二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間《お化け屋敷編4》

「いやー、助かったよ。ほんと、ありがとうね」

 お化け屋敷に巣くう悪霊退治が終わったという報告を受けた千咲は、にこやかに凪の背中を叩いた。凪と千咲は、同じ小学校出身で面識はあるが、中学校に上がってから進路は別れ、それっきりだ。今日は三年ぶりの再会になるのだが、そうとは思えないフレンドリーさである。昔から誰とでも仲良くなれる明るい性格だったのだが、それは今でも変わりないようだ。

 お化け屋敷の事務室には、凪と千咲の二人がいる。零菜と麻夜は、自動販売機で飲み物を買うために席を外したところである。

「で、結局、悪霊の正体は何だったの?」

「あー、なんて説明するのがいいのかな……彼女が欲しかった男の残留思念の集まり?」

「何それ、マジな話?」

「マジ」

「えー、それでうちのお化け屋敷に居着いたの? そんな理由で?」

「まあ、残留思念だからなぁ。常識的な考えなんて持ってないし。あれは感情の塊が魔力で形を取ったもんだから」

「んー魔術の理屈とかはよく分からないけど、それだったら昏月君を呼んで正解だったねえ。ダブルお姫様の両手に花だもん。彼女欲しさに悪霊になるようなのからしたら、出て行かずにはいられないでしょうよ」

 零菜も麻夜もとびきりの美少女だ。

 まだ見た目は若く幼さを残しているものの、将来的には極めて優れた器量の女性になることは明白だ。同年代の男子からすれば、お近づきになるだけでも羨望の対象となる。

「ぶっちゃけ、うちの男子たちだって、このこと知ったら黙ってないよ。間違いなく呪詛る」

「呪詛って」

「まあ、零菜も麻夜も、学園トップのお嬢様な訳だしね。容姿端麗なガチお姫様だよ。そりゃ、みんなのアイドルにもなるよ。席替えの時に隣を引けるかどうかは、かなり大きいみたい」

「そりゃ、まあ、そうだろうな」

 零菜か麻夜の隣に一日座っていられるわけだから、彼女たちの隣の席というのは男子からすれば魅惑の座席になる。

 そんな学園のアイドル二人を侍らせてお化け屋敷に入っていくというのは、彩海学園の男子にとっては殺意すら抱きかねない暴挙だ。

「実際、昏月君は去年さらっと呪詛られてるわけだし、月のない夜は背中に気をつけたほうがいいかもよ」

「去年? 俺、なんかしたっけ」

 一年前の凪は大忙しだった。大半が暁姉妹に関わる揉め事で、時に命を張る場面もあることが何度もあった。人生でここまで事件が頻発する年は今後ないだろうというほどの大事続きの一年だったのは確かだが、その中で彩海学園の生徒から恨みを買うことはなかったはずだ。

「はろういんフェスタで、零菜と麻夜の約束をすっぽかしたヤツがいるらしいって、一時期噂になったんだよ。誰かまでは知られてないけど、それがどうも他校の男らしいぞって」

「あれは別にすっぽかしたわけじゃないんだけど」

 凪は渋い顔をした。はろういんフェスタ当日、凪は空菜の魅了を受けて自由を失っていた。零菜との約束を守れなかったのは事実だが、事情があるのだ。

「あれ、本当に昏月君なの?」

「本当にって言われても、彩海の中でどう噂されてたか分からないからな」

「零菜が連絡取る男子なんて昏月君くらいだから。それに、ほら、あの日は零菜も大分ぷりぷりしてたし。絶対許さない。全部血抜いて、飲み干してやるって息巻いていたくらいだ、きゅ!?」

