学校で黒猫と対峙した後、凪は特区警備隊にその旨を通報した。強力な呪詛を帯びた動物霊が学校に出現したとあって、物々しい武装をした隊員が集まって現場検証が行われた。
問題の呪詛が学校の中に出現し、忽然と姿を消したことは学校側の霊的防御能力に疑問符が付く問題だ。呪詛が結界の内外を行き来できるとなれば、学校の中で呪詛が行われているという前提が崩れることになる。学校側も特区警備隊も外部犯を考慮した態勢を構築することが求められるし、恵美の安全圏が学校外だとは言い切れなくなってくる上に、月曜日からの学校の対応が大きな課題になるだろう。実際、校舎内に動物霊が出現した事実がある以上、何らかの対応は必要だ。いつまでも恵美一人が狙われ続けるという確証はない。
凪は当事者なので、事情聴取を受けた。とはいえ、状況報告の後は雑談がほとんどだ。対応した特区警備隊の吉岡信二は、凪とはそこそこ長い付合いで、共に那月の指導を受けた兄弟弟子である。クリスマスに起こったアルディギア解放戦線によるテロ事件の後、一時本庁に転属し、今年度から現場に戻ってきた。「少ない戦力でアルディギア王国の姫を守り、初動の危機的状況を凌いだ」ということで、半ば強引に階級を引き上げられてしまったのだ。本人としてはたまたま凪がクロエを連れ込んだために、なし崩し的に対処しなければならくなった事態だったので、妙なところで政治的な駆け引きに巻き込まれたとすら感じていた。
「階級上がったからいいんじゃないですか」
「給料が上がってねえ。増えたのは責任と仕事と残業だ」
「残業代は出ますよね」
「一応な。つっても現場は見なしだから、あまり恩恵感じないな。事務方なら、残業分がきっちり出るんだけどなぁ」
以前、信二が率いていた部隊に比べると、彼が今率いている部隊はより実戦的だ。昨年度中に起こった様々な魔導犯罪は、例年に比べて規模が大きく、特にクリスマスのテロは建国以来のトップテン入りする大事だった。特区警備隊は装備や体制の再構築を急いでいるところであって、事務方にしても現場にしてもただでさえ忙しい業務がさらに増えている。
「というか、お前は毎回毎回、妙なことに首を突っ込まないと気が済まないのか? 今更だけどよ」
「俺から首を突っ込んでるわけじゃないんですけど。運がないのかな」
「美人に囲まれて生活してるから、反動が来たんだな」
「そんな反動あったら堪ったもんじゃないですよ」
美人といっても相手は全員がこの国の姫だ。年々女性らしくなっていく上に、吸血などでスキンシップが増えている。変に意識すると困るので、あまりそういう視点は持たないようにしているのだ。
凪と信二の雑談を甲高い電子音が遮った。テーブルの隅に置かれた機械が、緑色のランプを明滅させている。
「異常なしだとよ」
「ありがとうございます」
曲がりなりにも呪詛と対峙したのだ。ちょうど簡易検査キットがあるので、調べていけという信二の提案にありがたく従った。今、電子音を鳴らした機械は、採取した血液から呪詛の有無を判別するためのものであった。
「それでは失礼します」
「はいよ、気をつけてな」
「なんか分かったら、教えてください」
「あー、まあできる範囲でな」
特区警備隊の調査情報は簡単に外部と共有できるものではないのだが、凪の場合は、中央高校の中で唯一の攻魔師であり、この事件については学校側と被害者側から調査の依頼を受けているという言い分が立つ。それを抜け穴にして、調査結果の一部を可能な範囲で回してもらうことにしていた。
膠着状態だった状況は一つ前に進んだものの、謎は残っている。
呪詛の存在はこれで証明できたものの、恵美が狙われている理由や学校の中だけで活動する理由が分からない。それに、どのように凪の追跡を振り切ったのかも分からない。学校を守る結界に抜け穴があるとしか思えなかった。
特区警備隊から解放されて、自宅に戻ると妙に賑やかだった。幼稚園児が二人と妹が一人、いつもよりも余計に屯している。
