コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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前回は二話連続投稿じゃったが、今回は一話。
よってお手軽に、ぽーいと投下するんじゃよー。


バッソ・カステルモールの確信/Kuolema kuuntelee/ルイズ・フランソワーズ暗殺計画

 急激に傾いていくアルコーヴの中。床は水平から斜めに、徐々に垂直に近付いていく。

 靴底の摩擦と、下半身の踏ん張りで体勢を維持できる限界の角度を、ついに越えた――廊下は長大な滑り台となり、俺とミス・パッケリの体は、滑り落ちていきそうになる。

「掴まれ、ミス・パッケリ!」

 俺はひと声叫んで、彼女の細い腰を、左腕で抱きしめた。それと同時に、俺の背中に回るミス・パッケリの腕――お互いの体がしっかり固定されたのを確かめて、杖を抜く――スペルを唱え、魔法を発動させる――この間、約一秒。

「フライ!」

 飛行の呪文は、廊下を果てしなく転落するところだった俺とミス・パッケリの体を浮かせ、空中にひとまずの安定を得さしめた。

「……助かりました、ミスタ・カステルモール」

「いや、礼には及ばない。――しかし、これはいったい、何が起きたのだ? 船が航行中に横転するなど、普通は考えられないが……」

 ミス・パッケリの言葉に応えながら、俺は改めて辺りを見回した。突然倒れた船体。床の角度は、およそ六十度ほどまで立ち上がり、そこでひとまず止まった。

 頭の中に、『スルスク』の全体図を思い浮かべて、傾きの方向を考える。どうやら右舷側が上昇したか、逆に左舷側が沈んだかしたものらしいが、その原因がいまいち想像できない。海を行く船であれば、浸水でこのようなことも起きようが、空を行く船では、まずあり得ないことだ。

「さしあたり、艦橋(ブリッジ)を訪ねてみてはいかがでしょう。船の運行に関しては、そこですべてを取り仕切っているはずです。

 トラブルがあった場合に、まず詳しい情報が集まるとしたら、そこではないでしょうか」

「ふむ、確かにその通りだ。それが一番手早いだろう。ミス・パッケリ、きみはどうする? マザー・コンキリエのところに戻るなら、途中でマザーの船室に寄っていくが」

「いえ、私も艦橋までご一緒させて下さい。これが事故なのか、それとも人為的な破壊工作なのか、それを確かめてから、ヴァイオラ様のもとへ赴きたいと思います」

「わかった。では、一緒に行こう」

「はい。私もフライを唱えますので、少々お待ちを」

 ミス・パッケリも、自分の杖を構えると、短く飛行呪文を詠唱し、宙に浮いた。

 俺たちは並んで、艦橋を目指した。傾いた時の揺れによって、天井のランプはほとんどが消えてしまっていたので、安全を考えるとあまりスピードは出せなかった。そうでなくても、斜めに傾いだせいで、船内が通常時とはまったく違う印象になってしまっている。まるで百年も閉ざされていた廃墟の中に入り込んでしまったかのようだ。

 そんな非現実的な世界で、俺は考える――先ほどのミス・パッケリの言葉を――彼女は、これが事故か、人為的な破壊工作かを確かめたいと言った。

 後者ということはあり得るのだろうか? 悪意を持った何者かがこの船に乗り込み、船体を傾けるほどの大破壊を行った――これは考え難い。乗船者は全員、厳重にチェックされている。テロリストの潜り込む余地はまったくないのだ。

 外部からの攻撃? それも難しい。今は夜間だが、だからこそ、見張り番が周囲に睨みをきかせているはずだ。不審な船が近付いてくれば、攻撃される前に警報が発せられるはずだ。

 となると、やはりこれは事故以外に考えられないが――?

「……着いたぞ。ここが艦橋だな」

 船長や航海士が詰めている、操船の中枢――その部屋は、我々がドア越しにでも中の様子を知ることができるほどに、混乱を極めていた。

「何とかして圧を下げろ! 水をありったけかけて冷却するんだ! なんなら風石を部屋から持ち出して、外に放り捨ててもいい! 暴発が怖くて触れない!? 馬鹿野郎、そんなこと言っている場合か!」

「高度、依然上昇中! 止まりません! 現在、二千五百八十メイル……メイン風石室、出力を落とせ! いや、完全に止めてしまっては駄目だ、最悪の場合でも、墜落は免れるように……」

「甲板、応答なし! 見張り台のディックとケビンも、沈黙しています!」

 俺たちはドアを蹴り破るように開けて、その喧騒の中に飛び込んだ。室内にいたシップマンたち全員の注目が、こちらに集まる。

「東薔薇花壇騎士団団長のバッソ・カステルモールだ! 船長、いったい何が起きている?」

「ああっ、ミスタ・カステルモール! 緊急事態です、非常に危険な状態です! 風石が暴走し、船を破壊しかけているのです! 船員たちも事態をおさめようとしてはいますが、なかなか……」

 髭面、太鼓腹の老船長が、顔を赤くしてまくし立てる。俺の知りうる限りでは、彼は三十年以上も空の上で過ごしてきた、一流の船乗りだ。それがここまで慌てているということは、やはり相当に深刻な事態であるらしい。

「落ち着け、船長。我々にわかるように、詳しい説明をしてくれ。具体的に、何が起こっているんだ? なぜ、この船はここまで傾いてしまっている?」

「は、はい、ご説明しましょう。……船体を浮揚させるための動力源である風石が、蓄えている風の力を急激に解放し始めたのです。何の前兆もなしに、突然に」

 船長は、斜めになった壁にかけられた、船内見取り図を指差して話を始めた。

「この図をご覧下さい。当船『スルスク』号は、船としては極めて巨大でありますから、たったひとつの風石室ではバランスがとりにくく、水平に浮かせることができません。

 そこで、船体の中心にメイン風石室を、そしてその周りに、姿勢制御用の四つのサブ風石室を配置することで、複数の点で船体を支えるようにしてあるのです。合計五つの風石室がお互いを補うので、非常に安定します。それだけでなく、仮に風石室がどれかひとつ不調に陥ったとしても、残りの四つで航行を継続できるので、安全面でも優れておるのですな。

 しかし……しかし、今回起こったのは……風石室の不調ではあるのですが……出力が低下したのではなく、逆に過剰になったがためのものなのです。右舷側の第三風石室、ここに搭載されている風石が、風の力を際限なく解放し、船の右側だけを吊り上げるように上昇させているのです」

「原因は何だ?」

「まったく不明です! 三十年間、このような現象には出会ったことがありません。

 風石は基本的に、扱いやすい安全な動力なのです。刺激を与えなければ、風の力を出すことはありません。自然に暴走するなどということは、まずないのです。

 風石室に詰めている船員が、取り扱いを誤った……という可能性もありません。ここまで風石を過剰に暴走させるには、絶えず刺激を与え続けなくてはなりません。具体的には、大きなハンマーで延々と叩き続けるとか、コークスなどの燃料で強力に加熱するとかいった方法が考えられますが、もちろんそのようなことが行われている形跡はないのです」

「加熱……と言ったな? 問題の第三風石室で、火事が起きているという可能性は?」

「ありません。むしろ、暴走中の風石に水を浴びせて、活動を弱めようと努力しているところです」

 となると――いったい、なぜ風石は暴走している?

「他に、考えられる原因は? どれだけ可能性が低くてもいい、まだ検証していないパターンを聞きたい」

 断固とした俺の問いかけに、船長はしばし沈黙し――やがて、ためらいがちにこう答えた。

「あまり、現実的ではありませんが……外部からの魔法による攻撃、という手段で、風石を暴走させることが可能です。

 風石室は、周りを頑丈な壁で囲まれておりますが、その壁を貫通するような強力な攻撃魔法が、外から撃ち込まれて風石を直撃したとなれば……今起きているような、まったく原因不明の暴走、という事態も、あり得るかも知れません」

「壁を貫通する攻撃魔法、だと? そんなものが使われていたら、風石そのものより先に、船体が大きなダメージを受けるのではないか?」

「その通りです、ミスタ・カステルモール。なので正直、現実的ではありません。

 しかし、しかし……わしは、あまり魔法というものに詳しくありませんので、適切なたとえができているかわかりませんが……昔、ライトニング・クラウドという魔法を得意とする風メイジに会ったことがあります。彼はその呪文を使って、鉄扉の向こうにいた敵を、扉自体には傷ひとつつけることなく、黒こげにしてみせたのです。どうやったらそんなことができるのかと聞くと、なんと雷は、金属に染み込んで、反対側まで突き抜ける性質があるのだという答えでした……。

 それと似たようなことが、今回の風石事故にも当てはまるのではありますまいか? 外部から、風石だけを標的にした、壁を突き抜ける魔法によるピンポイント狙撃が行われているのだとしたら? そういう魔法が、存在しているのだとしたら? いかがです」

「ううむ……外部からの狙撃……それも、船体の壁面を貫き、風石だけに害を与える魔法攻撃、か……」

 船長の熱弁に、俺は少し反応に困った。確かに、まだ検証されていない可能性を求めはしたが、さすがにそれは、無理が多い気がする。

 まず、そのような限定的な効果を持つスペルを聞いたことがない。船を傷つけずに、その奥の風石室までエネルギーを届けるというのは、はっきり言って困難だ――どのような系統で、どのような現象を起こせばそれが可能なのか、想像もつかない。

 次に、その攻撃をやらかしたメイジは、いったいどこにいるというのか? 『スルスク』にどうやって近付き、どこから魔法を撃ってきているというのか? 内部への侵入はあり得ない――ならば、外部から別の船で接近してくるしかないが、それを見張りが見逃すとは考えられない。

 つまり、外部の狙撃者説は採用に値しない、という結論になるが、だとするとやはり、話は最初に戻ってしまうのだ。なぜ、風石は暴走してしまったのか?

「……船長さん。ひとつ、お尋ねしてよろしいでしょうか」

 と、ここで、これまで沈黙していたミス・パッケリが、一歩前に進み出た。

「何ですかな? メイドさん」

「大したことではないのですが。この船にも、夜間の安全を守るための、寝ずの見張り番の方がいらっしゃるはずですね? 空賊などにそなえて、船の周りを常に監視している人たちが。

 その人たちは、今、どうしておりますか? この事故が起きる前に、不審な船が近付いてきているとか、そういった報告はしていませんでしたか?」

「ああ、そうだ、それも報告しておかねばならんかったんじゃ! ミスタ・カステルモール、さっきからずっと、伝声管で全船員に呼び掛けておるのですが、マストの上の見張り番ふたりが、まったく応答をしないのですよ。

 船が傾いたせいで、見張り台から転落したのか、それとも他に事故があったのか……確認のために人をやりたいところですが、風石室の事故の方が深刻で、とてもその余裕が……」

 なんだと?

