三月の半ばになり、一足早く暁の帝国には春の陽気がやってきた。中学三年生は卒業式を終えて、高校入学を控えた長い春休みに入っている。三月のこの時期に学校を丸々休むというのは、小学校に入学して以来初めてのことであり、卒業生たちは各々が自由に中学最期の想いでを作っている最中であった。そんな中で、凪は病室のベッドの上で暇を持て余している。窓の外から見える桜の花は、凪の目を楽しませてくれていたのだが、残念ながら早くも散りつつあり、淋しさを感じさせる。ソメイヨシノではない。花が咲くのに一定期間の寒さを必要とするソメイヨシノは、年間を通して気温の高い暁の帝国には不向きな品種だからだ。暁の帝国では、独自に品集改良された桜が二月の半ばに花を咲かせる。三月の半ばとなると、もう花の見ごろは過ぎているのだった。
「暇、すぎる……」
いい加減、病院も飽きてきた。
身体が弱かった幼少期は、病院での生活も慣れたものだったが、それも今は昔の話である。外の娯楽に触れたが最後、何もない病院は余りにも無味乾燥としている。混沌界域の病院を退院し、暁の帝国に帰国した凪であったが、帰国したらしたで検査入院が重なって、この一か月、自宅で過ごした時間よりも病院で過ごした時間のほうが長くなっている。幸いにして学校の卒業式には出席できたが、その三日後に再び検査入院である。
凪の身体を侵した呪詛の影響をきちんと診なければならないというのは当然の理屈ではある。呪詛によって悪影響を受けた組織が悪さをするかもしれない。呪詛そのものは取り除けても、身体に影響を残していない保証はまったくない。呪詛の影響は長い目で経過観察をしていかなければならないものだ。
左手はまだひりひりする。
肘から先の握力は三分の二くらいまで下がってしまった。呪詛の影響もあるが、それ以上に一か月もの間包帯で固定され、筋肉を使う機会が減ったからでもある。右手に比べて若干細くなった手は、指先が痺れるくらいで日常生活に影響があるというほどでもないが、違和感は残り続けている。
主治医の祖母と紗矢華曰く、凪とエレディアの相性が良すぎたことが、治療が遅れる原因であるとのこと。結果的にそれが奏功して、獅子の黄金を召喚する魔力の当てができたのだが、凪の身体にこびりついたエレディアの呪詛は、凪の左手に同化して完全に消えるまでに思いのほか時間がかかるのだとか。
「お邪魔します。ずいぶんと、暇そうですね」
病室を訪ねた空菜の第一声である。
空菜は大きな手提げ袋を持っている。
「暇も暇。何もすることがないんだからな」
ゲームもずっとやっていれば飽きるし、手元の本は読み尽くした。混沌界域での入院期間を含めれば、一か月にもなるのだ。途中、たびたび退院もあったとはいえ、自由の限られた病院生活は退屈との戦いになる。
「今日だっけ?」
と、凪は言った。
空菜の制服を見ての発言だ。
空菜が着ているのは、深い黒のブレザーだ。胸ポケットのところに金の刺繍が施されている。左右対称の錨の背後に桜の花を思わせる五枚の花弁が花開いているようなデザインだ。本当は花ではなく太陽の光をイメージしているらしいが、どうみても花としか見えないそれは、凪と空菜が進学する予定の中央高校の校章である。一般に公立高校は紺色の学生服なのだが、中央高校は墨汁を染み込ませたかのような黒いブレザーとオーソドックスな学ランを採用している。彩はまったくないのだが、完全な無彩色の制服は、却って他の学生から浮いていて、目立つ。街を歩けば、中央高校の生徒だと一目で分かるくらいには認知されている制服だった。もっとも、有名どころに比べれば地味で大人しめの制服ではある。彩海学園のように青と白というオリジナリティ溢れる色彩ではなく、制服目当てに受験する学生はそう多くはない。
この中央高校のブレザーを空菜が着ているのは、今日がオリエンテーションの日だったからだ。
合格発表日に採寸した制服が引き渡され、校舎内を見学し、希望者は部活動に参加させてもらえる。入学を控え、助走を始める日であった。
「凪さんの制服は先に家に置いてきました。病院では必要ないでしょう?」
「ありがとう。それは?」