「凪、おかえりー。こんな時間まで何してたの? 今日はバイトないんでしょ?」
リビングに入ってきた凪を迎えたのは、ソファに座る紗葵だった。紗葵の膝には夏穂が座っていて、その隣に瞳がいた。紗葵は妹二人に絵本の読み聞かせをしているところだったようだ。
「なんでうちでやってんだ?」
「瞳が暇だって。凪も暇だろうと思ったのに、全然帰ってこないじゃん」
「暇じゃないからな。高校生は忙しいんだ」
「わたしだって中三だよ。受験生」
「お前んとこ、受験ないだろ」
彩海学園は中高一貫校だ。内部進学で受験する必要はない。全体的にレベルの高い教育を施す学校なので、中学三年生であっても、他の学校の同年代よりもずっと早く高校レベルの授業を受けることになるが、だからといって受験という重荷を背負っている他校の生徒より忙しいということはない。
「ていうか、今何時だと思ってるんだ。もう寝なさい。夏穂、瞳も」
「眠くない」
「眠くなーい」
幼稚園児は二人とも凪の指示を拒否した。小生意気にきゃっきゃっと笑っている。
「結瞳さんと夏音さんは?」
「今日は仕事だって。だから、あたしと一緒にいるんだよ、ん、ちょ、痛い痛い」
瞳が紗葵の背中をよじ登り始めた。
そして、夏穂が音読の続きを促すように紗葵の頬をぺしぺし叩いている。
「凪、変わってくんない? もう五週目なんだけど」
「空菜にしてもらえ。俺はまだ宿題があるんで」
「えー、もう、分かったから、よじ登んない!」
瞳を背中から引きずり下ろして隣に座らせて、紗葵は音読を再開した。空菜の方は、奥のテーブルで煎茶をちびちびちと飲んでいた。
「どうでした?」
と、空菜が聞いてくる。
「出るもんは出たけど、取り逃がしたな。校舎の結界にも、問題はないみたいだ」
「やっぱり、犬神ですか?」
「猫だったから、猫鬼ってヤツかな」
「蠱毒には変わりないですね」
蠱毒は東洋の呪術の中で、最も有名なものの一つであろう。
一般に広く知られているのは、壺などの容器に無数の毒虫を閉じ込めて共食いさせ、最後に生き残った一匹を使って様々な呪術を行使するというものだ。この呪術は虫だけでなく、犬や猫でも同じことができる。ただし、犬猫のような知能の高い動物はその分だけ恨み辛みを蓄えやすく、強力な呪詛になると同時に制御が困難というデメリットを持つ。
古代から禁止されてきた凶悪な呪術で、それは現代でも変わらない。むしろ、動物愛護の観点からさらに忌避されるようになっている。
意図的に強力な怨霊を作り上げ、使い魔にしてしまう原始的かつ凶悪な呪詛だ。
動物霊による霊障の時点で、凪も特区警備隊も真っ先に蠱毒を候補に挙げていたが、今日に至るまで、その痕跡すら発見できなかったのは、猫鬼が今日まで行動しなかったからだ。そして、せっかく発見した猫鬼は、まるでそこにいなかったかのように姿を消してしまった。
やはり、背後に術者がいて転移魔術なりを行使しているのだろうか。それでも、一切の痕跡がないというのが気になるが。
凪は椅子に座って、ため息をついた。前進したように見えて、本質には手が届かないもどかしさを感じている。
テーブルの隅に置いてあるチラシを何となしに手に取った。
今時、紙でチラシを配るというのはあまりないし、まず目を通すこともないが、何か作業する時の下敷きには使えるので、とっておくのが昏月家だ。
ちらりと見えたタイトルは、「龍支脈の変更について」という行政からのお知らせだ。
「そういえば、今日だったな」
「何がです?」
「龍支脈」
「ああ、そうですね」
と、空菜は興味なさそうに呟く。
暁の帝国の前身となる絃神島は、海上を流れる強力な龍脈の上に建設された人工島だ。龍脈は地球のエネルギーそのもので、古代から多くの魔術がこういった天然の霊力を利用してきたし、都市設計に反映してきた。いわゆる風水思想だ。中国は言うに及ばず、日本の京都等も、この思想を下敷きにして作られたし、絃神島もその例に漏れないのだ。
