二十年後の半端者   作:山中 一

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第二部 三話

 大型ショッピングモールでの眷獣召喚事件はマスコミに大きく取り上げられ、多くの報道陣が容疑者の運び込まれた病院に押しかけることとなり、今国内で最も注目を集める事件となった。 

 休日の親子連れで賑わうショッピングモールで殺傷性の高い眷獣を無差別に解き放ったというだけでも衆目を集める大事件である。テロリズムも疑われるため、周辺住民は不安な日々を送ることになるだろう。捜査本部はこの問題に全力を挙げて取り組むことを明らかにしたものの、逮捕された二人の容疑者には面識がなく、揃って「なぜ、あのようなことをしてしまったのか分からない」と供述しており、大分参っているようであった。

 古城の手元には今、A4サイズのタッチパネルがある。仕事で使用する端末で、広く普及しているタイプである。人工島ならではの資源問題もあって、基本的に仕事の情報はデータでのやり取りとなる。この日に上がってきたのは、やはり巷でも話題になっている眷獣の暴走(・・)事件である。

 零菜と紗葵が巻き込まれていたというのも驚くところではあるが、無事だったので今はよしとする。現状、古城は現場の人間ではないので、上がってくる報告に目を通すだけだが、この事件の奇妙さはそれだけでも十分に理解できる。

「容疑者は吸血鬼で、一人は女子高生、もう一人は五十代の男性セールスマンか。二人の接点は一切なしで、健康状態も良好。両者共に眷獣を使用したときの錯乱した原因に心当たりはない……なんだ、これ」

 報告書を読んでも、事件の概要しか書いていないので具体的な部分についてまったく分からない。問われた雪菜も困ったように顔を曇らせることしかできなかった。

 初動捜査が遅れてしまったのは、眷獣を召喚した二人の精神状態が悪く、取調べもろくにできない状態が続いたためだった。下手に刺激をして、病院内で眷獣を召喚されたら大惨事である。専用の施設で隔離して、暴走しても対処できるように人員を割くなど、捜査の前段階に多くの手間をかけることとなった。

「見落としがないか、お義母様と紗矢華さんに確認してもらっているところです。もしもなんらかの魔術が関わっているのなら、それで痕跡を見つけることができるのではないかと思います。幸い、零菜の槍の黄金(ハスタ・アウルム)は、眷獣の攻撃を無力化しただけでしたし」

 もしも、槍の黄金の魔力無効化が容疑者の身にまで及んでいれば、魔術的な痕跡を確認することは困難だっただろう。何せ、魔術的な能力の一切を消滅させてしまうのだから、残されるのは容疑者の身体だけである。

「しかし、零菜もよくよくこういうことに巻き込まれるな。どうしたもんだろうなぁ」

 背凭れに体重を預け、古城は悩ましげに呟く。

「誰かさんに似たんですよ」

「それはブーメランが返ってくるぞ。あの娘はどっちかというと、雪菜似だしな」

 外見は中学生のころの雪菜と瓜二つ。性格も、実は似ているところが多々あるというのが古城の見立てである。雪菜は、敢てそれを否定はしなかった。似ているとは思わないまでも、強く否定するのもまた親の反応として違うと思うからだ。

