二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 十八話

 首都近郊のタワーホテルが、零菜たちの避難所となった。

 チョコ祭会場の運営委員との事前調整を担当した職員の宿泊先として借りていた部屋だったが、ここを確保していたおかげで混雑する避難所を利用しなくても済んだ。第三真祖の王宮を貸してもらうこともできたのだが、テロの発生現場が目と鼻の先であり、テロ対応の必要性から零菜たちが王宮に逃げ込むのは逆に対応困難を伴うと予想されたので却下された。

 最初に辿り着いたのは萌葱と麻夜で、その次が紗葵であった。通信障害が回復した頃に零菜と連絡がついて、空菜とともに零菜が到着したのは萌葱がやってきてから三十分も経ってからであった。

「まだ、混沌界域からの連絡はないんですか?」

「はい。こちらからも連絡を取っているのですが、まだ何も答えられないの一点張りです」

「そうですか」

 暁の帝国職員の間にも疲労と不安の色が目立つ。テロ発生から一時間が経ったが、まだ満足な情報が来ていない。大規模な魔獣の群れの襲撃だ。事前にテロを警戒していただろうが、対応が後手後手に回っていて、情報収集と発表が上手くいっていない。混沌界域側すらも、何が起こっているのか、どう対処すればいいのか、きちんと整理ができていないのである。

「あの、東雲ちゃんたちとの連絡ってその後どうなっていますか?」

 と、零菜は須藤に聞いてみた。

「安否確認が取れた、というのが最後です。今、どこにおられるのか分かりません。通信障害は、復旧しているはずなのですが」

 東雲の担当者と繋がらない上に混沌界域側はてんやわんやだ。東雲は暁の帝国の姫である。最優先に安全を確保しなければならない立場であるが、その担当者がどうしているのか分からない。混沌界域側も担当者がいないからといって、そこに別の人員を宛がえるような余力がない。

 テレビの報道も目新しい事実は出てこない。ただ祭を訪れた客が推定で三万人にも及んでいたことや、市内各地に開設された臨時避難所に多くの人々が押し寄せて対処困難な状況に陥っていること、セグロオオヒゲクモと軍警察の戦闘の一部始終の中継等が繰り返されている。

 現れた魔獣の掃討作戦が開始されたというが、それは限定的なものに過ぎなかった。自由自在に動き回る蜘蛛をチョコ祭会場から極力離れたところに行かせないように警戒網を敷き、一匹一匹確実に潰していくという気の遠くなるような作業だ。何匹首都の中に侵入したのか明確でなく、地下排水路から現れた以上、そこに敵の本拠地――――巨大な巣があると見ていい。行方不明者の中にはこの巣に連れ去られた人もいるだろう。迂闊に纏めて焼き払うという選択は取れない。

 避難所には、周辺住民も逃げ込んでいる。祭の参加者だけではないのだ。必然的に避難所を守る軍警察の人員も多数必要になるし、避難所運営も至難の業であった。

 結果、情報伝達が極めて遅くなり、暁の帝国側は何も行動がとれないことになった。状況が状況だけに仕方のないところもあるのだろうが、かといってただ待たされるだけというのは不満と不信を募らせることになる。まして、零菜達からすれば家族と連絡がつかないのだからなおのことであった。

 麻夜は窓の外に目を向けた。

 緊急時に窓辺に立つのは危険を伴う。が、相手は蜘蛛の魔獣だ。狙撃の心配は必要ないと思われる。高層階からの景色は不安を煽るものでしかなかった。少し離れた場所でいくつもの火の手が上がっている。テロ発生現場周辺は停電しているのか真っ暗になっていて、ぽつぽつと見える光は眷獣や魔術が放つ魔力光である。

 まるで戦争だ、と麻夜は思った。

 つい先日のクリスマスでも似たようなことに巻き込まれた。今年はどうも厄年らしい。平和な時代に生まれた麻夜にとっては、実戦は一生に一度経験するかどうかという程度のものでしかなかった。それが、こうも立て続けに巻き込まれるといよいよ運のなさを実感する。いや、それ以上に運がないのは凪だろうか。東雲と行動を共にしているはずの凪は、今年――――より正確には今年度になるが、とにかく戦い続きだった。まだ中学生だというのに、命がけの戦闘を繰り返す羽目になった。本人が望んでいるわけでもなく、巻き込まれ続ける一年だった。

 もしかしたら、東雲はこのテロに関する何かに巻き込まれていて、凪も一緒なのかもしれない。だとすれば、すぐに助けに行きたいところだったが、麻夜たちの行動も著しく制限を受けている。

 余計な動きをすれば、混沌界域側にも多大な迷惑をかけるし、東雲の居場所も分からないのだ。ただ時間が過ぎるのを待つしかない現状に麻夜は歯噛みする。そして、それは他の全員が共有するいら立ちだった。

 

 

 

 

 暁の帝国からの問い合わせにもきちんとした対応ができていない混沌界域側ではあったが、こちらはこちらで大混乱に陥っていた。

 僻地にしか生息していない魔獣が市内に突然現れたことや地下三十メートルに埋没している排水路から現れたこと。また、地面を大きく陥没させたのは魔術によるものであったことから、政府はこれをテロ事件として緊急対策室を設置した。

 とはいえ、上の動きは遅く、下は上からの命令を待っている余力がなかった。魔獣による襲撃だが、テロであれば明確な武力攻撃である。

 テロへの対応は、チョコ祭の運営委員会の権限を大きく逸脱するものであり、軍警察に任せるしかなく、テロと認定された時点で運営委員会の大本である警備部もまた軍警察の指揮下に入って対応することになった。

