二十年後の半端者   作:山中 一

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第五話

 真っ暗な空にぽっかりと開いた白い孔。

 夜闇が死をいざなった古代の世界ならばともかく、地上が人工の光に満たされた現代では青白いその孔には自然現象以上の価値を見出すのは難しい。単純に個々人の美的感覚に左右されるもので、多くの人にとっては、一つの風景という程度のものでしかないのかもしれない。

 しかし、オフィス街ならばまだしも、住宅街ともなるとさすがに夜闇は深まる。島の中央部は深夜になってもまだ明るく、その灯は空に浮かぶ雲に反射して西部地域にまでぼんやりと届くほどだが、路地に入れば街灯くらいしか明かりがないのは当たり前のことだろう。

 第二西地区(セカンド・ウェスト)の端にある廃れた工業団地は、十年ほど前の建造ラッシュにある日系企業が進出してきたことで建築された場所だが、結局は魔族特区の技術力に及ぶべくもなく撤退して、今では住む者のない幽霊団地と化している。

 五年ほど前からだろうか。

 幽霊団地に本当に幽霊が出ると噂が立ったのは。

 もともと不良学生たちの溜まり場となっていた幽霊団地だったが、ここ最近はその学生の姿も消え、その代わりに廃墟マニアの聖地、あるいは心霊スポットとして名を上げていた。

 科学の発展した現代で幽霊など馬鹿げている。

 そうは思っても、ありえないからこそ妄想を掻きたてるとはよく言ったもので、理性的に否定できるものでも心理的な部分で恐怖しているという点は昔から変わらず、それを楽しむ肝試しが若者の間で流行するのも水が上から下へ流れるのと同じくらいに普通の出来事だ。

 となれば、心霊スポットとして名高い幽霊団地に足を踏み入れようとする者は後を絶たない。

「やっぱり、ちょっと不気味じゃない?」

「ちょっとどころかかなり不気味だろ」

「何、もしかしてびびったの? 男なんだからしっかりしてよね」

「そういう男だからどうだっていうの、ほんとどうかとおもうけどね」

 幽霊団地の中に一棟に、男女四名が忍び込んでいた。

 髪を染め、ピアスをつけた如何にも若者を楽しんでいるという風の高校生から大学生のグループだ。

 この建物が建造されてから十年、放棄されてから人の手が入っていないからか、傷みようは凄まじい。若者の溜まり場となっていた証拠として、いたずら書きやお菓子のゴミが散乱し、ガラスも至るところが割れているという荒れようだ。

 さすがに壁が崩れているといった建物そのものの老朽化は見られないものの、所々感じる新しさが、壊れた物品との不調和を醸し出して尚一層の不気味さを演出している。

 少年の一人が懐中電灯を部屋の中に向ける。

「うおッ」

 部屋の中から突如として黒い生き物が大量に飛び出した。光に驚いた蝙蝠たちが、一斉に飛び立ち、翼で空気を叩く音が連なる。

「きゃあああああ!」

「いやあああああ!」

 少女たちが驚いてしゃがみこんだ。

 バタバタとうるさい蝙蝠は、人間から遠ざかろうとして割れた窓や開け放たれた扉から部屋の外に飛び出していく。

「ははは、何。驚きすぎでしょ!」

「あんたが一番最初に声上げたんでしょーが!」

「いって。蹴るなよ!」

 照れ隠しなのか、少女はからかってくる少年に蹴りを入れる。残りの二人は、またかよと笑いながらその光景を眺めている。

 

 ――――お■しそ■

 

「なあ、今なんか言った?」

「はあ、何。やめてよそういうの」

 友人の戯れを眺めていた少年が、不思議そうに周りを見回す。

 確かに、何か声のようなものが聞こえたのだが、音を立てそうなものは四人を除けば僅かに残った蝙蝠くらいしかない。

 

 ――――■べる

 

「え、何?」

 ノイズのような何かが頭に響いているような感覚。

 冷や汗が流れる。

 さすがに、他の面々も気付いたらしい。

「じょ、冗談でしょ」

「何か、いる?」

「ねえ、帰ろうよ」

「ああ、なんか気味が悪いな」

 この段階になると、声のような何かだけでなく、明確な「意思」を感じられるまでになっていた。

 ただの人間でしかない四人に存在を感知されるほどの、何かがそこにいる。

 そして、部屋の中を警戒しつつ外に出ようとした少年は、室内を意識するあまり廊下で待ち構えているソレにはまったく対処できなかった。

「あ……?」

 冷たい泥に飛び込んだかのような感覚。

 見上げれば、真っ黒なスライムのような何かが身体を飲み込もうとしていた。

「――――ッ!」

 悲鳴を挙げるまでもなく、少年は黒い泥の中に飲み込まれていった。

「は?」

 その光景に誰もが息を呑み、目を見張った。

 声を挙げることもできなかった。

 あまりの光景に思考が吹き飛び、理解することを脳が放棄してしまった。

 その怪物は、目のない顔を三人に向ける。下腹部が膨らんだナメクジのような巨体をゆっくりと室内に進め、不定形の肉体を大いに広げて優しく、三人を包み込んだ。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 昏月凪は、人間から魔族に変わった変り種として学内でも有名ではあるが、それ以上の何かがあるわけでもなく、ただ漫然と学校に通うだけの日々を過ごす中学生だ。

 実は、皇帝の血縁でもあるのだが、そのことを知る者はほとんどいない。

 人に言うようなことではないと思っている。

 偉いのは、自分ではないからだ。

 皇帝に似てる、とはよく言われる。

 色素の薄い髪がそう思わせるのだろうか。自分では分からないが、親戚からも時折そのような評価を受ける。自分では、とてもそうは思わないが。

 伯父と甥の関係なのだから、どこか雰囲気が似ていても不思議ではないのかもしれない。

 しかし、そうは言っても凪自身に特別な何かがあるかといえばそんなこともない。

 眷獣はあるが、寿命を削るし、身体に多大な負荷をかけるので使えるものではない。学校は休みがちで、成績は中の中。テストは一夜漬けで乗り切るタイプ。そんな勉強方法なので、定着しない。定着しないから定期テストは乗り切れても、模試の成績は酷いものだ。

