二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間《猫の怪》 2

 身の安全を最優先にするために、坂木恵美は当面の間登校を控えるようにした。表向きは体調不良ということにして、自宅で療養ということにしている。

 顔の広い恵美を心配する声は多かった。仲のよい友人は休み時間にスマホでメッセージを送って、恵美とやり取りをしている。健康面に問題はないので、返答はできる。恵美がそこまで悪いわけではないと分かり、教室の中は安堵に包まれた。

 凪と空菜を除くと生徒の中で恵美の問題を知るものはいない。恵美が学校に何者かに呪詛されている可能性があるということで、教職員の中では情報が共有されており、近日中に特区警備隊が調査に来るようだ。

 同じクラスでありながら、恵美が攻撃を受けていることに凪は気づかなかった。

 恵美とは特に縁がなく、注目していなかったことや、凪がいるところでは攻撃がなかったことが原因ではあるが、それでも凪からすれば自分のテリトリーを犯されたような不快感がある。

 四月から正式の攻魔師の資格をもらったばかりだ。それなのに、同じクラスでこのようなことが起こっていては出鼻をくじかれたような気になる。

 昼休みを使って凪は校舎の中を見て回る。見るべき場所は、事前に決めておいた。

 こういう呪詛は、大体人目に付かないところで行われるものだ。有名なものでは丑の刻参りがあるが、人に危害を加える呪詛は、人に見られることを厳禁とする場合が多い。

 陰湿という言葉が示すとおり、この手のものは薄暗く、湿っぽく、見るからに人が好まない場所と相性がいいのだ。

 普通教室のある東棟や体育館は、生徒が賑やかに過ごしているので、今はとりあえず除外。職員室のある西棟は、特別教室棟とも呼ばれ、理科室や家庭科室、図書室といった特定の用途に特化した教室が詰め込まれている。文化部の部室があるのも、この棟で、凪が初めて恵美から相談を受けた資料室があるのもここだ。用事がなければ訪れる必要のない建物なので、昼休みの人通りは少ない。時々すれ違う生徒は、部室に用事のある生徒か、教師から呼ばれて何かしらの作業をさせられている生徒ばかりだ。

「特にないな」

 一通り廊下を練り歩き、呪詛の気配を探ったが、今のところはヒットしない。

 これでも凪には優れた霊視の才がある。今まで鍛えてきた第六感は、特に呪詛や霊的存在への感応力が高い。本物の怨霊も、相手にしたことがあるくらいで、学生レベルの呪詛などおままごとも同然だ。凪が探し回って呪詛の痕跡すら見つからないとなると、そもそも呪詛そのものが存在しないか、凪を上回る術者が潜んでいるかという話になるが、それはどちらも可能性としては低い。

 呪詛の結果を凪は見ている。明確な怨念を感じるひっかき傷だ。あれを見て呪詛がなかったとは言えない。また、凪の目を盗んで恵美に陰湿な呪詛を仕掛けることができるほどの術者となると、相当の腕前だ。間違いなくプロレベルなのだが、そうなるとその何者かの目的も分からないし、ひっかき傷をつけるだけというのが意味不明ではある。

 もしかしたら、たまたま恵美が狙われただけで、対象は誰でもよかったのかもしれない。可能性を考えるといくらでも出てくる。思考のループに嵌まると、いい結果は生まれないものだ。

「普通に探してるだけじゃダメか」

 人か魔族か魔獣か悪霊か。何が原因か分からないが、呪詛の結果だけが残っている。気味の悪い話だ。特に呪術を学んだ凪からすれば、違和感だらけの呪詛事件である。犯人の目的は恵美への嫌がらせだろうか。それにしては傷口から感じる怨念は凄まじいものだった。強い憎しみがなければ、あのような強烈な念を傷に残すことはできない。

