コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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タバサかわいい!


タバサの冒険/孤独の森:前編

 私の名は、シャルロット・エレーヌ・オルレアン。

 でも、今はその名は使っていない。今の私が名乗る時は、タバサという名を告げるようにしている。

 この時点で、私という人間には名前がふたつある。しかし、世の中というものはひねくれていて、さらに別の名で私を呼ぶ人もいたりする。

「いいかい人形。今回の任務は、ロマリアからやってくる尼さんの護衛さ。もちろん、楽な仕事じゃあないから覚悟しておくんだね」

 柔らかなソファーに腰を沈め、得意そうに踏ん反り返って、イザベラは私にそう言った。

 彼女の広い額の上に結い上げられた、濃い青色の髪は、ガリア王家に連なる者の証だ。宝石をちりばめたティアラや、華美なドレスをまとったその姿は、まるで物語に登場するお姫様のようで――実際、イザベラはお姫様だった。ガリア王国国王ジョゼフの一人娘、見目麗しい、たったひとりのプリンセス・ガリアなのだ。しかし、残念なことに、仕草や口のきき方が野蛮で、性格も短気と、内面はあまり憧れられる要素がない。

 ああ――このなんとも高慢で、人を見下しきったイザベラが、今の私の上司でさえなければ。手足を縛り上げた上、十時間ほどぶっ通しで足の裏を羽根ペンでくすぐり続けることで、日頃の態度の反省を促し、王族らしい態度を身につけるよう説得するところなのだが。

 私のそんな内心を気付く気配もなく、イザベラは私に、筒状に丸められた書類を投げ渡した。

 その書類に記されていたのは、ガリア国内で暗躍する犯罪組織を告発するために必要な手紙を、コンキリエ枢機卿という人物が王宮まで届けに来るということ――しかし、その枢機卿が致命的な手紙を届けに来ることを、犯罪組織『テニスコートの誓い』がすでに突き止めており、暴力的な手段でこれを阻止しにかかる可能性があるということ――そして、北花壇騎士であるこの私に、この火の粉を払い、コンキリエ枢機卿を無事にグラン・トロワに入城させよ、という、断固たる命令だった。

「その命令書にも書いてある通り、今回の仕事はガリアの威信に関わる大事だ。『テニスコートの誓い』を潰せれば、同じ共和主義組織である『レコン・キスタ』に倒されたアルビオンと比較して、ガリア王国の強さをハルケギニア全土にアピールできる。

 でも、もしアンタが失敗して、コンキリエ枢機卿が何らかの危害を被ったり、証拠の手紙を奪われて、容疑者どもを告発することが不可能になってしまったりしたら……わかるだろうね?」

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、イザベラは私を見る。

 ――そうなれば、逆にガリア王国は、犯罪組織にしてやられた無能な国家として、恥をさらすことになるだろう。国を守る王家、ひいては貴族そのものの力が疑問視され、『テニスコートの誓い』のような反政府勢力が支持を集めることになりかねない。

 私個人としては、この国のトップがいくら恥をさらそうと、なんとも思わない。この国の王は――かつては、伯父として親しんでいたこともあるあの男は――私にとって、父を殺し、母を毒薬によって病に陥れた、この上なく憎い敵であり、いつかこの手で倒そうと決意している相手である。そんな彼がどのような不利益を受けようが、知ったことではない。

 でも、それでも。たとえ敵の利益になるとしても――私は、この仕事を行い、成功させなくてはならない。

 私が、伯父王に屈服していると見せかけるために。毒薬によって心を壊され、人質同然に扱われている母様の安全を守るために。

 使える人形としてふるまい、敵を油断させておかなくてはならない。

 復讐を成し遂げ、母様の心を治す方法を見つけ出す、その日まで――。

「それで、だ。今回の仕事の何がきついかってね。どうやら敵さんの方は、コンキリエ枢機卿の持ってくる手紙をかなり重視してるみたいで、確実な実力を持った刺客にこれを奪わせようとしてるらしい、ってところさ。

『テニスコートの誓い』に潜入工作員として接触させた、コルデーって女の報告によると……こいつは、組織のリーダーまではつきとめられなかったが、中級幹部であるマラーって野郎の部下になることに成功しててね……これまで『テニスコートの誓い』は、暴力沙汰を起こす場合、農民兵や盗賊くずれといった有象無象の寄せ集め、つまりは数で押す戦法を使っていたんだが、今回は金を払って、外部からフリーの殺し屋を雇ったらしいんだ。

 その殺し屋の、顔や名前はわからない! コルデーがマラーから聞き出せたのは、そいつが『孤独』という二つ名を持っていて、平均500エキューの仕事料で、どんな難しい相手でも始末してきた、凄腕の《メイジ殺し》ってことだけさ」

「メイジ殺し? ……メイジでは、ないということ?」

 私はイザベラに聞き返した。彼女から指令を受けている間、私の方からはあまり口をきくことはない――しかし、こちらの身を守ることに繋がる情報があるならば、仕入れておくに越したことはない。

「ああ。これまでに『孤独』の仕業と見られる暗殺事件が、ガリアのあちこちで確認されているが、どれも死因はナイフや弓矢のような、平民が使うような武器による切傷、刺傷によるものだった。火や風の魔法を使った傷じゃない。

 土メイジが、武器を持たせたゴーレムを使ったって可能性もなくはないが……注目すべきは、殺された側も、魔法を使った形跡がないってことさ。これはつまり、不意を突くのが上手い人間によって、スペルを唱えるヒマもなく、素早くザクリとやられたってことを意味している。

 やられた奴の中には、軍にいた経験もある、戦闘魔法に特化した火スクウェアもいたそうだよ……どうだい、怖いだろ? 魔法のウデをご自慢にしてる奴でも、涼しい顔してぶっ殺していく、謎の怪人を敵に回すんだ。風トライアングル程度のあんたじゃ、荷が重いかもしれないねぇ?

 ま、あたしも鬼じゃないし? あんたが、こんな危ない仕事は怖いから勘弁して下さい、って泣いて頼むなら、この任務、別の奴に回してやってもいいんだけど〜?」

 そう言うイザベラの表情は、慈悲や同情などといった感情からはまったく掛け離れていた。彼女はいじめっ子である――私が怖がり、涙を浮かべるところや、膝を笑わせる姿を見たいから、こんなことを言っているのだ。

 しかし、私にも――復讐を成すため、強い人間になるため、感情をあえて押し殺して暮らしている私にも――多少のプライドというものはある。

 これまでにも、死線は数多くくぐり抜けてきた。今回の仕事が、過去の仕事に劣らず危険だとしても、怯えずにそれと向かい合う程度の胆力はあるつもりだ。

「……この任務、確かに、引き受けた」

 私はそうとだけ言って、ニヤニヤ笑いを続けているイザベラに背を向けた。

 私が踵を返した途端、彼女の表情がどう変わったかは、想像に難くない。そのまま退室しようとする私に、背後から不機嫌さを隠そうともしない荒い言葉が飛んできたのだから。

「ああ、そうかいそうかい! ま、死なない程度に気をつけるがいいさ! あんたみたいなちんちくりんの小娘じゃ、ナイフで刺されて突っ込める穴が増えたって、喜ぶ男はいやしないだろうからね!」

 ――やっぱりイザベラは、いまいち品に欠ける。

 冗談にこそ知性と品性が必要だと思うのだけれど、彼女はその逆を好んでいる気がする。今度、嗜好を矯正するためにも、トゥモノリー・ジーン・ナイ教授とか、アンジャッシュ卿の喜劇本でも薦めてみよう。それとも、ダウンタウン兄弟の【誰も笑ってはならぬ】がいいだろうか。

 頭の中で十五冊ほどの喜劇本をリストアップしながら、私は無言でイザベラの部屋を後にした。

 プチ・トロワを出たあたりで、使い魔のシルフィードに乗り込み、リュティスの空に舞い上がる。彼女は人語を話すことのできる風韻竜の幼生で、少々おしゃべりなところはあるが、頼りになる使い魔だ。

 周りに風しかない高空に達すると、シルフィードは見た目に似合わない、幼い子供のような声で、早口に喋り始めた。

「きゅいきゅい! お姉様、またあのデコ姫にお仕事を押し付けられたの?

 お姉様がお仕事すると、シルフィもめんどくさいことさせられるから嫌なのね! 服着せられたり、縛られたり、ご飯少なかったり! 使い魔の扱いをよくして、お姉様自身が安心して暮らすためにも、お姉様は『働きたくないでござる!』ってデコ姫に言うべきだと、シルフィは心の底から求め訴えるのね!」

「却下」

 私は全意識の2パーセントほどを使って、シルフィードのおしゃべりに付き合ってあげる。

 残りの98パーセントの意識は、イザベラから受け取った命令書を読み返していた。

 護衛対象――ヴァイオラ・マリア・コンキリエ枢機卿。

 命令書に添付されていたプロフィールによると、まだ年若い女性でありながら、ブリミル教会内で高い地位を築くことに成功した、類い稀な人物であるらしい。また、七つの主要風石会社の大株主でもあり、ハルケギニア経済の30パーセント以上を握っているとまで言われている。

 そのような大物でありながら、ガリアの平和を守るために、犯罪組織に狙われる危険を冒してまで、自ら手紙を届けにやってきてくれる、勇気に満ちた人でもある。

 まさに、女傑という言葉が相応しい。知性とエネルギーに満ちあふれ、やると決めたら必ずやる、そんな強い女性が思い浮かぶ。

 ――少し、憧れる。私にコンキリエ枢機卿ほどの力と意思があれば、きっと今頃は仇を討ち、母様を助けることができているかも知れない。

 このプロフィールに見た目は書かれていないが、どんなお姿をしているのだろう? イメージとしては――魔法学院で仲良くしている、キュルケのような感じではないだろうか。背が高くて、スタイルが良くて、母性にあふれ、落ち着いた雰囲気を漂わせている。それでいて、目には火竜のような、力強い輝きが宿っているのだ。

 ああ、少し不真面目な考えかも知れないが――危険な任務だというのに――コンキリエ枢機卿に会うのが、楽しみになってきた。

 シルフィードが大きな翼を羽ばたかせ、真っ青な空を突き進む。目指す先は、待ち合わせの場所、フネとワインの街、ボルドー。

 

 

 ――そして、私がボルドーで出会ったのは。

「ミス・タバサと言うたな。まずは、お前の立場について、はっきりさせておくべきだと思うのじゃ」

 こちらを警戒心丸出しで睨みつける、小さな子供だった。

 背は低く、顔立ちは幼く、体つきは丸みを感じさせるほど成長してはいない。独りで他人と向かい合うことに不安を感じているのか、隣に立つメイドのエプロンドレスの裾を、ぎゅっと握り締めている。

 ――この少女が、ミス・コンキリエ?