「春休み課題ですよ。入院中は暇でしょうから、これを進めるのもいいかと思って。教科書も一式持ってきました」
「いらん気を回すなよ……」
ずっしりとした手提げ袋の中に入っていたのは、高校で使う教科書とワーク、それにA4一枚の連絡プリントであった。
今日のオリエンテーションで、入学後を見据えた春休み課題が提示されたのだ。
「暇なんですよね? やることあったほうが、今のうちにやっておくと後が楽だと思いますけど」
「そりゃ、分かってるよ」
合理的に考えれば、暇である以上は勉強する時間を取ることもできるということではある。しかし、だからといってやる気が起きるかというとそうではないのが人間の面倒くさいところである。暇だと言いつつ、何でもいいから手を付けるということではないのだ。興味関心を引かないものにまで、時間を費やしたいとはなかなか思えない。それが、いつかは手を付けなければならない学習課題であったとしても、だ。
「空菜は、部活とか委員会とか見てきたか?」
「見ましたよ」
「へえ、どこ?」
「陸上とバレーボール。後は、書道と美術部ですか。ふらっと立ち寄って、眺めただけですが」
「どこかに入る?」
「検討中。まあ、運動部はないかなと。あまり、関心を惹かなかったので」
中学三年生の途中から入学した空菜は知識では学年一位も珍しくはない優秀さではあったが、部活や委員会といった学校の活動に参加することもなく、その経験もまったくなかった。空菜が入学した時点で、多くの部活動は三年生が引退していたし、委員会も同様だった。彼女は別段、そういった活動に関心を持っていたわけではなかったが、どうせ学生をするのなら何か参加してもいいのではないかと凪は常々思っていたところであった。
「凪さんは、何か始めますか?」
「俺は、攻魔師するから。やっぱり部活には入らないよ。中学卒業したら、事務所でバイトするから」
かねてからの予定通り、中学を卒業してCカードを手に入れたら、凪は攻魔師としての活動を正式に始める。
とはいえ、高校生が一人でやっていける業界ではない。
万年人手不足の世界ではあるが、だからといって誰にでも仕事を回せるわけではないのだ。
凪はひとまず民間の攻魔師事務所でアルバイトをして経験値を積み上げる。知り合いに個人事務所を開いている攻魔師がいて、すでに五月からの入社を取り付けている。
「早く家に帰りてぇ」
「別に、今回の入院は長引かないんですよね?」
「まあね。でも、ベッド固いしさ、寝にくいんだよね」
「仕方がないです。柔らかいベッドだと、いざというときに心臓マッサージできませんから」
「そんな理由だったのか」
空菜が見舞いに来てから十分ほど後に、病室のドアがノックされた。やって来たのは、麻夜であった。
「やっほ、元気?」
「麻夜、今日学校は?」
「今日、休みだよ。聞いてない?」
「聞いてない。なんで?」
麻夜は私服であった。春先の気候に合わせた薄手のカーディガンとジーンズである。体格にフィットする細身の服装なので、麻夜の引き締まった身体が強調されて、すらりとした活動的な印象を与えてくる。
大きなバスケットを床に置いて、麻夜は丸椅子に腰かけたのだった。
麻夜は凪と同い年。同じ学年だが、彼女の通う彩海学園は中高一貫校である。三年生は受験なくそのまま高校に進学するのが大半だ。卒業式を終えたとしても、高校進学に向けた授業は継続するのが常である。
それが、なぜか今日は休みだという。
「今日は追試の日と高校入学者のオリエンテーションの日だよ。丸一日、テストがあるから授業をやってる場合じゃないってわけ」
「ああ、そういう」
中学校には留年こそないが、成績が低い者には追試が課せられるのが彩海学園だ。私立というだけあって、保護者から求められる水準も高い。昔よりも設備が整い、偏差値も上がって暁の帝国でも有数の進学校になっている。
新しい風を求める校風から、高校からの入学者も受け入れることになっている。今日は、外部入学者に対するオリエンテーションと事前テストの日だった。
「せっかくの休みなのに、わざわざここに来るなんて、暇なのか?」
「そりゃ、暇だよ。今日は部活も休みなんだし、遊ぶ約束もドタキャンだったからね。暇つぶしに来たんだよ」
