少女は一人、雪山を歩いていた。
全身をマフモフシリーズと呼ばれるハンターも使う防寒着で包んではいるが、凍えてしまうような寒さで少女の体力は限界に達しつつあった。
もう何時間歩いたかわからない。ひたすら、逃げるように歩いて来た足は痛みすら感じる程に疲れ切っていて、雪上のわずかな凹凸でも転倒してしまいそうな程に弱っている。
ハァハァと呼吸するたびに視界は一瞬真っ白に染まり、すぐに肺には凍ってしまいそうな程に冷たい空気が満ちあふれる。
「あぁ……うぁ……」
呼吸と一緒に苦しげな声が漏れる。だがその声はあまりにも幼いものだった。それもそのはず。彼女はわずか八歳の幼い少女だった。
少女はフラフラの足に無理矢理力を入れて歩き続ける。
痛む足を無理矢理動かす彼女の顔は苦悶に歪んでいた。その片目には包帯が巻かれ、薄っすらと血が滲んでいる。先程の悲惨な事故で失われたものの一つだ。
残った方の目からは絶えず涙が零れ続ける。痛みもあるが、それ以上に彼女は自分の左目以上に大切なものを失ってしまった。
「お父さん……お母さん……ッ」
大好きだった両親を呼んでも、二人からの返事が返って来ない事はわかっていた――だって、二人とももうこの世にはいないのだから。
「く……ッ」
悔しさと悲しさ、怒りと焦り。様々な感情が入り交じって少女の頭はグチャグチャになる。歯軋りしたくても、寒さのせいで歯の根が合わなかった。
「……あ」
新雪の積もった地面にわずかにあった溝に足が引っかかる。すでに歩き疲れてフラフラだった少女はいつもなら簡単にリカバリーできるはずのバランスの崩れも立て直せず、無様に雪の上に倒れ込んだ。
顔から雪の中に突っ込んだ少女はしばらくそのまま動かない。薄っすらと背中に雪が積もり始める頃、ゆっくりと顔を上げた――その表情は、涙と雪でグチャグチャになっていた。
「何で……ッ、こんな事に……ッ」
本当に、どうしてこんな事になってしまったのか。何度自問自答しても、わからなかった。
北にあるとある街で大量に仕入れた特産物を持って、大都市ドンドルマでそれを輸送料や利益を加えた値段で売る。至って普通の商いをする為の旅だったはず。
少女の両親はそこそこ名の知れた商人で、複数の竜車を率いる商隊の隊長と副隊長だった。少女は両親に連れられて全国各地を旅している。苦労も多いが、大好きな両親や気心の知れた仲間と一緒の旅は、それはそれで楽しいものがあった。
それに、少女には好きな人がいた。北回りルートと呼ぶ北国を経由するルートの際、休息を取りながら必要物資を補充する小さな辺境の村に寄る。寄る頻度は一ヶ月に一回あるかないかくらいだが、少女はその村へ行く事をとても楽しみにしていた。
そこにはとても明るくて優しい少年が住んでいた。人見知りが激しく、友達と言える存在がいなかった少女に優しく声を掛けてくれたのが、彼だった。
一緒に過ごしているうちに、彼の優しさにすっかり虜になってしまった。彼の笑顔がかわいくも格好良くて、悪ガキにいじめられそうになった時、結局は彼の幼なじみが蹴散らしてくれたのだが、ボロボロになりながら必死に自分を守ってくれた彼の姿を見て、少女は彼に恋してしまった。
だから、少女は今回の旅でもその村に寄る事を、彼に会える事を楽しみにしていた。彼にプレゼントしようと、不器用ながらマフラーを編んで彼をビックリさせようとしていた。
――だが、そんな彼女の恋心は、突然粉々に壊れてしまった。
最初は、ちょっと違和感を感じていた程度だった。
フラヒヤ山脈に入った際、麓付近にいつもは長閑な景色の象徴とも言うべきポポの姿がどこにもなかった。妙な感じはしたが、特筆して警戒する事もなかったので無視して商隊はフラヒヤ山脈を越える為に山頂を目指した。
護衛には一応四人の腕利きハンターチームを雇った。彼らに護衛されながら商隊が山頂に到達し、山の反対側へと向かう最中――それは突然現れた。
すさまじい咆哮と共に突如奴は空から降って来た。竜車を引くポポが身の危険を感じて暴れ出し、ハンター達も突然現れたモンスターを前にすぐさま商隊の前面に展開した。少女は、母の腕の中で突然現れたモンスターを前に恐怖のあまり震えていた。