 しかし、ここで重大な問題が発生した。

 警備部の最高責任者であるディアドラと連絡がつかないのだ。

 ディアドラがどこに行ったのかまったく分からない。最後にディアドラと会話をした職員は、現場の様子を見てくると言い残していたと証言しているが、その現場がどこかまでは把握していなかった。

 最高責任者ならばすぐに連絡がつくようにしているべきだし、そのための連絡手段を常時持ち歩いていることになっている。通信障害が発生しても専用の使い魔があるので何の音沙汰もないのは不自然だった。

「そもそも、なぜ最高責任者がこの状況で出歩くのだッ」

 軍警察幹部が警備部の職員を問い詰めるが、それを言いたいのは職員の方だ。トップと連絡がつかないので、やむを得ず次席の部長補佐が対応している。事務処理上の問題はないが、ディアドラだけが担当していた業務も少なくなく、その中には暁の帝国要人への対応も含まれていた。よって、事務処理が著しく遅延することになったのである。

「とにかく、すぐに連絡を取れッ、いいなッ」

「も、申し訳ありません」

 軍警察側の要求に担当職員は悄然として頷くしかない。緊急時の対応マニュアルもまさかディアドラが不在になるということまで想定はしていないし、何よりもこれほどの大規模な「魔獣災害」を想定したマニュアルは存在していない。

 チョコ祭の運営委員会は、テロ対策本部に繰り上がり、軍警察の関係者も慌ただしく出入りするようになったが、人手不足は否めない。

 右往左往する職員を部長補佐はよく纏めていたと言えるだろうが、次から次へと届けられる情報の整理が追い付かず、精神的にも体力的にも追い詰められていた。

「避難所の様子は?」

「三十三か所でキャパオーバーの連絡が入ってます。かといって、別の避難所に移動させるわけにもいかないので、無理に入ってもらっているようですが」

「報道からの問い合わせですがどうしますか?」

「今は対応できないと伝えろ。それと、避難所以外の場所に避難した人もいるだろう。把握は進んでいるのか?」

「そこまで人が回せません。蜘蛛がどこにいるか分からないので、攻魔師以外の職員にも外出制限がかかってます」

「むぅ、せめてシステムへのけが人と避難者数の反映は常時するよう各所に通達しろ」

「すいません、避難所管理システム、さっきからフリーズしてます。保守業者にも連絡がつきませんッ。とりあえずファックスとメールに報告方法を切り替えました」

「くそ、だから改修費用は優先してつけるべきだとあれほど言ったのに、財務の堅物どもめッ……ええい、部長はいったいどこに行ってるんだッ。所在確認、急げッ」

 歯噛みする部長補佐。

 ディアドラの存在はそれだけ大きかったのだ。

 何十年とこの部門のトップにいた彼女への依存度はそもそもかなり高い。旧き世代の吸血鬼は、混沌界域の戦力の中核であり、その扱いは別格だ。警備部にとってディアドラは精神的支柱でもあったし、事務処理上彼女の不在が致命的な影響を与えないものであったとしても、その不在が与える影響は致命的と言っていいものとなっていた。

 そして、事ここに至ってもまだ、ディアドラが東雲を拉致したという認識は誰一人として持っていない。それどころか暁東雲が行方不明であるという情報すら、テロ対策本部の中枢には届いていないという有様であり、届いていたとしてもディアドラとの関係を疑う者は現れなかっただろう。

 

 

 ディアドラにとって現場の混乱は想像以上の成果を上げていた。

 テロ発生直後の体制ならば、きちんと対応できるとディアドラは踏んでいた。当初に混乱はあっても、一時間もすれば体制が固まって、組織的対処を始めるだろうと。東雲の行方不明とディアドラの関係性も、二、三時間のうちには解明されて、追手がかかると予想していた。

 まさか、朝になってもディアドラが犯行に関わっているということに気づかないとは思ってもいなかった。これには、ディアドラも拍子抜けした。テレビを見ても後手後手の対応で酷い有様である。蜘蛛による被害以上にその対応の遅れや混乱ぶりの方が大きな問題で、ディアドラがその場にいたら叱咤していたのは確実だった。

「あの子たちこんなにできなかったかしら?」

 と、頭を抱えたくなったくらいだ。

 ディアドラは自分の影響力をかなり低く見積もっていたのである。緊急時のマニュアルも体制も構築していたが、自分への精神的依存度を甘く見ていた。それが結果的にディアドラを助けることになり、東雲をさらなる窮地に追いやることになったのだった。

 ディアドラが犯人だと分かったとしてもこの場所が特定されるまでにはかなり時間がかかるだろう。現場の対応が遅れれば遅れるほどにディアドラが愉しむ時間も増える。上手くすれば、国外への逃走も現実味を帯びるかもしれない。

