二十年後の半端者   作:山中 一

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第三部 四話

 黄金の腕を持つ者(クリソスロノス)は魔力を食らう巨人の眷獣で、アスタルテの薔薇の指先(ロドダクテュロス)と同様に宿主を体内に取り込み、全身を覆う鎧となる。眷獣の戦いは魔力のぶつかり合いである。その戦いで、相手の魔力を一方的に収奪する能力は、非常に凶悪と言えるだろう。

「もう、なんか嫌だなッ」

 風きり音が耳元でした。

 ビル風を撹拌する巨人の腕が台風さながらに振り回されている。

 零菜は流れに身を任せるように、決して無駄な抵抗はせず、最小限の動きで黄金の腕を持つ者をやり過ごしている。霊視能力は零菜の方がヴァニタスよりも上らしい。霊視能力を持つ者同士の戦いは、どちらが相手よりも素早く的確に霊視できるかという点にかかっている。影の漆黒(リヒト・二ゲラ)によって飛躍的に向上した身体能力と合わさって、零菜を捕らえることは極めて困難となった。

 金色に輝く巨人の眷獣が、自分と同じ暁を意味する名前を持つことがまず気に入らない。アスタルテはいいとして、自分の生き写しの少女がそんな眷獣を従えているのは感情的にも反発してしまう。

「こんのぉ!」

 振り下ろされる腕はさながら隕石のよう。落ちれば床を砕き、階下を崩落に巻き込むだろう。零菜は槍を突き上げて、黄金の腕を持つ者の拳骨を打ち消した。バリバリと紫電が駆け抜けて、巨人の腕が溶ける。片腕となった巨人は尚も零菜への攻撃を諦めない。

「何度やっても同じだって!」

 振るった槍の一閃が、残る片手を斬り飛ばす。肘から先を失った巨人は、よたよたと後ろに退いた。

 どれほど強力な眷獣であろうとも、槍の黄金はその存在の根幹である魔力を消し去ってしまう。防御も攻撃も一切が無効である。黄金の腕を持つ者では、槍の黄金を持つ零菜には歯が立たない。

 踏み込んだ零菜の総身に怖気が走ったのは、直後のことだった。身体は反転させて、槍を振るう。再生を果たしていた黄金の腕を持つ者の腕と交錯する。

「ッ……!」

 強烈な一撃。

 腕に仕込まれた刃の白銀(シーカ・アルゲントゥム)が零菜の槍の黄金(ハスタ・アウルム)ごと小柄な身体を跳ね飛ばす。

 空中で体勢を立て直した零菜は、猫のようなしなやかな動きで着地した。

「眷獣を……」

「融合といえるほどのものではありません。共鳴させるというほうが正しそうですね」

 ヴァニタスが操る二体の眷獣が一つになっている。

 ただ、それは麻夜がするようにまったく新しい個体として新生するものではない。両腕に埋め込まれた二刀がその両腕全体に魔力無効化の能力を付与しているという状態である。

 あれに殴られれば、さすがに死ぬ。回復もできないだろう。

 竜巻にも似た旋風を巻き起こし、殺人的な魔力の暴風を纏ってヴァニタスの眷獣は荒れ狂う。

 同じ魔力無効化能力を持つ以上、零菜を優位に立たせていた相性の優位性は打ち消されたも同然である。こうなれば、槍一本と腕二本。単純な数と力の暴力が戦局を左右することとなる。

「ぐぅ……!」

 零菜は槍で受け止めた衝撃を逃すように、後方に跳躍する。

 幸い、相手に機動力はない。追撃してきても十分に対応できる。

「ええいッ!」

 零菜は力任せに槍を振るう。

 落ちる黄金の拳骨と切先をふれあい、そのエネルギーを真横に受け流す。

 激しい火花が咲き乱れ、黄金の拳は零菜を掠めて虚空を切った。

 しかし攻め切れない。敵の武器は二つある。一つを掻い潜ったところで、もう一つの拳骨が零菜の進路を阻むのだ。これまでに、何度も零菜の踏み込みは浅くなった。槍の能力が通じる身体まで辿り着けない。

 黄金の腕を持つ者の拳骨を竜巻とするのならば、零菜の槍の黄金は鎌鼬である。面に対して点で受け、線で凪ぐ。一撃の重さはないものの、力の流れを適切に読み取って対処している。一流の船乗りならば、風も波も自在に乗りこなせるだろう。

