今年の夏は暑くなりそうだと、凪は漠然と窓の外を見て思った。
透き通った青空に綿菓子みたいな雲が漂っている。一時間前からほとんど位置が変わっていないので、今日は上空も風があまりないのだろう。窓は開け放たれているが、束ねられたカーテンが時折ふわふわと揺れるくらいの風しかなく、教室の中には春とは思えない熱気が篭もっていた。
高校生になって半月経った。
新生活に浮き足立っていた教室内も、このころにはある程度の落ち着きを取り戻し、最初のゴールデンウィークに向けてどう過ごすのかというのが目下の生徒たちの関心事になっていた。
凪個人で言えば、高校生という肩書きの範囲ではさほど変化はなかった。環境の変化はあっても、学校という枠組みを出る物ではない。周囲の人間関係や授業内容こそ変わったが、それは中学時代から進級しクラスが変われば似たような新学期のスタートだ。
この春から、凪は左手首に腕時計とは別にもう一つ金属製の輪を填めるようになった。
ピカピカの最新型魔族登録証である。
吸血鬼の力に目覚め、眷獣を操る凪は四月から正式に魔族として扱われるようになったのだ。人間から魔族に変化する例は少ないながらもあり得ないものではない。
一般的な例では吸血鬼の血の従者が該当するし、珍しいがよく知られる例としては僵尸鬼等がある、凪が高校に上がってから魔族登録証を付けることになったからといって、騒ぐ者はいなかった。好奇心で「何の魔族なんだ?」と尋ねてくる者は少なからずいたが、それも悪意あってのものではない。そもそも、ほとんどが初対面なのだから、大半のクラスメイトは凪が魔族登録証を付ける以前のことは知らないのだ。
中学までと違って、高校には給食を皆で食べるという習慣はない。この学校には学食もないので、それぞれの生徒が昼食を自分で用意する。学食の有無は学校によって違うが、概ね国内のどの高校も似たようなものらしい。幸いなことに凪には一緒に昼食を摂る友人ができた。これで一人で食事をすることになっていたら、なかなか不安な一年を過ごすことになるだろう。
「美味そうな弁当だな、凪の」
と、人の弁当箱を覗き込んで呟いたのは、上浜という男だ。凪よりも若干背が高くガタイがいい。小学校から柔道していて、高校でも初日から柔道部に入部届を出したという。
「まさか凪が作ってんのか?」
「いや、俺だったらコンビニで済ます。朝から弁当まで用意しない」
「だよな」
そう言う上浜は、登校途中にコンビニで昼食を購入している。部活の朝練で朝が早いので母親に弁当を用意してもらうのが忍びないらしい。かといって自分で作るのも面倒なので、コンビニ弁当にしている。今日も昨日も同じサンドイッチだ。
凪は柔らかい卵焼きを口に運ぶ。ほどよい焼加減の卵焼きは、凪の好みに合わせた薄い塩味だ。
「昏月君のお母さん、こっちに戻ってきてるの?」
と上浜の向かいに座る高木が口を開く。ガタイの大きな上浜に対して高木は線の細い少年だ。将棋部に入部した彼は、見た目の通り運動が苦手な絵に描いたような文化部系の学生だ。そして、実は凪と同じ中学校の出身だ。凪は高木を知らないが、高木は凪を知っていたらしい。
「いいや、全然。まだアルディギア」
「へー、じゃあ……」
「妹さんか、作ったのは?」
高木の言葉を遮って、上浜は身を乗り出してくる。妹さんというのは、空菜のことだ。母親不在の状況で凪以外が弁当を用意するのなら、消去法で空菜の名前が挙がるのは当たり前だ。今や、この学校で空菜の存在を知らない者は一人もいない。とんでもない美少女がいるという噂は三日もしないうちに学校中に広がったし、それが事実だと分かるやその注目度は跳ね上がった。
「空菜でもない。これ作ったのは、姉のほう」