「ディアドラ様、お食事の準備ができました」

 テレビを眺めるディアドラに声をかけたのはメイドの少女だった。ショートボブの茶髪で肌は日に焼けた褐色である。

「ありがとう、マリア。シノちゃんの分は?」

「ホムンクルスに届けさせております」

「そう」

 ディアドラの前に食事を並べるマリア。外見年齢は十代ではあるが、彼女もまた吸血鬼だ。それも旧き世代に当たる。積み重ねた時間はディアドラに引けを取らない。

「おっと」

 と、ディアドラがスプーンを落とした。金属音を立てて床を転がるスプーンをマリアが拾う。

「すぐに代わりを持って参りますッ」

「いいのよ別に気にしなくて。大したことないでしょう」

「しかし……」

「面倒は嫌いなの、知ってるでしょ?」

「あ……はい」

 マリアの顎をディアドラはつま先で持ち上げる。

「ふぁ……あ……」

 何をされているわけでもない。ディアドラに見下ろされ、足先で扱われているだけでマリアの瞳が欲情の赤に染まっている。表情を蕩かせて身体を震わせる。

「物欲しそうにして、そんなに我慢できないの?」

「ディアドラ様がいらっしゃるのは、久しぶりなので……その、ぁ、わたし……申し訳ありません。ご奉仕をさせてください」

 うっとりと懇願する少女にディアドラは慈愛の視線を送る。

 マリアはディアドラのすべてを変えた吸血鬼だ。今にして思えば運命の出会いだったのかもしれない。ディアドラを狂わせ、彼女のすべてを奪い、そして再出発のきっかけを作った吸血鬼の娘である。

「ふふ、もう四百年は経つのね」

 懐かしそうに目を細めるディアドラ。

 かつてはその高い戦闘能力で軍人として活躍したディアドラだが、出身は地方の弱小貴族の娘であった。だからこそ軍に入り、成功することを夢見ていたということもある。当時の混沌界域は今よりもずっと国土が小さく、内憂外患に苦しんでいた戦いの時代だった。ディアドラの実家が治める領地も常に戦いの気配を身近にしていた。

 国外の勢力だけでなく、国内の貴族間でもトラブルは日常茶飯事だった。特に水利権の争いは戦争に発展することも珍しくなく弱小貴族は常に煮え湯を飲まされる立場に置かれていた。

 北方の反乱軍と戦っていたディアドラにその一報が届いたのは、確か収穫の時期を過ぎたころだっただろうか。

 領地が敵に襲われて、壊滅したというのである。

 敵は隣接する領地の主とその軍勢で、水利権を争う相手であった。

 収穫を終えたばかりの穀物や領民を略奪した敵軍はディアドラの父と母と兄を殺し、妹を凌辱し、その精神を破壊した。

 知らせを受けて実家に戻ったディアドラが見たものは焼き払われた城と物言わぬ妹、そして父と兄の亡骸であった。血の従者であった母は、父の死によって肉体が崩壊したようで塵も残っていなかった。

 残されたディアドラはこの無道を訴える力すらなかった。襲撃者は中央でも名の知れた中級貴族で、当主はディアドラの父を正面から打ち破った猛者である。ディアドラは領地を返し、平民となった。軍も辞した。そんなディアドラを密かに雇ったのは、父の仇と対立する別の貴族だった。

 十年以上の月日を重ねて、ディアドラは自分を雇った中級貴族を乗っ取った。婚姻関係を結び、力を示す、逆らう血族を殺害、上書きして潰して、そしてその後に復讐を果たした。家族と領民がされたことと同じことをやり返した。父の仇を正面から滅ぼし、その妻も打ち取った。一人娘は戦利品として持ち帰り、妹がされたように凌辱した。

 その中でディアドラはあることに気づいた。

 美しく立場ある者が転落して汚れていく様は見ていて心地いい、ということだ。

 ディアドラを恨み、憎み、いつか殺してやると息巻いていた少女がやがてはディアドラに卑屈に笑い、媚び諂い、ディアドラの機嫌を窺うようになり、さらにはディアドラに愛情を向けるまでに堕落した。身を守るために誇りも身体も差し出して、記憶すら都合よく書き換えた。それが今のマリアであり、ディアドラの嗜虐的な性癖を決定づけた張本人であった。

 それ以降、ディアドラは秘密裏に敵対した敵の中から身分ある少女を選んでは連れ帰り、屈辱を与えることを趣味とした。裏の顔は常に秘密にしていたので、ディアドラの真の姿を知るのはマリアくらいのものとなった。

 広がった領地の中にある誰も見向きもしない無意味な熱帯雨林。生産性がなく開発困難な地域にあえて別荘を建てたのも、人目につかないところで趣味を満喫するためだった。

「じゃあ、そうね。マリアとも一年ぶりくらいかしら。いいわ。今日は気分がいいし、あなたのしたいことに付き合ってあげる」

「は、はい……ディアドラ様」

 心底から嬉しそうに心を捻じ曲げられたマリアは笑う。

 ディアドラと敵対していた当時のことを、マリアはもう覚えていない。どうでもいい過去の話だ。四百年も昔に死んだ過去のことなど今更思い出そうとも思わない。ただ、ディアドラに愛してほしいという一念だけが胸にある。そういう風に思想が決まってしまった。時間をかけて東雲もこうなる。そうするだけの手段がディアドラにはいくらでも存在しているのだ。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 熱帯雨林の中を進むのは当然ではあるが大変な困難を伴う。

 危機が生い茂っていて道はなく、足元は常にぬかるんでいる。進む先には沼地があって、どんな生き物が潜んでいるか分からないので避けるしかなく、目的地まで真っすぐに進むことができないのだ。

 気温は夜でも高く、湿度も尋常ではない。体表面が湿り続けていて、汗が気化しないので体温が下がらず、熱中症の危険と隣り合わせだ。不浄な環境の中では、ちょっとした切り傷が感染症を引き起こす。一見して飲み物や食べ物があるように見えるが、大抵は食用に適さないものばかりだ。そういうことを考えると砂漠と熱帯雨林のどちらが人間にとって過酷なのだろうか。

