モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

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第95話 ルフィールの恋心 イビルアイの果ての奇跡

 部屋に戻ったルフィールは私服に着替えてポニーテールだった髪を再びザザミ結びに戻して細メガネを掛け、いつもの格好になるとリビング兼寝室となっている部屋のテーブルの横に腰掛けた。台所では今クリュウがお茶の用意をしている。程なくしていつも嗅ぎ慣れている紅茶の匂いが漂い始め、ティーポットにティーカップ、小さな手作りケーキが載ったトレイを持ってクリュウがやって来た。

「落ち着いた?」

「はい。お手数をお掛けして申し訳ありません」

「いいっていいって。そんな事よりも熱いお茶でも飲んでゆっくり温まろうよ」

 クリュウは彼女の前にティーカップとケーキ、フォーク等を置いて、自らの分のティーカップを対面の席に置いて座ると、ティーポットを持って彼女のカップに注ぐ。香ばしい香りが何とも言えない安堵感をもたらせてくれる。そして温かくなったカップを両手で包むようにして持つと、そっと口元に運んでフーフーと冷ましながら飲む。おいしかった。紅茶自体は普通に売っている市販品なのに、彼が淹れてくれたというだけでどんな紅茶よりも、おいしくて嬉しい。

「ケーキも食べてみて。今回は結構自信作なんだ」

 そう言って彼が勧めたのはクリームたっぷりのロールケーキ。彼はこうして時々ケーキを作ってくれる。前はティラミスだったし、その前はチョコレートケーキだった。もちろん、どれもおいしかった。

「いただきます」

 ルフィールはフォークでロールケーキを一口サイズに切ると、クリームを絡めてから口に運んだ。クリームたっぷりなのに甘過ぎない絶妙な甘さとフワフワのスポンジにも少しだけ砂糖が入っておりどこを食べても程よく甘くておいしかった。

「甘くておいしいです」

「それは良かった。今回はちょっと普通の砂糖じゃないカロリー半分っていう特別な砂糖を使ったから不安もあったんだよ」

「カロリー半分……先輩は女の子の気持ちがわかりますね。でもどうして突然?」

「え? この前君が体重計に乗って落ち込んでるのを見たからなんだけど……」

「そ、そんな所見ないでくださいよッ!」

 顔を真っ赤にして怒るルフィールに、クリュウは「ご、ごめんッ! 別に悪気があって見た訳じゃ――ルフィールそれはダメッ! フォークを投げるのはマジで危ないからッ!」と悲鳴じみた声で慌てて謝る。彼としてはもちろん悪気なんてないし、彼女の為を思ってカロリーを押さえたケーキを作ったのだが、料理の技術よりも彼には乙女心を理解する事に努めてほしい。

「まったくッ」

 まだ赤い顔でフンッとクリュウにそっぽを向きながらケーキを頬張るルフィール。怒ってはいても彼が作ってくれたケーキは手放さない所が彼女のかわいらしい所だ。そんな彼女を見て苦笑しつつもほっとしたクリュウ。

「良かった。あんな事があったからもっと落ち込んでるかと思ってたけど、いつもと変わらないね」

「――そんな事ありませんよ」

 そう言ってこちらに向き直したルフィールの表情は、先程までのような明るいものではなかった。今にも壊れてしまいそう。そんな風に思ってしまうほどに弱々しく、儚い。

「これでも無理して笑ってるんですから、少しは察してくださいよ」

 弱々しい苦笑を浮かべながらルフィールはそう言うとスッと立ち上がって彼のすぐ横に移動して座り直す。そして、そっと彼にしな垂れた。

「ボクだって目以外は普通の女の子です。そう簡単に立ち直れませんよ」

「ご、ごめん……」

「謝らないでくださいよ。それに、こういう時はできれば慰めてほしいです」

「ご、ごめん……」

「……もう、謝らないでって言ってるのに」

 またも謝り掛けたクリュウは慌てて口を閉じたが、「ごめん」に代わるだけの言葉は出てこずに黙ってしまう。そんな彼を見てルフィールは小さく苦笑を浮かべた。

 しばらくの間、二人には何の会話もなかった。クリュウはどう声を掛ければいいか迷っているようで、ルフィールはそんな彼にしな垂れかかってずっと沈黙を続けている。

 長い沈黙に耐えられなくなり、何か話題をと思って必死に頭をフル回転させるクリュウ。そんな彼の心中を察したのか、ルフィールがスッと動いた。振り向くと、彼女はじっとクリュウを見詰めていた。部屋に灯された明かり火に照らされて揺れるイビルアイが、じっと彼を捉える。