「でも、実際に古城さんも零菜と同じくらいのときにはあの娘以上に危ない橋を渡ってきましたよね」

「お前も一緒にな。もう、あんなことが起こらないとうにしていかないとダメだってのに」

 二十年前、絃神島の治安は決してよいとは言い切れないところがあった。

 高校一年生のときの古城が一年の間に関わった事件はどれもこれも一歩間違えば絃神島が跡形もなく消えてしまうような大事件一歩前のものだったのである。

 一般に知られないように、当時の上層部がその都度上手く誤魔化してきたが、重犯罪の規模も頻度も、かなりのものと言えた。

 そして、今。

 暁の帝国(ライヒ・デア・モルゲンロート)と名を変えた大規模人工島は、テロリストの標的の一つとなっている事実はある。

 四番目の夜の帝国(ドミニオン)は、聖域条約成立当時の世界のパワーバランスを大きく崩す危険性のある存在であり、魔族側に世界の軍事力が傾く継起となったとまで言われている。おまけに人間側の対魔族戦線の最前線に立っていたアルディギア王国の女王を血の従者とし、労なくその国力を取り込んだというのは人間を至上とする者たちに危機感を抱かせるには大きすぎる事件だった。その辺りは、古城とその周囲が政治的に上手く立ち回ったということではある。世界規模の大混乱の中での独立から、国力の確立までを短期間で行った政治手腕と外交能力は、世界の誰もが認めるところではあるのだ。

 たとえ、自分が潜り抜けてきた修羅場ほどではないにしても、娘が危険に晒されるのは我慢ならない。かといって、がちがちに護衛を固めるのも職権乱用かつ娘たちの自由を制限することにも繋がるのでできない。国全体の治安を改善するのが、手っ取り早く確実で、より公共の福祉に繋がる解決方法である。

 根が庶民なために、上流階級としてどういった対応をするのか、ということも皇帝としての課題の一つとなっている。

「古城、入るわよ」

 ドアを押し開けて入ってきたのは、紗矢華だった。

 すらりとしたスーツ姿の紗矢華は、トレードマークのポニーテールを揺らして古城の下までやって来た。

 かつて、魔導テロ対策を主な任務とする獅子王機関にいた紗矢華は、現在でも犯罪対策の仕事をこなしている。特に、魔術や魔族が関わる案件に関しては那月と共に担当することが多い。

「紗矢華さん。何か、分かりましたか?」

 雪菜が尋ねると、紗矢華は重苦しい表情で頷いた。

「義母様と一緒に、あの二人の身体を検査した結果が出たわ。これを見て」

 紗矢華は携帯端末を操作して、古城と雪菜の端末にデータを画像送信する。

 表示されたのは、首筋の画像だった。

「これは?」

「この二人の首筋に、二ミリくらいの赤い痣があるのが分かるわよね」

「ああ」

 画像は分かりやすいように、該当箇所を赤い円で囲っている。確かに、小さな虫刺されのような痣がある。

「虫刺されではない……?」

「ええ、ここから微量だけど魔力が検出されたわ。この二人の魔力とは別の第三者ね。それで、残留魔力を照合した結果、コイツが浮かび上がったわ」

 古城と雪菜は次のページに進む。

 表示されたのは、男の顔写真だった。

 外見は二十代後半から三十代前半くらいで、やややつれた印象のある男だった。

「通称ジェリー・ブラッド。本名不詳の吸血鬼で、北アメリカ出身とされている男ね。大体百年前から、人間の国家を相手にテロを続けていたテロリストで、聖域条約締結後も西洋で度々事件を起こしているお尋ね者よ。ジェリー・ブラッドって名前も、昔、犯行声明を出していたときのものね」

「そんなのがどうして国内にいるんだよ。入国審査どうなってんだ!?」

「そうね。それについては、後々調査しないといけないことでしょうけど、今の時点でこの男がこの国のどこかに潜んでいるのが確実だということが第一の問題ね」

「吸血鬼としての力量はどの程度なんだ?」

「百年から百五十年くらいは生きているけれど、もともとそこまで強い吸血鬼ではないみたいね。ただ、ジェリー・ブラッドの眷獣は精神に作用するタイプの眷獣よ。これまで発生したテロも、コイツに精神攻撃を受けた人による暴動が主だもの」

「精神支配か」

「どっちかというと精神汚染って言ったほうがいいかもしれないわね」

 魅了を初めとする精神攻撃は吸血鬼の基本的な能力の一つである。その強度は、それぞれ異なるにしても大なり小なり精神に干渉することを可能としている。

「この男の眷獣はジガバチに似た外見をしてて、刺した相手の精神を狂わせるわ。些細な苛立ちや不満、欲望を増幅して暴走状態にするのが特徴ね。吸血鬼に使えば、精神の暴走に合わせて眷獣も暴走状態になるでしょうね」