 とはいえ、凪とアカネには普通の人間とは異なるサバイバル上の強みがあった。

 それは魔術の存在だ。

 何もない処から火を熾し、獣除けの結界を張り、濡れた身体を乾かす。魔術を使えば熱帯雨林の中でも比較的快適に過ごすことができる。飲み水の確保も工夫すれば難しい話ではない。

 倒木を乗り越えて湿った枯葉を踏みつける。苔むした木々がどこまで立ち並び、その間を埋めるように背の高い草が茂っている。歩いているだけで全身が濡れてしまう。気持ちの悪い環境だ。

「また川か」

 行きついたのは泥色の川だ。

 水の流れはほとんどないようだ。

 上空からも捉えられない小川が四方八方に伸びている。背の高い木々が地表の様子を覆い隠しているからだ。

「昏月様、どうしましょうか?」

「できれば迂回したい」

 暁の帝国にある川とはまったく異なる川は、凪からすれば異質極まりないものであった。

 もちろん、自然の川はとても危険だということを凪は知識として知っているし、ここに来るまでに何度も経験した。

 試しに石を拾って川の真ん中に投じてみる。すると水しぶきがそこかしこで上がり、黒光りする鱗が見え隠れした。

「ワニ系がいっぱいいるなここも」

 凪はため息をついた。

 暁の帝国の川はすべてが排水路か工業用の用水路だ。天然物は一つもなく、都市計画の中で整備されたものである。当然、そこに危険生物は生息していない。ところがの混沌界域の川は危険生物だらけだ。魔獣ではない普通のワニですら、時に攻魔師を殺傷する。泥川の中に足を踏み入れれば、どこからか近寄ってきたワニに食い付かれ、そのまま水中に引きずり込まれるだろう。

 そうと分かっていれば対処のしようもあるが、問題はこの中に魔獣が潜んでいる可能性もあるということだ。

 ワニだけならばどうとでもなる。小さな黄金を川に飛び込ませるだけで、周囲のワニは全滅するだろう。しかし、そこで強力な魔獣が出てくるとなると話は変わる。逆に凪とアカネが一息で食い殺されるかもしれない。

 この地域の生物についての知識がないので、迂闊な行動はできない。凪とアカネの行軍速度が遅滞しているのは、熱帯雨林そのものが自然の要害を成しているからだった。

 どこかで無理をしなければならない場面があるだろうが、その判断を誤ると取り返しがつかなくなる。

 川から一度離れようとしたとき、唐突に凪の首が胴体から離れた。綺麗に宙を舞う首。遅れて思い出したように血が噴き出して、頭をなくした身体が無様なステップを踏んだ――――。

「ッ!!」

 脳裏に浮かんだ死は、一秒以内に訪れる。

 確認の暇もなく、凪は霊感に従って姿勢を低くする。

 鋭い刃が凪の首があったところを通過した。それは高速回転する鎌で、川を渡って対岸の大木に突き刺さった。

 すぐに跳ね起きて全身に魔力を行き渡らせる。アカネは何が起こったのか分かっていなかったがさすがに訓練を受けてきただけあって、対応は機敏だった。拳銃を手に取って、いつでも射撃できるような姿勢で背後を振り返る。

 白い炎を纏う鎧が佇んでいた。

(何、あれ)

 今まで見たことのない怪物だと直感した。

 目があっただけで足が震える。熱帯だというのに凍えるような寒さが足元から忍び寄ってくる。見れば、怪物に触れた植物の表面に霜が降りて葉が萎れていく。あれは死だ。よくないものだ。この世にあって、あの世の亡者に等しい別物だ。

「アカネさんッ、そっちじゃない!」

 白い鎧に目を奪われたアカネは凪の言葉にやっと我に返った。その時、アカネの左側には音もなく巨大な蜘蛛が近づいてきていた。

小さな黄金(タイニー・アウルム)ッ」

 咄嗟に凪は黄金の豹を召喚した。瞬時に地面を蹴って、豹は巨大蜘蛛に躍りかかる。やはり、魔術的な防御力を持たない蜘蛛は眷獣のいい的だ。小さな黄金の電撃に曝されて、大蜘蛛は煙を上げてひっくり返った。

「あ、ありがとうございます、昏月さ……あッ」

「ぐッ……!」

 小さな黄金を蜘蛛に向かわせた隙を突いて鎧は凪まで二歩のところに近づいていた。見た目以上に俊敏で、この距離からすらりと抜いた直剣が凪の首を狙った。

 ギャリリリッ、と耳をつんざく異音が響く。

 凪の手を覆うように現れた金剛石の籠手が刃を辛うじて弾いたのだ。鈍き金剛(ドール・アダマス)は金剛石の防具を形成する眷獣だ。防ぐだけでなく、相手の攻撃を反射する。籠手に受け止められた剣は、そのままの勢いで持ち手に向かう――――ことはなかった。跳ね返ってくる勢いのままに白い鎧は回転し、追撃をかけてきたのだ。

 霊感を恃みに凪はこれを避けた。

 危うく腹を真っ二つにされるところだった。

「こいつ……強い」

 ただ力任せに剣を振るっているわけではない。確かな技術を持っている。鈍き金剛の効果を知らないはずなのに、瞬時に適切な対応をして見せた柔軟な対応力は脅威だ。そしてそれは同時に、この怪物に明確な理性があることを明示している。