「姉さんなんていたのか、お前に?」
「厳密には親戚だけど、いろいろあってほぼ同居状態だから」
「ほー……」
上浜はそれ以上の追求はしなかった。
家族関係の話題になったとき、凪の家庭環境を説明するのは難しい。母親はアルディギア王国で仕事をしていて長らく留守にしており、親戚は実は皇族。義理の妹の空菜は、まだ生まれて一年も経たない従姉妹のクローンだ。こうした事情を説明するわけには、もちろんいかないし、かといって嘘を塗り固めても不自然だ。だから、凪の常套手段は「いろいろあって」という一言だ。これだけで、大抵はそれ以上の追及を止めてくれる。複雑な家庭であることを臭わせることで、良識ある人は引き下がるのだ。
「それでも、お姉さん毎日弁当作ってくれてるんでしょ? 妹さんにも。すごいよね」
「最近、料理に目覚め始めたみたいだからな。暇を持て余してるっていうか。学校行ってないからな」
凪と空菜の弁当を用意しているのは東雲だった。
四月から学校が始まった凪たちと異なり、東雲は転校の手続きが終わっていない。日中暇であるということと料理の勉強も兼ねて凪と空菜の弁当を作っているのだ。ちなみに彩海学園は食堂があるので、弁当は必要ない。
上浜の部活の愚痴をつらつらと聞きながら昼食を終えて、弁当箱を閉じた時に教室の後方から空菜が入ってきたのが見えた。
空菜は三つ隣の一組だ。選択授業や複数のクラスが合同で行う体育でも被ることはないので、校内で顔を合わせることは希だった。
空菜が入ってきたことで、クラスの視線が一斉に彼女に引き寄せられた。
「凪さん、二限、世界史でしたよね?」
「そうだけど、どうした、急に?」
「教科書を貸してもらえませんか? 今日はもう使いませんよね?」
「なんだ、忘れたのか?」
授業が重ならないということは、こうして教科書の貸し借りもできるということでもある。空菜は凪のクラスの時間割表を頭に入れているし、凪が置き勉しているのも知っているので、教科書を忘れたときは借りに来ることもできるが、彼女が忘れ物とは珍しい。凪は机の中から二時間目に使った世界史の教科書を取り出して、空菜に渡した。
「わたしが忘れたわけではないですよ。友達が忘れたから貸してあげようと思って」
「そう。まあ、今日はもう使わんから、持ってっていいぞ」
「ありがとうございます」
教科書を受け取った空菜は特に表情を変えることなく、教室を出て行った。周囲から注目されていることも、何とも思っていないのだろう。
教科書を受け取った空菜は、自分に向けられた視線に一瞥も返すことなく教室を後にした。
「いいなぁ」
と、上浜は呟く。
「超絶美人な妹とか、羨ましいぞ」
「まあ、な」
「お義兄さん。今日、遊びに行っていい?」
「誰がお義兄さんだ、気持ち悪いな。部活サボんな」
「昏月さんとお近づきになれるなら、部活とか余裕でサボるわ」
顧問が聞けば額に青筋を浮かべるであろう発言に、隣の高木も頷いている。
「まあ、でも実際昏月さんって付き合ってる人いないでしょ。中学の時から、モテてたけど、告白は全部断ってたって話だし。それも、かなり切れ味鋭くスパッと」
「スパッと?」
「『あなたに興味ありませんので』的な感じ。僕だったら立ち直れないな」
空菜はあの見た目なので、中学時代からかなり人気はあった。学校には一年もいなかったが、告白やそれに近いアプローチは何度もあった。それを尽く拒否して今に至っている。空菜が誰とも交際する気がないどころか、アタックしても玉砕するだけと広まったことで、そう言う意味合いで近づこうとする男は激減したが、高校に入学してからは再び空菜の周囲が色めき立っていた。
「上浜君は、昏月さんにアプローチするの?」