 今まではそれでよかった。

 しかし、このままというわけにもいかない。

 中学を卒業した後が問題だ。

 夏休みを直前に控えた金曜日。

 大して面白みを感じない漢文の授業を聞き流しつつ、成績のことを思う。

 今回の定期テストは、自分でもそこそこの点数だった。全体的に平均点を越えていた。少しだけだが、それは評価してもいいだろう。しかし、高校受験を念頭に置けば、平均点を超えているという程度なのはよくない――――などと、考えながらも授業には身が入らない。

 これが終われば放課後だ、と。

 結局、勉強のことなど頭にはない。初めから、終わってからのことを考えている。

「昏月!」

 怒鳴り声が聞こえて、視線を教壇に向ける。

 一度怒り出すと面倒だと有名な、白髪の老教師が目くじらを立てて凪を見ている。

 この国の教師たちの多くは、十年前に日本国籍を離れて“暁の帝国(ライヒ・デア・モルゲンロート)”の国民となった者たちだ。彼らは、国を離れてまで、この島の生徒たちを導くことを選択したのであり、それゆえに教師陣の士気は高い。日本国内の学校に比べて、平均偏差が僅かに高いのは、母数が少ないということもあるが、教師たちの熱意が学業を後押ししていることも影響しているという。

 そんな教師陣の中でも、この老教師はなかなか厳しい人物だ。

 生徒指導を担当していることもあり、凪は日頃から目を付けられている。

 しまった、――――と思ったのも束の間、怒涛の質問攻めが始まり、授業が終わるまでそれは続いた。

「よりにもよって最後の授業でジィに目ェ付けられるなんて、ついとらんなぁ、昏月」

 隣のタナカがカバンに教科書を詰めながら言ってくる。

「俺、寝落ちしかかってたから正直助かったわ。あんがとよ、凪」

 後ろの席のヨシオカは嫌味ったらしくそんなことを言う。

「他人の不幸をありがたがってんじゃねえよ」

 当然、ふるぼっこにされた凪にとっては面白くもなんともない。加えて、目の前でへらへらとしている居眠り常習犯の男が狙われなかったのが、本当に気に入らない。

「なんでお前じゃなくて俺なんだっての。あの、ジィ」

「そりゃ、お前は素行が悪いからな」

「今日だって、平然と二限から登校してんじゃねえか。ふりょーだ、ふりょー」

 金属バットを担いだ男に不良などと罵られたくない。

 そう言おうとしたが、生粋のスポーツマンなヨシオカはバットを持たせても違和感を覚えない。

 凪が持っていれば、明らかな野球以外に使っていそうだが、ヨシオカが持つと不健全な雰囲気が一切なくなってしまう。やはり、坊主か否かは見た目から受ける印象を大きく変えるらしい。

「お前ら部活?」

 凪は聞いた。「もちろん」と、二人は口をそろえた。

 サッカー部のタナカと野球部のヨシオカは共にチームの要として活躍している。彼らにとって来る夏休みは遊びのためにあるのではなく、部活のためにある。二人の夏休みは課題と部活で消費され、華やかな思い出は何も残らず終わるだろう。

「そろそろ大会近いからな」

「サッカーは日本とも交流大会あるしな。全国二位まで出られるんだったか」

「そうそう。まあ、全国つっても四国と同程度しかないからあっという間に終わるんだけどな」

 サッカーには“暁の帝国”と日本のサッカー協会が共同で執り行う大きな大会がある。夏休み中の全国大会で二位以上になると、その秋に日本で行われる大会への出場権を獲得することができるのだ。

「また日本でスキーしてえ」

「ゲレンデの出会い。なかったなあ……」

 タナカとヨシオカは遠い目で、修学旅行を思い出す。

 昨年の冬に、凪たちは修学旅行で日本のスキー場を訪れた。そのときのことを今でも思い出しているのだ。

「俺は、あんな寒いところには行きたくねえ」

「ばっか、凪。ゲレンデだぞ。白銀の。スキーの上級者コースに行ければ、今頃俺だって彼女の一人や二人できてただろうによ」

 タナカの言葉にヨシオカは笑いながら同意する。

 スキー場で恋が始まるなどという、何十年も前の幻想を未だに引き摺っているのだ。この二人は。凪からすれば、ただただ寒かったという印象しか残らなかったが、真夏日が年がら年中続くこの国も正反対ながらも似たようなものか。

「いや、二人はまずいだろ」

 とりあえず、凪はありきたりで常識的な指摘を二人に添えてから教室を出た。

 帰宅部の凪にとっては、放課後の教室に残り続ける意味がない。

 タナカもヨシオカも、すぐにグラウンドに向かわなければならないのでいつまでも話をしているわけにもいかない。

 チャイムを背に、凪は学校を後にした。

 かったるい勉強も、一先ずはここまで。

 明日からは、一ヶ月にもなる自由時間が与えられる。

 日がな一日を誰に咎められることもなく自由に過ごせるというのは、面倒くさがりの凪にとっては最高の日々だ。

「教官が呼び出ししなければ、だな」

 攻魔師見習いとして、最低限の仕事はしなければならない。

 凪が唯一関心を向けることができる仕事だ。

 自分が役に立っているという実感が欲しかった。迷惑をかけるのではなく、誰かのために生きているのだと証明したかった。漫然と流されるままに生きるのではなく、純粋に「生」というものを感じたかった。だから、やるべきことがあると思えるのは、幸せなことだと思う。

 歩いていると、携帯が振動した。

 無料通話アプリで送られてきたメッセージだ。

 

 『あたし、あなたの後ろにいるの』

 

 内心でため息をつきつつ、振り返る。

「何してんの?」

「冷たいなあ。もうちょっと驚いてよ、凪」

「いや、驚くも何も、誰か分かるしな」

 振り向いた先にいたのはセミロングほどの茶色みがかった髪を、後ろで一つに纏めた少女だ。

 背は高く、凪の胸よりも上くらいには目線がある。

 いつも背負っている黒いギターケースには、見るからに呪的処理が施されていて、おいそれと触れられない。

「で、なんのつもりだ、紗葵(さき)

