二十年後の半端者   作:山中 一

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第五部 十一話

 空港を出た零菜たちは、まっすぐに領事館に向かうことはしなかった。せっかく海外に来たのだから、観光しないともったいない。というわけで、首都にある国立博物館であったり、世界遺産であったりを巡り巡って日常とは違う異国の空気を楽しんでいた。

 とりわけ、昔ジャーダが暮らしていたという古い王宮は大きな衝撃を零菜に与えた。

 とても古い遺跡である。

 およそ八百年前に建造されたという巨大遺跡は、標高二千メートル級の山の山頂に築かれた大神殿だ。それを取り囲むように形成された村には、多いときで三千人が暮らしたという。

 未開の時代、ここにジャーダは神も同然の存在として暮らしていた。教科書にも載っている石の廃墟は、気候の変化で水が得られなくなったことから、百五十年ほどで廃棄されたらしい。

 混沌界域のような夜の帝国(ドミニオン)は、こうした吸血鬼の遺跡が多数存在している。人間ならば、世代交代を繰り返して、忘れ去っているであろう古い遺跡だが、不老不死の吸血鬼の中にはここの住人だった者も存命だ。観光ガイドを務める吸血鬼も、その一人だった。

「この都を離れると決めた時には、わたしはまだ十歳でね。防衛戦に強いとはいえ、水がなければ生活できない。そういうことで、ここ離れて二十キロの山の上に新しい都を造ったんだ」

 昔を思い返すように、見た目少女の実年齢推定六百五十歳の吸血鬼が語っている。

 石を積み上げて作ったアーチ状の橋の下を潜り抜けたところであった。

 山頂を吹く風は冷たかったが、照り付ける太陽は地上と変わらず暑い。観光地なので整備が進んでいて、道はしっかりしているが、少し外れると下草が生い茂る緑豊かな場所だった。

「あの、そんなに乾いているようには見えないんですけど、それでも水がなかったんですか?」

 零菜の質問に、ガイドが大きく頷いた。

「見たままだとそうだね。今は雨もよく降るし、緑も深い。けれど、雨の量が少なくてね。それに、ここはほら、川もないし、井戸を掘ってもなかなか水が出ない。植物はいいかもしれないが、三千人が暮らすには雨水だけではどうしても足りなかったんだ」

 歴史の生き証人の言葉には重みがある。

 彼女たち吸血鬼がいなければ、この遺跡は忘れ去られていただろう。仮に再発見されたとしても、そこでの暮らしは残された遺物から類推するしかない。

 生き証人のいない歴史は、年々書き換わることも珍しくない。

 新しい発見が昔の偉人たちの姿をまったく別のものにしてしまう。肖像画が実は別人でした、というのは今どきよくある話で、それどころか人物像やその人個人の功績ですら研究の発展で変わることもある。それを考えると、実際にその時代を生きた人の言葉は重い。歴史学者や考古学者が「こうだったのではないか」と主張しても、それは想像の域を出ないが、吸血鬼が「あの時はこうだった」と言えば、それは明確な事実となり得る。その言葉を否定するのなら、吸血鬼の言葉が記憶違いだったことを証明しなければならない。こういう時、大抵の場合は当時を知る吸血鬼や長命種を集めて思い出話をさせるのが常であった。この遺跡については、第三真祖が暮らした王宮であったというのは現前たる事実なので、遺跡の歴史はほぼほぼ真実のまま現代に伝わっている。