「お前、俺がぶった切られると思いながらそういうこと言うんじゃねーよ」
「もしかしたら、万に一つの可能性を引き当てるかもしれないよ」
「そんなギャンブル俺はしないっての。あんくらいの美人は遠くから眺めてるだけで十分だわ」
肩をすくめてみせる上浜は、残ったサンドイッチを大口を開けて平らげた。
気づけば昼休みも半ばになっている。話し込んでいて箸が進んでいなかったことに気づいた凪は、掻き込むようにして弁当を空にした。
弁当を片付けていると、教室に学級委員長の坂木が入ってきた。黒髪のショートボブの髪につけた二つの黒いヘアピンがトレードマークだ。見るからに真面目そうで、大らかな印象の女子だ。
その坂木は、A4サイズのプリントの束を持ってきた。
「委員長、それなに?」
と、クラスの女子が尋ねる。
「大ちゃん、体調不良で午後休みなんだって。だから、次の生物は自習」
教卓にプリントを置いた坂木の言葉に、特に女子が歓声を上げた。
大ちゃん、というのは生物教師のあだ名だ。「大介」だから大ちゃん。週に三回はジムに通うというスポーツマンで、見るからに体育教師ではないかと思わせる立派な体躯の持ち主ではあるが、物理が専門という理系教師だ。
生物が自習になって女子が喜んでいるのは、別に大ちゃんが嫌われているというわけではなく、次の生物がユスリカの幼虫の解剖だったからだ。
真っ赤な幼虫の頭を引き抜き、酢酸カーミンで染色して唾腺染色体を観察するというのが趣旨なのだが、苦手な人はとことん苦手だ。虫嫌いでなくとも幼虫の頭を引き抜くことに精神的な苦痛を感じる場合もある。教科書だけで十分だと思う者も少なくない。
「生物自習だって。理科室に行かなくてよくなったな」
「僕、ちょっと興味あったんだけどな」
「次の生物でするだろうから」
意外にも残念そうな顔をする高木。凪はというと、ユスリカの解剖はあまりいい気はしない。魔術を学ぶ以上、生物の犠牲は避けては通れない。古来、生き物を使った呪いは枚挙に暇がないからだ。しかし、それはそれとしてユスリカの幼虫の頭を引き抜く作業は、できればしたくはないものだ。
下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
これから先は、部活動の時間だ。
帰宅部の凪は、速やかに下校する。長々と学校に居座ってもすることがない。この学校は部活に所属することを強制していないが、多くの生徒が何かしらの部に所属している。
「凪さん、お帰りですか?」
玄関で空菜にばったり会った。
肩に提げたスクールバッグには兎のぬいぐるみがぶら下がっている。当初は無個性だった空菜は、いつの間にかこういう品を買い求めるようになっていた。言わば個性が出てきたということで、それは喜ばしいことだ。
「俺はもう帰る。空菜は?」
「わたしはこれから部活の見学です」
「へえ、どこ?」
「生物部です。友達が入りたがってるみたいで、ついていくことにしました」
「生物なあ……」
生物部というのが何をする部活なのかはまったく見当もつかない。凪とは生きている世界が違う感じがするし、運動部と違って実際に何をして過ごしているのか見えないので、イメージができない。ただ黙々と作業するようなものなら、確かに空菜の性格に合っているかもしれない。
「どんなとこだったか、後で教えて」
「了解です。では、夕飯までには帰りますので、オムライスで待っててください」
「今日の夕飯は俺じゃないから、その要望は聞けないな」
ちぇ、と唇を尖らせる空菜だったが、すぐに「では」と行って踵を返した。早足で向かった先には、二人の女子生徒がいて、あれが空菜の新しい友達なのだろう。空菜は二人と合流し、階段を上っていった。二階の隅にある理科室に向かったのだろう。