ブリミル教会の枢機卿であり、ハルケギニア経済界の大物であり、ガリアの危機を救うべく立ち上がった、善意の人、だというのか。

 確かに、立派な僧衣を着て、枢機卿であることを示す灰色の帽子をかぶってはいるけれど――私の期待していた、包容力だとか母性だとか、人の上に立つカリスマだとかは、微塵も感じられなかった。

「わかってもらえるかの? ミス・タバサ。我々はこれから旅路を共にする。となるとじゃ、相手に不審を感じていてはいかんはずじゃ。少々不愉快に思われるかも知れんが、どーしてもひとつ、確認させてもらいたいことがある」

「……わかっている。あなたの要求は、狙われている人間として、当然」

 今にもメイドの背後に隠れてしまいそうなほどに警戒しているミス・コンキリエに、私は丁重に同意を示す。私のイメージ通りでなかったとしても、彼女が私の護衛対象であるという事実は変わらない。失望の表情を浮かべるといったような、礼を失することはしてはならないのだ。

「ここに、ジョゼフ一世陛下のサインが書かれた命令書がある。それが、私の身分を証明してくれるはず――」

「ああ、いや、違う違う。我が確かめたいのは、そういうことではない」

 私が、書類を取り出してミス・コンキリエに渡そうとすると、彼女はそれを不要であると言わんばかりに、手をひらひらと振った。

「身分だとか所属だとか、そういうのはどーでもよいわ。我が知りたいのは、お前の極めて個人的なパラメータでの……ちょっとの間、背すじをしゃんと伸ばして立っておれ」

 ミス・コンキリエはそう言うと、険しい表情を崩すことなく、慎重な足取りでこちらへ向かってくる。

 彼女が一歩近付くたびに、私の身も強張った。何を、どう確かめるというのか。

 私は不意に、ミス・コンキリエがブリミル教会の枢機卿であるということを思い出した。教会といえば、異端審問の総本山である。想像もつかないような恐ろしい拷問にかけられて、必要なことも不要なことも洗いざらい喋らされる未来が、ひどく鮮やかに脳裏に浮かんだ。

 じっと私をねめつけながら、ミス・コンキリエは目の前まで寄ってきて――そのまま、横を通り過ぎ、私の背後に回った。

 そしてその直後、背にあたった柔らかな感触。これは、人の体――ミス・コンキリエに、背中に触れられた? いや――後頭部に感じるふさふさとしたものが髪の毛だとすると、彼女は私と、背中合わせに立っているのか。

 互いに背を預け合って立つ。このことにどんな意味があるのだろうか?

 私がミス・コンキリエの意図をはかりかねていると、その疑問に対する答えとなる言葉が、背後から発せられた。

「今じゃ、シザーリア。……測れ」

「かしこまりました」

 ミス・コンキリエの命令を受けて、メイドがそばに寄ってくる。そして、彼女は私と、彼女の主の頭に、左右の手の平を軽く乗せた。

 こ、これは――「測る」というのは、まさか――?

「ど、どうじゃ、シザーリア? 我とこのミス・タバサとでは、どっちが高い?」

 背後から、ミス・コンキリエの、期待感で上擦った声が聞こえた。しかし、メイドのシザーリアはゆっくりと首を横に振って、主人を悲しませる真実を告げた。

「公正に申し上げます。残念ながら、ミス・タバサの方が、一サントほど高いようです」

「なん……じゃと……?」

 少なくない期待感があったからだろう、答えを聞いた時のミス・コンキリエの呟きには、同情したくなるほどの絶望が滲み出ていた。

 私が振り向いた時、彼女はよろよろと崩れ落ち、地面に膝をついていた。

「くうう〜……絶対に勝てると思うたのに……久々に、ちゃんとした仕事をしている社会人で、我より背の低そうな奴に出会えたと思うたのに〜……無念、無念じゃあぁ〜……」

「………………」ムフー

「……おい、ミス・タバサ。今お前、勝ち誇った顔をせんかったか」

「……していない」

 口を真っ直ぐに引き締め、つとめてポーカー・フェイスを維持する。

 大丈夫、私は復讐のために感情を捨て去った人形だ。表情を動かさないことには慣れている――だから、こらえられるはず――笑うな、まだ笑うな――し、しかし――。

 油断するとひくひく動いてしまいそうな頬に注意して、ミス・コンキリエから目を逸らす。逃れた視線の先にいたのは、真面目な顔をしたメイドのシザーリアだ。

「ヴァイオラ様……どうか、お気を落とされませんよう」

 彼女は嘆き悲しむ主人に向かって、そっと慰めるように声をかけた。

 そう、それは非常に優しい声色だったので、私はついつい気が緩んでしまったのだ。

「そもそもヴァイオラ様は、背丈を底上げできる、かかとの高いシークレット木靴をお履きになっておられるはずでしょう。つまりミス・タバサとの身長差は、実際はもっと大きいわけで……最初から勝負になっていなかったと思えば、悔しさも薄れるのではありませんか?」

「あ、そっか、そーいやそんな靴を履いとるんじゃった……って! し、シザーリアッ! 人前でそれをバラしてはいかんとあれほど!」

「…………〜〜〜〜ッ!」プークスクス

 口元を手で隠すひまもなかった。

「の、のじゃあぁああああっ貴様ァアアア――――ッ!!!」

 私の漏らした笑い声を聞きつけたミス・コンキリエは、半泣き+グルグルパンチというコンビネーションで私を襲撃し始めた。

 騎士として、護衛対象から攻撃を受けた場合は、いったいどうすればいいのだろう? ――っていうか痛い痛いやめてやめてごめんなさい私が悪かったからやめ痛い痛い。

 

 

 ひとしきりポカポカ殴られはしたけれど(ちょっと頭にコブができた)、この一連のやり取りのおかげで、私とミス・コンキリエ――ヴァイオラは、自分たちの間にわだかまっていた、ある種の緊張感や堅苦しさを取り払うことができた。

 お互いのカッコ悪いところを見せ合うことには、互いを身近に感じさせる効果があるらしい。今の私なら、キュルケほどに気を許すところまではいかないが、ミス・ヴァリエールや、その使い魔であるサイトという少年と同じくらいには、ヴァイオラに対して、心の壁を薄くして接することができる気がする。

「よいかタバサ。我はもう、お前相手にミスとか付けて呼んじゃらん。その代わりお前にも、我をヴァイオラと呼び捨てることを許そう。

 お前には、この場所で合流した我のイトコという設定で、旅に同行してもらう。ガリア騎士を護衛につけての物見遊山など、物々し過ぎて風聞が悪いからの。それを肝に銘じて、これからは我に接するがいい」

「わかった。あなたが――ヴァイオラが望むなら、そうする」

「よし、ではタバサよ、これからの予定についてじゃが、」

「駄目」

 ヴァイオラの言葉を遮るように一言を発すると、彼女は目をぱちくりさせて、首を傾げた。

「駄目って、何がじゃ?」

「私を、タバサと呼ぶこと。その呼び方は不自然。

 イトコ同士という設定ならば、よりリアリティを追求した呼称を使うことを提案したい。ヴァイオラ――あなたは私のことを『お姉ちゃん』と呼ぶべき」

「へ? ……はああぁぁっ〜!?」

 一瞬呆気にとられ、次の瞬間には不満もあらわな叫び声をあげたヴァイオラ。

「な、何を言うとるか!? どうしてそういう話に、」

「イトコ同士といえど、年齢差によるヒエラルキーの差は自然と生じるもの。同い年のイトコだとしても、人間は必ず上下の区別をつけたがる。

 となると、どちらが姉で、どちらが妹かの設定を決めておかないことは不自然。そして、どちらが姉かを決めなければならないなら――背の高い私がお姉ちゃん役をすべきなのは、確定的に明らか」

 ヴァイオラに抗議をさせるひまも与えず、論理的な指摘(というかこじつけ)で、一気にたたみかける。

 彼女は私の言葉にたじろいだのか、動揺の色を顔に浮かべたが、しかしやはり譲り切れない部分があるらしく、自信なさげに反論してきた。

「し、しかしのぅ、実年齢的にそれはさすがに……我、もう二十六歳なんじゃけど」

「……ヴァイオラ。妹役が嫌だとしても、さすがにそれは苦しいと思う。

 年齢を偽るにしても、もう少しリアリティのある歳を言うべき。十二とか十三とか言えば、あるいは騙されてくれる人もいるかも知れない」

「ちょ、嘘じゃない――って待て、その言い方、我を十二歳よりずっと下だと思っとるっちゅうことを、暗にほのめかしてないか!?」

 何をいまさら。

 大丈夫、私はヴァイオラが、十にもならない年齢で枢機卿になり、世界の経済を操っている超天才児だとしても、変に特別扱いして寂しがらせたりはしないから。

「そもそも、私たちをイトコ同士だということにする偽装は、旅の間、他人の目を欺くためのもの。実際のお互いの立場をごまかすためのもの――だとすれば、実年齢は関係がない。ヴァイオラが二十六歳でも、百歳でも、八歳くらいだとしても、どうでもいい――見た目に応じて、設定を作るべき。違う?」