 一瞬先を読み取る。ヴァニタスよりも正確に、腕と腕をくぐりぬけ、その守りと攻撃をやり過ごした先にある僅かなほころびを零菜の眼が捉えた。

槍の黄金(ハスタ・アウルム)!!」

 意思ある武器にして変幻自在の槍たる槍の黄金は、主の魔力を受け取って雷光の煌めきも高らかに己が刃を伸ばした。

 まさか、槍が伸びるとは思わなかったヴァニタスは想定外の攻撃に反応が遅れた。

 腕と腕の間を潜り抜けた槍の黄金は、黄金の腕を持つ者の頭を打ちぬき、その胸まで斬り開いていた。さらに、魔力を無効化する能力を秘めた強烈な雷撃が内側から巨人を焼き尽くす。

 如何に強力な守りで固めようとも、内側から焼かれてはどうにもならない。魔力無効化の槍に耐えることができるのは腕の部分だけであって、身体の方にまで刃の白銀の効力が及んでいるわけではないのだ。

 ヴァニタスの眷獣は瞬く間に雷光の中に溶けて消えていく。

 ヴァニタスは自らの眷獣が消滅するよりも一瞬早く外に飛び出していた。黄金の膜から零れ落ちる白銀の刃を手に、零菜に向けて飛ぶ。

 眷獣が倒されたフィードバックが彼女の身体にも及んでいるだろうに、消耗をおくびにも出さず刃を突き入れてくる。しかし、精神力で誤魔化せる消耗にも限度がある。刃が零菜に届く前に、肉体が悲鳴を上げた。

「がふッ……」

 失速したヴァニタスはその場に崩れ落ちた。

 零れ落ちたのは、大量の血液だった。

「うごほッ、がはッ……ごふ」

 ヴァニタスが激しく吐血しているのだ。

「え、ちょっと……!」

 自分を狙ってきた相手とはいえ、さすがに目の前で吐血して悶絶されては対応に苦慮する。彼女を自業自得だと切って捨てられるほど零菜は非情には徹しきれない。

 零菜は不老の吸血鬼とはいえ、まだ十五年しか生きてはいない。

 重ねた時間は人間の同世代とまったく一緒で、精神性も十代の女子中学生と同程度である。多少鍛えられてはいても、軍人のような精神を持つことまで要求されることもない。

 駆け寄った零菜は膝を突くヴァニタスの背中を摩る。ほかにどうしたらいいのか分からない。

「……罠かもしれないのに、駆け寄ってくるとは。甘いのでは、ないですか……がふッ……」

「そんなの知らないよ。目の前で、血吐かれたら誰だって、ああもうしゃべるな!」

 わたわたとする零菜はとにもかくにもヴァニタスを寝かせなければならないと無理矢理その場に転がした。

 ヴァニタスは抵抗する体力もないのか、あっけなく床に転がる。

「え、ど、どうしよう……」

 ヴァニタスの口から零れる血の量を見ると、非常に危険な状態だということが一目瞭然である。不死の呪いを持つ吸血鬼であっても、その力の源泉である血液を失えば容易に死を迎えることになる。不老不死などと銘打っても、それは死ににくいというだけで、死ぬ理由を並べれば当然のように死ぬ。殺しても死なないのは真祖くらいのものだ。

 ヴァニタスの身体は、何かしらの致命的な欠陥があるに違いない。ホムンクルスと言っていたことだし、身体面に重篤な障害があったのかもしれない。すでに彼女の意識はない。顔面を蒼白にして、痙攣している。

 どうすればいいのか分からず、完全に思考が固まってしまった零菜に声をかけたのは凪だった。

「零菜……」

「凪君、ど、どうしよう!」

「とにかく、救急車を呼ぶしかない。いや、ヘリか? 結界が解けたみたいだから、連絡は付くはずだ」

「あ、ああ、うん、そうだね」

 ヴァニタスが倒れたことで隔離結界も解けたらしい。外部と内部を隔てていた壁がなくなり、連絡が付くようになった。

「え、あれ、携帯……」

 零菜は自分が携帯を持っていないことに遅ればせながら気付いた。天球の蒼を使用した際に、制服ごとごっそり置いたままだったのだ。

「いい、俺が呼ぶ。零菜はとりあえず、ヴァニタスを横向きに寝かせて。血で喉が詰まるかもしれない」

「う、うん」

 零菜は言われたとおりにヴァニタスを真横に寝かせる。

 仰向けでは、吐瀉物などで喉を詰まらせる危険がある。そのため、横を向かせて寝かせるのがよいとされる。回復体位とされる姿勢は、零菜も学校の授業で習ったので一応の知識はあるが、いざ実践となると中々頭に浮かんではこないものだ。

