コンキリエ枢機卿の優雅な生活   作:琥珀堂

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今回は二話同時更新なのじゃよ。
このひとつ前の話を読み飛ばしてはおらぬか? 大丈夫? ならば読み進めよ。


バッソ・カステルモールの逡巡/語らいの夜/襲撃

 ひとつのお部屋でふたりきり。男と女が、見つめ合ってふたりきり。

 手を触れようと思えば届く距離。抱き合おうと思えばできる距離。耳をすませば互いの吐息が、心臓の鼓動が聞こえそうな距離。

 兄様のために用意された、広くて立派な貴賓用船室の中。少し視線を動かせば、花束もありお酒もあり、ベッドもある。ドアには内側から鍵をかけ、サイレントもディティクト・マジックも使用済みなので、出歯亀もお邪魔虫も存在できぬ。我々を見守るのは、窓の外のふたつの月とお星様だけ。何このロマンチックな据え膳。始祖は我に、一晩かけてたっぷり兄様に甘えなさいと申してくれておるのじゃろーかうえへへへ。

 この絶好の機会を、無駄にはしたくない。ほのぼのした兄と妹のような関係を、今夜をもって乗り越えるのじゃ。まあそうは言うても、兄様は真面目くさった禁欲の人じゃからして、向こうからのアプローチはあり得ぬものと考えねばならぬ。つ、つまり、我の方から、勇気をふりしぼってユウワク的なことをするべきじゃろな。不肖この我、ヴァイオラ・マリア、オトナの女として頑張っちゃうぞ。

 と、ととととりあえず、今夜じゅうに兄様に膝枕とかしてあげられたら、一歩前進でミッション・コンプリートじゃと思う! 結婚するまでは、それっくらいが自然で正しい男女の距離感よな、うん!

「さて、マザー・コンキリエ。今回のアルビオンへの渡航についてですが……」

 我の内心の決意も知らず、キリッとダンディな欲のないツラで我を見つめてくれる兄様。実に魅力的じゃが、色っぽい雰囲気を演出するにはあまりにも合わぬ。

 ま、こちらとしてもいきなり、兄様とスキンシップなんてする度胸はないし、目下の解決すべき案件である『アルビオンで何をするのか打ち明け合って、互いの邪魔にならないよう計画を立てておこう問題』について話し合って、後々の心配を片付けておくのもよかろう。

「そうですな、お聞きしたいこと、お話ししておきたいことはたくさんありますが……まずは、兄様。なぜ今回のような重大な交渉の場に、あのミス・ヴァリエールとミスタ・サイトをお連れなさった?」

 我は軽い導入の話題のつもりで、不思議で不思議で仕方のなかったことを、トリステイン外交団団長である兄様に問い質した。

 クッションのきいた安楽椅子に腰を沈めた兄様は、半ば覚悟していたような、そんな諦めの表情を浮かべた――我の座る革張りのソファは、彼の安楽椅子と向かい合わせの位置にあるため、その顔はよく見えた。

「やはり、マザー・コンキリエも、その点を不自然に思われましたか」

「それはそうですとも。ふたりとも、まだ子供ではないですか。ミスタ・サイトに至っては平民で、簡単なマナーについても充分とは言えぬ様子でした。とてもとても、他国との戦争の調停などという、難しい任務につけるとは思えませぬ」

 あのアホサイトはたぶん、外交どころか、まともに貴族と会話したこともないんじゃなかろか。あってもせいぜい、魔法学院に通うような世間知らずのガキ貴族とだけじゃろな。社会人としての会話っつーか、お互いの立場とかお約束的なもんを全然理解してない感じじゃったし。

「どー考えても場違いな連中です。しかし、それにもかかわらず、兄様はあのふたりをお連れなさった。あなた様は仕事の上で、無駄なことをされるお人ではない……絶対、何か深い企みがあるのでしょう。

 アルビオンで何をなさるおつもりです? ミス・ヴァリエールとミスタ・サイトは、いったい何者なのです?」

「……それをあらかじめ伝えておかなかったことを、まず私は詫びるべきでしょうな。

 マザー・コンキリエ、ブリミル教の聖職者であり、ガリアの外交を担当しているあなたには、遠からず事情を打ち明けて協力を願うつもりでした。お話ししましょう。彼らが何者であるか……どのような力を持っていて、それがアルビオンとの交渉にどれだけの影響を及ぼすと考えられるかを。

 これから私の言うことには、一切の嘘はありませぬ。そのつもりでお聞き下さい……実は……ミス・ヴァリエールは、現代に蘇った、伝説の虚無の系統の使い手なのです」

 我は目を見開き、口元を手で覆った。静かな衝撃が、我の心を揺さぶり、寒気のように全身を突き抜けていった。

「そんな。……そんな……」

 我の口から漏れた声は、我自身でも落ち着かせることができないほど震えておった。

 ――真剣な眼差しの兄様にそれを言われた時、我の心に去来したのは。『馬鹿な、あり得ない』とか、『なんととんでもない情報じゃ』とかいう感想ではのうて。

 えーと、その――『おお、兄様……仕事のし過ぎで、とうとう……』という、涙を誘う種類の切なさであった。

 もとから頑張り過ぎなのはわかっとったからのう。顔の萎び方からも、健康について危惧はしておったが、ああ、ついにその時が来てしもうたのか。

 まあ、たとえ精神がすりきれてしもうたとしても、彼が我の大好きな兄様であることに変わりはない。むしろこれで、遠慮なく彼をロマリアに連れて帰れるわけじゃから、いい口実ができたとも言える。

 とりあえず邪悪国家であるトリステインから力づくで引き離した上で、これからの後半生をつきっきりで優しくお世話してやらねばと思いを新たにしているうちにも、彼は夢物語的な始祖復活劇をつらつらと語り続けておった。

「ミスタ・サイトは、ミス・ヴァリエールに召喚された使い魔で、神の盾と呼ばれるガンダールヴのルーンを持っております。剣を持たせれば一騎当千の戦闘力を誇り……異界からやってきた鉄の船、『竜の羽衣』に騎乗し、風竜を越える速度で空を飛ぶこともできるそうです。

 無論、その主であるミス・ヴァリエールも、これまでのメイジの常識を覆すような力の持ち主です。彼女が操る虚無魔法は、四大系統魔法のどれにも属さない、強力かつ不思議なものです。かつてタルブを襲ったアルビオン艦隊を、一瞬で全滅させる爆発魔法。先住魔法を含めた、ありとあらゆる魔法の効果を消し去る解呪魔法。私も、直にこの目で見なければ、とても信じることはできなかったでしょう」

「ほほう、左様ですか、兄様はご自身の目で、ミス・ヴァリエールの虚無魔法をご覧になりましたかー。へー」

「はい。最初にミス・ヴァリエールから、虚無の系統に目覚めたことを打ち明けられた、アンリエッタ姫殿下の立ち会いのもと、見させて頂きました」

 ――ん?

「あの、兄様? ……アンリエッタ様も、ミス・ヴァリエールの虚無をご覧になっておられる?」

「ええ。アンリエッタ様から相談を受けた私が、ミス・ヴァリエールを招き、目の前で《ディスペル・マジック》という解呪魔法を使ってもらい、確かめました。

 奇妙な魔法でした。錬金魔法で生成した真鍮のインゴットが、もとの石ころに戻され、風魔法で作られたウィンディ・アイシクルの氷の矢が、溶けるでもなく光の中に消え去り、コンデンセイションで産み出された水も、同じ運命を辿りました。あのような効果をもたらすことは、四大系統の魔法では不可能です。非常に勇気のいることですが、私はミス・ヴァリエールの使う魔法を、虚無であると認めざるを得ませんでしたよ……もちろん、非公式に、ですが」

 いや、問題はそこではない。虚無の再来も重要ではあるが、そんなことより、お疲れ気味の兄様以外にも、ミス・ヴァリエールを虚無魔法の使い手と認識しとる人がいる、っつーことがすごい気になる。

「アンリエッタ様が、ミス・ヴァリエールの虚無をお認めになったので? 兄様とふたりで、どちらもそれが真じゃと確かめられた?」

「ええ、おっしゃる通りです」

「……他には? ミス・ヴァリエールが虚無であるとご存じの人は……?」

「それが、困ったことですが、ゲルマニアのアルブレヒト三世閣下も、アンリエッタ様経由でミス・ヴァリエールの秘密をお知りになりました。

 トリステイン=ゲルマニア連合が成立してから、おふたりは非常に親しくしておられます。近く夫婦になるのですから、当然と言えば当然なのですが。

 閣下もまた、非公式な場において、ミス・ヴァリエールの虚無を確認なさいました。ものすごく、それはもうものすごく、難しい表情をしておられました。ミス・ヴァリエールをどう扱ってよいか、心から悩んでおられるご様子でした」

「……………………」

「本来ならば、速やかにロマリア宗教庁に連絡して、教皇聖下のご判断を仰がねばならない事態です。しかし今、我が国は非常に立て込んでおります……アルビオンとの戦争。ゲルマニアへの、姫殿下のお輿入れ。内政も私とヴァリエール公爵が、国王代理として回しておりますが、お世辞にも安定しているとは申せません。

 そんなトリステインで、虚無が目覚めた……公になれば、新しい波風の原因としかなり得ません。一番考えられるのは、ミス・ヴァリエールを女王に据えて、王権をヴァリエール家に移させる、という動きでしょうか」

「そうなると、まずいですかな」

「まずいですな。いえ、ミス・ヴァリエールが始祖の系統である虚無に目覚めた以上、最終的にはそうなるべきですが、今はよろしくない。国全体の心をまとめるだけのカリスマを持ちながら、しかし王となるための教育をまったく受けていない人物をいきなり玉座に座らせるのは、デメリットの方が大き過ぎます。

 まず、アンリエッタ姫殿下とアルブレヒト三世閣下の婚姻の意義が薄れます。おふたりの婚約は、はっきり言ってしまえば、外交上の契約に過ぎませんでした。トリステインとゲルマニアの二国で協力して、アルビオンに対処することを目的としたものでしたが、おふたりの仲が思いのほかうまくいっているので、その雰囲気に当てられてか、国同士の関係も良好なものになってきております。