 眷獣を持つ吸血鬼を暴走させれば、強い殺傷能力のある眷獣が制御不能になる。

 自動車爆弾のように、何の前触れもなく周囲に破壊を撒き散らせる上爆弾のように事前に準備をする必要もない。どこかですれ違った相手を密かに刺しておけばいいのだから、楽なものだ。

「この男はどうしてテロ活動をしているんだ? これまでの経緯は?」

「それが、今まではっきりとした政治主張はしてないのよね。組織をバックにつけて捜査撹乱をするとかはあったけれど。テロリスト御用達の尖兵ってとこ? だから、厳密にはテロリストってわけじゃないかもしれないけれど」

「歴史的にテロリスト扱いされてんなら、テロリストでいいだろ。問題は、ここで何をしようとしているのかってことと、今の居所だ」

「どっちも不明。いつ、この国に来たのかもね。今、入国記録を調べさせているけど、どこまで遡ればいいのか見当も付かないというのが現状。未登録なら眷獣の使用記録も出てこないし、厄介ね」

 紗矢華は肩を竦める。

 データベースに眷獣の登録をしている魔族であれば、一定量以上の魔力の使用はすぐに検知できるようになっている。しかし、聖域条約成立以後に生まれた魔族のように生まれたときからデータベースに情報が入力されているというわけでもなく、生活状況も不透明だ。つまり、この男についての情報は、過去の犯罪歴以外にないのである。

 おまけにジガバチの眷獣は、破壊に用いるものではなく放出する魔力量も少ない。発動を感じ取るのは、容易ではない。

「今日の午後三時を以て第二種警戒態勢を敷くよう関係省庁に通達済み。特区警備隊もパトロール頻度を上げているわ。とにかく、各方面からジェリー・ブラッドの捜査を進めさせるから」

「ああ、よろしく頼む」

 相手の能力を考えると、非常に危険な事態であると言い切れる。

 いつ、どこで、誰が暴走して周囲に危害を加えるか分からないのだ。それは人工的な災害と同じであり、凶悪犯罪である。また、操られた人の心に癒えない傷をつけることにもなる外道の行いだ。

 乱暴にドアをノックされたのは、直後のことだった。飛び込むように、室内に入ってきたのは紗矢華の部下だった。顔面を蒼白にして、肩で息をしている。

「紗矢華さん! 陛下! お嬢様が、吸血衝動を暴走させたと、連絡が!」

「え……」

 何を言われたのか、紗矢華はすぐに理解ができなかった。

「凪さんから式神を通して連絡がありました。お嬢様が凪さんの血を吸おうと眷獣まで使用していると。民間人への被害を抑えるため、何とか南地区の自然公園に誘い込むつもりだとのことです!」

「さ、紗葵が……!」

「恐らくは、この前の事件の際に刺されていたのではないかと……」

「ッ……!」

 ぐらり、と足元が崩れるかのように血の気が引いた。

 考えればあり得る話ではあった。事件現場に紗葵はいたのだから、シェリー・ブラッドの放つ眷獣の毒牙にかかっていてもおかしくはないのだ。あるいは、紗矢華が紗葵との時間をもっと設けていれば、兆候を看取することもできただろうが、紗矢華は事件後仕事にかかりきりで紗葵とまともに顔を合わせてもいなかった。事件解決に奔走していながら、最も身近にいた被害者を見落としていたのである。