そして、川と同じように龍脈にも本流と支流がある。暁の帝国を流れる本流は大規模で、国家全体を覆っているが、そこから枝分かれした支流もまた、国内の各所を流れている。様々な力場がせめぎ合う龍脈の中で生きる国民にはその自覚はほぼないが、この強大な力を日々国が監視し、時に人工的に流れを変えて国民の生活を守っているのだった。
チラシは、その龍脈を監視している風水課からの通知だ。
星辰や人の動き、建設工事などで龍支脈の流れは変わることがある。大きな本流は変えようがないが支流ならば、ある程度人の手が届くし、どのように流れを変えるかも予測ができる。チラシによると、凪の暮らすマンションから二百メートルほど離れたところに建設された大型ショッピングセンターの影響で、この近くを流れる龍支脈が若干曲がって流れるようになるらしい。
この国に住んでいれば、こうした連絡は度々もたらされる。他の国ならいざ知らず、本流の中に建造された暁の帝国ならば、支流がどう変わろうとさほど日常生活に影響はないのだが、ごくたまにそれで災害が起こることがあるので、影響が出そうな世帯にはチラシやメールなどで連絡が来ることになっているのだ。
今夜、十一時過ぎに、星辰の影響を受けて龍支脈が変わる。この程度の変化は報道されることすらない小さなものだ。
それにも関わらず、妙に胸がざわつく。
何か重要なヒントがあるような気がしてならない。
凪はチラシをじっと眺めた。
文字情報はもうどうでもいい。気になるのは添付された龍支脈図だ。この近辺の龍支脈の流れが変化前と変化後予想の二種類載っている。
「龍支脈……まさか、こいつか?」
「凪さん?」
凪の表情が変わった。龍支脈図には暁城だけでなく、坂木家も記載されている。龍支脈図によると、暁城は流れの変化の影響を受けないが、坂木家は流れを変えた龍支脈の直下になる。そして、龍支脈を辿っていくと、図の範囲外ではあるものの、中央高校もまた同一の龍支脈上にあることが想像できた。
「空菜、こんな時間だけど頼まれてくれるか?」
「何でしょう?」
「坂木さんの家に向かってくれ」
「分かりました」
あっさりと、空菜は頷いた。
「理由聞かないのか?」
「何となく分かりました。それに凪さんの命には従いますよ。何でも」
大げさな言い方だが、事実だ。空菜は主人と認めた相手の言葉に従うように設計されている。凪が頼めば空菜は二の句なく受け入れるのだ。空菜のそうした性質を苦々しく思ってきた凪だが、一刻を争う今は頼もしい。
「油断しないで、気をつけろ」
「凪さんは?」
「特区警備隊に連絡する。それに、確認することがある」
■
玄関を出た凪が向かったのは、同じ階の萌葱の家だ。インターホンを鳴らすと、萌葱がすぐに出てきた。
「凪君、どうしたの、こんな時間に」
「ごめん、姉さん。ちょっと、頼みがあって。調べて欲しいものがあるんだけど」
「調べて欲しいもの? 急ぎで?」
「できるだけ」
「分かった。とりあえず、上がって」
凪の焦った様子が見て、普通ではないことに気づいたのだろう。萌葱は追及することなく凪を家に上げた。
萌葱の家に上がると、やけにいい匂いが漂ってくる。香ばしい焼けた肉の匂いだ。
リビングに入ると薄ら煙く、小さく開けた窓から風が吹き込んでいる。
「ええ、凪君!? 来るの!?」
と、驚いた様子なのは東雲だった。珍しく空色の伊達眼鏡をかけた東雲は、テーブルの真ん中に置いたホットプレートの上で、お好み焼きを作っていた。
「お好み焼き?」
「あ、ちょっ、これはねえ……残り物を効率的に処理しようとした結果であって、別にお腹が減ったとかそういうのじゃないんだよ?」
恥ずかしいものを見られたので、何とかして誤魔化したい。そういう気持ちが溢れ出る早口の言い訳だった。ちなみに理由の前半は事実で、後半は嘘だ。かといって、一人で処理できる量でもないので、萌葱を誘って夜のパーティを画策していたのだ。