 貿易が活発になり、旅行者も増加しています。トリステイン国民への意識調査を実施したところ、半年前までは落ち込んでいたゲルマニアへの好感度が、ここ二ヵ月で四十パーセント近く上昇しているのです。これは、非常にいい傾向です……商業、行政、軍事、あらゆる点で都合がよろしい。

 しかしこの関係も、ミス・ヴァリエールを王として発表したならば、容易に崩れ去ってしまうでしょう。トリステインは虚無を持つ強力な王のもと、結束し自立できるようになり、ゲルマニアを必要としなくなる。むしろ、もとからゲルマニアを一段低く見ていたお国柄です、反動で排斥思想が生じる可能性が高い。

 ゲルマニアはゲルマニアで、トリステインへの接し方を考え直さねばならなくなります。始祖の再来であるミス・ヴァリエールが女王として君臨すると、トリステインの精神的地位はゲルマニアより一段も二段も上になってしまう。軍事力、経済力といった物質的な力はゲルマニアの方が上であるにもかかわらず、です。そこに意識の歪みが生じることになりましょう……軋轢、と言った方が正確でしょうか……。

 トリステインは国力を増し、国際的にも一段上の立場に昇れましょう。しかし、それはハルケギニア全体を視野に入れず、自分の国だけの得を見るならば、という条件付きの評価です。世界平和を、国と国との友好を大事にするならば、もっと慎重にことを運ぶ必要があります」

「……兄様は、トリステイン王国の宰相であらせられますな? それでいて、トリステインがどかーんとレベルアップするチャンスよりも、ゲルマニアと仲良くすることを優先したいと仰る?」

「そうです。ブリミル教の教典にもありましたでしょう、マザー。隣人を愛せないことは、悲しいことだと」

「……………………」

 あーもう。

 我、兄様のこういう考え方ニガテじゃ。

 異なる国の、考え方も違う人たちと、苦労を背負い込んででも通じ合いたい、そして一緒に成長していきたい、っつー精神は、我みたいな利己的な人間には理解できぬ。

 誰かを踏みつけにして、エサとか犠牲的なものにするからこそ、人はでっかい利益を得られるのであって、お仲間増やしたりしたらその分、利益も山分けにせねばならんではないか。

 弱小トリステインが急成長して、ゲルマニア相手にふんぞり返りたいならそうさせてやればええんよ。我の属するガリアやロマリアは、その時はその時で損せぬよう臨機応変に行動するだけじゃし。損するのはたぶん、対等な同盟結んどるゲルマニアだけ。しかもかの国をアゴで使える立場になりゃ、兄様の負担もがっつり減って、ラッキーハッピー万々歳ではないか? そうしちゃいなよマイブラザー、と、イイ笑顔で提案したい。

 ――でも。

 それでもあえて、理想を追って苦難の道を選んじゃえるからこそ、兄様はカッコいいんじゃよなー。

『自分のまわりの人たちさえ幸せであればそれでいい』、『敵は容赦なくやっつければいい』、『自分の手の届かないところで助けを求めてる部外者たちなんか知ったことか』、そんなありきたりな考え方をする能無しどもとは全然違う。自分の故郷とは全然関係のない国や、自分のことを悪く言うアホ国民どものために、己の健康を犠牲にしてまで必死に働く兄様。政治家として宗教家として、とても強いお心をお持ちの兄様。我とはまったく違った、国と国との隔たりよりずっと遠いメンタリティをお持ちの兄様。

 そんな兄様じゃから、我、大好きなんじゃ。

 うん、大好き、なんじゃよ。

「――それに、ミス・ヴァリエールが王座についたとして、そこまで都合がよくトリステインが、世界の中で高い地位にのし上がれるなどとは、私はまったく信じておりません」

 真剣なお顔で、兄様は続ける。

「先程も申しました通り、彼女は王となる教育を一切受けておりません。王たる資格はただひとつ、虚無という力があるのみです。

 臣下を、国民を率いていくだけの心構えも、能力も備わってはいない。専制君主制の国家においては、王がどれだけ優れた人物であるかによって、すべてが決まります。未熟な王が、臣民たちに担がれているだけの国では、衰退は避けられませぬ」

 ついこの間までのトリステインのように、じゃろか。

「最低でも、そうですな、国政のすべてを自分で判断・決定できる知識と意思の強さが、王には必要です。それを育てる教育を施した上でなければ、ミス・ヴァリエールを王にするのは危険でしょう。

 政界というのは、マザー・コンキリエならおわかりでしょうが、様々な対立意見と、利益不利益が錯綜する場です。雨季の大河よりも激しく、乱雑に暴れる流れです。その流れを制御し、国益へと引っ張り込めるようなリーダーシップ……それを身につけてもらってからでなくては、トリステイン女王ルイズ一世の誕生を、私は容認できません」

 ――兄様の危惧は、我にもよーくわかる。

 ここしばらくのガリアでの政務のお手伝いで、ガチに、身にしみて理解できる。

 大臣どもも地方領主どもも各種権利団体もひとりひとりのヒラ国民どもも、それぞれ好き勝手、自分のことしか言わんもん。相手の話とか全然聞かん。絶対的な個人である王は、その意見の大渦に対して、あれはダメこれはダメ、こういう方針でいくから反対でも言うこと聞け、って、ビシッと言って取りまとめにゃならんのじゃ。しかもちゃんといい方に、国がよくなる方向に持っていかねばならん。失敗は許されない――何の社会経験もない小娘にできるこっちゃない、マジで。

「ミス・ヴァリエールには、知識と経験を積んで頂かねばなりません。そして、広く太いコネクションを手に入れて頂かねばなりません。これから数年は、そうして王としての基盤を固めることになるでしょう。ゲルマニア皇帝は、ミス・ヴァリエールをお認めになられた。マザー・コンキリエ、あなたにとりなして頂ければ、ガリア王室とのつながりも作ることができるでしょう……この旅の間だけの、社交辞令的な挨拶だけに終わらない、個人的な友好関係も」

「ミス・ヴァリエールを、今回の外交団に採用されたのは、そのためで? 他のトリステイン貴族の方々が虚無のことを知らない今のうちに、彼女がただの学生であるうちに、ガリア女王イザベラ様との顔合わせをさせるために?

 となると……となると、アルビオン行きも、同じ目的ということですかや? 神聖アルビオン共和国を降伏させるのではなく、その皇帝であるオリヴァー・クロムウェルに接見させ、交流を持たせるために……?」

「ああ、いえ、それは違います。あくまでトリステインとゲルマニアは、神聖アルビオン共和国を降伏させるべし、という立場です。けっして、皇帝オリヴァー・クロムウェルを承認してはおりません。

 むしろ、我々はクロムウェルに対する決定的な攻撃手段として、ミス・ヴァリエールをアルビオンへ連れていくのです。クロムウェルの心理状態が、トリステイン軍情報部の分析した通りのものであれば、おそらくミス・ヴァリエールをぶつけることで、より早い降伏を促すことができるでしょう……」

「と、おっしゃると……?」

「マザー。あなたはオリヴァー・クロムウェルが、自らを現代に蘇った虚無の系統であると語っている、という噂をご存知ですか?」

 我の体の中で、胃袋がびくん、と跳ね上がる。

「その噂をどう思います。事実だと思いますか。それとも、嘘だと思いますか?」

「さ、ささささあ、わ、我はそのような噂を初めて聞きましたゆえ、何とも申せませぬ。ししししかし、ミス・ヴァリエールが本物の虚無なら、もしかしたーらクロムウェルも本物? とか思っちゃったりなんかしたりなんかして?」

「答えは……事実、ではありません。クロムウェルは、虚無を名乗っているだけのニセモノです。

 彼が、系統魔法では不可能な、恐るべき死者蘇生の術を操ることは事実ですが、それは水の精霊から盗んだマジック・アイテム、『アンドバリの指輪』の力を借りた奇跡であるということが、最近の調査で判明したのです」

 兄様のお言葉が、我の胃を二発、三発と、キレーなパンチでどついて右往左往させておる。

 我がガリアにとって不都合な真実に、彼はものごっついギリギリまで近付いておった。ヤバい、トリステインの情報部、こんなにも優秀なんか。『アンドバリの指輪』のこと、もう知られとるとは思いもせなんだ。

 この時点でじゅーぶんダメージなのに、ステキに真剣に仕事に取り組む兄様、我の内心など知りもせず、更なるアタックを繰り出してこられる。

「……しかし、もともとただの僧侶に過ぎないクロムウェルが、水の精霊から指輪を盗み出せるはずもありません。ラグドリアン湖の底から指輪を持ち出す実行力を持った何者かが、クロムウェルのそばにいたはずです。

 しかし、その共犯者は、一切アルビオン革命に姿を現しておりません。あくまで有名なのは、権力を手に入れたのは、オリヴァー・クロムウェルただひとり。

 この事実から、アルビオン革命そのものが、レコン・キスタとはまた別の、強大な実力を持った組織あるいは個人によって計画された――目に見えている形とは全く違う真相を持つ、謎多き陰謀であるのではないかと、我々は考えました。クロムウェルはあくまで、指輪を与えられただけの道化役者。指輪を与えた黒幕に言われるがままに、自分の役割をこなしただけの、意思のない操り人形です」

「……そ、その、クロムウェルを操った黒幕っちゅーのは、どこの誰が、もうお調べで?」

「いえ、残念ながら、まだ。黒幕の真の目的が何であるのかも、未だに不明です。

 アルビオンの王座、ではないでしょう。それはクロムウェルのものになっていますから。単純な利益とも考えられますが、この革命と戦争で金銭的な得をした組織、団体をリストアップしても、それらしいものは見つからず……もし、本気で聖地を目指そうとしているとか、ただ世の中が混乱するのが見たいとか、そういう思想的な動機で動いているのなら、まず発見は不可能でしょう」

「そ、そうでございますか。そりゃーよかっ……ゲフンゲフン、残念でございますな!」

 ちょっぴり、ほのかーにホッとできた。ガリアにとって最悪の段階までは、まだ至っておらぬようじゃ。

 じゃが、しかし。こいつはまずいぞ。兄様がオリヴァー・クロムウェルの正体について、そこまでご存知で――しかも、それを知りつつミス・ヴァリエールをアルビオンに連れていこうとしとるとなると――彼のなそうとしておる作戦がどういうものか、うっすら見えてきてしまう。