 凪は携帯で救急ヘリを要請し、次いで雪菜の側近に連絡を入れる。零菜関連のトラブルがあった場合の緊急連絡先の一つである。雪菜が郊外の施設で行われているイベントに出演中であることもあり、すぐに連絡が着かないだろうと判断したのである。

「とりあえず、雪菜さんにも連絡が入ると思う」

「うん、ありがと」

 ヴァニタスはもうすっかり反応がなくなってしまっている。急速に生命力を失っているような、そんな感じだ。これは、眷獣を使用したことによる急激な消耗とはまた別の問題のように思える。

「このままじゃ、ヤバイかもな」

「治癒魔術、できる?」

 吸血鬼は勝手に肉体が再生するので、あまり治癒系統の魔術を必要としない。零菜自身もそれほど得意ではないのである。

「できるっちゃできるけど、焼け石に水だろうな」

 凪の技術でも重傷者をどうにかできるほどの治癒はできない。ゲームなどではありがちな技術ではあるが、現実には物を壊すよりも難しい繊細な魔術なのである。念じれば、自動で治ってしまうような、そんな単純な代物ではない。

「手っ取り早く確実なのは、血を吸ってもらうことだよな」

「えと、血って凪君の?」

「そう。零菜、何か刃物ある?」

「……ない、けど。槍の黄金でよければ、出せる」

「それじゃ感電しちゃうだろ……」

 零菜は複雑そうな表情で答えるが、凪はその点には頓着しない。

 優先事項はヴァニタスに血を吸わせることだ。事は命に関わる。

 仕方がないので、凪は人差し指の先を犬歯で食い破り、血を滲ませた。そして、その指をヴァニタスの口に入れる。

 吸血鬼は強い霊力や魔力を帯びた人間の血を吸うと、格段に能力を跳ね上げる性質がある。個体差もあるが瀕死の重傷からでも、瞬く間に回復する例もあるくらいである。零菜のホムンクルスを名乗るのならば、凪の血の一滴でも相当な回復が見込めた。

「んぅ……」

 ヴァニタスが反応を示した。

 口内に入った血の味を彼女の本能が察知したのだ。死に瀕しているというだけあって、生存本能が凪の血を求めて指に喰らい付く。

 しばらくすると、ヴァニタスの顔に血の気が戻ってきた。

 凪はほっと一安心して、救急隊の到着を待つ。凪の要請どおりに動いてくれれば、ヘリが出るはずだ。それならば、もう着いてもいいころであろう。

「どうした、零菜?」

「いや、別に……」

 何か言いたそうにしている零菜は、凪に聞かれて他所を向く。

 ヴァニタスが直前まで敵対していた相手だ。さらには零菜のホムンクルスであるなどと聞かされては心中穏やかではいられないのだろう。

 凪は零菜の態度を深く追求しなかった。

 相変わらずの強風に舞い上がったものがある。

 黒い布切れだ。それが凪に向かって飛んできたのである。咄嗟に凪はそれを掴んだ。

「ん、何だ……ッ……」

 凪は思わず息を呑む。

 風に乗って飛んできたのは、黒い紐パンだったのだ。

 ヴァニタスのものではない。彼女に衣服を貸しているのは凪である。即ち、ヴァニタスの下着も凪のものなのだ。このような女性用下着をヴァニタスが身につけているはずがない。

 恐る恐る振り返ると、顔を真っ赤にした零菜が震えていた。

 ああ、なるほど、と凪は得心した。

 このロングコートの下には何も着ていないのかと埒もないことを考える。

槍の黄金(はすた・あうるむ)

 ビリビリと零菜の右手に雷光が具現する。

「お、おい! ちょっと、待てよ。これは不可抗力っていうか……紐なんだな……」

「オーケー、分かった。とりあえず、ニューロンから消すところから始めようか」

 冷ややかに零菜は笑った。

 一日分の不愉快を煮詰めて詰め込んだような笑みだった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 ヴァニタスに関する報告は逐一古城の下に届けられている。