 呼吸をしているのか。口元からは火の粉が一定のリズムで舞っている。目に当たる部分からも白い炎がメラメラと溢れているではないか。

「Syuaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!」

「きゃあああああッ」

 それは雄たけびだったのか。

 強烈な叫び声にも似た何かが凪の身体を凍て付かせ、余波を受けたアカネはパニックになったように悲鳴を上げてへたり込んだ。 

 声に乗って四方に駆け巡るのは死の予感。凍える風は実際に気温を下げているわけではなく、そう感じさせるだけのものではあるのだが、それが強力だ。何せ、植物ですら凍えていると錯覚し、萎びてしまうし、大気中の水分も実際に霜に変わる。それは、万物に作用する暗示と言えた。

 凪は大きく深呼吸をして、目を見開いた。凪にはその暗示の効きが悪いようだった。確かに手足は痺れるような感覚があるが、戦えないほどではない。

朽ちた銀霧(ウィザー・シネレウス)!」

 鎧の狙いは首。

 凪は剣の切っ先をあえてよけず、触れる箇所を霧に変えた。凪を突き抜ける白銀の剣は、凪に傷を負わせることはできず、返す刀で重力剣を白い鎧の胸に深々と突き刺した。

「ぎッ……」

 鎧そのものは特別な品ではないらしい。鎧は、不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)の刃を防ぐことができず、重力剣は、肉と骨を断ち切り、心臓を貫いた。

 鎧の左手が凪の首を掴んだのは、その直後だった。

「ぐ、あ……」

 ギリギリと締め上げてくる。胸を貫かれているのに、力はまったく衰えない。

「あ、あああああああああああッ」

 アカネが興奮気味に鎧を銃撃した。ライフル弾が鎧の頭を貫通し、さらに側面から胴体に撃ち込まれる。

「Gusyuuuuaaaaaaaaaa……」

 呻き声を漏らし、銃弾の衝撃でよろめく鎧を凪は蹴り飛ばした。不出来な黒剣の能力で相手の体重を軽減したことで、大きく距離を取ることに成功した。

 鎧の怪物は未だに健在だった。

 まったくこちらの攻撃が通じていない。

 アカネの手が震えている。恐怖しているのだ。見ているだけで、どこか別の世界に連れていかれてしまいそうな気がする。

「アカネさんの攻撃はたぶん通らない」

「そう、思います」

 言いながら、アカネは引き金を引く。試してみたのはショットガンだった。貫通力でダメなら広い範囲を損傷させてはどうかと思ったのだ。しかし結果は鎧が大きく仰け反るだけで、すぐに体勢を立て直してくる。

 一発、二発と立て続けに発砲したが、数メートル後ろに下がらせるのがやっとだった。

 鎧は砕けているし、肉も破壊できている。しかし相手の命に届いている感じがしない。肉体の欠損はあまり意味を成さないようだ。

 だらりと下げた右手に銀色の長剣が握られている。その切っ先が触れた地面は、徐々に白みを帯びていく。

「白い幽鬼」

 ぽつり、とアカネが呟く。

「あいつのことですか?」

「……聞いたことがあります。昔、ディアドラが従えていた魔物の中にそう呼ばれた剣士がいたと。昔話になるくらい昔の話です。黒い森の王、恐怖の炎、血濡れの冬、骸の支配者なんて呼び方もされていたみたいですが……実在したなんて」

「ずっと人目につかないところで待機させてたってことか。正体とか、分かります?」

「いいえ、さすがに……正直、おとぎ話の怪物程度の認識でしたから」

 仰々しい名前をいくつも持っているらしい剣の魔物だ。

 冷たい吐息だけで、生命力を奪い取られそうだった。

「あれが本当に白い幽鬼なのだとしたら、勝ち目なんてありませんッ。不死身の怪物ッ。血に飢えた正真正銘の魔物ですッ」

「アカネさん。そうだとしても、逃げられる相手じゃなさそうですがねッ」

 幽鬼が跳躍した。重い鎧を着込んでいるとは思えない軽やかな身のこなしで、凪を頭上から両断しようとする。

 それを凪は斥力を用いて迎撃した。ぐん、と急に進路を変えて、幽鬼は目標を誤ってしまう。見えない力に引き寄せられたかのように、あるいは弾かれたかのように大木に着地する。そこをアカネが狙撃する。口径の大きなアサルトライフル。いわゆるバトルライフルによるフルオート射撃だ。間断なく容赦もなく叩き付けられる鉛弾の嵐を受けて幽鬼が堪らず地上に落下する。

「ああああああああああああああああああッ」

 なおもアカネは引き金を引き続ける。

 大口径で貫通力のある弾丸は太い木の幹も貫通できる。木陰に隠れた幽鬼に対しても攻撃性能をある程度維持している。

「違う、アカネさん、後ろだッ」

「え? わッ!?」

 凪の指摘を受けてアカネは間一髪のところで死を免れた。虚空を薙いだ剣先はアカネの髪をはらりと舞わせるだけに終わった。

 アカネの身体が恐怖で凍り付く。目があった途端に全身が痺れてしまうようだった。理屈を抜きにしてただひたすらに恐ろしい。魂が凍り付くような錯覚すら覚えるほどに。

「あ、あ、あああああああああああああッ!!」

 恐怖から逃れるために、アカネは引き金を引いた。ただ茫然と佇んでいることだけはできなかった。恐怖に身が竦む者と恐怖から逃げるために行動してしまう者がいる。アカネは後者だった。至近での発砲。でたらめな射撃だが、この距離で外すことはない。