 言い訳のしようのない、大失態だった。

「紗葵の安否は!?」

 古城が立ち上がって尋ねた。

「現在、確認中です。ですが、登録証が警戒域を上回る魔力の発動を感知していますので、眷獣をかなりの規模で行使しているものと思われます」

「そんな……!」

 紗矢華は口元を押さえて、肩を震わせた。ショックが大きすぎて、声にならない。

 しかし、古城は大きく深呼吸をすると雪菜に向かって言う。

「雪菜は零菜の安否を確認してくれ。零菜は紗葵と一緒にいたからな」

「はい」

 二つ返事で雪菜は頷き、部屋を後にする。雪菜自身、紗葵のことは気にかかるもののまずは自分の娘の安全確保が最優先事項である。

「紗葵は凪以外には手を出していないな?」

「は、はい。今のところは被害報告は入っておりません」

「そうか。自然公園の封鎖を急がせろ。紗葵が被害を広げないうちに連れ戻す。紗矢華」

 古城に話しかけられた紗矢華はやっと冷静さを取り戻した。

 未だ信じられないという面持ちながら、やるべきことは理解したのである。

 紗矢華は、踵を返して部屋を出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 眷獣は、異界から召喚されるとも体内に寄生しているともされる吸血鬼のメインウェポンにして半身たる存在だ。その身体のすべてを魔力で構成されているために、消費魔力量が桁外れであり、低級吸血鬼の眷獣であっても、魔力に限りのある人間が使用すれば、ほんの数秒で寿命を使いきってしまうとも言われる凄まじい代物だ。

 紗葵も大多数の吸血鬼と同様に眷獣を従えている。

 この世に生を受けて、十四年。

 第四真祖の娘として、彼女もまた巨大に過ぎる才能を有していた。

 右手にだらりとぶら下げているのは半透明なクロスボウだ。

 第四真祖の娘たちは、第四真祖の眷獣属性に加えて母親の性質を多分に受けて生まれるらしい。意思を持つ武器(インテリジェンス・ウェポン)を誰もが一つは有しているが、その形状には父親よりも母親の影響を伺うことができるからである。それだけ、母親も優れた霊媒だったということでもあるが。

 母親である紗矢華の得意とする武具が弓であるように、娘の紗葵はクロスボウの眷獣を飼っている。時折、ギチギチと震える眷獣はあたかも獲物を求める狩人のようで、紗葵は強化した視力で逃亡する凪の背中を的確に捉えていた。

「やっぱり、公園に行く気だね。まあ、そうだよね。それ以外に行き場なんてないもんね」

 喉の渇きは俄然、強くなる。どうにも熱もあるようで、頭はくらくらして思考が纏らない。こうして、マンションの屋上に出て熱帯の風を浴びていると、体調が悪化しそうである。それはとても大変で辛いことだから、早く薬を仕入れたいところだ。

 しかし、

「鬼ごっこ、かぁ。すぐに終わるのも、つまんないよね」

 凪が挑んできた遊びに、紗葵は乗った。

 乗ったけれども、本気になればすぐに終わる勝負である。そもそも追いかけっこで紗葵から逃げられるのは、那月くらいのものである。少なくとも、身内の中に紗葵の追跡から逃れられる者はいない。今すぐにでも飛びついて、首に牙を突き立てたいとは思うが、獲物を駆り立て、仕留める過程にもそそられる。

「街中なら萌葱姉さんに一歩譲るけど、森の中はあたしの独擅場だからね。人を巻き込まないようにしてるつもりなんだろうけど、あたしの土俵に自分から上がるなんてね」

 思わずにやけてしまう。

 一キロ先に生い茂る緑の木々。多種多様な植物と生物が育つ人工の大自然であり、空から見ると灰色の街中にぽっかりと緑の区画があるように見えるのだ。当然ながら土も盛られていて、人工島とは思えない起伏のある土地を形成している。

 休日には親子連れのピクニックにも利用される国立公園である。決して、人を巻き込む可能性がないとは言えないものの、この周囲で紗葵と事を構えるのならば、確かにそこ以外に適所はない。