吹奏楽部の演奏と陸上部のかけ声が混ざり合って、学校はどこも騒がしい。平日の夕方特有の喧噪を背にして、凪は学校を後にした。
モノレールに乗って帰路につく。
夕日の光がビルの窓ガラスに反射してまぶしい。この時間帯はモノレールの混雑具合もさほどでもなく、日によっては座ることもできる。
自宅近くのコンビニで粗挽きソーセージを買って小腹を満たし、エネルギーを補給した。
マンションに入ってスクールバッグを担ぎ直し、階段を小走りで駆け上がる。凪の自宅は五十二階にある。普通はエレベータを使うところだが、トレーニングがてら階段を使う。人にぶつからないように注意しながら、ランニング程度のペースを維持して階段を昇っていく。
昔に比べて格段に身体が強くなっている。
肺活量も筋力も病弱だった頃とは比較にならない。
吸血鬼に近づいたことで、生物としての強度も上がっている。自分でも驚くほどの身体能力の向上だ。五十二階まで休むことなく駆け上がっても、ほどよく息が上がるくらいでしかない。まだ試していないが、全力で駆け上がっても休憩を必要としないという程度の体力はあるかもしれない。
ずっと続けてきた鍛錬の成果の一つをこうして実感できたのは、充足感に繋がっている。まだまだ強くなれるという将来への期待感も抱けた。
凪は自室に入って制服を脱ぎ、シャワーを浴びて汗を流した。
スウェットに袖を通し、冷たいお茶で喉を潤して一息ついてから、弁当箱を洗う。高校に上がってからのルーチンワークである。
洗った弁当箱の水気を取ったら、それを持って外に出る。向かうのは三つ隣の東雲宅だ。インターホンを鳴らすと、すぐに返事があった。
「開いてるよー」
ということなので、ドアを開けて中に入る。
当たり前だが間取りは凪の家と同じだ。しかし、不思議なもので住む人が違えば家の雰囲気はまったく別物になる。
凪と空菜が住む家に比べて、東雲の家は生活感に乏しい。それは、彼女がこの家に暮らし始めてからあまり時間が経ってないからだろう。
東雲の荷物の多くは、まだ混沌界域の邸宅の中にあるのだ。
「東雲、弁当箱持ってきた」
「あー、うん、ありがとー。置いといて」
と、声がするが姿は見えない。言われたとおりにシンクの上に弁当箱を置いた。
東雲は別室にいるようだ。
ガタガタと音がする。
「なんかしてんの?」
「ん、ちょっとね。あ、手伝ってもらえるかな?」
「何を?」
凪は東雲の声のする部屋に入った。
そこは小さな物置部屋で、東雲は大きな収納用のプラスチックケースを押し入れの中に押し込んでいた。
「なんだこれ」
「
「そこに入れればいいのか」
「うん」
プラスチックケースが二つ残っている。そのうちの一つを持ち上げると、確かにずっしりと重い。中身は東雲が買い集めた漫画で、凪には読めない混沌界域の言葉で書かれたものだ。
「軽々持ち上げるね。さすが、男の子」
「これくらい余裕余裕」
実際、筋力のついた凪にとっては軽いものだ。この三倍の重さでも、持ち上げることは難しくないだろう。
東雲も吸血鬼なので、持ち上げる筋力くらいはあるだろうが、それでも上背がないので荷物を持ち上げるのは大変なのだ。凪が自分の目線の高さに物を持ち上げる場合、東雲にとって頭より上に持ち上げなければならない。かかる負担はそれだけで大きく変わる。
「ありがとね。助かったよ」
「いいよ、これくらい。弁当も作ってもらってるし」
「どうせ、しばらくは暇だからね。それくらいしないと」
片付けが終わって、整理された押し入れを眺める東雲。本棚を用意するはずだったが、荷物のほうが先に届いてしまった。それで押し入れに押し込もうと思ったらしい。
