ショッピングモールを襲った眷獣事件から五日が経った。
テレビやネットニュースはこの話題で持ちきりではあったが、かといって世の中が過敏に反応しているということもなく、事件現場近くの小学校の集団下校が取り上げられたくらいであろう。
逮捕された二人についても身元が判明しているようだが、二人揃って精神状態が不安定で取り調べが難航しているということが報じられただけで、具体的な発表がされたわけではない。
事件の詳細が明らかになるには、まだまだ時間がかかりそうではある。
紗葵が通う彩海学園も、この事件を受けて特別な対応をするといったことはなく、普通に授業を行っている。あったとしても各学級で、注意が促される程度で休校になるようなことはなかった。内心で期待していただけに、残念だったというのが紗葵の正直なところである。
部活動に所属していない紗葵は、授業が終わればその足で家に帰る。友人と一緒に戻ることもあれば、護衛の誰かと一緒に帰ることもある。異母姉とは学年が違うこともあって、一緒にいることは少ない。この日は、護衛の攻魔官の車で送迎される手はずになっていて、その通りに帰ってきた。この不自由さは何とかならないものかと思いながら、紗葵は唯々諾々と車に乗り、家まで護送されることになった。
「もしであれば、ご友人もと思いましたが」
「いいよ。今は、みんな忙しいから」
ハンドルを握る攻魔官の提案を紗葵はにべもなく断わる。
紗葵の友人たちは運動部に所属しているのが大半で、今は秋の大会が近いこともあり土日休日に関わらず、汗を流している。
紗葵は、そこまでの執着を見出せないこともあって、部活には入らなかった。やりたいことが特になく、楽しいと思えることもほとんどない。言われたことや必要だと思うことは、最低限のところまではやりきるので、真面目だとよく言われるがそんなことはない。ただ、大人に逆らってでもやり遂げたいことがないだけなのだ。そんな労力をかけるくらいなら、唯々諾々と指示に従うほうが楽だ。冷めた人間だと自己評価していて、そんな自分が嫌いだった。
「そういえば、今日母さんが戻ってくるか聞いてますか?」
「どうでしょうか。わたしも、紗矢華さんの予定についてはまだ何とも。ショッピングモールの一件で、かなりバタバタとされていますからね」
「そうですか」
紗葵は窓の外に視線を向ける。
流れていく商店街の景色の中に、母娘で歩く買い物客の姿が見えて、目を伏せる。
ギシリ、と身体の奥が軋み、首筋が痛んだ。
「ずいぶん、忙しくしてるんだ。まあ、いつものことだけど」
「紗矢華さんは非常に優秀な攻魔官ですし、呪術の専門家です。今回の事件でも、何らかの呪詛が用いられた可能性もありますから、まさしく舞威媛の本領発揮といったところでしょう」
笑みすら浮かべて、その攻魔官は言った。
舞威媛は、日本に存在した獅子王機関という国家機構に属する攻魔師の役職の一つである。
呪詛と暗殺を生業とする魔術師たちのグループを前身とする、裏家業であり、近代以降は要人警護などを請け負ってきた。
呪詛が関わる可能性のある事件に、紗矢華の知識が求められるのは自然の成り行きである。もともと忙しくしていて、家に戻ることの少ない紗矢華だが、事件以降は声も聞いていない。
「舞威媛……あなたもそうなんでしたっけ?」
「違いますよ。わたしは候補生止まりでしたから。卒業前に、獅子王機関がなくなってしまったので」
日本の獅子王機関が長い歴史に終止符を打ったのは、紗葵が生まれるよりも前のことだ。
その際に多くの剣巫候補生や舞威媛候補生が、新たな道を探る必要に迫られた。魔術の世界では日本政府最大の失策の一つにも数えられるもので、大半が孤児だった候補生たちは帰る場所を失い、闇の道に墜ちた者が多数いたという。日本国外への流出も多く、雪菜や紗矢華を頼って落ち延びた候補生たちは、暁の帝国に大きな利益をもたらした。
皇女の護衛を務めるのも、こうした獅子王機関の流れを組む者たちが多い。専門技能と母親たちとの繋がりが、そういった形で落ち着いたのである。