「ま、まあ、わからんではないが、もうちょっと妥協をな、タバサ……」

「『お姉ちゃん』。間違えたら、駄目」

「い、いや、しかしじゃな、」

「……………………」

 なおも抵抗しようとするヴァイオラの目を、無言で、じっと見つめてやる。

 それは視線による圧力であり、同時に励ましでもあった。頑張って。一歩だけでいい、私に歩み寄って、ヴァイオラ。これは旅を円滑に進めるために必要な儀式。けっして、妹が欲しいという私の個人的な欲望に基づいた要求ではない――私がひとりっ子だから、ずっとお姉ちゃんと呼んで慕ってくれる年下の友人に憧れていたとか、そんなことは全然ない。嘘じゃないたぶん。

「……………………」

「……あー……うーっ……えっと……」

 真正面から、お互いの息がかかりそうなほどの距離で、ただただ見つめ続ける。

 羞恥心と実利との狭間で葛藤しているのか、ヴァイオラの顔は、頬っぺたから耳の先まで林檎のように赤らみ、そわそわと落ちつかなげに視線をさ迷わせ始めた。

 彼女を困らせていることを、申し訳ないとは思わないでもないが、こちらももはや退けないのだ。あくまで、無言を貫き、押し続ける。

 そして、ついにヴァイオラが折れた。

 緊張が極点に達しているのだろう、胸元で、両手のこぶしをぎゅっと握り締め、肩をわずかに震わせて。

 涙をこぼさんばかりに、両目を潤ませ、湯気がたちそうなほどに紅潮させた頬もそのままに、こちらを上目遣いに見上げて――つっかえそうになる言葉を、辛うじて搾り出すように――ヴァイオラは、言った。

「えと、お、……おねえ、ちゃん……?」

 かすれるような弱々しい声で呼ばれた瞬間、私は反射的にヴァイオラを抱きしめていた。

 ヴァイオラは私が守る。

 そう決意せずにはいられない一撃だった。

「ちょ、おねえちゃ、ここまでせんでええじゃろ!? 離せ、ちょっとひんやりして気持ちいいけど離せー!」とかなんとか、腕の中でヴァイオラが喚いているけど、無視。

 今の時点で、私の中の親しみ度ランキングでのヴァイオラの順位は、キュルケと同格かそれ以上になった。出会って三十分も経たないうちにこのランクアップ、やはり高位の宗教家には、人の心を安らがせることに関して、並ではない才能があるようだ――もしかしたら宗教とは関係がなくて、ヴァイオラ自身の性質かも知れないが、この際そんなことはどちらでもいい。この可愛い生き物は私の妹。この絶対真理さえ確かなら、それでいい。

「……ミス・タバサ。ひとつお聞きしたいのですが……ガリアには、音声や映像を記録できるマジック・アイテムは、売っているのでしょうか?」

 ずっと沈黙を貫いていたシザーリアが、真面目な顔でそんなことを言ってきた。

 このメイドとも、仲良くなれる気がする――ヴァイオラとは違った意味で。

 私はふと、そんな風に思った。

 

 

「はーっ、はーっ、と、とりあえず、どこぞでメシでも食いながら、今後の予定を話し合うぞ……ええな? ……ぜー、ぜー……」

 息も絶え絶えで、乱れた法衣を直しながら、ヴァイオラは言った。

 さすがに二十分以上もぎゅってしたまま、かいぐりかいぐりし続けたのは、まずかっただろうか。ヴァイオラの体力を、無駄に消費させてしまったようだ。

 こちらは何とも表現しにくい、心の栄養的なものをたくさん吸収させてもらったので、むしろ元気いっぱいなのだけれど。

 聞けば、もともと私と合流する前から、食事をしようと考えていたらしい。だとしたら、随分と長い時間、我慢をさせてしまったことになる。

「ついて来て。おすすめの店に、案内する」

 私はマントをひるがえすと、ヴァイオラたちを先導して歩き出した。お姉ちゃん(役)として、ここは少しでも頼りになるところを見せておかなくてはなるまい。

 街道の左右に広大なブドウ畑が広がり、その中にポツン、ポツンと、レンガ造りの農家が点在しているのが、ボルドーの風景だ。古きよきワインの街――トリステインの、あの素朴なタルブに通じる、優しい雰囲気がある。

 ただ、あの村と決定的に違うのは、ボルドーは港が街のど真ん中にあるため、人の出入りが活発で、商人や観光客のための旅館や、飲食店が集合した賑やかな一角が存在するという点だろうか。

 私がふたりを連れて入ったのも、その飲食店街に連なるレストランのひとつだ。

『食の千年王国』という店で、有名なリッツ・ホテルの厨房で修業を積んだ一流料理人、マサカゲーヌ・ド・シロタ氏をコック長として擁する名店だ。

 といっても、貴族しか入れないような気取った場所ではなく、平民でもちょっと贅沢をする気になれば手が届く、お手頃な値段のコースもあるという、大衆的な一面もある。

 私は、花壇騎士の仕事などでボルドー近くに来ることがあった場合、大抵ここで食事をすることにしている。この店の味ならば、きっとヴァイオラにも満足してもらえるだろう。

 店に入ると、顔なじみのウェイターの「いらっしゃいませ」の挨拶とともに、客たちの好奇の視線が、私たちを出迎えた。

 遠慮のないその注目に、本能的に危険を感じ、私は杖を握る手に力を込めた。私の後ろにいるヴァイオラは、『テニスコートの誓い』という組織に、狙われている最中なのだ――敵の刺客が、客のフリをして、この中に紛れ込んでいる可能性もある。

 たが、客たちの視線が、ことごとく悪意のないものだと気付いて、私は気にすることをやめた。よく考えたら、若い(幼い、という言葉を使うほど、私は自虐的ではない)貴族の女ふたりに、やはり若い女の従者がひとりという珍しい集団が入ってきたのだ、確かに、ちょっと人目を引いてしまっても、不思議ではなかったかも知れない。

「奥の、静かな席をお願い」

 空いているテーブルに案内しようとするウェイターに、私はそう注文した。

 今、この店の中に敵がいなくても、外から見えやすい窓際や、入り口に近い席で食事をするというのは、あまりに無防備だ。

 ヴァイオラを護衛する以上、周りには常に気を配っておかなければならない。食事中など、気を休めたい瞬間は、特につけ込まれやすいものだ――人が近付けばすぐにわかり、なおかつ裏口という脱出口にも近い奥の席に陣取れば、警護する側としては、かなり楽になる。

「かしこまりました。では、こちらに」

 ウェイターの後ろについて、店の中を横切り、奥へ向かう。その途中、念のために、客たちの中に怪しい奴がいないか、さっと見て確かめる。

 敵の刺客――『孤独』は、メイジ殺し、つまりは平民らしい。だから、私が注意すべきは、怪しい平民だ。それも、多くの戦いに身を置いてきた、鍛え抜かれた体の持ち主。そんな奴がもしいたら、私は警戒を向けなければならない。

 幸いなことに、この時間、店にいた客たちは、全員が貴族のようで、しかもろくに戦闘を経験したこともなさそうな人たちばかりだった。

 カップルらしき若い男女、ぽっちゃりと太った中年の紳士、七十歳は越えていそうな、上品な老夫婦――この老夫婦は、孫でも見るような暖かい目でこちらを見ていた――彼らの中に、冷酷な暗殺者がいるなどとは、とても思えない。

 ただ、ひとりだけ、気になった人間もいた。

 私の勘に引っ掛かったのは、窓際のテーブルでステーキを食べていた、輸入雑貨商風の男だ。

 なぜ、その男の職業を、そんな具体的に連想したのかはわからない。ただ何となく、輸入雑貨商っぽいなあと思ってしまった。

 黒に限りなく近いダークブラウンの髪を短く刈り上げ、前髪を一九に分けた、地味な風貌の男だった。年齢は、青年と中年の間くらい――若くはないけど、衰えてもいない――今がまさに働き盛りといった、脂の乗った年頃に見える。

 腰のベルトに杖を挿しているから、貴族ではあるのだろう。だから、メイジ殺しの平民である『孤独』の可能性は低い。でも、それでも彼が気になったのは、その体が並のものではないと気付いてしまったからだ。

 白いシャツの下から盛り上がって見える、立派な筋肉。

 ただ鍛えただけの、鈍重そうな筋肉ではない。体型が太く見えないような、しなやかで、瞬発力を感じさせる――おそらく、実用的な筋肉だ。

 厳しい訓練と、多くの戦いを経験することで、ようやく手に入る肉体。それを持っている人間が、ここにいる。

 気にはなった。けれど、私はすぐにこの男に注意を向けるのをやめた――それというのも、向こうがこちらに、少しも注意を払っていなかったからだ。

 男は、ぶ厚いステーキをナイフで大きく切って、口いっぱいに頬張っていた。なんとも豪快な食べ方だ。「はふ、はふ」と言いながら、額に汗を浮かべて、実に美味しそうに肉を噛み締めている――その視線は、ステーキ皿から少しも動かず、こちらに向くことは一切なかった。

 その食べっぷりを見ていると、こちらまでお腹が空いてきてしまう。私はそのまま彼の横を通り過ぎ、自分たちが食事をするテーブルに向かった。

「……早く、ワイン来ないかなぁ……ステーキといったら、赤いワインだろうに……」

 背後から、そんな呟きが聞こえた気がした。

 

 

