二十年後の半端者   作:山中 一

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幕間

 彩海学園の冬休みは、一月八日の月曜日から始まる。

 年度の考え方を含めてカレンダーは日本だった頃と大きく変わるところはない。国家元首や支配体制の変更から、建国記念日等がずれているが、旧建国記念日等も名を変えて休日のまま残している。よって、休日の数は日本よりも多少多くなっているようだ。

 一月のよいところは、休みが多いことだ。新年の浮かれた気持ちのままで、しばらく過ごすことができる。少なくとも、第二月曜日の成人の日までは、学生的には冬休みの延長の感覚だ。

 この日、一月に於ける最後の自由を謳歌できる成人の日は、抜けるような青色を空一面に湛えた式典日和となった。朝から各メディアは成人式の中継に奔走しており、式典会場で挨拶をして回る古城や雪菜らの姿が何度も画面に映し出されている。また、毎年恒例の暴れる新成人が今年も出て、会場から追い出される様子が報じられていた。

 そんな報道をBGMにして、凪はダンボール箱を閉じていたガムテープを剥がす作業に追われていた。

 何かと問題が度重なり、凪は暁家が所有するマンションに引っ越してくることになったのだ。

 マンションのワンフロアを所有している暁家は、使いきれない部屋が何部屋もある。その一室が、凪と空菜に宛がわれたのである。

 子ども部屋感覚でマンションの一室を渡してしまうのは、さすがは皇室といったところだろうか。

 すでに荷物の搬入は終わっており、後は荷解きを終えるだけとなっている。

 その荷解きも昨日には粗方終わっていて、残る段ボール箱は四箱。今まで買い集めた漫画や雑貨、教科書の類となった。

 これならば、他人の手を煩わせることもない。

 凪は一人で荷解き業務の最後の仕上げにかかる。

 午前中まで一緒に作業をしていた空菜は、午後からクラスメイトとの約束があるということで外出した。とてもよいことだと思う。交友関係が広がるのは、彼女にとって大きなプラスとなるだろう。

 軽く口笛を吹きながら、凪はダンボールを開く。

「ん?」

 ダンボール箱の中に小さな紙袋が入っていた。

 有名なデパートの紙袋で、取り出してみるとずっしり重い。

「何だこれ。こんなの入れてたかな」

 自分のダンボール箱に入っていたということは、空菜の私物ではないだろう。

 気になって紙袋の中に入っていた箱を取り出してみると、青を基調とした栄養ドリンクの箱だった。

「ああ、そっか。ばあちゃんが置いていったヤツだ」

 二ヶ月ほど前に、ふらっとやってきた祖母が置きっぱなしにしていったものである。結局、ほったらかしにしたまま忘れていたのを、今回の引越しに際して発見して適当に箱詰めしたのだった。

 蓋を開けてみると、中には六本の栄養ドリンクが入っていた。

 Ph-αというドリンクらしい。ラベルにはそう書いてあるが、聞いたことのないドリンクだ。消費期限は、来週の月曜日となっている。

「何だ、もう切れそうじゃん。あぶねー」

 一口も飲まずに栄養ドリンクの期限を迎えてしまうのは、何とももったいない話だ。凪は、日頃から那月やアスタルテ等に厳しい戦闘訓練を受けているので、栄養ドリンクは相棒と言ってもいい存在である。当然、その分の出費もあるので、タダでもらえる栄養ドリンクを溝に捨てるようなことはできない。

 ちょっと、味見でもしてみようかと思ったとき、インターホンが鳴った。音からしてエントランスのものではなく、ドアのインターホンである。つまり、親族の誰かということは確実だった。