「んもう、凪ってば相変わらずさんだね。可愛い妹分に会えたんだから、ちっとは嬉しそうにしたらどう?」

「自分で言うなや」

 一つ年下で、シンディと同じクラスだという紗葵は上目遣いで凪に迫る。

 ぴょこぴょこと短いポニーテールが跳ねている。

 子どもっぽい言動とは裏腹に、しばらく見ない間にすっかり女性らしくなってきた紗葵は、前かがみになると強調されてはいけない場所がはっきりと自己主張してくるから困る。

 どうにも踏み込んだらいけないような気がしてならない。

 いつの間にか成長してしまった妹分は、精神的にも油断ならない女に変わりつつある。

「家、帰んなくていいのか?」

「帰る帰る。今日は母さんが帰ってくるしさ」

 自分の母親が帰ってくる頻度を表すのに、「今日は」という言葉を使うのは中学生にとってはどうなのか。最近、紗葵の母親は忙しくしていてまともに家に帰ることもないらしい。

「最近は変な事件が起きてるってのに、軽々しく寄り道するな」

「ふぅん、心配してくれるんだ」

「して当然だろ」

 至って真面目な表情で、凪は答える。

 心配したところで、紗葵がそうそう危害を加えられるということはないだろうし、あったとしても平然と乗り越えるだろう。

 幼い頃から叩き込まれた呪詛の知識は、「皇女」の中でも群を抜いている。それに加えて眷獣までいるのだから、紗葵は対人戦闘において比類ない力を発揮する。

 それでも、常識的に考えて、中学二年生の女子が――――それも贔屓目に見てもアイドルなり女優なりになれそうな容貌の人物がうろうろとしているのは心配だろう。妹分ならなおさらだ。

「凪さ、ほんとに心配してくれてる?」

「心配してる心配してる」

「投げやりすぎるでしょー」

 ツッコミのつもりか、ぽすんと凪の胸を殴る紗葵は、しかし気分を害した風でもなくにやりと笑う。

「心配してんなら、送ってってよ」

「はあ?」

「心配してくれてるんでしょ」

 帰る方向が違うんだけど、というのはさすがに口にしないでおいた。

 心配しているというのは本心だったし、送っていけと言われて断わる理由もなかった。家に帰っても誰かが待っているわけでもなく、明日から夏休みで予定もない。

「じゃ、よろしくね。――――お兄ちゃん」

 こいつは……。

 一体誰に似たのだろうか。

 少なくとも、彼女の母親はこのようなタイプの人間ではなかった。父親もそうだ。となれば、隔世遺伝というものだろうか。両親に似なければ、その上に原因があると疑うのも仕方がない。

 紗葵が凪の前を歩く。

 足取りは軽く、後頭部にくっつく馬の尻尾がリズミカルに揺れている。

「凪は高校どうするの?」

「どうって、どっかその辺に入るだろ」

「どっかって何、どっかって。どこでもいいならうちに来れば?」

「彩海学園か。まあ、気が向いたらな」

 凪が彩海学園に入学したら、学校の中に親戚が勢ぞろいすることになってしまう。ただでさえ、同年代の皇女たちが何人も在学しているのだ。凪は高校三年間を非常に居心地悪く過ごすことになるだろう。

「あっちへふらふらこっちへふらふらしているとどこにもいけないよ。成績だって大して良くないんでしょ」

「知ったようなことを言うんじゃねえよ。紗葵、お前に俺の成績が分かるのか」

「それくらい分かるよ。テスト、五教科平均すると零点になるでしょ」

「そんな漫画みたいな点数取ったことねえよ」

 凪のテスト結果は、低くても七十点くらいだ。それ以下になったことは未だ嘗てない。

 とはいえ、彼女の言うとおり成績が芳しくないのは今に始まったことでもなく、正直に言えば成績で悩んでいるところは確かにあった。

 しかし、それをおくびにも出さないようにしなければ、ただでさえ舐められているのにさらに舐められることになる。年上として、年下には負けたくないという意地があった。

「相変わらず、でけえマンションだな」

 行政の中心地は、四六時中明かりに包まれるオフィス街を形成している。所謂国家公務員に当たる人々が暮らす、公務員街とも言い換えられるだろうか。人工の島である“暁の帝国”は土地の問題から建物が高層化する傾向があるのだが、中央行政区(セントラル・ゾーン)はその傾向が一層強い。