 俺は――ガリア在住の輸入雑貨商ファイブロー・イーノヘッドは、ボルドーの有名レストラン、『食の千年王国』で昼食を摂りながら、仕事のパートナーを待っていた。

 仕事といっても、本業である輸入雑貨関係じゃない。片手間にやっている副業――でも、本業を始めるにあたって必要だった資金を稼がせてくれた、実入りのいい仕事――の段取りを、今日は話し合わねばならないのだ。

 で、お腹もペコちゃんだったし、ひとつしっかりハラを満たして、気力充分で会談に臨もうと思っていたのだが――。

 

 ◎◎本日のオーダー◎◎

 

 ・ステーキ

 上等な肩ロースを、こぶし二つ分くらいの塊で。焼き方はレア。

 

 ・ビーフシチュー

 ばら肉を、ブラウンソースでとろとろになるまで煮込んである。ニンジンがデカい。

 

 ・はしばみ草のサラダ

 ガラスのボウルにたっぷり一株分。子供の頃キライだった味。

 

 ・ブリオッシュ

 渦巻き型のパン。刻んだ海藻が練り込んである。

 

 ・ベイクドポテト

 特筆すべきこともなき一品

 

 ・赤ワイン

 五年もののフルボディ。もちろんボルドー産。

 

(うーん……しまった、ステーキとビーフシチューで、ウシがダブってしまった……そうか、この店では肉類は、ビーフシチューだけで充分なんだな)

 口の中を肉汁でいっぱいにしながら、俺は少しだけ後悔していた。

 美味いことは間違いないんだが、あまりにも動物的に過ぎる感じだ。合間にサラダをつまんで、しつこさを中和しにかかる。

 うん、このはしばみ草は正解だった。苦味の具合もちょうどいい――ウシづくしの中で、すっごく爽やかな存在だ。

 そんな風にして、何だかんだ言いながらも舌と胃袋を満足させていると、待ち合わせ相手の情報屋がやってきた。

「やあ、待たせたなイーノヘッド。仕事の話の前に、僕もワインを注文させてもらうよ」

 小太りで背の低い、善良そうな商人風の男だが、殺し屋の斡旋、武器の調達、計画犯罪の下調べなど、裏の方面で手広くやっている札付きの悪党だ。

 彼は俺の対面に座ると、白ワインとスズキのパイだけを注文し、それが届くとすぐに『サイレント』を唱え、落ち着いて仕事の話ができる環境を調えた。

「よし、これで邪魔は入らない。ゆっくりじっくり、話をまとめようじゃないか。……今回の依頼の内容だが、ちゃんと頭に入っているだろうな、イーノヘッド?」

 情報屋の問い掛けに、俺は小さく頷いた。

「ああ。ロマリアから来ている、コンキリエという尼さんを始末して、彼女の持っている手紙を奪えばいいんだろう?」

「その通り。より正確に言うなら、始末したミス・コンキリエの遺体のそばに、別の手紙を置いてくることもリクエストされている。

 置いてくる方の手紙は、僕が依頼人のロベスピエール氏から預かってるから、後で渡そう。で、ここからが君に頼まれていた情報なんだがね。標的であるミス・コンキリエの似顔絵と、今後のスケジュール、そして彼女についている護衛の戦力についてだ」

 言いながら、情報屋は懐から、折り畳んだ羊皮紙を取り出し、まるでナプキンのようにこちらに渡してきた。

 誰にも見られぬよう、壁を背にしてそれを開く。中には、紫色のインクで精緻に描かれた、幼げな少女の似顔絵があった。

「それがミス・コンキリエだ。子供にしか見えないし、背もかなり低いが、二十六歳の立派なレディさ。髪の色は紫。服装は宝石のいっぱいついた法衣に、灰色の帽子をかぶっている。

 メイジとしての系統とランクは、水のライン。従軍などでの戦闘経験はない。在籍していたアクレイリア魔法学校での、実技の成績は中の下……戦闘上の脅威として考える必要は、まったくないだろうね。

 ただ、彼女を守っているふたりの護衛については、少し警戒が必要かも知れない。

 まず、シザーリア・パッケリというメイドの少女だ。似顔絵は用意できなかったが、金髪で長身。年齢は十七歳。『黄蜂』という二つ名を持つ、火のスクウェアメイジだ。

 火竜山脈を単独で越えた経験を持ち、その際に火竜の成体を二頭も仕留めている! これは火竜討伐ギルドの記録に残っていた、誇張のない事実だ。相当な実力と、戦闘経験の持ち主であることは間違いない」

 驚きに、ついつい口笛を吹きたくなった。火竜二頭とか、俺じゃあ逆立ちしたって狩れやしない。

「そしてもうひとり。ジョゼフ王の派遣した騎士がコンキリエ枢機卿を守っている。所属はわからないが、花壇騎士で、名前はミス・タバサというらしい。

 水色の髪の、ミス・コンキリエと同じくらい背の低い少女だ。実年齢はわからないが、こちらも二十を越えてるとは信じたくないね。女ってものがわからなくなっちまう。

 使い魔が風竜の幼生であることから、系統は風と思われる。また、王が国外のVIPを守らせるために派遣した騎士だ、弱いということは考えられない。まず間違いなく、トライアングル以上の使い手だろう。

 ミス・タバサについては予想ばかりで、確定的な情報が少ないことは勘弁してくれ。彼女が護衛につくことがわかったのは、ほんの一時間前だからな。

 ボルドー港を監視させていた、僕の使い魔が知らせてくれたんだ。護衛がひとり追加されたぞってね。

 今も使い魔には監視を続けさせているが、標的たちの会話からして、これ以上敵が増えることはないだろう」

「うん……その方が助かるね」

 まあ、火竜ならともかく、人間のメイジであれば、どれだけ数が増えようと、始末しつくす自信はあるんだが。

 俺の能力なら、それができる――敵の系統やランクなど、まったく関係なしに。

「ところで、話変わるけど。標的たちがこれから、どういうルートでリュティスに行くかわかる?

 いつ、どんな風に攻撃を仕掛けるか、なるべく早めに考えておきたいんだ」

 俺がそう尋ねると、情報屋は待ってましたとばかりに膝を叩いた。

「うん、よくぞ聞いてくれました!

 標的たちを後ろから追っかけてって、チャンスが来るのをぼーっと待ってたりするのはシロウト、あれはダメ。

 あのね、ボルドーからリュティスまでの間に、大きな森が何か所かあるでしょ。それを迂回したら遠回りになりすぎるし、あちらさんはきっと、森の中を通る街道を選択するはずだから。森の奥深くまで充分に入り込んだところで、側面から襲撃! これしかない!」

 うん、やっぱり海千山千の情報屋。提案が実に合理的だ。

「問題は、連中がどの森の、どの道を通るかってことだが――あ、ちょっと待った、イーノヘッド。使い魔との感覚共有に集中させてくれ。

 コンキリエ枢機卿が、これからの予定のことを話し始めた。僕のフォウルマウンテンが、今、彼女の足元にいるんだ。

 聞き耳を立てたいから、少しだけ静かにしていてくれ」

 俺は無言で頷いた。情報屋の使い魔フォウルマウンテンは、ご大層な名前だが、その実態は手の平に収まるサイズの、小さなハツカネズミだ。

 しかし、その小ささとすばやさを活かした諜報能力は、裏稼業に生きる者にとって、竜種の戦闘能力にも劣らない頼もしいものだった。

 俺はワインで喉を潤しながら、情報屋が役に立つ情報を手に入れるのを、くつろいで待つことにした――。

 

 

「ん?」

 何じゃろ? 今、テーブルの脚の近くを、白い毛玉みたいなもんが駆け抜けていったような。

 我はメニュー表から目を離して、しばし濃緑色の絨毯が敷かれた床に視線を這わせたが、すぐに気のせいじゃろうと判断して、顔を上げた。

 タバサのすすめてくれたレストラン『食の千年王国』は、まあ上等と言っていいたたずまいの店じゃった。大きな窓から差し込む、明るい日差し。壁の棚に並んだ、陶器の人形やドライフラワー。テーブルには、レース編みの洒落たクロスがかかっておる。田舎風じゃが、雰囲気が穏やかで、とても居心地が良い。

 こんな場所でまさか、そこらへんをネズミがうろついとるということもあるまいて。

 ふと正面を見ると、対面に座ったタバサが、こちらを見ながら、小さく首を傾げておった。

 どうやら、我の動きを不審に思われたようじゃ。これがシザーリアじゃったら、こんな目で見られても特に気にならんのじゃが、知り合って間もないタバサ相手じゃと、少々気恥ずかしい。

 フォローしてくれそうなシザーリアは、主と食卓をともにするのは礼儀に適わんと言うて、別のテーブルにひとりで行ってしもうたし――どうやら我は、この微妙な空気を、自分で取り繕わねばならんらしかった。

 とりあえず、一番楽そうな解決法は、タバサの視線をあえて無視して、なかったことにすることじゃろう。我は意識をメニューに戻した。適当に注文をして、料理が届けば、タバサも我が変にキョロキョロしとったことなぞ、きれいさっぱり忘れてくれるに違いない。

「えーと、じゃあまずは、この『究極DPコンソメスープ』というのを、頼んでみようかのぅ」

 控えていたウェイターに注文を伝える。

 コース料理もいいが、こういう格式張らなくてよさそうな店では、一品ずつをたくさん注文して、テーブルいっぱいに皿を並べさせるのも面白かろう。

 しかし、我のオーダーに対して、ウェイターは申し訳なさそうに、こう言った。

「あ、ごめんなさい。それ、来月からなんですよ」

 ……がーんじゃな……出鼻をくじかれた。

「じゃあ、えっと。こっちの『チーズとDPコンソメスープのグラタン』というのを」

「ですから、ごめんなさい。それも来月からなんですよ。DPコンソメは冬季限定のメニューでして、どうも」

 そうか……どうしよう、初っ端のスープからつまづいてしもうた。

 コンソメといやガリアが本場じゃから、ぜひ味わってみたいと思っとったんじゃが――ええい、仕方ない。当初の予定通り、ワインを味わうことに専念するか。

「では、七面鳥をポルト酒とフォン・ド・ヴォーで煮込むのはできるかの?」

「七面鳥の煮込みですね? ええ、大丈夫だと思います。コック長に伝えましょう」

「ぜひ試してみたい、きっと合うと思うのじゃ。フォアグラ入りのソースで頼む。サイズは――」

 まあ、他にも細々したもんを頼むと考えれば、あまりデカい肉を食うのは遠慮した方がよかろうの。

 そうじゃな、だいたい我の手の平半分くらいのサイズなら、ほどよく満足でき――。

「一羽分」

 鳥肉の大きさを思案しておった我をフォローするように、タバサが口を挟んだ。そうそう、まるっとでっかく一羽分――って、何言ってんの!?

