二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 空菜の教えを受けながらなんとか春休み課題を終えたのが昨日のことだ。大した量はないが、予習の範囲も入っていたので簡単とはいかなかったし、どうも課題テストがあるらしい。ということで、適当にしていると後で涙することになるのは明々白々であり、凪も嫌々ながら気合を入れて教科書に向き合うことにしたのである。

 凪は真面目な生徒というわけではなかったし、勉強が得意というわけでもない。学校に遅刻はするし、身体中に傷があることもあって、あまり交友関係を広げてこなかった。特定に少数の友人と他愛もない会話をするというだけの学校生活は、退屈ではあったが嫌いではなかった。

 その生活もすでに終わってしまった。来月からはまったく新しい環境での生活がスタートする。

 進学先はそこそこの進学校だ。今までのような義務教育ではないし、遅刻はご法度になる。生活習慣から見直さなくてはならないのが、今から憂鬱だ。

 課題を終えて、昼食も終えた。時刻は午後の一時前である。テレビを見ても、特筆するような面白味のある番組はない。

「それでは、凪さん。行ってきます」

 部屋からやって来た空菜が言う。

 中学校のブレザーを着ているが登校するというわけではない。なんでも、クラス会をするらしい。

「行ってらっしゃい」

「はい」

「七時には帰って来いよ」

「はい」

「変なのについて行くなよ」

「もちろんです」

 中学生最後の思い出にと、空菜のクラスでカラオケに行ったりファミレスに行ったりするらしい。凪のクラスにはそういった動きはない。すでに寮生活に突入した者もいたり、日本に留学したりと各自の都合が合わなかったからだ。凪に至っては入退院を繰り返す始末である。

 空菜が出て行くといよいよ一人になる。

 クリスマスの事件以降、暮らすようになったマンションは、凪が小学生のころまで住んでいたところではあるが、それでも一人で暮らすには広すぎる。キッチンとトイレと風呂、そして自分の荷物が置ける部屋があれば十分な凪にとって、この家は大きい。使わない部屋もあるくらいである。

 広い家というのは、いいことばかりではないのだと改めて知った。何せ管理が大変だ。掃除する場所がその分だけ増えるのである。

「う……」

 立ち上がるとくらりとする。少し貧血気味だった。今朝に空菜に血を吸わせた後で、いざというときのためにと輸血パック用の血を抜いた。昏月家の冷凍庫には凪の冷凍保存された凪の血が何パックも入っている。

 凪が行方不明になっていた数日間、空菜が飢えを凌げたのはこのためだ。旅行にも十日分は持って行っているのだ。

 とりあえず、エナジードリンクで栄養補給を行う。

 吸血鬼化の進行のせいか、血液の生成速度が上昇している。今まで以上に血を抜かれても大丈夫な身体になっているのはいいことではあるのだが。

 今のところ、空菜は一日一回から二回の吸血を必要とする。その他にも血を吸わせてほしいと言ってくる者もいる。

 輸血パックがあると言うと、「空菜には直接吸わせて僕にはダメなんだ。ふーん」とか拗ねたように言い出す。もちろん、本気で拗ねているわけではないが、そう言われると凪は断れない。直接吸血されて困ることがあるわけでもないからだ。断る理由がなければ、断れない。結果、時に血が足りなくなる。血液が回復するまでの、ほんのひと時だけ、貧血になってしまうことが時たまある。

 することがないので、昼寝でもしようかと思ったときにインターホンが鳴った。玄関扉に備え付けているインターホンだ。これを押せるのは家族の誰かだけなので、凪は特に警戒もせずにドアを開けた。