 千咲の背後から伸びた手が、彼女の首に絡みつきスリーパーホールドを極めたのだ。

「誰が誰の血を飲み干してやるって?」

「げえ、零菜、いつの間に」

「人がいないのをいいことに適当なこと言わないでくれる? 千咲ちゃんの血から抜くよ?」

「悪かったって、ごめんごめんって」

 千咲は零菜の腕をタップし、降参する。

 解放された千咲は自分の首元を擦る。

「危なかった。わたしの首ついてる?」

「バッチリ」

 大げさに心配するような表情を作った千咲が凪に尋ねてくるので、頷いておく。

「よかった。もげるかと思った、もげるかと。後、背中も」

「背中?」

「お山の自己主張がすごかった。知ってる? あの娘、最近サイズがあがきゅ!?」

 零菜が慌てて千咲の放言を食い止めるべく、再びスリーパーホールドを仕掛ける。今回は腕だけで絞めている中途半端な姿勢だ。千咲の発言を気にして、胸を押しつけないような体勢にしているのだ。

「れ、零菜、これガチ極まってるんだけど」

「凪君に変なこと吹き込もうとしたでしょ!」

「ジョークだって、ほんとに」

 千咲は、両手を挙げて二度目の降参をする。

 普段、零菜が家族以外と過ごしているところを見ることはないので、こうしてじゃれ合っているところを見るのは新鮮だ。

「この二人はいつもこうなのか?」

 零菜と一緒に戻ってきた麻夜に尋ねる。

「そうだね。ずっと、こんな感じだよ」

「変わってないんだな」

 小学生の時も零菜と千咲はよく一緒にいた。教室で走り回っていることもあれば、机の上で折り紙やら落書きをしていることもあった。凪が千咲と会ったのは久しぶりだが、零菜は毎日のように顔を合わせていて、関係性はかつてとみじんも変わることなく続いているのだ。

 零菜の拘束から抜け出した千咲は、駆け足で素早く麻夜の背中に隠れる。

「わたしを盾にするなって」

「いいじゃん、わたしと麻夜の仲でしょ」

「友人の過ちを正すのも、大事な仕事だよね」

「あ、ちょっと、裏切るの!?」

「これは裏切りじゃない。正しいことなんだよ」

 麻夜は千咲をむんずと掴んで、引っ張り、零菜に差し出す。両手をわきわきしながら零菜は千咲に迫った。

「くくく、いよいよ年貢の納め時だね、千咲ちゃん」

「お姫様がそういうこと言うのはよくないと思います。うちはちゃんとした納税者だぞ」

「マジレスはいらないんだよ」

 零菜が千咲に襲いかかる。吸血鬼の腕力に物を言わせて、というわけではもちろんなく、細くしなやかな指を用いたくすぐり攻撃だ。乙女らしからぬ声を出して千咲を身を捩って暴れる。

 五分ばかり続いた攻防は零菜の圧勝に終わった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 ブルーエリジウムが保有するコテージには、すべて十数人が一堂に集まって飲み食いできるだけの広さの庭が付属している。凪たちに貸し出されたコテージもその例に漏れず、綺麗に刈り揃えられた芝の上に設置したバーベキューコンロからは食欲をそそるいい匂いが立ち上っている。

 太陽がビルの向こうに沈んでいく。夏の暁の帝国は、日が暮れてからも気温が高く、蒸し暑いのが常である。強烈な日差しに焼かれた人工の大地は、次の日の朝まで熱を持ち続ける。その点、ブルーエリジウムは都会のまっただ中にありながら、全体的に気温が低い。水をメインに扱うアミューズメントパークは、避暑地として利用できるところを全面にアピールしており、キャンプエリアは本物の樹木を植えて、里山風の空間を演出している。最新のヒートアイランド現象対策と自然の緑と水を使った憩いの空間こそ、新しいブルーエリジウムの目指す新境地である。

 コテージの庭側にはドライミストの散布機が設置されており、風のない夏夜でも涼やかな空気を作ってくれる。

 とはいえ、それもバーベキューコンロの前ではまさに焼け石に水だ。

 コテージに背を向けてコンロの前に立つ凪の背中は確かに涼しいが、前は焼けるような熱がある。コテージのある森で拾ってきた枝葉を燃料に、ファミリー向けのキャンプができるのも売りの一つである。