「本棚なんてすぐに用意できるんだし、出したままでもよかったんじゃないのか?」
「見栄えが悪いじゃん。部屋の。とりあえず見えないとこに置いときたいの」
「そんなもんなのか……」
この家の生活臭が少ないのも、こういった性格によるものなのかもしれない。凪だったら、床に箱を置いたままにしていただろう。
「あれ、そういえば今何時?」
「五時十分過ぎ」
東雲に聞かれて、凪は腕時計を見た。
「そろそろご飯の用意しないと。みんな帰ってきちゃうね」
「手伝おうか?」
「え? いいよ、そんな。凪君も学校から帰ってきたばかりなんだし、休んでていいよ」
「学校なんてそんな疲れたりしないから」
最近、食事は東雲に任せきりだ。
暇だからと東雲は凪と空菜の弁当を朝に用意し、さらには姉妹の分も含めて夕食を作るようになった。混沌界域にいた頃は家事は人に丸投げしていたが、こっちに帰ってきてからは自分でするのが基本となった。その上で、まだ学校に編入できていないので有り余った時間を家事に回しているのだ。
「東雲に作ってもらってばかりも、よくないし。たまには一緒にやってもいいだろ」
「一緒に? あ、うん……」
東雲は頬を掻いて、髪先を弄る。思わぬ凪の申し出に、返す言葉をなくした。たいしたことを言われた訳ではないのだが、余計な意識をしてしまう。
すぐ近くに大きな雷が落ちたのは、その直後のことだ。凄まじい爆音が響いて、骨身が痺れるかと思ったほどだ。
このマンションに落雷したのではというほど近くだ。その影響で物置の明かりが消えた。この部屋には窓がないので、一瞬で室内が真っ暗になってしまった。
夜であっても、何かしらの明かりはある。人工の光に満ちた首都は、深夜でも空の雲に光が反射するくらいに明るい街だ。それがなくとも月や星の光もある。しかし、密室で明かりが消えれば光源は一切ない。本当に真っ暗になる。
「ひああッ!」
ドン、と凪の腰に衝撃が走る。バランスを崩して尻餅をつくが、咄嗟に体当たりをしてきた東雲を抱きかかえる。
「東雲、急にどうした?」
「凪君! 急に電気が消えて! やだ、凪君! 暗い、暗いの、見えない!」
「いて、ちょっと、引っ張るなって、なんだ、急に」
真っ暗でよく分からないが東雲が凪にしがみつき、滅茶苦茶に服を引っ張っている。尋常ではない。パニックになっているようだった。
「し、東雲。大丈夫だって、ただの雷だよ。すぐに……」
と、凪が言い終わる前に何事もなかったかのように電気が点いた。非常電源が機能したのか、それとも普通に復旧したのかは定かではないが、ただの雷程度で長々と停電するような柔な設計ではないのだ。雷で停電すること自体が、おそらくは初めてのことではないだろうか。
「東雲?」
大人しくなった東雲に声を掛ける。
「あの、ごめん。ちょっと、取り乱しちゃった」
起き上がる東雲は、いつもよりもずっと小さく見えた。
「東雲、大丈夫か?」
「……だ、大丈夫。別に、何でもない」
「顔青いぞ。それに、泣いてるじゃん」
「こ、これは、ほんとに何でもないって。あの、ごめん。気にしないで。ちょっと、びっくりしただけだから」
そうは言っても、凪が言ったように東雲の顔色が悪い。顔面蒼白で今にも倒れてしまいそうだ。昔、クラスの発表会の時に過呼吸で倒れたクラスメイトによく似ている。
逃げるように凪の上から下りようとした東雲を押しとどめたのは、二度目の雷鳴だった。これもまた近い。今回は電気が消えることはなかったが、東雲はびくりとして固まってしまう。
「う、あ……う」
明らかに東雲の様子がおかしい。
固まって震えている。
「出ようか」
できる限り優しく声をかけた。
東雲が何に怯えているのか、凪には想像ができた。