 特に警戒をする事もなく、凪は玄関のドアを開ける。立っていたのは小さなビニール袋をぶら下げた萌葱だった。

「やっほー、凪君。お昼、食べた?」

「いや、まだ」

「じゃあ、ちょうど良かった。これさ、よかったら食べて」

 そう言って、萌葱はビニール袋を凪に渡す。

「カレーパン?」

「そう。市松屋って知ってる? 年末に中央銀行の隣にできたパン屋なんだけど」

「この前テレビでちらっとやってた。けっこう、並んでるんだって?」

「そうそう。そこのパンをね、立花さんが買ってきてくれたのよ。その、おすそ分け。今日、みんな出払ってるしさ」

 立花さんというのは、萌葱の護衛を担当する攻魔師の一人だ。確か、最近産休に入ったばかりだった気がする。

「産休じゃなくて育休。もう、産まれてるよ。写真見せてもらったけど、すっごい可愛かった」

「そうなんだ。男の子?」

「うん、そうみたい。攻魔師にはしたくないんだって。まあ、そうだよね」

「大変さを身を以て知ってるからな、あの人も」

 攻魔師は過酷な仕事だが、とりわけ日本の獅子王機関を出身母体とする攻魔師は、非常に大変な経験をして暁の帝国にやって来た者が多くいる。立花もその内の一人だ。といっても、獅子王機関が解体されたのは、彼女が中学生の頃の事だ。現場を知る前に居場所を失い、唯里を通じて暁の帝国に逃れてきたという経緯があった。

 攻魔師にとっては荒れた時代が思春期だったのだ。複雑な思いを抱いているのは疑うべくもない。

「萌葱姉さんは、昼食は?」

「もう食った」

「そう。じゃあ、食後に桃のゼリーでもどう? コンビニのヤツだけど」

「いいの? もらうもらう。上がっていい?」

「ん、どうぞ」

 凪は、萌葱を家にあげる。

 内装こそ違うが、構造は萌葱の家と同一だし、荷解きを手伝っている。何よりも、もともとは暁家で物置と化していた部屋なのだ。勝手は知っている。

 新しく購入した木製黒塗りのテーブルは四人掛けだ。LDKの広い部屋に、陽光で暖まった風が柔らかく吹き込んでくる。

 暦としては冬なのだが、南国だからだろうか。穏やかな午後の気配に、眠ってしまいそうだった。

「何か飲み物が欲しいな。コーヒーと紅茶があるけど、どっちにする?」

 と、凪が尋ねる。

「コーヒー」

 と、萌葱は答えた。

「了解。少し待ってて」

 凪は、キッチンに向かい、お湯を沸かし始める。

「あれ? 凪君が淹れんの?」

「そうだよ」

「缶コーヒーとかじゃなくて?」

「あまり好きじゃないんだ。缶コーヒー。味気なくて」

「ほー……」

 普段、自分でコーヒーを淹れるという習慣のない萌葱には、珍しい光景に見える。

 萌葱としては、市販の缶コーヒーでもまったく問題ない。

 もちろん、美味しいに越したことはないし、手間を多少でもかけた物はそれだけで価値があるとは思うが、量産品もオーダーメイドも萌葱からすれば違いはない。萌葱の舌は高級食材と廉価品を見分けられるほどグルメではないからだ。

「ふーん……」

 萌葱は頬杖をついて凪の背中を眺める。

 コーヒーを淹れている男子というのも、これはこれでアリだな、と新しい発見をしてしまった。悪くない。これは、あれだ。萌というヤツかもしれない。エプロンをつけていたら、なおよかった。