「あ、そうだ。凪君も一緒にどう? 男の子だし、夜食はオッケーなんじゃない?」
東雲からの魅力的な提案に素直に頷けないのが辛いところだ。夜が深まって、ちょうど小腹がすいた頃合いだ。目の前で完成が近づくお好み焼きの魅力には抗いがたいものがある。
「ごめん、ちょっと萌葱姉さんに頼み事があるから」
「あ、そうなんだ」
東雲が残念そうにしたところで、
「凪君、いいよ」
萌葱が自分の部屋から顔を出して、凪を呼んだ。
「何? 萌ちゃん、これどうするの?」
「東雲、先に食べてて」
「わたしもそっち行きたい」
「焦げるでしょうが。発起人なんだから、ちゃんと食べ物の面倒見といて」
「え……そんなー」
寂しそうな東雲に後ろ髪を引かれながらも凪は萌葱の部屋に入った。
萌葱の部屋は、整理整頓の行き届いたイメージ通りの女子の部屋という感じだ。この部屋に入るのも久しぶりだが、以前と印象は変わらない。ただし、机の上に置かれた大型のデスクトップパソコンが部屋の雰囲気にはミスマッチだ。
三つのモニターのうち、真ん中のモニターの電源が入っている。
「凪君、調べて欲しいってのは?」
モニターの前に座った萌葱がブラウザを立ち上げた。
「中央行政区と第二南地区の龍支脈図」
「龍支脈図? チラシ入ってたのじゃダメなの?」
「もっと広い範囲で見たい。それにできれば、過去まで遡って」
「過去分も? それじゃ、普通に検索しても出ないよ?」
龍支脈図は一般に公開される情報ではあるが、同時に人為的に手を加えると人の生活に直結する影響が出るものでもあるので、その内容は限定的なものになる。特に過去分まで遡ろうとすると、一般公開していない情報になるので、権限を持った職員だけが閲覧することのできる情報だ。その情報を凪が入手するには、萌葱の手を借りるしかない。
「クラスメイトを助けるのに必要なんだ」
「クラスメイト? 何か危ないことしてる?」
「大丈夫。相談に乗ってるだけ。ただ、もしかしたら、時間がないかもしれない。だから、姉さんにしか頼めないんだ」
「……そ、そう。ふうん、あたしだけね」
萌葱はまんざらでもない表情を浮かべて足下に設置しているデスクトップパソコンの本体を指で叩く。僅かに魔力と紫電が走る。
「できる?」
「できる! はい、できた!」
萌葱はあっさりと国のデータベースに侵入し、龍支脈の情報を引き出していた。絃神島時代からの龍脈全体の流れが時代別になって参照できる。
「一瞬!? 萌葱姉さん、やっぱすげえ」
「そうかなぁ?」
「マジ、本当」
「ま、まあね、これくらい、朝飯前だし?」
萌葱は浮かれたように笑みを浮かべた。
萌葱の眷獣
凪は真剣な表情で食い入るようにPDFデータを見ている。現在の龍支脈の流れを見て、そこから過去のデータに遡っていく。
「そういうことか」
スクロールする指を止めて、凪は呟く。ずっと蟠っていた疑問が氷解したのだ。
「役に立った?」
「そりゃ、もう。姉さん、ほんと助かった」
「う、うん、そりゃ、よかったよ」
凪は満面の笑顔を見せる。萌葱は息を詰まらせたように言葉を紡げず、視線を逸らす。凪が真正面から萌葱にこうも感情を見せることはあまりないのだ。レアケース過ぎて、萌葱は戸惑うことしかできない。
「ありがとう。俺、ちょっと行ってくる」
「え、ちょっと行くって? こんな時間に?」
「時間ないかもしれないから」
「え、あ、ちょっと! やっぱり、危ないことしてるんじゃないの!?」
大丈夫大丈夫、と返事だけをして、萌葱の部屋を出た凪はその足で外に出た。訳が分からないとばかりに置いてけぼりを食った萌葱は困惑した。
「二人して、何してたの?」
東雲が不服そうな顔をして萌葱を見ている。お好み焼きはいい具合に焼けていて、東雲は先に食べ始めていた。
皿が増えているところを見ると、凪の分も一応は用意していたらしい。