 目的地は、この蕩けた頭でも十分に予想できる。

 ならば、これはかくれんぼにはなり得ない。凪の言うとおり、鬼ごっことして楽しむほかないだろう。――――どちらであっても、紗葵が狩る側なのは言うまでもない。

 ちらと紗葵は腕時計を見る。

 きっちり五分。凪は小高い丘の遊歩道を昇りきり、その向こうの森の中に姿を消した。

「――――さあ、行こうか」

 唇を舐めて湿らせる。

 渇いた喉が血を吸い、魔力を奪い去れと訴えかけてくる。視界が喜悦に赤く染まり、眷獣が宿主の昂ぶりを感じて呻き出す。

 勝負の名前は鬼ごっこ。

 捕まえたら血を吸って構うまい。何せこちらは、鬼は鬼でも吸血鬼。血を吸うのがアイデンティティだ。

 与えたハンデはここまでだ。

 これより後は一方的に、粛々と蹂躙していくだけである。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 身体能力を可能な限り強化した凪は、背後を気にしつつも国立公園の中に走りこんだ。

 芝の広場や森、ビオトープといった人工の自然が広がる広大な公園だ。大規模な区画整理の一貫として整備された場所で、古くは千人以上の人が暮らす住宅地だったという。

 人工島が巨大になり、一つの国家になるに当たって、コンクリートとアスファルトの視界は如何にも寂しいということに加えて、二十年前からの大災害の爪痕もあって、一つ大きな自然公園を作ろうという話が持ち上がったのである。凪が小学生に上がったころに完成した自然公園の中は、身を隠すにはもってこいの環境だ。

 とはいえ、場所は限られる。一般人も利用しているからには、迂闊に巻き込むようなことがあってはならない。

 今の紗葵がどれだけ周囲に気を配れるかはまったく分からないのだ。さらに言えば、今だって凪を無視して周囲の人々の血を吸いだす可能性だってある。しかし、そこについては凪への執着心に賭けた。幸い、紗葵はあれから眷獣を暴れさせることもしていないようだが。

 どこに逃げ込もうかと、脳裏に地図を思い浮かべながら凪は森の外周部を走る。遊歩道として、ランニングコースになってる場所だ。鉄札を撒いて人払いの結界を張りながら、凪は周囲に視線を配る。そこに、走ってきたのはジャージ姿の麻夜と二人の護衛役だった。

「あ、凪君じゃないか。こんなところで珍しい」

 目を丸くして驚く麻夜は、額に汗を滲ませており首にはスポーツタオルをかけている。護衛役に就いている二人と共にランニングの真っ最中だったようだ。

 一緒にいる護衛役の二人は、確か旧獅子王機関の剣凪だった攻魔師である。どちらとも面識があり、それも加えてありがたかった。

「麻夜! それに麗華さんとくるみさんも! 助かった! まずいことになってんだ!」

「え、いや、ちょっと待って」

 麻夜は、走っていた勢いのままに話しかけようとする凪に気圧されて足を止める。

「そんなに慌ててどうしたのさ」

「紗葵が……」

 どう説明したものか。

 紗葵がおかしくなって、自分の血を吸いに襲い掛かってきたということなわけだが、そのような荒唐無稽な話を素直に信じてくれるものか。流れから説明すると、そこそこの時間を必要とする。端的に伝えられる言葉を捜そうとしたのだが、凪が言葉を続けることはできなかった。

「うそだろ、紗葵……!?」

 さすがに、驚きを禁じえなかった。

 凪の前方二十メートルばかりのところに、いつの間にか紗葵が立っていたからだ。麻夜に気を取られていたとはいえ、ここまで近付かれるまで存在にすら気付かないとはどういうことだろうか。

 表情を固め、麻夜の後方を見つめる凪に、麻夜は不審そうな顔で振り返る。

「紗葵? 凪君もそうだけど、珍しいな」

「麻夜! 伏せろ!」

「わっ!?」

 凪は麻夜の後頭部を掴んで、前方に押し、姿勢を無理矢理低くさせる。

 暴風が吹き抜けたのはその直後のことだった。

「麻夜さん!」

 叫んだのは、麗華とくるみのどちらだったのだろうか。炸裂した風音のために判別をつけることができなかった。

「な、何?」

 麻夜は突然のことに目を白黒させる。

 状況が掴めないのも無理はない。妹が眷獣で攻撃を加えてきたと理解するのに、五秒は必要だった。麻夜の護衛の二人は、苦しそうな表情で膝を屈している。

 まさか紗葵に攻撃されるとは思っていなかったために、防御が間に合わなかったのだ。並みの魔族ならば、単独で仕留められる麗華とくるみだが、先手を打たれた時点で敗北の色合いが強い。