「だとすると、見張り番が機能を失っているとすると……ミス・パッケリ」

「ええ。そちらを先に片付けられた、という見方もできるのではないかと」

 そういうことか。発見されるより先に、『スルスク』の目を始末して、それから船本体に攻撃を――。

「だとすると、やはり外部の……いや、待て、それでもおかしい。見張り番がすでにやられているとしても、敵の接近を報告する前にやられた、などということはあり得ないからだ。

 ここは周りに遮るもののない空の真ん中だ。どこから近付いてこようと、丸見えになる。攻撃が可能になる距離に入られるまでには、見張りは敵を発見しているはずだ。順序としては、見張り番が敵影を視認する、報告が行われる、それから攻撃がなされる、という流れでなくてはならない。

 見張り番を沈黙のうちに抹殺することは、理論上不可能だ……それこそ、敵が透明でもない限り……」

「いえ、ミスタ・カステルモール。実を言いますと、私、それが可能な人物に、ひとり心当たりがございます」

「何? そ、それはいったい――」

 私が勢い込んでミス・パッケリを問い質そうとした時だった。ガ・ガガン、と、船全体を痺れさせる轟音とともに、床が激しく上下した――女の子が遊ぶようなお人形の部屋を、思いっきり放り投げたら、同じような惨状が生まれると思う――テーブルも椅子も、空図もコンパスも、船長も航海士も船員も、そして俺もミス・パッケリも、等しく天井に叩きつけられ、艦橋の中を鞠のように跳ね回った。

 俺とミス・パッケリは、もともとフライを使っていたおかげで、激動する部屋の中でもかろうじて受け身を取ることができた。船長たちも、柱や窓枠にしがみつくことで、必死にこの大破壊を乗り切ろうとする。

 部屋の中をしっちゃかめっちゃかに引っ掻き回した上で、ようやく揺れは止まった――先程とは逆に、右舷側が下になるように傾いた状態で。

『艦橋、艦橋、応答せよ! 応答せよ! こちら右舷C7ブロックのリチャード機関士!』

 艦橋にいる全員が起き上がるのにも苦労している中で、壁から伸びている真鍮製の伝声管から、割れた声が飛び出してきた。

『応答せよ! こちら右舷C7ブロックのリチャードだ! 緊急連絡! 緊急連絡! 今しがた、第三風石室が爆発した! 繰り返す、第三風石室が爆発した!

 風石の暴走が臨界点に達し、風の力の全放出を起こした! この風石室はもう使えない! 大破し、修復不能だ! 風石も全部吹っ飛んだ!

 左舷の第二風石室の出力を低下させるよう、指示を出してくれ! でないと船体を水平にできない!』

「な、何てことだ……何てことだ」

 船長は顔を紙のように白くして、しかしそれでも事態の収集に努めようと、部下たちに向かって矢継ぎ早に指示を飛ばし始める。我々が訪れた時以上の喧騒が生じ、そこはまるで修羅の巷のような有り様となった。

「……ミスタ・カステルモール、行きましょう。情報は充分に得られました。これ以上ここに留まっていても、皆様の邪魔になるだけです」

 ミス・パッケリが空中で半回転し、流れるように艦橋を出ていく。俺は慌ててそれを追いながら、彼女の背中に、先程しようとした問いを投げ掛けた。

「待ってくれ、ミス・パッケリ。きみはさっき、この事態を引き起こすことのできる人物に心当たりがある、と言ったな? それはいったい何者なんだ?」

「それにお答えする前に、ひとつ確認を取りに行かせて下さい。時間はかかりません……甲板の見張り台へ行けば、私の予想が正しいかどうか、はっきりします」

 彼女は振り向きもせずにそう言って、傾いだ『スルスク』の薄暗い廊下を、甲板目指して漂っていく。

 その声色が、少なからぬ苛立ちを含んでいるように感じたのは、俺の気のせいだろうか?

 

 

 やはり、のんびりし過ぎていた。この事態に陥って、ようやく私は己の怠慢を悔いました。

 ヴァイオラ様のお世話を誰かに任せて、お暇を頂くべきでした。あのアーハンブラ城の事件の直後に、東方に向かい、セバスティアン様たちと対決しておくべきだったのです。そうしていれば、この『スルスク』号の事故は起こらなかった。この露骨な襲撃は、起こらずに済んだのです。

 ミス・ハイタウンの後任が、今、こうして襲いかかってきている。十中八九、間違いありません。それも、向こうにとって、極めて有利な条件で――航行中の船を、飛行中の風竜を、馬車の中の貴人を、馬上の敵将を――よく目立つ場所で、安心して移動している相手を攻撃することは、あの女性にとって十八番です。相手に視認されず、安全に仕事をするという手口も、彼女の――『極紫』の個性と一致します。

『極紫』。セバスティアン様の私設護衛集団『スイス・ガード』の一員で、火のスペシャリスト。

 同じ火系統の使い手として、教えを頂いたこともございます。『スイス・ガード』の中では、兄であるシザーリオに次いで、よく知っている人物であると言えるでしょう。

 そしてそれゆえに、私は彼女の戦闘スタイルを、よく存じております。その恐ろしさと、厄介さも、身に染みるほど。

「ミス・パッケリ。甲板に出て確かめたいこととは、いったい何だ?」

 後ろからついてくるミスタ・カステルモールが、焦れたように問いかけてこられました。彼の協力も仰ぎたいので、私は素直に答えます。

「見張り番の人たちが、亡くなっているかどうか。もし亡くなっているとしたら、死因は何か。それを調べたいのです」

「死因……?」

 甲板に至る押し上げ扉を開き、私たちは瞬く星空に包まれた、涼しい甲板へと出ました。左舷側を上にして、四十五度近い角度で傾いている広大な甲板の様子は、まるで趣味の悪い幻想画のようです。甲板から垂直に伸びている、太く巨大なマストは、三角形の帆をぐんにゃりと歪んだ形で垂れ下げさせていて、ひどく不気味です。

「船長は、見張り台はマストの上と仰っていましたね……」

 私たちはマストの天辺に設置された、大きな洗濯かごのような見張り台まで飛んでいき、中を覗き込んでみました。

 ――どうやら、幸運に恵まれたようです。見張り台のフレームには、太い丈夫なロープが取りつけてありました――危険な高所での仕事を、安全に行えるようにするための、船乗りの工夫――見張り番たちは転落しないよう、命綱をちゃんと腰に取りつけていたのです。

 そのため、船体が激しく揺れ、傾いても、彼らの体は――残念ながら、すでに亡くなっておりましたが――遥かな海原に落ちていかないで済みました。

 大柄な、男性船員の死体がふたつ。うつ伏せになっていたそれをひっくり返し、額をあらためます。

「……想像通りでした、ミスタ・カステルモール。ご覧下さい、これが、彼らの死因です」

「ふむ? ……何だ、この傷跡は? 眉間に小さな焦げ跡が……こっちの死体は、こめかみに同じ跡があるな。こんな小さな火傷で、彼らは死んだのか?」

 ミスタ・カステルモールは、私の肩越しに船員たちの死体を見て、いぶかしげな表情を浮かべています。確かに、その傷はごくちっぽけなものに見えました。大きさはせいぜいが直径二サントほど、ドニエ銅貨ぐらいのサイズでしかありません。

 しかし、見た目の地味さに反して、それは非常に恐ろしい、死の刻印なのです。

「ええ、ミスタ。この火傷が間違いなく死因です。小口径で、しかし高威力の火の魔法によって撃ち抜かれた痕跡なのですよ。

 彼らは頭の中を、一瞬で焼き尽くされて死んだのです。間違いありません。この傷跡を知っております……まったく同じ手口です。心配していましたが、やはりあの人物の仕業……」

 ため息とともに吐き出した言葉に、ミスタ・カステルモールは、たまりかねたように食いついてきました。

「ミス・パッケリ、あの人物とは誰だ? 先程から聞いていると、かなりはっきりとした確信があるようだが。

 そして、火の魔法で撃たれたと言うが、いったいどこから、どうやって撃ち込んできたと言うんだ? この広大な星の海の真ん中で、ふたりもの見張り番の目をごまかしながら、攻撃をなさしめた手段というのは、どういうものなんだ?」

「……ミスタ・カステルモール。あなたは、『極紫』という二つ名を持つ殺し屋の噂を、聞いたことはありませんか」

 私は、ゆっくりと、考えながら言葉を紡ぎます。

 危険に立ち向かえるよう、渡せる限りの情報を彼に渡す必要があります。しかし、この襲撃事件の裏にセバスティアン・コンキリエ様がいるという事実が露見してしまうことは、避けなくてはなりません。

 真実と多少の嘘をうまく組み合わせ、自然なストーリーを構築しなければ。

「『極紫』? いや、聞いたことがないな。かの『地下水』だとか、『公爵』トウゴウのような有名どころならわかるのだが……」

「無理もありません。それほど多くの仕事をしていない、闇の世界でも新参に近い人物だそうですから。

 でも、私はある縁から、その暗殺者のプロフィールを聞いたことがあるのです。我が主、ヴァイオラ・コンキリエのお父上であるセバスティアン様から、教えて頂きました……セバスティアン様は、ハルケギニア全体を相手に手広い商売をなさっていたお方ですから、裏の世界のことについても、相当詳しくご存知でした。

 世間話のような形で、裏の世界で活躍する暗殺者や怪盗、陰謀家について、おとぎ話めいたエピソードを語られることも、しばしばございまして……」

「ふむ、なるほど。あれほどの大商人ならば、そのような話を耳に挟んでいても不思議ではないな……それで?」

「『極紫』という暗殺者についても、彼は口にしておりました。船や馬車など、乗り物の中にいる相手を、姿を見せることなく殺害することに長けた人物であるそうです。

 被害者はいずれも、頭や左胸といった、致命的なポイントを焼き切られて殺されます。しかし、被害者のすぐ近くで護衛していた人たちには、誰によって、どこから攻撃されたのか、全く検討がつかないのだそうです。周囲にはまったく人影が見当たらず、火の魔法が飛んできた瞬間も、一切目撃されていないのです。暗殺者が実在している、と信じられる証拠は、被害者の死体と、死因である特徴的なコイン大の焦げ跡のみ……。

 誰が呼び始めたのか、あるいは本人が自ら宣伝したのか。いつしか、その不可視の暗殺者には、『極紫』という二つ名がつきました。世の資産家、権力者の間では、『極紫』に狙われたと知った時こそ、遺言を書くべき時だ――などという冗談も言われているそうです」

「そのような人物がいるのか……しかし、そいつは実際、どのような方法で殺しを実行するのだ? 姿が見えないとはいえ、実在しているのは確かなんだろう。どんな魔法を使っているにせよ、我々にも理解できるような仕掛けはあるはずだ」

「はい。セバスティアン様も、そう仰っていました。そして、彼なりに考えた見えない攻撃の正体を、私に教えて下さったのです」

「その、正体とは……?」

「火系統のオリジナル・スペル。それも、それ専門にカスタムされた、高度なスクウェア級の狙撃魔法であろうというのが、セバスティアン様の考えです。

 暗殺者の姿が見えないのは、目に見えないほど遠くにいるから。飛んでくる攻撃魔法が見えないのは、飛んでくるもの自体が非常に小さく、なおかつ激烈に速いからです。気付かれないのではなく、目にそもそも映らない……それが、『極紫』の特性なのですよ」

 私の言葉に弾かれたかのように、ミスタ・カステルモールは、辺りを見回し始めました。

 私も、ぐるりと周囲三百六十度の空を確かめます――もちろん、それは無意味。私の視力では、やはり周りには星しかなく、殺意の存在すらも感じとることはできません。

「つまり、ミス・パッケリ……見えなくても、どこかにいるのか? 岩影や梢に潜んで、弓を引き絞っているような、凄腕の弓兵(アーチャー)が、この夜空のどこかに?」

「はい。おります」

 殺意も敵意もまったくない、平坦でニュートラルな空。

 しかし彼女は、それに紛れて私たちを見つめている。

 そうでしょう、『極紫』――シモーヌ・ヘイス?