「アイスとホット、どっち?」

「わたしはアイスにする」

 萌葱の返答から数分後、萌葱の下には冷たいコーヒーが届けられた。グラスは結露していて、いかにも冷たそうだ。

「悪くないじゃん」

「どーも」

 一口飲んだ萌葱が頷いた。少なくとも、百円ちょっとの缶コーヒーよりは美味しいと思った。

「いつからコーヒー、自分で淹れるようになったの? わたし、知らなかったよ」

「最近だよ。ほんと、つい最近。抽選でセットが当たったから、やってみた」

「それで、嵌った」

「嵌ったわけじゃないって。ただ、道具をほったらかしにするのはもったいないし、さっきも言ったケド、缶コーヒーよりは、自分で淹れたほうがいいってだけ」

 凪は萌葱が持ってきてくれたカレーパンを食べてみる。少し辛口だが、カレーパンにしては珍しく、しっかりと具が入っている。

 ジャガイモ、人参、豚肉、グリーンピースの甘味もある。昼食に軽く食べると考えると、少々重たいかもしれない。

 きっと、女性ならこれ一つで満足するのだろう、と勝手に想像をする。

「どう、それ。美味しい?」

「うん、美味い。萌葱姉さん、これ食べたんじゃないのか?」

「もちろん。でも、かなりのボリュームでしょ。わたしのおなかには入りきらないのよ」

「ゼリーは入るのに」

「別腹ですー」

 言いながら、萌葱は桃ゼリーをスプーンで掬って口に運ぶ。

「てかさ――――パンにそれは合わないんじゃない?」

 萌葱の視線の先には、先ほど凪が見つけた栄養ドリンクがあった。

「ちょうど、飲もうと思ってたところに姉さんが来たんだよ。ばあちゃんが置いていったヤツで、どんなもんかと思ってさ」

「……それ、大丈夫なの?」

「大丈夫じゃない? 消費期限、切れてないし」

「カレーパンに栄養ドリンクって、栄養過多じゃないの」

「一本くらい、大したことないって。どうせ、明日には教官に伸されることになるんだ。今のうちに栄養摂っておくよ」

 そういって、凪は小瓶の蓋を螺旋って開ける。つんとした匂いは、コンビニでも買える栄養ドリンクと違いはない。

 だとすれば、口に合わないということもないだろう。

 凪は特に警戒することもなく、一口で小瓶の中身を飲み干した。味は有名栄養ドリンク、リモビタンAにそっくりだ。いや、ちょっと甘味が強いかもしれない。

「……うん?」

 くるり、と視界が回った。

 突発的で何の不調もなかった。これは貧血とか眩暈とかではなくて、物理的に視線の位置が変わっているんだろうということだけ理解して、凪は意識を手放した。

 

 

 萌葱は目の前で起こった事象に何ら対応する術を持ち合わせていなかった。知識、経験、その他あらゆるものが、萌葱には不足していたのである。

 だが、それは萌葱の不勉強を浮き彫りにするものではない。未知の事象に対する対応能力が欠如していると言われればそうかもしれないが、高校一年生にそこまで求めるのは酷というモノではないだろうか。

 そもそも、一体誰が適切な対応を取れるというのだろう。

 目の前で、幼馴染が突如として子どもになってしまうなどという奇天烈な展開に。

「……?」

「……?」

 凪、と思しい子どもと事態を把握できず固まってしまった萌葱の視線が絡まり合う。

 年齢は――――見た目から四、五歳くらいだろうか。小学生というには幼すぎる。

「えーと……えーと……あのー、ちょっと、待ってね……あー」

 萌葱は何をどうしたらいいのか分からず、完全に思考が真っ白になり、そこから復帰するのに、たっぷり十秒ばかりの時間が必要だった。

(ちょっと、何これ。一瞬前まで凪君だったのが、子どもに掏り替わってたんだけど!)

「……ねえ、君」

「ッ!?」

 びく、と少年は肩を震わせる。

 恐る恐る周囲を見回しているのは、自分の置かれた状況が分かっていないからだろうか。

「あの、そんなに驚かないで……あの、えーと、お名前、何ていうの?」

 できるだけ平易な言葉で質問する。

「……昏月凪、です」

 思いのほかしっかりとした受け答えで、少年――――恐らくは昔の凪は答えた。

「あー、そっかー、凪君かー。うん、えー……」

「おかあさんは……?」

「へ?」

「おかあさん、どこ? ここどこ? うぅ……」

 じわりと凪の目に涙が浮かぶ。

「あの、あの、えーと、大丈夫! 大丈夫よ、心配しないで!」

「ぅぅぅ……」

「ちょ、泣かないで。ねえ、凪君。あのね、ここは、えと」

 どうしたものか。何をどう説明したらいいのかまったく検討もつかない。一先ずは質問をして、凪が泣く前に状況を把握しよう。

「凪君はさ、何歳ですか!?」

「……よんさい」

 小さな指を三本立てて凪は答えた。

「可愛い……じゃなくて、えーと、その、どこから来ましたか?」

「びょういん」

「え?」

「お医者さんに行った」

「お医者さん? 風邪引いたのかな?」

 凪は首を振る。

「おばあちゃんのとこ……」

 なんだか本人も分からないらしい。

 何となくだが、察しはついた。この頃の凪は病弱だった。きっと、彼の体質の所為だ。最近になって分かったことではあるが、この頃から凪は様々なデータを取り、細かく状況をチェックされていたのだ。

