二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 中央行政区は、その名の通り暁の帝国の行政機関の多くが集約される行政都市だ。オフィスビルや高層マンションが建ち並び、スーツ姿で行き交う人の数は国内最多とされる。その一方で人口は国内第五位。よくあるドーナツ化現象がここでも起きていて、昼間の人口と夜の人口の差が非常に大きいのが特徴だ。

 そんなホワイトカラーの街である中央行政区の一画に建つタワーマンション――――通称、暁城は、上層階に第四真祖の妃とその娘たちが暮らす文字通りの御殿である。物理的にも呪術的にも、極めて強固に設計され、さらに昨年に眷獣の侵入を許した教訓から、さらに補修が行われた。見た目こそ、暁の帝国では珍しいタワーマンションだが、その防衛機構は眷獣を用いた攻撃にすらも想定したまさに城砦であり、暁城という通称は的を射ているといえるだろう。

 その現代の城砦の内部で、何よりも優先して守られなければならない姫の一人が絶望していた。額に冷や汗を滲ませて、眼を開き、見てはならないものを見てしまったとばかりに打ち震えている。

 虹色に煌めく金髪が特徴的な、少女――――暁東雲である。彼女は、十歳からつい先日までのおよそ六年間を混沌界域に留学して過ごしていた。正式に帰国してから二ヶ月あまり。混沌界域で東雲を巡って生じたテロ事件にかかるケアをするために、定期的な通院を余儀なくされ、学校にもまだ通えていないというように、未だに以前のような生活には戻れていない。

 その東雲は、今、完全に固まっていた。彼女の視線は、スマホの画面に固定されている。そこに映っていたのは、二日前に受けた精密検査の結果通知であった。

「あ……あああああああぁ」

 東雲にとっては、受け入れがたい結果だった。ショックで呻くしかない。ここに他に誰もいないのが幸いだった。スマホを見ながら、地獄の底から呻く亡者のような声を聞かれなくて済んだのだから。

 

 

 

 日々上昇していく気温と不快指数は、科学技術の最先端を行く暁の帝国でも如何ともしがたいものがある。

 夏を目前にした初夏の涼やかさというのは、ほんの数日しか続かなかった。この三日間、晴天が続き、外に出るのも億劫になる夏日が連続している。家に閉じこもってクーラーの効いた部屋でまったりするのが、インドア派の正しい生き方だと暁萌葱はスマホで天気予報を眺めて思った。

 萌葱は見た目こそ、遊んでいそうな外見をしているが、本質的にはインドア派だ。外で馬鹿騒ぎをするよりも、黙々とパソコンや機械を弄っているほうが好きなのだ。

 その萌葱がわざわざ休日に家を出て向かったのは、二つ下の階だった。

 タワーマンションの五十階に設置されたプールが目当てだ。

 このマンションには、一階と五十階にプールが設置されている。完全な人工島である暁の帝国では、真水は貴重な資源だが、その一方で市民プールや学校のプールも普通に運営されている。それは、プールに貯水槽としての役割を担わせることで、万が一の水不足に対応するためであった。

「元がプールの水だって言われたら、あまり飲みたいと思わないけどねぇ」

 プールの入り口の壁には、暁の帝国の貯水システムの概略図がかけてあった。この建物のプールも排水された後は浄化処理されて、その八割が中央行政区内で循環していく。真水を海に垂れ流すということは、ほとんどない。暁の帝国が開発した浄水システムは、深刻な水不足に喘ぐ乾燥地帯を中心に輸出され、世界十三カ所で稼働し、その地域を潤している。

「誰か来てる?」

 更衣室に入った萌葱は、先客がいることに気づいた。プールの入り口は電子錠で施錠されていて、中に入れるのは暁家の者か、特別に許可された客だけだ。姉妹の誰かが、先に泳ぎに来ているのだろう。運動を率先してするのは、零菜か麻夜、あるいは紗葵であろう。