「じゃ、俺は帰る」

「え、なんで?」

「いやいや、送ってやっただろ!」

「ええー。まだ、母さんも帰ってないから暇なんだってー。寄ってってよー」

「なんで、そうなるんだよ。ほかにもいるだろ、萌葱姉さんとか零菜とか!」

「つれないこと言わないでよー。ご飯食べてって。ねえ、いいでしょ。どうせ家に帰っても一人なんでしょ。母さんにはあたしから言っとくからさ」

 紗葵は困り顔をしつつも凪の袖を掴んで放さない。ぐいぐいと引っ張り、マンションのエントランスに連れ込もうとする。

 夕食時で人の往来がある時間帯だ。好奇の視線に曝されるのは、真っ平なので早々に降参する。

「分かった。分かったから、静かにしろ!」

 結局、凪は紗葵に引っ張り込まれる形でマンションの中に姿を消した。

 高層ビルの五十階ともなれば、吹き込む風の強さは路上とは比べ物にならない。風に髪が煽られる。時折吹く突風が、甲高い音を立てて後方へ流れていく。

 地上の星を思わせる夜景を左手に眺めながら、凪はテーブルに腰掛けていた。

 目の前には熱々の湯気を上げている料理が並ぶ。デミグラスソースのハンバーグにシーザーサラダ、コンソメスープ。すべて、紗葵の母親、紗矢華の手製だ。

「凪君、おかわりもあるから、好きなときに言って」

「ありがとうございます、紗矢華さん」

 四人掛けのテーブル。

 凪の正面には、紗葵と母親の紗矢華が座っている。

 暁紗矢華。

 旧姓は煌坂。

 呪法を司る“舞威媛”の肩書きを持っていたこともある攻魔官のエリート中のエリート。

 今は呪術を研究する国家機関で浅葱らと共に高度な呪術研究に励んでいる。彼女が担当する分野は極めて専門性が高く、代替の利かないからこそ休みも中々取れないのだ。

「また紗葵がわがままを言ったみたいで、ごめんね」

「母さん、またって何よまたって」

「またはまたでしょ。あなた、凪君に会うたびにいろいろ引っ張りまわしているじゃないの」

「そんなことないでしょ。ねえ、凪」

 そんなことない、と言われても、現に今こうしてここにいるのも紗葵に連れ込まれたからで、それだけを見れば紗矢華の言葉に誤りはない。

「ん。まあ、そんなことないとも言えなくもない」

「ちょっと凪、どっちの味方なのよ」

 紗葵は憤慨して凪に食って掛かるものの、凪は心ここに在らずといった風を装ってハンバーグを口に放り込む。

 紗葵と超絶美人人妻だったら後者の味方になるわ、とはさすがに言えないので適当に無視する。ぞんざいに扱われた紗葵は眉間に皺を寄せて不愉快そうにする。

 紗葵は、フォークを置いてリモコンを手に取ってチャンネルを変える。バラエティー番組が始めるには早すぎるため、夕方の情報番組が主流だ。日本の番組が半分、“暁の帝国”の放送局の番組が半分と言ったところだが、内容に大きな変化があるわけではない。ただ、日本の番組にはないこの国の情報が入っているという点で、視聴率は“暁の帝国”をメインに扱う放送局のほうが高いようだ。

 接近しつつある台風の話題から、上昇傾向にある株価の話題、それからどこぞの小学校の終業式の映像と特に見るべきものはない。

 チャンネルを変える紗葵の手が止まる。

『――――第二西地区で連続する行方不明者はこれで六人となり、警察と特区警備隊(アイランド・ガード)は魔導犯罪や魔獣によるものという可能性も考慮した上で捜査を続けていくとの方針を明らかにしました――――』

 ここ最近頻発する若者の行方不明事件。

 被害にあっているのは札付きの悪ばかりなので当初はそれほど話題にならなかったのだが、最近は真面目な学生から獣人の若者まで姿を消しており、それが第二西地区のある場所を中心にしているということから注目が高まっている事件だった。

「ただの人間はともかくとして、獣人まで同一犯の手に掛かってるってのは、どうなんだろうね」

 紗葵は呟く。

 獣人は最もポピュラーな魔族であり、不死性こそ持っていないものの身体能力は吸血鬼をはるかに上回る。個体差のばらつきが大きいのも特徴の一つではあるが、それでも弱い個体でも肉体の強度は他種族の上位に位置するほどだ。それが、人間と同じく被害にあっているとなれば、犯人は特殊訓練を受けたような者でもない限りは魔族か魔獣という線が濃厚になる。

「幽霊団地の辺りだから、隠れる場所も多そうだな」

「ああ、その噂聞いたことある。あれでしょ、あの団地の三号棟二階のトイレの奥から三番目の扉を午前二時ぴったりにノックすると、誰もいないはずなのに返事が来るっていうヤツ」

「俺は、日付が変わる瞬間に窓を見ると自分の死に顔が映るって話を聞いたけどな」

「何ソレ、そんなの知らないー! ありえねー!」

 ケラケラと紗葵は笑う。

 彼女が言っていることも次元としては同じレベルだというのに何を笑っているのか。

 その様子を、微笑ましそうに眺めている紗矢華は、ごはんの最後の一口を飲み込むと食器を早々に流し台に持っていく。

 紗矢華が蛇口を捻ろうとしたとき、不意に甲高い呼び出し音が鳴り響いた。紗矢華のカバンの上に置いてある携帯が振動している。

 紗矢華は表示されている文字を読むと、すぐに別室に向かい、そこで声を潜めて話し始めた。

「なんか急ぎの連絡かな」

「どうだかね。古城君からの呼び出しかも分からんよー」

 紗葵はクッキーを齧りつつ、テレビの画面に目を向ける。

 それから、数分。

 紗矢華は部屋から出てくると、携帯をカバンに押し込んで、そのままカバンを担ぎ上げた。

「ごめんね、紗葵。わたし、ちょっと仕事に行かなくちゃいけなくなった」

「え。何、今更!? ほんとに呼び出し!?」

「緊急だって。とりあえず、上にいるから何かあったら呼んでね」

「ちょっと、母さん!」

「凪君。あなたさえよければ、今日は泊まっていいわよ」

「自分の娘を男と二人きりにする母親ってどうなのよ」

 紗葵が紗矢華の後を追う。

 紗葵は至極真っ当な反論をしているが、仮に凪が紗葵を襲ったとして手痛い反撃を食らうのは間違いない。眷獣と魔術の二本立て。それを攻略するのは非常に難しい。

 どうやら紗矢華は、最上階の古城のオフィスに呼び出されたらしい。

 母親を見送った紗葵は、憤慨したと言わんばかりに不機嫌そうにして、ソファにどっかと座り込んだ。

「あれ、見た? あれが、仕事先に呼び出された人間の顔かっての!」

「妙にキラキラしてたな」

「仕事しに行ったんだか、エッチしに行ったんだか分かったもんじゃないわ。まったく、我が母ながら呆れるわ。ま、女性率高いし、弟とか欲しいんだけどねぇ」

「ストレートに言いすぎだって。第一、急ぎの用事ってのは間違いないだろ」

 そうでなければ、古城に会いに行くと言えばすむ話だ。古城の用件はあくまでも仕事であって、紗矢華はただ古城に呼び出されたという事実が嬉しかっただけなのだろう。

「いい年して古城君にぞっこんってか、あれはないでしょ。娘置いてくとかさー」

 紗葵はソファに寝転がってリモコンをピコピコと押し捲る。

 目まぐるしく変わるテレビ画面に、目が白黒する。ただでさえ、半吸血鬼化して目がよくなっているのだから、連続で画面が切り替わるとチカチカして仕方がない。もともと吸血鬼ではない凪の身体は、感覚と身体能力が乖離することがあるので、訓練で慣れていかなければならないのだ。