 恵美がそれほど憎しみを買うようなことをしたのだろうか。

 他人に恨まれるような人柄ではないはずだ。裏の顔があるとかなら、一男子としては大変ショックではある。

 どうも、片手間でどうにかできる事案ではなさそうだ。少なくとも昼休みの短い時間で、相手の尻尾を掴むのは難しいだろう。

 とはいえ、時間を掛けていい話でもない。 

 いつまで続くか分からない呪詛のために、長々と学校を休むのは難しい。このまま事件が解決しなければ、恵美は転校を考えなければならなくなる。相談を受けた攻魔師としてはきちんと対処して、事件を解決したかった。

 

 

 放課後、凪が向かったのは、第一南地区の帝国立南呪術試験場だ。国内外の実践的な呪術を研究する公的な研究機関であり、特区警備隊の第一南分隊が詰める南央警察署がある他、攻魔師であれば官民問わず利用できる図書館や、呪術や眷獣の行使にも耐えられる呪術鍛錬場を備えた、暁の帝国でも随一の呪術関連複合施設だ。

 凪自身、長年この施設に通って鍛錬を積んできた馴染みの施設だ。

 施設に付属するグラウンドは民間にも貸し出されていて、今日は近くの大学の陸上部とサッカー部が使用していた。昼間なら、特区警備隊が訓練に使用しているところを見ることもできる。

 今日はバイトがないので、学校からまっすぐこの施設にやって来た。

 攻魔師資格を持っていれば、書庫に入ることができる。凪はここで、恵美に起こった霊障について調べてみることにしたのだ。

 電子データ化されていない、古くかび臭い書物が並ぶ書庫は、呪術資料保全課が管理する図書館であり無機質な白壁に囲まれた地下三階まで続き、ワンフロアに約十万冊の資料が公開されている。

 重要な機密資料や危険な呪力を帯びた魔導書は、当然ながら関係者しか立ち入れない地下四階以下の階層に封印されているが、凪が求めているのは、そこまでの資料ではないし、凪ではそもそも閲覧する資格がない。

 状況証拠は、猫の怪異を思わせる。

 恵美についたひっかき傷は、刃物によるものではなく動物の爪による裂傷なのは明らかだ。動物霊による霊障だと、その動物の特性を反映したものになる。例えば、犬の怪異に危害を加えられれば噛み傷がつく場合が多い。ひっかき傷となると猫かそれに近い動物に由来する怪異のはずだ。

 単純な動物霊が怨霊化したものならば、対処法そのものは簡単だ。攻魔師の基本の部分である。しかし、これが何者かによる呪術によるものだとすれば、その何者かに対処しなければならず、呪詛をどうにかすればいいという簡単な話ではなくなる。

 手がかりになるかどうか分からないが、凪はとりあえず呪術と動物霊の基本をおさらいするために、この図書館を訪れた。

 凪が閲覧できる本の大半は、一般にも出回っているような情報しか載せていない。毎回、物足りない気分になるが、呪術の危険性を考えればそれは仕方のないことだろう。より専門的に学ぶのならば、大学で学ぶのが現代のセオリーだ。

 凪は動物霊に関するレポートを何冊か手に取って類似の事例を探した。

 呪詛の塊と化した動物霊。

 人間に物理的な影響を与えられるほどのものとなると、人為的に手が加えられていると見るべきだ。そうでなけば、世の中は危険な動物霊だらけになってしまう。

 二時間後、凪は図書室を出た。

 外は薄暗く、後十数分もしないうちに日が暮れる。館内の人気は激減し、出入りしていた学生たちも帰宅したようで、すれ違うのはこの施設で働く大人がほとんどになった。

 エントランスホールに来たとき、別方向から歩いてきた麻夜と出くわした。麻夜が来た廊下の先には、呪術の鍛錬場がある。

「お、凪君だ。そっちから来るなんて珍しい。どうしたの?」

「勉強。真面目な学生だからね」

「自分で言う?」

 麻夜は小さく笑った。

 麻夜の格好は、まさに運動部で走り込んでいる女子高生そのものだ。長袖のジャージと短パン、そして運動靴というスタイルは色気よりも機能性を重視したもので、陸上をしていると言われれば、疑う者はいないだろう。