モンスターはゆっくりと振り返り、商隊を見る。その瞬間、辺りの空気が変わった。気温が下がった訳ではない。でも確かに、体感温度はぐんと下がった。幼い少女は知らないが、それが殺気というものだ。
モンスターはゆっくりと胴を持ち上げ、フラヒヤ山脈中に轟くような咆哮を放つ――そしてそれが、虐殺の始まりだった。
少女の目の前で商隊はあっという間に壊滅した。モンスターは信じられない速度で雪上を縦横無尽に駆け回り、竜車を打ち砕き、ポポを食い荒らし、逃げ回る家族を殺戮した。ある者はモンスターに轢き殺され、ある者はモンスターが投げた雪玉を食らって圧死し、ある者はモンスターの鋭い爪で斬り殺された。
誰かの悲鳴に振り返れば、最後のハンターがモンスターに食い殺される瞬間だった。
少女は母と身を寄せ合って壊れた竜車の陰に隠れていた。すでにその時には壊れた竜車の破片で左目を負傷し、母親に止血だけしてもらいながら、恐怖と激痛で泣いていた。でも恐怖のあまり声も出なかった。
しかし、何度目かの突進で自分達が隠れていた竜車の残骸が吹き飛ばされ、母と離れてしまった。その瞬間だった、少女は一生忘れられない光景を残った目で見てしまった――少女の目の前で、母親はモンスターに食い殺された。
一生忘れる事のできない純白の雪が一瞬で真っ赤に染まった光景と、柔らかな声が特徴的だった母の想像を絶する断末魔の絶叫。最期の一瞬に聞こえた「逃げて」という母の悲鳴。
母を食い殺し、母の血でべっとり汚れたモンスターの姿を目にした瞬間、少女の中に激しい憎悪の感情が沸き上がった。気がつけば、自分は竜車の残骸から角材のようなものを掴んでモンスターに突進していた。こんな物でモンスターを倒せない事は、子供でもわかっていた。でも、彼女を支配した憎悪は、そんな簡単な事も忘れさせるほど彼女を狂わせていた。
子供の、幼稚な速度での突進など、モンスターには止まって見えていただろう。モンスターはゆっくりと振り返り、ギロリと彼女を睨む。そして、まるで鬱陶しい虫を蹴散らすかのように腕を振るい、何人もの家族を惨殺したその爪で少女を斬り裂いた。
「――え?」
雪の上を真っ赤に染めたのは、自分の血ではなかった。目の前にあったのはモンスターの凶悪な顔ではなく、大好きな父の苦悶に歪んだ顔だった。
父は自分を抱いたまま地面に倒れた。その背中は爪の直撃を受けて裂け、大量の血が真っ白な雪を真っ赤に染めていた。
ゆっくりと歩み寄って来るモンスターを背後に、父は少女を抱いて突然走り出した。抱き抱えられた少女は何がどうなっているかわからず、ただ父の顔を呆然と見ていた。その時、父はゆっくりと自分の方を見ると、静かに言った。
「元気でな、サクラ」
――直後、少女の体は飛んでいた。否、少女は崖の上から父親に投げ捨てられたのだ。
下へと落ちていく中、少女は父の名を叫んだ。だが少女の目の前で、遠くなっていく崖の上に真っ赤な鮮血が迸ったのはその直後の事だった。落下しながら、少女は泣き叫び続けた。
「……ッ!?」
ガバッと布団を蹴飛ばして、サクラは起き上がった。額には脂汗が浮かび、体は寒くもないのに夢の中での恐怖で震えていた。視界が歪んでいるのは、涙のせいか。頬に手をやれば、汗とは違うもので指先が濡れた。
「……夢」
サクラはゆっくりと片手で顔を覆いながら、ゆっくりと深呼吸し、グシグシと袖で涙と汗を拭い取る。視線を窓の外に向ければ、まだ外は暗い。深夜だという事は一目見てわかった。
「……何で今更」
サクラが見たのは、夢ではなかった。あの光景はもう何年も昔に、一瞬にして両親と家族を失った悲劇の日の光景だった。全て、彼女自身がその隻眼で見た虐殺の現実。
結局、サクラは三日程雪山を遭難した末に救助された。しかし両親は殺され、商隊は全滅し、膨大な借金と遺族による多額の損害賠償だけが彼女に残された。全てを失い、死すらも覚悟した地獄の日々の幕開けとなったあの日の残酷な光景。彼女が夢の中で見たのは、その光景そのものだった。
「……」