 しかし、輝きを失い土と岩石だけになってしまった星のように消沈する紗葵を見ていると、何となく理解できるものはある。

「お前、寂しいのか」

「はあ! そんなわけないし!」

 ガバッと起き上がった紗葵は顔を紅くして反論する。

 説得力がない。

 顔に出るのは母親譲りということなのだろうか。

「ふぅん。まあ、別になんでもいいんだけどよ。結局、俺は泊まっていいのか? 紗葵が嫌だってんなら、すぐに帰るけど」

 紗矢華の口ぶりから察すると、今晩は戻ってこない可能性が高い。となれば、紗葵は彼女が言ったとおり年頃の男と同じ屋根の下で夜を明かすことになる。それを嫌だと言うのなら、凪はすぐにでも帰り支度をしなければならない。

「ん、別に泊まっていけばいいじゃん」

「いいのか? それなら、俺も楽でいいんだけど」

「いいよ。後で布団出せばいいし。あ、でもあたしの部屋には入らないでよ。入ったらその胸射抜くから」

 胸を射抜く。

 ロマンチックな表現ながら、それには(物理)というワードが隠れている。

 純正の吸血鬼ならばまだしもダンピールと命名された下位互換の凪では蘇れない可能性も高い。大人しくしておくのが吉だ。

 

 

 

 ■

 

 

 時刻は午後九時を回り、そろそろ世間も静まり返る頃合だ。思うに、八時から九時というのは、夕と夜の境なのではないだろうか。八時台だとまだ早いという印象。それが九時になると、もう夜になったか、となる。一時間の違いだが、受ける印象はかなり違う。

 九時を過ぎて今話題の恋愛ドラマに目が釘付けになっている紗葵を後ろから眺めつつ、凪は麦茶で喉を潤す。エアコンがゴンゴンと唸り声を上げて、部屋を冷やす音が聞こえる。

 話すことも特に無くなった。こんなことなら本の一冊でも持って来ればよかったと思いながら、かといって教科書を開くような殊勝な真似もできず手持ち無沙汰のまま、ちびちびと舐めるように麦茶を口に運ぶ。

 インターホンが鳴ったのは、そんなときだった。

「宅急便かなんかかね」

「なんぞ、このいいときに……凪、頼んでいいー?」

「はいはい、お姫様」

 とりあえず、ドアホンで応答する。

「はい」

『あ、え……紗葵じゃない? もしかして、凪君?』

 モニターに映し出されたのは、なにやらうろたえている零菜だった。

「零菜? ちょっと待ってろ」

『あ、えと。……』

 ドアホンの向こうで零菜が何か言いかけたが、そのときにはもう通信を切ってしまっていた。

「零菜が来たぞ」

「零菜姉さんが?」

 はて、と紗葵は首を捻り、それから立ち上がって玄関に向かって歩いていく。

 鍵を開けて、ドアを開けると見知った零菜の顔がある。

「零菜姉さん。どうかした?」

「あ、紗葵ちゃん。これ」

「うん?」

 零菜の手にはビニール袋がぶら下がっている。中にはケーキの箱が入っている。

「あれ。これ、不死身屋のじゃん、どうしたの?」

「貰い物なんだけど、量が多くて、みんなに配ってるの。よかったら、紗葵と紗矢華さんも」

「おおぅ、ありがとう、零菜姉さん。ちょうど、口寂しかったんだよね。何たって、凪がいるしさ。――――やっぱり、喉が渇くよね」

 紗葵はにやりと笑う。

 人間よりも僅かに長く鋭い牙を見せ付けるように。

「紗葵ちゃん、それは」

「仕方ないじゃん。吸えるか吸えないかで言えば吸える人だしー。それに、イイ匂いもするしね。零菜姉さんなら、分かるよねー」

「ッ」

 赤い瞳に射竦められて、零菜は息を呑む。

「零菜姉さん。ちょっと、話そう」

 紗葵は零菜から貰った箱を靴箱の上にある花瓶の隣に置いて、家の外に出る。ドアを閉めて、そのドアを背中で押さえるようにして立つと零菜に向き合った。

「ちょうどいいと思う」

「何が?」

「このドアの向こうに、凪がいる。今日、うちに泊まることになってるの」

「――――それが、どうしたの」

「零菜姉さんも泊まらない? 凪と同じ部屋にしてあげるよ。なんなら布団も」

「ちょ、なぁ! 何、言ってんの、紗葵ちゃん!」

 一瞬にして耳まで紅くなった零菜が、声を抑えながらも叫ぶ。

「いいじゃん、零菜姉さん。別に妹の家に泊まるくらい普通だよ。それに、凪と仲直りするチャンス。次はいつになるか分からないよ」

「仲直りって、別に……」

 ざり、と音がする。 

 零菜の革靴が、廊下を擦った音だ。

「ねえ、零菜姉さん。――――いつまで、うじうじしてるの?」

「うじうじなんて、してない」

「してる。分からないわけじゃないでしょ。凪のこと避けすぎだし、みんな言わないけどさ、気を遣ってるんだから、いい加減、そういう辛気臭いの止めて欲しいんだって」

「う……」

 避けている自覚はある。

 向き合うことから逃げている。

 それによって、ほかのみんなに不快な思いをさせていることも、察していた。

「もう何年も経ってるし、謝ったじゃん。凪だって、そんなに引き摺るタイプじゃない。それでもダメだって言うならさ、パパッと土下座して何でもするから許してくださいって言えばいいんじゃない? 凪だって男の子なんだし、そのおっぱいでエロく迫ればコロッと墜ちるでしょ」

「な、なんてこと言ってんの!? そ、そんなことできるわけないでしょ!」

「でも、あんまり引き伸ばしてると、みんな我慢しなくなるよ。零菜姉さんがいいならいいけど。何なら、今夜あたりあたしが凪の血を吸ってみようか。うっかり血の従者になっちゃったりして」