「ルフィール……」

「ありがとうございました」

「え?」

「助けに来てくれて。ボク、すごく嬉しかったです」

 そう言ってルフィールは年相応の少女のようにはにかんだ。その笑顔と言葉に彼女の言いたい事を理解したクリュウもまた優しげな笑みを浮かべる。

「僕は当たり前の事をしただけだよ」

「それが嬉しいんです――今まで、誰かに助けてもらうなんて事なかったですから」

「ルフィール……」

「それに、助けれくれたのが先輩だったというのもネックですよ。他の誰かでもない、先輩だからこそ嬉しいんです」

 そう言って無邪気に笑うルフィール。二人っきりの時にしか見せないその笑顔には、先程の事件など微塵も感じられないほどに輝いていた。そして、そんな彼女に感謝されまくりのクリュウは頬を少し赤らめていた。

「そんなに堂々と言われると、さすがに照れるよ」

「事実を述べただけです」

「ははは……」

「――でも、本当に嬉しかったです」

 そう言って、ルフィールは小さく笑みを浮かべるとクリュウの腕にしがみ付いた。甘えるように頬ずりし、彼の温もりを体全体を使って感じる。この温もりが、永久凍土の自分の心に春をもたらしてくれたのだ。

 一方のクリュウは彼女の行動に頬を赤らめながらも振り解くなど無粋なマネはせずに固まっていた。というか、腕に柔らかく当たる発展途上の小さな二つの膨らみを意識し過ぎて頭がフリーズしているとも言える。そんな彼の状態など気づかずにルフィールは楽しそうに笑みを浮かべ続ける。

 開け放たれた窓からは風の音しか聞こえない。どうやら自分のせいで生徒会館で行われていたパーティーは中止されてしまったらしい。ちょっとだけ罪悪感。

 ふと、自分の格好を見てみる。いつもと変わらない、普通の私服。ついさっきまではきれいなドレスを身に纏い、彼にもかわいいと言ってもらえた――でも、もうあのドレスはない。思い出すだけで、胸が締め付けられるように痛む。

 あんな出来事さえなければ、あの後パーティーのフィナーレダンスを楽しむ事ができただろう。もちろん、踊り手に彼を誘うつもりでいた。

 でも、もうそれはできない。パーティーもドレスも、もう終わってしまったのだから。

 胸に残る空しさは辛い。でも、今こうして彼と一緒にいられる。それだけが、唯一の救いだった。

 確かに、あの時は本当に怖かったし悲しかった。自分の存在を全否定された気がして。でも本当はあの程度の事などに動じてはいなかった。皮肉にも、今までそういう事をされ続けてきたからこその耐性が救ってくれたのだ。本当に辛かったのはドレスをダメにされた事。そして彼を巻き込んでしまった事。そっちの方がずっとずっと辛かった。何より、あの優しい彼を女の子に対しても手を上げるほどに怒らせてしまった。その事が、苦しい。

 そっと彼の横顔を見てみる。照れたように頬を赤らめながらそれを誤魔化すように紅茶を飲んでいる。それはとても微笑ましいもので、年上なのについかわいいと思ってしまった。外見の愛らしさもあって、それは本当の気持ち。

 パッと見た限り、彼はいつもと変わらない。だけど、ほんの少しだけその表情が辛そうに見えるのはきっと気のせいではないはず。ハンターという生き物を殺す職業には合っていないのではないかと思うほどに優し過ぎる彼。きっと、カッとなったとはいえ女の子に暴力を振るってしまった事を後悔しているのだろう。

 もちろん暴力を振るった事は悪い事だ。でも、それは自分を守る為に仕方がなかった事。正当防衛の範囲内だ。でも、そんな一般常識など関係ない。結局は本人の気持ち次第。だからこそ、彼は後悔しているのだ。

 助けに来てくれた事は本当に嬉しい。自分にとって、あの時の彼は教会で生活していた頃、仲の良かったシスターに夜眠る際に読んでもらった絵本に出て来る勇者そっくりだった。でも、その事で彼が苦しんでいる。全部、自分のせいだ。

 頭が良過ぎる上にこれまでの経験からどうしても悪い方悪い方へ考えてしまう癖があるルフィール。彼と二人っきりという嬉しい環境なのに苦しむ彼を見てどうしても自分を責めてしまう。そして、次第に心が折れていく。

「ルフィール?」

 突然立ち上がったルフィール。クリュウが「どうしたの?」と声を掛けるのを待たずしてルフィールはフラフラと自分のベッドに入ると、深々と毛布を被ってしまった。

「る、ルフィール……」

 何か声を掛けるべきか悩んだ末、クリュウはしばらく彼女を一人にしておく事にした。こういう時は一人になるというのも一つの手。そしてそれは今の彼女には最も必要な選択であった。