 そしてそれは、我にとってひっじょーに都合の悪いもの――の、はずじゃ。

「さて、アルビオン革命の重要な小道具となったマジック・アイテム、『アンドバリの指輪』についてですが。どうやら現在、クロムウェルはそれを使えない状態に陥っているようなのです。

 これはアルビオンを包囲している艦隊の交戦記録と、ハヴィラント宮殿に潜入させてある草からの報告を統合して出した結論です。クロムウェルは『アンドバリの指輪』の力によって、味方に死者が出ても、それを蘇生させることができるはずなのに、ここ数週間はその蘇生の奇跡を、一切行っていません。

 アルビオン軍では、包囲艦隊との戦闘で兵が死亡した場合は、死体をロンディニウムに輸送させていました。そこでクロムウェルが、華やかな虚無の儀式を執り行って、蘇生の奇跡を起こすわけです。そうして不死兵となった死者たちを再び前線に送り返すことで、戦力を維持していた。

 なのに、最近では死者が出ると、普通に埋葬してしまうというのですな……もちろん、棺をロンディニウムに送る手間もかけさせません。

 アルビオン軍の人員は徐々に減り、包囲艦隊への攻撃もかなり弱まっております。兵力を温存しているとか、撤退を始めているとかではなくて、純粋にヒトが足りなくなっている様子なのです。ハヴィラント宮殿にこもるオリヴァー・クロムウェルも、日に日に焦りと苛立ちを募らせているようで……要するに、何もできずに追い詰められているらしいのですな。

 彼が『アンドバリの指輪』を持っているとしたら、この態度はおかしい。彼は我々との戦闘を継続しなければならないのです……ならば、兵士はひとりでも多く欲しいはず。指輪の蘇生能力をフル活用して当然なのです。なのに、現実には逆に、蘇生を行わなくなってしまった。

 これは、クロムウェルが『アンドバリの指輪』の力を使えなくなってしまった、ということを意味しているのではありますまいか。指輪が力を使い果たして、役に立たなくなったとか……何か黒幕の不興を買って、指輪を取り上げられてしまったとか……具体的なことはわかりませんが、少なくとも、今のオリヴァー・クロムウェルが、皇帝という肩書きを持つだけの、ただの中年男に過ぎないということは間違いありません。

 それも、周りの国々から憎まれ、狙われている中年男です。兵は消耗し、兵糧も補給できず、命綱の『アンドバリの指輪』も使えなくなった、いつ限界を迎えてもおかしくない、本当に哀れな境遇にいる、ただの人間……それがオリヴァー・クロムウェルなのです。

 この状況が今後も続くなら、我々は包囲艦隊への支援を欠かさないだけで、アルビオンを降伏に追い込むことができるでしょう。しかし、私はもっと、速やかにことを解決する作戦を取りたいのです」

「ミス・ヴァリエールを……本物の虚無を、クロムウェルに会わせることで、ですかや?」

 我が、震える声で発した問いに、兄様は無言で頷いた。

 ヤバい。ヤバいヤバいヤバい。これほんとーに我が危惧した通りの展開になっとるぞ。

 はっきり言っちまうと――兄様、我と同じ作戦を企てておられる!

「オリヴァー・クロムウェルは、現状をどう見ているか? 恐らく絶望視しているでしょう。もともと、ただの僧侶に過ぎなかった彼には、国の危機に真正面から向かい合う意思の強さなどありません。

 よしんば、それができるだけの強さがあっても、実際的な力を持っていない。アルビオン軍は崩壊寸前、『アンドバリの指輪』も使えない、政治的な駆け引きでこちらに譲歩を迫る狡猾さも、持ち合わせているとは思えない。彼がまだ降伏しないのは、ただの意地か、あるいはしばらく持ちこたえれば、逆転の目を出せるという希望を持っているかのどちらかです。

 前者である可能性は、あまり高くありません。将来にジリ貧以外の展望がないのなら、こちらが降伏条件についてある程度の譲歩をする用意がある今のうちに、さっさと決断を下しているべきだからです。クロムウェル自身の性格から判断しても、苦労しかない王の地位に死ぬまでしがみつくよりは、こちらの提案に甘える選択をするだろうと思われます。

 後者……しばらく耐えることで逆転を狙っている、という可能性の方が、情報部での評価は高いものでした。自国での食糧の増産に期待している、という、楽観的な見方もありましたが、よりあり得るのは、クロムウェルの背後にいる何者かによって、支援がなされる予定がある、という見方です。

 もし、その支援が本当に約束されていたなら、クロムウェルは窮状に屈することなく、戦争を続けるでしょう。もし、黒幕が本当に、クロムウェルへの支援を実行する意思があるのなら――逆に我々が、トリステイン=ゲルマニア連合が、危機に陥ることもあり得るかも知れません。黒幕は、『アンドバリの指輪』一個をクロムウェルに与えただけで、六千年続いたアルビオン王家を滅ぼしてしまった。今後、クロムウェルにどのような助けがもたらされるにせよ、それは国のひとつやふたつを、容易に傾けるとてつもないものであるはずだ、と覚悟しておかなければなりません。

 それだけは阻止しなければなりますまい。アルビオンにまつわる戦役をここで終わらせ、未来に起きるかも知れない戦禍を、未然に防がねばなりますまい。

 そのためには、なるべく早く、黒幕からの支援がなされる前に、クロムウェルの心を折り、降伏させなくてはならないのです。本物の虚無という、ハルケギニアに住まうすべての人間にとって、敬意の対象となる力を示すことで、それを行います。

 クロムウェルの背後にいる何者かが、どれだけ強大な力を持っていようとも。始祖の再来である虚無の使い手、ミス・ヴァリエールの威光に勝れる道理はありません。

 すでに、兵力、資金力において、アルビオンは我々、トリステイン=ゲルマニア連合に劣っています……そこにさらに、虚無の使い手という宗教的なシンボルから『否』を突きつけられれば、クロムウェルはどう思うか?

 彼を操っていた、黒幕の方がまだ強いはずだと、揺るぎない信頼を保てるでしょうか? それとも、さすがに虚無まで敵になっては、もうどうしようもないと、白旗を上げざるを得なくなるでしょうか? マザー・コンキリエ、あなたはどちらに、天秤が傾くと思われますか?」

 我は、その答えを口にできない。ただ、沈黙のまま、兄様を見つめるのみじゃ。

 じゃが、頭の中には、こうなるに違いないと確信を持って言えるヴィジョンは浮かんでおる。

 ――クロムウェルは降伏する。ぽっきり心を折って、ミス・ヴァリエールに土下座する。

 奴の背後の黒幕、もうおらんもん。支援なんか永遠にないもん。クロムウェルは今も、ただ単に死への恐怖だけを支えに、必死の抵抗を続けとるに過ぎぬ。レコン・キスタの大義は、ずいぶん前からしおしおのぱーになっとるはずじゃ。

 オーバーキルにもほどがあるっちゅーの。トリステイン=ゲルマニア連合の包囲作戦だけで充分なんよ兄様。黒幕が盤面をひっくり返すかも知れない、なんて予想は的外れ。虚無なんぞ引っ張り出してきて、決着を急がんでも問題ないんよ。

 いや、むしろ、我にとって問題が起きるんじゃけど。

「ミス・ヴァリエールを、クロムウェルの喉元に突きつけた短剣として……我々は、彼に取引を持ちかけます。

 こちらが要求するのは、アルビオンの降伏と、共和議会の解体。そして、黒幕についての情報です。

 クロムウェルとて、黒幕のことを何も知らずに踊っていたわけではないでしょう。具体的な人物名や、組織名を話してくれれば万々歳。そこまでいかなくても、つなぎとなっていた人物についてや、どのようなやり取りがあったか、などを語ってもらうだけでも、充分な収穫となるでしょう。

 その条件を飲むことで、我々が与える報酬は、彼の生存権です。処刑を免除し、我々の指導のもとに、アルビオン統治を継続して頂く。……操られてのこととはいえ、オリヴァー・クロムウェルのしたことは、死刑に値することですが、彼の背後にいる黒幕の方が、危険性は上です。情報源として、また黒幕を釣り出すためのエサ、二重スパイとして、生かしておいた方が有益であると、我々は考えます。彼自身は何もしなくていい……国政を憂慮することも、外国からの脅威に怯えることもしなくていい。ただ、黒幕からの接触を待っていてくれればいいわけです。この役目は、今のクロムウェルが置かれている状況に比べれば、ずっと気楽なものでしょう。

 もちろん、ミス・ヴァリエールの虚無については、まだ秘匿すべき段階にありますので、彼の降伏の理由は『資源不足で戦線を維持できなくなったから』としてもらう必要はありましょう。この理由なら、黒幕にも言いわけは立つはずです。そしてこの秘密も、やがてミス・ヴァリエールが王座に着く日が来たなら、ヒロイックなエピソードとして、宣伝することが可能になる。

 アルビオンにまつわる問題はすべて解決され、新女王の経験値とカリスマ性を高めることにも一役買う。今回のアルビオン行きには、それだけたくさんの利益を見込んでいるのです。おわかりでしょう、マザー・コンキリエ……ミス・ヴァリエールをこの船に乗り込ませたことは、トリステインの行く末を左右する、まさに国運をかけた大事業なのですよ」

「そ、さ、そのよう、ですな……お、大事過ぎて、我も震えが止まりませぬぞ、は、ははははは」

 うん、確かに大仕事。この仕事を成功させ、女王になったのちに回顧録か何かで真相を明らかにすれば、ミス・ヴァリエールはとてつもない高評価を手に入れられよう。

 我がことのようによーわかる。ミス・ヴァリエールの位置に我を置いた計画を、我自身が立てておったがゆえに。

 嫌な予感は的中した。クロムウェルを降伏させ、アルビオン救済の聖人となる大計画。その実行権を、よりによって兄様と競り合わねばならんとは。

「この計画を知っているのは、この世に五人だけです。私、ミス・ヴァリエール、サイト君、アンリエッタ姫殿下、アルブレヒト三世閣下。そして、マザー、あなたに知らせましたので、これで六人の秘密になりました。よろしければ、あなたの口から、イザベラ女王陛下と、ミス・オルレアンにも伝えて頂き、この計画への参加を進言してもらえないでしょうか。