 以前はショートカットにしていた髪を、高校に入って伸ばし始めたようで、今は肩に掛かるくらいになっていた。その髪を麻夜は白いシュシュでひとまとめに束ねていた。

「長袖って暑くないの?」

 と、凪が尋ねる。

「鍛錬場は冷房効いてるからね。外もそろそろ涼しくなってくるだろうし」

 まだ夏前だ。日が暮れれば、気温はほどほどに下がる。風があれば、涼しさを感じることもできるだろう。

「凪君は、最近鍛錬場に来ないね」

「そういえば、そうだな。土日はバイトを入れてるからな。学校帰りに寄るところでもないし」

「今日は学校帰りじゃないの?」

「学校帰りだよ。ちょっと、調べたいことがあったんだ。まあ、あまり大した発見はなかったけどな」

 凪は肩を竦めて言った。

 当たり前のことを再確認するだけの二時間だった。抜本的な解決には、ほど遠い。とはいえ、その当たり前の中に、いくつかの可能性はあった。やりようによっては、呪詛の正体を確認できるかもしれない。

 施設を出ると、空は濃い群青色だった。建物で見えないが、太陽は水平線の向こうに消えているだろう。昼間の熱を残したのっぺりとした空気感が近づいてくる夏の気配を感じさせる。

「凪君、何で帰るの?」

「バス」

「じゃ、ワタシも付いていこうかな」

「タクシーとかじゃなくて、大丈夫なのか?」

「何で?」

「危ない、とかそういうの」

「凪君がいるじゃん」

「俺?」

「凪君には去年の実績があるからね」

「買い被りすぎだっての。たまたま、そういう状況になっただけじゃないか」

 去年の実績と言われると、確かに凪は昨年大事に巻き込まれ続けた。零菜と戦った蜘蛛型の眷獣に始まり、紗葵の暴走や萌葱や東雲の拉致監禁と国家規模の騒動に発展した事件にも中心に近いところで戦った。それは、凪が望んでその位置にいたわけではなく、すべて偶然の積み重ねであった。

「じゃあ、たまたま偶然、ワタシが危ないことなっちゃったら、凪君は助けてくれるの?」

「危ないことにならないようにしてくれ。まあ、でも、そうなったら、助けるよ」

 気負うことなく凪は言った。

 問いに対する答えとしては、特別なものではなかった。

「まあ、凪君はそう言うと思った」

「誰だって、同じこと言うだろ」

「かもしれないけどさ」 

 麻夜は若干不満げだ。

「凪君さ、また変なことに巻き込まれてない?」

「ないよ」

「本当に?」

「本当だって」

「ふうん」

 それ以上、麻夜は追及してくることはなかった。

 恵美の相談は、誰にも話していない。空菜以外に知る者はいない。余計な心配をかけたくないということもあるが、呪詛の正体が分からないと「口が災いの元」になることも考えられるからだ。

 麻夜は凪が学生以外の活動に首を突っ込んだことに感づいているのかもしれない。生まれた頃からの付合いだし、些細な言動や雰囲気の違いからそれとなく凪の事情を察するくらいはできるのかもしれない。

 恵美の呪詛事件を受けて、特区警備隊が中央高校に調査に入ったのは、次の土曜日だった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 調査の結果、学校の敷地内に呪詛の痕跡は見つからなかった。

 そういう報告が学校と恵美にもたらされたのは、月曜日になってからだった。

 特区警備隊の調査官は、校舎内だけでなくグラウンドもプール、倉庫までくまなく見て回った。

 もしも、学生を呪詛されたとなれば、全国ニュースになるほどの大事だ。それも学校の敷地内でとなると、学校側の管理責任にもなるし、学生か職員の中に犯人がいる可能性が高くなる。生徒や職員の安全のために、休校すら検討しなければならないだろう。