 相手が普通の人間ならば挽肉になっているであろう猛烈な火力が叩き込まれた幽鬼はしかし、鎧を砕かれ火花を散らしながら剣を振るった。

 そこに割って入ったのは凪だった。黒い剣が銀の剣を逸らした。

「下がってッ」

 アカネと入れ替わり踏み込んだ凪の剣撃が魔力の衝撃を四方に飛ばす。

 木々がへし折れて、凍り付き、枯れ果てる。銀色の剣が死の風を吹かせながら縦横無尽に駆け巡る。直感に従い、凪は黒い剣でこれを受け流しながらも距離を取った。慣れない森での戦いは基本的に凪に不利ではあるが、身を隠す場所は多い――――そう思っていたら大木を幽鬼はやすやすと斬り捨てて見せる。凪は倒れる大木の重量を軽減し、斥力でこれを弾いて幽鬼に叩き付けた。直撃したときには重量軽減の魔力は重量増加へと転じ、本来の質量の二倍に相当する重量となって幽鬼を押し潰す。

「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa」

 呻き声とともに大木がしぼみ、凍えて砕け散る。まさしく死神。おとぎ話の怪物というだけあって、壮絶な能力だ。

 鎧は砕けて身体は露出している。見たところ細身の成人男性のように見える。白い炎を身に纏っていて、詳細までは見て取れないが、銃撃による傷も凪の剣を受けた傷も塞がっているようではある。

 蜂の巣にされて平然と動いているところから考えても、生き物なのかどうか怪しい。自動人形の類であっても、眷獣に胸部を貫かれ、無数の弾丸で身体に穴を開けられれば満足に機能することもできなくなるのが道理である。

(こいつ、もしかして)

 突き込んでくる剣先をバックステップで躱し、斥力場を操って強引に進路を変更する。いつの間にか、周囲はずいぶんと見晴らしがよくなった。大部分の植物が幽鬼の冷気によって朽ち果ててしまったのである。

 凪の魔力も消耗が激しい。どうもこの幽鬼は生命力を消耗させる力があるらしい。凍える風は恐怖を呼び起こし、心身を消耗させる。植物は寒さにやられて真っ先に枯れるし、川にたくさんいたはずのワニもこの幽鬼を恐れてか姿を消した。

 凪の吐息が白くなる。湿っていたはずの土が凍り付き、周囲が白くなっていく。骨の芯まで身体が冷えていくような冷気が立ち上っている。ここは熱帯雨林だったはずなのに、川の表面に氷が張っている。この幽鬼が、ただそこにいるだけで周囲の命が凍えているのだ。それこそ、空気や水ですらその霊的な冷気の影響を避けられない。

小さな黄金(タイニー・アウルム)!」

 雷光の豹を召喚し、幽鬼に向かわせた。牙と爪は物理的な破壊力を持ちながらもそのすべてが雷撃だ。幽鬼はこれを巧みな剣裁きで凌ぐ。やはり、特別な剣だ。魔力で構成された雷光の豹を剣で戦えるのは、それがまっとうな材質ではないからだろう。何かしら魔術による賜物か、それとも幽鬼が持つ能力を纏わせているのか。あの怪物が発する魔の冷気が色濃く、剣の魔術特性まで分からない。

「うく……ッ」

 大きく振りかぶってきた幽鬼の剣を不出来な黒剣で受け止める。身体能力を向上させた身体が拉げてしまいそうなくらいの膂力に凪は膝をついた。

 そこに幽鬼の蹴りが襲う。胸を強かに蹴られて、三メートルばかり吹っ飛んだか。仰向けに倒れた凪に覆いかぶさるように幽鬼がとどめを刺そうとする。反応が遅れた凪を手伝って、黒剣が左手を操って銀の剣を弾く。魔力と魔力がぶつかって衝撃が駆け抜ける。

「ぐ、う……ご、あッ」

 凪の胸を幽鬼が足で踏んで押さえつけた。肺が押し潰されて呼吸が満足にできなくなる。そして、凪が反撃に移る前に、幽鬼は凪の左手首を剣で貫いていた。

 幽鬼の剣が凪の左の手の平を貫いていた。

「ぎ、あ、ああああああああああッ!」

 刺し傷の痛みだけではない。左手から幽鬼の魔力が凪を侵食している。冷気が凪の生命力を奪い、左手から徐々に凍えさせてくる。左手に握っていた不出来な黒剣が手から離れて霧散した。

『オマエにフサワシイ死を、クレテヤル。オソレ、オノノき、死を受け入れヨ、ニンゲン』

 冷たい吐息で囁いて、幽鬼は剣を捩じった。めきめきと凪の左手の骨が砕けて、肉が抉れる音がする。

「あ、ぐ、ん、ああああああああッ!」

 あまりの寒さに気が遠くなる。

 胸を抑え込まれていることでもなければ、剣で貫かれた痛みでもない。凪を苦しめているのは、傷口から流れ込む幽鬼の冷気である。凪を凍死させようとでもいうのか。幽鬼は凪が弱り、苦しんで死ぬのを待つように剣を突き立てたままである。