 部屋から彼が出て行く気配を感じ、彼に心の中で感謝しつつ謝罪。

 部屋に一人残されたルフィールは毛布を深々と被り、その中で今まで無理して堪えていた色々なものが涙と一緒に溢れ出し、さめざめと泣き崩れた……

 

 それから一時間経ってもクードもシャルルも部屋には帰って来なかった。代わりにシグマが部屋を訪ねて来て二人は彼女のチームの部屋に泊まる事になったと伝えられた。それは明らかな校則違反ではあるが、どうやら生徒会長クリスティナのお墨付きらしく堂々としたものらしい。彼女には感謝しっぱなしだ。

 帰りにクリスティナの所へ寄るというシグマにルフィールが借りていた彼女の上着を返すよう頼み、その後クリュウは沸かしておいた風呂に入って自らのベッドで読書を開始した。彼が読書している間、一度だけルフィールは起き上がると風呂に入った。しかし上がるとすぐにベッドに潜ってしまい、クリュウは小さくため息した。

 そして消灯時間。寮中に消灯時間を知らせる角笛が鳴り響き、一斉に各部屋の明かりが消されて寮は暗闇に包まれる。まぁ、当然こんな時間に寝るなんて不可能だという連中はきっと小さな明かりだけで寮友とダベっているだろう。ちなみにシグマ達の部屋も全員が起きており、みんなで大富豪などを楽しんでいたりする。

 一方、クリュウとルフィールは模範生らしく一切の明かりを消してそれぞれのベッドに入っていた。部屋を薄っすらと照らすのは窓から降り注ぐ淡い月の光だけだ。

 クリュウは毛布に包まって眠っていた。正確には目を閉じて睡魔が訪れるのを待っていたのだが、睡魔というのは来なくてもいい時には来るくせにこういう来てほしい時にはなかなか訪れない。何とも天邪鬼な奴だ。

 さらに目を閉じているとどうしても今日の事を思い出してしまう。確かに性根が腐った最低な奴らだったが、相手は女子だ。なのに自分はカッとなって容赦なく暴力を振るってしまった。ルフィールを救い出せた事は本当に良かったが、それだけが後悔として胸に残っていた。

 そんな事を考えていると余計に眠気は遠ざかってしまうもの。明日は一限から普通に授業があるのだ。寝不足で授業中寝てしまう訳にはいかないのでとにかく雑念を追っ払って眠る事だけに集中する。

「……先輩」

 そんな時に声が聞こえた。

 身を起こしてみると、二段ベッドのハシゴの所に薄っすらとした月明かりに照らされるルフィールがいた。メガネを外して髪も重力に任せただけという就寝時の格好。淡い月明かりに照らされるイビルアイはどこか幻想的な輝きを放っている。

「ルフィール? どうしたの?」

 クリュウの問いに対し、ルフィールは沈黙を続ける。よく見ると、淡い月明かりに照らされるその頬は若干赤らんで見えるし、もじもじとどこか落ち着かない様子。それを見て、何となく彼女が次に言うセリフを予想できた。

「……一緒に、寝てもいいですか?」

 恥ずかしそうに言うルフィール。予想通りの答えだったものの、改めてこう真正面から言われるとこれがまた困ったものだ。いつもなら即答で拒否するのだが、何せあんな事があってすぐの夜。どうしても彼女に対して強く言えなくなってしまう。しばし考えた末の回答は、

「……ほ、本当の本当に今回だけだからね」

 以前にもそう言った記憶があるが、あれからも彼女は時々自分が眠った後に潜り込む事が数回あった。どれも彼女が一番の早起きだった事で何とか誰にもバレなかったが、こうして真正面から訊かれるのは今度で二回目。そしてそのどちらも彼女の訴えるような瞳に負けてしまったのだ。

 クリュウの返答にルフィールは嬉しそうに微笑むと、「失礼します」とご丁寧にあいさつをしてからベッドの中に入って来た。パジャマ姿でわざとなのか無意識なのか胸元を少し開き、風呂から出てあまり時間が経っていないせいか水気を含んだ髪と火照った表情、そして石鹸の香りなど無防備すぎる。クリュウはそんな彼女の姿に少しだけ頬を赤らめる。だが運良く月明かりだけが頼りの状況下ではルフィールには気づかれなかったらしい。