この攻魔官は、幼い頃に紗矢華に面倒を見てもらったことがあるらしく、この国に渡ってきてからは半ば紗矢華に弟子入りする形で技術を磨いてきた。紗葵とも昔から面識があって、その縁もあって紗葵の護衛をするメンバーに入っている。
「紗葵さんは明日、どうするか決めてますか?」
「今は、特になにも」
「そうですか。外出の予定があるのでしたら、一報入れてくださいね」
「――――分かりました」
明日は土曜日。学校に行く必要はないので、一日自由だ。だが、外に行くならば護衛が必要だ。遠巻きに護衛する場合もあれば、ぴったりと寄り添うように護衛する場合もある。そのときの外出先によって方法は様々だが、事前に誰かに言っておくことも、人に迷惑をかけないためには必要だった。
紗葵は、それ以上話をしたくないとばかりに黙り込んで再び景色に視線を向ける。
紗葵の機嫌の悪さを感じ取ったのか、攻魔官もそれ以上話かけてくることはなかった。
マンションの正面に横付けした車から紗葵は降りる。
紗葵たち皇女に真の意味でプライバシーが保証されるのは、家の中だけだ。外に出れば、誰かしらに護衛されることになる。仕方ないこととは思うし、受け入れてもいるが、鬱陶しいという思いはどうしても拭いきれない。
エレベーターの前まで護衛はやって来るのだ。人によっては中にまで。マニュアルでは、エントランスまでとなっているようだが、心配性な者もいる。
「はあ……くッ」
一人になった途端、ぶわ、と体温が上がる。
唇を噛み、肩に担いだ鞄のショルダーストラップをギュッと握り締めた。
身体の調子が悪化しているのを、紗葵は自覚していた。原因は分からないが、妙に喉が渇き、苛立ちが募る。それが、昨晩から続いている。些細な音が気になって仕方がなく、人との会話が異様な程に鬱陶しく思える。耳鳴りが続いているような不快感に苛まれ、夜はろくに寝付けなかった。けれど、誰にも相談はしていない。相談できる大人は近くにはいないし、母親は仕事で忙しい。紗葵に何かあれば、母の仕事の邪魔になってしまう。そう思って、魔術まで使って誤魔化してきた。
「吸血鬼が風邪? んなわけないっての」
紗葵は鼓舞するように呟いて、玄関を潜る。
不老不死の呪いを帯びた吸血鬼が病気になることはほとんどない。肉体的な問題は、呪いがすべて解決してくれるから、体調不良すら珍しいくらいなのだ。
だから、吸血鬼の家には風邪薬の類はほとんどなく栄養補給用の薬剤がある程度である。
横になっていれば、そのうちよくなるだろうと考えて、紗葵は冷蔵庫を開けた。
「スーパー寄ってもらえばよかった」
冷蔵庫の中身は、かなり偏りがあった。豚肉と秋刀魚が一食分しかなく、他はペットボトルのジュースと冷蔵保存されている栄養剤だけだ。
皇女でありながら、紗葵の食生活は一般人とほとんど変わらない。シェフを雇っているわけでもなく、お手伝いさんがいるわけでもない。身の回りのことは、紗矢華がするか紗葵が自分でするかしかない。アルディギア王国の妹が羨ましい――――、
「ッ」
栄養剤を掴んだ直後、ぞわり、と総身が震える感覚に紗葵は膝をつく。
貧血にも似た症状の後に襲い掛かってきたのは、説明できない嫌悪感だった。何が気に入らないのかすら分からないが、とにかく不快だった。自分の中で、何か異質な感情が膨れ上がっているのが分かった。何を思っても、不愉快だ。今、目の前にあるもの、自分の脳裏に描くもの、この心を動かすすべてが気に食わない。
「ハ――――ッ、クハ」
思わず眷獣すら使ってしまいたい。
この家を跡形もなく消し去って、どこか遠くに行きたい。
暴力的な衝動が、紗葵の頭を白く染める。
「なにこれ……」
ぽろぽろと涙が零れた。
訳が分からない。自分の感情が目茶苦茶になっている感じだ。
心身に異常を生じているのは明らかで、唐突に襲い掛かってきた悲しみに理解が追いつかないままに紗葵は涙を流した。
■
昏月凪の土曜日は午前十時から始まった。