 実を言うと、クロムウェルを説得するためにアルビオンに渡る外交団は、私とミス・ヴァリエール、サイト君の三人だけではないのです。アルブレヒト三世閣下とアンリエッタ様も、あとから別の船で、お忍びでやってこられます。

 ミス・ヴァリエールという虚無の使い手、トリステインからは私とアンリエッタ様、ゲルマニアからはアルブレヒト三世閣下。そこにさらに、ガリアのイザベラ女王陛下と、ミス・オルレアン。そして、マザーがロマリアを代表して同席して下されば……全ハルケギニアが、オリヴァー・クロムウェルに降伏を勧告する形が出来上がる。ここまですれば、アルビオンがどれだけ頑固であっても、折れざるを得なくなるはずです。

 ……もちろん、あくまでガリア王国が中立を保つというなら、この提案は聞かなかったことにして下さっても構いません。しかし一応、陛下にはこの件、お伝え願いたい。トリステインに味方する、という意識でなくてもよいのです……ハルケギニアの、世界の平和のために、ご協力頂きたい」

 ぐっと身を乗り出して、白髪になった頭を深く垂れて。兄様は、長い長い話を終えた。

 ――どーしよう。ガチでマジで、どーしよう。

 大好きな兄様のお願いじゃし、素直に聞いてあげたい気持ちはある。しかしそうすると、こっちがもともと立てとった計画が、がらがらぐしゃーんとブッ潰れてしまうことになる。

 兄様の計画じゃと、クロムウェルを屈させる最大のファクターはミス・ヴァリエールじゃ。虚無の使い手であるという、あのピンクわかめ。

 この肩書きが、兄様だけが言うておるものならば、疲れた人が夢に見たことを真と思い込んどるだけなんじゃろなー、と言って片付けることもできるんじゃが、アンリエッタ姫やアルブレヒト三世まで認めておるとなると、だいぶ話が違ってくる。ことがことじゃ、仮にも王族を名乗る連中が真と発言したのなら、そこにはそれなりの責任があるはず。

 あとで、そのお二方――加えて、ミス・ヴァリエール本人にも――確認を取る必要があるが、トリステインに降臨した虚無の使い手は、少なくとも王族が否定できん程度には『本物』なのじゃろう。

 つまり、のちに今回のアルビオン降伏作戦が教科書に載るとして、一番大きな扱いになるのはミス・ヴァリエール。始祖の再来、新たな伝説、特別な存在、この時代の女主人公じゃ。我はたぶん、ミス・ヴァリエールの活躍の場に立ち会った偉い人その五ぐらいの扱いになるであろう。聖女と呼ばれるほどの名誉など、とても期待できぬ。肩書きがスゴ過ぎて、太刀打ちできんっちゅーか立ち向かえんレベル。

 まあ、涙を飲んでそれを是としてもじゃよ? 名誉への野心を捨てて、脇役に甘んじてもじゃよ? オリヴァー・クロムウェルの身柄が、ガリアの預かりになるのではなく、トリステイン=ゲルマニア連合のものになる、というのは捨て置けん。

 どこでどう調べたのか、トリステインはクロムウェルの手品のタネが『アンドバリの指輪』じゃと知っておった。しかも、クロムウェルが傀儡に過ぎず、その背後に別の何者かがおるということまで突き止めておった。

 兄様たちは、クロムウェルを使って、その謎の黒幕を見つけ出そうとしとる。こればっかりは困る。だってだって、その黒幕、我がガリアの先王であるあのジョゼフなんじゃもん。

 もうエルバ島から出ることのできぬジョゼフが、クロムウェルをエサにした釣り出し作戦にかかることはあり得ない。しかし、クロムウェルへの尋問の結果、ジョゼフの名前が出てくることは――あり得ない、とは言えぬのじゃ。我も、ジョゼフがどの程度まで姿をさらして、クロムウェルを操っとったのか知らんゆえに。

 もしも、クロムウェルが黒幕の正体を知っておったら。ガリアは、非常に不味い立場に立たされる。

 もともと、今回のアルビオン行きは、そうなる可能性を排除することを目的としておった。クロムウェルを説得して口を封じ、不都合な真実が漏洩するのを防ぐための旅行じゃったんよ。それなのに、それなのに兄様に協力して、トリステイン=ゲルマニア連合にその秘密を知られるリスクを背負い込むなど、絶対にあり得ん選択肢じゃ!

 では、中立という立場を守る、という建前を使って、協力を断れば済むか? いや、それも違う。

 我々ガリア組は、戦争で疲弊した民衆を見舞う、という名目でアルビオンへ行こうとしておる。公式発表でもそうなっており、ハヴィラント宮殿にオリヴァー・クロムウェルを訪ねる、なんて予定は、後回しになっておる(傷ついた人々と国土を見て、悲しんだ我がクロムウェルにご注進に行く、という筋書きであるゆえ)。対してトリステイン外交団は、最初からハヴィラント宮殿に直行じゃ。ガリア勢無しでも、虚無っつーデカいタマがある以上、兄様たちはクロムウェルの説得を成功させるじゃろう。我は完全に蚊帳の外になり、クロムウェルはトリステインのものになって――名誉もなく、ガリアのヤバい秘密がバレる危険性だけが高まるという、悪いことばかりのオチがついてしまう。

 な、何とかせにゃいかん。兄様に対し、これまでにない選択肢でもって応えねばならん。

 イエスでもノーでもダメじゃ。考えろ、考えろ――千載一遇のチャンスをフイにせずに済み、なおかつガリアの醜聞を完全に隠し通せるようなプランを――!

「非常に、非常に壮大で、素晴らしい計画である、と思いまする。ファーザー・マザリーニ」

 我は、紙のように乾いた喉で、かろうじて言葉を搾り出した。

「個人的には大賛成です。しかし、あくまで我はガリア王国のいち臣民に過ぎませぬ。

 あなた様の計画に賛同するかどうかは、国の方針を決める唯一の立場にある、イザベラ女王陛下が選択なさるべきこと。あなた様のご提案に従って、陛下に先ほどのお話を伝え、判断を仰ぎたいと思います。このような返答でよろしいでしょうか」

「おお、マザー・コンキリエ! ありがとうございます。それで充分でございますぞ。

 たとえ陛下が、否と仰られたとしても、あなたのお心遣いに感謝する私の心は変わらないでしょう」

 破顔し、我の手を取って、子供のように喜ぶ兄様。

 ほんとーに無邪気なお人じゃ。うう、こんな人の目の前で、トリステインを出し抜く方法を考えなくてはならんとか、言葉にしにくいヤな感じじゃ。

「では、さっそくイザベラ陛下たちのところへ行って参ります。おそらく、それなりに時間のかかる話し合いになるでしょう……ことの成否をお伝えするのは、明日の朝、朝食ののちに、ということでよろしいですかな?」

「ええ、もちろん構いませんとも!」

「わかりました。それでは、今夜はこれにて……明日のために、よくお眠り下さいませや、兄様」

 我はそう言って立ち上がり、兄様の笑顔に見送られて、彼の船室をあとにした。

 パタン、と扉が閉じ、兄様の姿が視界から消えると同時に――我は猛ダッシュで、自分の船室を目指した。

 

 

 兄様の要請通り、素直にイザベラにおうかがいを立てに行くほど、我は素直な愚か者ではない。

 部屋に帰った我は、すぐさま文机に飛びつくと、大急ぎで手紙を書き始めた。この仕事はとにかく、速さが重要じゃ。頭の中で文面を考えながら、かりかりかりと羽根ペンを滑らせていく。

 宛先はロンディニウム――ハヴィラント宮殿のオリヴァー・クロムウェル皇帝陛下。

 内容は簡潔明瞭に。『指輪の件で内密な相談をしたいので、宮殿を離れ、人目につかないところで会って頂きたい』。

 今現在、我の身に降りかかっておる危難を逃れるために、どーしても必要なこと――まず、兄様たちトリステイン外交団より先に、クロムウェルと接触せねばならぬ。

 これができれば、危険度は大幅に下がる。クロムウェルと密会し、出会い頭に『アンドバリの指輪』を使って操り人形と化してやれば、奴がどれだけのことを知っていようが、あるいは知るまいが、兄様たちの尋問に対し、我やガリアにとって不利なことを言う可能性はなくなるのじゃから。

 兄様たちは、クロムウェルがハヴィラント宮殿で待ち受けていると思っておるじゃろうから、あえて外出させて、全然違う場所で待ち合わせる。どこがええじゃろ――おお、そうじゃ、ロンディニウムとロサイスの間、サウスゴータ地方にしよう。あの辺は森の多い田舎じゃし、旅人の通り道なんで宿屋もたくさんある。

 具体的な会見場所を見つけるため、書棚を漁り、アルビオンの地図帳を引っ張り出す――サウスゴータ地方のページをめくり、いくつかある宿場街の中から、最も適当なものを選択する――お、ここなんか良さそうじゃ。ウエストウッドの森と、クボノの森の間に挟まれた、ヴィレッジ・オブ・ムーリィー。木工細工を特産にしておる地味ーな村じゃが、貴族専用のオシャレでひなびたペンションがある。よしよし、ここにクロムウェルを呼び寄せよう。

 指輪の恩恵を忘れていなければ、何を差し置いても来るように――と、強制的な一文も添えて。ここまで露骨に書いときゃ、クロムウェルがどんだけニブい野郎でも、まず逆らうことはあるまい。

 検閲にかけさせる時間も惜しいので、正直に我の名でサインをしたため、封蝋にはコンキリエ家の家紋を刻んだ印鑑を押す。そんでもって赤インクで『親展!』とでっかく書いといてやれば、直接クロムウェルのもとに届くじゃろう。