「いや、だからその……」

 服装を正してほしいと頼もうとした刹那、ルフィールは突如クリュウに抱きついて来た。突然の事に驚くと同時に顔を真っ赤にしてあわあわと慌てまくるクリュウに対し、そんな彼の胸に顔を埋めるルフィールはとても幸せそうな表情。

「ちょ、ちょっとルフィールッ!」

 慌てて彼女を引き剥がそうとするが、ルフィールは離れる事を頑なに拒みさらに強く抱きついて来る。そんな彼女の突然の行動に慌てていたクリュウだが、自分に抱きつきながらルフィールが微かに肩を震わせているのを見て冷静さを取り戻した。

「ルフィール、どうしたんだよ一体」

「ごめんなさい……」

 顔をもたげたルフィールのイビルアイには薄っすらと涙が溜まっていた。それは今にも溢れ出してしまいそうなほどにか弱く、まるで彼女自身の脆(もろ)さを表しているかのように儚い。

「本当に、ごめんなさい……」

「何で君がそんなに謝る必要があるのさ?」

「――ボクのせいで、先輩を苦しめてしまいました」

 ルフィールのその言葉に、クリュウは一瞬表情を硬くした。だがルフィールはその瞬間を決して見逃さず、やっぱりという感じで顔をうつむかせる。

「先輩は人を殴るような人じゃありません。なのに、ボクのせいで無理をして……」

「別に無理なんかしてないさ。それに僕だってムカつく時はムカつくし、人を殴る事だってあるさ」

「確かにそうかもしれません。人間も所詮は本能に生きる生物です。しかし、人間には他の生物にはない理性というものがあります。その理性を放棄して、先輩は彼女達を殴った。これは、先輩の性格からは信じられない事です」

 自分の知っているクリュウという人間は、困っている人に手を伸ばせずにはいられない極度のお人好し。例えその先にどんな困難が待ち受けていても、前だけを見詰めて歩み続ける。他人の為なら自らを犠牲にしても構わないという危険性も孕んだ、究極のお人好しだ。その彼が人を殴った。それほどまでに、自分は彼を追い詰めてしまった。その事が、苦しい。

「ボクのせいで、先輩は人を殴り、そしてそれを後悔して苦しんでいる。全部、ボクのせいです……」

「ルフィール……」

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」

「……もういいから――泣かないでよ」

 言われてから気づいたのだろう。ルフィールは頬を流れる涙を慌てた様子で袖で拭うと、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も繰り返す。そんなルフィールを、クリュウはそっと抱き締めた。

 何も言わず、無言のまま抱き締め続ける。掛けたい言葉はたくさんあるが、今は何も言わない方がいい。言葉よりも行動の方が、時には効果がある事もあるのだ。

 無言で抱き締めるクリュウの腕の中で、ルフィールはさめざめと泣き続ける。

 自分の腕の中で泣き崩れる少女は、とても小さくて弱々しい。どこからどう見ても、普通の女の子だ。目の色が違う、《そんな程度》の事で彼女の運命は大きく狂わされている。

 バカらしい。人間の価値はその程度の事で決まるものではない。外見だけで人を判断するのは器の狭い人間か、人を見定める価値も方法も知らない愚か者だ。

 確かに、外見もまた人の価値を判断する材料の一つだろう。だが、所詮は《一つ》だ。それだけで決定事項ではない。内面を知り、その人の心の姿を見て、共に過ごして本当の《その人》を見て判断する。それがその人の価値だ。

 たかが目の色が違う。その程度の事で彼女を迫害し、己がくだらなくてカスのようなプライドや優越感に浸っているような人間は、人と関わり合う価値も権利もない。そういう連中はそういう連中同士と組んで負け組の道を勝手に転がり落ちていればいいのだ。

 ルフィールの価値は、そんな瞳で決まるものではない。彼女の内面は皆が知る校内学科首席だけではなく、自分達が知っている仲間と距離を置きながらもしっかりと仲間の為に様々な事を考えて行動に起こしている頼れるチームメイトという一面、シャルルとの友達だからこその口ゲンカする普通の子としての一面、そして今の所自分にだけ見せてくれる本当はとても弱くて誰かが支えてあげないと倒れてしまいそうなくらい儚い少女としての一面。他にも、ルフィールには様々な姿があり、それら全てやまだ知らない姿なども総合して、《ルフィール・ケーニッヒ》という一人の少女になる。

 彼女を迫害する奴らは、そんな彼女の本当の姿を知らずに、知ろうともしないで勝手に彼女を見限っている愚か者達だ。

 何が伝説の悪魔と同じ瞳だ――何がイビルアイだ。

 クリュウにとっては、皆が忌み嫌うそのイビルアイだってルフィールという一人の少女を形成する一つのチャームポイントに見えている。むしろ、なぜ皆がそれを嫌っているのかがわからない――ルフィールのこの異色の瞳が放つ神秘的な輝きが、皆には見えていないのだろうか?