時間の流れが他の人間と違うということではない。本当に遺憾なことながら、凪の時間は他のすべての生物と平等に流れている。
ただ、休みの日に早起きをするほど勤労精神に溢れていないというだけである。
魔術や剣術の修行の予定も入っていない。自主的に鍛錬するにしても、午後からでいいという気持ちから、凪はベッドから出るのを躊躇い続け、結果的に昼前にのそのそと活動を始めたのである。
覚醒してから、ベッドを抜け出すのにかかった時間は実に二時間。
起きてしまえば、二時間を無駄にしたと後悔することになるのだが、これは休日にはよくあることだった。
顔を洗って、着替える。
もうじき昼時なので、朝食は抜くことにしてテレビをつける。
「土曜のこの時間って見るのないんだよな」
などと、一人愚痴る。
凪が普段見るのは、ニュース番組が多い。タイムリーな話題は、ショッピングモールの事件だが、もうじき発生から一週間だというのに続報らしい続報は出ていない。犯人の二人は逮捕されたというのに、その後の進展がないというのは、もしかしたら複雑な事情が絡んでいるのではないだろうか。
凪の寝室から物音が聞こえてきたのは、そのときだった。
初めは気のせいかとも思ったが、何か――――いや、誰かと言ったほうが適切か――――が動いている気配が確かにするのだ。若干、魔力の変動を感じたのもあって、凪の寝室に何者がかが侵入したのは明らかだった。
さて、どうするか。
ただの泥棒ならば、返り討ちにするまでだ。
凪とて攻魔官の候補生だ。仮免許ではあるが、実戦も多少は経験した。眷獣を使わなくても、霊力増幅機能を有する警棒があれば、そこそこの戦闘で使いものになる技術は習得している。
しかし、ここはマンションの七階だ。
侵入するとしたら、窓しかないが、休日の真昼間に七階の窓から侵入することが可能なのか。可能だとして実行するのはよほどの馬鹿だろうと思う。
相手が何者であれ、壁をよじ登ってきたのならば疲弊はあるだろう。確保するのならば、今が好機だ。凪は、警棒を持ってドアを一気に押し開ける。
「誰だッ!」
声を荒げて、相手を威嚇するように中に入る。警棒にはすでに霊力が注入されており、鉄をも砕く強度に変わっている。
意を決した凪の突入はしかし、予想外の光景に停止を余儀なくされる。
ベッドの上に見慣れた人物が転がっていた。
茶色味がかった短いポニーテールを好む少女。妹分でもある従姉の暁紗葵だった。
凪のベッドの上で、紗葵は凪の枕をぎゅっと抱きしめて顔を押し当てていた。
「あぁ、凪。……おはよう」
顔を上げた紗葵は、普段の彼女からはイメージできないほどふやけた笑みを浮かべている。若干、顔も紅いように見える。
紗葵がなぜ、ここにいるのかといった疑問もあるがどうやって入ってきたのかも分からない。窓に視線を向けるが、鍵は閉まったままで、凪が入ってきたドア以外に侵入経路はない。凪に気付かれずに家に忍び込み、寝室に入ったというのはありえないはずだ。
「なあ、紗葵。お前、どうしてここにいるんだよ。というか、どうしたんだ本当に」
「どうし、た?」
こてん、と紗葵は首を傾げる。
「わたしが、ここにいたらダメ?」
「いや、ダメじゃないけど、何か様子がおかしいぞ。熱でもあるのか?」
「熱? ハハ、確かになんか熱い。何か、うん、熱い、よ」
ふらり、と紗葵は立ち上がった。
「冷房、切っちゃってるのかな。ねえ、凪」
紗葵は熱に浮かされたような表情で、凪を見つめてくる。
こんな状態の紗葵を見るのは初めてだった。
言動の端々に、常とは異なる精神状態であることを伺わせるものがある。
「紗葵、体調悪いみたいだし、とりあえず寝たほうがよさそうだ。水、持って来るから待ってろ」
凪は紗葵に背を向けて、リビングに向かおうとする。
とにかく、紗葵の体調が悪いのは明白で、精神的にもかなり参っているらしい。それに、護衛の気配がまったくないのも気になる。どうやって、この家に侵入したのか。考えるべきことはいくらかあるが、とりあえず紗矢華か護衛担当の誰かに連絡を取るべきだろう。