 

 

 星空の下に、じっとうずくまるように、一隻の船が浮いている。

 ラ・ロシェールの港で個人向けにレンタルしている、遊覧用の小型ヨットだ。推奨乗員数は五人以内という、とてもとても、ちっぽけな船。

 その舳先に、彼女は――シモーヌ・ヘイスは立っていた。

『極紫』の二つ名を持つ、『スイス・ガード』の一員。火系統のスペシャリストで、冷酷な暗殺者でもある彼女は、無言で、標的である豪華客船『スルスク』号を見つめていた。

 彼女の攻撃によって、すでにその船は軽微でないダメージを被っていた。右舷側の壁が内側から炸裂し、直径十メイルほどの大穴が空いている。船体全体が大きく傾いており、まるで瀕死のロバのようだ。

「……だが、まだ、殺しきれては、いない……。

 風石室は、全部で五つ……落とすには……あと四点、支えを砕く……必要がある……」

 凪いだ海に吹く弱い風のように、低くゆっくりとした口調で呟くと、彼女は杖の先端を、遠き『スルスク』へと向けた。

「お前たちに……恨みは……ないが……大恩ある……ミスタ・セバスティアンの……望まれた、ことである……。

 乗員全員……ここで、消えてもらう……お前もだ……シザーリア・パッケリ……。

 お前は、私に攻撃されていると……気付いているだろうが……それゆえに……対処も不可能だと……理解できよう……」

 シモーヌの視界に、見知ったメイド服姿の少女が入り込んだ。意思の強そうな灰色の目で、空を睨んでいる。

 かつての弟子である、才能あるシザーリアを標的に含んでも、シモーヌは一切動揺することはないし、罪悪感も持たない。

 彼女はただただ、セバスティアンの命令に粛々と従うだけである。シモーヌ・ヘイスという人間にとっては、リクエストを完遂する、ということがすべてであり、それ以外には、何にも興味を持っていないのだ。

 金も名誉も、愛情も友情も、セバスティアンへの忠誠より優先されるべきものではない――そういうメンタリティを、彼女は二十三年の人生の中で作り上げてしまっていた。

 ――シモーヌ・ヘイスという女性は、ガリア北部に領地を持つ、ラウトヤ子爵の長女として生を受けた。

 ただし、正妻の子ではなく、平民の妾とのあいだにできた子供であった。父である子爵は、シモーヌの存在が醜聞につながると判断し、彼女とその母である妾を、領地から遠く離れた山村へと隠した――口の固い猟師の老人に金を渡し、当面の世話を頼んで。

 そのため、シモーヌは己の出事を知らされず、ただの平民として育てられた。彼女が二歳になるかならないかの時に、母親が胸の病気で亡くなったため、家族といえるものは世話役の老人ひとりだけであった。寂しい幼年時代であったが、その時間がなければ、恐らく彼女は将来、スクウェア・ランクのメイジにまで成長することはできなかっただろう。

 長じるに従って、シモーヌは老人から、山歩きの仕方や、食べられるキノコの見分け方など、ひとりでも生きていける方法を、ひとつずつ、丁寧に教えられた。彼は無口な男だったが、自然の中で生き抜く術にかけては、天才的な素養と経験を有していた。その指導のもと、シモーヌは一種の自然児として、たくましく鍛えられていったのだ。

 十歳になった日からは、弓矢を使った狩猟のやり方を習い始めた。

 彼女は目視による空間把握能力と、指先の微細な感覚に優れていたようで、みるみるうちに射撃の才能を開花させていった。師である老人とともに、毎日のようにケワタガモ撃ちに出掛けていき、老人に勝るとも劣らない数の獲物を下げて帰ってくる。時には食用として、猪や鹿、熊、オーク鬼なども撃った。とにかく弓を引き絞り、矢を放つことを繰り返す日々が続いた――具体的には、五年ぐらい。

 シモーヌが十五歳になった時、師であり父であった老人が死んだ。しかし彼女は、特に困らなかった。生きていくための技術は、すでに充分身につけていたからだ。老いた亡骸を、谷に晒して鳥葬に伏した時に、ほんの少しだけ泣いたが、感傷はそれだけだった。彼女が人生の中で涙を流したのは、それが最後である。

 さて、そうしてひとりきりになったシモーヌ・ヘイスだが、彼女が完全なひとり暮らしを経験できたのは、老人の葬式からわずか一月の間だけだった。

 ある日、身なりのいい貴族の男が、彼女の山荘を訪ねてきて、そなたこそはかのラウトヤ子爵の末裔である、速やかに領地に戻り、貴族としての義務を全うせよ――と、意外な命令を下してきたのである。

 その男はガリア王国の高級官吏であり、主に爵位と領地の相続についての監督を任されている人物だった。シモーヌは彼から、自分の隠された身分を聞かされた――ラウトヤ子爵の妾腹の子であること。子爵によって母ともども追放され、山の中に隠されたこと。

 そして、そのラウトヤ子爵家が、断絶の危機に陥っているということも知った。流行り病によって、子爵一族の全員がほぼ同時に、命を落としてしまったのだ。

 子爵の正妻も、息子たちも、時を置かずに次々と死んでいった。子爵本人だけは、かろうじて持ちこたえていたが、それでももはや助かりようのないことは、誰の目にも明らかだった――覚悟を決めた彼は、リュティスから官吏を呼び寄せ、ラウトヤ子爵家の相続について、相談を持ちかけた。

 認知はしていなかったが、妾の子を遠方に隠してある。我が唯一の血縁者であるこの娘、シモーヌ・ヘイスにラウトヤを継がせて欲しい、と。

 官吏はそれを了承し、シモーヌを訪ねてきたというわけだ。

 本人確認はすぐに済んだ――子爵はラウトヤ家の家紋を彫り込んだ指輪を、妾に渡していた。それはシモーヌに受け継がれており、その証拠品の出てきたことで、彼女は正式に子爵家を継ぐ権利のあることを認められた。

 残念ながら、その間に父親であるラウトヤ子爵の命の火は失われてしまい、親子の再会は叶わなかったが、それでよかったのかも知れないと、シモーヌは思っている。もともと無口で、人との会話を好まないたちの彼女だったし、死の間際の父に会えたところで、どんな話をすればいいのか、想像もつかなかったからだ。

 そうして、山を降りて貴族になったシモーヌだが、はっきりきっぱり、嘘偽りも飾りつけも遠慮もお世辞もなく言うならば――貴族としての生活は、山での生活の何万倍もキツいものだった。

 きれいなドレス。着替えるのに十分も二十分も、ことによると一時間以上もかかるドレス。

 恥ずかしくない程度の礼儀作法。テーブルマナー、社交界での言葉遣い、話題選び。ダンスのステップ、カードゲームのルール、流行りの香水、行楽地。

 ガリア王国の歴史。地理。どんな貴族が有名で、どんな力を持っているか。ハルケギニアの歴史、地理。それぞれの国の力関係、法律、特産、軍備。

 領地経営。ラウトヤ子爵領はどんな商売が盛んか。どんな行事があり、どんな施設があるか。人口は、税率は、予算はどれくらいあるのか、どのような公共事業を行っているのか。

 ブリミル教の教え。戒律。始祖の偉大なる御技、魔法について。四系統にそれぞれの特性。どんなことができるか、スペルの組み合わせは効果にどう影響するか。

 三日で山に帰りたくなった。

 しかし、それを許されるほど、新参貴族のシモーヌの立場は強くない。虚ろな目で必死に自分の仕事をこなし、そのストレスを、余暇に山で狩りをすることで解消した。

 もはやそれは生きるための手段ではなく、趣味の範疇になってしまってはいたけれど、動物を撃って撃って撃ちまくることは、シモーヌの若くか弱い精神の均衡のために役立った。三つ子の魂百までということわざがあるが、実際彼女の人格は山での暮らし向きに出来上がってしまっており、それを矯正することはまず容易ではなかったのだ。

 しかし、射撃のための武器が、弓でなくてはならないというわけではなかった。貴族としてのたしなみとして、シモーヌは当然、魔法の使い方を学ばされた。彼女には火の適性があり、それは風系統と並んで、発射するタイプの攻撃魔法が多い系統だった。

 それを聞いた彼女は、大喜びで火魔法の練習に取り組んだ。発火、ファイヤー・ボール、フレイム・ボール、ファイヤー・ウォール――基礎を学び、応用を学び、簡単なものから難しいものまで、順番にスペルを習得していって――たどり着いたのは、失望だった。

 ファイヤー・ボールなんかでケワタガモを撃ったら、価値のある羽毛が全部燃え尽きてしまう。

 フレイム・ボールで鹿や猪を撃ったら、肉が大部分黒焦げになってしまう。ファイヤー・ウォールなど話にならない――というか、何でこんなに火の魔法って、光輝いて大きくて派手なものばかりなんだ? 大きさをもっと絞って、速度と貫通力を上げないと、まともに狩りなんかできないじゃないか!

 とにかくシモーヌはしょんぼりした。狩りの基本は、目立たず、素早く、正確に――であると叩き込まれて育った彼女であったから、派手な戦争用の攻撃魔法には、あまり馴染むことができなかった。十七歳でトライアングルに到達し、周りの人たちから立派だと褒められても、素直に喜ぶことができなかった。

 しかし、だからといって、魔法という面白い道具を使った狩りを諦めたわけではない。

 教科書に載っている、既存の攻撃魔法に見切りをつけ、シモーヌは独自に工夫を凝らして、狙撃に特化したスペルを編み出してみようと企んだ。

 目をつけたのは、ライトというスペルだ。文字通り、光を生じる魔法で、暗闇を照らす時などに使われる。

 シモーヌは、このライトの光を強力にして、しかも一直線に飛ばすことはできないかと考えた。まっすぐな光の線で狙うのは、鳥や獣の目である。強い光で獲物の目を眩まし、動きの止まったところを捕獲するという作戦だ。

 この直線光魔法は、ライトのスペルを少し組み替えるだけで、簡単に完成した。労力はほとんどなかったのに、実際に使ってみると、その威力は想像以上だった――光の矢はとにかく速く、とにかく正確で、とにかく静かだった。矢では届かない高さを飛ぶケワタガモも、容易く撃ち落とせる。しかも精神力をほとんど消費せず、実質上弾数は無限だ。

 威力は、獲物を殺傷するまでのものではなかったが、シモーヌは大満足だった。ホクホク顔で獲物を持ち帰りながら、この光魔法をさらに洗練しようと心に決めた。

 スペルを追加し、出力を高める。できれば、獲物の目を狙う必要を排除したかった。光は熱を持つ――影になっているところより、日向の方が暖かいのだから、これは自明だ――動物の毛皮や厚い肉、骨も内臓も貫けるような、高熱の光線を実現できれば、一番いい。獲物の急所を一瞬で焼き切り、発火することなく反対側に抜ける。そういうまったく新しい火魔法を作りたかった。

 とにかく光を強くすることに心を砕き、三ヵ月ほどで、一リーグ先の鋼鉄板を貫通できる光線を生み出すことに成功した。しかし、まだ無駄が多いように思えた。もっと精神力の消費を抑え、かつ高威力にできないか?