 ルフィールの本当の価値を理解しているのは自分だけ。そんなおこがましい事は思っていない。でもせめて、本当の彼女を理解している数少ない者の一人として、彼女を支えてあげたい。彼女の味方になりたい。その気持ちは本当だ。

「ルフィール」

 そっと声を掛けると、ルフィールはゆっくりと顔をもたげた。涙に塗れるイビルアイは弱々しく煌く。そんな彼女の瞳(イビルアイ)を見詰め、クリュウはそっと微笑んだ。

「例え世界中の人が君の事を忌み嫌っても――」

 クリュウの言葉にルフィールは悲しげに顔をしかめた。彼女の場合、その例えは決して《例え》で済まない。だが、クリュウはすでにある決意を固めていた。純粋に彼女の事を想っているからこその、硬くて決して揺るぐ事のない強い決意。

「――僕は君の味方だよ」

 その瞬間、ルフィールの瞳(イビルアイ)が大きく見開かれた。そんな彼女に向かって小さな笑みを浮かべながら、クリュウは言葉を続ける。

「もちろん、それは例えであって君の味方は僕だけじゃない。シャルルもクードも、アリアやシグマ、レキシントンさんだって君の味方だよ。敵は多いかもしれないけど、味方だってたくさんいる。君は、決して一人なんかじゃないんだから」

 そう。ルフィールには多くの仲間がいる。自分だけじゃない、自分達を囲む皆が自分の、そして彼女の味方だ。

 今まで彼女は一人だったかもしれない。だけど、もう一人なんかじゃない。かけがえのない仲間がこうしてできた今、もう一人で苦しまなくてもいい。喜びは二倍に、悲しみは半分に。それが仲間であり、友達だ。

 ルフィールはクリュウの言葉にしばし沈黙していたが、彼の腕の中で小さく一度うなずくと、ゆっくりと赤らんだ顔をもたげた。じっと見上げるイビルアイには、先程までとは違った涙が浮かんでいる。

 じっと自分の言葉を待っているクリュウを見上げながら、ルフィールは一度彼の言葉を心の中で反芻(はんすう)してみる。

 ――僕は君の味方だよ。

 その後の言葉も嬉しかったが、彼女にとっては《その言葉》が一番嬉しかった。

 教会を出て初めてできた友達。初めて自分を助けてくれた人。そして、一生この人の事を尊敬し、少しでも恩返ししていこうと決めた人――ずっと一緒にいたい。そう心から思える人。

 ――でも、自分は彼と一緒にいてもいい存在なのだろうか。時々、幸せを感じるたびに思ってしまう。

 自分は不運を呼ぶ。それは呪いでもなんでもなく、この瞳そのものが呼び込む自分だけを不幸にするもの。だけど、自分と一緒にいると、その不運が彼にも襲い掛かってしまうのではないか。事実、自分のせいで今回彼は窮地に追い込まれた。その事実が、ルフィールの中で冷たく渦巻く。

「……ボクは、先輩と一緒にいてもいい存在なのでしょうか? そんな権利、イビルアイのボクにあるのですか?」

 自然と、そう言葉が漏れ出していた。

 ――不安。

 何よりも一番に彼の事を最優先に考えるルフィール。だが、自分という存在が、彼にとっては何らアドバンテージにならない。むしろ足を引っ張っているのではないか。そんな不安が、ずっとあった。

 もしも、自分が彼にとって邪魔な存在だというなら、足かせとなるなら……自分は……

「バカな事言うなよ」

 いつになくひどく不機嫌そうな彼の声にハッとなって顔を上げると、じっと自分を見詰めている彼と目が合った。だが、その翡翠色の瞳は声色と同じく不機嫌そうに細まり、自分を睨んでいた。

 なぜそんな目で見られなくてはいけないのか。訳がわからずに困惑していると、ポンと頭に彼の手が載せられた。直に伝わって来る彼の優しげな温もりに、自然と頬が緩んでしまう。だが、自分の置かれた状況を思い出すとその笑みは消えた。顔を上げると、相変わらずクリュウは不機嫌そうな表情を浮かべていた。

「先輩……?」

「あのなルフィール。誰かと一緒にいる事に権利なんて必要ないんだよ。一緒にいたい、そう思うなら一緒にいればいい。それだけの事じゃないか。それを存在とか権利とか、はたまたイビルアイだとか。僕がそんな事を気にするような人間だと思ってたの?」