「凪君も帰っちゃったみたいだし」
「ちょっと調べごと。凪君は、どこか出かけるみたいだけど」
「こんな時間に?」
「ねえ」
萌葱と東雲は同時に時計を見た。電子機器を好む萌葱にしては珍しい、振り子の付いたクラシックな掛け時計だ。それが夜の十時半を示している。
「夜遊び?」
「そんな感じじゃないけど。クラスメイト助けるのにいるって言うし」
「……」
「……」
「なんか、危ないことしてるんじゃないの?」
「そうかな、そうかも」
萌葱はしばし悩んでから、タブレット端末を起動した。ただ念じるだけで、一帯の監視カメラの映像をタブレットに中継させる。国内に設置される高性能な監視カメラは、萌葱にとっては自分の目も同然だ。あまり、こういう使い方はしたくはないのだが、これは仕方のないことだと自分を納得させて、凪の姿を探した。
■
大通りでタクシーを捕まえた凪は、まっすぐ恵美の家を目指した。空菜を先行させているし、特区警備隊の信二にも推測を伝えている。信二は恵美の身辺警護に当たっている隊員に注意喚起をすると言ってくれた。確証のないことで隊員を動かすわけには行かないというのが、信二の判断ではあったが、それは役所である以上仕方のないことだ。だから、友人として凪が真っ先に動く。もしも、凪の推測通りならば、何もしなければ恵美が危うい。
深夜の住宅地へ続く道は車通りが少なく、思ったよりもスムーズだった。
こんな時間にタクシーを使うというので、運転手からは怪しまれてしまったが、塾帰りだというとそんなものかと受け入れてもらえた。向かう先が娯楽も何もない住宅街だったからかもしれない。
この分なら十一時までに目的地に着ける。
杞憂で終わってくれればいいが、もしも凪の予想の通りに事態が進めばいよいよ恵美の身が危ない。
坂木家まであと僅かというところで、空気の感じが変わった。
普通の人間ならまったく気にならない程度の変化。そして、呪術を嗜む者であっても、さほど軽く流す程度の霊力の流れの変化だ。
しかし、凪にとっては大きな変化だ。
(想定よりも十分も早い!)
まだ十一時にはなっていない。予定よりも早く、龍支脈の流れが変わったのだ。建物の位置と星辰は決まっている。十分のずれの原因は、地上に生きる人々の生活そのものだろう。人間や魔族が帯びる霊力や魔力が龍脈の流れにも若干の影響を及ぼすのだ。今回はその影響で十分ほど早く流れが変わってしまったのだろう。
せめて遅れるのであれば、問題はなかったのだ。時間が惜しい状況で、事態が繰り上がるのは避けて欲しいところだった。
空菜は着いているだろうか。
空菜がいれば、ひとまずは安心できるのだが。
凪は祈るような気持ちで、タクシーの後部座席に座っているしかない。その凪をさらに焦らせる事態が生じたのは、龍支脈が変わった直後のことだ。
「ん、なんだ?」
と、運転手が呟いた。
「どうしました?」
「いや、何かピカピカと光ってて。誰かなんかやってるのか?」
見通しの悪い路地なので、詳細は分からない。運転手が見たのは一瞬の光だ。そして、凪もまた次に現れた光を見る。白い稲光だ。間違いなく、空菜の眷獣
空菜が眷獣を召喚する事態とは、つまり凪の予想の通りに猫鬼が坂木家を襲ったということであった。
■
時は僅かに遡る。
学校を休んで、半月以上が過ぎてしまい恵美は曜日の感覚が曖昧になっていることを自覚していた。母も介護の仕事でカレンダー通りの休みではない。外出は怖くてできないので、結局一日家にいる。療養ということになっているので、気軽に友人と連絡を取り合うのも憚られるので、日中は虎吉を愛でるか、ゲームか自習の繰り返しだ。そして、夜はかなり遅くなった。平日も休日もないのだから、寝坊する心配がない。通販で買った漫画を夜通し読み耽り、生まれて初めての徹夜をしてしまったが、何にも影響しなかった。考えてみれば朝の六時に寝たとしても正午に起きれば日中に起床したことにはなる、と思った瞬間に自分がどんどん自堕落になっていることに気がついた。