と、そんなことを考えていたからか、凪は反応が遅れてしまった。
紗葵に背中を強く押されたのである。思いっきり体当たりでもするように突き飛ばされたので、つんのめって床にダイブすることになった。
「うわッ!」
鍛えていたおかげで、凪は受身を取って横に転がり、仰向けになる。上半身を起こして、紗葵に抗議する。
「いきなり、何するんだ、よ……お、わ!?」
立ち上がる前に、紗葵は凪に圧し掛かって身動きを封じた。
真っ赤に染まった瞳が凪を見下ろしてくる。
「な、何のつもりだ?」
「凪こそ、どこに行こうとしたの? わたしと話してたのに、何で突然出て行こうとしたのよ? どうして、凪までわたしを一人にしようとするの!」
凪の胸倉を掴んで、紗葵は怒鳴りつけてきた。
「待てって! 俺はキッチンに行こうとしただけで、紗葵を一人にしようとしたわけじゃないからな。だから、落ち着いて、話をしよう。紗葵は、何ていうか体調がよくないんだろ? ちゃんと休まないとダメだぞ」
努めて冷静に凪は言い聞かせるように言った。あまりに突然すぎる感情の起伏は、体調不良では説明しきれない。何かしらの精神に異常を来たす病気でも持っていただろうか。
「体調不良……ふふ、そう、だね。わたし、調子悪いよ。頭がガンガンするの。母さんは帰ってこないし、護衛はいちいち鬱陶しいし、喉は渇くし、凪はわたしを一人にしようとするし、どうして? ねえ、どうしてなの、お兄ちゃん! なんで、お兄ちゃんは零菜姉さんにばかり血を吸わせてるの!? 今まで、全然、交流なかったのに、なんで、いきなり、そんな話になったのさ!」
「ッ……!」
まずい、と思ったときには凪の肩を掴む紗葵の爪の先が凪の肌を斬り裂いていた。じわり、と血が滲み出す。若い女子とはいえ、吸血鬼だ。その握力は鍛えた人間の成人男性くらいはある上に、魔力で強化までしている。このまま紗葵が前後不覚の状態で組み付かれていたら、肩の骨を砕かれる。冗談を抜きにして、それほどの危機的状況に置かれているのだ。
「紗、葵。とにかく、降りてくれ」
「やだ」
「やだって」
「凪の血はわたしがここで全部貰う。そのために来たの。ずっと我慢してたんだから、イイよね。体調不良だからね、くふ、ふふ、早く元気にならないと」
狂気染みた笑みを浮かべて、紗葵は凪の首元に顔を寄せた。
「ああ、分かるよ。どこを噛めばいいか、不思議なくらい分かる……ああ、そっか……これかぁ」
陶然とした声色で囁く紗葵が、凪の首に舌を這わせる。
「いい匂い、血の匂いがする」
紗葵はそう言って、凪の首に牙を突き立てる。そのほんの僅か前に、凪は拘束魔術を完成させた。紗葵の脇腹に押し当てた手の平から、金縛りの術をかけたのだ。
「あうッ」
ばちん、と感電したように紗葵は呻いて脱力する。不意打ちの密着状態からの金縛りだ。吸血鬼であっても、そこそこ効果はあるだろう。
「なんだよ、まったく」
凪は紗葵の拘束から抜け出した。
図らずも紗葵の目的を知ってしまい、凪はどうしたものかとため息をつく。精神に異常を来たした紗葵は、凪から吸血するためにこの部屋を訪れたらしい。今の紗葵は、我慢という発想をなくしてしまっているように見える。自分の血が彼女たち吸血鬼に非常に好まれるというのは、昔からよく聞いていた。従姉妹からは、それらしい話をちらりと聞いたこともある。吸血の話は性の話題とも関わるので、女子である彼女たちから聞くことはほとんどないと言っても過言ではないが、自分の体質は理解している。だが、まさかこのような形で求められるとは思わなかった。
「なんで?」
ビキ、と空間が捻れたような気がした。
声の主は紗葵だ。この声に、憎悪にも似た感情が込められているのを肌で感じて、凪は怖気が走った。
紗葵の身体から魔力があふれ出しているのだ。それが、凪がかけた金縛りを侵食し、強引に砕こうとしている。
「紗葵! ダメだ、こんなところで!」
「うるさい!」
怒りの発露と共に、魔力が爆発した。