 彼女は一連のテロ事件を引き起こした組織が製造したホムンクルスであり、活動開始からまだ数日しか経っていないということも分かっている。直接テロに加担したわけではなく、主の命令を受けて行動していたことから、罪には問われない――――情状酌量の余地があると判断されている。これについては、同様の事例としてアスタルテの扱いを参考にしている。絃神島の頃の話ではあるが、アスタルテもまた主の道具として使役され、法を犯している。その際に、彼女については保護観察処分として様子を見る形となったので、ヴァニタスもまた同じ扱いを受けることになる。

 問題は、彼女の素性である。

 まさか、暁零菜のホムンクルスであると公表するわけにもいかない。

 表だって彼女が引き起こした事件は、マンションの屋上で眷獣を使用したことくらいだ。交戦したのは、零菜であり、過激な姉妹喧嘩として内々に処理できる。

 ヴァニタスが倒れた後、彼女は救急搬送され、集中治療室に送られた。ホムンクルスであることや、様々な魔族の因子を植え付けられていることもあって、治療はかなり難しかったようだが、凪が血を与えたことで彼女自身の再生力が機能していた。一晩もかからず、峠を越えた。

 ヴァニタスとの激闘から三日が経ち、秋休みで学校が休みとなっていることもあって凪は昼間から零菜の家を訪れていた。

 表はまだはろういんフェスタの熱が続いている。最も大きなイベントは終わったものの、その後もしばらくは祭が続くことになる。縁日を髣髴させる出店はもう店仕舞いしているが、その一方でライブや展覧会といった施設を使用したイベントはこれからが本番だ。

 夕方から夜にかけて、大規模な花火イベントが催される。幸いなことに今日は快晴で、天気が悪化する予報もない。このまま行けば滞りなくイベントは行われることだろう。

 相変わらず、テレビははろういんフェスタの特集に溢れている。皇帝宅の真上で行われた死闘については、一回たりとも報道されていなかった。

 凪が麦茶で喉を潤していると、リビングに零菜と萌葱が入ってきた。

「お待たせ」

「ん、おう」

 零菜は、青い浴衣に身を包んでいる。そして萌葱は薄い桃色の浴衣だ。日本から独立して、まだ十年と少し。文化の面ではまだまだ日本を引き摺っている。しかし、それでいいと凪は思った。大正義浴衣である。

「ちょっと、凪君。もうちょっと何かあるでしょ。ほら、ねえ」

 萌葱が自分の浴衣の袖をパタパタと振ってアピールしてくる。

「萌葱姉さん、よく似合ってる」

「うん、よし」

 それでいいのかと思うが、萌葱は特に凪の返事にどうこう言うつもりはもともとなかったらしい。すでに彼女の関心はテーブルの上のチョコレートに移っている。

「萌葱ちゃん、もう時間だよ」

「分かってる分かってる。一個だけだって。うん、おいし」

 チョコレートを口に放り込んだ萌葱は、すぐに零菜の隣まで戻った。

「何してんの凪君。行くよ」

「ん、ああ……」

 零菜が声をかける。凪は頷いて、テーブルに放置していた携帯をズボンのポケットに押し込んだ。

 これから花火大会がある。零菜と萌葱は雰囲気を出すために、わざわざ浴衣に着替えているし、恐らくはほかの姉妹も同じように着替えているのだろう。

 三人で連れ立って外に出ると、待ち構えていたように麻夜と紗葵に出くわした。

「や、遅かったね」

「ゴメンゴメン。ちょっと、手間取ってね」

「萌葱姉さん、帯大丈夫だった?