「麗華さん! くるみさん!」

「麻夜さん。離れてください。紗葵さんは、どうやら正気ではないようです」

 くるみが厳しい口調で言った。

 何があったのか、確認する時間が取れそうもない。

「まずは凪君と麻夜さんはこの場を離れてください。紗葵は、わたしと麗華で止めます」

「紗矢華さんに連絡して、応援を。この症状……ショッピングモールの事件と似ています」

「ッ……!」

 麻夜が驚愕に目を剥いた。

 視線の先の紗葵は、真っ赤な瞳で凪のことを凝視している。麻夜のことはおろか、自分を抑えようとしている攻魔師にすら興味を抱いていない。

「なら、僕も残ったほうがいいじゃないですか。妹を助けるのは姉の仕事ですよ」

「ことはそう簡単にはいきません。ショッピングモールに居合わせた紗葵さんが、逮捕された二人と同じように精神を不安定化させているのです。これは偶然ではありません。麻夜さんを巻き込まないのが、わたしたちの仕事です。どうか」

 くるみの言葉を聞いて、麻夜は押し黙る。

 彼女の言うことはよく分かる。 

 ショッピングモールで眷獣が暴走した事件には零菜と紗葵が巻き込まれている。事件の解決にも、零菜の眷獣が一役買ったと聞いている。そして、現場にいた紗葵に異常が発生した。その異常が麻夜に飛び火する可能性は否定できず、護衛を仕事とするくるみと麗華にとって、その可能性は極力除外しなければならない。

 今の時点では麻夜を逃がすという判断以外には取れそうな選択肢がない。

「てか、紗葵!」

 凪は紗葵に大声で問いかけた。

「何?」

「お前、俺に用があるんだろ?」

「そだよ」

「この三人は関係ないよな」

「ないね」

 こくり、と頷く。

 問答無用で攻撃対象にしているわけでもないらしい。

「でも、なんかムカッとしたし。それに、あたしの邪魔をするなら、みんな敵だ」

 轟、と魔力の風が吹く。

 異質で重い気配に、五月蝿いほどに鳴り響いていた蝉の声はピタリと止み、鳥たちは危険を察して飛び去った。

「凪君。これ、どういうことかな?」

「俺に聞かないでくれ。後、巻き込んですまない」

「いや、いいよ。どうも、巻き込んだのは妹のほうみたいだしね」

 眷獣の召喚か魔術か、どちらにしても今の紗葵には迂闊に背中を見せられない。紗葵の眷獣は遠距離攻撃で力を発揮するタイプであり、魔術にしても同年代ではかなりの腕前である。攻魔官二人が前衛にいるとはいえ、全力で手加減しなければならないというハンデがある以上、安心はできない。

 戦うとしても、どのように止めて、どうやって正気に戻すのかということが頭の上に圧し掛かる。課題は山積しているのに、解決策は何一つ浮かんでこない手詰まり感は、凪の内心に焦りの念を積み上げていく。

 もっとも、それは凪の側の事情でしかない。

 狩る側であることを自認する紗葵は、対峙する四人の思い通りにはさせない。対抗手段を構築される前に、先手を取る。

 紗葵の様子がおかしいと気付いたのはいいが、紗葵に先手を譲ったのは大きな過ちだ。

曠野の空谷(ヴュースト・ボーゲン)

 その莫大なる魔力と禍々しさはまさしく眷獣のそれだ。咄嗟に、麻夜は自分の眷獣を呼び出して楯とする。

 吹き荒れる烈風は、夏の盛りを少し過ぎたばかりの南の島には似つかわしくない肌寒さを持って押し寄せる。麻夜の正面に現れた真っ白に輝く鎧が紗葵が放った凍てつく風を受け止める。