狭い物置はよくない。
東雲の手を引いて、リビングまで連れ出した。東雲は抵抗することなく、凪についてくる。ソファに座らせて、冷たい麦茶を飲ませた。
「落ち着いた?」
「うん。その、ごめん。驚かせて」
東雲は申し訳なさそうに目を伏せる。
「暗いところがダメなの」
東雲は呟くように言った。
「ああいう真っ暗なところ、怖くて」
「夜は?」
「ずっと電気点けてる。それに、こっちは夜もかなり明るいから、あまりこういうことはないんだけどね」
東雲の顔色は確かによくなってきている。
もともと肌が白いから、血色がよくなればそうと分かる。
冷や汗も収まったようだ。
「今日はちょっとびっくりしちゃった。急だったから」
「このことは、古城さんとか知ってるのか?」
「もちろん。だからこっちに帰ってきたんだし。おばあちゃんにも診てもらってる。なんで、そういう意味では問題ないの。薬もあるしね」
問題ないわけじゃない。
実際、東雲は苦しんでいるのだ。
あの東雲の動揺の仕方は尋常ではなかった。ほんの一時であっても、強烈な恐怖の感情を抱いていた。その原因は、ディアドラに拉致されたことだろう。東雲は真っ暗な部屋にずっと監禁され、弄ばれていた。詳細は凪には分からないが、ただ閉じ込められていただけではないというのは分かる。
当然、心に傷を負っている。
萌葱もそうだった。
短時間であっても、恐怖と苦痛で支配されていた経験は目に見えない傷を東雲に負わせていた。
安易なことは決して言えない。その場しのぎの無責任なことを言っても、それは東雲を助けることにはならない。
「俺にできること、何かあるか?」
「え? 何かって」
「何かって、何かだよ。今日みたいに、荷物運んで欲しいとか、調子悪いから何か手伝って欲しいとか。弁当だって作ってもらってるんだし、東雲が楽になるように手伝うぞ」
東雲が苦しい思いをしていると分かっていながら、だからといって何をするのが正解なのか分からない。
それでも知ってしまった以上は、何とか助けになりたい。
真っ暗な物置で東雲は凪に縋り付いてきたのだ。
東雲はきょとんとした顔をした。
「手伝うって言われても、何をどうしたらいいかわたしもよく分かんないけど。困ったら、頼む」
「ああ」
「あの、それとせっかくだからちょっとだけ……」
「ん……?」
東雲は凪に手を伸ばす。
「手、握ってもらっていい? 少しでいいから」
「そんなことなら」
凪は東雲の手を握る。
小さい手だ。ともすれば年下にも見える東雲の手の平は、第二次成長期を迎えてまさに身体が完成しつつある凪に比べればずいぶんと華奢だ。
「凪君、手、大きいね」
「そうか? 東雲が小さいだけじゃないか」
「そうかな、そうかもね」
東雲は相好を崩して、感触を確かめるようにして手をにぎにぎしてくる。
「気にしてくれてありがとね」
「当たり前だよ」
「うん。それでも、ね」
しばらく東雲は凪の手を握ったままだった。
凪の手を握って、その熱を感じて、すこし心が軽くなった。
凪に救われたから、凪が側にいると落ち着く。何となく、そんな気がする。欲を言えば、手を繋ぐだけでは足りなくて、もっとしっかりと感じたい。抱きしめて欲しい。ディアドラに触れられ、弄ばれたところに触れて上書きして欲しい。そんな欲求が湧き上がってきて、今にもあふれ出しそうだった。
だがそれは、さすがに言い出せない。今は気に掛けてくれただけで、十分だ。
「うん、ありがとう。もう大丈夫」
東雲は凪から手を離す。
「ご飯作るから。手伝ってくれるんでしょ?」
「何からすればいい?」
「今日はカレーにするから、野菜を切るところからお願い」
東雲はソファから立ち上がって、キッチンに向かう。凪もその後を追った。