「はい、あの黒い煤みたいなのは、何かここで戦いの跡だったりしますか?」

 ガイドに尋ねたのは麻夜だった。

 麻夜が指差すのは、石垣の一部だ。石階段のすぐ隣の石積みの壁に大きな黒い跡がついている。明らかに、高温で焼けた跡であった。それも自然のものではない。

「ああ、あれねぇ」

 ガイドの女性は困ったように頬を掻く。

「いや、あれは実はわたしがつけた跡なんだ。子どもの頃の喧嘩の名残だね。眷獣出しちゃってね」

「え、そうなんですか?」

「うん、いや、何百年も経ってるのに、消えないどころか保存までされちゃって恥ずかしいったらないね」

 遺跡そのものが今は厳格な規定に基づいて管理されている国指定の重要文化財だ。そこにあるのは建物だけでなく、当時を偲ばせる「汚れ」も含めて保存されているのだ。

 ガイド本人にとってはただの喧嘩の痕跡でしかないが、後世の人々にとっては昔、この遺跡で暮らした人の生活を今に伝える重要な情報の一つであった。

「これを保存するときに、消していいんじゃないかと意見を出したんだけどね。残念ながら、ダメだって言われてね。こんなことなら、あの時にちゃんと後始末しておくんだったと後悔してるんだ」

「そうだったんですか。でも、残るものなんですね、そんなのが」

「ほんとだよ。お姫様たちも気を付けたほうがいいよ。何せ、これから人生長いんだから。もしかしたら、今住んでる家を後世、遺産として一般公開する日が来るかもしれない」

「それは嫌ですね……」

 その時を思って、麻夜は嫌そうな顔をした。

 麻夜が住んでいるのは高層マンションだ。上流階級が暮らす高級マンションだが、年月を経て資産価値が上がるようなものではない。この遺跡のような歴史ロマンが、あのマンションに付加されるとはとても思えなかったが、もしも万が一、昔第四真祖の姫が暮らした部屋などという宣伝文句で公開されたら、恥ずかしいことこの上ない。

 自分の生活が後世の研究対象になると思うと、それはとても複雑だった。立場上仕方がないのかもしれないが、余人に勝手に踏み込んできてほしくもない。

「ガイドさんとしては、ここは故郷なんですね」

「うん、そうだね。だから、こうしてガイドの仕事をしてるんだ。遺跡になったから、戻って暮らすことはできないけど、麓には町もできたしね」

 ここが遺跡となり、観光地化する前は、誰も足を踏み入れないジャングルの奥地だった。新天地に出て行った人々は誰もここを顧みることなく、時に思いを馳せることはあっても戻ってくることは終ぞなかった。

 朽ち果てたこの都市を遺跡として蘇らせたのは、かつての住人ではなく、冒険家の人間だったという。

 人工島を前身とする暁の帝国には石造りの古い建物は存在しない。国土そのものが、百年も歴史がない人工物だからだ。よって、暁の帝国で生まれた世代にとって、こうした歴史ある建造物というのは馴染みがないのだ。それどころか天然の山すらも、零菜たち暁の帝国育ちには珍しく、圧倒されるものであった。

 海外旅行をしたのなら、必ず経験するべきだと言われるのが自然体験だ。特に登山は、暁の帝国にはない自然を体験できるので人気がある。零菜たちがこの遺跡に立ち寄ったのも、歴史を感じるのと同時に山を感じる教育的な目的があったからだった。

 大自然は暁の帝国には存在しない。強いてあげるとすれば、大海原は身近にあるが、緑豊かな大地はテレビの向こうにしか存在しないのだ。

 東雲はこんな環境を身近に生活しているのかと思うと、少し羨ましいと思う零菜だった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 千年を超える歴史を持つ混沌界域。その首都は長い歴史の中でたびたび場所を変えてきた。もともと、国土の大半がジャングルで人が住むには適さなかったことや、小王国が乱立した時代があったことなどが原因だ。