「紗葵ちゃん」

「怒んないでよ。それに、最初に凪に手を出したのは零菜姉さんじゃないの。それで、罪悪感からうじうじとして未だに一歩が踏み出せない」

 責めるような紗葵の口調。

 零菜の急所を逐一抉るような言葉のナイフだ。言い返せないのは、それがすべて図星だから。湧き上がってくる反発心を零菜は懸命に飲み込んだ。

「もうさ、白黒つけてよ。凪を諦めるなら諦める。そうじゃないなら、そうじゃないって。親戚の仲がギスギスするの、正直嫌だしさー」

「う……ごめん」

 紗葵は正しい。

 零菜はどこまでも逃げ腰で、凪を殺しかけたことやその後のダンピール化の遠因になるなど、彼の人生を尽く狂わせてきたことに深い罪悪感を抱いている。

 彼が近くにいると萎縮してしまう。 

 あんなことをしたのに、凪に嫌われているのではないかと不安になる。――――嫌われていないかなど、もはや気にしても仕方がないくらいのことを仕出かしたというのに、嫌われていないと思いたい自分を捨てきれない。

 凪の身体に流れる血には、輸血パックとは比較にならないほどの霊力と魔力が宿っている。母親由来の規格外の霊力と、第四真祖由来の膨大な魔力だ。高純度の霊的能力に富んだ血液は、それだけ吸血鬼を初めとする血を媒介に力を得る魔族や魔獣にとってご馳走に見える。

 生まれながらにして、凪は狙われやすい体質だったということであり、零菜が輸血パックの血を嫌うのも、吸血への抵抗感以外にも凪の血を味わってしまったことで、無味乾燥とした輸血パックを不味いと思ってしまうからでもあった。

 今、こうしていても吸血の誘惑はどこからともなくやってくる。凪が近くにいるというだけで、牙が疼く。はしたないことこの上ない。

 いや、違う。

 そうではない。

 吸血は、あくまでも当時の零菜が知っている手段が吸血だったというだけで、あのときの零菜は吸血以上に大切な目的があった。

 凪の血を吸ったのは、あくまでも手段であってそれが目的だったわけではない。けれど、それを口にしたところでどうなるものでもない。結果的に零菜は加減を誤って凪を気絶させたし、危うく命の危険もあるというほどにまで追い込んでしまった。その後、彼の体内に残留した零菜の力がダンピール化に一役買ってしまったのである。凪の人生をごっそり覆したわけだから合わせる顔がないというのも仕方がないのだ。

「まあ、いいや」

 言いたいことは言ったとばかりに呟いた紗葵は、指を組んで背中を伸ばす。

「さっきの、血を吸っちゃうっていうの。……割と本気だったりするからさ、零菜姉さんも覚悟決めたほうがいいよ」

「ぅぅ……あ」

 呻いた零菜が視線を上げたとき、大きな瞳がさらに大きくなった。

 ぞわり、と零菜と紗葵の背筋が粟だった。

「紗葵ちゃん!」

 零菜が叫ぶ。

 紗葵の背後に現れた黒い影が、今まさに紗葵を飲み込もうとしていたからだ。

「あ……」

 紗葵は振り返ったはいいものの、それまでだ。 

 覆いかぶさってくる黒い泥のような何かに対して思考が停止してしまい、行動に移せなかった。

「下がって!」

 零菜が紗葵の襟首を掴んで引っ張る。咄嗟に紗葵は後ろに跳んで、身を翻すと零菜と共に後方に滑るように下がった。間一髪、黒い泥に飲み込まれずに済んだ。

「何、あれ。カ○ナシ? カ○ナシなの?」

「いやいや、そんなわけないでしょ」

 とはいえ、正体不明の魔獣であることは間違いない。

 目の前に蠢く不定形の粘液、あるいはゼリー、もしくは真っ黒な泥。その何かがボコボコと泡立ったかと思えば、一部が盛り上がって顔となる。

 人の顔を模倣して、失敗したとでも言おうか。凹凸は皆無で、口の部分だけがぽっかりと孔を開けている。その泥が伸び上がり、弧を描いて零菜と紗葵に襲い掛かった。

「やばいやばい!」

「逃げろ!」

 バガン、と派手な破壊音を上げて零菜がドアを蹴り砕く。魔力で強化した蹴りは、過たず鉄製のドアをぶち抜いた。

 開け放たれた脱出口に二人は飛び込む。

 紗葵の家の隣は、暁家の物置として使われている部屋だ。

 荷物は多いほうではなく、ダンボールがいくらか並んでいるだけで暮らそうと思えば暮らせる。

 狭い廊下よりは、まだ対処しやすい。

「れ、零菜姉さん。何、あれ。魔力の塊って感じだったけど!」

「知らないよ、あんなの。眷獣っぽいけど、それほどじゃないし」

 いきなり襲われて動転してしまって、詳しい相手の様子を窺えなかったが、パッと見た感じではあの泥は魔力が凝り固まったような構成だったように思う。

 似たような存在は、吸血鬼が扱う眷獣が代表例だ。

 意思を持つ魔力生命体とでも言うべきモノ。あれがそうとは言えないが、極めて近いものだとは感じられた。

「ど、どうする?」

「どうって。とりあえず、連絡しないと。ここにあんなのが入り込むってだけでも問題だよ」

 零菜は呼吸を整えて言う。

 ここは、暁家が管理する高層マンションであり、国の中枢とも言うべき場所の一つでもある。化物が入れるようなセキュリティではないはずだが、侵入されているという事実は変えようがない。

「う、うん。そう、し、よ、う……?」

 紗葵がふと上を見て、顔色を変える。

 零菜がつられて上を見ると、真白な天井に黒い染みが浮かび上がった。それはどことなく人の顔のようにも見える。

「う、わ……」

 次の瞬間には、どろりとした粘液が二人の頭上から降り注いだ。

「わあああああああああああああ!」

「いやああああああああああああ!」

 零菜と紗葵が抱いたのは奇しくもまったく同じ感想――――「キモイ」「生理的に無理」だった。転がるように廊下に(まろ)び出ると、異変を察して飛び出てきた凪と鉢合わせした。