 萌葱は競泳用の水着を着てストレッチをする。ボディラインに鮮明にする水着が、萌葱のスレンダーな体型を浮き彫りにする。年頃の女子らしく、体型は常に気にしている。インドア派であっても、こうしてプールに来るのは、気軽に運動ができるからだ。汗をかくのは嫌いだが、プールは熱さとも汗のべたつきとも無縁だったし、効率よく全身運動ができる。ほぼ自宅にあると言ってもよい施設を使わない手はないのだ。

 特に警戒することもなく、萌葱はプールに突撃する。ほんのりと塩素の香りがする。空調が効いているので暑すぎず寒すぎずのほどよい室温だ。まさに都会のオアシス。蒸し暑い暁の帝国においては、海水浴と並ぶレジャーがプールとなるのも頷ける話であろう。

 身体に負担のかからない程度のほどよい運動と避暑を兼ねた水浴び、もとい水泳に来た萌葱は、本気の水泳に勤しむ先客を思わず眉を潜めた。

「どうしたの、急に?」

 じゃばじゃばと水しぶきを上げてクロールをしているのは、東雲であった。

 東雲は日常的に運動をしているわけではない。まして、水場で遊ぶという程度ならばまだしも、本気で及ぶ姿は普段の東雲からは想像ができないものだった。

「はふー、きつい」

 反対側の壁まで泳ぎ切った東雲は、水に入ったまま足を底に突いた。ぜえぜえと肩で息をしている。そんな東雲をプールサイドから見下ろして、萌葱は話しかけた。

「何してんの?」

「うわ、萌葱ちゃん、いたの?」

「今来たとこ。ガチ泳ぎなんて珍しいじゃん。混沌界域(向こう)でも、泳いでたんだっけ?」

「いや、別にそういうんじゃないけど。世の中、暑いしね。運動不足もよくないし。萌ちゃんは?」

「あたしも同じ」

 萌葱は水の中に飛び込んだ。冷たい水に全身が浸って気持ちがいい。このまま何もしないで浮かんでいたいくらいだ。

「あー、冷てー」

「いきなり飛び込まないでしょ。顔にかかった」

「泳いでたヤツが何言ってんの」

「不意打ちで顔に水かかったらびっくりするでしょ?」

 むっとする東雲は半歩分、萌葱から距離を取った。

 東雲は自分の身体について、いくらかのコンプレックスを抱えている。その一つが身長だ。こっそり背伸びをしてやっと百五十センチに届くかどうかという身長は、混沌界域で仲のよかった仲間内では最低だ。もともと童顔なのに、身長も低いせいで年齢よりも低く見られることはザラであった。プールの水深は百二十センチだ。水面から頭のてっぺんまで三十センチしかないが、萌葱はさらに十センチほども余裕がある。身長差をいつも以上に感じてしまい、思わず距離を取ってしまったのだった。

 萌葱のほうも「今、こいつ距離取ったな」というのは感じていた。そして、なるほど、とも思った。萌葱から距離を取ったのが悪意から来るものではないのは明らかであったし、かといって水しぶきがどうこうという話でもない。無造作に萌葱は東雲の脇腹をつついた。

「んひゃ!? ちょ、何!?」

「いや、何となく?」

「何となくでつつかないでよ」

 東雲は萌葱の手から逃れるために、さらに三歩分、水中を滑るように移動する。

「それ、彩海学園(うち)のスク水でしょ? 買ったの?」

「編入予定ではあるからね。必要な教材は一式、もう揃えてるんだよ」

 東雲が暁の帝国に戻ってきたのは、年度末だ。もともと予定していたものではなく、突然の決定だったので編入手続きが遅れている。東雲の身体のこともあり、帰国してから二ヶ月近くが経った今でも学校には通えていないのだった。

「萌ちゃんこそ、別に泳ぐのが好きって訳じゃないのに競泳用の水着は持ってるんだね」

「何があるか分からないからね。がっつり泳ぎたくなったときに、持ってたら便利でしょ」

 萌葱は床を蹴る。まるで月の上にいるような感覚でふわふわと水中を漂って東雲に迫る。東雲はバックステップを踏んで萌葱から距離を取る。

「何で逃げんのよ」

「何で追っかけてくるの」

「いいじゃん、ちょっと捕まってよ」

「意味分かんないし、やだって、あ、ちょっと」

 後ろに逃げるよりも前に進む方が速い。陸上ならば萌葱が東雲に追いつくことなどできなかっただろうが、水中ならば話は別だ。萌葱はあっさりと東雲に追いついて、東雲の脇腹辺りを弄り出す。