 恵美が「療養」に入ってから一週間以上が経っている。

 学校の中は至って平穏だ。

 生徒が呪詛されて、特区警備隊が立ち入り調査をした等ということは誰も知らないし、そんな物々しい気配は全く感じない。

 凪ですら、注意しているというのに何ら不審な点が見つからないのだ。

 いっそ、恵美の自作自演を思ったほうがしっくりくるくらいに何にもない。もちろん、あのひっかき傷が帯びたドロドロとした怨念を知る凪が恵美の自作自演を疑うことはありえない。

 では、特区警備隊の調査に瑕疵があったのか。今はほぼ毎日校内を見て回っている凪だが、呪詛の気配を感じない。結論としては特区警備隊と同じだ。この学校に、呪詛は仕掛けられていない。学校側も、そうであれば、休校にする必要はないと判断したようだった。

「気味が悪い」

 凪はぽつりと呟く。

 昼休みを使った見回りは、まったく手応えがないままに同じところをぐるぐると回るだけになっている。校舎裏もグラウンド脇の体育倉庫も視てみたが、何ら異常はない。

 これが、そもそもおかしい話だ。

 そもそも、暁の帝国の学校は、霊的に保護されている。第四真祖の夜の帝国(ドミニオン)なだけあって、国民には様々な種族が入り交じった状態であり、中には呪術を用いた犯罪――――魔導犯罪を犯す者も残念ながらいる。そうした犯罪から児童生徒を守るために、各校は攻魔師資格を持った教師を配置したり、呪術で学校そのものを霊的に保護したりする。

 中央高校は人事異動の結果、今年度から攻魔教師が不在になっているが、学校の敷地は結界に覆われていて、霊的な守護については国の基準を満たしている。

 結界に覆われた学校の中にいる生徒に外から呪詛を飛ばすのは、よほどの実力者でなければ不可能だ。それにも関わらず、校内で恵美は被害に遭っている上に、自宅では攻撃されないところを見ると、相手は学校の中でのみ活動していると見て間違いない。ところが生徒や教師の中で呪詛に精通しているのは、凪と空菜だけだ。魔族は少数ながら通っているが、種族としての能力は使えても被害内容に合致した能力ではなかった。

 何者かが侵入して、呪詛を仕掛けた様子もなく、特区警備隊の調査でも原因不明だ。

 闇雲に探し回っても、見つかる相手ではない。

 姿を隠しているというよりも、現時点でここに「いない」のだろう。敵は学校を住処にしていないのだ。

 調査方法を抜本的に見直す必要がありそうだ。

 

 

 

 ■

 

 

 

 昼前から怪しかった雲行きは、午後三時を過ぎたころから悪化の一途を辿り、空菜が学校を出る頃にはしとしと雨を降らせていた。天気予報の通りだ。日傘も兼ねた黒い傘を開いて、水たまりを飛び越える。猫系の獣人の要素を持っているからか、空菜は身体が濡れるのがあまり好きではない。こういう日は、天気予報を見た時点から気分が乗らない。それでも、今日は少しだけ雨でもいいかと思っていた。