「いや、別に結べなくて手間取ったわけじゃないわよ?」

「そう? いや、萌葱姉さんは不器用だからねぇ」

 麻夜は萌葱を挑発するような口調でからかう。

「凪がいるなんて珍しい。いつぶり? 三年くらい?」

 紗葵が凪の両肩にがっつりと体重をかけて飛びついてくる。不意打ちだったので、ふらついてしまった。

「待て、紗葵。危ない……」

 すぐ右手は断崖絶壁である。前に一度落ちたことがあるとはいえ、二度とあのような経験はしたくない。紗葵を振りほどいて、凪は答える。

「最後に来たのは、六年の時だからまあ、それくらいかな」

 暁家が入るこのマンションは、花火を見るのに絶好の立地にある。そのため、花火大会の日は屋上で夕涼みをしつつ、花火を観覧するのが暁家の習いだった。

「あ、ところで今日は雪菜さんたちはどうするんだ?」

「古城君は相変わらずのお仕事。まあ、マ、母さんたちはどうかな。うちは来るって言ってたけど」

「うちも来るってさ。麻夜んとこは、さっき上に行ったの見たな」

 零菜と萌葱が口々に答える。

「僕んとこは、割と時間が自由な部署だからね。むしろ、今がっつり忙しいはずの雪菜さんがいるのが驚きだけど……紗葵は?」

「ん、うちの母さんはもう上に行ってる」

「来るんだ。忙しいんじゃないの?」

 零菜が驚いて尋ねた。

 紗矢華はここ最近続いたテロ事件の捜査に当たっている。ヴァニタスのこともあり、雪菜と同様に非常に忙しい時期だと言えるだろう。

 だが、紗葵が操られる事件があって以降、紗矢華は時間をやり繰りして紗葵との時間を増やす努力をしている。今回も、このためだけに時間を空けているのだろう。涙ぐましい努力である。

 そして、現在育児専念中の夏音と結瞳はその娘と共に出席は確実である。一族の大黒柱が欠席というのが何とも締まらないが、皇帝が忙しくするのは当たり前と言えば当たり前である。

 凪たちは駄弁りながら階段を上がり、屋上に出た。

 数日前の戦闘の名残で、床のところどころが焦げ付いているが、それ以外に目立った変化はない。修繕するほどの破壊もなかったので、そのままにされている。

 扉を開けてみれば、すでに宴会の準備が整っている。花火日和に相応しく風も弱く、外で飲み食いするにはちょうどよい。

 紗矢華や優麻といった母親陣はすでに軽く酒も入っているようであった。

「あ、来た来たー、おーい凪君久しぶりー!」

 ぶんぶんと人懐っこい笑顔で手を振って駆けて来たのは、ポニーテールの女性である。あまりのことに凪は唖然とした。

「え、何で母さんがここに?」

「実はお昼に帰って来てたんだよ。色々あったみたいで、大変だったねぇ」

「いや、ええ!?」

 こうして会うのはいつ以来か。正月に帰って来てからずっと海外にいたので、実に十ヶ月ぶりになるのだろう。

「ほんとは、もっとちょくちょく帰ってこれればいいんだけど、ごめんね」

「いや、いいよ、仕事だし。でも連絡入れてくれてもいいんじゃないか?」

「ふふ、それはドッキリってヤツだよ。どう、驚いた?」

「まあまあ」

「どうしよう、紗矢華さん。息子が冷たい」

 すでに三十を越えているだろうに、中学生のような反応を示す母。しかし、それが嫌味に見えないのは、彼女の明るさのためだろうか。外見も若々しい。古城の嫁たちは血の従者となったことで永遠の若さを手に入れたが、凪沙はただの人間でありながら異様に若い。祖母もそうだが、暁家は人間の範疇から考えてもかなり身体的に恵まれているらしい。