 彼女は、光の種類に着目した。赤い光は暖かく感じ、青い光は冷たく見える。その印象通り、色によって光の性質が異なってくるとしたら?

 実験に実験を重ねた結果。赤い光は、確かに赤に近付けば近付くほど、照射されたものの温度が上がることを発見した。不思議なことに、赤さを高めに高めると、最終的には光の色が見えなくなってしまったのだが、見えない光が熱だけをともなって獲物を撃ち抜く、という現象は面白く、シモーヌはしばらくの間、このウルトラ・レッド線を利用した狙撃を研究した。

 この成果は確かに、彼女の研究の成功例のひとつだが、しかしまだ完全に満足はしていなかった。ウルトラ・レッド線は高い攻撃力を備えていたが、発生する熱量も大き過ぎる。照射した部分の周辺にも熱が伝わり、かなり広い範囲を焼いてしまう。これではファイヤー・ボールと変わらない。もう少しスマートに、もっとさらに鮮烈な――実際に突き刺さる矢のような、そんな光を求めたい。

 そんな思いで研究を続けていた彼女が、最終的にたどり着いたのは。紫を越えた紫、極限の紫――ウルトラ・ヴァイオレットの領域だった。

 この紫という光も、その成分を突き詰めていくと、最後には目に見えない輝きになった。しかし、その性質はウルトラ・レッド線とはまったく違っていた。まず、それほど熱を生じない。照射された対象には焦げ跡こそできるが、その範囲は非常に狭く、本当に光の当たっている範囲だけが焼けるようだった。

 そして、熱が乏しい代わりに、殺傷能力が並外れていた。分厚い毛皮と筋肉を持つ大熊であろうと、硬い鱗を持つ火竜であろうと、この光線の前では薄い絹のハンカチ同然だった。どんな動物の体組織でも容易に貫き、絶命せしめる。これこそ始祖に与えられた魔法の究極、狩猟魔法の到達点であろうと、シモーヌは確信した。

 ――しかし、その達成感がシモーヌの頂点だった。ウルトラ・ヴァイオレット線による狙撃魔法を完成させた頃あたりから、彼女は徐々に体の具合を悪くし始め、三ヶ月も経つと、もうベッドから起き上がれないまでに衰弱してしまったのだ。

 何人もの医者が呼ばれ、手を尽くしたが、一向によくならない。そもそも、シモーヌがどういう病に冒されているのかを指摘することすら、誰にもできなかった。

 全身の倦怠感と発熱。強い吐き気。目は白く濁り、ほとんど見えなくなった。髪の毛が抜け、禿頭になってしまった。血液が黄色みを帯び、傷口がヒーリングをかけても治らなくなった。

 こんな異様な症状を呈する病気は、それまでハルケギニアになかったのだ。医者たちはこの新しい病を必死に研究したが、それが進まぬうちにどんどんシモーヌは弱っていく。

 彼女は病床の中で、恐怖し続けていた――彼女の血縁者は、皆が皆、病に倒れている。自分にも同じ運命の手が降り下ろされるのか、猟師の老人を葬ったような、孤独な死の谷へと自分も送られるのか――そう考えると、たまらなくつらい気持ちになる。

 やがて、意識が朦朧とし始め、一日のうちのほとんどを寝て過ごすようになった。覚醒している時間が短くなるごとに、彼女は自分が死に近付いていることを感じた。目を必死に開いたままでいようとしても、すぐに気絶同然の眠りが訪れる。もはや、彼女には何もできることはなかった。

 ――そんな時間が、どれくらい続いただろうか。

 ある時ふと目を覚ますと、枕元に見覚えのないふたり組がいた。ひとりは、鼈甲縁の眼鏡をかけた、紫色の髪の紳士。もうひとりは、異国風の装束に身を包んだ、真っ黒な髪の若い女だった。

 彼らは病人の前とは思えないようなくつろいだ様子で、何やら小声で話し合いをしていた。

「……で、リョウコ君。君の診断は?」

「まあ、予想通りだったね。典型的な放射線障害だよ。光魔法で狩りをして遊んでいたって、執事さんに聞いた時からそんな気はしてたけど。

 しかし、だとしたらすごいよ、このラウトヤ子爵は。ハルケギニアの知識の範囲で、ほとんど自分の工夫だけで、紫外線以上の危険な放射線を発生させる方法を編み出していた、ってことだからね。まあ、収束が不完全で、周りに散乱した光を自分で浴びているのに気付かなかった、というのはお粗末だけど」

「ふむ。つまり、役に立つ人材かね?」

「きっとね。研究者としてももちろんだが、戦闘のプロにもなり得る才能の持ち主だ。スカウトしといて、損はないと思うよ、セバスティアン」

 リョウコと呼ばれた女の言葉に頷いて、セバスティアンと呼ばれた男は、ぐっとシモーヌの顔を覗き込んできた。

「起きているかな、ラウトヤ子爵シモーヌ・ヘイス」

「……………………」

 口をきく元気はなかったが、首を小さく縦に振ることで、肯定を伝える。

「どうやら意識はあるようだね。結構だ。

 さて、今から君の体を治療して、健康な状態に戻してあげよう。ここにいるリョウコ君は医術のプロでね、治せない病気なんかないんだ。明日までには、君はまた元気に山に狩りに行ったりできるようになるよ。

 ただ……それをする上で、ひとつ頼みごとがあるんだよ。別に交換条件、という形じゃない。治ったあとで、君はそれを拒否しても構わない。だが、もし恩を感じる心があるなら、ひとつ考慮してみてもらいたい。

 ああ、頼みというのは何か、という顔をしているね。そうだそうだ、その内容を先に話しておくべきだったな……。

 頼みというのはね、ミス・ラウトヤ……君の病気が治ったら……僕たちの友達になってもらいたいんだよ。いいかな?」

 シモーヌは、何のためらいもなく頷いた。

 生き延びることができるなら、この運命の手から逃れられるなら、悪魔とだって仲良くしてやろう。そんな心持ちだった。

 ――果たして、セバスティアンたちは宣言通りに、シモーヌの体を治してみせた。

 ミス・リョウコの治療は劇的な効果を表し、わずか半日ほどで、シモーヌは立ち上がれるまでになった。抜け落ちた髪ももとに戻り、目に至っては、病気になる前よりクリアに見えるようになっている気さえした。運命の手は去り、健康が戻ってきた――この時点で、セバスティアンとリョウコのふたりは、シモーヌにとっての神となった。始祖ブリミルのご加護である水魔法が太刀打ちできなかった病を、こともなげに覆してみせる、そんな奇跡を見せた者たちを、他に何と呼べるだろう?

 シモーヌはセバスティアンたちから、友情を期待されたが、むしろ彼女は忠誠でもって彼らに報いた。セバスティアンたちも、最終的にはシモーヌを部下として雇い入れたい考えだったので、このことはむしろ好都合だった。

 素直にいうことを聞くシモーヌに、セバスティアンは神として、いろいろな神託を与えた。まず、彼女オリジナルのウルトラ・ヴァイオレット線狙撃魔法を、安全なものとして改善すべしと。指向性、収束性を完全なものとし、術者に一切光の悪影響が及ばないように、スペルを組み直せと指示した。

 そして、できあがったその魔法を、徹底的に極めるべく修行せよと命じた。他の誰と戦っても負けないよう、狙撃魔法を使いこなせるようになれと。

 彼女は愚直に、その命令に従い、研究と修行に明け暮れた。

 ただでさえ一線級であった実力を、めきめきと伸ばし続け――やがてシモーヌ・ヘイスは、『スイス・ガード』に迎え入れられることになったのだ。

 今の彼女は、平民の女猟師でも、ラウトヤ子爵でもない。セバスティアン子飼いの暗殺者であり、ロング・レンジなら右に出る者のない狙撃手である――。

 強い海風が、シモーヌの髪をはためかせた。やや堅めな、鉄灰色の長い髪。

 カミソリのように鋭い細い目が、さらに細まる。瞳の色は、氷河より冷たいアイス・ブルー。唇も横一直線に結ばれ、まるで雪花石膏(アラバスター)に刻まれた彫刻の顔のようだ。

 首周りには、狼の毛皮で作ったマフラーを巻いている――温度の低い船の上での仕事には欠かせないものだ――上半身を包むのは、同じく実用的な、ポケットの多いカーキ色のジャケット。ズボンも同色で、足元は耐久性の高い牛革のブーツ。

 そんな、まるで軍人のような装いこそ、『極紫』シモーヌ・ヘイスのトレード・マークであった。

「……次は……第四風石室を、狙う……その次は……第二……その次は……第五……最後に、第一風石室を……。

『スルスク』の見取り図は……事前に、手に入れてある……風石室の位置……船外からでも、寸分の狂いなく、わかる……。

 ……そこを私の魔法で……撃ち抜き……風石を暴走させて……落とす……簡単な仕事……」

 ジャキン、と撃鉄を起こして、シモーヌは愛用の杖を持つ両腕に力を込めた。

 左手で銃身のハンドガードを、右手で銃把を握り、銃床を肩にあて、三点でぴったりと固定する。

 引き金に人差し指をかけて、これで魔法の発射準備がととのった。

 ――シモーヌの杖は、一般に貴族が用いるワンド型や、スタッフ型のものではない。

 銃口があり、銃身があり、引き金も撃鉄もある、いわゆる『銃』を、彼女は杖として使用している。

 ゲルマニア製の狙撃用長銃、モシン・ナガン。全長百三十サント、ボルト・アクション単発式。精密加工の神様と呼ばれるシュペー卿の作品で、一丁で五千エキューは下らない、超高級な品である。

 だが、もちろんそれは、高級とはいえ平民の武器に過ぎない。サイズも大きく、重量もあるので、取り回しが悪い。普通の貴族なら杖に使うどころか、手に取りもしないだろう。

 それでも、彼女がこの平民の武器を杖として選んだのには、理由がある。

 とにかく、圧倒的に、狙いがつけやすいのである。

 銃身の向いた方向に、一直線に弾を飛ばすというコンセプトが、シモーヌの琴線に触れた。ワンドを片手で握って、振りながら魔法を撃つより、ずっと標的に集中できる。

 両足を肩幅に開き、美しい立射の姿勢を取る。頭を斜めにして、銃身の上にマウントしてあるスコープを覗き込む。レンズの中に、遥か遠くの『スルスク』の姿がくっきりと浮かび上がった。このスコープは、ミス・リョウコから譲り受けたマジック・アイテムで、その名も『遠見の望遠鏡』という。口径三サント、長さ十五サントというちっぽけな筒だが、中を覗き込めば、その直線上のどんな距離にでも、自由自在にピントを合わせることができる。そう、人間の視力が及ばないような遠くでも、目の前にあるように見ることができるのだ。

 狙うは、『スルスク』の舳先にある第四風石室。シモーヌは引き金を引くことで、銃の中に『装填』してあった魔法を放った――フレイム・ボールのような、発射後も意思の力で自由に操作できるタイプの魔法と参考にして、詠唱によってエネルギーを銃の中に溜めておき、好きなきっかけで瞬間的に発射可能にするというシステムを、彼女は自分の魔法に採用していた。