 膝の上でエンジンを全開にしてゴロゴロ言っている虎吉を撫でる。虎吉は目を細めて付け根から二つに分かれた尻尾を揺らしている。

 雨の中、空菜は恵美の家にやって来たのだ。虎吉はよほど空菜を気に入ったと見えて、当たり前のように空菜の膝の上を占領している。

「ごめんね、わざわざ来てくれたのに、お茶くらいしか出せなくて」

「いいですよ、気にしなくて」

「虎吉、すっかり空菜さんに懐いちゃって。ちょっと、寂しいよ」

 虎吉は甘えるようにひっくり返って腹部を見せるので、恵美が「このこの」とわしゃわしゃ乱暴に撫で付ける。

「ところで、坂木さん、身体の具合はどうですか?」

「大丈夫。家にいると引っかかれなくて済むみたい。……やっぱり、学校なのかな?」

「特区警備隊の調査では、学校に異常はなかったという話ですよね」

「空菜さん、知ってるんだ」

「凪さんと一緒に柳葉先生から伺ってます」

「おじさんから? そうなんだ。その、大丈夫なの?」

「大丈夫とは?」

「呪い的なのは。特区警備隊の人が言ってたんだけど、呪詛っていうのは人に話すと移すかもしれないから、専門家以外にはあまり言わないほうがいいって聞いたんだけど」

「わたし、体質的に呪詛は効きませんので、その心配は無用です」

「効かない?」

「はい」

 空菜は頷いた。

「これでも吸血鬼ですから。生半可な呪詛は効きませんよ」

 と、空菜はそれらしいことを言った。

「そうなんだ。なんか、いいな、呪詛が効かないって」

 吸血鬼だから呪詛が効かないということはない。膨大な魔力を有するので、呪詛が効果を発揮しにくいという事実はあるが、必ずしも呪詛が効かないかというとそうではない。しかし、空菜の場合は眷獣の能力で呪詛そのものを無効化できるというのが正答だが、恵美にはそこまでの説明は必要ない。

「あ、そうでした。今日の本題を忘れてました」

「これ?」

 恵美は自分の左手の袖を捲り、包帯を見せる。

「はい。こっちと交換してください」

「お札にも使用期限があるんだね」

「込めた霊力が抜ければただの紙ですからね」

 包帯を解いて、凪が渡した呪符を受け取り、代わりに別の呪符を渡した。

「同じの?」

「はい。効果は同じ。ですが、準備期間が取れたのでこれまでよりも強力な魔除けです。そこらの悪霊では近づくこともできないようにしました。国の規制基準のギリギリを攻める意欲作、だそうです」

「そこまで大げさな」

「凪さんはちょっと前に呪い関係でいろいろあったので、今けっこう力を入れて勉強してるみたいですよ」

「昏月君も、呪い関係で何かあったの?」

「攻魔師ですし。それに、何というか巻き込まれ体質ってヤツなんですよ。人がいいので」

「そうなんだ。なんか、ごめんね」

「攻魔師の資格を持ってるので、相談を受けるのは当たり前なので、坂木さんが気にすることではありません。わたしが言うのもなんですけども」

 空菜は新しい呪符を坂木の包帯に巻き込んでいく。手早く包帯を巻き終えて、回収した呪符は金属製の専用ケースに仕舞い込む。

「ありがとう。包帯巻くの上手いね」

「そうですか? まあ、練習しましたからね」

 もともと、空菜には多彩な知識がある。自分は吸血鬼なので、怪我とは無縁だが、一緒に住んでいる凪はそうでもない。いざというときのために、応急手当を学んでいたのだ。

「そうだ。学校って今、どんな感じ?」

「体育祭が台風と重なりそうでヤキモキしてる人が増えてきた感じですか。坂木さんのクラスがどうかは知りませんけども」

「あ、そうだね。確かに」

 空菜と恵美は別のクラスだ。この事件がなければ関わることすらなかっただろう。当然、空菜が恵美のクラスの様子を知っているはずがなかった。

「わたし、これからどうしたらいいのかな?」

 恵美はぽつりと呟いた。

「誰かに呪われるような、悪いことしたのかな?」

「気休めは言えませんけど、坂木さんに落ち度はないと思います」

「そう?」

「呪詛は悪い人がするものですから。それに、坂木さんが悪い人だとは思いませんし。理由なんてないですけど、わたしの勘です」

「勘?」

「はい。割と鋭い方だと思ってます」

 真剣な顔でそう言う空菜に、恵美は思わず吹き出してしまった。

 空菜は何を笑われたのか分かっていない様子だ。

 実のところ、恵美が笑顔を見せたのは久しぶりのことなのだ。誰かに恨まれている。それも、強力な呪詛をかけられるほどにだ。それが、恵美の心を責め苛んでいる。しかも、犯人は教室の中にいるかもしれない。とても、学校に行こうとは思えなかったし、楽しいという気持ちが湧いてくることもなかった。そんな中で凪と空菜は、自分のために行動してくれているのが分かる。虎吉も空菜に懐いているし、今、一番信頼できるのはこの二人なのだ。