 封蝋が冷め、しっかり固まったのを確かめて、我は部屋から飛び出し、その手紙を船の中のある場所へ持ち込んだ。

「郵便係はここか? 夜分遅くにすまぬが、この手紙を出したい。鷹便は使えるか?」

 我らの乗り込んでおる巨大豪華客船『スルスク』には、便利を最大限に追求した結果、終日受付の郵便局まで備わっておった。ここに手紙を持ち込めば、訓練された鷹やフクロウを使って、世界のどこへでも郵送してくれるのじゃ。

「はいはい、お手紙の郵送ですね。確かに承りました。

 鷹便による速達をご希望ですね? この船では郵便用の風竜も乗せておりますので、三エキュー割り増しすれば、鷹便より速い風竜便で、お手紙を配達することができますが?」

「おお、そりゃラッキーじゃ! ぜひとも風竜便で頼むことにしよう!」

 窓口のねーちゃんのオススメに乗っかって、我は普通郵便の料金にはした金をプラスし、さらに余裕を持って策を実行することを選んだ。風竜便なら、鷹やフクロウを使うより、だいぶ時間を節約できる。『スルスク』が今いる地点からロンディニウムまでの距離なら、半日近い短縮も可能であろう。

 オリヴァー・クロムウェルの方は、これでよし。次はイザベラとシャルロットに相談して、兄様の提案にどう応えるか、考えをまとめねばならん。

 仮に兄様の計画に参加して、一緒にハヴィラント宮殿に行くのなら、我が途中で離脱する口実を――ヴィレッジ・オブ・ムーリィーに寄って、クロムウェルを洗脳する予定をタイムテーブルに挟み込む方法を――打ち合わせねばならん。

 あ、そうじゃ、問題の中心であるあのピンク、ミス・ヴァリエールにも確認を取っておく必要があるな!

 奴がホントのホントーに虚無の使い手なのか、証拠があるなら見せてもらわんと。ガチの本物じゃったら、またいろいろと面倒ごとが増えるから、今のうちに打てる手を打っておかねばならん。奴がトリステイン女王になるっつーなら、脅威はさほどデカくないが――もし仮に、一国の王よりも、ハルケギニア全体を統べるロマリア教皇の座に憧れていたりなんかしたら、我にとって最大最強のライバルとなり得る。

 排除するなり、懐柔するなり。今のうちに選択肢を作っておくに越したことはなかろうの。

 ええい、ロマンチックとはほど遠い。今宵は忙しくなりそうじゃ。

 

 

 ルイズとサイトの、どーしよーもない失言から、数時間が経過していた。

 どったんばったんと絞めたりひっぱたいたり、殴ったり蹴ったりを続けていたふたり(どちらかというと、一方的にサイトがやられる側だった)に、シャルロットがエア・ハンマーをぶつけて大人しくさせて――冷静になった馬鹿たちを、あたしがあらためて質問責めにして。

 すでに戯曲が三、四冊は書けるだけの情報を引き出すことに成功していたけど、はてさて、あたしはこれをどう活かせばいいのか。正直、頭を抱えずにはいられなかった。

「現代に蘇った虚無の使い手と、その使い魔ガンダールヴねぇ……その権威でもって、偽の虚無であるクロムウェルに降伏を勧告しに行く、か。どう思うね、シャルロット?」

「まずはヴァイオラの意見を聞きたい。今回の旅の主役は、あくまで彼女。彼女がどう思うか、どういう行動を選択するか、それがすべて」

 少ない言葉で、内輪にだけわかる表現で、シャルロットは返事をしてきた。

 確かに、どうすべきかの決定権を持っているのはヴァイオラだ。クロムウェルを降伏させる計画は、あたしたちガリア王国も持っているが、その計画、実行両面において、重要な位置を占めているのは、あのチビの女枢機卿なのだ。あたしやシャルロットはついてきただけで、実際にはほとんどタッチする予定はない。

 なのに、その計画を破綻させてしまうような情報を、ヴァイオラでなくあたしたちが入手してしまった。話を聞いたら、彼女はのじゃのじゃ言って慌てるだろう――でも、それは速い方がいい。あとになればなるほど、計画を修正するのが難しくなるからだ。

「えっ、ちょっ……い、イザベラもタバサも、今の俺たちの話、ここだけのことにしといてくれないの? で、できればそのー、あまり触れ回ってほしくなかったりなんかするんだけど」

「う、うん、できればあなたたちの胸にだけしまっておいて? あなたたちに話しちゃった、ってバレたら、絶対にマザリーニ枢機卿に怒られちゃうもの……」

 あたしたちのやり取りを聞いて、動揺する虚無主従。どっちも捨てられた子犬みたいな眼差しだ。とても始祖の再来なんて、御大層なもんには見えない。

「ああ、心配すんな心配すんな。あんたらに迷惑がかかるようなことにはならないよ。

 今聞いた計画を邪魔したりしないし、ファーザー・マザリーニに対しても、知らないふりをしてやるさ。ただ、うん、ヴァイオラは高位のブリミル僧だからね。虚無の再来、なんて重要事、いつまでも知らずにいる、なんてことは考えられないんだよ。

 どうせ遠からず、他ならぬファーザー・マザリーニから、ヴァイオラに情報は流れることになる……その時、あの子が驚かなくても済むように、ちょいと匂わせてやるだけだよ。

 ていうか、そんなことよりさ。四系統とは全然違う、虚無の魔法が使えるんだよね? どんなことができるのか、ぜひ見せて欲しいね、あたしとしては! 何か危なくない呪文があったら、唱えてみてくれないかい?」

 好奇心に胸踊らせながら、あたしはぐい、とルイズに顔を寄せ、おねだりしてみた。

 深刻っぽくなりつつある場の空気をほぐすつもりで出した、ある意味ごまかしの言葉だったが、もともと珍しいもの好きのあたしの本能が、虚無がどういうものなのか知りたくて知りたくてうずうずしてたのも事実だ。

 シャルロットも、身じろぎひとつせずにじーっとルイズに視線を注いでいる。よく見れば、その目が期待と興奮でキラキラ輝いていることに気付くだろう。ハルケギニアに生まれ、魔法に親しみ、始祖ブリミルの教えの中で育ってきた人間にとって、虚無にロマンを覚えない、などということはあり得ないのだ。

「うーっ……じゃあ、条件付きでなら見せてあげる! まず、マザー・コンキリエ以外には、ぜーったいに誰にも、虚無のことをバラさない! これ、いい!?」

「オーケイオーケイ。てか、さっきすでにそれは約束したつもりだったんだけどね、あたし」

「それともうひとつ! 明日の朝食のデザートはクックベリーパイにしてちょうだい! いける!?」

「ああ、お安いご用だとも」

 結局、ルイズの要求というのは、そのふたつだけだった。欲がないというよりは、この手の駆け引きに慣れてなくて、要求が思いつかなかった、って感じに見えた。こっちとしちゃ、もっとかなり際どいことを望まれても、それを叶えてあげるつもりでいたんだけどねぇ――ガリア=トリステイン国境での関税の撤廃とか、それくらいのレベルなら、だけど。

「それじゃ、ええと……《エクスプロージョン》は危ないから、《ディスペル・マジック》あたりを見せてあげましょうか。

《ディスペル》は、魔法の効果を消し去るスペルだから、悪いけどイザベラ、何か目に見えるタイプの魔法を、私に向かって使ってもらえる? あ、もちろん、私が呪文を唱え終わってからね!」

「ああ、了解したよ。……しかしアレだね、見せてもらう前に言うのもなんだけど、ずいぶん地味な効果なんだね……もうちょっとこう、派手な魔法はないの? 空全体を幻影で埋め尽くすとか、地の果てまで瞬間移動するとか、そういうスゴいのは?」

「うっ。し、仕方ないじゃない。まだ《エクスプロージョン》と《ディスペル》しか、虚無の呪文を覚えてないんだから。

 あ、でも、今まさに新しい呪文を必要としてるし、祈祷書に新しい呪文が浮かび上がってたりするかも……少し待ってて! 一応チェックしてみるわ!」

 ルイズはブラウスの胸ポケットから、手のひらサイズの古びた冊子を取り出し(冊子の厚みが消えたせいで、もともと平らな胸がさらに寂しくなった)、忙しなくページをめくり始めた。

 何してんの? と尋ねるのもはばかられるほど、真剣な様子だったので、代わりにサイトに目で問うてみる。このアホっぽい少年は、それでもあたしの言いたいことを正確に察してくれたようで、「ああ」と言って、疑問に答えてくれた。

「あの本は『始祖の祈祷書』って言ってさ、ルイズが虚無の呪文を習得するための、キーアイテムなんだよ。

 あの祈祷書と……ほら、ルイズの指に、水色の宝石の指輪がはまってるだろ? あれは『水のルビー』って言うんだけど、そのふたつのアイテムを虚無の使い手が持つと、祈祷書の中に、ブリミルさんのメッセージと、虚無の呪文が浮かび上がってくる、って仕組みらしいんだ。

 ただ、一気に全部の呪文が見えるようになるわけじゃなくて、持ち主が必要とした時に、必要な分だけ、呪文を表示するシステムになってるみたいでさ」

「ははあ、つまりあの子は、今この瞬間に、新しい呪文が解禁されてるんじゃないかって思って、祈祷書をめくってるってわけ?」

「そういうことだと思う。ブリミルさんも意地悪だよなー、そんなややこしいことしないで、普通に全部の呪文をずらーっと見せてくれればいいのに。

 ……っていうか、キーアイテムなんか残さないで、普通に教科書みたいな形で虚無の呪文を残してくれればよかったんだよ。指輪と祈祷書、このふたつがないと虚無の呪文が手に入らない、なんてシステムのせいでさ、ルイズすっげー苦労したんだぜ。魔法が使えない無能の『ゼロ』なんて呼ばれてさ……」

 ことり、と。

 あたしの頭の中で、何かが転がったような、不思議な感覚が生じた。

「……サイト。ちょっと確認したいんだけど。虚無のメイジとして生まれた人間は、魔法が使えないのかい?」

「ああ。少なくとも、ルイズはそうだった。何唱えても爆発するばっかりでさ」

「でも、『始祖の祈祷書』と『水のルビー』を手に入れたら、魔法が――虚無が使えるようになった?」

「ああ。最初に目覚めたのは、アルビオン空軍がタルブに攻め込んできた時だったな。あれはすごかったなー、クジラみたいにでかい戦艦を何隻も、一発の爆発でドカーンと……」

 サイトが何か続けて言っているが、あたしの頭にはその言葉は入ってこない。

 魔法の使えない、無能なメイジ。しかし、『始祖の祈祷書』と『水のルビー』を手に入れることで、虚無に覚醒した。

『始祖の祈祷書』も『水のルビー』も、始祖の代からトリステイン王家に伝わる、有名な秘宝だ。だが――それと同じような秘宝が、他の国の王家にも伝わっていることを、あたしは知っている。

 アルビオンには、『始祖のオルゴール』と『風のルビー』。ロマリアには『始祖の円鏡』と『火のルビー』。そして、我がガリア王国には、『始祖の香炉』と『土のルビー』。

 もしも、それらのアイテムもまた、虚無を目覚めさせるための鍵としての能力を持っているとしたら?