 その風は灰色で、砂混じりの嵐だった。凪は麻夜の眷獣が構えた白磁と金剛の大楯に守られる形で砂嵐から逃れる。

「ッ……」

 だが、それすらも過程に過ぎないのだと思い知ったのは嵐が過ぎ去った直後だった。

 世界の色が変わっている。

 空は灰色で重々しく、薄らと視界に靄が浮かんでいる。

「これは……空間そのものが眷獣なのか」

 別段、世界の構造まで代わったわけではない。色は変わったものの、景色自体に大きな差異はない。ここは、先ほどまで凪たちがいて、紗葵とにらみ合っていた自然公園で間違いない。

 ならば、この空間にどのような意味があるのか。眷獣としての能力は何か。見た目ではまったく掴めない。

「初めて見る眷獣だね、紗葵」

「麻夜姉さんは堪えたかぁ。あの二人と一緒に出てってもらいたかったのに」

 紗葵はため息をついた。

 面倒な邪魔者が、目的を妨害している。それが、気に入らなくて堪らないとばかりに盛大なため息だ。何故、自分の思い通りの展開にならないのか、苛立っている者のため息だ。

「麗華さんとくるみさんは、無事ってことか?」

 凪はこの場にいない二人の安否を問う。

 紗葵は頷いて答えた。

「邪魔者には退場してもらっただけだよ。ここはあたしの眷獣が支配する領域。曠野の空谷(ヴュースト・ボーゲン)は結界型の眷獣なんだよ。結界は向こうとこっちを区切るもの。境を通れるのは、認められた者だけ、なんだけど」

 紗葵はちらと麻夜を見る。

「麻夜姉さんの眷獣を押し出すだけの力はなかったか」

「降参するかい?」

「やだ」

 問答の余地はなく、すでに麻夜を敵として認識してしまうほどに狂っている。ギチギチと、右手に現れたクロスボウが唸る。

「あたしは凪の血を吸いに来た。今までずっと、我慢してた……麻夜姉さんだって、本心ではそうなのにいい子ぶって。気に入らないなぁ、そういうの。そうやって、すました顔して凪に取り入って、横取りしようとしてる! 悪い姉さん! あたしの血だ! それは、あたしの、ものだ!」

 怒鳴りながら紗葵は自分の首を引っ掻き、髪をかき乱す。地団太を踏むのが子どもならばまだ可愛いものだが、それが眷獣を従えているとなると笑えない。今の紗葵は子どものわがままに眷獣を持ち出すほど不安定な状態だ。

「凪君、好かれてるねぇ。やっぱり、古城君の血縁なだけあるよ」

「何だよそれ、誉めてんのか?」

「いや、皮肉ってんのさ」

 軽口を交わしつつも、油断なく紗葵を見つめる。

 曠野の空谷(ヴュースト・ボーゲン)は空から魔力の灰を靄のように降らせ続けるだけで、これといった干渉があるわけではない。

 佇む紗葵は、引き攣った笑みを浮かべ、小さく唇を震わせる。

 瞬く間に風が形を成して、巨大なクロスボウを作り出した。いや、それはもやはクロスボウと呼べるものではないだろう。

 何せ、四足歩行の生き物の姿をしているのだ。

 身体は半透明で、ごつごつとした皮膚に覆われていて、頭の部分に弓が横向きに備え付けられているという歪な眷獣である。

捻じ切る颶風(ヴィント・ホーゼ・シュピラーレ)……シュティールバリスタ!」

 大気が魔力で加工され、大型の矢となって弓に番えられる。太い四肢が地面に爪を立て、その身を固定する。その姿はなるほど大型弩砲(バリスタ)の名を冠するに相応しい威容であって、凪はさすがに軽口も叩けず口をつぐんだ。

「フォイア!」

 無情にも紗葵は攻撃命令を下し、台風を思わせる暴風が矢と化して解き放たれた。

 


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