「ふぐ……」

「よ、よし。その、あ、これ、食べる? ゼリー」

 泣き出しそうだった凪が視線を上げた。萌葱が少しだけ食べたゼリーだが、あまり減っていないしスプーンで掬っておけば、凪の目線からなら食べかけとは分からないだろう。

 凪が興味を持ったようで身を乗り出してくる。

「はい、あーん」

「あー」

 スプーンにゼリーを乗せて凪に食べさせる。

「美味しいですか?」

 そう尋ねると凪は素直に頷いた。

「ヤバイ、これ可愛い。どうしよう……!」

 スプーンでゼリーを掬って口元に運ぶと、反射的に口を開けて食いついてくる。

 ゼリーのカップが空になるまで、さほど時間は掛からなかった。

 おやつがなくなったので、次は何で気を引こうかと萌葱は思案する。今の凪は四歳児だ。ここは凪の家ではあるが、四歳の頃に住んでいた家とは別なので、チビ凪にとっては見ず知らずの空間だ。

 今もきょろきょろと周囲を見回して、そこにいるはずの誰かを探している。

「おかあさん……」

 不意にイスから下りようとした凪は、バランスを崩して床に転落した。ドスンという派手な音を立ててひっくり返ってしまったのだ。

「うわッ、ちょ、だ、大丈夫!?」

 萌葱は血相を変えて凪に駆け寄った。

 ひっくり返った凪はびっくりして固まっている。そして、萌葱が抱き起こしてから事態を把握したのか、急にぐずり始めてしまった。

「ひぐッ、ふぐッ、うぅ、う……」

「な、泣かないで……い、痛かったねー、びっくりしたよねー」

 膝をついて凪と目線をあわせ、萌葱は頭を撫でて話しかける。昔、テレビで見た子どもの対処法の見よう見真似だ。

「う、ううぅ……あぁぁ!」

「うわぁぁ、ダメだー。ど、どうするの、これぇ」

 右往左往する萌葱。せめて夏音か結瞳がいてくれればよかったのだが、今日は二人とも子どもを連れて外出している。

「そうだ、分かった! 凪君、お母さんに電話してみよう!」

「うぅ?」

「そう、電話。わたしね、凪君のお母さんの電話番号知ってるから! 電話、取ってくるから、じっとしててね!」

 妙案とばかりに萌葱は携帯を取りに自宅に戻る。同じフロアにある萌葱宅まで、走れば十秒とかからない。携帯を取って、凪のところに帰ってくるまで、一分もいらない。

 萌葱は自室から充電していた携帯を引ったくり、慣れた手つきで電話帳から凪沙の電話番号を呼び出した。国際通話料金とか、もう気にしていられない。

(出て、出て、お願いします凪沙さん!)

 神にも祈るような気持ちで、萌葱は凪沙を心の中で呼ぶ。

 こうしている間にも、萌葱は凪宅の玄関ドアを潜っている。ドタドタと短い廊下を突っ切ると、飛び込んできたのは凪が開け放たれた窓を潜ってベランダに出た光景だった。

「うわーーーーッ!!」

 所謂『目を離した隙に……』という展開が襲い掛かってきたのである。ここは地上五十一階だ。柵の向こうには死しかない。眷獣も魔術も使えない四歳の凪では、とても助かる見込みはない。