 例年、連日満員御礼のキャンプ施設も、プレ営業中の今は誰も利用者がいない。凪たちが急遽、ここを利用させてもらえたのも、もともと利用者がいなかったからである。

 周りに気兼ねすることなく、思いっきりバーベキューを楽しむにはいい環境が揃っている。それをむざむざと放り捨てることはできない。そこで、千咲が発起人となり、四人でバーベキューをすることになったのだった。

 お化け屋敷に取憑いていた悪霊を退治したことで、予定通りに開場することができる。

 その報酬として、コテージと庭を自由に使えることにしてもらったのだ。

「肉、肉、肉、うん、美味しい」

 零菜は串に刺さる牛肉の塊にかぶりつく。一般のバーベキュー用の肉よりも大ぶりな塊だ。

「これ、けっこういいお肉だったりして」

「さすがお姫様、舌が肥えてますねー。実はエリュシオンと相談して融通してもらった、最高級の広野真牛なんですよ」

「あからさまにいいお肉だって分かるじゃん。こんなしっかりした肉持ってきたらさ。でも広野真牛って、有名なヤツ。初めて食べた」

「そりゃ、よかった。じゃんじゃん食べてよ。悪霊がいなくなってくれたから、うちはもう万々歳! それにしても、美味いなこの肉!」

 千咲も塩胡椒をかけてバーベキューを堪能している。暁の帝国が誇る最高級の牛肉が広野真牛だ。酪農研究地区に指定されている広野地区で生産される牛で、国内市場では最高価格がつく。ブルーエリジウム内の老舗ホテルエリュシオンは、この広野真牛のステーキを取り扱っていて、千咲の実家が交渉して、肉を譲ってもらったのであった。

 一般家庭ではまず手が届かない高級品。極力、一般常識の範囲内に支出を抑えている暁家でも、それは同じだ。これほどの贅沢品を味わえるのは、それこそ「姫」として参加するパーティくらいしかないだろう。

「なんか、むしろ申し訳ないな、こんな肉まで用意してもらって。あの悪霊とこの肉じゃ、釣り合い取れないんじゃないか」

 牛肉を囓る凪は、その柔らかく、それでいて歯ごたえのある肉の食感と味わいに感激する。食べ物の善し悪しが分かるような生活をしているわけではないが、スーパーで買ってくる安い牛肉とは味も食感も違うということが一口で分かった。まったくの別物だ。

「昏月君がいなかったら、もっと悪いことになってたかもしれないし、これくらい当然当然。それに、お姫様が二人も来てくれてるんだしね。うちとしても、ちゃんとお礼はしておかないとね」

 悪霊が今日のレベルならば、大した問題は起きないだろう。あの悪霊にできることは、それこそちょっとした恐怖体験をさせることと体調不良を起こすくらいのものだ。しかし、それでも本物が危害を加えたということが公になれば、管理責任を問われるのが常識である。後々の営業にも支障が出るので、コントロールできないリスクは早急に対処しなければならない。

 一日で、さしたる損失もなく悪霊を退治できたのは、お化け屋敷の経営者にとっては僥倖だった。高級な牛肉を振る舞う程度の支出は、攻魔師に正式依頼することに比べれば格安だ。今は眠らせているだけのコテージを使ってもらうのも、試運転を兼ねると思えばむしろプラスであろう。

「零菜、ほら、ピーマン焼けたよ」

 麻夜が火の通ったピーマンが刺さる串を零菜の取り皿に置いた。

「いや、わたしピーマンは……ちょっと、これピーマンしか刺さってないじゃん」

「苦手を克服するいい機会だよ」

「わたしは肉が食いたいんだけど」

 渋い顔をする零菜。高級牛肉の刺さった串ではなく、どうして苦手なピーマンの串を取らなければならないのか。それも、肉やタマネギ、カボチャ等が交互に刺さっているのならまだしも、ピーマンしか刺していない串だ。これは、嫌がらせ以外の何物でもない。