「あ、な、凪、君」

 零菜がびくり、と身体を震わせる。

「零菜か。久しぶりだな」

「あ、うん。久しぶり」

 本当は最近見かけていたのだが、それは言えない。

 言葉を探っているところで、紗葵が怒鳴る。

「そんな風にしてる場合じゃないでしょ!」

「あ、そ、そうだ。凪君は、逃げて!」

「いや、逃げるってやっぱり変なのがいるのか」

 血相を変える二人の様子と部屋の中に感じる魔力の蠢き。

 奇妙な生物のような何かが電気が消えて真っ暗な家の中を這い回っている。

「みんなで逃げるのがベストだと思うんだが」

「あたしも賛成。さっさと逃げよう」

「うん。とりあえず、上! 古城君のとこに行けば何とかなる!」

 古城がいるのはこの一つ上の階だ。

 逃げるのは容易。

 それどころか、この異変を察してすでに動いてくれているかもしれない。

 三人は揃って階段に向かって駆け出した。距離にして二十メートルも離れていない。数秒で駆け抜けられる距離を塞いだのは、例の黒い影だった。

 ナメクジを思わせる身体を伸ばして三人の前に躍り出た。

 外壁を伝って先回りしたらしく、外から回りこまれた形となった。

「う……!」

 影はゼラチン質の身体を震わせたかと思うと無数の触手を伸ばして三人を捕らえにかかる。廊下という狭い環境で、面制圧をされては逃げ場がない。

「飛ぶぞ!」

 叫んだのは凪だった。

 凪は零菜と紗葵の手を取って、五十階という高さから外に飛び降りたのだ。

「あ……」

「ふえ……」

 唐突な浮遊感に唖然とする零菜と紗葵。

 そして、落下していると理解して絶叫する。

「ぎゃああああああああああああああああああ!」

「いやああああああああああああああああああ!」

 風を切る音がいやに近く聞こえる。

 あまりに高いところから落ちた所為か、落ちていないのではないかと錯覚するほどだ。

 生身の人間ならば落ちれば原型を残さずミンチになる。もちろん吸血鬼でもミンチになる。再生できるかどうかはその肉体のスペック次第。零菜と紗葵ならば、生還できる可能性は高いが、凪は死ぬ。そして、もちろん高所からの落下で生き残れるからといって怖くないわけではない。

「無理無理無理死ぬ! いや、死なないけど死ぬほど痛いって!」

「ざけんな、凪! 何してくれんの! 何とかしなさいよ、もー! 死んだら祟ってやるからね!」

 半泣きになりながら、零菜と紗葵は凪に抗議する。その抗議を受けて、凪は「分かってる」と怒鳴る。

 凪は零菜が抱き抱えると、自由になった右手の中に一振りの魔剣を呼び出した。

「来い、不出来な黒剣(インフェリア・アーテル)!」

 凪の眷獣の中でも最も召喚する機会の多い重力剣の眷獣だ。重さを操るだけでなく、重力そのものへの干渉も可能という優れもの。

「任せたぞ!」

 刀身が魔力を纏い、三人を重力フィールドに包み込む。本来は魔剣の影響下に置かれた物体の重さを調節したり、斥力を発生させたりすることで弾き飛ばすなどの攻撃的な用法をするのだが、今回は高所からの落下を可能な限り安全に乗り切るのに行使する。

「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 声と魔力を振り絞り、凪は魔剣の能力を全力で引き出す。

 ビリビリと腕が痺れ、倦怠感が襲ってくる。

 ほんの数秒、力を使えばいいだけだ。それほど辛いものではない。吹き抜ける風が緩まり、落下が浮遊程度にまで緩和されるころには、十階程度の高さにまで落ちてきていた。

 勢いを失った三人は、一瞬だけその場に制止すると重力フィールドの消滅と共に地面に足を付けた。

「い、生きてる……?」

「死ぬかと思ったー!」

 膝に手を突く零菜と尻餅を突く紗葵は、それぞれが自由落下の恐怖から解放されて安堵の表情を浮かべる。飛行手段のない紗葵では地面との激突を避けることはできず、転移能力を持つ零菜であっても、裸になって難を脱するかミンチになってから再生するかという二者択一を迫られていたわけで、何の説明もなしに飛び降りた凪に対して非難の視線を向けるのは当たり前のことだった。

 とはいえ、その恐るべき危機を乗り越えた後の安堵や怒りも、これから迫る敵を前にしてはすべて棚上げしなければならない。

 黒い泥の目的等、分かっていないことが多いのだが問答無用でこちらに襲い掛かってきたことからも一旦逃げて終わりとは言えない。

 吸血鬼としての優れた視力が、マンションの最上階付近の壁に張り付く黒いナメクジを捉える。

 そのナメクジは、身体を震わせたかと思うと、徐に身体を壁から離して重力に身を任せた。凪たちが選択したのと同じように飛び降りたのだ。

「く、来る!」

 零菜が叫び、

「舐めんな!」

 紗葵が怒鳴る。

 紗葵は、迸る魔力を右手に集めて、半透明なクロスボウを作り出した。己が手に馴染んだ武器を構えて、紗葵はその名を口にする。

「射抜け、捻じ切る颶風(ヴィント・ホーゼ・シュピラーレ)!」

 紗葵の眷獣が咆哮を上げ、烈風の弾丸を射出する。

 柔らかい射撃音に反して、その矢は凶悪さを隠しもしない。大気を巻き込む魔弾は落下してくる泥の怪物の左半身を一撃の下に貫通し、らせん状にその身を抉り取っていく。打ち抜かれた怪物は錐揉みして落下するより他にない。

 眷獣の召喚から一撃を入れるまで、二秒とかからぬ早業だった。

 べちゃり、と地に墜ちた怪物は原型を留めないほどに押し潰されてただの水溜りのような姿に変わった。

「どーよ!」

 勝ち誇る紗葵はクロスボウを下げて得意げに笑う。

 しかし、その笑みは長くは続かない。黒い水溜りはすぐさま泡立ち、蜘蛛を思わせる怪物へと姿を変えたからだ。八つの足と筒状の胴体を持ち、ミミズのような頭は先端が上下にぱっくりと割れている。恐らくは口なのだろう。

 その奇怪なフォルムに女性陣は顔を引き攣らせた。凪ですら、気味の悪さが恐怖に先行するほどだ。とはいえ、あの姿は見せかけでないだろう。ナメクジ上の姿から、足を持つ形状に変化したところを見るに、学習していると考えるのが無難だろう。知性というよりも、もっと根源的な本能の部分で肉体を最適化しているように思える。故に、あの怪物は今までのような鈍さを持たず、野生動物に近い動きでこちらに襲い掛かってくるだろう。