 不機嫌そうに言うクリュウの口調はどこか厳しい。それは当然だろう。権利とか存在とか、そういう自分を卑下にする考え方はクリュウが最も嫌うものであり、尚且つ自分がそんな薄情な、まるで今まで彼女を虐げてきた者達と同じ考えをしていると彼女に思われていたという事が許せなかった。まさにそれは一種の裏切り行為だ。

「先輩がそんな人じゃないという事は重々承知しています! で、でも……ッ」

 慌てて彼の誤解を解こうとしたルフィールだが、その次の言葉を言おうとして言いよどんだ。一度目を伏せ、クリュウの表情を盗み見るように確認してから、とても小さな声で言う。

「……やっぱり、ボクは普通の人とは違います。目の色が違う。先輩にとってはたったそれだけの事かもしれません。しかし、ボクにとってはそれが全てなんです。この瞳のせいで、ボクの人生は狂ってしまった。それほどまでに、とても重要な事なんです――だから、怖いんです」

 不安そうに、クリュウのパジャマの裾をしっかりと握りながら、ルフィールは搾り出すような声で続ける。

「先輩の事は信じています。でも、ボクは心のどこかで先輩を疑っている。やっぱり他の人と同じで、いつかボクは見捨てられるんじゃないかって。ボクには今まで教会の外で味方なんていませんでした。それが、先輩と出会ってからは次々にできました。それが、怖いんです。何も失うものがないのなら、失う苦しみや悲しみを味わわなくて済む。だけど、ボクは失いたくない、そう思ってしまいました。みんなと一緒に、この幸せが続けばいい。心からそう思っていました。だけど――」

 そこでルフィールは一度区切ると、ブルブルと体を震わせた。月光に照らされるその表情は苦痛に歪んでいる。思い出したくもない悪夢。だけど、それが自分の中に《猜疑心(さいぎしん)》を蘇らせてしまった。

「今日の事で、思い出してしまったんです。今まで自分がどんな扱いを受けていたか。だからこそ、この幸せもいつか壊れてしまうんじゃないか。失いたくない、やっと手に入れた幸せ。なのに、それはとても簡単に壊れてしまう砂上の楼閣(ろうかく)に過ぎません。ボクは、もう辛い思いは嫌です――ボクだって、まだ十三歳の女の子ですッ! こんな苦痛をいつまでも味わい続けて、平気な訳ないじゃないですかッ!」

 心を蝕(むしば)む黒くて冷たい不安。それから逃げるように、忘れるようにルフィールは叫ぶ。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いッ!

 全てを失うのが怖い。

 一人になるのが怖い。

 ――クリュウの見捨てられるのが、怖いッ。

「ボクだって、本当はこんな気持ちを持ったまま先輩に接したくありませんッ! でも、今までの経験からどうしても人を心から信用できないんですッ! いつもどこかで疑ってしまう、恩人である先輩に対してもですッ! こんなの嫌なのに、こんな自分は嫌いなのに……ッ! ボクは、最低の人間ですッ!」

 ギリリッと音がするのではないかというくらい力強く歯軋りした。握られた拳は血の巡りを阻害し、真っ白になっていた。いっその事、この拳で自分の中にいる《猜疑心》という名の自分を殴りつけたかった。

 クリュウは他の人みたいに自分を裏切ったりしない。わかっているのに、頭ではわかっているのに心が拒絶してしまう。そんな自分が、嫌で嫌で仕方なかった。

 例えそれが長い外界での生活で身に付けた身を守る術(すべ)だとしても。失う時の悲しみを少しでも和らげる為に疑惑という保険をかけておく。今まではそのやり方に守られていて、感謝すらしていた。でも、今はそれが邪魔で邪魔で仕方がない。嫌で嫌で堪らなかった。

 ずっと忘れていたはずなのに。このままずっと、気づかなければ幸せでいられたのに。一度着いてしまった疑惑という名の炎は、消える術を知らない。なぜなら、今まで消す必要がなかったからだ。

 彼を疑いたくないのに、疑ってしまう。せっかく手に入れた幸せが、壊れてしまう。ルフィールは恐怖と絶望に身を震わせた。心が壊れるというのは、こんな感じなのかもしれない。そんな事を考える意外に冷静な自分がいる事に気づき、ますます自分が嫌になった。