 左手を固定された今、使えるのは右手だけだ。震える右手も感覚が消えつつあって、弱弱しく胸を踏みつける幽鬼の足を掴んだ。

 酷く冷たい。ドライアイスを素手で掴んだ時のようで、あまりの冷たさに手の平が火傷している。

(ゆらぎ)よ」

 バン、と炸裂音がして、幽鬼がたたらを踏んで後ろに下がる。

 不思議そうに、幽鬼が凪を見てくる。

 呼吸が楽になって凪は咳き込みながら立ち上がる。このまま座り込んで休みたいという欲求が鎌首を擡げるが、一歩前に出ることで誘惑を断ち切る。

「黒雷ッ!!」

 全身を強化して、もう一度不出来な黒剣に声をかけた。重力操作の力だけを借りて、幽鬼に向かって跳ぶ。五歩かかる距離を一歩で詰める。幽鬼の剣の軌道を霊視で読んで、スレスレのところをすり抜けて懐に飛び込んだ。凪の攻撃など効きはしないと高を括ったのだろうか。幽鬼は避けようともしなかった。

 凪は小さく早く呼気を切って丹田に「気」を集め、掌底を放った。

「若雷ッ!!」

 ドン、と衝撃が幽鬼の背中を突き抜ける。よろめく幽鬼から凪は離れず、追撃する。

「伏雷ッ!!」

 霊力を纏わせた膝蹴りで幽鬼の腹部を打ち付ける。禍々しい吸血鬼の魔力ではない。凪沙から受け継いだ強大な霊力を叩き込む。獅子王機関の対魔族用の戦闘術『八雷神法』は、剣巫が素手で獣人を打ちのめすことができるほどの強化を実現する。

「火雷ッ!!」

 敵の内部に霊力を送り込み、内側から破壊する。強力な防具に身を包んでいても、内側を攻撃されては一溜りもない。これはそういったコンセプトの下に鍛え上げられた技術であり、叩き込んだ霊力は吸血鬼や獣人の再生力を弱体化させる。

 物理的な破壊が意味を成さない幽鬼に対して、内部を霊的に攻撃する八雷神法は有効打を与えうる数少ない手段であった。

 高密度の霊力を拳に纏わせて、思い切り幽鬼の顔面に撃ち込んだ。砲弾のように霊力を解き放ち、幽鬼が大きく吹き飛ばされ、そのまま川の氷を突き破って水中に没する。

 砕けた川面の氷が棘状に変化した。幽鬼の怪物が、怨念の炎を噴き上げながら川面に姿を現した。 

 じっと凪を見つめた後で、何を思ったのか幽鬼は身を翻して対岸の森の中に消えていった。

「退いた?」

 どっと汗が噴き出した。

 幽鬼が去った途端に世界に色と熱が戻ってきた。蒸し暑い熱帯の空気がねっとりと凪を包み込む。

 足の力が抜けて、崩れ落ちてしまう。魔力も霊力も相当に消耗している。このまま倒れ込んで眠ってしまいたいくらいだった。

「昏月様……ッ」

 アカネが慌てた様子で駆けよってきた。

「申し訳ありません、何のお役にも立てず。その手……ッ」

 アカネは凪の左手を見て絶句する。

「なんだこれ、気持ち悪ッ」

 凪もふと自分の左手を見て顔を歪めた。

 幽鬼に貫かれた左手は肘から先が真っ白になっていた。血色が悪いにもほどがある。

「失礼します」

 と、アカネが凪の左手に触れる。

「痛みは?」

「ないです」

「まったくですか?」

「触られてる感覚もないくらいで」

 凪の左手はどうも完全に機能を失っているようだった。動かない上に痛覚も働いていない。

「ものすごく冷たい。その、言い方は悪いのですが、死んでいるみたいです」

「その言い方、ホントに勘弁してください」

 言われたくなかったが、凪もそんな風に感じていた。

 左手だけ見た目が白すぎる。

 昔見たホラー映画に出てくる悪霊の肌がちょうどこのような見た目だったなと思うくらいの白さだった。生気がないというか、血の気が完全に失せている。血が通っているように思えなかったし、実際に血が通っていないかもしれない。手の平の傷口から血が出ていないからだ。

「とにかく、幽鬼が撤退してくれたのは幸運でした。ここを離れないと」

「動けますか?」

「まあ、何とか」

 凪は足に力を込めて立ち上がる。手足が震えていて、肉体的な限界が近いことを教えてくれる。どこか安全な場所を探して、休息を取る必要がありそうだ。

 パキパキと木の枝が折れる音がした。凍えて朽ちた木々は脆くなって折れやすくなっている。葉も落ちて見通しがいい。そのおかげもあって、早いうちに新手に気づけたのはよかったのだろう。

 巨大な蜘蛛が二人を取り囲んでいた。幽鬼の乗騎として操られた一匹を凪は小さな黄金で倒していた。その死骸に釣られてやってきたのだろうか。幽鬼の冷気が消えたことで、熱帯雨林に住まう魔獣たちが活動を再開したのか、あるいはこれも幽鬼の指示によるものか。蜘蛛の言葉を解すことはできないので、彼らが現れた理由までは分からないが、はっきりしているのはこのままでは凪とアカネは仲良く蜘蛛のディナーに早変わりということである。

「こんな時に……」

 アカネは両手に対魔獣用散弾銃を構えた。口径が大きいだけでなく、水平二連式である。完全に趣味の領域で過剰火力のはずだったが、巨大蜘蛛を相手にするにはこれでも火力が心もとないくらいだった。