「暇つぶしには、ならんぞ。なんせ、俺が暇してたくらいだ」
空菜が来るまでは、本当に何もすることがなかった。空菜が来てからも、彼女が持ってきたのは勉強道具だけだった。
「凪君が迷惑だって言うのなら、帰るけど。リンゴ、持ってきたんだけどな」
「迷惑はしないし、リンゴも食うぞ」
麻夜が持ってきたバスケットには、すでにカットされたリンゴが入っていたのだ。
「切ってあってごめんね。こういう時は、目の前で皮を剥くのが理想かもしれないけど、ここ、持ち込み規制かかってるからね」
「別にそんな理想とかないから。面倒は少ないほうがいいだろ」
「言うと思った」
麻夜は苦笑して、つまようじを刺したリンゴを凪に渡した。
「どう?」
「うまい。酸味強めか」
「そういう品種みたいだね。うちのバイオプラントも馬鹿にできなくなってきたからね」
「天然物が美味いかって言ったら別にそういうわけでもないからな」
麻夜が持ってきたリンゴは絶妙な酸味と甘さの組み合わせだ。暁の帝国の農場は多くがバイオプラントだ。農作物も工業製品の一つになっていて、土から栽培した物は輸入に頼っている。やはり、世の中の人々はバイオプラントで生産されたものよりも、輸入した「天然物」をブランド物としてもてはやす傾向がある。しかしながら、天候の変化に左右されず、二十四時間管理が行き届いたバイオプラント産の農作物は品質に大きな差異がなく、安定して市場に供給できる庶民の味方だ。ただでさえ輸入コストが上乗せされる天然物に比べれば、工場での大量生産品の方が安価で美味しく食べられる。
結局、安いものが好まれるし、食料自給率は島国である暁の帝国では戦略的な意味合いも強く、バイオプラントの拡大と安定化は国策だった。今となっては、輸入品は本当に高い本物のブランド品が中心になりつつあり、中途半端な輸入品は姿を消しつつあるのが近年の傾向だった。
「空菜もどうかな?」
「いいんですか?」
「凪君だけ食べるのも、気が引けるでしょ、ね?」
凪はリンゴを齧りながら頷いた。
「それでは、いただきます」
麻夜から受け取ったリンゴを齧って、空菜はいい音を立ててリンゴを咀嚼していく。
「左手の調子はどう?」
と、麻夜が尋ねた。
「まあまあ。ちょっとひりつくくらいで何ともない」
「そう、それはよかった。回復してるようだね」
「もともとそこまで酷いもんじゃなかったし」
「何言ってるのさ。色が真っ白だったって言うじゃないか。それも特級の呪いなんだから、それ以上に酷いってなかなかないよ、現代じゃ」
「そりゃ、そうだけどな」
呪詛がないわけではないが、その絶対性は失われて久しい。魔族や魔獣への対処が、魔術や霊能力、超能力しかなかった時代もあったが、今は違う。科学技術の発展は大きく魔術の立場を変えた。魔術のようなごく一部の才能のある人間の努力と忍耐に頼らなければならない時代ではなく、武器を持てば誰でもそれなりの兵士になれる時代だし、そもそも武器を人間が持たずともある程度の戦争はできるまでになっている。
当然、魔術も用途を変えている。それは衰退ではなく適応である。科学の発展は同時に魔術の新しい可能性を導いた。
発展の中で失われるものもある。
強烈で悪辣な古い呪詛は姿を消し、最近では話を聞くこともなくなったと言う。まして、数百年物の死霊等、現代ではまず見かけることはない。凪が生きて戻れたのは、奇跡といっても過言ではないのだ。
「ま、すぐに退院できるわけだし、別に今する話題じゃないか」
麻夜はリンゴを一つ取って齧る。
麻夜が持ってきたリンゴは三人で分け合っているうちにあっという間になくなってしまった。
「ああ、そうだ、凪君。聞いた? 東雲姉さんのこと」
「聞いてない。何の話だ?」
「今度から、こっちに帰ってくるってさ。やっぱり、あれだけのことがあると向こうに置いておけないってことになったらしい。混沌界域の治安も、回復したとは言えないしね」
救出された東雲は、凪と同じく混沌界域の病院に搬送された。
東雲は身体に傷こそ残っていないものの、精神的に不安定になっている。