視線を自らの手に向けると、その手は細かく震えていた。もう何年も前で、自分は如何なるモンスターを前にしても動じないハンターとなった今でも、あの時の恐怖は忘れられないでいた。
「……チッ」
小さく舌打ちし、震える手をもう片方の手で殴りつける。自分はもう過去の恐怖でいつまでも震えているような弱虫じゃない。
あれから自分は、独学でハンターとなった。膨大な借金を返済する為には普通の稼ぎ方では何十年掛かるかわからなかった。一刻も早く借金を返済する為、何より、もう二度と自分と同じような境遇の人を生まない為に、ハンターの道を志した。
子供にも等しい少女がハンターになる事を、周りは嘲笑していた。だがそんな周りの声など無視し、自分はハンターの道を邁進し続けた。特に護衛依頼に関しては割に合わない仕事でも引き受け、ただひたすらに身を削る思いで多くの商隊を護衛した。そしていつの間にか、自分は《護衛の女神》ともてはやされるようになり、誰が言い出したかはわからないが《隻眼の人形姫》という二つ名も知られるようになった。
今では子供の頃から好きだった彼と一緒に同じチームを組み、頼もしくて心から信頼できる仲間兼恋敵も居て、第二の故郷とも言うべきこの小さな村で平和に暮らしている。波瀾万丈の人生だったが、ようやく今人並みの幸せを得て暮らしているのだ。
なのになぜ、今になってあの時の記憶が蘇ったのか。思い当たる節もなく、サクラは言いようのない不安に胸が締め付けられるようだった。
窓の外を見れば、遠くにイルファ山脈が見える。秋も次第に冬へと移り変わり始め、あと一ヶ月も経てば再びイルファ雪山は閉山される。なぜか、そんな雪山に妙な不安を抱く自分がいた。
カタカタと窓が震える。嫌な風が吹き出して来たらしい。月もいつの間にか雲に隠れ、大地には月の恵みの光が届かず、闇に支配される。
いつの間にか、サクラは自分で自分を抱き締めるような格好で窓の傍に立っていた。
いつもと変わらない夜のはずなのに、なぜこうも不安に陥るのか――なぜ理由もなく、体は震えているのか。
ズキッと、失われた左目が痛む。
サクラは左目を押さえながら、残された右目で窓の外を見詰め続ける。
何かがおかしい。何か、とてつもない危機が迫っている。サクラの勘がそう告げていた。
「……何もなければ、いいのだけど」
サクラは静かにカーテンを閉めると、再び布団の中に潜り込んだ。頭まですっぽりと被って、布団の中で丸まる。無理矢理目を閉じて、明日に備えて眠り始める。
ゆっくりと眠気がやって来て、意識が遠のいていく。そして、意識が夢の中へと落ちていった。
――夢の中に落ちる寸前、遠くから何かの叫び声のようなものが聞こえたような気がした。
イージス村を、暖かな朝日がゆっくりと包み込み始める。
フィーリアの朝は早い。誰よりも早く起床して、朝食の用意を始める。本当は当番制なのだが、早起きするフィーリアが習慣的に朝食担当になっていた。というか、朝が弱い上に料理スキルが殺人級のシルフィードは戦力外だし、サクラはクリュウが絡まないと積極的に動かないので、当番制自体が最近ではあまり機能しておらず、結果家事全般はフィーリアが担当という風になっているのだ。
台所に立って料理を始める頃にはツバメがオリガミと共に起床する。欠伸をしながら「おはようじゃ。お主はいつも早起きじゃのぉ」と現れるツバメに笑顔で挨拶して、テキパキと朝食の準備を進める。
「ワシも何か手伝うぞ」
「オイラもするニャッ」
顔を洗った戻って来たツバメとオリガミの申し出にフィーリアは礼を述べながらテーブル周りのセットを彼らに任せる。「任されたのじゃ」とツバメはオリガミを連れてリビングへと行き、テーブルを台拭きで拭くと、ナイフやフォーク、コップなどを並べ始める。一方でフィーリアは料理を皿に盛り付けていき、それをツバメとオリガミがリビングへと運び入れる。
「うぬ。良い香りじゃのぉ」
運ぶ料理から漂う香りに思わずニヤけるツバメ。それを見てフィーリアもまた嬉しそうに微笑みながら料理を並べていく。全てが終わるとツバメが振り返る。
「それでは、他の連中を起こすとするかのぉ」
「そうですね」