 玄関のドアが開く音がして、空気が揺れる。

「ただいま、恵美」

 と、女性の声がする。

「母さんが帰ってきたみたい」

 どうやら、帰ってきたのは恵美の母親のようだ。

 リビングに入ってきた恵美の母は、三十代にも見える若々しい見た目だった。飾り気はないが、恵美の母親らしい綺麗な女性だ。

「お客さん?」

「空菜さん。攻魔師の昏月君の妹さん。お札を取り替えてもらってたの」

「ああ、あのお札の」

 凪から渡された呪符のことは、母親も承知していたようだ。買い物袋を置いて、空菜のところまでやってくる。

「娘がご迷惑をおかけしてます。恵美の母の雪子です。いろいろ、恵美のためにしてくれて、ありがとう」

「ちょっと、母さん」

 仰々しい母の対応に、恵美は顔を紅くして抗議した。

 真面目で大人しい印象の恵美も、親の干渉には思うところがあるらしい。

「あら、虎吉もそこにいるの?」

 娘の愛らしい反抗をそよ風のように受け流し、視線を向けたのは愛猫の虎吉だ。空菜の膝の上で、すっかりリラックスモードに入ってしまい、ごめん寝をしている。空菜が耳の先に触れるとピクピクと耳を動かすが起きる様子はなかった。

「もうすっかり空菜さんに懐いちゃったみたい」

 空菜がこの家に来てから、ずっと虎吉は空菜の膝から動いていない。

「珍しいわね。虎吉がこんなに家族以外に懐くなんて」

「そうなのですか?」

「猫だけに警戒心が強い子なのよ。赤の他人の膝になんて乗らないわ」

 雪子の答えは空菜にとっては意外だった。ずいぶんと人懐っこい猫又だと思っていたのだ。

「じゃあ、凪さんの対応が普通だったんですね」

「どうかな。さすがにひっかいたりはしないんだけど、昏月君は全然ダメだったもんね」

「何が違うんでしょうね」

 凪はまったく虎吉には受け入れられなかった。

 相性の問題だろうか。

 特に理由なく動物に嫌われる者もいるにはいる。そういう人は、大抵が動物の勘に障る行動を無意識にしているのが原因なのだが、凪はそうではなかったはずだ。まして、虎吉はただの猫ではなく猫又だ。知性が高く、画一的に判断することはできない。単純に凪のことが気にくわないというだけの理由かもしれない。

 ぐっすりと膝の上で眠る虎吉を抱き起こすのも気が引けたので、空菜はその後一時間、坂木家で談笑することになった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 出席日数の問題もあり、このまま欠席が続けば恵美は留年することになってしまう。小学校や中学校の留年制度はすでに形骸化していて、ほとんどの学校は長い不登校でも、進級も卒業もさせてくれるが、高校では留年は珍しいことではない。事情が事情だけに、救済措置を求めることも不可能ではないだろうが、それでも限度がある。

 何よりも、恵美が学校に戻りたいと思っても、呪詛の問題を解決しなければ安心して通学することなど夢のまた夢だ。

 学生の立場からすれば、一日も早く復学したい。恵美は真面目な生徒だ。この卑劣な呪詛のせいで学校生活を壊されるなど、あってはならないことだ。

 特区警備隊の調査は一応続いている。学校では呪詛が見つからなかったので、今は本人の身辺警護に力を入れているという状況だ。校内で襲撃されていることから、学校関係者による呪詛という線が濃厚で、恵美がしばらく登校していないことから、自宅でも同様の被害に遭う可能性を考慮しての対応だ。