 そして何より、きっと自分は彼に嫌われた。きっとそうに決まっている。自分の事を心から信頼し、仲間と思っていただろう彼を、自分は裏切っていたのだから。

 自分は最低の人間だ。嫌われて当然の事をしたのだから……

 残ったのは絶望と消失感、そして空しさだけだった。改めて、自分の中でどれだけ彼の存在が大きくなっていたかがわかった――もう、彼なしの自分は考えられない。それほどまでに、《クリュウ・ルナリーフ》という人間は、自分にはなくてはならない支えだったのだ。

 ――そして今、自分はその支えを失った。今までで一番辛い、失う苦しみと悲しみ。絶望感だった。

 辛くて辛くて、涙が零れ落ちる――そっと、その涙を拭われた。

「……え?」

 驚いたようにゆっくりと顔を上げると、そこにはもう見る事もできないと覚悟していた彼の笑顔があった。どうして、彼は今自分に向かって笑ってくれているのか。意味が分からず呆然とするルフィールの頭を、クリュウはそっと優しく撫でた。

「……ったく、もっと僕を信用してくれてもいいじゃないか」

 そう言ってクリュウはルフィールの小柄な体をそっと抱き寄せた。突然彼に抱き締められたルフィールは状況が理解できずにおろおろとしている。そんな彼女を体全体を使って包むように抱き締めるクリュウは、そっと彼女に言葉を送った。

「あのなぁ、前から言おうと思ってたけどルフィールは考え過ぎな所があるよ」

「な、何を……」

「他人を全部理解するなんて、できる訳ないだろ? 誰だって家族や親友と呼べる存在にだって隠している事なんてたくさんある。そんなのをいちいち気にしてたら気苦労で倒れちゃうよ」

 クリュウが言っている言葉の意味を理解するのに、少しばかりの時間が必要だった。そして、十分な時間を使ってゆっくりと彼の言葉の真意が脳に染み渡って理解した時、言いようのない《怒り》が膨れ上がった。誰もが恐れる邪眼(イビルアイ)が鋭く輝く。

「そんな単純な事を言っているのではありませんッ! ボクは、先輩を裏切っていたんですよッ!?」

「時には親を殺したいと思う事は思春期や反抗期なら誰だってある事さ。でも、実際はもちろん殺さない。犯罪とかそんな大層な事なんかじゃなくて、本当は親の事が大好きだからだよ。それと同じようなもんさ」

「全然違いますッ! ボクは先輩の気持ちを踏みにじっていたッ! 先輩の信頼に対し、ボクは心の中ではそれを疑い、裏切っていたッ! 何で、何で怒らないんですかッ!? 怒ってくださいよッ! ボクは最低の人間ですッ! そんな情けは必要ありませんッ! 殴るなら殴ってもらった方がマシですッ!」

 感情が暴走して止まらないルフィールの泣き叫ぶような怒号が轟く。

 自分はクリュウの好意をずっと踏みにじっていた。裏切っていた。最低の行為をした。なのに、彼はそれを気にした様子もない――それが、腹立たしかった。

 なぜ怒ってくれないのか。こんな同情を受けるくらいなら、素直に殴って罵声を浴びせられる方がずっとマシだ。

 ルフィールは意外とプライド高い所がある。クリュウの行動は、そんな彼女のプライドを激しく刺激していた。

 ――いや、そんな事は後付けの理由に過ぎない。

 本当は、戸惑っているのだ。自分のした最低の行為を彼は気にした様子もなく受け止めてくれている。その信じられない現実に、激しく動揺しているのだ。だから何とか自分を納得させられる状況を作り上げようとしているのに、彼にはそれが通じなくてさらに動揺する。そんな悪循環に陥っていた。

 だが、そんなルフィールの言葉を気にした様子もなく、クリュウは彼女を抱き止め続ける。そんな彼の腕の中、いつの間にかルフィールは暴れる事も泣き叫ぶ事もせず、じっと彼を見詰めていた。まるで、彼の言葉を待っているかのように……

 じっと見詰めて来るイビルアイをじっと見詰め返しながら、クリュウはそっと、優しげな笑みを浮かべた。

「――僕は、ルフィールの事が大好きだよ」

「……なッ!?」

 クリュウの突然の発言にルフィールは顔をボンッと真っ赤に染めてあたふたとし始める。そんな彼女の反応にクリュウは笑みを浮かべたままそっとその頭を撫でる。

「僕はルフィールの事が大好きだから、そんな事くらいじゃ君を嫌いになんかならないよ」

「にゃ、にゃにを言っているのでしゅかッ!?」

 テンパり過ぎて呂律が怪しくなっているルフィールは顔を真っ赤にしたまま怒鳴る。だがクリュウはそんな彼女の頭を優しく撫で続ける。すると、撫でられるたびにルフィールは大人しくなっていく。