これでも高校に入学したばかりの健全な十五歳だ。危ないからと外に出ることができず、フラストレーションが溜まっているのも否めない。
ずっと、自分が呪われた原因を考えていた。
物心ついたころから真面目でいい子として周りから見られてきたし、事実恵美は当たり前のように大人の期待に応え続けてきた。揉め事を起こしたことはなく、運動こそ苦手なものの成績優秀なまま順当に中央高校に入学した。中学時代の部活は緩い文芸部で、誰かと競争するような経験がほとんどない。結論としては、特に恨まれる覚えはなかった。成績にしても、トップ争いまではしていない。最高で学年十二位という成績は、確かに誰もが優秀と口を揃えて言う位置ではあるが、トップ争いに加わるわけではなく、恵美を敢えて蹴落とそうと狙う理由はないはずだ。
それとも、自分が気づかないうちに誰かを傷付けていたのだろうか。
可能性がないとは言えない。
きっかけはいくらでもある。本人にしか分からない理由で、人を敵視するという話は珍しくない。それでも、ここまで苦しめられなければならないほど、悪いことをしたのだろうか。
事情を打ち明けられる相手が極端に少ないので、自問自答を繰り返し、思考がどんどんネガティブな方向に向かってしまう。ともすれば、叫び、物に当たってしまいそうなくらいに苛立つこともあり、そんな負の感情を抱いたことのなかった恵美は、さらに自分を追い込んでいた。不幸中の幸いなのは、同学年に事情を知り、さらに解決のために動いてくれている友人がいることだ。
同じクラスの凪とは、この件で相談するまで特に話をしたことはなかったし、攻魔師の資格を持っているといっても住む世界が違うと思っていたので、あまり関心は抱かなかった。むしろ、同じ学年にいるとんでもない美人と評判の空菜の義理の兄という様々な嫉妬と怨念を向けられる立場については、哀れにすら思ったくらいだった。そして空菜は時折顔を出してくれる。虎吉を気に入ったようで、写真を撮り、雑談をして帰って行く。恵美の霊障を気にして、様子を見に来ているのだということは分かった。誰が敵か分からない中で、自分の側に立ってくれる人が身近にいる心強さに、救われている。
「虎吉、今日はもう寝ようか?」
白い猫又の前足の肉球をくすぐりながら尋ねた。返事はなく虎吉は何を考えているのか分からない視線を虚空に漂わせている。
昔から虎吉は変なところをじっと見てたり、急に虚空を威嚇したりすることがあるので、そういうときはホラーな気分になってしまう。
魔族が当たり前にいる暁の帝国で迷信も何もないが、幽霊の類は依然としてポピュラーなホラー物の定番で、霊的な素養のない恵美からすれば、怨霊の類はまったく想像の埒外なのだ。現実に存在するのかもしれないが、見えないし触れないのでは非現実のものとして認識するしかなく、対処法など知るよしもない。
だから、できれば虎吉には変に思わせぶりな態度を取らないで欲しいのだ。
猫には人間の目に見えないものが見えると聞くが、それは紫外線のような人間には判別できない物理現象であって欲しい。幽霊がそこにいるとか言われても、恐怖しかない。
虎吉を膝の上に抱き起こして、少し大きくなった腹を撫でる。ずっと家にいるので、虎吉と接する時間が圧倒的に増えている。何となくこうして虎吉を抱いていると落ち着くのだ。生まれたときから一緒にいる家族だからだろう。ということで、今日も虎吉をベッドに連れ込もうと持ち上げたとき、不意に虎吉が身体を捻って恵美から飛び降りる。そして、そのままベランダに続くガラス戸まで走って行くと、尻尾をピンと逆立てる。
「と、虎吉? どうしたの?」
しゃー、と牙を剥いて外を威嚇する虎吉のただならぬ様子に、困惑以上に恐怖が勝る。
地域の猫にすら威嚇することのない虎吉が、何を警戒しているのか。今までにない反応に、恵美は立ち竦む。