 モシン・ナガンの銃口から、音もなく発射された目に見えない光線は――ほんの一瞬で『スルスク』までの距離を駆け抜けた。

 スペルによって、ほんの少しの減衰も散乱も起こらないように束ねられた光は、船体の分厚い壁に当たっても跳ね返らず、屈折もせず、まっすぐに染み込んでいき、ただ前へ、前へと突き進む。

 接触した部分を高エネルギーで変質させ、破壊しながら、貫いていく。一メイル以上ある樫材の壁も、五サントの鋼鉄製シールドも、羊皮紙のようにぶち破り、その奥に鎮座していた風石塊に突き刺さり、風エネルギーの励起を促す――かくして、第四風石室でも風石の暴走が発生し、『スルスク』は再び、寝返りを打つように、空中でその身をねじり、傾け始めた。

 スコープ越しに、シモーヌの目には見えていた――更なる風石室の事故に、船体の傾きに、船員たちが慌てふためいている姿が。

 甲板にいたシザーリアと、その仲間らしい男が、素早く船内に戻っていくところが。

 彼らは必死に、ことをおさめようと努力するだろう。船員たちは、風石の暴走を止め、傾いた船を立て直そうと行動するだろう。シザーリアたちは、主たちを守ろうと、あるいは逃がそうと奔走するだろう。もしかしたら、襲撃者であるシモーヌを倒そうと、立ち向かってくるかも知れない。

「……しかし……すべては、無駄に……終わる……」

 撃鉄を起こし直して、彼女はひとり、呟く。

「距離という盾が……何より確実に、私を守る……。

 お前たちと私の間を……詰めることができるのは……我がオリジナル・スペル、《収束ガンマ線バースト(Kuolema kuuntelee)》のみである……運命の手……一方的な死しか……お前たちには、ない」

 第四風石室をさらに攻撃すべく、シモーヌは銃の狙いを定めた。

 ロング・レンジを得意とする狙撃手である彼女は、敵からの反撃を受けないよう、充分な距離を取って攻撃を仕掛けていた。広大なアルビオン=トリステイン海峡――船で移動する、獲物と猟師。『極紫』にとっては、最高に攻めやすい環境である。

『スルスク』号と、シモーヌ・ヘイス。二者はおよそ、六十八リーグの距離を挟んで、対峙していた。

 

 

 またしても、ぎりぎりと耳障りな音が響いた。

 そして、それが高まるに従って『スルスク』に新たな傾きが加わっていく。今度は舳先側が持ち上がっている――急激な角度の変化に、広大な甲板は海原のように波打ち、長大なマストは釣竿のようにしなった。係留用の太い綱がびゅんびゅんとスイングし、重い帆がひきつり、裂け始める。

「くそっ、また別の風石室が攻撃されたのか! これ以上船が破壊されては、アルビオンまでたどり着くことも危うくなるぞ!」

 俺は、暴れ狂うマストから離れながら毒ついた。

 船員たちを音もなく射殺し、船体を撃ち抜いて風石室を破壊する――これがミス・パッケリの語った『極紫』という暗殺者(マーダラー)のしたことであるなら、一刻も早くそいつを見つけ出して、始末しなければならない。

 しかし、俺の意気込みとは反対に、ミス・パッケリは逃げるように、船内へ通じる扉へ向かって一直線に飛んでいった。

「ミス・パッケリ、どこへ行く!? 敵が、『極紫』が外から狙ってきているなら、まずは見通しのきくこの場所で奴を見つけ出し、反撃するべきだ!」

 無論、この呼び掛けは手前勝手なものだ。彼女はあくまでメイドであり、騎士ではない。そもそも戦闘行為に参加する義務はないのだ――俺の仕事に手を貸してくれていたので、つい忘れがちになってしまうが。

 逃げたくなったのなら逃がしてあげるべきなのだ。むしろ危険が少ないよう、積極的に船内に戻るよう呼び掛けるのが、東薔薇花壇騎士としての務めではないか? いけない、急な展開に翻弄されているせいか、どうも頭が正常に働いていない。

 しかし、俺の言葉に対して、ミス・パッケリは冷静に、律儀に返事をしてくれる。

「反撃は不可能であると思われます。『スルスク』は、もはやスピードを出して航行できる状態ではありません。

 先程も申しました通り、『極紫』は充分な距離を取って、こちらを攻撃してきています。ノロノロとしか動けないこの船では、たとえ敵を発見できても、間合いを詰めることはできないでしょう」

「ああ、確かに、この船を敵に向かって走らせることは無茶だろう。

 だが、私にはフライの魔法がある。一リーグや二リーグの距離であれば、飛んでいって始末をつけることも可能だ……まさか、それ以上遠くから攻撃してきているというわけでもあるまい。私に任せてくれれば――」

 俺の反論に、ミス・パッケリはなぜか気の毒そうな表情を浮かべた。

「繰り返しますが、反撃は不可能です、ミスタ・カステルモール。

 セバスティアン様が分析したところ、『極紫』は常に、ターゲットと自分との間に、五十リーグから百二十リーグの距離を置いて狙撃しているのだそうです。今回もそうしているとすると、あなた様が敵のところにたどり着くまでに、『スルスク』は十回以上墜落させられることになるでしょう」

 彼女の言葉に、俺があんぐりと口を開けてしまったのは、別に不自然なことでも何でもなかっただろう。

「……私の聞き間違いか? 五十リーグから百二十リーグ……? メイル、の間違いではなく?」

「間違いなく、単位はリーグでございます。信じられないのも無理はありませんが、過去のデータから計算すると、どうしてもそれだけ離れて攻撃してくるとしか、説明のつけようがないのだそうです。

 ですから……ご理解頂けますね……我々がすべきことは、反撃ではなく逃走です。『スルスク』を放棄し、この巨大な船体自体を盾にして、救命ボートでアルビオンに逃げ込むのが、ベストな戦略だと思うのです。そうすれば、私たちが命を預かっている貴人の皆様は、生き残れる可能性が高くなるのではないでしょうか」

 はっとして、俺はミス・パッケリの顔を見つめた。そうだ、まずは守らなければならない方々のことを――特にシャルロット様の安全を考えねばならぬ!

「わかった、確かにきみの言う通りだ。急いで皆様に避難するよう呼び掛けねば。救命ボートの位置や使い方は、わかるかね」

「はい。乗船前にマニュアルに目を通しただけですが、操縦はそれほど難しくないようでした」

「よし。では急ごう……時間のない時に引き止めて、済まなかった」

「いえ、構いません」

 俺たちはフライで出せる限りの速度で船内に飛び込み、一直線に食堂を目指した。少なくともシャルロット様たちは、そこにまだおられるはずだ。

 ――飛びながらふと、得体の知れない寒気が背筋を撫でるのを感じた。食堂には、シャルロット様と一緒に、簒奪者の娘イザベラもいる。

 テロリストの襲撃による、船体が傾くほどの大事故――この特殊な環境を利用して、あの陰険な娘が何か大それたことを企まないだろうか。シャルロット様に危害を加えるような、恐ろしいことを。

 私とミス・パッケリは飛んだ。ほんの数百メイルに過ぎない食堂までの道のりが、ひどく長いもののように思えた。

 

 

「の、の、のぎゃーあああぁぁぁーっ!?」

 ごろんごろんころころころんと、我は転がる。クルデンホルフ大公国の伝統的な催し、チーズ転がし祭りのチーズのように転がり落ちていく。

 なんじゃこれ、なんじゃこのひたすら目の回るアトラクションは。なんの前触れも予告もなく、突然廊下が身を起こすように傾きよった。百メイル近くある廊下が、今やステキな滑り台じゃ。

 四十五度を越える傾きを前に踏ん張ってられるほど、我はバランス感覚に自信はないし、周りに引っ掴んで転落を防止できるような取っ掛かりもなかった。ゆえにただただ落ちていくしかない――うえええ目が回るー。

「のじゃっ!?」

 不幸中の幸いと言うべきか、我の肉体は固い壁に激突することなく、柔らかくて分厚いもんにファッサァと包み込まれる形で止まった。我が突っ込んだのが何かというと、くしゃくしゃのシーツとか洗濯物の山じゃった。リネン室に運ばれる途中で、この廊下の傾きが起き、運搬用のワゴンごとぶっ倒れてばらまかれたのじゃろう。うう、我としたことが、まさか汚れ物に命を救われるとは。

「ああっ、マザー・コンキリエ、ご無事ですか!?」

 上から突然降ってきた声に顔を上げると、船員が四、五人、床を四つん這いになりながら、こちらに近付いてきておった。我は体に絡みつくシーツを振り払いながら、そいつに問いかける。

「わ、我は大丈夫じゃ。それよりお前たち、これはいったい何が起きておる!? 嵐にでも巻き込まれたのか!?」

「はっ、お答えします! 風石室で、風石が暴走する事故が発生いたしました! そのせいで船体のバランスが崩れ、このようなありさまに……」

「風石の暴走事故じゃと? そんなことが起きるものなのか……んで、あとどれくらいで、この状態は直るんじゃ?」

「そ、それが……最初に暴走した第三風石室は、すでに臨界に至って爆発、大破いたしました。

 その上、さらに第四風石室が暴走を始めており、原因がわからないため、沈静化もできず……ひと言で言って、危険な状態です。墜落の可能性も出て参りましたので、念のため、お客様方には早急に、救命ボートへ避難して頂きたく存じます」

「えっ、えっえっ、つ、墜落じゃて!?」

 そ、それマジでヤバすぎじゃろ。

 今いる場所は、アルビオンからもトリステインからも離れ過ぎておる。ここで墜落などしようもんなら、深き海に沈んでしまい、永遠に発見すらされまい。そんなのは嫌じゃ――は、はよ逃げねば!

「救命ボート、と言うたな。それはどこに行けば乗れるんじゃ?」

「甲板後方にございます。この廊下をまっすぐ行って、突き当たりを右に行けば、一番近道でしょう。

 おお、そうだ、途中にファーザー・マザリーニの船室がございます。六号客室です……よろしければ、途中でファーザーにもお声かけを願えませんか。我々は、イザベラ陛下たちに事態を告げにいかねばなりませんので……」

「あっ、ふ、ファーザー・マザリーニじゃな!? わかった、確かに承ったぞ。彼と一緒に、先に救命ボートに行っておるでな!」

「よろしくお願い致します、マザー」

 敬礼をし、よじよじと慎重に廊下を降りていく船員たちを見送って、我は急いで兄様の船室に向かう。

 杖を出して、フライの魔法を唱えたので、もういくら床が傾こうと問題はない。滑るようになめらかーに船内を駆け抜け、六号客室を目指す。イザベラとかシャルロットはどーでもいいが、とにかく、兄様の命だけは救わねばならぬ。あの人は、こんなところで意味もなく死んでいい人ではない。

 六号客室にたどり着き、扉を開けて中を覗き込んで、我は悲鳴を上げた――室内を彩っていた調度品は残らず吹っ飛び、床の傾きによって下になっている一角にごちゃっと積み重なっておった。重そうなチェストも、大きなソファも、ゴーレムが蹴散らしたかのようにひっくり返っておる――そして、そのそばに、見覚えのある白髪頭の男性が、ぐったりと倒れておるのが見えたのじゃ。

「あ、兄様!」

 我は急いで、動かないその肉体に駆け寄ると、肩を揺すぶりにかかった。

 力なくがくがくと揺れる、兄様の頭。意識がない――たらりと、おでこの生え際からひと筋、赤い血が垂れた。

 え、おい、ま、まさか、まさかヤバめの怪我とかしとらんじゃろな。転んだ拍子に頭をぶつけたり、重いものにぶつかったりなんかして。頭の怪我は不穏じゃぞ――わりと軽く見えても、ひどく重い場合があったりする。

 ど、どうか目を覚まして下され、兄様! 我嫌じゃ、このまま起きてもらえんとか嫌じゃ!