 驚いて正面の同席者を見ると、そこには戦闘に挑む騎士としての顔をした、凛々しいタバサがおった。

「他に、エスカルゴの香草バター焼きを二皿。はしばみ草のサラダを四皿。カスレの大をひとつ。そら豆のクリームスープを一皿。十五種類の野菜のテリーヌを一皿、豚肉のリエットを一皿、牛肉とモリーユ茸のパイ包み焼きを一皿、ガーリックバターでトーストしたバゲットを一本分。デザートには、コーヒーリキュールを使ったプリンと、オレンジのコンポート……以上を一人前として、私と彼女の分、二人前を用意して」

 瞳に青い炎を孕み、みなぎる闘志に眉をつり上げて――まるで攻撃魔法を放つように、ウェイターに向かって次々と注文を告げていく。

「カスレの大は、本来は四人ほどでシェアリングするサイズですが……かまいませんか?」

「問題ない」

 涼しい顔で確認するウェイターに、メガネをキラリと光らせて、タバサは応じる。

 いや。いやいやいや。問題あるから。

 何その量。我に胃を破裂させて死ねと言うのか。

 我が唖然としてタバサを見ていると、その視線をどう勘違いしたのか、ない胸を張って、得意そうにこう言いおった。

「大丈夫。旅行中の飲食費、宿泊費は、すべて私の上司持ち。領収書を持って行けば、経費で落としてもらえる。

 だから私は、任務――もとい、旅行する時は、いつもこれくらい食べることにしている。ヴァイオラも、他に食べたいものがあれば、自由に頼むといい」

 料金の心配をしとると思われた。

 つーかお前、毎回こんな量を食っては上司に払わせとんのかい。経費ってことは花壇騎士団の予算なんじゃろうが、食事代だけでこんなに消耗するとなると、馬鹿にならんぞ。

 コイツ、さっぱりしとるように見えて、意外と上司に含むところでもあるんじゃろうか。

「い、いや、そうでなくて、我はそんなに食えはせんと、」

「大丈夫」

 拒絶しようとする我の言葉を、優しく、柔らかい声が遮った。

「遠慮なんか、しなくていい。お姉ちゃんに、任せて」

 そう言うタバサの表情は、ほとんど無表情のまま変化していないにも関わらず、なぜか暖かい思いやりのようなものにあふれておった。

 妹思いで面倒見のいい姉の役を、こうも自然に演じきるあたり、さすがはガリアの誇る花壇騎士だと感心するべきなのじゃろうか?

 我は基本的に、自分のためなら人の厚意を踏みにじることのできる人間じゃ。我が胃袋のためを思うなら、テーブルをひっくり返してでもオーダーのやり直しを要求すべきじゃろうが、この――このタバサの無邪気なお節介を蹴るのは、なんか、その、胸がズキンズキン痛む気がする。しかし、しかしやはり、このまま大量のランチを詰め込む未来を良しとするのも、ためらわれるものが――。

 我が態度をきめかねて、無言のまま逡巡しておると、タバサは我が迷いを察したらしく、眉をほんの少し垂らした。

「……もしかして、私のおすすめが気に入らなかった? だとしたら……ごめんなさい。

 ヴァイオラに美味しいもの、たくさん食べてもらいたかった。だから――張り切り過ぎて、空回りしてしまったかも、知れない……」

 うおお止せ馬鹿やめろ! そんな、申し訳なさそうに潤んだ目で見るでない! わ、我のゴーイングマイウェイな部分が、日光を浴びた吸血鬼の如く、ドジュバアアァァって白煙を上げて焼け爛れてしまうじゃろーがっ!?

 心にヤバめの火傷を負わされた我にはもはや、積極的にタバサに逆らうだけの気力は残されていなかった。

 こうなっては、選べる道は多くない。いや、ひとつしかないと言ってもいい。しかしそれでも、進む道は自分で選ばねばならない。我は、最後の力を振り絞って――。

「……今のメニューに合うワインを、一本ずつ。金額は、この店で一番高いのでもかまわん」

 ヤケクソになることにした。

 

 

 ◎◎本日のオーダー◎◎

 

 ・七面鳥のポルト酒煮込みとその他

 食料品でできたちょっとした丘。一品一品は間違いなく美味しいはずなのに、全体的に見るとなぜか憎むべき異端を感じる。

 

 ・赤ワイン

 シャトー・イケームの150年もの。消化不良を起こしそうになる胃を、柔らかくほぐしてくれる。もちろん、本来は胃薬的な用途で喉に流し込まれるべきものではない。

 

 

 うおォん、私はまるで人間コークス燃焼式熔鉱炉だ。

 額に汗しながら、巨大な七面鳥のまるごと煮にナイフを入れる。その肉はホロホロと柔らかく、口に入れれば深い旨味と、お酒の華やかな香り、そして爽やかな酸味が混ざり合い、食欲を増進させる。

 食べれば食べるほど、さらに食べたくなる。これはいい。充分な熟成を経たシャトー・イケームとの相性も抜群だ。

 他のサラダやスープ、カスレといったメニューも、それぞれの個性を発揮していて、舌を退屈させられることがない。私は幸せな気分で、食事をすることができていた。

 私の向かいにいるヴァイオラも、薄く笑みを浮かべてワイングラスを傾けている。どうやら、ここの食事を楽しんでくれているようだ。その目が何となく、どんよりと濁っているように見えたが、たぶん気のせいだろう。

 私はあと五分ほどでデザートに突入するが、ヴァイオラはあのペースでは、あと一時間はかかるかも知れない。かなりのスローペースだが、そんなところも可愛らしいと思う。

 彼女に合わせて、こちらもペースを落とすと、自然と会話を交わす余裕が生まれた。なるほど、ヴァイオラのような社会的地位の高い人間にとっては、他者との会食も立派な仕事であるはずだ。食事をしながら交流を深め、あるいは交渉をまとめる――そのために、わざと食べるスピードを遅くしている可能性がある。

 やはり、彼女は責任ある立場にいるのだ。それゆえに、命の危機にも縁がある。今回の旅が、こんなに穏やかな形で始まったのが信じられないほどだ。

 守らねばならない。その思いを強くする。

 そう、ヴァイオラを守らねばならない――彼女の頼れるお姉ちゃんとして!

「ヴァイオラ。このあとの予定がどうなっているのか、聞いてもいい?」

 ウェイターはすでに下がらせている。テーブルを中心に、半径四メイルを覆うようにサイレントをかけてから、私はそう尋ねた。

「あ〜、そうじゃな。ボルドーの馬車駅に、レンタル馬車を一台待たせておる。それに乗って、北へ向かう街道を進むつもりじゃ」

 虚ろな目で――絶対に私の思い過ごし――ヴァイオラは、ゆっくりと説明を始める。

「リモージュを経由してディジョンで一泊。明日、ディジョンから直接リュティスに向かう。そっから先はまだ決めておらんが、そうじゃのう〜、シェルブールとかオルレアンを見物して帰るのがええかなぁ。は、は、は」

 言いながらカタカタと笑うさまは、まるでくるみ割り人形のよう。お人形さんのように可愛らしいという意味であって、表情が人形のように強張っていて生気がないという意味ではない。けっして。

 しかし――そのルート。護衛する側としては、少々不安を感じるところがあった。

「ヴァイオラ。その案だと、ディジョンに到着するのが、どうしても夜中になってしまう。

 リモージュの森は深い。早く進めても、確実に夕方から宵闇の時間帯に、森の中を進まなければならなくなる。

 その環境は、間違いなく暗殺者たちにとって有利。万全を期すため、今夜はボルドーに泊まって、朝早くディジョンを目指して出発することを提案したい」

 私がそう言うと、ヴァイオラはなぜかキョトンとして――急に、気まずそうに目を逸らした。

「あ、あー……た、確かに、その方が安全じゃろの。しかし、それだとリュティス到着が一日延びてしまう。

 手紙の到着を待つジョゼフ陛下を、あまりお待たせするわけにはいかぬ。悪いが、その案は却下じゃ。我々は速やかに、リュティスを目指さねばならん。それに――……」

 

 

 それに――と、いかんいかん! うっかり、「手紙自体嘘っぱちじゃから、暗殺者なんか襲ってくるわけないんじゃよ〜」とか口走るところじゃった!