「あ、こんちわ」

 ドアの前に立っていたのは零菜だった。

 手にバスケットを持っている。

「これ、おすそ分け。上がっていいかな?」

「ん、どうぞ」

 零菜は徐に家に上がった。

 バスケットの中から零菜が取り出したのは、季節外れの桃だった。

「どうしたんだ、それ」

「バイオプラントで採れたヤツが、送られてきたの。結構数が多くて、うちだけだと食べきれないからみんなのとこに配ってる。日持ちしないし」

「悪いな。こんな、高そうな桃」

「まだ表に出ていない研究段階のヤツだって。美味しいけど、安定生産に漕ぎつけてないらしいよ」

「いい匂いがするな。大ぶりだし」

「いいでしょ。美味しいよ」

 零菜は手際よく桃を包丁で切った。

「固そうだな」

「そうだね。これ、そういう品種みたい。シャキシャキしてるの。柔らかい桃のほうが好きだった?」

「いや。どっちかっていうと、固めの桃が好き」

「よかった」

 零菜は小さく笑みを浮かべて、切った桃を並べた皿をテーブルに置いた。

「零菜は飲み物何にする?」

「もらっていい? 何があるの?」

「コーヒー、紅茶、煎茶、番茶、麦茶、オレンジジュース」

「バラエティ豊かだね」

「萌葱姉さんが置いてったのもあるから、うちだけで揃えたわけじゃないよ」

「紅茶にする。萌葱ちゃんが置いていったのって紅茶でしょ?」

「当たり」

 そこそこ高級な紅茶らしい。

 それをティーポットで二人分用意した。

「桃、美味いな」

 と、凪は言った。

 シャキシャキした触感の桃は強めの酸味の中に、芳醇な甘さがあった。しつこくないあっさり目の味わいで、何個でも飽きずに食べられそうだ。

「季節外れって思うけど、バイオプラントだからか」

「そうだね。この時期に桃は食べないけど、だからこそ狙い目だって思ってるみたい。競合する相手がいないからね。新ブランドとして確立するには、まだ一、二年かかりそうだけど」

 バイオプラントで一から十まですべて管理されている植物は理論上季節も気候も関係なく収穫することができる。温度や湿度も管理できるので、収穫時期を調整して、意図的に旬をずらすことも簡単にできるのだ。

「やっぱ、萌葱ちゃんの趣味はいいよね。この紅茶、すごい美味しい」

「紅茶はよく分からないけど、飲みやすい紅茶だと思う。普段、他の紅茶飲まないから比較できないけどな」

「凪君、いつもは?」

「麦茶」

「そっか。まあ、そうだよね。癖もないし」

 零菜は桃を一口齧った。

 何とも幸せそうだ。

「そういえば、零菜」

「何?」

「ちょっと気になったんだけど、なんか今日、髪が水っぽくないか?」

「え、あぁ……これね。ちゃんと乾かしたんだけどな。分かる?」

「何となく」

「さっきまでプールで泳いでたから」

「下の?」

「うん」

 零菜は頷いた。

 このマンションには、居住者用のプールがある。一階と五十階に二十五メートルプールがあって、五十階は四十五階以上に居住する住人とその知人等にのみ利用が許されたVIP用である。零菜が利用しているのは五十階のプールだろう。

「水泳は身体にいいから。いい運動になるし」

 と、零菜は言う。

 水泳は全身運動だ。

 身体に負担が少ないので、リハビリにもよく使われる。

「プールか。この前の水着で?」

「え、あ、あれは、違う。あんなのじゃ、泳げないし!」

 混沌界域のチョコ祭で着ていた水着は、腹部がメッシュ状になった露出多めのワンピースだった。スポーツ用ではないのは確かだ。

「今日のは普通に競泳用の水着だよ。学校指定の」

「スクール水着か」

「まあ、そんなもん。競泳用のだから、材質は他の学校とちょっと違うと思うけどね」

 そう言って、零菜は自分の髪を弄った。

 つやつやとした射干玉の黒髪だ。日ごろから丁寧に手入れをしているのだろう。手櫛だけでさらりと毛先まで揃うのだ。

 思わず見惚れてしまいそうになる。

「ん、何?」

「いや、なんでも」

 凪は慌てて目を反らす。

 零菜はそんな凪に小首を傾げた。

「凪君、興味ある?」

 と、零菜は言った。

「興味って?」

「彩海学園の水着。その、空菜のは見たんでしょ?」

「そりゃ、まあ、空菜のは見たけど」

「全然、違うよ。そっちのヤツとは」

「そうなんだ」

「うん……」

 零菜は少し冷めた紅茶で唇を濡らす。凪の様子を窺うように、凪の方を見る。

「その、どうする?」

 

 

 

 ■

 

 

 