 第三真祖を頂点とする国家が今の形になるまでに多くの犠牲があり、たくさんの小王国が滅び去った。

 強大無比な第三真祖に敵対した部族の末裔や彼らが遺した遺産は今でも混沌界域の治安に悪影響を与えているくらいには根深い対立問題が残っている。

 もっとも、それも近年は落ち着いてきている。世界的な和平のムードで、武力による意思表明は味方を得られない傾向が強い。

 数十年前の大戦期ならばまだしも、今の時代に積極的に戦争を推奨する国はほとんどなく、徒に敵を増やすことにしかならないのだ。

 そんなわけで、混沌界域は、その長い歴史の中で最も安定した時代を迎えていると言っても過言ではなかった。

 その背景に、暁の帝国との友好関係があるのは言わずもがなだろう。太平洋を挟んだ友好国は、貿易と軍事で緊密な関係を築いている。

 混沌界域は生鮮食品で外貨を稼ぎ、暁の帝国から科学技術の産物を輸入する。農業国家でもある混沌界域と科学大国である暁の帝国は、互いに需要を満たし合う関係なのだ。

 真祖同士の繋がりは、非常に重要だ。それこそ、国際情勢が大幅に変わるくらいの重大事である。

 混沌界域と暁の帝国の関係が安定していることで、太平洋側の軍事面が落ち着いた。内陸部に力を注げるようになり、国内治安が急速に回復した。それが、この二十年だ。六百年間、この国を見続けてきたディアドラからすると、最も「平和ボケ」した時代と言えるのではないだろうか。

「部長、お疲れ様です」

 執務室に入ったディアドラを迎えたのは、部下の一人だった。今日のチョコ祭の目玉であるチョコ合戦は、何万人もの人が入り交じりチョコレートをぶつけ合う混沌としたイベントだ。毎年、多くのけが人が出る負の側面もあるが、経済効果の高さもあって年々過激になっている。

 当然、警備のほうも力を尽くすことになる。軍警察だけでなく、ディアドラが管轄する警備部はその最前線の指揮を執る部署だ。

「お疲れ様。配置のほうはどう?」

「問題ありません。第一から第六まで、所定の位置で展開中です。国道七号線と州道二十三号線の交通規制も開始しました。軍警察のほうもすでに配置についているとの連絡がありました」

「大丈夫そうね。トラブルもない?」

「大きなものはありません。小さなものですと、外国人観光客三名が窃盗被害を訴えて、軍警察に被害届を出したようです。後は喧嘩が二件、それくらいでしょうか」

「大したことなさそうでよかったわ」

 ディアドラは小さく笑みを浮かべて部下を労った。自分の席に座り、モニターを眺める。映し出されているのは、人でごった返す大通りの映像だ。

 執務室にはディアドラと彼女の秘書二名のみが常在する。部下は報告のために出入りするが、これからは主に電話連絡が主となる。ディアドラは部署の総元締めではあるが、現場を指揮する立場ではないからだ。ディアドラの下には課長がいて、それが全体の動きを見ている。

「毎年のことながら、今日は朝までここで暇をしているしかないのね」

「皆さん、忙しくされているのですけど」

「仕方ないじゃない。わたしの仕事は、そうあるわけじゃないのだから」

 まさに時が止まっているかのよう。チョコ祭に遊びに出かけることはできないが、かといって指示を出すようなこともなく、ただ報告を待つだけの気楽な立場である。

 現場は死に物狂いの緊張感に支配されているのに、一番のトップは座っているだけだ。

「本当に、みんなには申し訳ないわ」

 ため息をついたディアドラはコーヒーを口に運んだ。

 ブラックコーヒーの苦みと香ばしさを味わいながら、背凭れに体重を預ける。

 ディアドラにとって、今年が最後のチョコ祭だ。その時が来るまでは、この光景を目に焼き付けておくのもいいだろう。それくらいには感傷的になってはいたのだった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 午後五時を過ぎてから、領事館の駐車場に零菜たちを乗せた車が到着した。

 真夏の混沌界域は、この時間でも十分に日が高く明るい。日が没するのは夜の七時半くらいだ。これだけ明るいと夕方という気にもならない。まだまだ一日はこれからという気持ちになってしまう。