金縛りは弾けとび、衝撃で凪は三メートルは後方に飛ばされた。リビングのテーブルの上に背中から叩きつけられて、凪は目を白黒させた。
「金縛りなんて、酷い。わたしは、凪の血を吸いたかっただけなのに」
「今のお前に血を吸わせたら、どうなるか分かんないからダメだ」
「なぁに、それ。はは、なにそれ。そんなの、知ったことじゃない、よ。喉渇いてるもん。零菜姉さんだって、吸ったし、わたしがダメなのって何? おっぱい? 確かに零菜姉さんは大きいけどさ、あんなの、どうせそのうち垂れるよ。でかいだけだし、わたしのほうが形いいもん。それに、わたしのほうが絶対零菜姉さんよりも上手く血を吸える。痛くないよ。大丈夫、先っぽだけだからさ、ちょっと血管に穴開けるだけだから、ね」
「零菜がいたら、本気で怒られそうなことを」
さすがに絶句する。
暴走状態だから、紗葵の普段考えてることが表に出てきているのか、それとも考え方が捻じ曲がってしまったのか。とりあえず、今の紗葵は凪の事情を考えてくれることはなさそうだ。
そもそも血管に穴を開けるなんて言われて血を吸わせるのはよほどのマゾだろう。紗葵はもう少し、誘い文句を考えたほうがいい。
血を吸わせて、元に戻れば何の問題もないが、それで戻らなかった場合が厄介だ。吸血行為は吸血鬼の能力を大きく上昇させる。
紗葵の状態は恐らくはショッピングモールでの出来事と重なるものだ。
眷獣の暴走。
それは避けなければならない、最悪の事態だ。
このまま暴発させずに説得できる自信もない。家の中で紗葵を抑えるというのも、まず無理だ。
「なあ、紗葵。場所を変えよう」
「え……?」
「ここはちと狭いからな」
「いいよ、ここで。血を吸うだけだし。外に出たら、凪、どこかに行くでしょ。絶対ダメ。お兄ちゃんはわたしの目の届くところにいなきゃダメ。そんなの、絶対許さないから」
「じゃあ、俺を捕まえるしかないな。鬼ごっこだよ」
言って凪は魔術の閃光を放った。
ただ光を放つだけの魔術だが、不意を突けばかなりの効果を期待できる。
「きゃっ!?」
紗葵は驚いて動きを鈍らせ、その隙を突いた凪は靴を掴んで玄関から飛び出した。
それからは全力疾走だ。
七階から一階まで休まずに駆け下りて、それから式神を飛ばして紗矢華に連絡を入れる。
目的地は、一キロほど離れた場所にある人工森林だ。五年前ほど前に行われた大規模な区画整理の際に誕生した人工島に有るまじき広大な国立公園で、サッカーコート二十面分の敷地の中には森のほかにもピクニックに訪れる家族連れも多い芝の平地や池、遊具などを兼ね備えている。そこならば、多少は眷獣で暴れても問題ないだろう。
■
取り残された紗葵は、一人呆然と佇んでいた。
まるで、恋人に裏切られて死の寸前まで追い詰められた女のような感情の抜け落ちた顔だった。その半面、瞳だけは真紅に色づいていて、それが、悪魔的に美しい。能面のような表情にギラギラとした情愛の目というミスマッチは、紗葵の混乱に混乱を重ねた心理状態に似つかわしい。
「鬼ごっこ? ……ハハ……アッハハハハッ、アハハハハハハハハッ! くひ、ひはッ、ハハハ! わたしと鬼ごっこ? 逃げ、切れるわけ、ないじゃん! 可愛い、可愛すぎるよ凪!」
一転して相好を崩した紗葵は腹を抱えるようにして笑う。
「可愛すぎて、食べちゃいたいくらいだよ……ほんと」
爪についた血を紗葵は舐めた。途端に心身に力が漲ってくる。きちんと味が分かるほどの量もないのに、この力。喉を鳴らすくらいに飲めたら、どうなってしまうのだろうと想像して、身体が熱くなる。
「熱い、熱いよ……わたしが、こんなになってるのに、何で凪はいないのかな。どうしようもない人。そんなにわたしに捕まえて欲しいのなら、ふふふ、ちゃんと捕まえてあげるよ。もう血を吸うだけじゃ、許してあげないから」
紗葵は凪のベッドに横たわる。
それから、掛け布団の中に潜り込んだ。
直後、人一人分の膨らみが沈み込むようにして消えていき、やがて紗葵の姿は凪の部屋から消えてなくなった。