 そして、この世に現れた虚無の使い手が、ルイズ・フランソワーズだけではないとしたら? 我が国にもひとり、有名な能無しメイジがいた――彼がもし、キーアイテムに触れていたら、どうなっていた?

 いや――そもそも、彼は――キーアイテムに、触れなかったのか? 一度も?

「……なあ、シャルロット。あんた、覚えてるかい? あたしが王位継承のために、親父の部屋から『始祖の香炉』と『土のルビー』を持ち出した時のこと」

「覚えてる。私も、あなたと行動を共にしていた」

 返ってきたシャルロットの声は、震えていた。ああ、あたしの賢い従妹。あんたも同じことを考えているんだね。あたしと同じ不安を、あんたも感じているんだね。

「あの香炉……何度か使ったことがあるように、あたしには見えたよ。あんたは?」

「私も同じ。ごく最近、使われた形跡があるように見えた」

 ――考えられるだろうか?

 あの、無能王と蔑まれていた父が。あのバカでマヌケでトンマでウスラデブでノータリンなジョゼフ・ド・ガリアが。実は最も正統に始祖の血を受け継いでいた、虚無の使い手だった――などということが?

 不安というか、危機感に近いものが、積み木のように重なり合って、形をなしていく。いやいや、あのバカ親父は島流しにされた。もしアレが虚無に覚醒していたとしても、もう何の問題もない。今のガリアは、あたしの時代だ。

 だが、だがそれでも、いずれエルバ島を訪ねて、親父に確かめなくてはならないだろう。彼は結局、何者だったのか? 本当はどんな人間だったのか――?

「……あーもう、やっぱりないー! 仕方ないから、予定通り《ディスペル》でいくわよ! イザベラ、呪文の準備、お願いね!」

 ルイズが残念そうに叫んだ声で、あたしは我に返った。

「あ、ああ。あたしは《水の鞭》を使わせてもらうよ。こっちの詠唱はすぐに済むから、そっちが時間かかるんなら、先に唱え始めてくれていい」

「了解。それじゃいくわよー、……」

 彼女が息を吸い込み、スペルを唱えようとした、その時だった。

 

 ――みぎ。ぎ、ぎ。みぎぎぎぎぎぃいぃ――っ。

 

 不気味な、怪物の悲鳴のような音が――前後左右、あらゆる方向から聞こえた。

 何事かと、周りを見回す。ルイズもサイトも、シャルロットも同じように、不思議そうにきょろきょろしている。しかし、何も変わった様子はない。

 ――いや、あるとんでもない要素が、劇的な変化を遂げつつあったのだが、状況判断に視覚を優先していたあたしには、それに気付くことができなかった。

 この時点から、約五秒後。かなり痛い思いをして、あたしは何が起きているのかを、理解することになる。

 

 

「すまない、ミス・パッケリ。こちらから話を持ちかけておいてなんだが、やはり例の件について、私が頼んだことを忘れてはもらえないか」

 夕食の時間からしばらく経った頃。ほとんど、床につく直前のような時間帯に――俺は再び、ミス・パッケリと面会していた。

 船内に異常がないか確かめるための巡回中に、思いがけず彼女と出くわしたのだ。俺は、挨拶をしてやり過ごす、などということはできず、衝動的に彼女の手をつかみ、話がある、と短く告げた。

 話し合いの場所は、月の見える窓のある、半月形のアルコーヴ。

 俺の言葉を聞いた彼女は、きらめく灰色の目でこちらを見上げ、不思議そうに首を傾げた――絵になるしぐさだと、思った――特に今のような、薄紫色の仄かな月明かりの中では。

「それは……つまり、ミスタ・カステルモール。私が行動する必要がなくなった、ということでしょうか? あなた様は、お知りになりたがっていた真実を、無事に得ることができた、と?」

「いや、そういうわけでは、ないのだが……」

 間抜けな俺は、この時、とっさに『そうだ』と言うことができなかった。ほんのひと言、簡単な嘘をつくだけで、彼女を関わり合いから外すことができたのに、その程度の器用さも発揮することができなかった。

 いつもの俺ではない。

 ミス・パッケリに対する後ろめたさが、考えて喋るという基礎の処世術を俺から奪い、正直さだけをあとに残したのだ。

「……あれから、もう一度考えてみたんだ……やはり、君に探りを入れさせるのは、危険過ぎる。

 ただ単に、女王陛下の不興を買うかも知れない、という可能性だけではない。詳しくは話せないが、もっと直接的な……命を落とす危険性も考えられるんだ。

 そんなリスクのある仕事を、本来無関係な人にさせるわけにはいかない。昼間、君に話を持ち掛けた時の私は、明らかに冷静を欠いていた――自分の仕事に責任を持つ男のやるべきことではなかった。

 あの件は、私が単独で片付けることにする。君にやらせるよりは、多少遠回りになるかも知れないが、それでも無関係な人間に、知らないうちに危険を冒させるようなことをするよりはましだ。

 どうか、忘れると言ってくれ、ミス・パッケリ。それが君自身のためにもなる」

 ラウンジで仕事を頼んでから、数時間。俺はずっと考え続けていた。迷いに迷い、しかし答えを出せずにいた――なのに、再び彼女の顔を見た瞬間、結論が出た。

 やはり、俺のしていることは卑怯だ。邪悪をいぶり出し、正義を遂行するためとはいえ、手段はやはり選ばなければならない。

 ヴァルハラのシャルル様がご覧になっていたとしても、恥じ入らずに済む自分でなくては。誇り高き東薔薇花壇騎士は、正々堂々とことに挑むのだ――敵が、簒奪者ジョゼフがどれだけ持って回った罠を仕掛けていようとも、正面から打ち砕いてやる、という強い気持ちでいなくては。

 彼女の――ミス・パッケリの顔を見た瞬間、はっきりとそう自覚できたのだ。無垢な灰色の目。この目の前で自分を偽ることは、ひどく居心地が悪い。

 こちらの脳の裏側まで見通そうとしているかのように、彼女はじっとこちらを見つめたまま、動かない。俺も視線をそらさない――見つめ合うこと、数秒――やがて彼女は、肩の力を抜いた。

「……左様でございますか……かしこまりました。

 ミスタ・カステルモールが、ご自身の責任のもとにそう仰るのであれば、私もこれ以上は立ち入りますまい。私はあなた様から何も聞かされませんでしたし、同じく何も頼まれておりません」

「感謝する」

「いえ。文字通り何もしておりませんので、礼は不要です。

 ただ、これだけはお心に留め置き願います……立場こそ違えど、あなた様も私も、この船に同乗しておられる方々をお守りする仕事を持っております。我々の利害は、ほとんど重なっていると言って良いでしょう。

 ですから、もしまた何か、私にご用事がございましたら、その時はどうぞ遠慮なさらずお申し付け下さい。私も私の責任のもと、お仕事をさせて頂きます」

「……ありがとう。ミス・パッケリ。その時はぜひ、頼らせてもらおう」

 俺は心からの感謝と、正直な気持ちを、出来る限り飾らない言葉で伝えた。ミス・パッケリは騎士ではないが、やはり誇り高く、自分仕事を全うしようとしている。

 もし彼女が男であれば、俺たちは良い友人のようになれていたかも知れない。

 肩の荷を下ろした俺は、そこでミス・パッケリに別れを告げるつもりだった。途中だった船内巡回の仕事に戻り、そのあとは動揺も迷いもなく、軽やかな気持ちで仮眠に入るつもりだった。

 しかし、思いがけぬ感情の大波が――我が人生においても最大のものに近い動揺、緊張をともなう出来事が――直後に起こり、すべての平和な計画はご破算になった。

 トン、と。

 実に軽い感触とともに、ミス・パッケリの顔が、俺の胸に触れていた。

 甘い香りが、女性の髪の匂いが、鼻腔をくすぐる。よく観察する。何が起きたのかを、目で見て、正確に判断する。

 ミス・パッケリが、俺に抱擁を求めるように、身を寄せてきている。

 上半身が触れ合っている。俺の胸に彼女の顔が、腹の上辺りに、彼女の乳房の柔らかさが感じられる。――俺は、十代半ばの小僧ではない。女の暖かみに触れた程度で、驚いたりはしないし、顔を赤らめたりもしないし、我を忘れたりもしない――ただ、心臓がひと打ち、大きく跳ね、疑問符が頭の中をかすめただけだ――これまで、ミス・パッケリに、そんなそぶりは一切なかった。いったいなぜ、突然こんなことをしている?

 俺が、ミス・パッケリに問い掛けるより先に、彼女の方から、冷静な口調でその行為の理由を――いや、原因を教えてくれた。

「ミスタ・カステルモール。……異常事態のようです」

「異常事態?」

 それはいったい――と、聞き返す間もなかった。

 ぎぎぎぎぃいぃ、という、背筋がかゆくなるような不快な音が響き渡り、俺はめまいを起こしてたたらを踏んだ。

 いや、違う。俺の肉体は正常だ――めまいなど起きていない。それなのに、足がふらついた。これは単に、床が、まっすぐ立っていられない状態になりつつあるのだ。

 ぐぐ、ぐぐぐと。真後ろに倒れそうになる。そういう風に、体重のかかり方が変わっていく。窓の外の二つの月が、すうっと流れて、窓枠の外に消えた。星空も流れ、真っ暗な背景が――恐らく、海面が見え始める。

 これは――この状態は――!