「凪君、ストップーーーーーーー!!」

 転がるような勢いのまま、萌葱は凪に駆け寄って、その小さな身体を抱きかかえて部屋の中に連れ戻した。そして、窓を閉め、鍵をかけて凪が外に出られないようにした。

「はあ、はあ、はあ、あぶねー。マジ、あぶねー……」

 心臓が止まるかと思った。

 これは、身がもたない

『……もしもし? もしもーし、萌葱ちゃん? どうしたの?』

「あ! 凪沙さん! 助かったーー!」

 萌葱はほっとして膝の力が抜けそうだった。

『珍しいね、萌葱ちゃんから電話なんて』

「お忙しいところ、すみません」

『いいよいいよ。ちょうど、昼休み中だしね。それで、どうしたのかな?』

「はい、実は、ちょっと困ったことがありまして……」

 それで、萌葱は凪の現状を掻い摘んで説明した。

 祖母が残したという栄養ドリンクを飲んだ凪が子どもになったというだけなのだが、それを電話で伝えるとわけが分からない三文小説のようだった。

『へー、四歳の凪君に戻っちゃったんだ』

「はい、そうなんです。それで、今成人式もやってて大人が出払っちゃって、わたししかいないんです」

『ああ、そっかそっか。今日、成人の日だもんねー。あはは、でも懐かしーなぁ、ちっちゃい凪君。わたしもそっちに行きたいなぁ』

「笑いごとじゃないです」

 声を潜めて話をする萌葱をちっちゃい凪が興味深そうに眺めている。

『分かった。とりあえず、凪君と話してみるよ。たぶん、そんなに長い時間はかからないと思うけど、一応深森ちゃんに確認はしてもらっていいかな?』

「はい、お願いします」

 そして、萌葱は凪に携帯を渡した。

 四歳ともなれば、電話で話をするくらいはできるようになる。

 会話の相手が凪沙だということも、理解できたようで表情を明るくして凪沙と話し込んでいる。

 その隙に、萌葱は備え付けの固定電話から深森に電話をかける。固定電話を設置している家庭も今は少ないが、家族が誰でも使える電話として、そこそこの価値は維持している。もっとも、使うのは宅配便の業者などとのやり取りくらいのものだが、今はそれが役に立った。

『はーい、もしもーし。凪君、どうしたの?』

「お祖母ちゃん、わたしわたし。萌葱」

『お? 萌葱ちゃん? どうしたの、珍しい』

「至急確認したいんですけど、凪君に子どもになる薬渡したりしませんでした?」

『ん? 子どもになる薬ー?』

「栄養ドリンクの小瓶なんだけど、お祖母ちゃんに貰ったって言ってたの。それ飲んで、凪君、四歳になっちゃって」

 横目で電話中の凪の様子を確認しつつ、萌葱は深森に聞く。すると――――、

『あー。はいはい、思い出した! 医療用の退行薬の試作品! なくしたと思ったら、うちにあったかー!』

「退行薬?」

固有堆積時間(パーソナルヒストリー)を一時的に封印状態にして、何年か時間を巻き戻す霊薬よ。まあ、まだ実験段階のものなんだけどね』

「そんなの何に使うの?」

『んーとね、例えば進行性の病気とかまだ治療法のない病気とか……今はどうにもできないけど、ほっとくわけにもいかないっていう人が適切な医療を受けられるようになるまでの時間稼ぎに使うのが主目的』

 固有堆積時間は、その個人を積み上げた「思い出」を含めた時間そのものだ。それは魔力の源であり、個人の存在そのものを示している。固有体積時間を一時的に封じるということは、封印対象となった時間そのものを一時的に喪失し、その分だけ身体も記憶も退行することになる。

 極めて高度な霊薬と言えるだろう。最上級の魔導書が一流の魔術師に読み解かれて辛うじて発動できる大魔術か、あるいは第四真祖くらいしか固有堆積時間に干渉することは困難というのが常識だ。

『まあ、厳密には固有体積時間を封じたのに近い状態を作り出すってだけなんだけどね。世界を騙す幻術っていうのかなー。その人の歴史そのものを戻すから、服すらも纏めて巻き戻るって寸法よ』

「細かいことは何でもいいんだけど、これ、治る? 凪君、縮んでるけど」

『一本飲んだ程度なら一日も持たずに効果切れるから、早ければ今日の夜には戻るかもしれないね』

「あ、そうなんだ」

 萌葱はほっとした。この状態がいつまで続くか分からなかったからだ。

『だから、今の内に色々勉強してね。将来のために』

「何、いきなり将来って」

『子どもの扱い方は、知ってたほうがいいよ。子どもと触れ合う機会なんて滅多にないんだから。あ、でも四歳だと瞳ちゃんたちがいたかー』

「保育士にでもならないのなら、今から子どもの世話って早すぎだし」

『そーんなことないよ。浅葱ちゃんがあなたを産んだのは二十歳の時よ。あと、四年であなたも二十歳。四年なんてあっという間だから、あっという間に適齢期』

「わたしは別に二十歳で子ども作る気はないし、吸血鬼だから適齢期とか別にって感じだし……! 正直、お母さんたちが早すぎってだけだと思うケド」

 古城の妻は、概ね二十歳前後で出産している。吸血鬼だけでなく人間の視点からでも、比較的早い出産だと言えるだろう。

 それは古城が色々と吹っ切れたことと先を争った妻たちの戦いの結果でもある。萌葱が両親の辿った道を進まない限りに於いて、二十歳で出産という事態はならないし、萌葱としては、普通に大学生活を謳歌している予定なのだ。