 ありがたいことに、我が必死で呼び掛けを続けていると、兄様はぱっちりと目を開いてくれた。ううん、と唸り、少々めまいを起こしているご様子じゃったが、どうやら命に別状はなさそうじゃ。よかったぁ。

「う、うっ……ま、マザー? どうしてあなたがここに? それに、この部屋のありさま……いったい、何が起きて……」

「大変なのです、ファーザー。この船で、風石が暴走する事故が起きたらしいのです」

 目をしぱしぱさせながら問うてくる兄様に、念のためヒーリングをかけながら(額の怪我は、二サントほどのちっこい切り傷だけじゃった)、船員から聞いたことを伝えた。

「風石事故? ……ああ、そうだ、だんだん思い出してきました……床がひどく揺れて、急に傾き始めて……私はよろめいて、壁に叩きつけられたのだった……なるほど、姿勢制御用の風石室が暴走したせいで、船体のバランスが崩れたというわけですな……」

「そういうことですじゃ。今、この船は非常に危険な状態になっていて、復旧するどころかむしろ、悪化し続けているとのこと。

 ことによると、沈没するかも知れんのだそうです。というわけですので、早く避難を……救命ボートが甲板にあるそうですので、一緒に行きましょうぞ」

「わかりました。――いえ、その前にお聞きします。ミス・ヴァリエールやサイト君は……? ふたりはもう避難したのでしょうか」

「え? あー、我は存じませぬな。おそらく、船員たちが見つけ次第、避難するよう声をかけるでしょうから、あとから来るのではないでしょうか」

 どーでもいい連中のことだったので、適当にそう返事をしてしまったのじゃが、これが大きな失敗であった。

「なんと! それはいかん、まずはそちらの安全を確保してからでなければ、避難などできませんぞ!

 あのふたりは、アルビオンとの戦争を終わらせるための切り札なのです! 万一のことがあったら、トリステインの平和への希望が潰えてしまう!」

「ええっ!? ちょ、ちょ、兄さ……ファーザー!?」

 さっと杖を振り、フライを唱えたかと思うと、兄様はぶいーんと部屋の外へ飛んでいく――そ、それはええんじゃけど、向かう方向が明らかに甲板じゃないのは、ちと承知できんぞオイ!

「待った待った、ファーザー、それはいけませぬ! 船内はぐっちゃぐちゃで、またどんな風に床とか天井とかひっくり返るかわからんで、すっごい危険なのですぞ! 二次遭難とかしたら、どうなさいます!?」

「し、しかし! 私はミス・ヴァリエールたちの引率を任されているのです! 彼らを、マザーの仰るような危険な船内に置いたまま、自分だけ避難することなどできませぬ!」

 我は彼に追いついて、後ろから羽交い締めにして説得を試みるが、あーもうこの責任感と頑固さの塊のようなダンディめ、全然止まってくれようとせぬ!

 口には出して言えんけど、我にとっては兄様が危険にさらされることの方がたまらんのじゃ! さっさとお先に避難してくれい! ミス・ヴァリエールとか放っといていいから! というかどうでもいいしあんなピンク髪、むしろ死んでくれた方が都合がいい――。

「……んむ?」

 兄様の背中にぺったりくっついたまま、グイグイ引きずられていくうちに――我の頭の中で、あるひとつのアイデアが形をなしていく。

 1、我にとってミス・ヴァリエール邪魔。奴がいると、オリヴァー・クロムウェルを説得して戦争をやめさせる役目を譲らにゃならんかも知れんし、長期的にはロマリア教皇の座を争うライバルにもなりかねない。

 2、今、『スルスク』号は大事故中。船体大揺れ、ひっくり返ったりふんぞり返ったりでめっちゃ危険。転んで頭打ったり、調度品に潰されたりしたら死ぬかも知れん。

 3、ミス・ヴァリエール、たぶん今もまだこの船の中におる。

 以上、三つの条件から導き出される結論は――?

(あれ、もしかしてこれって……事故に見せかけてミス・ヴァリエール抹殺すれば、全部丸く収まる感じか?)

 そうじゃ、そうじゃよ。

 この大混乱の中であれば、我がミス・ヴァリエールの後頭部に、重くて硬い陶器のツボとかぶっつけて暗殺したとしても――誰かに目撃されない限り、事故として片付けられるはずじゃ。

 実際、それくらいの悲劇は起こりかねない環境じゃしのう、もしガチで船が墜落して海の藻屑と化してしまえば、ありとあらゆる証拠は失われる――こりゃイケる! 完全犯罪も夢ではない!

 まあ、兄様の言う通り、ミス・ヴァリエールが死ねば、トリステインによるアルビオン説得は困難になるじゃろうが、なぁに心配することはない。我がその任務を引き継いで、クロムウェルに戦争を止めさせるんで、結局世界は平和になるぞ。ガリアは後ろ暗いところを完全に隠匿できるし、我は栄光を掴めるし、兄様は対アルビオン政策に頭を悩ませんでもよくなる。全方位もれなくいい感じ!

 こ、こりゃあ躊躇してはおられん。世の中のありとあらゆるものの希望のために! ミス・ヴァリエールをぶっ殺しに行かねば!

「――わかりました、ファーザー。では、我もあなた様にお付き合いしましょう。ふたりで手分けして探せば、ミス・ヴァリエールがどこにいようと、すぐに見つけ出せるでしょう」

「なんと!? マザー、そこまでして頂くわけには……あなたにも危険が及ぶかも知れないのですよ!?」

「なぁに、どちらにせよ、ファーザーとミス・ヴァリエールが来てくれなければ、救命ボートを飛ばすつもりはありませんでな。待っているのも探しに行くのも、危険度は似たようなものです。ならば、ことが早く片付く方がよろしいでしょう」

「おお、おお……マザー・コンキリエ! 心から感謝いたしますぞ!」

 感激に涙さえこぼしながら、兄様は我を抱擁してくれた。うわーいあははは! もっとしてもっとして。そのままくるくる回ってもええんじゃよ?

「えっへっへ、なーにこれも聖職者としての義務でございますよ。さあ、時間を無駄にはできませぬ、さっそく二方向からミス・ヴァリエールとミスタ・サイトを探索しましょう。我は食堂の方を見てきますので、ファーザーは彼女らの客室を確かめてきて下され。

 もしそこにいなかったら、素直に甲板の救命ボートに移動すること。我も、食堂に探し求める相手がいなければ、同じようにします。これは、どっちか片方がミス・ヴァリエールたちを見つけ出して、救命ボートまで誘導したというのに、もう片方が知らずにあちこち探し続けて危険を招く、という事態を防ぐためです。よろしいですな?」

「了解しました。それではマザー、食堂方面の探索、よろしく頼みましたぞ。あなた様に、始祖のご加護がありますように」

「ええ。ファーザーにも、始祖のご加護がありますように」

 そう言葉を掛け合って、我々は別々な方向へと移動し始めた。

 兄様の姿が見えなくなってから、我はにんまりとほくそ笑む。うっふっふ、兄様も若者の心理には、ちと疎いようじゃのう。ミス・ヴァリエールやサイトのアホたれは、シャルロットの奴と顔見知りでそれなりに親しくしておる様子じゃった。ならば、メシを終えたからといって、すぐバイバイサヨナラで客室に引っ込むなんてことはあり得んじゃろうよ。意味もなく紅茶とかちびちび飲みながら食堂にねばって、無駄話とかし続けとるに違いない。

 そこに我が乱入して、言葉巧みにミス・ヴァリエールだけを連れ出す。少なくとも、あのピンク髪とふたりきりにならねばならん――目撃者なしで奴をぶち殺すには、人目は完全に排除しなければならんのじゃ。じゃからすまぬ、兄様。だーれもおらんであろう客室をキョロキョロ探して回ったのち、フツーに救命ボートに避難して大人しくしておいてくれ。あなた様には何の危険もないし、何の責任もない。

 そんな風に企みながら、明かりの消えて薄暗くなった廊下を、スピーディーなフライでびゅんびゅん駆け抜ける。途中で、さっき出会った船員どもが、苦労して斜めった廊下をよじ登っているのを見つけたので、すれ違いざまに「食堂の連中には、我が避難するよう言うてきてやるから、お前らは自分の仕事に戻るがいいぞー」と声をかけてやった。我がこれからすることは、兄様だけではなく、こいつらにも見られるわけにはいかん。食堂周辺に存在する人間は、ミス・ヴァリエール以外、百パーセント排除じゃー。

 それ以降は、運よく誰とも会わずに済んだ。そろそろ食堂に到着する――さて、どういう口実で、ミス・ヴァリエールだけを連れ出そうか、と考えを巡らせていると――。

「ああっ! ま、マザー・コンキリエ! ちょうどいいところに! 助けて下さい、イザベラが怪我をしたんです!」

 おおーうナイス。ひっじょーに目立つピンク髪を振り乱して。鳶色のきれーなおめめに涙を溜めて。

 我の獲物が、自分から罠へと飛び込んできよった。

 

 

「いっ……てえぇーっ……!」

 あたしは背中を丸めて、しばし激痛にのたうち回った。

 恐ろしいことが起きた。床が、いきなりぐぐっと傾いたのだ。

 椅子を傾けて、テーブルの上に足を乗っけていたあたしは、受け身を取ることもできずに、後頭部から床にダイブしちまった――ちくしょう、まだ頭の中で、星がチカチカしてる――頭とか首の骨とか折れてないよな? 美しいあたしの体の造形が、一部でもへこんで台無しになるなんてのは、単なる死より悲劇だよ。

「……大丈夫、イザベラ?」

 そんなあたしに声をかけてくれたのは、従妹のシャルロットだ。よかった、この子は平気そうな顔してる。どうやらあの状況でも、うまく立ち回ったみたいだね。さすがはもと北花壇騎士だ――あたしも、騎士並みとはいかなくても、とっさの時に怪我をしない動きができるように、少しは運動した方がいいのかねえ。

「ちょっと、あたま、うった。シャルロット……ルイズと、サイトは?」

「ふたりとも無事。打ったところを見せて……たんこぶができてるなら、ヒーリングをかける」

 あたしはその言葉に甘えて、痛む部分を彼女に向けるように転がった。

 ヒーリングの心地よい波動を感じながら、耳は少し離れたところから響いてくる「ナニ的確にダイレクトにひとのスカートの中に顔面から突っ込んで来てるのよ! この発情期のエロ犬! 子供には見せられない種類の犬!」とか「や、やめろルイズ! 偶然なんだ、悪気はなかったんだってだから腕ひしぎ逆十字固めはやめてやめて折れる折れる」みたいな声を聞き取っていた。うん、あっちは全然心配する必要はないね。