「いらっしゃい、みんな。待ってたよ」

 東雲はスーツケースを引いてやってきた一団を笑顔で迎える。

 実は、姉妹が東雲が暮らすこの屋敷を訪れたのはこれが初めてである。

「うわー、東雲ちゃん、こんないいとこに住んでたの?」

「僕たちが住んでるマンションとの設備の差に引いた」

「なんでよ。どんなとこに住んでるかなんて、もともと知ってたでしょ?」

 暁家が暮らす高層マンションも暁の帝国の中では最高級だ。しかし、その構造は民間のマンションと大差ない。金さえあれば、誰でも暮らせるマンションであり、事実、別のフロアには一般人が起居している。

 一方で東雲が暮らすこの屋敷は領事館と併設されているだけあって、正真正銘の一品ものである。傍仕えのメイドのような使用人以外の住人は東雲だけで使っていない部屋は数多い。

 まさに良家のお嬢様といった暮らしぶりに、皇帝の娘とは思えない庶民派な暮らしをしてきた零菜も麻夜も唖然とするほかなかったのだ。

「写真も動画も見てきたけど、実際に来ると別格だね、これ」

 というのは零菜の感想だ。

 天井の高い吹き抜けのエントランスホールなど、マンションには存在しない。この屋敷がすべて東雲一人の住居として扱われているのだから、羨ましいとしか言えないのだった。

「僕も一度はこういうとこに暮らしてみたいな」

「留学すればいいよ、留学すれば。どう、彩海学園じゃなくて、高校はこっちにしたら? 部屋はいっぱい余ってるよ」

「そうか、そういう手もあるね」

 麻夜は興味深そうにエントランスホールの隅々にまで視線を走らせている。

「今からじゃ遅いだろ。もう二月だぞ」

 と、凪が口を挟む。

「どうかな。こっちは四月始まりじゃないんでしょ?」

「九月だね」

「だったら、いけるんじゃない? 半年暇するかもしれないけど」 

 割と本気で考えていそうな麻夜の口ぶりに、凪は少し困惑する。

 彩海学園中等部に通う麻夜は、そのまま何事もなく高等部に進学する予定だ。そのルートはすでに確定している。今更、進学先を変えるのは、事実上不可能ではある。まして、混沌界域に留学するとなれば、そのためにスケジュール調整やら、受け入れ先との調整やらで大騒ぎになる。

 留学そのものは不可能ではないかもしれないが、そこにかかる手間暇を考えると現実的ではない。

「皆様、ご歓談のところ申し訳ありません。そろそろ、お部屋の方にご案内いたします」

 そこで、アカネが口を挟んだ。

「アカネさん、どうぞよろしくお願いしました」

 夏音が楚々とした立ち振る舞いでアカネに頭を下げる。

「夏音様、わたしなどにそのような……恐れ多いことです」

「これからお世話になりますし、東雲ちゃんが普段からお世話になっていましたから」

「は、はい……恐縮です」

 夏音の透き通った笑顔にアカネは思わず圧倒されてしまった。

 血筋で言えば、アルディギアの王族に連なる高貴な身分だ。おまけに第四真祖の妻でもある。従者としての立場を教え込まれたアカネは東雲に対してはフレンドリーに接することができるが、夏音のような「本物」には、気後れしてしまうのだ。