「おお……」

 と、思わず凪は感嘆の声を漏らしてしまう。

 凪の部屋である。

 いつもは凪だけで使う六畳一間だ。ベッドの他には本棚と机とテレビ、パソコンしかない。衣服は備え付けのクローゼットの中だ。男物の部屋らしく、整理整頓が行き届いていると言えるほどではない。出しっぱなしの漫画や小説が枕元に散乱している。良くも悪くも生活感にあふれた部屋である。

 凪は自分のベッドを椅子代わりにして座っている。いつでも寝ころべるので、椅子よりもベッドに座る頻度のほうが多いのである。

 そこに、零菜はやって来た。

 学校指定のスクール水着を着ている。

 一度、自宅に戻ってからクローゼットの中に仕舞っていたスクール水着を取り出して、また戻って来たのだ。凪の家と零菜の家は歩いて十数秒だ。ほぼ、自宅も同然の距離である。

「う、なんか、やっぱり恥ずかしい」

「それは、まあ、そうだろうけど」

 零菜は羞恥に震えて顔を真っ赤にしている。

 十分前の自分を呪っている。どうしてあんなことを口にしてしまったのか、零菜自身分かっていない。口をついて出てしまったというところだ。零菜に何かしらの意図があったわけではない。言うなれば、事故だ。

 とはいえ、凪からすれば零菜の心情を察するのは不可能である。零菜にすら分からないその時の零菜の思い付きなど、どう配慮すればいいというのか。

 水着に興味があるかと聞かれれば、興味があると答える他ない。事実がどうとかではなく、一対一で、あれほどあからさまに誘われたのだ。拒否するのは、土台無理な話である。  

 零菜の水着はなるほど、凪の知るスクール水着とは異なるデザインだった。

 詳しいことは分からないが、一目で競泳のために設計されたものと分かる。凪の通う中学校の水着は紺色一色の単調なものだが、こちらは両脇から太ももまで水色のラインが入っていて、紺色と水色の二色である。

 学校の授業で使うことが一目瞭然の通常のスクール水着に対して、彩海学園の水着は実際の競技で着ても違和感がないデザインだ。

 それにしても、想像以上に凶悪な見た目だ。

 競泳用の水着は、水の抵抗を減らすために、とにかく身体にフィットするように作られている。零菜のスタイルはとてもいい。特にバストサイズは中学生離れしていて、グラビアアイドルも真っ青である。出るところが出ていて締まるところが締まっている理想的な身体である。それが競泳用水着を着たら、とんでもないことになるのである。具体的には胸部がはち切れそうだ。胸がヤバい。凪はびっくりした。

「あの、どう?」

「うん、似合ってる」

「そうかな? みんな着てる水着だから、特別どうってものじゃないけど」

「着る人で変わるんだなって。零菜が着ると、うん、可愛い、と思う」

「う、ぅん……」

 当たり障りのない、しかし本心を零菜に告げる。零菜は羞恥極まって俯くばかりだ。この後、どう話を展開するのか、凪も零菜も分からなくなった。

 零菜は勢いだけで水着を着てしまったし、凪も流れに身を任せてここに至ってしまった。後先は考えていなかった。

「あ、なんか、そのやっぱり部屋の中で水着は変だし、もう着替えるねッ」

 居た堪れなくなった零菜は凪にそう言って、踵を返した。その時である。ガタン、と物音がした。玄関のドアが開いて、誰かが家の中に入って来た音である。

「ただいまです。ちょっと、一時帰宅です」

 出かけていた空菜が帰って来たのである。

「あ、なッ、何でッ!? ちょっと、凪君ッ! 空菜、今日は遅いんじゃなかったの!?」

「俺に聞かれても。遅いはずだけど」

 凪は時計を見る。まだ三時過ぎだ。空菜の帰宅予定時刻まで四時間ある。予定よりもかなり早い帰宅だ。

「凪さん? 部屋ですか?」

 空菜の足音が近づいてくる。

「ひ、ど、どうしよう」

「零菜、服は?」

「だ、脱衣所」

 わたわたとする凪と零菜。

 零菜の服は脱衣所にあって、そこは玄関のすぐ隣である。服を取りに行けば、空菜と鉢合わせることになる。凪が零菜の服を取りに行くのもダメだ。そこには下着もある。水着は見せてもいいが、下着は日常使いの物だ。見られておかしいものではないが、人に見せるようなものではない。まして凪が見るのであれば、今日の日常用の下着はよくない。