 食い物の山に絶望して、酒ばかり飲んどったから、酔いが回ったらしい。しっかりせねば。

 タバサは――つーかガリア側は、我がマジで『テニスコートの誓い』に狙われとると思い込んでくれとるわけじゃから、本気で周りを警戒しておるのじゃろう。当の我があんまり余裕ぶっこいとったら、不自然に思われるかも知れん。

 ここはそう、我自身も怯えておるというポーズを見せた方がいいじゃろうな。ただし、タバサの中の、我の立場と矛盾せんような言い訳もつける必要があろう。――よし。

「……我とて、不安はあるのじゃよ。もし襲撃を受けたならどうしよう、とは思うておる。

 ただ、その不安の意味が、おそらく違う。我は、敵が襲ってくるということは、即ちシエイエス殿の有罪を意味する――それが現実となることを恐れておるのじゃ。

 我としては、あのブリミル教徒の鑑とも言うべきシエイエス殿の無実を、何としても信じたい。いや、始祖の魂が、常に我々のことを見守っておられるという教えを疑わないならば、シエイエス殿の無実を、心から信じておらねばならないのじゃ。

 故に、我は安全策を採るわけにはいかん。それはシエイエス殿や始祖を信頼していないということを意味するからの。我の裏切りをシエイエス殿が見ていなくても、始祖は見ておられる。ブリミル僧として、御心に背く選択だけはしてはならぬ。それが、信仰というものじゃ」

 我の言葉に、タバサはしばし無言であったが、やがて小さく頷いた。

「わかった。あなたがそう決めているなら、私が言うべきことはない」

「ありがとう。ただ、我とて現実を見ておらぬわけではないということは、了解しておいてくれ。

 我のために、護衛をよこしてくれたジョゼフ陛下には感謝しておるし、タバサの騎士としての力も、大いに頼りにしておる。『テニスコートの誓い』でなくとも、盗賊の襲撃などがないとは言い切れぬし、そういう時には必ず、お前が我を守ってくれると信じておる。タバサを信じるからこそ、我はあえて急ぎの旅路を行くのじゃ。わかってくれるな?」

 我が確かめるように問い掛けると、タバサの目がぱしぱしと瞬いた。

 そして、不意に目を逸らして、小さく唇を動かした。まるで何か言おうとして、うまく言葉にできなかったみたいな感じじゃった。

 どうしたんかと思って耳をすませると、タバサはかすれるような小さな声で、こんなことを言った。

「……タバサじゃない。お姉ちゃん、と呼ばなくては、駄目」

 ちょ、まだその設定を引っ張るかお前!?

 サイレントしとるから、誰も聞いとらんっちゅーのに! あれか? 演技し始めたら心の底からなりきってしまうスーパー女優体質かコイツ!?

 仕事熱心なのはええが、もう少し融通をきかせてもええと思うぞ、我は。

 しかしまあ、こういう性格の奴なら、調子を合わせて仲良くしておけば、我の誠実さ(偽)をガリア王にアピールしてくれるじゃろう。そうすれば、いざシエイエスを糾弾する時に、仲間の無実を最後まで信じていた一途な人として、相対的に我のガリアでの評価が上がるやも知れんな、ウヒヒヒヒ。

 

 

 話を聞く限り、ヴァイオラは危険をあまり自覚していないようだった。

 まあ、それも仕方がない。彼女の持っている手紙を偽物と信じるなら、『テニスコートの誓い』が襲ってくることは、まず考えられないのだから。

 ヴァイオラは、ヴァイオラ自身の信仰と、シエイエスという人物に対しての義理のせいで、危機感を持つこと自体が許されない。これは難しい条件だった。

 ヴァイオラの信念とは裏腹に、彼女は間違いなく狙われている。

 イザベラ――彼女自身は別として――イザベラの部下たちの調査は信用できる。『テニスコートの誓い』が、ヴァイオラに『孤独』という名の暗殺者を差し向けたことは、事実。その情報を知っているということは、こちらのアドバンテージだが、それをあえて無視して、敵などいないという前提で行動しなければならないと、ヴァイオラは言っているのだ。

 困難。護衛にとって、これはあまりにも困難な任務。

 そしてそれ以上に、狙われるヴァイオラにとって、危険。

 どんな愚か者でも、あえて警戒しない、ということの危険性は理解できるはず。なのに、それをするということは、それだけヴァイオラの、シエイエスに対する信頼が深いということを意味するのだろう。

 同時に、始祖に対する信仰の強さもうかがえる――なるほど、この幼さで枢機卿になるだけのことはある。人の善性を信じることにおいて、ヴァイオラほど一途な人間を、私は見たことがない。彼女は心の底から、『テニスコートの誓い』が襲ってくることなどありえない、と思っているのだ。

 だからこそ、私には言えなかった。敵の存在が確定しているということは。――ヴァイオラの優しい信頼を、打ち砕くようなことは。

「……ならば、仮に」

 私は、七面鳥の最後の一切れを飲み込みながら(ああ、これで残るはデザートだけになってしまった)、こう言った。

「盗賊が襲ってきたならば、必ず撃退する。ヴァイオラには、指一本、触れさせない」

 すると、それを聞いたヴァイオラは、破顔してワイングラスを高々と上げた。

「そうじゃ、そうじゃ。それでええ。覚悟は持てども心配は要らん……必要な瞬間に守ってもらえるなら、それで充分じゃ。タバサよ、我のカスレを食べぬか?」

「もらう」

 差し出された大皿(ヴァイオラのカスレは、四分の一も減っていなかった)を受け取り、まだ余裕のある胃に落とし込む作業に移る。

 そんな私を見ているヴァイオラは、諦めとも恐怖とも感嘆とも尊敬とも取れる、複雑で微妙な表情を浮かべていた。どうも彼女の精神には、簡単には底まで見抜くことのできない、不思議な深みがあるようだ。

 見た目は完全に子供なのに。これでは、どちらがお姉ちゃんかわからない――。

「あ」

「ん? どした、タバサ」

「また、お姉ちゃんって呼ぶの、忘れてる」

「……だからもう、勘弁してくれと」

 No、そこは譲れない。

 そう言ってやると、ヴァイオラは何の複雑さもなく、一目でわかるほどげんなりしていた。

 こういう単純な感情を表に出す時は、彼女も年相応(八歳くらい?)に見えた。

 

 

 情報屋から聞いた話を、頭の中にしっかりと書き込むと、俺は席を立った。

 リモージュ経由、ディジョン着。となるとアタック・ポイントは、当然リモージュの森だ。

「おや、もう行くのかい? あちらさんは、もうしばらく食事を楽しむみたいだが」

 スズキのパイにナイフを入れながら、情報屋はのんきに言う。

「ゆっくりしていっても、充分待ち伏せには間に合うだろうに。どうせだから、デザートも食っていきなよ」

「いや、残念ながら、甘いものが苦手なんだ。前世によっぽど、甘いもので痛い目に遭った奴がいるとみえて……。

 それに、いろいろやることがあるからね。そっちはゆっくり食べていってくれ、料金は払っておくから。おっと、そうそう」

 俺は懐から、銀貨を一枚取り出すと、テーブルの上に置いた。

「いい仕事をしてくれたフォウルマウンテン君に、チップだ。美味いナッツでも買ってやりな」

 そう言いながら情報屋の肩をポンと叩き、俺は精算所へ向かった。

 コンキリエ枢機卿たちが、まだ食事を続けるのなら、それはこちらにとっての有利だ。店を出る時に顔を合わせたくはないし(同じレストランで食事をしていると情報屋から教えられた時、俺は非常に驚いた)、どうせなら、ゆっくり時間をかけて下準備をしておきたい。

 標的たちの命を、確実に奪うために。

「そう……暗殺ってのは、救われてちゃあ駄目なんだ……孤独で、静かで、無慈悲で……」

 レストランを出た俺は、そんなことを呟きながら、ボルドーの街道を北に進んだ。

 目指すはリモージュ。標的がそこにやってくるのは、夕方。

 日はまだ、傾き始めたばかりだった。

 

 

「ミス・タバサ。あなたとヴァイオラ様のお姿をスケッチしたいのですが、かまいませんね?」

「駄目。時間がない」

 レストランを出ると、すでに食事を終えて待っていたシザーリアに、いきなりそんなことを言われた。

 このメイドが、主のことを尊敬すると同時に、母親のような慈しみをもって可愛がっているということは、何となく察していた。

 だから、彼女がヴァイオラの姿をスケッチしたがるというのはわかる。というか、きっとこれまでにも、口実を設けて肖像くらいは描かせているはずだと確信を持って言える。

 でも、私もというのはどういうことだろう。特別、シザーリアに気に入られるようなことは、していないと思うのだけれど。

 願いを断られて、しょんぼりとしているシザーリアを横目に、私は馬車駅に通じる街道に足を向けた。

 私と手をつないだヴァイオラも、一緒についてくる。彼女は、レストランを出る前から、ずっとぶつぶつ言い続けていた――「これはさすがに恥ずい」とか「我、ホントに二十六じゃのに」とか。別に、お姉ちゃんと妹が手をつないで歩くくらい、何でもないと思うのだけれど。ロマリアではその辺の価値観が違うのだろうか?

「ううう〜……手つなぎ歩きは、いい歳した大人のすることじゃないと思うんじゃよ〜……しかも我の方が妹役て……。

 はっ! そ、そうじゃ、心の中だけでも、我が姉じゃと思っとけばいいのじゃ! 小さなタバサのママゴトに付き合ってやっとる、優しいお姉ちゃんヴァイオラ・マリア! よし、この設定でいくぞ! 我は姉役、二十六さい、立派なレディ……」

「ヴァイオラ、馬車が通る。もっと道の端に寄って」

「うん、わかったのじゃお姉ちゃん」

素直だ。

「…………のじゃあぁあぁ…………orz」

 でも、道の端でへたり込むのは駄目。膝が汚れる。

 なぜかしょげ返っている主従を引き連れて、たどり着いた馬車駅で待っていたのは、六頭立ての立派な馬車だった。

 高さ三メイル、幅三メイル半、長さ八メイルという巨大なボックス。それを支える車輪は六輪。操縦する御者も、二人は必要だ。

 リムジーン社製の高級大型馬車――ヴァイオラにその意図があったのかどうかはわからないが、護衛する上でこれは非常に頼もしい。

 硬くぶ厚い樫板に覆われたそれは、まさに走る要塞だ。弓矢や剣による攻撃ではびくともしないだろうし、おそらく魔法でも、かなり強力なスペルでなければ、破壊することは叶うまい。

 これで、途中で停まることなく、一直線にディジョンまで走り続ければ、さすがの『孤独』も、襲撃の機会を持てないのではないか?