「野菜が大分残ってるから」

「だからってピーマンオンリーにしなくていいよね!?」

 当然の反抗を示す零菜を麻夜は笑って受け流す。序盤で肉を中心に食べたものだから、用意していた野菜の消費が滞っていた。

 どの野菜も艶があって、ほどよい甘みを感じる出来のよいものだ。廃棄するというのはあり得ない選択肢である。

「まあ、ほら、最後は男の子がいるから、大丈夫」

 千咲が凪の背中を叩いて言う。

「残飯処理は任せろ」

「それでこそ、男や。もったいないからね、はい」

「だからって野菜ばかり押しつけてくるなよ」

 千咲はトングで焼けたカボチャやタマネギを凪の取り皿に放り込んでいく。凪は別に野菜嫌いではないが、決してベジタリアンというわけではない。身体を作る大切な蛋白質を摂取しない理由があろうか、いやない。まして、そこにあるのは日常では味わえない高級肉だ。残飯処理に否やはないが、だからといって今肉を食わない理由はない。

 

 

 

 バーベキューで腹を満たした後は、夏の恒例行事とも言うべき花火を楽しんだ。都市部では花火ができる場所は限られている。ブルーエリジウムは、広大な敷地を活かして、都市部ではできない遊びができるファミリー向けの事業展開を視野に入れているらしく、千咲の実家も参入を企図しているようだった。

 せっかくの夏休み。明日、学校に行かなければならない予定もないのだからと、そのまま使わせてもらえることになった。

 ルームサービスのように、管理事務所に連絡すれば、ピザやラーメンなどの夜食を注文することもできるし、雑貨もカタログから選んで購入することができる。こうした基本的なサービスは、凪たちにも適用される。

 しかし、一頻り遊んで、たっぷり食べた後はすっかり疲れてしまっていた。千咲は家に帰り、凪と零菜、麻夜の三人はそのままコテージに泊まった。夜も遅く、そろそろ寝るというところで、どこで寝るのかという問題で一悶着があった。ファミリー向けのコテージの寝室は一つしかなかった。ベッドこそ足りていたが、同じ部屋で寝るのは避けるべきではないかと凪は固辞した。もう高校生になったのだし、零菜も麻夜もずいぶんと魅力的になった。過ちを起こさない保証はなかった。幸いなことにリビングには身体を横たえるのに十分な大きさのソファがあった。凪はそこで夜を明かすことにした。

 凪はソファに寝そべり、タオルケットだけをかけて寝た。木々に囲まれたコテージに都会の喧噪は届かない。街中にありながらも、静かで暗い夜を過ごすことができる。秋になれば、虫の声を聞きながらキャンプを楽しむこともできるらしい。暁の帝国の中では、ここまで自然が豊かな場所は珍しい。

 意識が闇に落ちる間際、冷蔵庫が唸る音に引き上げられる。閉じた瞼に、光が当たり、凪は薄らを目を開ける。

「あ、ごめん、起こした?」

「麻夜?」

 麻夜が冷蔵庫を開けていた。

「何か、食べんの?」

「そこまで食い意地張ってないよ」

 むすっとした表情の麻夜は、ペットボトルを冷蔵庫から引っ張り出した。

「喉が渇いたから、ちょっと飲もうと思って」

「ああ、そう」

 無理矢理、目覚めたからか頭が働かない。

「ここ暑くない? 何で冷房入れてないの?」

「入れてたはずなんだけどな……」

 確かに、いつの間にか冷房が切れている。タイマー設定を間違えたのかもしれない。寝汗でシャツが張り付く感じがする。キッチン部分の明かりが部屋の唯一の光源だ。その光を頼りに掛け時計を見ると、時刻は午前三時となっている。

「凪君、水いる?」

「もらう」

「何がいい? ウーロン茶と煎茶と麦茶……」

「麦茶で」

「了解」

 氷を入れたグラスを麻夜が持ってくる。冷たい麦茶が注がれたグラスは結露していて、すでに雫が付いていた。

 凪は麦茶を一気に飲み干すと、かき氷を食べた直後のような頭痛を感じて小さく呻く。

「どしたの?」

「キーンってなった」

「冷たいの一気飲みするから」

 麻夜は相好を崩した。そして、身体を起こした凪の隣に腰掛けた。

「アイスクリーム頭痛って言うらしいよ、それ」

「美味そうな名前の割に、けっこうキツいんだが……」

 痛みが治まるまで一分もかからなかったが、それでも辛い時間だ。もちろん、これ以上の痛みなどいくらでも経験してきたが、それはそれ。痛いものは、どうあっても痛いものだ。