「まず、ご案内を。大きい荷物はここに置いておいていただければ、後でこちらで運びますので」

「ああ、お部屋に運ぶだけなら、自分でするから大丈夫ですよ。大した荷物もないですから」

 そう口にしたのは引率の大人の二人目、結瞳だった。

「そういうことでしたら、はい……では、こちらにどうぞ」

 大人数の相手は慣れていないし、皇族だと思って身構えていたら思いのほかあっけらかんとした雰囲気だったので、アカネは鼻白んだくらいだ。

 暁の帝国の皇族は、庶民的な価値観だというのは噂で聞いていたが、実際に接するとどうしたらいいのかよく分からない。

 皇族として遇するべきではあるが、だからといってあまりにも高級感を出すと却って価値観の違いで不快にするかもしれない。そんなことを考えてしまうのだ。

 屋敷の部屋は有り余っている。一人一部屋宛がっても、十分に余裕がある。結瞳と瞳、夏音と夏穂は同じ部屋にして、萌葱、零菜、麻夜、紗葵はそれぞれ一部屋ずつ宛がわれた。

「アカネ、そんなにいろいろ考えなくていいよ。普通でいいの、普通で」

 と、一通りの案内を終えた後で、東雲が耳打ちする。

「普通と言われましてもですね、さすがに限度があるわけですよ」

「初対面の相手に緊張するアカネも珍しいよね」

「大旦那様の奥方様です。何よりも失礼ないようにしなければと気を張るのは、当たり前です」

 アカネは東雲の専属メイドではあるが、雇い主は古城ということになっている。その妻である夏音と結夢は、直属の上司の妻である。気にするなというほうが無理な話だった。

「んー、てかわたしは? 大旦那様の娘なわけだけど」

「ですから普段から失礼ないよう勤めておりますよ。シノ様を崇拝するが如く地面を這い、御姿を視界に入れることのないよう常に頭を下げていろというのであれば、当然、そのようにいたします」

「そんな極論は言ってないでしょー」

 東雲は苦笑いを浮かべる。

 アカネとの付き合いも長くなる。同じ屋根の下に暮らしているので、自然と距離が近づいていて、今となっては主従というよりも友だちであり、家族も同然という認識だった。

「シノ様、お祭りの準備をしますので、少し外しますね」

「うん、分かった」

 チョコ合戦に参加するには、事前の準備が必要だ。アカネには人数分を用意してもらう手はずになっていた。

「どうしよっかな。みんなのとこに行ってみるかな」

 東雲は踵を返した。

 家族に会うのは一か月ぶりで、この屋敷に招いたのは初めてのことである。自然と歩みも軽くなる。どうも、みんながこの家に集ったのが嬉しいらしい。自分でもこんな気持ちになるとは思っていなかったが、家族が一緒というのは不思議と気分がいい。

 ドアを開けたままにしている萌葱の部屋の前に来たので、部屋の中を覗いてみた。

「萌ちゃん、部屋どう?」

「うわッ、あ、なんだ東雲か。びっくりした」

「ドア、開いたままだよ?」

「あ……そうだった」

 萌葱は素でドアを閉め忘れたのだろう。部屋はこの日のために掃除をしていたので綺麗だ。ホテルの一室のように、ベッドもテレビも空調もきちんと揃っている。

「なんか、ホテルみたい。生活感がなくて落ち着かないわ」

「だって、普段使ってないもん、この部屋」

「贅沢だ。こんなに大きなお屋敷に一人暮らしなんて……いや、アカネさんもいるけどさ。それにしても、ねえ」

「そうかな。そうでもないよ。屋敷が大きいから、夜なんて真っ暗。トイレに行くのも、大変だよ」

「うーん、そう聞くとホラー」

 萌葱は真っ暗な夜の廊下を想像して身震いする。

 広い洋館。人気はなく、静まり返った夜の廊下は、ホラーかミステリーか、とにかく不気味な要素に満ちている。

「で、萌ちゃんは何してたん?」

「ん、んぅ……何というと、えーと、お土産?」

「え、何、なんか持ってきてくれたの?」

「はい、これ」

 萌葱がスーツケースから取り出したビニール袋には、一升瓶が入っていた。

「お酒?」

「さすがに違う。これは百パーセントオレンジジュース。最近、うちのプラントで作り始めたヤツ」

「へえー、そんなの作ってたの?」

「そうみたい」

 暁の帝国は人工島であるがゆえに、昔から食料自給率が低い傾向にあった。食糧難に備えて、バイオプラントの整備と効率化は急務で、力を注いできたのだが、近年はこうして採れた果物をジュースにして売り出すこともできるようになったのだ。