 しかし、念には念を入れて、事故を起こすような細工がされていないか、チェックをしておく。車軸にノコギリを入れた跡がないか? 手綱に切り込みを入れられたりしていないか? ――大丈夫そうだ。御者は信用できるか? ――シザーリアの話では、地元の馬車組合に長く勤めている者たちで、後ろ暗いところは何もないという。――それならば、問題ないと言っていいだろう。

 私が車体を外から点検している間に、無邪気なヴァイオラはとっくに乗車して、窓から「お姉ちゃんもさっさと乗るのじゃ〜」とか言って手招きしている。彼女もかなり吹っ切れてきたみたいだ。妹の誘いに従って、私もリムジーン馬車に乗り込む。

 中は、乗り物でありながら、ちょっとしたサロン・ルームを思わせる豪華さだった。

 床には毛皮のラグが敷かれ、座席は革張りの柔らかいソファー。食事もできるということだろうか、背の低いテーブルもある。車体後部には、造り付けの戸棚があり、そのガラス扉の奥には、高級そうな酒瓶がずらりと並んでいた。

「おお、よしよし、よーやく来たのう。ほれ、お姉ちゃんの席は我の隣じゃ。窓から外の見える席ぞ。

 ひとつ、車窓からの景色を楽しみながら、ディジョンまでゆっくりしようではないか」

 ぱしぱしと、ソファーのクッションを叩きながら、ヴァイオラが招く。言われた通り、彼女の隣に座ると、後部に控えていたシザーリアが、シャンパン・グラスをサーヴィスしてくれた。

「本場シャンパーニュの品ではないが、ボルドーのスパークリングも悪くないようじゃよ。お姉ちゃんが馬車の周りをうろうろしとる間に味見したから、間違いない。さ、さ、お姉ちゃんもぐぐっといくがいい。甘ぁい香りが口ン中でしゅんわりして、大層気持ちええぞ。ウケケケケ」

 ほんのり赤らんだ顔を楽しげに微笑ませて、ヴァイオラはグラスをあおる。

 ぷはーっと大きく息をつき、口元を拭う仕草は豪快だ。しかしその目はトロリと潤み、フラフラと首が揺れていた。

 ――酔ってる。すごく。

 そういえば、さっきの食事の時も、食べるより飲んでいる時間の方が長かった気がする。なのにまたアルコールを摂取したとなると、泥酔してもおかしくない。

 よほど、ボルドーのお酒が気に入ったのか。それとも、飲まずにはいられないほど、ストレスが溜まっていたのだろうか。

 ――たぶん、前者。後者だとしても、原因はきっと彼女の持っている手紙関連。うん、きっとそう。

「うへへへ、見るがいい、お姉ちゃんが座って、我が立っておれば、圧倒的に我こそが身長の上で勝者じゃー。ざまあみさらせ〜。……うう、立ったままでおるの疲れた、我も座るぞ……の、のじゃ!? ば、ばかな! また急に、お姉ちゃんの方が背が高く見えてきたぞ……これは夢か、幻か〜……!?」

「ヴァイオラ、あなたは疲れている」

 ぽん、とヴァイオラの肩に手を乗せ、軽く引き寄せて、彼女の上半身を私の方に傾けさせる。その際に、彼女の手からシャンパン・グラスを引ったくっておくのも忘れない。

 ゆらゆら揺れていたヴァイオラの頭が、私の肩にコテンと乗っかれば、あとは彼女の紫色の髪を、そっと撫でてやればよかった。昔、小さな私に対して、母様がしていた寝かしつけ方だ。「うー」とか「あー」とかいう呻きが、やがて安らかな寝息に変わったのを確認すると、私は小声でシザーリアに命じた。

「出発させて」

 従順なメイドは無言で頷き、馬車の外の御者たちに指示を出した。

 ゴトリ、という重い音とともに車輪が回り始めた。それから、ゴトン、ゴトン、ゴトンと、馬車特有の規則的な走行音が続いたが、通常の馬車に比べて、その音はずっと小さく抑えられており、まったく不快ではなかった。

 これなら、ヴァイオラも眠りを妨げられることなく、お昼寝ができるだろう。

「……すひゃー……」

 幸せそうに緩んだ顔で、目を閉じているヴァイオラ。

 この穏やかな表情が、ディジョンに着くまで変わりませんようにと、私は祈った。

 

 

 リモージュの森の端に、日が沈んでいく。

 その真っ赤な輝きが失われていく様をちらと見てから、俺は眼下の馬車道に視線を戻した。

 森の中を横切るように整備された――と言っても、馬車が通れるよう、土を固めただけの――道。ここをもうすぐ、標的たちが通る予定だ。

 背の高い木のてっぺんに陣取り、船乗りの使う望遠鏡を使って、監視を続ける。早めの夕食にと、『肉のテン・サウザンド・ビィ・ブリッジ』で買ったカツレツ・サンドイッチをかじりながらのことだが、集中は切らしていない。――うん、これは美味いぞ……肉汁って男の子だよな……。

 一人前をペろりと平らげ、指先についたパンくずを舐めて処理していると、南側に砂埃のようなものを見出だした。

「お……来ました来ましたよ」

 望遠鏡を両手で持ち、砂埃に注視する。じっと見つめると、こちらに近づいて来る六頭の馬と、それらに引かれる立派な馬車――間違いない。時間もピッタリ!

 羽織っているマントをバサリと広げ、腰に挿している杖を引き抜く。長さ三十サントほどのシンプルな木の杖だが、柄に細い革紐がついていて、手首にくくりつけられるようになっている。

 これは、別に落としてなくしたりしないようにするためにつけているわけじゃない。もっと実用的な理由があるのだが、今の時点では、それの説明は割愛させていただこう。

 とにかく、敵はもうすぐ、俺の射程距離に入る。こちらの間合いで、先に仕掛けることが出来れば、圧倒的に有利だ。

 恐れるべきは、こちらの領域から逃げ去られてしまうことだが――標的たちは、女子供の集団に過ぎない。馬車より速く走って逃げることは、まずありえないだろう。

 つまり、先に馬さえ仕留めておけば、かなり余裕を持って、標的を攻撃できるようになるってことだ。

「……なら、問題なしだ。この森じゃ、誰も歌わない」

 スペルを唱え、杖を振る。

 編み込まれた精神力の構造に、風たちが応え――俺のいる場所を中心に、何かが広がった。

 

 

 数時間は、平和な旅路が続いた。

 ヴァイオラは私の肩で、むにょむにょ言いながら眠り続けているし、窓から見える景色も、のどかで争いの影もなかった。

 ずっと気を張っているのも何なので、持参していたヤン・デ・レの全集を読み進めることにした。デ・レは五千五百年代のガリアを代表する作家で、鬼気迫る感情描写が高く評価されている。――クラスメイトのミス・ヴァリエールは、ヤンの祖母にあたる恋愛作家、ツン・デ・レの作品を愛読しているそうだが、そちらもおすすめである。未読の方はぜひ手にとって頂きたい。

 やがて、車窓から田園や町並みが消え、青々とした木々が目立つようになると、私は本を閉じ、周囲を警戒する意識を一段階高くした。

 リモージュの森に入った。敵が私たちの行動に注意を払っているなら、きっと襲撃はここで行われる。

 日も沈みかけている。暗闇の森の中など、攻撃される側にとってはアウェーにもほどがある。馬車には、できるだけ速く通り抜けてもらいたいものだ。

 ガタタン、ガタタン、ガタタン。馬車の車輪が、硬い地面の上を駆け抜ける音だけが響く。

「ミス・タバサ。ミンス・パイはいかがですか?」

 ちょうど口寂しくなってきた頃に、シザーリアが銀皿に盛られた一口菓子をすすめてくれた。それをつまみながら、窓の外をちらと見る。風景は群青色に変わり、いよいよ日没が近いことがわかった。

 ガタタン、ガタタン、ガタタタン。

 と、不意に馬車が大きく跳ねた。

 ソファーから転がり落ちるほどではなかったが、テーブルの上の皿はひっくり返り、パイ菓子を床にばらまいた。

 今までは、こんな風に揺れることはなかったのに――どうして?

 疑問に思って窓の外を見ると、前から後ろへ流れていく景色が、やけに速く過ぎ去っていることに気付いた。

 つまり――馬車のスピードが上がっている?

「シザーリア。ヴァイオラをお願い」

 私は眠る妹をメイドに預け、御者台に通じる小窓に近付く。御者に、少しペースを落とすように言うつもりだったのだ。

 確かに速い方がありがたいが、ここまで速くする必要はない。一番優先されるべきは、無事にディジョンにたどり着くこと。その前に事故を起こされても困るのだ。

 私は小窓を開け、御者たちに声をかけようとして――。

 それができなかった。

 御者台に、御者はいなかった――ふたりともだ。

 ただ、手綱だけが宙ぶらりんになって揺れていて、勝手に馬たちのお尻を叩いている。そのせいで馬が興奮し、走るスピードをどんどん上げているのだ。

 私は、何がどうなっているのかわからず、辺りを見回した。御者たちはどこへ? いつからいない?