「はあ、まったく……」

 祖母のあまりに大事なことを時々失念する癖に辟易しつつ通話を終える。ちょうど、凪も凪沙との通話を終えていたようで、携帯を返してくれた。

「お母さん、何て言ってた?」

「お姉ちゃんの言うことをよく聞ききないって言ってた」

「そっか。でも、よかったね、お母さんとお話できて」

「うん。今日はお仕事で遅くなるって」

「うんうん、じゃあ、お母さんが来るまで、ここで遊んでよっか?」

「いいの?」

「いいよぉ、何して遊ぼうかなー」

「野球拳」

「はぃ?」

 萌葱は笑顔を固めて聞き返す。

「野球拳?」

「うん。この前ね、お正月におじさんたちがやってたの」

「ほー……おじさんたち? ねえねえ、そのおじさんって、もしかして古城って名前じゃなかった?」

「うん、そう。知ってる? 萌葱ちゃんとか零菜ちゃんのお父さん」

「知ってる知ってる。すごいよく知ってるよー。でも野球拳は知らなかったなー。ふーん、あ、じゃあ、古城おじさんと一緒に野球拳してた人当ててみようか? 矢瀬って名前だと思うんだけど、どうかなー?」

「おー、すごい。そう。矢瀬おじさん。お姉ちゃんすごい。よく知ってるな」

「そうでしょー。お姉ちゃんってば、物知りなんだー。だから、野球拳はダメ」

「ダメか」

「そう、ダメ。野球拳はね。悪い大人がすることなんだよ。凪君は古城おじさんや矢瀬おじさんの真似をしちゃ、ダメだからね」

「そうだったのか……古城おじさんたちは悪い大人だったのか。なんてことだ……」

 世の真実を知り、純粋な心が落胆に沈んだ。

 でも仕方がない。悪い大人の影響は、正しい知識で封殺しなければならない。見えない物に蓋をするだけでは、悪影響は防げないのだ。

「お姉ちゃん、名前」

「ん? あ、そっかそっかごめん、言ってなかった」

 今更、萌葱は凪が今の自分を知らないことに気付いた。

「えっと、どうしようか……」

 名乗ろうとして萌葱は躊躇した。凪は『萌葱』という名前を知っている。言うまでもなく、彼女自身だ。この凪が知っているのは五歳の萌葱だが、ここで名乗るのはいいのかどうか。一瞬だけ逡巡してから、まあいいかと割り切った。どうせ一日と経たずにこの生活は終わるのだ。

「わたしね、萌葱っていうの」

「萌葱? おー、僕のお姉ちゃんもね、萌葱っていうの」

「そうなんだ、同じ名前だねー」

「うん」

 凪沙と話ができて安心したからだろうか。凪は、先ほどよりも快活な雰囲気を出すようになった。

「萌葱ちゃんっていうお姉ちゃんがいるんだねー」

「いる。正確には、従姉っていうんだって。お母さんのお兄さんのこども」

「そっかー、詳しいんだね、凪君」

「へへー」

 誉められて嬉しかったのか、凪は頬を綻ばせて笑う。

(やべー、むっちゃ超可愛いーーーー! 抱きしめて頬ずりしたいーーーー!)

 にやけそうになる顔を引き締めて萌葱は凪の頭を軽く撫でる。

 子どもは嫌いではない。ちょうど、この凪と同じくらいの妹もいるのだ。ませ始めた瞳や夏穂に比べて、凪はまだまだ歳相応の子どもな感じがする。

 この年齢の子どもは何でも玩具にする。遊び方さえ教えてあげればいい。引っ越してきたばかりの凪宅は、見方を変えれば玩具の宝庫ともいえる。例えば段ボール箱。これは、子どもにとっては秘密基地にもなるし、ロボットにもなる重要な玩具の材料だ。

 萌葱はダンボール箱を解体し、凪と一緒に小さな恐竜を作ることにした。ダンボールを張り合わせるだけの、簡単な作業で、鋏を使うところは萌葱が凪に代わってすることで危険を最小限に抑える配慮をする。