カーテンを閉めているので外は見えない。虎吉は恵美には分からない何かを感じて、威嚇しているのだ。
「虎き……」
バツン、とリビングの電気が消えた。
轟々、と風が唸るように吹いてきて窓ガラスを揺らしている。
停電はごく一瞬の出来事だった。すぐに電気は何事もなかったかのように点いた。何もなかった。電気が一瞬消えて点いただけ。突風がマンションの電気設備に影響したのだろう。そう思いたかった。だが、虎吉が全身の毛を逆立てて唸り声を上げている。
「ぁ……ぅ……」
何かが自分を見ていることを、こうも強烈に自覚することがあるとは思わなかった。霊感なんて物は欠片も持ち合わせていないはずの恵美が、呼吸を忘れるほどの圧迫感。カーテンの向こうに何かがいると確信できる。存在しないはずの第六感が強引にこじ開けられたような感覚だ。息を吸って吐く。この一連の動作が異様なほどに重たい。頭が酸欠になっていくことすらも救いであるようにも思えた。
ミシミシと窓枠が軋んでいる。何かが家の中に押し入ろうとしているのだ。カリカリとガラスをひっかく音がして、些細な物音ですら恵美は恐ろしくて仕方がない。猛獣がすぐそこにいて、自分は無防備だ。しかも、相手は自分に狙いを定めている。完全に詰んでいる。何をどうしたところで打開策が浮かばない。逃げるという選択肢すら、悪手のように思えてしまう。
声は出せない。身動き一つ取れないまま、それがベランダからガラスを割って家の中に押し入ってくるのを眺めていることしかできなかった。
それは猫だった。
虎と見紛うばかりの大きさの黒猫だ。
ギラギラとした緑色の目が恵美を捉えた。
「ひぃ……ッ!」
黒猫の口がニィ……と笑ったように見えた。
何も考えられなかった。逃げることも泣くことも気絶することもできず、パニックなのに身体は一ミリも動かせない。そういう発想すら恵美にはなかった。
「あ……か……」
息ができない。恐怖で頭がどうにかなったみたいだ。殺される。このままだと、この黒猫に殺されてしまう。
「しゃーッ!」
膠着状態を崩したのは虎吉の威嚇だ。小さな身体から発する白い魔力が光の壁となって黒猫の顔面を叩いた。
猫又は魔獣だ。攻撃性は低くとも、魔力を燃料にして生きている。縄張り争いなどでは、時にこうして魔力を使って戦う猫又を見ることがある。
同時に部屋に設置してある呪符やルーン石が煌めき、反撃に出ようとする黒猫を弾く。凪や特区警備隊員が置いていった対魔の防壁だ。
「ぎ、オオオオオオッ」
呪いを帯びた咆哮がビリビリと響く。押し寄せる呪詛を結界が受け止めて、ギシギシと撓む。虎吉が、出て行けこのヤロー、とばかりに牙を剥いて右手でパンチを繰り出す。虚空への猫パンチだが、それは虎吉の魔力を食らって威力を増幅し、不可視のパンチとなって黒猫の顔を打つ。以前、凪をひっかいた遠隔攻撃の再現だ。
虎吉は魔力を全開にして、渾身のパンチを連続で放つ。白い光がパッパッと明滅して、黒猫は鬱陶しそうにかぶりを振る。そして、
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアア」
およそ、猫とは思えない咆哮を上げた。黒猫の大音声は霊的な攻撃だ。どす黒い鉄砲水のような呪詛が押し寄せて、坂木家を守る結界を打ちのめす。
結界の光が黒い波に呑まれる。ひび割れ破損し、機能を低下させていく。想定以上の呪詛を受けて結界の処理が追いつかない。虎吉の攻撃も焼け石に水だ。
「しゃーッ」
虎吉は臆することなく威嚇した。
砕ける結界。そして、家中を揺るがす振動が四方に弾ける。衝撃で恵美は尻餅をついた。黒い呪詛の波はついに恵美に届くことはなかった。その代わり、跳ね飛ばされた虎吉が恵美の背後の壁に叩き付けられた。
「虎吉?」
ぼとりと床に落ちた白い猫又は、ぴくりとも動かない。
「虎吉ッ!」