「ボクは先輩を裏切っていたんですよ? なのに、何で……」

「言ったでしょ? 僕はルフィールの事が大好きだって」

「そ、そんな事を堂々と……」

 こんな状況だというのにクリュウに《大好き》と言ってもらえて嬉しくて仕方がないルフィール。必死になって顔に出そうになる笑みを堪えているが、口元は堪えきれずに小さな笑みを浮かべてしまっている。そんな彼女の様子に気づいていないクリュウは、さらに言葉を続ける。

「それに、僕はルフィールに絶対の信頼を寄せてる。例え君が僕の事を心の底では疑ってたとしても、僕の君に対する信頼や気持ちは揺るがないよ」

「そ、そんな詭弁必要ありませんッ!」

「詭弁か……。確かにそうかもしれない。だって正直、君の話を聞いた時ショックだったもん」

 そう言ってどこか悲しげな表情を浮かべるクリュウを見てルフィールは罪悪感で胸が押し潰されそうになった。やっぱり、自分は最低の人間だ。信頼を寄せていた恩人である彼を失望させたのだから……

 落ち込むルフィールの頭を撫でながら、クリュウは「でもさ……」と言葉を繋げる。

「そんな事やっぱり些細な事でしかないよ。僕はそんな程度の事は気にしないよ」

「で、でも……ッ!」

 何とか食い下がろうとするルフィールを見て、クリュウは怪訝そうに首を傾げた。

「何でそんなに食い下がるのさ。もしかして、君は僕に嫌われたいの?」

「そんな事ある訳ないじゃないですかッ! ボクは、先輩に嫌われるなんて絶対に嫌ですッ!」

「だったら、もういいじゃん。僕は気にしないって言ってるんだからさ」

「……先輩」

 そう言って笑ってくれるクリュウの笑顔を見て、ルフィールは体中の力が抜けたような気がした。最悪を予想していて、なけなしの勇気貯金をはたいて覚悟もしていたのに、彼はそんな予想を大きく裏切った。もちろん、良い方向にだ。

「本当に、許してくれるんですか?」

 まだ信じられないルフィールは、再度念押しするように問う。そんな彼女の問い掛けに対しクリュウは笑って答えた。

「許すも何も、ルフィールは何も悪い事はしてないじゃん」

「で、でも……」

「僕が人を殴った事について気にしてるなら、それはもういいよ。僕だって男だ。長い人生の中ではそういう事もあるって。気にしなくてもいいよ」

「先輩……」

「それより明日は授業があるだろ? もう寝ちゃおうよ。二限からのルフィールと違って僕は一限から調合学があるから早く起きないといけなんだし」

「そ、そうだったんですか。す、すみません……」

「いいからいいから。さっさと寝ちゃおうよ」

 そう言ってクリュウはベッドに横になった。ルフィールはそんな彼の後姿をじっと見詰めていたが、すぐに自らも横になって掛け布団を被った。

 何となく彼の方を向くのが気恥ずかしくて、二人は互いに背を向け合う。だが、意外にも動いたのはクリュウの方だった。

「せ、先輩……? ひゃッ!?」

 振り向こうとしたルフィールは背後からクリュウにしっかりと抱き締められた。突然の事に顔を真っ赤にしてあわあわとうろたえるルフィールに対し、クリュウは何も語らずにそっと彼女の体を抱き締め続ける。

 次第にその温かな温もりに優しく包まれる感覚に身を任せ、ルフィールは心地良さを感じ始めた。内にある不安を溶かすように温かい彼の腕の中、次第に眠気が訪れた。

 今日は色々な事があった――いや、もう日付は変わっただろうから昨日という方が正確か。そんな事を思う自分に苦笑しつつ、昨日あった事を思い出す。

 久しぶりにひどい目に遭ったが、それ以上に素敵な事があった。

 改めて、クリュウ・ルナリーフという人間の事を尊敬した。やはり、自分が慕うだけあって彼はすごい人だった。普通ならこんな自分の裏切り行為に怒って当然なのに、彼は怒る所かそれを含めて改めて自分を迎え入れてくれた。

 本当に心優しい人だ、クリュウ先輩は――そして、改めてクリュウ・ルナリーフという少年を好きになった。

 ずっと違うと思っていたが、もう隠しようがない。だって、今回の事でわかってしまったのだから。

 夢の中に落ちていく寸前、ルフィールは大好きな彼の腕の中で頬を赤らめながら、こう確信した。

 

 ――ボクは、先輩の事が大好きです……――


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