 ふと妙な臭いがして、私はある一点に目を向けた。鉄のような、嫌な臭い。御者台の椅子が、真新しい血糊でべっとりと濡れていた。

 これは――つまり、ふたりともすでに殺されている? そして、落馬した? 馬鹿な。人が落ちれば、馬車の中にいた私たちにだって、その音は聞こえたはずだ。それに、悲鳴は? おかしい、静か過ぎる仕事だ。敵が『孤独』だとして――いったい、どうやったというのだろう――?

 ――いや! 今すべきことは、そんなことを考えることではない!

 私は手を伸ばして手綱を掴み、暴走する馬たちを止めようとした。

 しかし、本来は大人の男ふたりでようやく制御できる六頭の馬を、私の細腕で抑えられるわけもない。手綱が手の平に食い込み、腕がちぎれるかと思うほどに激しく引っ張られた。これは、止めることはもうできない。

「エア・カッター」

 杖を手綱に向けて、スペルを唱える。直後、生み出された風の刃が、手綱と、馬車と馬とをつないでいる櫂を切り裂き、分離させた。

 馬車という重荷と、自分を叩く手綱から解放され、自由になった馬たちは、薄暗い森の奥へと駆けていき、やがて見えなくなった。

 そして、動力を失った、我々の乗る車輪付きの箱は、じわじわと速度を落としていた。おそらく、横転したり木に衝突したりすることもなく、このまま自然に停車できるだろう。

 当面の危機は凌いだ――しかし、根本的な問題には、これから立ち向かわなければならない。

「シザーリア、ヴァイオラを窓から見えない場所へ! 私たちは、すでに攻撃されている!」

 小窓から顔を引っ込め、早口でそう告げる。

 シザーリアも、私の様子からすでに察していたのだろう、ヴァイオラをかき抱いて、馬車の後部に退避していた。手には杖を持ち、臨戦体制をととのえている。メイドとは思えない、戦慣れした反応だ。

 ガタタン、ガタタン、ガタタンと、馬車はゆっくり進み続ける。完全に止まるまでには、もう少しかかりそうだ。

「シザーリア、馬車が止まったら、敵が姿を見せるまで、ここで篭城。

 いつでも魔法を放てるように、準備を――」

 しておいて、という言葉は、なぜか私の口から出なかった。

 ぱくぱくと、口だけは動いているのに、声が出ない。喉がおかしい? いや、違う。痛みも不快感もない。喉が震えている感覚もある――なのに、声がまったく、出てこない。

 ガタタン、ガタタン、ガタタ――――。

 ――――――――――。

 私の声だけではない。いろいろな音が、消えている。

 規則正しい車輪の音が、急にぷつりと消えた。ヴァイオラの寝息も、今は聞こえない。木々のざわめきも、野鳥の声も――音という音が、何もかも。

 これは、いったい……?

『きゅいきゅいぃ〜! お姉様、お姉様! 変なのね! この森、すっごく気持ち悪いことになってるのねー! きゅいきゅいきゅい!』

 突然頭の中に、慌てた声が響いた。

 それは、私のもうひとりの妹(できれば認めたくはない。人化状態で姉よりいろいろ大きい妹など、ナンセンスにもほどがある)というべき、シルフィードからの念話だった。

 普段なら彼女が慌てていても、ほとんど聞き流すのだが、今回は状況が状況だ。空を飛んで、私たちについて来ているシルフィードなら、この音が消えた異常の正体に気付いたかも知れないと思い、聞き返してみることにした。

『どうしたの?』

『風の精霊たちが黙らされてるのね! しゃべっちゃダメって、ヒトの魔法で押さえつけられてるの!

 この森の、半分の半分くらいの精霊がそれに従ってるのね! 精霊とおしゃべりするの、シルフィの楽しみなのに、お話ができないの! すごく気持ち悪いっていうか、もやってするっていうか……きゅい、なんか嫌!』

 精霊が黙らされてる?

 人間の魔法で、ということは――音を止める魔法、つまりこれは《サイレント》ということ?

 いや、普通のサイレントは、音を遮断して、効果範囲の外から音が入ってこないようにしたり、中の音が外に漏れないようにしたりする魔法。

 これは音の遮断ではなく、空間内部の音を消し去る効果を発揮しているみたいだから――おそらく、サイレントをベースにした、オリジナル・スペルと考えるべきだろう。

 しかも、この森の半分の半分をカヴァーしているとなると――効果範囲は、ざっと六リーグ四方にまたがるということになる。

 そんな超広範囲サイレントを使う意味は何だろう? 単純に考えれば、接近する時、音でこちらに気付かれないようにするためだろうけれど。

 少なくとも、御者たちは私がまったく気付かないうちに倒されてしまった。サイレントで御者たちの悲鳴や落馬音を消して、弓矢か何かで片付けてしまったのだろう。それをされてしまう程度には、この魔法は有効なのだ。

 もう、辺りは夕闇に支配されかけている。暗闇で視覚を、サイレントで聴覚を潰された状態で、暗殺者の攻撃に対処しなければならない――なるほど、これは厄介な相手だ。

『孤独』がメイジであったということは意外だったが、こういう攻め方を得意としているのなら、これまでの被害者が魔法以外の武器で殺されていることも納得ができる。サイレントを維持しながら、他の魔法を使うことはできないから、どうしてもナイフなどといった直接攻撃を選択しなくてはならない。

 敵の実態は、魔法と通常武器を併用することができる、ハイブリッドウォリアーだったというわけだ。意外、確かに意外だ――しかし、タネが割れてしまった以上は、対処のしようもある。

 まず、エア・シールドで馬車全体を覆う。この風の盾ならば、『孤独』が弓矢で撃ってこようと、接近して直接襲ってこようと、確実に身を守れる。

 直接来れば、敵の全身を風が切り刻んで、その時点で撃破に成功するだろう。弓矢の場合、撃ってきた方向がわかる――つまり、敵の現在位置を知ることができる。そしたら、馬車の影に隠れながら、その方向にウィンディ・アイシクルを連射。たぶん、それでカタがつくはずだ。

 大丈夫、勝ち目はある。敵は自分の魔法の使い方に、自信を持っているのだろう。しかし、魔法に関しては、私だって負けるつもりはない。

 これまでずっと努力して、魔法の腕をみがいてきた。父様から受け継いだ才能も、それなりにあると自負している。

『孤独』。あなたが私に魔法を使って勝負を挑むのなら、私も魔法でそれに応じる。

 私は、杖を持った手を前に突き出し、精神力を練り始めた。

 体の内側にある『力』を、イメージで固めて、どのような魔法として発現させるかを決定する。私を中心に、半径十メイルを循環する、薄く速い風の膜を想像し、その想像を固定して、杖の先に乗せる。

 そして最後に、ルーンを唱え、イメージを実体化させれば、魔法が発動するのだ。

(エア・シールド)

 そう、力を込めて口を動かし――私は、硬直した。

 イメージによって具体化された精神力を、杖に移動させる。そこまではいい。

 しかし、問題はそのあとだ。

(エア・シールド)

 ルーンを唱える――唱えようとする。しかし、その言葉は喉から出てこない。

 敵のサイレントによって、音が完全に封印されているこの森では、たとえ力無い囁きであろうとも、存在できないのだ。当然、当然――魔法の始動キーとして絶対必要な、呪文さえも、唱えられない。

 愕然として、私は自分の相棒である杖を見つめた。

『孤独』の狙いは、無音を利用して、こちらに気付かれないように攻撃することではなかった。いや、きっとそれもあるのだろう。しかし、もっと大きな、対メイジ戦においては無敵とも言える効果を狙って、彼はサイレントを使ったのだ。

 即ち。

 魔法が。

 魔法が。

(――使えない……)

 

 

(俺の場合、相手がメイジでさえあれば、その実力はあんまり関係ないんだよなぁ)

 そんなことを呟きながら(どうせ声にはならないのに!)、俺は左手に持った弓を、指で弾いていた。

(ドットでもラインでも、トライアングルでもスクウェアでも……口を塞がれりゃ、誰でも同じだ。これまで俺が仕留めてきた標的たちは、みんなそうだった。

 今回の標的……コンキリエ枢機卿とその護衛も、何もできずに終わる。俺のこのスペル、《無音(ミュート)》に対処できるメイジなんてのは、いない)

 木の枝にしっかり足を踏ん張って、弓を構える。杖は、左手の甲に革紐で固定してあった――こうすれば、《無音》を維持しながら、両手を自由に使うことができるのだ。

 マントの裏に吊り下げてある矢籠から、矢を一本取り出し、弓につがえる。狙うのはもちろん、斜め下、およそ百メイル先をノロノロと動いている、馬なし馬車だ。

(御者にはうまく当てられた。あの射撃で、距離感と風の具合も把握できたし、今度はさらに精密な攻撃ができる)

 馬車という大きな的の中の、御者台のところに開いている小窓に、狙いを絞る。薄いガラスを挟んだ向こうに、赤い縁の眼鏡をかけた、青い髪の少女が見えた。

 あれがきっと、情報屋の話に出てきた、ミス・タバサという護衛だろう。

 先が湾曲した、大きな木の杖を構えている。――可哀相だが、魔法を使おうという試みならば失敗に終わる。

 ミス・タバサの動きに注意しながら、俺は弓を引き絞る。ゆっくりと、弦と心とに、緊張を与えていく。

 やがて、少女は魔法が使えなくなっていることに気付いたのだろう、眼鏡の奥の目を驚きに見開かせて、体を硬直させた。

 その瞬間、俺は矢を放った。

 弦の震える音もない。矢が空気を切り裂く音もない。

 ただ無音で、粛々と――矢は銀色の直線を描いて、ミス・タバサの眉間に迫った。




今回の話、タイトルを『タバサのグルメ』にすべきかどうかで、ホントに迷った……。

サイレント使いという敵キャラのアイデアは、我が同名でPixivに投稿しておるファンタジー小説の主人公の能力を流用。
手抜きではないっ、リビルドじゃ!

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