「凪さん? 返事がありませんが、大丈夫ですか?」

 ついに空菜は部屋の前にやって来た。

 ドンドンと部屋のドアを叩く。空菜は凪に用事があるようだ。空菜の手がドアノブにかかったのが分かった。咄嗟に凪は零菜の手を引いた。

「ちょっと、待て。聞こえてる」

「もしかして、倒れてますか?」

 と、凪が返事をしたのと空菜がドアを開けたのはほぼ同時だった。

「すみません、お昼寝中でしたか」

「あ、ああ、大丈夫。どうした? 晩飯、いらないんじゃなかったか?」

 凪は冷や汗をかきながら尋ねた。

 ベッドの上で上半身を起こした姿勢だ。足にはタオルケットをかけている。空菜は「ん?」と小首を傾げた。

「夕ご飯がいらないのは変更ないです。一部、予定変更になって。これから、またすぐに出かけます」

「そっか。気を付けろよ」

「はい。ありがとうございます。凪さんも、何かあれば言ってください。調子がいいとは言えないんですから」

「分かってるって。大丈夫、大丈夫。別に何もないから」

「……そうですか。郵便が届いてたので、置いときますね」

 空菜は釈然としない面持ちではあったが、それ以上何かを尋ねることもなく、観察するようなジトっとした視線を凪に投げかけつつ、踵を返した。

「では、行ってきます」

「ああ、行ってらっしゃい」

 空菜がドアを閉める。そのまま足音が遠のいて、玄関のドアを開けて出て行く振動を感じ取る。

「ふう……」

 と、凪は息を吐いた。

 それからタオルケットをはぎ取る。

 体育座りをした凪の足の間に、丸くなった零菜がすっぽりと納まっていた。息を殺して、じっと潜んでいたのだ。

「行った?」

「大丈夫」

「気づかれなかったかな」

「どうかな。まあ、何も言わなかったから、詮索はしてこないだろうけど」

 空菜が何かに気づいた可能性は否定できない。零菜の姿を見たわけではないが、空菜は鼻がいいのだ。部屋の中に零菜がいるということに気づいても不思議ではない。それでも致命的な水着を着た状態までは気付かれてはいないだろう。