「ありがとうシャルロット、だいぶ楽になったよ……しかし、いったいこりゃ何が起きたんだい。この『スルスク』みたいな大きな船が傾くなんて、そうそうないことだよ」

「考えられる可能性としては……風石室の事故。バランス制御用のサブ風石室が、不調か、あるいは暴走したのだと思う。

 問題は、それが純然たる事故か、それとも人為的なものか、ということ」

「……何者かの襲撃かも知れない、と?」

「ガリアの王族と、トリステインの高級貴族。ロマリアの枢機卿。ハルキゲニアの重要人物が、この船には満載。誰が、どんな動機で襲ってきたとしても、不思議はない」

「ああ、確かに。厄介ごとが舞い込んでこない方がおかしいか。

 ……しかし、なかなか復旧しないね……この船のスタッフは、ガリアでも屈指の腕っこきどものはずだ。ただの事故なら、そんなにかからずに解決しちまいそうなもんだけど……」

 あたしが嫌な予感を抱えながら、狂った角度になった壁や天井を見渡していると――再び、ゴゴゴゴッとものすごい音がして、床がまた違った角度に傾き始めた。

「イザベラ、掴まって!」

 あたしはその言葉に、ほとんど反射的に従って、シャルロットの細い腰に抱きついた。そのまま、彼女のフライの魔法で、中空につり上げられる――直後、波打ち、ひび割れ始める床。重く巨大なテーブルが、まるで怒れる雄牛のように滑り、あたしたちのいた場所を駆け抜けていく。飛び上がるのが一秒遅かったから、あたしたちは轢き潰されていただろう。

「うわ、わっわっ! ま、また始まった! ルイズ、危ねえ!」

「ちょっ、ど、どこ触ってるのよバカサイト! 私のお説教ちゃんと聞いてた!?」

「聞いてる、聞いてたけど今それどころじゃねえだろ!? ……うわああテーブルこっち来たああぁぁ!?」

 うわー、スゴいねサイト。ルイズをお姫様抱っこして、荒ぶる床の上でテーブルとかから逃げ回ってる。あれが伝説のガンダールヴのパワーってやつかね?

「おーいサイト、なに低い方低い方に逃げてんだい。高い方に逃げな。そうすりゃ落ちてくるモノに追いかけられる気遣いはないよ。

 それか、ルイズさあ、あんたもフライ使いなよ。虚無だけじゃなくてコモンも使えるんだろ?」

「あっ、そ、それだ! サンキューイザベラ!

 ルイズ、タバサたちみたいに魔法で飛んでくれ! 俺、もう腕とかつりそう!」

「こらあああ! 私が重いみたいな言い方はやめてよね! と、と、とりあえず飛べばいいのよね……ふ、フライ!」

 逃げ回るふたりの上に、一度大きくバウンドして覆い被さろうとしていたテーブルをかろうじて避ける形で、ルイズたちは空中に飛び上がった。これまでとは違い、飛ぶルイズにサイトが持ち上げてもらう形になったが、あの懲りない平民の少年は、ご主人様の慎ましい胸にべったしと顔を押しつけているので、たぶんまた烈火のごとき折檻を受けるはめになるんだろうねえ。

 あーやっぱりやっぱり。タクト型の杖で、頭べちべち叩かれてる。よかったねサイト、ルイズの杖が、シャルロットのみたいなごっついのでなくてさ。

「……イザベラ。あなたも杖を出して。自分でフライを唱えて、浮いて欲しい」

「うん? ああそっか、いつまでも掴まりっ放しじゃ悪いね。すぐ唱えるから待ってな。……ところで、シャルロット。さっきからあんた、窓の外を気にしてるみたいだけど、どうかしたのかい」

 ちら、ちらと、目立たないレベルで食堂の窓に注意を向けている彼女に、囁くように聞いてみる。

 あたしがフライを唱え終えて、自分の体重を自分で支えられるようになってから、シャルロットはポツリと答えてくれた。

「事故にしては、やはりおかしい。船員たちが、まったく対応できていない。

 何者かの襲撃と考えて、準備をしておくべき。だから、窓が気になる……敵がアタックしてきているとしたら、窓の外に、敵の乗ってきた船なり、竜なりが見えるはず」

「……………………」

 その推定には、あたしも賛成だ。

 ヴァイオラやカステルモールが言ってた。船員たちは事前に入念なチェックをされているから、身分を偽ったテロリストが乗り込んできて、内部破壊を行うような可能性はないって。ならば、敵は――それがいるのなら――外から別の乗り物を使って接近してきて、攻撃を加えてきているということになる。

 食堂の窓は、ラウンジの窓に劣らないほど大きく、立派なものだ。食事をしながら、美しい星空も存分に楽しめる。今は船の傾きのせいで、窓のある壁が斜め下側になってしまっていて、空はほとんど見えないけど、この窓から外を覗けば、周りに不審な船がいるかどうかぐらいは、確かめられるはずだ。

 そろりと、シャルロットは空中を漂って、窓へ近付く。

 あたしは、その行動を彼女の後ろで見守っていた。――すると、突然に――背中にゾッと、粟立つような悪寒が生じた。

 簒奪者の娘として、何度も何度も暗殺の危機にさらされてきたあたしだからこそ、感じられた何か。死の気配に対する感性は、汚れ仕事を数々こなしてきたシャルロットにだって、負けるつもりはない――彼女の行く手に、得体の知れない、ヤバいものがある。

 気が付くとあたしは、「シャルロット、だめっ!」と叫んで、彼女の肩を掴んでいた。

 不思議そうに振り返る、シャルロットの横顔。その頬に――ぱっ、と、赤い花が咲いた。

 そして、その直後、あたしは右肩に耐え難い激痛を覚えた――悲鳴を上げ、杖を手放す。フライを維持できなくなり、そのまま落下する。

「イザベラ!」というシャルロットの叫びが、耳を打った。

 

 

「……あ。外した……」

 少し意外な思いで、シモーヌ・ヘイスは杖を下ろした。

 彼女としては、ターゲットとしてセバスティアンに指定された、イザベラ女王とシャルロット・エレーヌ・オルレアンの二名を、同時に抹殺するつもりだった。第四風石室を攻撃中、ふとスコープの視界をずらしたところ、大きな窓の中に、ガリア王族特有の青い髪が見えたのだ。

 食堂と思しき部屋の中で、イザベラとシャルロットはほとんど重なるような位置関係で存在していた。シモーヌには自信があった――あのふたりがあまり動かずにいるならば、一発の《収束ガンマ線バースト(Kuolema kuuntelee)》でまとめて貫くことができると。

 シモーヌは、スコープの中のシャルロットの眉間を狙って、引き金を引いた。彼女の計算では、発射された光の一弾は、まずシャルロットの頭部を貫通。そのまま、後ろにいるイザベラの胸にまで突き刺さるはずだった。それが、いったい何がいけなかったのか、イザベラがいきなり妙な動きをして、獲物たちの位置を微妙に狂わせたのだ。

 その結果、シャルロットには頬にかすり傷を、イザベラには、右肩を貫通する怪我を負わせたにとどまった。イザベラは落下し、窓枠の向こう側、シモーヌからは見えない死角に入ってしまった。シャルロットも、傷ついた女王を追って、見えない位置に移動してしまう。

 大失敗だ。千載一遇のチャンスを逃してしまった。カンのいい野生動物を撃っていた時にさえ、このようなことはなかったのに。

「……だが……うん、起きてしまったことは……仕方ない」

 悔しくはあったが、シモーヌは追撃を諦めた。

 別にこれで、全ミッションがおじゃんになったというわけではないのだ。彼女はとても切り替えの早い人間だった――当初の予定通り、風石室を破壊して、船自体を墜落させるお仕事を継続することにした。

 モシン・ナガンの黒い銃身が、第四風石室にあらためて向けられる。あと二発も撃ち込めば、ここの風石もまた、臨界に達して炸裂するだろう。

 

 

 我々が食堂にたどり着いた時、そこは血の海だった。

 まず、俺の目についたのは、顔の右半分を真紅に染めた、シャルロット様だった。横倒しになった大きなテーブルのそばにしゃがみ込んだ彼女は、まるで食事をしている最中の肉食動物のようだった――鮮血が目の下あたりからたらたらと流れ、頬を、口の端を、顎を汚している。よく見れば、白いブラウスの袖口や胸元にまで、点々と血の斑点が散っていた。

「しゃ、シャルロット様! そのお怪我は――!」

 俺はフライの速度を上げて、シャルロット様のそばへ近寄る。

 北花壇騎士として、過酷な任務に従事していた経験のある彼女が、船の揺れや傾き程度で怪我をするはずがない。あの血は、攻撃を受けた痕跡だろう。それも、彼女の反射神経をもってしても回避できないような強力なものか、あるいはまったくの不意打ちによるものでなければならぬ。

 俺は、恐れていたことが起きたのだ、と思った。あの陰険なイザベラが、この船の事故を利用してシャルロット様を亡きものにしようと企んだのだ。

 実際、この状況は暗殺には最適だ――たとえ他殺であっても、事故死に見せかけることが容易なのだから。憎悪する相手がそばにおり、手頃な武器が手の中にあれば、それで充分。ことを済ませたあとは、知らんぷりしていればいい。どうせまともな死因究明など行われない。

 しかし、しかしまさか、そんな卑劣で自分勝手な行動を実践する愚か者がいようとは! イザベラという女は、そこまで恥を知らぬ女であったのか!?

 そんなことを思いながら、怒りを燃え上がらせていた俺だったが、シャルロット様の前まで来て、想像のすべてが無責任な妄想に過ぎないことに気付いた。さっきまでは見えなかった位置、倒れた大テーブルの影に、イザベラが倒れており、彼女は明らかにシャルロット様より重い怪我を負っていたのだ。

 仰向けに倒れ、両目を閉じたイザベラの右肩から、血潮がじくじくと染み出している。彼女のまとう純白のイブニングドレスは、今や胸や腹のあたりまで真っ赤だ。顔色は青く、不規則な呼吸がいかにも苦しそうだった。

「しゃ、シャルロット様!? こ、これは……イザベラ陛下は、なぜこんなことに!?」

「黙って、カステルモール……あとにして。気が散る」

 こちらを振り返ろうともせずに、鋭い声でシャルロット様は言う。

 よく見れば、彼女はイザベラの肩に杖を向け、癒しの波動を送っているのだった。ヒーリングの魔法だ――しかし、シャルロット様の系統は風。水系統の回復魔法を、うまく扱える道理はない――出血を多少抑える程度で、傷を塞ぐ役には立っていないようだった。

「お願い、死なないで……目を開けて、イザベラ……家族を失うのは、もう、嫌」

 震える声でそう呟き、シャルロット様はヒーリングをかけ続ける。頬を流れる血を拭いもせず、眼鏡の奥の瞳には涙すら浮かべて。

 系統違いの魔法を使い続けているせいで、精神力を無駄に消費しているのだろう、その表情には疲労の色が濃い。しかし、彼女は治療を止めない。簒奪者の娘のために、己の命を振り絞るようにして、杖を振るう。

「……ミス・オルレアン。お手伝いさせて下さい」

 私の後ろから、ミス・パッケリが声をかける。この言葉には、シャルロット様も「ん」と頷いた。

「では、失礼いたします」

 ミス・パッケリは、窓枠にかかっていたカーテンを手際よく引き裂き、細長い布を作った。次にイザベラの体を起こし、ドレスをはだけさせ、右肩の怪我を露出させる。白い肌の上に、二サントほどの焼け焦げのような傷口が見えた――そこに柔らかいガーゼをあて、その上から先程の裂いたカーテンを、包帯のように巻いていく。

「これで少しは、出血が抑えられるでしょう。ミス・オルレアン、この上から治癒をかけ続けて下さい。

 しかし、やはりできるだけ早く、本職の水メイジに見せるべきですね……傷を塞がないと、根本的な解決にはなりません」

「わ、私、呼んでくるわ! 船医さんを探して、連れてくればいいのよね!?」

 ストロベリー・ブロンドの少女――トリステインのミス・ヴァリエールが、手を上げて叫んだ。

「お願いできますか、ミス・ヴァリエール?