「ふぎゃッ、ちょっとくすぐったい! やめ、変態!」

「誰が変態だ、このこの」

「うわ、ほんとくすぐったいって、んにゃ、は、離せー!」

 東雲はジタバタ暴れて萌葱を突き飛ばす。それから身の危険を感じたのかまた距離を取る。

「何のつもり?」

「あはは、ごめん。ちょっと気になって」

「何が?」

「いや、ほら、どんくらいぷにぷにしてんのかなって」

 萌葱は人差し指と親指で何かを掴む動作をする。それを見て、東雲はかっと顔を紅くした。

「ぷにぷになんてしてないんだけど!?」

「急に水泳始めたから、気にする何かがあったんだろうなと。この前の検診結果、そろそろだし?」

「うが……」

 東雲は言葉を失ってぱくぱくと酸欠の金魚のように唇をわななかせてうろたえている。どうやら図星だったらしい。

「あらー、やっぱり?」

「やっぱりって何? え、わたし外見に出てる?」

 東雲は紅かった顔を青くして自分の頬を抑えた。

「どうかな。んー、気持ち丸みを帯びてきたような」

「いや、冗談でしょ? 三キロ程度でそんな違いが出るわけ」

「三キロも増えたの?」

「うが……」

 失言に気づいたときには萌葱はにやにやといやらしい笑みを浮かべていた。東雲は悔しげに顔を歪めた。

「三キロって結構だよね。いつから?」

「……二月から」

「一ヶ月あたり一キロか。順調に育ってるってわけね」

「ぐぐぐ……」

 気づいていないと言えば嘘になる。体重計の確認は日々しているし、健康診断の結果も毎回きちんと見ている。体重の変化を気にするのは乙女の基本だ。東雲が今になって慌てて運動を始めたのは、今体重が何キロというのも重要だが、それ以上に今後の体重の変化を予測したグラフが示されたことが大きい。

「ふーん、月一キロペースなら、確かに一年後にはなかなかいい感じに丸くなってるわね」

「丸くなりたくない。ただでさえ背が低いのに、横に広がったりしたら……」

 東雲はまだスレンダーだ。三キロ増えたというが、それは二月中に心労で大きく減った体重が戻ってきただけなのだから、むしろそれそのものは好意的に捉えていいだろう。健康診断でも問題視されたのは、増え方で、この一ヶ月でグラフの傾きが急になっていた。

 学校に通わなくなり、運動量が減った。それに反して摂取カロリーは変わっていないのだから、当然、余剰なエネルギーは貯蓄に回されるだろう。

「それにしても、急に増えるってどうしたんだろうね。何か、心当たりあるの? 参考までに」

「……まあ、それは、なんて言うか……寝る前にラーメンとか食べちゃったり」

「自業自得では?」

「毎日じゃないもん」

「他には?」

「強いて言うとお弁当作ってるときに味見してる」

「やっぱり自業自得なんじゃないの?」

「うっさいうっさい、目の前に美味しそうなのがあったらお腹すくでしょー!」

「うわ、いきなり水かけんな」

 突発的に水の掛け合いが始まる。それから水中でのプロレスだ。地上ではできない三次元的な動きで東雲と萌葱は取っ組み合う。

「何してんの二人して」

 と、騒いでいる二人をプールサイドから見下ろしていたのは零菜だった。いつの間にやって来たのだろうか。萌葱も東雲も気づかなかった。

「零菜も来たんだ……ぅ」

 顔を上げた萌葱は喉を埋まらせたように呻く。

「零菜ちゃん、お疲れー……ぁ」

 東雲もまた、零菜を見上げて固まる。

 零菜が着用しているのは、白いスポーツビキニだ。簡素なデザインだが、激しい運動にも耐えられるのは一目瞭然である。まかり間違ってもポロリは起こりえない安心設計だ。そのシンプルなスポーツビキニが、零菜の健康的な肉体美を引き立てている。ほどよく引き締まりくびれた腰に薄ら浮かぶ腹筋の健康美が眩しい。その一方で、隠しきれない存在感を示すのは胸だ。萌葱も東雲も真っ先にそこに視線が向かってしまった。