「あ……その、凪君。そろそろ、着替えるから」

 と、零菜は頬も目も紅くしながら言った。

 予想外の闖入者のために、まさか水着姿で凪の布団に潜り込むことになるとは思いも寄らなかった。不意打ちも同然の事態に、頭がどうにかなりそうだった。

「あ、ごめん。急に引っ張り込んで」

「ううん、気にしないで。わたしも、助かったから」

 苦笑しながら零菜はベッドから出た。このままだと、ますます気まずくなってしまう。零菜は足早に脱衣所に向かい、水着から普段着に着替えた。

「あの、その、今日のは参考だから。彩海学園のは、他と違うってのを見てもらいたかっただけだし、高校はまた別の水着になるから、この水着のままってわけじゃないからね」

「分かってるよ。ちなみに高校のは?」

「き、着ないから! もう、馬鹿!」

 零菜は顔を紅くして去って行ってしまった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 その夜。

 漫画を読んでいた凪の下に空菜がやって来た。門限の通りにクラス会から帰ってきて、風呂から上がったところだった。

 ドライヤーで髪を乾かした後、タオルを首にかけたパジャマ姿である。

「空菜、どうした?」

「洗濯するので、何かあったら出してください」

「ああ、そっか。でも、特にないかな」

 凪は空菜よりも早くシャワーを浴びている。今日の洗濯物は、その時に洗濯機に投げ入れている。

「そうですか。じゃあ、これを交換で」

「ん、何……?」

 空菜は凪に白い布の塊を渡した。

「シーツ?」

「交換します。新学期に向けて、気分を一新しましょう」

「何に影響されたんだ?」

 凪がいるのはベッドの上だ。凪がいるのにお構いなく空菜は、シーツを剥がしにかかる。凪はベッドの上で転がって、波打つシーツから逃れた。

「では、失礼します」

 半ば強引にシーツを回収した空菜は、凪のシーツをぐるぐると巻いて部屋を出た。

 テレビか友達にでも影響されたか。新学期に向けた準備というのなら、昼間にしてもいいものを、なぜこうも唐突に行動を始めたのだろうか。

 凪は柔軟剤のいい匂いのするシーツを新たにベッドに敷き直して、ベッドにダイブするように飛び込んだ。

 軋むベッドで視界が揺れる。

 直後、凪のスマホが鳴った。

 メッセージアプリに着信があったことを伝える表示が出た。差出人は零菜であった。画面をタップして零菜からのメッセージを開く。

 タイトルは『参考※部外秘絶対に人に見せないこと』とある。

「うおぉ」

 本日二度目の感嘆であった。

 添付画像は想像もしていなかった零菜の写真データだった。それも、今日着ていた水着とよく似た別の水着であった。水色のラインの両サイドに銀色のラインが入っている。どうも彩海学園高等部の水着のようだ。零菜も来月から高校生だ。次の夏には、高校のプール授業があるので、すでに高等部の水着を購入している。それを着て撮影したのだろう。

 姿見の前に水着を着た零菜が立っている。スマホを縦にして撮影している。水着を主役にするために、あえてスマホを顔の前に持ってきている。そのため、零菜の表情はスマホに隠れて見えず、身体のほうは何にも遮られることなくばっちりと映っている。

「うーん、これは……」

 外部に漏れると大変なことになる機密情報である。

 凪は手早く画像を保存し、フォルダに暗証番号を設定した。

「顔が見えないと、むしろエロく見えるんだな」

 新しい発見であった。

 顔が見えないからこそ、身体のほうを注視するし顔についても想像が働く。一部を意図的に見せないことで想像の余地を生み、より魅力的に見せるという手法である。零菜がそこまで意図したわけではないが、結果的にそうなっている。

 ひとまず、凪は零菜のメッセージに『似合ってる。可愛い』と短文の返信をした。何もしないとスルーしたと思われる。素直な感想をすぐに送るのは大切なことなのだ。

 

 

 凪のシーツを回収した空菜は脱衣所にやって来た。風呂場と洗面台があり、洗濯機と乾燥機も置いてある。

 空菜は洗濯機の蓋を開けた。衣服はすでに乾燥機の中だ。

 今、洗濯機は空である。

 空菜は徐にシーツに顔を押し付ける。鼻を鳴らして、シーツの匂いを嗅いだ。慣れ親しんだ凪の匂いに混ざって余計な香りがついている。柔らかな甘い匂いである。それ自体は嫌いではないものの、ここに付着しているのが癪に障る。

 空菜は鼻が利く。匂いに人一倍敏感である。獣人系の血が入っているので、自分の縄張りに余計な香りを残されると無意識に反発心を抱いてしまう。

 学校帰りに香水の専門店に立ち寄って、あれこれと見て回ることもある。それくらいに香りに関心がある。

 その空菜にとってうっすらと漂う残り香の正体を嗅ぎ分けるのは簡単だった。

「バニラ系の香水、ですね」

 ムッとした表情を浮かべて空菜はシーツを洗濯機に投げ込んだ。

 バニラの匂いを発する物は、昏月家にはない。

 よって外部から持ち込まれたものである。

 匂いの出どころは概ね見当はつく。

 昼間に凪の部屋に行ったときに、間違いなくその場にいた。匂いで分かったが、あえて口にしなかったのだ。

 何をしていたのか知らないが、何となく気に入らないと感じる。

 凪の部屋に誰が上がろうと、本来空菜の関知するところではない。暁家の一員も同然の昏月家は、実質的に大家族。多数の出入りがある。実際に、凪の部屋を粘着クリーナーで掃除すれば、色違いの長い髪の毛が採取できる。

 なので、今更凪の部屋を出入りするからといって思うところはないが、シーツに匂いを残されるのは別の話だ。

 獣人の本能がこれに不快感を示している。

 ぷっくりと頬を膨らませながら、空菜は洗濯機のスイッチを押した。


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