 術者が呪詛をその都度飛ばしているのなら、明確に学校関係者が犯人だと言える。恵美が校内にいる間に呪詛で狙い打ちするためには、自らも校内にいなければならない。

 設置型の呪詛ではないとなれば、この可能性が最も高い。使い捨ての呪詛ならば、長々と痕跡が残ることもない。

 とはいえ、それすらも状況証拠からの推測でしかない。

 恵美に残された呪詛の痕跡以外に、呪詛の存在を示すものは何もないのだ。これが、今回の事件の最大の問題点だ。

 どのような呪詛なのか、それをまず明確にする必要があった。

 凪は一人で学校にいた。土曜日の夕暮れ時だ。土日の部活動は当面の間、昼間のみの活動となったため、校舎内に人はおらず、廊下はしんと静まりかえっている。

 人気のない夕暮れの校舎は、それだけで不気味だ。普段明るく活気に満ちているだけに、雰囲気の落差が大きい。同じ景色が完全に別物になったかのようだ。

「さてと、鬼が出るか蛇が出るか」

 凪はズボンのポケットに手を当てる。そこに入っているのは、恵美から回収した魔除けの呪符だ。恵美を襲う呪詛を弾くために渡したものだが、空菜が回収した後で術式に手を加えた。恵美を守り続けていた呪符は、恵美の霊力を帯びていて、それを増幅している。今、霊的存在からは恵美がここにいるように見えるはずだ。

 特区警備隊が検討し、恵美を危険に曝すとして却下した囮作戦だが、凪は恵美の霊力を携えることで、自らを囮としたのだ。

(見てるな)

 じっとりとした視線を凪は感じた。

 周囲には誰もいない。一人で来たのだから当然だ。しかし凪の霊感は明確に、敵意を感じている。昼間の学校では、頑なに気配すら感じさせなかったものが、凪の感知できる範囲内にいる。

(それにしても、どうやって来た? 校舎の結界には引っかかってないみたいだぞ?)

 校舎を取り囲んでいる結界に異常があれば、すぐに知らせが来ることになっている。それがないということは、敵意の主は結界に引っかからずに校舎内に入ってきたか、校舎内にもともといたかのどちらかなのだが、どちらも現実味がない。ありえるのだろうか、そのようなことが。誰にも気づかれずに校舎を出入りすることも、誰にも気づかれずに潜み続けることも困難なはずだが。

(どうする? 来るか?)

 視線に入り交じる敵意は強い。強烈な憎しみの念がじりじりと凪の首筋を炙っている。この感じは、以前戦ったエレディアに近い。怨念の塊。生ある者を尽く憎む力の結晶。これは、間違いなく怨霊の類だ。

 この呪詛の主は、非常に強い恨みの念で恵美に執着している。

 その理由まではまだ定かではないが、そこまで分かれば対処法はある。

 張り詰めた緊張感が凪の胸を締め付ける。

 平原でライオンに狙われたシマウマのような気分だ。

 振り返らないで廊下を歩く。ペースは一定で、三階の理科室の前から反対側の階段に向かう。

 敵意を帯びた魔力が廊下に満ちている。海の底にいるような息苦しさだ。霊的感受性の高い凪は、この悪意を明瞭に感じ取ることができた。

 どこからともなく、風が吹いた。

 次の瞬間、凪は身体を捻って後方に腕を振るった。

「……ッ!!」

 敵意が殺意へと膨れ上がり、何かが背後から凪に襲いかかったのだ。 

 風船が割れるような音がして、窓ガラスがガタガタと揺れる。凪の視線の片隅を黒い影が通り抜けた。霊力を込めた拳でのカウンターで、黒い影を打ち払ったのだが、すぐに相手は着地してするりと凪の脇を抜けてしまったのだ。

 それどころか、振り返る凪に向かってすでに第二の攻撃を仕掛けてきた。凪は未だに相手の全体像が視えていない。凪の動体視力が辛うじてその影を捉えているという程度。霊感に任せて、対処する。呪力を全身に巡らせて身体能力を強化し、魔除けの呪文で反撃した。