「ああ、そうそう。帰国したのは、花火を見るためじゃないんだ。色々と手続きがあってね」

「手続き?」

「そう。凪君に妹ができました」

「ふーん、ん? え?」

「凪君に妹が……」

「いや、それは一度聞けば分かる、妹? え、できたの?」

「妊娠したってわけじゃないよ。紹介しまーす、はい」

 凪沙は母親集団の中から立ち上がり、こちらに歩いてきたのは零菜によく似た少女――――ヴァニタスであった。

「あ! ちょ、ちょっと! なんであなたがここにいるのよ!」

 凪が口を開くよりも先に、零菜がヴァニタスに噛み付いた。

「何でと言われましても呼ばれたからですが?」

「だ、誰に?」

「凪沙さんです」

 零菜はバッと凪沙を見る。

「いやぁ、こうして見るとほんとに瓜二つだねえ」

 ヴァニタスは生体認証を零菜としてすり抜けられるほど外見的には零菜にそっくりなのだ。細かな仕草や表情から判別は可能だが、そこらの双子よりもよく似ている。

「あれが、噂の?」

「うわ、ほんとにそっくりだ」

「零菜姉さんのホムンクルスだって」

 萌葱と麻夜、紗葵は初めてヴァニタスに会う。話だけは聞いていたが、まさかこれほどとは思っていなかったし、実際に会うとどう接していいか分からない。

「ん、母さん。さっき、妹って?」

「うん、そうだよ。ヴァニタスちゃん、うちで引き取ることになったから!」

「え、えええええ!? ちょっと待ってくれ、何でそうなる!?」

「そ、そうですよ、凪沙さん! だって、コイツ、凪君連れまわして色々あれやこれや、何かしたんですよ!?」

 零菜が凪沙に詰め寄る。

「うん、まあね、色々あったみたいだし? それに、ほかに行き場もないって言うし、まさか古城君のところで引き取るってわけにも行かないからね」

 ヴァニタスの処遇はかなり難しいのだ。零菜のホムンクルスである以上、手放すことはできない。古城や雪菜からすれば血縁上の娘に当たる上に立場が立場だ。遺伝子や吸血鬼のホムンクルスのただ一人の成功例という意味もあって彼女の存在は非常にデリケートなものとなった。しかし、その一方で零菜を狙ったという事実もある。同じ屋根の下で過ごさせるのは、事情を知る者からも異論が出た。結果、一族である昏月にお鉢が回ってきたのだ。

「はあ、まあ、そういうことなら」

「そういうことってどういうこと!? え、凪君なんであっさり受け入れてるの!?」

 零菜からすれば自分のホムンクルスというだけでも警戒対象になる。

 そのため、同じように彼女の被害を受けた凪が軽く事実を受け入れていることに驚きを隠せない。

「いや、もうほかに選択肢もなさそうだし……」

「そ、それでもさぁ……」

 零菜は不満たらたらな様子でヴァニタスと凪沙を見る。

 しかし、昏月家の話になった以上は零菜が一々文句を垂れても仕方がない。

「ヴァニタスではなく本日より昏月空菜(くらつきくうな)と名を改めましたので、ふつつかな妹ですが何卒よろしくお願いします、凪さん」

「う、むぅ、何か調子が狂うな……」

 空菜はたおやかに頭を下げる。零菜がそんなことをするタイプではないので、余計に違和感が強まってしまう。

 まさかの展開に萌葱を初めとする姉妹も啞然としている。

「じゃ、空菜ちゃんはわたしが使ってた部屋を今度から使ってね。凪君、変なことしたらだめだからね」

「しないよ」

 凪は妙な念押しをしてくる母親に素気無く言う。対して零菜は空菜に対してさらに詰め寄る。

「ちょ、ちょっと、一緒に住むの? 凪君と?」

「妹ですので」

「妹、いや、そうだけど……学校は? あなた歳いくつなの?」

「もちろん、凪さんと同じ学校です。公立ですから、当然です。学年も同じですね。先ほど、手続きを済ませました」

「ええぇ……!」

 零菜は今度こそ絶句してしまった。

 彼女の言い分はもっともで、零菜が口を出すところはない。だが、あまりにも唐突過ぎるではないか。零菜が納得するしないは完全に議論の外にある。零菜は空菜の存在と彼女が起こした事件については当事者ではあるが、その後の空菜の処遇について左右する立場にない。

 愕然とする零菜を他所に、紗葵と萌葱が空菜とコミュニケーションを取ろうと話しかける。

「何ていうか、すごいことになったね」

「麻夜、俺はどうしたらいい?」

「んんー、流れに身を任せるしかないんじゃない? 得意でしょ」

「得意なもんかよ」

 麻夜が面白そうに笑っている。

 凪の苦境を楽しんでいるのだ。他人事だと思って暢気なものだ。

 凪はこれからどうしたものかと、内心でため息をつく。休み明けから転校生という形で空菜は凪の通う公立校に転校してくる。そうなれば、本当に一日中彼女と一緒にいることになってしまう。これからの学校生活から、凪は不安になってしまうのだった。




ストブラは何かと暁に拘りがあるらしい。主人公の性もそうだし、アスタルテの眷獣も暁の女神エーオース別名。そのため、ヴァニタス改め空菜の眷獣も同じ女神の別の名前を持ってきた。そしてエーオースがローマに転じてアウローラ、つまりストブラはローマだった?

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