 麻夜は一気飲みはせず、グラスを数回に分けて傾け、ウーロン茶を空にした。

 ソファの前にあるガラステーブルに、氷だけが入っているグラスを置いた。リモコンを操作して、クーラーの電源を入れた。

 隣に座る麻夜を見る。凪の視線に気づいて、麻夜は怪訝そうな顔をした。

「何?」

「髪、どこまで伸ばすんだ?」

「そうだね。どうしようかな。試しに伸ばしてみたけど、どこまでってのは考えてなかった」

「そういうもん?」

「まあ、気分だよね。何か、変?」

「いいや」

 凪は小さく首を振る。

「髪、留めてないの、久しぶりだと思っただけ」

「寝るときは髪留めないよ。……ほんとに変じゃない?」

「変じゃない。むしろ、新鮮。麻夜はずっと髪が短かったってのも、あるけどね」

「ふぅん、ちなみに長いのと短いのはどっちがいい?」

「どうかな。麻夜はどっちも似合うからな……」

 凪の頭が揺れる。強い眠気で頭が働かないのだ。うっかり寝落ちしてしまいそうだった。

「眠そうだね」

「三時過ぎてるからな」

 凪は夜更かしするタイプだが、さすがに三時まで起きていることは希だ。まして、さっきまで寝ていたのだから身体も頭も付いてきていない。

 そんな凪の頬を麻夜は指でつつく。

「何?」

「何となく?」

「何だよ」

 凪は大きく欠伸をした。

「じゃ、わたしも寝ようかな」

 麻夜はソファを下りて立ち上がった。場所が空いたので、凪は足を投げ出してクッションを肘掛けに立てかけて枕にする。

「おやす、み?」

 しょぼしょぼする凪の目を、紅い瞳が覗き込んでいた。麻夜が凪の傍にしゃがみ込んだのだ。

「ねえ、今日、誰か凪君の血を吸ったりした?」

「今日は……朝一で空菜」

「それはいつものことだから。それ以外」

「それ以外はない」

「そっか。じゃあ、まだ余裕はあるよね」

「寝る前だぞ」

「大丈夫だよ、ちょっとくらい」

 吸血は生命力を向上させ、精神を高揚させる。寝る前に凪の血を吸えば、眠れなくなるかもしれない。一回の吸血で失う血は、大した量ではない。それでも数をこなせば貧血になるし、魔力を抜けるので疲労も感じる。もっとも、それはかなりの回数を一度にこなした場合だ。普通、体調に影響するほど、血を吸われることはない。

 麻夜は体勢を整えるためにソファに膝を乗せる。そのとき、誤って凪の手を踏んでしまう。

「いてッ」

「あ、ごめん」

「いや、大丈夫」

 凪はパタパタと手を振る。痛みはもうなくなっていた。体質が変わったからかもしれない。吸血鬼化の進行で、怪我の治りはかなり早くなっている。ちょっとした痛みなら、痛いと感じた瞬間には消えていることもままあるくらいだった。

 麻夜は暗闇に視線を走らせる。それから、じっと息を殺してから、肩の力を抜いた。

「どうした?」

「凪君が大きな声を出したから、零菜が起きてくるかと思って」

 物音はない。零菜は二階の寝室で、眠ったままだ。

「起こすと悪いから、静かにしよう」

「それは、そうだけど、俺が悪いみたいなのはなあ」

「ごめんごめん。じゃ、失礼して」

 麻夜の牙が凪の首に食い込む。麻夜の体温と吐息を感じる。噛まれた痛みはほとんどなく、むしろ痛気持ちいい感覚に脱力する。

「ん……ちょっと、しょっぱい」

「部屋が暑かったから」

「汗、かなりかいたみたいだもんね」

 部屋の温度はほぼ外気と変わらず、今日は熱帯夜だ。クーラーが稼働することを前提に窓を閉め切っていたので、熱い空気が溜まっている。クーラーは動き始めたばかりで、涼しくなるにはもう少し時間が必要だ。