東雲の問題は身体よりも心のほうで、こればかりは吸血鬼だからといって簡単に癒えるものではない。肉体的に頑強な吸血鬼でも、精神的構造は人間と大差ないのだ。
拉致された東雲について、凪は多くを知らない。
ディアドラに弄ばれ、多くの苦痛を味わったということしか知らない。彼女のために戦った凪ではあるが、具体的なところまでは覚知していない。拉致され、言葉にできないような非道な扱いを受けたということだけは分かっているが、その詳細については誰も聞くことができないし、聞くべきではないのだ。
ディアドラの起こした事件は世界的にも大々的に報じられたが、暁の帝国と混沌界域の外交関係に亀裂を生じさせるための破壊工作であると報じられている。実際、捜査の中でそういった敵対国との繋がりも見つかっているらしい。どこまでが真実かは分からないし、ディアドラの本心は東雲とディセンバーへの歪んだ愛情なのは間違いない。
敵対国との繋がりがあったとしても、それは東雲を手に入れるための手段に過ぎないのだろう。
世の中に出回る情報とは正反対だ。外交問題のために東雲を拉致したのではなく、真実はその逆なのだということが、世に出回ることはないだろう。
長らく国の警備部門の長であったディアドラが大きな罪を犯して死亡したことは、混沌界域の表と裏に大きな影響を与えている。
ディアドラが影で犯罪組織と癒着し、多くの便宜を図っていたことも明らかとなり、警備部にも捜索の手が及んでいる。ディアドラの部下にも、逮捕者が出ていて、この騒ぎは終息のめどが立たないほどの大ごとになっていた。
「帰ってくるのはいつになるんだ? 学校は?」
「今月中には帰ってくるみたい。急な話だから、向こうの友達とも離れなくちゃいけないし、アカネさんのこととかもあるから、確定ってわけじゃないらしいけど。学校は、多分、彩海に編入じゃない?」
なるほど、確かに彩海学園は、この国の中で最も安全な学園と言えるだろう。最新鋭の防犯設備に一流の攻魔教師を配置した要塞の体を成している。
公費が投入されているわけでもない私立学園でそこまでできるのは、皇族を受け入れるという覚悟の表れであると同時、安心安全を売りにした事業拡大にも繋がった。これがあるので、その後も皇族や上流階級の子女は彩海学園への入学を目指して中学受験をする風潮が生まれたのである。
「リンゴもなくなったし、そろそろ帰るよ」
と、麻夜は言った。
「なら、わたしもこれで。ああ、洗濯物だけ持って帰りますから、出してください」
続けて空菜が言う。
凪は空菜に洗濯物の入った袋を渡した。病院の洗濯機を借りると金がかかる。微々たるものではあるが、節約の心を忘れないように空菜に頼んで洗濯物は引き取ってもらっているのだった。
「それでは、課題、頑張ってください」
「まあ、それなりに」
空菜の余計な後押しに凪は苦々しそうに返答する。麻夜は愉快そうに笑った。
「じゃあね、凪君」
ひらひらと、麻夜が手を振る。
暇と引き換えにやって来た春休みの課題に凪は嘆息する。
適当にパラパラと数学の教科書をめくってみると、一応は中学校で学んだことの延長線上にあるのだと分かる。面倒くさいし、適当にやって終わらせておきたいが、その適当のために時間を割く気にもならない。
固いベッドの上で何となしに教科書を眺めているとスマホが鳴った。メッセージアプリに表示されたのは麻夜の名前だった。
『退院したら献血してね』
と、書いてある。
なるほど、麻夜が凪を訪ねたのはこの相談のためだったのか。
献血とはつまるところ凪から吸血するということである。吸血者が被吸血者に使う隠語である。
吸血をされるのは、珍しいことではない。空菜にはほぼ毎日血を提供しているし、零菜にも一時期は頻繁に吸血させていた。血をいくら吸われたところで困ることは特にないので、凪は求められれば、応じられる範囲で応じてきた。
麻夜から頼まれることは、今までになかったことなので新鮮ではある。冗談めかして言うことは何度かあったが、麻夜が凪から吸血したのは本当に本当に危うい出来事に巻き込まれて対処が必要になったときだけだった。
いちいち悩むこともなく、いつも通りに凪は了承する。凪にとって血を吸われることはそれほど重要な話ではないからだった。