 凪の仕事は切り取ったダンボール紙を糊付けして、張り合わせることだ。

 凪は恐竜の足の形に切り取ったダンボール紙を、胴体部分につけている。工作を楽しそうにしているところをみるとやっぱり男の子だなぁと感慨深く思ってしまう。

 この凪と萌葱は十年前に一緒に過ごしていたのだ。その時のことは、もうほとんど覚えていない。だから、この頃の萌葱がどんな娘だったか気になった。

「そういえば、凪君にも萌葱ちゃんって従姉がいるんだよね?」

「いるよ」

「どんな娘なのかな? わたしもおんなじ名前だから気になるなー」

「んー? どんな? んー」

 凪は手を止めて虚空を見る。何と答えたらいいのか悩んでから、口を開いた。

「えーと、元気」

「へえ、元気な娘なんだ」

「うん、よく一緒に遊んでる。危ないとこ行って、怒られたりもする。この前も、あみあみの壁を登ろうとして、先生に怒られてた」

「そ、そう? そんなことあったかな?」

 活動的な子ども時代だったことは覚えているが、凪が言うような事をした記憶はなかった。もちろん、凪にとっての「この前」は萌葱にとっての十年以上前の出来事である。記憶の鮮明さは凪のほうが上で、当然ながら事実なのだろう。綺麗さっぱり、萌葱は忘れてしまっているが、五歳の萌葱は恐らくフェンスか何かをよじ登って立ち入り禁止区域に侵入しようとして、保育士に捕まったのだ。

「お転婆な娘なんだね」

「あと、可愛い」

「え? そう? 可愛い?」

「うん」

「そう? そうなんだ、へえー」

 子どもが言っていること。それも、恋愛のれの字も知らないような年代の可愛いは、当てにならない。だが、何にしても、普段そういうことをまったく言わない凪が口にしたということで、萌葱は不覚にも、どきりとしてしまった。

 昔の凪が昔の萌葱に対してそう評していたというだけのことで、今とは別物と考えるべきだが、それでも以前は可愛いという風に見てくれていたのが、妙に嬉しかった。

「ふう、何か熱い」

 パタパタと凪は手で顔を扇ぐ。

 日が暮れて、西日になっていた。直射日光が凪と萌葱に当たっている。時刻は午後六時を回っていた。そろそろ夕飯時だ。

「もうこんな時間だね、どうしようか」

 順当にいくのならば、夕ご飯の支度をするべきだ。凪は作ったばかりの二つのダンボール人形を戦わせ始めた。西日を浴びて、汗もかいている。子どもは体温が高く発汗しやすいと聞く。そのまま放っておくと、冷えた夜気で風邪を引くかもしれない。

 ちょっと汗の匂いもするようになったし、ちょっと血も吸いたくなっ――――、

(何考えてるのわたしッ)

 頬をパンパンと萌葱は叩く。

 小さいが、凪は凪だ。眷獣の能力がなくとも、プレイヤーとしての誘引能力は健在なようだ。一瞬、萌葱の思考が吸血に傾きかけた。こんな小さな子どもから吸血するとか歴史に残る大事件だ。まあ、凪だしいいかもしれない。後で説明すれば分かってもらえる気がするし――――、

