままな空間は気を張る必要もなく楽だ。
紅葉は普段から気を引き締めて生活しているというほどではないが、日本では全寮制の所謂お嬢様学校に通っている。
授業は難解で進みが早く、校則も厳しい。二昔くらい前の時代の空気感が漂っているとすら皮肉を込めて評価されるくらいの化石染みた学校だ。
それを苦に思うことはないが、こうして実家に戻ってくると羽を伸ばすという言葉の意味が実感できる。
ダイニングチェアに腰掛けて頬杖を突いている紅葉は、視線を壁掛けのテレビに向ける。
鮮やかな100インチモニターは、紅葉の寮の部屋に備え付けられているテレビとは比較にならない高画質かつ高音質だ。
テレビと紅葉の間にはソファがあって、萌葱と東雲が並んでドラマを見ていた。
放送されているのは日本のドラマだ。
近年希に見る高視聴率をたたき出した有名ドラマで、暁の帝国では半年遅れで放送されている。
青春恋愛ドラマで、原作は少女漫画だ。
焦れったい恋愛模様に、十代を中心に高評価を得ていると話題だ。二期の制作も決定しているらしい。
そんな恋愛ドラマは、今まさにクライマックスシーンを迎えていて、主人公がヒロインに勇気を振り絞って告白したところであった。
「きゃーー!」
黄色い歓声とはまさにこのことだ。
萌葱と東雲が抱き合いながらドラマに魅入っている。
「言った言った」
「あれ、いい。あの後ろからのヤツ」
「分かる。イケメンにあれされたい」
「後ろからぎゅって」
「ねー」
東雲と萌葱が口々にドラマの展開に語り合う。
彼女たちにとっても、このドラマはずいぶんと琴線に触れたようで、毎週必ず視聴しているのだ。
主人公がヒロインを後ろから抱き締めて告白するシーンは、それまでの十話の積み重ねもあり、満を持しての告白というだけあって、ずっと応援してきた視聴者を満足させるものだ。
「楽しそうね、あなたたち」
「紅葉はこれ見てないの?」
「ルームメイトが見てたわね。わたしも見てたけど、あまり印象に残らなかったわね」
萌葱の問いに紅葉が答える。
「日本でもけっこう流行ってたんでしょ」
「そうみたいね。真剣に見ると面白いんでしょうけど、最近ドラマを見続けるエネルギーないのよね」
「年寄りみたいなこと言うね」
「失礼ね。あなたより年下よ?」
「一ヶ月くらいしか離れてないでしょ!」
萌葱の抗議を笑って受け流す紅葉は、皿の上のチョコレートに手を伸ばす。
一年で数日しか過ごすことのない実家だが、こうして戻ってくると、毎日ここで生活しているかのような安堵感がある。
気心の知れた家族の中ということもあるのだろう。
学校の友人が悪いわけではないが、どこかしら姫ということで壁を作ってしまっている部分もある。
その点、萌葱たちは全員が同じような立場であり、血の繋がった家族だ。
あまり意識していないが、どうもこの違いは大きいようで、紅葉自身、いつもよりも気分が高揚していることを自覚していた。
この調子で全員が夜更かしし、凪たちが帰ってくるまでコスプレしたまま過ごしていたのだった。
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