「床が……船が、傾いているだと!?」

 ぎぎぎぎぎぎぎぎ、と、悲痛な音を響かせて。『スルスク』は、空中にありながら、その船体を横たえようとしていた。

 

 

 その頃。アルビオン=トリステイン海峡から何千リーグも離れた、サハラ砂漠に存在するエルフの国ネフテスにおいて、ひと組の男女が和やかな語らいをしていた。

「……でねえ、その時、ミスタ・ヤンが頭の上に赤い洗面器を乗せて歩いてくるのが見えたんだよ。思わず僕は尋ねたね、ミスタ、君はなぜそんなことをしているんだい? って」

「ふんふん、それでそれで? その人はなんて答えたの?」

「それが、驚かないで欲しいんだけどね、なんと彼は――」

 海に浮かぶ小島に密集した、石造りの摩天楼を眺めながら、月明かりに照らされた冷たい海岸に腰を下ろして。のんびりと東方での思い出話を語っているのは、紫色の髪とべっ甲縁の眼鏡が印象的な壮年の紳士――セバスティアン・コンキリエである。

 聞き手は、わずかな幼さと溢れんばかりの快活さを表情ににじませた、若きエルフの少女――ルクシャナだ。

 セバスティアンたちの乗った竜そりが、ネフテスにたどり着いたのが、三日前のこと。彼らはエルフと交渉し、ちゃんとした手続きを踏んだ上で、観光客として滞在していた。屋敷を載せた大そりを引く土竜たちを休ませる必要があったし、セバスティアン自身、エルフの暮らす街並みがどのようなものか、興味があった。

 人間(エルフ的な表現をすれば蛮人)との交渉を担当していたルクシャナに願って、いろいろな場所を案内してもらい、いろいろな言葉を交わすうちに、ふたりはすっかり仲良くなっていた。もともと蛮人文化に深い関心を持っていたルクシャナと、思い出話をするのが好きなセバスティアンの歯車が、かっちりと合ったのである。

 ルクシャナの方がむしろ、積極的に話をしたがった。ハルケギニア、東方と、ふたつの異なる人間社会に身を置いた経験のあるセバスティアンは、とにかく豊富に話題を持っていた――ルクシャナのような、強烈な好奇心を持て余している少女にしてみれば、彼はまさに聞く宝石箱だったのだ。もちろんセバスティアンも、少女になつかれてお話をせがまれるのは、悪い気はしない。暇を見つけては肩を寄せ合って、愉快におしゃべりをしているふたりはまるで、仲のいい親子か、あるいは恋人同士のようだった。

 ――と、本人同士は非常に満足しているこの関係を、快く思わない者がいる。

 まず、ルクシャナの本当の恋人であるところの、アリィーという青年がそうだ。

 この時も彼は、少し離れたところから、楽しそうに話す恋人とセバスティアンの姿を、憎々しげに見つめていた。

「……あの老いた蛮人めが……いつまでだらだらと話を続けるつもりだ。ルクシャナもルクシャナだ。野蛮な連中の堕落した文化など真面目に聞いたところで、何の役にも立ちはしないだろうに。まったく、少しは誇り高きエルフとしての自覚を……」

 ぶつぶつと不満の呟きを漏らしつつも、ふたりの会話を邪魔したりせず、じっと様子をうかがっている。彼はエルフの多くがそうであるように、人間を低俗な生き物と見て軽蔑していた。明らかに未熟な文化と精神性しか持たない彼らに、並々ならぬ興味を示す恋人に不満を募らせていたし、その交流がルクシャナ自身のためにならないと本気で信じている。

 だから――もし、チャンスがあるなら、語らうふたりの間に飛び込んでいって、一刀のもとにセバスティアンを切り捨てたい――ぐらいの気持ちを持ち続けているのだが、それを見抜いたルクシャナに「お話の邪魔したら、今後一年間デートはおあずけだからね!」などとクギを差されてしまったので、ただ遠くから見守ることしかできなくなってしまった。

「あっ、あのじいさん、ルクシャナの肩に汚い手を乗せおって! なんといやらしい……ああ、なんだ、ついていた糸屑を取ってやっただけか。いや、今回が他意のない行動だったとしても、次もそうとは限らん……蛮人はことあるごとに欲望を剥き出しにする生き物だし、ルクシャナはあの通り美人だからな……何かあってからでは遅いんだ。

 この際、ルクシャナの忠告など無視して、無理矢理にでも引き離すべきか? 彼女のためを思うなら、ここで約束を破るのは不義理ではない、むしろ誠意の表れだ……そうではないか……?」

 嫉妬がぐつぐつと煮詰まり、我慢の限界に達し、とうとう分別を失ったアリィーが、行動を起こそうと足を一歩踏み出した、まさにその時。

 ――がり。がり、がり、がり。

 その不穏な音が、少し後ろの岩場の方から聞こえた。

 何の音だ? と、気になった彼は振り向く――そして、ひっ、と息を飲んだ。

 うずくまった熊ほどの、大きな岩の影から、ちらりと斧の刃が突き出している。

 ぬらりと紫色に輝くその刃先は、微妙に震えており、誰かの手に握られていることは明らかであった。

 その危険な凶器のすぐ上に――もしかしたら、さらに危険なものが――鬼のように険しい女の顔が、右半分だけを覗かせていた。いや、覗かせていると言うより、ぎろりと殺意に満ちた眼差しで覗いていた。

 血走った真っ赤な目。暗紅色の長い髪をざんばらに垂らし、口は獣のようにぎざぎざの歯を剥き出しにしている。ぎりぎりと、歯軋りをする音がアリィーのところまで聞こえるようだ。彼が恐怖して後ずさるくらい、その女の表情は鬼気迫っていた――また一歩、さらに二歩と、彼は遠ざかる。岩場の女から――女が睨みつけている、ルクシャナとセバスティアンのふたりから。

「あ、あ、ああああのエルフの小娘ええぇぇ……私の、私だけのセバスティアンに、色目使って……み、みみ、身の程知らずっ。雌犬っ。泥棒猫っ。蒸し鶏っ……こ、こここ殺したい。今すぐあの髪の毛の生えた頭皮を剥ぎ取って、首の血管を噛みちぎって殺してやりたいっ。カエンタケの毒で、マムシ草の毒で、ヤマカガシの毒で、イモガイの毒で、ライオンのたてがみの毒で苦しめて殺したいっ。針、針もいけるわ。竹串、鉄串、小さな縫い針、画鋲、山ほど口に突っ込んで飲ませたい。千本よ、針千本飲ませちゃう。あのよく喋る唇を縫い合わせて、あのきらっきらした目を潰して、鼻にトウガラシの煮汁を注ぎ込んで、耳に三日三晩かけて、セバスに二度と近付くなと囁き続けたい。あの細い体を水に沈めてふやかしたい。火で炙って香ばしくしたい。土に還して野菜とか元気にしたい。風に乗せて遥か世界の果てまでばらまきたい。そうしたら私、きっと爽快な気分になれるし、あの恥知らずな娘さんも始祖のご加護で清廉潔白な人柄を取り戻すはず。や、や、や、ヤッていいわよね? ヤッちゃうのが正義で真理で道理で自然で当然で必然よね? 斧ブンブン振り回しちゃっていいわよねきっとたぶん確実に。あ、で、でも、今朝セバスから、『僕のことを愛してくれるオリヴィアはとても気のきくいい子だから、僕がエルフのお友達と世間話をしていても邪魔しないよね?』なんてさりげなく言われてたんだったわ……ここでもし乱入したら、彼に自分勝手なわがままさんだって思われちゃう、それはダメ、絶対ダメ。セバスに愛される奥ゆかしいいい子でいなくちゃ。もちろんわがまま言っただけで私を嫌ったりするような薄情なハニーでないことぐらいわかってるけど、それでも彼のためを思うなら感情を抑えて踏みとどまらなくちゃ……ああでもあの小娘見てるとイライラする……あの小娘と楽しそうにおしゃべりしてるセバスを見てるとモヤモヤする……す、す、す、砂、砂が流れてあの小娘だけ飲み込まないかしら。流砂っていつ起きるかわからなくて怖いって言うし。そ、そ、そうよ、流砂よ起きて。あの長耳女を地の底に埋葬して。落雷でもいいわ、あの長耳をこんがりポテトみたいに揚げて。す、スズメバチの大群とか、毒さそりとか、毒サンドワームに襲われるとかでも爽快だわ。うひ、えへ、いひひひひひ。始祖よ精霊よ、私の代わりに事故を起こして。私の代わりにあの小娘を呪って。呪って、呪って、呪って、呪って、呪え呪え呪え呪え呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う呪う死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

 ぶつぶつと、邪悪かつ粘着質かつじっとりと湿っぽい呪詛の言葉を、延々と吐き散らし続ける狂気の女――オリヴィア・コンキリエの姿を目の当たりにして、アリィーは恐怖にとらわれると同時に、我に返った。ショックが彼の心の中の嫉妬の炎をかき消し、己の考えていたことを省みさせたのだ。

(……い、いかんな。ルクシャナ愛しさからとはいえ、理性を失うのは……うん、ちょっと頭冷やそう……。蛮人のことは気に入らないが、野蛮な者に寛容であることも、誇り高きエルフとして生きる上での必要条件であるはずだ。そうだ、落ち着けアリィー……今後はもう少し嫉妬を抑えるように心掛けよう……敵意と殺意の行き着く先は、たぶんあの岩影にいる女のような境地だ……そんなところに到達するのは……いくらなんでも、その、ヤバい)

 アリィーはオリヴィアが見えない位置まで移動すると、今度は静かな気持ちで、穏やかにルクシャナたちを見守り始めた。ときどき目頭を揉み、疲れたような表情を浮かべるが、少し前までのとがった雰囲気はなくなっていた。

 彼が見たものは、あまりに刺激的で、あまりに示唆に富み過ぎていた――その後の生き方に、少なからぬ影響を与えてしまうぐらいに。

 具体的には、先入観による好悪の印象に左右されず、客観的に物事を判断するようになった。感情を昂らせないように抑えることを覚え、落ち着いた性格になった。アリィーは少しだけ大人になったのだ――自分と同じような、いや、自分を何倍にも拡大したかのような、とてつもない嫉妬心の持ち主を見て、それを反面教師にしたのだった。『ああはなりたくない』という気持ちは、自己を変革する上で、意外と強力な動機となり得る。