「で、そっちが凪君用?」

「ん……ん、分かってるならいちいち聞くなっての」

「あはは、気になるじゃん、そういうの」

 スーツケースの中にあるのは綺麗にラッピングされた小さな箱だ。季節柄、何なのかは察することができた。

「そういう東雲は?」

「わたしはもう午前のうちに空菜ちゃんと渡したよ」

「そう。ちなみに何を渡したの?」

「なんの衒いもなく普通のクッキー。萌ちゃんは?」

「似たようなもん。いわゆるスコーンってヤツ」

「また、珍しいとこに目を付けたね」

「だって、毎年同じだとまたかってなるじゃん。そろそろ違う方向性を検討するべき段階なんじゃないかと思うのよ」

 バレンタインだからといってチョコレートを渡さなければならないわけではない。最近は様々なバリエーションが増えているのも事実で、必ずしもチョコレートという時代ではない。東雲のようにクッキーというのも、一般的になっているし、そこからあえて外して違うお菓子を用意するのも悪くはない。

「ということで、ちょっと渡してくる。凪君の部屋、どこ?」

「ここ出て、左の奥」

「ありがと」

 プレゼントを持って萌葱は部屋を出て行った。

 プレゼントの贈り合いは毎年のことだ。例年の慣行なので、今更緊張も何もない。流れ作業のようなものだと、しつつも、いつもよりも少し気合の入ったラッピングをしたスコーンを持って萌葱は凪の部屋に向かった。

 萌葱の気持ちも分からなくはない。凪はもともと弟分であり、家族であり、そして心を寄せる相手でもある。距離感はかなり難しくなっているだろう。そうした上でクリスマスの事件があった。萌葱は凪の命がけの行動によって救われたわけで、バレンタインはその時の感謝を伝えるイベントとしては最良だった。

「渡すとこ、覗くってわけにもいかないか」

 どうなるのか、正直に言えば気になる。まさか、告白をするとは思わないが、甘酸っぱい雰囲気を作られると、少しもやっとするものはある。

 東雲は部屋から出る。

 ばったり会ったのは零菜と麻夜と紗葵だった。三人とも小さなビニール袋を持っている。

「みんな揃ってバレンタイン?」

「うん、凪君の部屋こっちでいいんだよね?」

 麻夜が頷いて、凪の部屋のほうに視線を向ける。

「そうだよ。さっき、萌ちゃんも行ったとこ」

「萌葱姉さんが? なんだ、一緒に行けばよかったのに」

「いいのかな、今行って」

「時間を置いたら、渡すタイミングなくなるって。大丈夫大丈夫、なんか雰囲気違ったら引き返せばいいんだよ」

 萌葱が凪とどうこうなるとは考えられないが、クリスマスのこともある。男女の関係は別にしても、何か萌葱から伝えているかもしれないので、そこは気を回すつもりではあった。

 とはいえ、プレゼントを渡すという点で麻夜たちも同じ立場である。様子を見るくらいはするが、必要以上の配慮はしない。さすがに、本当にいい雰囲気になっていれば、それは考えるが、萌葱がそこまで大胆に行動するとはどうしても思えないのだ。

「東雲姉さんは?」

 紗葵が東雲に尋ねる。

「わたしはもう渡した」

 萌葱にしたのと同じ回答をする。

「じゃあ、うちらが最後じゃない?」

「早く渡しちゃおう。善は急げっていうし」

 三人揃って萌葱の後を追うように凪の部屋に向かっていく。

 年に一度の行事とはいえ、確実に姉妹分はチョコがもらえる凪は幸せものだ。その分のお返しに心と金を砕かなければならないことを考えると同情はしてしまうが。東雲は三人の妹の背中を見送って、一旦自室に戻ることにした。


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