「いつつ……」

 ほんの三秒に満たない攻防で、凪の右手からは派手に鮮血が吹き出し、頬にも擦過傷ができていた。軽々とした身のこなしで凪を傷付けた何者かは、予想通り、大きな猫の姿をしていた。

「そこまででかいと猫には見えないな」

 それは真っ黒な影絵のような猫だった。大きさは雄ライオンくらいか。差し込む西日の逆光なのに、「それ」には影がない。それそのものがこの世に滲み出た影であるかのような違和感だ。

 黒々とした炎を纏っているかのように、その身体はぼやけていて、絶えず揺らいでいる。

 ギラギラとした黄金色の目が、激しい憎しみを訴えてくる。憎くて憎くて仕方がない。傷付けて、恐怖させて、地獄の底に引きずり下ろしてやろうという陰湿な悪意を感じる。

「本物は初めて見るな。しかも、かなり強力な……ッ」

 黒猫の怪物は、凪の予想を超えた速度で飛びかかってくる。一歩が大きい。驚異的なスプリンターだ。

未来視で一瞬先を見通す。最初の反応の遅れを、体裁きで補う。不意打ちや予想外の攻撃への対処法は那月から嫌というほどたたき込まれた。突然、空間を飛び越えて現れる那月に比べれば、動きが見える分まだマシな相手だ。

 後ろに下がりながら、爪を躱し、さらに飛びかかってくる猫の顎を膝蹴りで蹴り上げる。

「ギッ――――!」

 どろりとしたスライムに触れたような感触だった。実体のない魔力だけの身体なのだ。その有り様は吸血鬼の眷獣近く、その身体を構成する魔力は人に仇為すための指向性の呪いだ。当然、直接触れるのは危険だが、凪は服の内側にまんべんなく呪符を貼り付けてきた。呪詛に立ち向かうと決めて来たのだから、それ相応の準備はしている。混沌界域から帰ってきた時に紗矢華からもらった魔除けの呪符で裏打ちした制服は、エレディアの呪詛にすら耐えうる逸品に進化しており、黒猫の爪が帯びた呪詛を完全に封殺していた。

 それどころか、凪の膝蹴りを受けて、その体内に破魔の霊力をたたき込まれた。綺麗に決まったカウンターで黒猫の身体にノイズが走ったように、その存在がブレる。

 狙った獲物が恵美ではないと気づいたのか黒猫は身体を捻り、壁を蹴って凪から距離を取る。そして、そのまま一目散に走り去った。

「待て!」

 凪は、黒猫を追った。身体強化を施しての全力疾走だが、物理的な動きを超越している黒猫にはとても追いつけない。

 それでも、マーキングには成功した。これで、あの動物霊の大凡の位置は把握できる。次の襲撃には、もっと素早く対応できる。

 逃げた黒猫を追って、凪は階段を飛び降りるように体育館に向かう。

 体育館に駆け込んだ時、唐突に黒猫の気配がかき消えた。

「……ッ!」

 驚愕を声に出さず、霊力を体内に漲らせる。眼筋を強化して、漆黒の闇に覆われた体育館の中を具に観察する。

 暗闇に潜む真っ黒な猫の怪異は、普通の視覚で捉えるのは難しい。霊的な感覚を研ぎ澄ませて、感知しなければ不意打ちを食らうことになる。

 第六感を駆使した全方位の索敵にも、黒猫は引っかからない。完全に消失している。目の前に広がっているのは、ただの夜の暗闇だ。黒猫が発していた、猛烈な瘴気にも似た悪意を感じない。少なくとも、校舎の中からは脱したと見える。

 結界に覆われた校舎から、凪のマーキングの範囲外に一瞬で抜け出すことができるだろうか。それこそ、転移魔法を使わない限り不可能な芸当だ。そして、そんな真似ができるのは魔術を極めて高位の魔女や魔術師くらいのものだ。

 言いようのない気味の悪さを感じながらも、一通り凪は校舎の中を見て回る。そして、異常がないことを確認して、やむなく帰路に就いた。


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