 彼のこの変化は、恋人のルクシャナにとっても好ましいもので、以降、ふたりの仲はオシドリか白鳥のように睦まじいものとなる。

 もちろんこの時点では、アリィーもルクシャナも、そんな未来のことは知るよしもない。その原因を作ったオリヴィア・コンキリエに至っては、自分が若きエルフのカップルに与えた影響など、今後永遠に知らずに過ごすだろう。世の中は何と何がつながってどのような結果を生むか、なかなか予想できない、というお話。

 ――さて、それは置いておくとして。

 ここで新たな人物が、砂浜に登場する。ざし、ざしと、砂を踏む足音を響かせて、セバスティアンとルクシャナに近付いていく者がある。

 見た目二十歳前後くらいの、黒髪の女性だ。目は柳葉のように切れ長で、唇は薄く、やや赤みが強い。東方の民族衣装であるキナガシをまとい、その上からマントのように、アーガイル・チェック柄のケープを引っかけている。

 セバスティアンの秘書である、ミス・リョウコである。

「やあ、セバス。ルクシャナもこんばんは。言われた通りの時間になったから、声をかけに来たよ」

「やあ、リョウコ君。もうそんな時間かい? じゃあルクシャナ、今日はこれでお開きにしようか。夜は寝る時間だし」

「えー、もう? ざんねーん……じゃあまた今度、お話の続き聞かせてね。約束よ?」

「うん、約束するとも。次はお昼でも一緒にしながら、でどうだい」

「歓迎するわ。いいレストラン知ってるの。……それじゃ、おやすみなさい、セバスティアン。リョウコさんも。あなたたちに大いなる意思の加護がありますように」

「ああ、おやすみ」

「おやすみ、ルクシャナさん。ああそうだ、さっき、あっちの方でアリィー君を見かけたから、帰りは彼に送ってもらうといいよ」

 ルクシャナは人間ふたりに手を振って、リョウコに指し示された方向に――アリィーがいるという方向に去っていく。セバスティアンとリョウコは、微笑みとともにその後ろ姿を見送っていたが、やがてエルフの少女の姿が見えなくなると、表情を引き締めた。

「……さて。リョウコ君。首尾は?」

「今、始まったばかりだね。ついさっき、『極紫』から連絡があった。『スルスク』号への攻撃を開始した、という連絡がね。

 シザーリオ君もミス・ハイタウンも、不幸な偶然から任務を達成できなかったが……『極紫』なら心配はいらない。船で移動している敵相手に、彼女が返り討ちに遭う可能性は、万にひとつもないよ」

「うん、その点は僕も信頼しているよ。彼女の能力であれば、たとえ虚無の使い手がターゲットの中にいたとしても、反撃は許さないだろう……そういう能力だということは理解している。

 となると、問題は『スルスク』が、海の藻屑と消えたあとのことだね。リョウコ君、彼は……雲隠れしたジョゼフ・ド・ガリアは、ちゃんと姿を現すだろうか?」

「最低でも、何らかのアクションは起こすだろうね」

 セバスティアンの問いかけに、リョウコは自信たっぷりに頷いた。

「まったく、あの男は本当に頭のいい奴だよ。まさか、王位を娘のイザベラに譲って、自分は表舞台から消えるだなんて。これ以上確実な護身方法は、他にはちょっとないだろうね」

「うん、まったくだ。暗殺を狙う側にしてみれば、一番困る戦略だよ。いくら僕たちが大きな戦力を抱えていても、殺害対象が見当たらないのでは、どうにもならない。

 シザーリオ君や、ミス・ハイタウンの失敗が、やはり大きかったのだろうね。彼らという強力な刺客を、ジョゼフは見事に退けた。だけど、彼は安心しなかった……このセバスティアン・コンキリエが、懲りずに更なる刺客を送り込んでくるだろうと考えたのだ。

 連続する暗殺者たちを、延々と相手し続けるわけにもいかない。そこで彼は一計を案じた。イザベラ王女に命じて、クーデターを起こさせたのだ……もちろん、これはヤラセだ。自然に行方をくらますためのね。

 でなければ、あのイザベラごときに、ジョゼフが敗れるはずがない。彼は虚無の使い手であり、なおかつハルケギニア屈指の優れた頭脳の持ち主だ。たいした魔法の才能もなく、頭も特にいいわけじゃない世間知らずのお姫様に、本当の本気の冗談抜きに負けて追放されるなんて、あり得ないことだ!」

「ああ、セバス、私もその点は同意見だよ。よっぽどバカみたいな幸運が重なり合わないと、イザベラ王女のクーデターは成功しないだろう。私も個人的に計算してみたが、失敗する確率は99.9999パーセント(シックス・ナイン)を上回った。つまり、イザベラ女王の戴冠は、ジョゼフが図面を引いた、彼自身の陰謀だということだね。間違いない」

「そう。そして、姿を隠したジョゼフは、新女王イザベラの背後で、今もガリアに君臨しているはずだ。イザベラが傀儡だとしたら、同じ立場であるシャルロット・エレーヌ・オルレアン嬢も、そして我が愛しのヴァイオラも……もう、その可能性がある、という消極的な表現を使う必要はないね。ジョゼフの洗脳能力によって、あの子は操られてしまっているんだ。

 人質として、また僕に対する反撃のための手段として、ガリアに留め置かれている。まったく、さすがはジョゼフ……えげつない手を使ってくるものだ……」

「だが、そう確信を持てたからこそ、我々ももうためらう必要はないということだ。だろう? セバス」

 セバスティアンは強く頷き、リョウコを見返した。

「彼がやり過ぎなくらいの方法で、我々から身を隠すのなら、我々だって過剰にやらせてもらうまでだよ。

 ジョゼフの企みを粉砕し、彼が再び表に出てこざるを得ない状況を作ってやる。イザベラ女王たちのアルビオン行きは、実におあつらえ向きのチャンスだ。海峡上で船を落とせば……イザベラ女王も、シャルロット嬢も、ヴァイオラも、まとめて抹殺できる上に、死体も回収不能にできる。

 傀儡たちが死に、しかも蘇生もできないとくれば、ジョゼフもさぞ困るだろう。隠れたままでいるにしても、何か大がかりな対策を取らなくてはならなくなる……そこできっと尻尾を出す。その時こそ、彼の最期だ。僕とオリヴィアと、ルーデルの三人がかりで、ジョゼフの存在する地域ごと消滅させる心構えで、攻撃を仕掛ける」

「ふむ? キミたち三人だけで行くのかい? 確かに、シザーリオ君とミス・ハイタウンの蘇生は、まだ完了していないが……キミの目の前にもひとり、戦力が残っているのだがね?」

「わかってる、わかってる。別に仲間はずれにする気はないよ。リョウコ君には、別の仕事を頼みたいんだ。

 君には、アルビオンの調査をして欲しい。まだ判明していない、かの地の虚無の使い手を探し出してもらいたい。

 トリステインの虚無は、目覚めたばかりのひよっ子だ。問題にならない。ロマリアの虚無は、直接的な戦闘能力が皆無に等しい……それらを除くと、我々にとって危険性があるのは、ジョゼフと、未だ詳細不明なアルビオンの虚無ということになる。これを探し出し、排除してきてくれ……それができたら、我々の悲願への障害は、ほとんど存在しなくなるだろう」

「ふぅむ……ふむ、ふむ。なるほど。悪くない作戦かも知れないね。

 一応確認しておくが……私はアルビオンで、虚無の使い手を探し出すために……何をしてもいいのかね?」

「何をしてもいい。このセバスティアン・コンキリエが許そう」

「それを聞いて安心した」

 にっ、と酷薄な笑みを浮かべ、リョウコは自らを崩壊させ始めた。

 ぼこ、ぼこ、と、全身から虹色の泡を吹き出し、それに溶けていくような様子で、彼女の優美な肉体は少しずつ崩れ、小さくなり、砂浜に染み込んでいく。

「仰せの通り、アルビオンに跳ぶよ……キミから許可はもらった。

 アルビオンに住まう人々を全滅させてでも、虚無の使い手を見つけ出してみせよう。セバス、キミはジョゼフ対策に集中したまえ……『極紫』は間違いのない仕事をするだろうが……ジョゼフとて、これまでに何度も我々の裏をかいてきた天才なのだ……油断せず、『スルスク』沈没後にすぐさま行動できるよう、態勢を整えておくがいいよ」

 そう言い残したのを最後に、リョウコは完全に崩れ落ち、砂浜の小さな染みとなった。その痕跡も、数秒後にはきれいさっぱり蒸発し、あとにはただひとり、セバスティアンが残るのみ。

 彼はしばらく、リョウコの消えた場所を見つめていたが、やがて立ち上がった。ズボンについた砂を払い、うんと背伸びをする。背中と首筋の筋肉が、ぽきぽきと鳴った。

「準備、か。確かに言う通りだ。先を見越して行動することは、成功を得るために必要不可欠……ちゃんとわかっているよ、僕もね」

 虚空に向かってそう呟くと、砂を踏んで去っていく――向かう先は、オリヴィアがいる岩の方。セバスティアンは、もう何時間も前から、妻に見守られていることに気付いていた。

 

 

 セバスティアンたちは知らない。自分たちの考えが、完全な的外れであることを。

 発端から結論まで、何ひとつ現実に則していないということを。

 ジョゼフは本当に打倒されているし、イザベラは女王だし、ヴァイオラは操られてなどいない。『スルスク』を落としたところで、彼らの望むジョゼフの再出現は起こり得ない。

 しかし、ことの正否に関わらず、彼らの行動は継続する。

 海上を孤独に航行する『スルスク』を、セバスティアンの放った刺客、『極紫』は容赦なく攻撃する――船体を傾け、歪ませ、悲鳴を上げさせる――その事実に、間違いはない。

 

 




今回は基本的にフラグ回であった。
ここでいろいろ思わせぶりにやらかした行動を、次回以降に生かせられればええのじゃが……。

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