「拭けばよかった。悪かったな」

「凪君の汗とか、わたしは気にしたことないよ。でも、ちょっと、体勢がよくないな。なんか、噛みにくい」

「まだ、吸うのか」

「もうちょっとだけだから」

「ま、別に構わないんだけど、それは」

 麻夜に吸血されて困ることはない。麻夜が一人で吸う量は多くても、小一時間で回復できる量だ。

 どのような体勢で噛めばいいのか、麻夜は少し思案する。膝を突いて座った姿勢だと、身体を捻らないと行けないので疲れる。凪を起こすのは、眠そうにしているのでそこまで頼むのは気が引けた。

「じゃあ、うん、凪君そのままにしてて」

 結局、血を吸うのなら密着するしかない。仰向けに寝ている凪から吸血する場合は正面から噛みつくのが安定するはずだ。

 麻夜はソファに寝そべる凪の上に跨がった。

「あ、重い?」

「全然」

「そう、ほんと?」

「軽くて心配になるくらい」

「それは嘘でしょ」

 麻夜は声を潜めて吹き出す。

 そして、麻夜は生唾を飲み、唇を噛む。血を吸った勢いで凪の上にのし掛かってしまった。少し、調子に乗ってやり過ぎているという自覚があった。もともとの眠気と吸血衝動に身を委ねすぎた、と内心で弁解しつつ、唇を首に寄せて噛みつく場所を探ってしまう。

「こういうときさ」

「ん?」

 麻夜が噛みつこうとしたとき、凪が不意に話しかけてきた。

「こういうとき、いつも手の置き場に困るんだよ」

 眠そうな声だ。もしかしたら、少し寝ぼけているのかもしれない。

「吸血してるときの?」

「そう」

「そんなの好きなとこでいいじゃん」

「そうも、いかないだろ」

 それぞれに触られたくないところがあるだろう。昔ならともかく、今はいろいろと気を遣うことも多い。日常生活でもそうだし、吸血で密着するときはさらにだ。気心が知れているといっても、限度はある。

「……じゃあ、とりあえず、背中に手、回して」

「背中」

「姿勢崩れないように、支えてくれたらいいよ」

 麻夜がそう言うので、凪は麻夜の背に手を添える。こうして麻夜に触れるのは、初めてかもしれない。麻夜の身体は思っていたよりも細い。普段鍛えている身体はしなやかな強靱さを備えてはいるが、女性らしい柔らかさもあった。できるだけ意識しないようにしてきたが、胸もしっかりと押しつけられている。麻夜のほうはどこまで気にしているのか分からないが、凪のほうは眠気が覚めるくらいには緊張している。そんな凪の気持ちを知ってか知らずか、麻夜は凪の首元に顔を埋める。肌を牙で噛み破り、滲み出る血を吸う。

 日々、空菜に血を与えているので、血を吸われることに忌避感はなく、自然に受け入れてしまっているが、麻夜と空菜は吸い方に違いがあって、麻夜はまだ不慣れな感じがある。

 吸血慣れした空菜は血を吸うときには、しっかり噛みつき、短時間で必要量を吸い出す。麻夜はそこまで思い切れないのか、噛む力は弱く滲む血を少しずつ舐め取るように味わっている。

 二十秒ほどの時間をかけて麻夜は凪の血を吸った。吸い終わってから、麻夜は凪の上から身体を退ける。

「じゃ、僕はもう寝るから。おやすみ」

「ん、おやすみ」

 足音を殺して、麻夜はリビングを出て行った。

 時計は三時半を指している。麻夜の吸血で目が冴えてしまった。もしかしたら、今のはすべて夢だったのかもしれない。夜更けに従妹が押しかけてきて吸血してくる夢だ。感触もすべて生々しく身体に残っているが、それは普段から空菜に血を吸われているから脳がそういう状況を作ったのだ。暗闇の中でそう考える。そんなことはないだろうと、煩悶するうちに凪は再び睡魔に引きずられて眠りに落ちた。

 

 

 


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