それまで動けなかったことが嘘のように恵美は走り出せた。虎吉に駆け寄って覗き込む。虎吉は目を閉じて、動かないままだ。完全に脱力している。
「と、虎吉。ねえ、虎吉ってば、やだ、虎吉!」
名前を呼んでも起きない。虎吉の温もりが、徐々に消えていくような錯覚すら覚えた。自分の半身が切り離されたかのような喪失感が恵美を襲い、理解の範疇を超えた感情が渦を巻く。黒猫への恐怖すら、この時には忘れてしまうほどの激情だ。
「何なの……。なんで、わたしがこんな目に遭わないといけないの!? あなた、いったい何なの!?」
結界が砕けたことで、恵美を守るものはなくなった。それでも、激情が恐怖に勝った。虎吉という大切な家族を守りたい一心で、恵美は黒猫の前に立った。そのけなげな勇姿に黒猫は何ら感じるものはなかったようだ。黒猫の中には憎悪しかない。恵美の悲しみはご馳走だ。むしろ、虎吉も含めて殺意の対象である。
「来ないでよ。それ以上来ると、酷いよ」
恵美の武器は空菜が持ってきてくれた呪符しかない。包帯に巻き込まれた呪符が、この黒猫にどこまで通じるか分からないが、今はそれを信じる以外にないのだ。
まるで恵美を苦しませるように一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる黒猫。恵美を守る呪符が気になるのかじろりと睨み付けてくる。一息飛びかかってこないのは、この呪符を警戒してのものか。恵美はあずかり知らぬことだが、黒猫は恵美の霊力を纏った凪の攻撃を受けている。そして、今は恵美は凪の霊力が篭もった呪符に守られているのだ。恵美の霊力と凪の霊力が同時に存在していることで、黒猫は本能的に校舎内での戦闘の再演を警戒したのだ。
だが、それも一瞬の時間を稼ぐので精一杯だ。
すぐに警戒する意味がないと判断した。牙でも爪でも、恵美の柔肌を裂くのは容易い。苦痛を与え、悲鳴を肴に臓腑を貪る。それくらいしなければ、黒猫を突き動かす憎悪は晴れない。行き所のない苦痛、苦悶、悲嘆、憎悪、そういった負の念は恵美を一思いに殺してしまうのでは解消できないのだ。
黒猫が恵美に爪を伸ばす寸前に、白刃が煌めいた。
「
二振りの白銀に輝く短刀を振るい乗り込んできたのは空菜だ。魔力を斬り裂き、無効化する眷獣の刃で黒猫の腕と首をしたたかに斬り付けた。
「ぎ、がッ」
三の太刀を受ける前に、黒猫は優れた敏捷性を活かして飛び退いた。
「空菜さん!」
「坂木さん、間に合ってよかったです。怪我は?」
「わたしは大丈夫。でも、虎吉が!」
空菜は恵美の足下に倒れる虎吉を見て顔を歪める。
すぐにその傍らに膝を突いて、触れる。
「大丈夫です。気を失ってるだけです」
「ほ、本当?」
「はい。今、わたしの魔力を少し提供しました。一応魔獣ですから、魔力があれば持ち直すはずです」
魔力を糧に生きる魔獣という点では猫又も他の魔獣と同じだ。虎吉は気絶しているだけで怪我の程度は軽い。魔力を供給すれば、遠からず目覚めるはずだ。
「ありがとう、空菜さん。わたし……」
「お礼なら後でいいです。今は……」
空菜は立ち上がって、窓際で唸る黒猫に向き直る。
両手に小太刀を構えて、油断なく黒猫――――猫鬼を睨む。
確かに強力な呪詛だ。空菜は実戦経験こそ乏しいものの、呪詛の知識は豊富にある。猫鬼は古い呪詛の代表格である蠱毒の一種であり、その中でもとりわけ強力な部類だ。それでも、吸血鬼の眷獣に匹敵するほどの蠱毒となるとそう簡単に作れる物ではない。今、空菜と対峙する猫鬼の力は、確かに眷獣に近いものを感じるし、人間には脅威だろう。だが、空菜にとっては恐れるほどの相手ではない。
「友達と虎吉を傷付けた落とし前、きっちり付けさせてもらいます」
怒り、というものを空菜は明確に感じた。ふつふつとした感情が左右の小太刀に伝播して、刀身を白熱させる。
諦めずに躍りかかってくる猫鬼に、空菜は正面から猛然と刃を振るった。