「昏月様は戦えますか?」

「もちろん、と言いたいけど、どこまでできるか」

 気力も魔力もすっからかんだ。本来ならば戦える状態ではないが、戦わなければ死ぬだけなので絞り出せるだけ力を絞り出す。まずは半径一メートルに虫除けの結界を張る。あの蜘蛛の魔獣にどこまで通じるかは不明でも、ないよりはマシだろう。

 アカネが発砲する。強力な散弾銃の反動をアカネは片手で抑え込んでいる。何かしらの強化によるものと思われるがアカネの身体から発する呪力の動きは凪の知識にはない。

小さな黄金(タイニー・アウルム)。頼むぞ」

 身体がびりびりと痺れる。

 自分の魔力がいよいよ身体の組織に影響を与え始めたのだろうか。吸血鬼化の進行でご無沙汰になっていた感覚は、懐かしいとすら感じられた。

 小さな黄金が速やかに獲物に食らい付く。大蜘蛛も無抵抗ではなかった。小さな黄金の電撃にある程度耐えている。魔力への耐性を有する個体であり、小さな黄金の出力が大幅に低下しているからでもあった。

 凪は立っていられず座り込んだ。足の力が全く入らないどころか、目が霞んでくる始末だ。

「くそ……」

 毒づくことにすら疲労感を覚える。

「昏月さん! しっかり!」

 断続的にアカネが発砲する。巨大蜘蛛の頭に強烈な散弾を撃ち込んで吹き飛ばす。緑色の体液を噴き出しながら蜘蛛はアカネから距離を取る。それでもアカネが一度に攻撃できる蜘蛛は二匹が限界だ。それも一撃で絶命させられるわけではない。小さな黄金が素早く立ち回り、蜘蛛を近づけないよう牽制してくれているが、凪が意識を失えばそこまでだ。押し寄せる蜘蛛の群れにアカネ一人では対処できない。

 凪に無理をするなと言いたいところだが、凪の眷獣がいなければ立ち行かない。無力感にアカネは唇を噛んだ。

 こんな蜘蛛に食われて死ぬのは御免だ。早く逃げるなり、死ぬなりしてくれと引き金を引き、弾切れになったらすぐに違う銃に持ち替えた。とにかく銃弾をばらまいて、蜘蛛を近づけない。小さな黄金が弱った蜘蛛に噛みついて電流を流し込み、戦闘不能に追いやってくれる。蜘蛛の数は少しずつ減っている。しかし、その包囲網は着実に狭まってきている。獲物を包囲して、じわじわと距離を詰め、そして隙を見て一息に食いかかる。それがこの巨大蜘蛛のハンティングだ。

「く、この、このぉッ」

 短機関銃の銃身が焼き潰れるほどに撃ちまくり、散弾銃を撃ちかけて、手榴弾を投じる。ロケット弾くらいの火力を間断なく叩き込むくらいでないと、この蜘蛛の群れを制圧するのは難しいのではないか。銃弾では、巨大蜘蛛を怯ませることはできても、確実に命を奪うまでには至らないことが多い。

 小さな黄金の動きが鈍っている。凪からの魔力供給が弱まっているのだ。凪の顔色が悪い。人間でありながら眷獣を使い続けているのだ。完全な吸血鬼でない以上、たとえ吸血鬼に近い体質を持っていても限界はある。

「あ……」

 蜘蛛が八本の脚を跳ね上げて、アカネの眼前に迫った。巨大な身体に相応しい凶悪な毒牙が毒液を滴らせてアカネに迫った。不思議なくらいにスローモーションに見える。見分けがつかなかったのだが、この蜘蛛はチョコ祭を襲ったセグロオオヒゲクモとは種類が違うらしい。ハンティングの方法が全く違う。そんな今となってはどうでもいいことをアカネは考えていた。

 死を前にして思考停止する。逃げるでもなく、諦めるでもなく、ただ固まってしまう。スローモーションに見えているだけで、アカネの反応速度が上がったわけではない。極限まで高まった危機感が脳内物質を過剰分泌した結果、認識能力が一時的に上昇したというだけだ。反応できていない分、この毒牙が自分に突き刺さす瞬間までをしっかり見続けることになるだろう。

 終わりを覚悟した直後、赤黒い炎がアカネの眼前を通り過ぎて行った。一瞬感じた熱風が過ぎ去って、アカネは命を繋いでいた。

 気が付けば、アカネを食らおうとした巨大蜘蛛が炎を上げながらダンスしていた。身体を内側から焼かれて巨大蜘蛛はそのまま死んだ。

「何ですか、これは」

 現れたのは赤黒く燃える炎の剣士だった。それも同じ炎の剣士が五人もいる。

「誰かの眷獣だ」

 と、凪は呟く。

 禍々しい負の魔力は吸血鬼の眷獣に他ならない。灼熱の剣士は各々が巨大蜘蛛に躍りかかって、これをめった刺しにし、斬り刻み、そして焼き払った。炎は電撃と同じく巨大蜘蛛の弱点で、弱り切った眷獣ならばまだしも、本調子の眷獣の相手を蜘蛛が務められるはずもなく、五人の剣士の活躍によって凪とアカネを襲った巨大蜘蛛は瞬く間に駆除されていった。

「いったい、誰が……」

 凪は確認しようとして前のめりに倒れた。目が霞んで何も見えない。力を使い果たして、体力の限界が訪れたのだ。助かったという安堵感が緊張の糸を切ってしまい、電源を落としたかのように凪の意識は闇に沈んでいった。


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