「何?」

 萌葱と東雲の負の感情を乗せた視線を受けて身じろぎする零菜。

 水中で何やら取っ組み合いをしていた姉二人が、動きを止めたかと思えば血涙を流さんばかりの視線を投げかけてくるのだ。零菜としては薄らと身の危険を感じざるを得なかった。

「ふう、まあいいや。ちょっと休憩」

 東雲は水から上がって、零菜の元にペタペタと歩いてくる。

「零菜ちゃんは今日は何? 何かの特訓かなんか?」

「いや、クールダウンも兼ねて泳ごうかと。さっきまで呪練場で扱かれてたからさー」

 呪練場は、その名の通り呪術の鍛錬をする専門施設だ。眷獣が扱えるだけでも吸血鬼は強大な魔族だが、眷獣は能力に偏りがある。種としての力だけでなく呪術を学ぶのも、最近のトレンドだ。

「うへ、大変」

「二人は何してんの?」

「わたしたち? えーと、そうだね」

 何をしているかと言われると、特に何もしていなかった。ダイエットというと負けた気がして嫌というのもある。

「準備運動中?」

「何の?」

「競争」

「ああ」

「零菜ちゃんもする?」

「わたし? うーん、面白そうだけど、あんまり得意じゃないんだよね」

 零菜は渋い顔をして答えた。

「珍しい。零菜ちゃん、運動全般得意でしょ?」

「え、うん、泳げはするけど……」

 零菜の身体能力はかなり高い。幼い頃から護身術をたたき込まれてきたし、身体の使い方も上手い。スポーツで必要なセンスを先天的に備えていて、飲み込みが早い。水泳に対しても、苦手意識は持っていなかったはずだ。

「どうかした?」

「ううん、別に、速く泳ぐの、苦手だから」

「そうだったっけ? 運動得意でしょ?」

「普通に泳ぐんならまあ……速くしようとすると、なんて言うのかな、スピードが出ないっていうか……」

「えい」

 零菜の言わんとすることを理解した東雲は、無造作に零菜の背中を押した。

「うわッ、うわわ!?」

 派手な水しぶきを上げて零菜はプールに落ちた。

「げほ、げほ、急に何すんの!?」

「あ、ごめん、身体が勝手に」

「無意識に人を突き飛ばす!?」

「あはは、ごめんって。でも零菜ちゃんも悪いんだよ」

「なんでわたしが?」

「この無自覚もちもちマシュマロダイナマイト。存在するだけで罪深い」

 じゃぶじゃぶ、と東雲は零菜に水をかける。

「うわ、もー、止めてってば。萌葱ちゃん、何とか言って」

「東雲はちょっと悩ましい時期だから」

 萌葱は肩まで水に浸かりながら、ゆっくりと零菜に近づいた。

「ていうか零菜、そんな水着持ってたっけ?」

「ああ、これ? この前買ったばっかだからね」

「混沌界域に持ってたのはどうしたの?」

「何かちょっと、背中が張るっていうかキツくなった感じで止めた」

 零菜の発言を聞いて萌葱と東雲は視線を交わした。それから頷いて、二人で零菜にプロレスを仕掛けた。

「うわ、何すんの!?」

「零菜、ギルティ!」

「反省しろ、ふわふわ大明神!」

 嫉妬と怨嗟の篭もった水中プロレスに引き込まれた零菜。ちょっとした水浴びのつもりで来たのに、いきなり姉二人に絡まれて散々な目に遭った。結局、その後は三人で意味もなく水中プロレスに興じ、落ち着いてからタイムを競い、最後には水球をして、都合三時間ほど動き続けた。

 


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