 身を沈めた怪物は、ロケットスタートを切って凪に襲い掛かる。風を切る怪物に先んじ、凪は練り上げた霊力をこぶしに溜め込み、勢いよく撃ち出した。

「発ッ」

 不可視の力の壁が怪物と正面から激突しその肉体を大きく後方に跳ね飛ばす。

「効いてるな。やっぱり、魔力の塊には霊力をぶつけるのが最適だな」

 魔力と対消滅する関係にある霊力ならば、魔力で構成されたあの怪物の身体を中和することができる。膨大な霊力に曝されれば、あの怪物の肉体は塩をかけられたナメクジのように溶けて消えるだろう。ただし、如何に凪が世界でも最高クラスの霊力タンクであったとしてもあれを中和するだけの霊力は発揮できない。弱らせるのが精々と言ったところだろう。

 あるいはアルディギア製の武器があれば話は別だったのかもしれないが、ない物強請りに意味はない。

「よし、零菜」

「は、はい!」

 なぜかビクッとした零菜が凪に視線を向ける。

「零菜が切り札だ。紗葵と俺で隙を作るから槍の黄金(ハスタ・アウルム)で一撃入れてくれ」

「分かった。紗葵は?」

「おまけっぽくて気に入らないけど、それが一番手っ取り早いか。じゃあ、あたしは後衛で」

 紗葵はクロスボウを肩に担いで頷く。

 怪物はすでに起き上がっていて、こちらの様子を窺っている。

 巨体を八本の足で弾き、一瞬にして距離を詰める怪物に対して、凪は再び霊力を放出することで対処する。弾き飛ばすのではなく、今度は受け止めるために出力を調整する。遠当てにも似た技法で怪物の眼前に眼に見えない壁を打ち出し、その突進力を大幅に削る。

捻じ切る颶風(ヴィント・ホーゼ・シュピラーレ)、お願い」

 そこを狙い済ました紗葵がクロスボウの引き金を引く。風の矢が八つに分かれて怪物の足を次々と破壊する。そして、三手目。腹で地面を滑る怪物の正面に立つ零菜が、雷光を纏う槍を掲げる。

槍の黄金(ハスタ・アウルム)!」

 魔力を無効化する雷光の槍が、漆黒の泥を一撃の下に葬り去る。

 怪物の突進力は、その運動エネルギーも含めてすべてが魔力に由来するために魔力そのものを打ち消されては何の意味も成さない。

「だあああああああああああああああああ!」

 雄叫びを上げる零菜は槍を一気に振り抜き、怪物の肉体を跡形もなく吹き飛ばした。

 

 

 魔力を打ち消すというのは極めて単純ながら非常に強力で反則的な能力だ。特に魔力で生きる存在にはそれが致命的な毒となる。零菜の槍を受けた怪物はその肉体を魔力で構成していたために、槍に抗うことができず肉体を崩壊させていった。

「すげ……!」

 猛威を振るった怪物がなす術なく消滅した様を見て、凪は言葉を失う。

「相変わらず反則だな、おい」

「魔力を打ち消すなんて、あたしたちの天敵も天敵だしね」

 魔力だけでなく霊力まで打ち消すだろう。あの槍は、あらゆる害悪も守りも関係なく消し去る破邪の槍なのだ。

「零菜、怪我はないか?」

「あ、うん。大丈夫」

 凪に話しかけられて、ぎこちなく返事をする零菜に紗葵は呆れたようなため息をつく。

「ところでお二人さん。あれ、何?」

 紗葵は、路上を指出す。

 零菜が怪物を仕留めた直後、その内側から飛び出た何かだ。

「俺には人に見えるぞ」

「うん、女の子に見える」

 白いワンピースを着た少女が仰向けに倒れているのだ。

 怪物の中にいた。あれが本体だったということだろうか。だとすれば、正体は吸血鬼ということになるのだが、果たして少女は何者なのだろうか。

「とりあえず、捕まえて調べてみないとって感じか」

 紗葵が微動だにしない少女に向かって歩き出す。

 警戒しつつも、少女からはほとんど魔力が失われているようで危険な反応はない。吸血鬼だとしても、眷獣を呼び出すような魔力の動きは感じられないので、危険はないものと考えていた。

 事実、少女からは何の魔力も感じなかった。

 ただ、戦いの余波で周囲に巻き上がった魔力の流れが急速に変動し、紗葵のすぐ傍に渦を巻くに至って初めて危険を察知した。

 凝り固まった魔力は黒い泥と化して紗葵を包み込もうとする。

「あ……」

 紗葵は思わず身体を固めてしまう。零菜も凪も間に合わない。コンマ一秒の差で紗葵が取り込まれてしまうのがありありと分かってしまった。

 広がる泥が自らを包み込む瞬間を紗葵はスロー映像を眺めているかのような気分で眺めていた。

 非常に冷静な気持ちで、自分が喰われると認識できた。かといって、何ができるわけでもなく一瞬先の死を座して待つしかない。

 漆黒の泥を眩い金剛石の輝きが跳ね除けたのは、まさにその瞬間のことだった。

 穢れを寄せ付けない金剛の楯は、泥が張り付くことすら許さず怪物の残滓を十メートルほども跳ね飛ばす。

神羊の金剛(メサルティム・アダマス)……」

 へたり込む紗葵は、救い主の名前を呟く。

 眷獣の姿は見えない。

 全力展開していないからだろう。(古城)が本気になれば、この程度の泥など撫でるだけで蒸発させられるが、それでは周囲への被害も馬鹿にならない。紗葵が高性能ミサイルならば古城は核爆弾だ。下手に力を解き放てば、国を滅ぼすことにも繋がりかねない。

 跳ね飛ばされた泥は尚も抵抗を続けようとして蠢いたが、今度は遙か上空から降り注ぐ無数の呪矢に射抜かれて、ついに活動を停止し、大気に溶けて消えた。

 




紗矢華は二十代中頃以降になってからが最大の魅力を発揮するんじゃないだろうか。
喫茶店とかでジーパンなどのラフな格好にエプロンとかつけてそう、と勝手な妄想。

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