「ううううぅ」

 萌葱はテーブルに額を打ち付ける。

「お姉ちゃん?」

 びっくりした凪が今日何度目かの硬直をする。

「だ、大丈夫。ちょっと、頭を冷やしただけ。どうかしてるのよ、今日。あははー」

 このままだとダメだ。今日はいろいろと慣れないことが連続して精神的に疲れている。凪の体質を考慮して、適切に対応しなければならない。

 例えば汗の処理。

 吸血衝動を喚起する特性は、凪の汗を初めとする体液に多く含まれているらしい。つまり、これをきちんと処理するのが重要。

「そ、そうね、そうだ。うん、汗かいちゃったし、お、お風呂行こうか……?」

 凪はきょとんとして萌葱を見てくる。

 はっと、今の発言の危うさを萌葱は理解したが時すでに遅しだ。

「お風呂、行く!」

 凪は風呂が好きみたいだった。イスから飛び降りて、風呂場を知らないのに駆け出そうとする。

「ちょ、ちょちょちょっと待って凪君!」

 慌てた萌葱が凪を止めようと立ち上がる。バタバタと動き回られるのは、また大変だし、風呂を沸かしてもいない。

 萌葱は凪を追いかけようとして、ダンボールの切れ端を踏みつけた。するりと床が後方に抜けてしまったかのような感覚。踏ん張りが利かず、萌葱は前によろめいた。

「あ、ぶなッ!」

 凪に頭をぶつけそうになったのを、凪を咄嗟に抱きかかえるようにして回避した。

 ガタゴトと派手な音を立てて萌葱は転んだ。幸い、凪と衝突することは避けられたが、凪を押し倒す格好になってしまった。

「ごめんね、凪君! 怪我、ない!?」

「うん」

 こくこくと凪は頷く。

 頭とか打ってたら大変だと思ったが、凪も倒れただけでどこも打っていないようだった。

 病弱かつ脆弱な保育園時代の凪だ。ちょっとしたことでも大怪我に繋がってしまう。それにしても近くで見ると、やっぱり小さい子は可愛いなと思う。汗をかいても汚く見えない。むしろ健康的だ。肌艶もいいし、とても柔らかそうだ。 

 そんな考えが頭を過ぎった直後であった。

 バタバタして頭から抜け落ちていたが、ここは凪の家なのだ。半年と少し前までとは事情が違い、凪宅にはもう一人の同居人がいる。

 急に足音が聞こえたかと思うと、ガチャっと音を立ててドアが開いた。

「ただいま戻りました凪さん。今日は時間がないので、コンビニ弁当。おまけもいますが……」

 入ってきたのは、空菜だった。萌葱の異母姉妹に当たる零菜を元にしたデザイナーズチャイルド。ホムンクルス。クローン。その他様々な概念に相当する存在で、戸籍上は凪の義妹となっている少女だ。空菜は萌葱の存在を認めて、足を止めた。

「ちょっと、オマケって何よ。てか、なんで立ってんの?」

「何かあった?」

 空菜の後ろからやってきたのは、零菜と麻夜だった。外で一緒になったらしい。同学年の組み合わせだ。おかしくはないのだろう。

 三人が三人とも同じような反応を示した。視線を萌葱とチビ凪の間で上下させる。

「それはどこのどなたですか?」

 まず、最初に口を開いたのは空菜だった。物静かで多少機械的なところのある空菜が、困惑したような声音だ。

「あ、これは、その……」

 まずいところを見られた萌葱は、弁解の言葉を探したが、状況が状況だけに一から説明する必要がある。

「萌葱ちゃん、それはダメだよ」

 零菜が今まで萌葱に向けたことのない軽蔑の視線を向けてくる。

 理解できなくもないところが悔しい。今の萌葱はどこの誰とも知れない男の子を連れ込み、押し倒している女子高生にしか見えない。極めて危ない絵面だ。特に空菜からすれば、自宅に空き巣があることよりも非現実的な光景であろう。

「とりあえず、確保!」

 零菜が言うや、空菜が萌葱の背後に回りこみ、両手を脇の下から回して萌葱を凪から引き剥がした。

「萌葱姉さん。子どもはちょっと、アウトじゃないかな?」

「麻夜まで!? これから説明するけど、そういうのじゃないからね!」

「君、大丈夫?」

 麻夜は萌葱の反論を無視して、起き上がった凪に話しかける。

「大丈夫」

「そうか、良かったよ。変な事されなかった?」

「変なことって何さー!」

 ずるずると空菜に引き摺られる萌葱が遠くから叫ぶ。

 大して凪は急に増えた人に驚きながらも、麻夜の問いに首を振る。

「何もなかったよ。ただ、お風呂に行こうって言って、それで、何か、倒れてはあはあしてただけ」

「逮捕ー!」

「違ッ。ちがーうッ。事情があるの! 話を聞け、あんたら!」

 慌てた萌葱がバタバタと空菜に抵抗する。悲しいかな単純な力勝負では萌葱は空菜の足元にも及ばない。獣人特性を有する空菜に対して、人間よりも筋力が多少上なだけの萌葱は非力に過ぎた。

 いずれにしても萌葱は疲れた身体に鞭打って、最悪の誤解を解くために言葉を尽くす羽目になったのだった。


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