 医務室は、船尾側にあるはずです。わからなければ、適当な船員を探して聞けば、助けてくれるでしょう。

 あるいはそうですね、ヴァイオラ様を……マザー・コンキリエを見かけたら、事情を話して連れてきて下さい。あの方も、一応は水のラインメイジです、イザベラ様の怪我を治療することは、充分可能でしょう」

「わかったわ、任せて。――イザベラ、シャルロット、もう少しの辛抱だからね!」

 そう言い置くと、彼女はタクト型の杖を振って、あっという間に食堂を飛び出していった。見た目に反し、なかなか活発な娘であるらしい(イザベラやシャルロット様のことを呼び捨てにしていたのは、少し気になったが)。

「……それで? 結局、ここで何が起きたのかね?」

 手持ちぶさたになってしまった俺は、同じくできることがなくて立ち尽くしていた平民に声をかけた。ミス・ヴァリエールのボディーガードだという、ヒラガ・サイトという少年だ。剣士らしいが、さすがにこの食堂では帯剣していなかったので、ひどくたよりなさげに見える。

 彼は、声をかけられてようやく、俺の存在に気付いたみたいな反応をした。びくっと肩を震わせて、弾けるようにこちらを振り向いたかと思うと、ぱちぱちとまばたきをしたのである。

 そして、問われてから三秒ほど遅れて、「あ、ええと」という不要な前置きを挟んで、ようやく話し始めた。

「イザベラが――じゃない、イザベラ陛下が、狙撃されたんです。窓の外から」

 狙撃――。

 その言葉に反応して、俺は窓の方を見た。今は斜め下を向いている大きな窓のひとつに、蜘蛛の巣状のひび割れが生じている。高速の弾丸が、そこから侵入したことは疑いようがなかった。

「弾は、タバ……ミス・オルレアンの頬をかすめて、イザベラ陛下の肩に当たったみたいです。窓に向かってミス・オルレアンが前、陛下が後ろって感じに並んで浮いてたんですけど、まずミス・オルレアンの頬から血がしぶいて、そのあとで陛下が墜落しました。みんなで陛下に駆け寄ったら、あんなひどい傷ができてて……」

「そうか。ありがとう、よくわかった」

 俺はサイト少年の説明に満足し、頷いた。間違いない、これも『極紫』という奴のしわざだ。イザベラとシャルロット様のどちらを狙ったのかはわからないが――あるいは、その両方か――見えない狙撃手は、船を攻撃するだけでなく、機会さえ許せば乗客を直接狙うこともするのだ。

 うっ、という呻き声がしたので、振り向くと、イザベラが意識を取り戻したらしく、目を開いていた。

「う、ぐ……いて、痛ぇ……ちくしょう、何だってんだい……。

 ああ? どうしたのさシャルロット、ひどい顔しちゃってさ。テーブルの角にでもぶつけたのかい……? まったくドジだよね、あんたは」

 ひひひひ、と、引きつるように無理矢理な笑みを浮かべ、品のない言葉を吐くイザベラ。怪我をしてなお、虚勢を張るところなど、いかにもあのジョゼフの娘らしい。

 なぜシャルロット様は、こんな奴のことを涙を流してまで救おうとするのか。俺にはまったくその気持ちがわからない――だが、今シャルロット様が感じていることはわかる。明らかにほっとしていて、強張っていた表情が緩んだ。そして「よかった」と小さく呟き――くたくたと、その小さな体を、イザベラの腹の上に重ねるように倒れ込んだ。

「あ痛っ!? こ、こら! 怪我人の上に崩れ落ちるバカがいるかい! ……って、こいつカンペキ気絶してるし。ほんと何なのさ、あいたたた……」

「ヒーリングの使い過ぎで、精神力を消耗したのでしょう。しばらくそのまま、休ませて差し上げるべきかと。もちろん、陛下も安静になさっていて下さい。変に動くと、血がさらに出ますよ」

「んん? お前は……シザーリア。おや、そっちにはカステルモールもいるね。いったいいつの間に来たんだい? ……っつーか、あたしどれくらい気を失ってた? 床が二回傾いたところまでは、覚えてるんだけど」

「つい二、三分ほど前です。陛下がお眠りになっていたのは……それほど長い時間ではないかと」

 今は、三回目の傾きが――舳先側の上昇が、起こりかけて止まったところだ。それぞれの傾斜の間には、それぞれ数分ほどの間隙がある。

「ふぅん? まあいいや。で? あんたら、何のためにここに来た? 逃げろ、とでも言いにきたか? それとも、この事故の原因と対策について、報告しに来たのかい?」

「両方です、陛下。この船は現在、危険なテロリストによって、回避不可能な攻撃を受けています。最悪の場合、墜落の危険もございますので、速やかに救命ボートに移動し、脱出の準備をととのえて下さい」

 眉ひとつ動かさないミス・パッケリのその言葉に、イザベラの眉がいぶかしげにぴくんと動いた。

 そして、彼女の不機嫌そうな眼差しが、ぐるりと俺の方を向く。

「どういうことだい? カステルモール。あんたの口から報告しな」

「は、ははっ」

 そういわれても、すでに必要なことはほとんど、ミス・パッケリが短くまとめて言ってくれていた。

 俺が言えたのは、細かい情報による補足だけだ。第三風石室が暴走し、大破したということ。その原因が、外部からの魔法攻撃によるものらしいということ。見張り番が射殺されており、外部からの遠距離狙撃が行われているのはほぼ間違いないということ。襲撃者の正体は、『極紫』という二つ名を持つ、プロの暗殺者である可能性が高いということ――。

 持っている限りの情報を出し尽くす。その間、イザベラは黙って聞いていたが、その顔は苦痛による歪み以外にも、あからさまな不機嫌さで、どんどん険しくなっていった。

「……わかったよ。よく調べてくれたね」

 俺が報告を終えた時、イザベラはそう言い、ふう、と大きく息を吐いた。

 そして、窓の方に首を向ける――蜘蛛の巣状のひび割れが目立つ、大きな窓に。狙撃手の覗き窓となっていた、透明なガラス張りの枠に。

「御者座の方角だ」

 無傷の左腕で、彼女は窓の外を指差した。

「あたしとシャルロットは、三メイルくらいの高さのところで浮いてた。狙撃魔法の弾が入り込んできたのは、あのひび割れの真ん中だろ? そこと、あたしらの浮いてた位置をつなげば……その延長線は、まっすぐに御者座に向かうだろう。狙撃魔法とやらが、まっすぐ飛ぶという前提での話だが、敵はその方角にいる。わかるね?」

 青い目でじっと俺を睨んで、染み込ませるように説明するイザベラ。

 こちらが頷くと、「よし」と呟いて腕を下ろし、その手のひらをシャルロット様の頭に乗せた。

 ガリアン・ブルー。何もかも違うイザベラとシャルロット様の、唯一の共通点である青い髪。イザベラは、寝息を立てるシャルロット様の髪を、丁寧に、柔らかく撫でた。

「野郎、シャルロットの顔に怪我させやがった」

 ぽつりと、穏やかと言ってもいい調子で、イザベラは呟く。

「この可愛い顔に。女の子なんだよシャルロットはさぁ……傷跡とか残ったらどうするつもりなんだい、ええ……? ふざけてんのか……許されるこっちゃないよ、許すわけがないだろうがちくしょう……」

 呟きはだんだん、苛立ちを帯びて緊張したものに変わっていった。弓をきりきりと引き絞るように。

 そして、最後には大きく息を吸い込み――雷鳴もかくや、というほどの怒声を、俺に叩きつけてきた。

「命令だッ、カステルモール! これをやらかした『極紫』とかいうクソ野郎を、速やかにぶち殺してこいッ!」

「ッ……はっ! かしこまりました、女王陛下!」

 俺は反射的に姿勢を正し、最敬礼でそのオーダーを受け取った。脳天から爪先まで突き抜ける、痺れるような感動とともに。

 イザベラの――いや、イザベラ陛下の、その有無を言わせぬ命令こそが。殺意に満ちた表情こそが。俺が求め続けていた、答えそのものだった。

 それは、どう見ても演技や偽りではない、本気の怒りだった。しかも、自分が怪我をさせられたから怒っているのではない――彼女は、悲惨な自分の肩の傷については、ほとんど意識していないようだった――イザベラ・ド・ガリアの注目は、ほとんどすべて、シャルロット様のお顔の怪我に注がれていた。

 シャルロット様を傷つけられたことに対して、あそこまで感情を剥き出しにして怒ることができる。あそこまで醜く、殺意を溢れさせることができる。

 ――シャルロット様のことを内心で憎んでいて、果たしてできることだろうか?

 確信した。俺の今までの疑いは、すべて間違っていた。少なくともイザベラ陛下は、シャルロット様の味方だ。それも、最も近しい位置にいる、最大の支えなのだ。

 ふたりはお互いを大切に思い合っている。片や、大怪我をした従姉を、精神力を空っぽにするまで集中して治療するほどに。片や、自分の大怪我を放ったらかして、従妹の顔の小さな傷にわめき散らすほどに。

 ――ジョゼフが背後で何かを画策しているかどうかなんて、もうどうでもいい。信頼できる相手がそばにいる以上、シャルロット様は安心だ。俺はもう迷わなくていい――シャルロット様に、そしてシャルロット様のお味方であるイザベラ陛下に、心からの忠誠を誓おう。復讐も革命も成すことができないが、ヴァルハラのシャルル様も、きっとこのふたりの少女が作る新しいガリアを応援せよ、と言って下さるだろう――魔法が優秀だっただけでなく、思いやりもあるお方だったのだから。

 さて。イザベラ陛下に忠誠を誓うとなると、先程の命令にいきなり逆らうわけにはいかないな。

『極紫』を倒す――ああ、やってやるとも。新たな素晴らしい主を得た今の俺には、できないことなんてない。

 数十リーグ離れた場所から、ピンポイントに人を狙撃できるような弓兵。普通に考えるならば、まず太刀打ちできない相手だ。だが、イザベラ陛下はその位置を――いる可能性のある方向を突き止めて下さった。

 ならば、ひとつだけ打てる手がある。『極紫』に接近し、こちらからの攻撃を届かせる方法が、ひとつだけ。

「ミス・パッケリ。サイト君。陛下とシャルロット様のことを、よろしく頼む」

 俺は、無傷なふたりにそう言い置き、食堂を飛び出していった。

 フライの速度を最大限にまで高め、歪んだ廊下を突っ切り、ある場所へと向かう。

『極紫』が、船を完全に破壊し尽くすのが先か。それとも、俺が奴に杖を突きつけるのが先か。

 一分一秒を争う、時間との戦いが幕を開ける。

 




今回はここまでー。
次回、『バッソ・カステルモールの敗北』(仮タイトル)を楽しみに待つがいいのじゃ。

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