「うぬ。ではワシはサクラを起こす。オリガミはシルフィードを、フィーリアはクリュウを起こすのじゃ」
ツバメがあっという間に起こす面々を決定する。するとフィーリアは「はいッ」と笑顔を満開に咲き誇らせると、ウキウキ気分でクリュウの部屋を目指して奥へ消える。そんな彼女の背中を見送ったツバメはやれやれとばかりに肩をすくませる。
「本来なら、男子は同じ男子であるワシが起こすべきなのじゃが、それは野暮というものじゃろうて」
フィーリアの恋心を知っているツバメとしては、可能な限り応援したい。一応公平に応援しているが、やはり気持ちの上ではサクラの事を一番に応援してはいる。だが彼女のあんな幸せそうな顔を見ていると、やっぱり応援したくなってしまうのだ。
「ではワシはサクラを起こす。大変じゃが、シルフィードは任せたのじゃ」
「……ニャァ、シルフィードを起こすのは骨が折れるのニャァ」
朝がものすごく弱いシルフィード担当になったオリガミは前途多難だとばかりに苦笑を浮かべる。そんな彼の反応を見てツバメも「サクラを起こしたらワシも後から行くのじゃ」と苦笑を浮かべると、二人は二階の女子部屋へと向かった。
一方、二人より早く動いたフィーリアはクリュウの部屋の前にいた。廊下の窓を器用に姿見代わりに使って髪型を整える。エプロンもしっかりと装備し、右手にはおたまも装備。ちなみにこのおたまは料理用ではなくファッション用であり、エプロンとおたまはセットという妙な雑誌の影響が原因だ。
「良しッ」
気合を入れ、フィーリアは二度深呼吸してからドアをノックする。
「クリュウ様。もう朝ですよ。起きてください」
まるで新妻みたい。そんな事を思いながら思わず浮かんでしまう笑顔を引き締めて、返事がない事を確認してドアノブを回して部屋の中に踏み入る。
「クリュウ様ぁ。起きてくださぁい」
部屋の中に入ると、クリュウはまだ寝ているようだった。ベッドで布団を頭から被っている所を見ると熟睡しているらしい。それを見てフィーリアはため息を零す。
クリュウは基本的には早起きだし目覚めもいい。だがたまに夜更かしして朝が起きられないという事もある。どうやら今日はそれらしい。
フィーリアは部屋のカーテンを開けてからベッドのすぐ隣まで歩み寄ると、毛布の上に手を当てて少し揺らしてみる。だがクリュウはまだ起きる様子はなかった。はぁと少し大きめなため息を零すと、覚悟を決める。
「クリュウ様ッ。せっかくの朝食が冷めてしまいますから、起きてくださいッ!」
少々乱暴だと思いながらも、フィーリアは毛布をしっかりと掴んで一気に剥ぎ取る。これで起きない人間はいない、と思いたいがシルフィードにはこれすら通用しないのだが、クリュウには通用するはず。そんな事を思いながら毛布を剥ぎ取ったフィーリアだったが――
「……え?」
――フィーリアが見たのは、眠っているクリュウに抱きつくような形でこちらも幸せそうに眠っている寝間着姿のサクラの姿だった。
「な……ッ!? な、ななな……ッ!?」
驚きのあまり言葉が出ないフィーリア。そんな彼女の目の前でサクラはゆっくりと目を覚ました。寝ぼけ眼を擦りながらサクラは半身を起こすと、呆然と立ち尽くすフィーリアを見て一言。
「……おはよう」
「おはようじゃありませんよッ! 何してるんですかッ!」
顔を真っ赤にして怒るフィーリアの問い詰めに対して、サクラはボーッとしたままフィーリアの怒鳴り声で起きかけているクリュウを見て、
「……えへ」
「そこでなぜ頬を赤らめて照れ笑いを浮かべるんですかッ!? 何かものすごく不安なんですけどッ!?」
朝っぱらからフィーリアはすっかりサクラに振り回され、すでに息切れ寸前。二人は出会ってからもう結構長い付き合いだが、相変わらずサクラは我道を突っ走っていて、フィーリアは相変わらずサクラに振り回されるのがデフォルトとなっている。
「と、とにかく今すぐにクリュウ様から離れてくださいッ」
「……断る」
「なぜそこで断れるんですかッ!?」
「……妻だから?」
「疑問形にしないでくださいッ! 問うてるのは私ですッ! それとさりげなく自らの立場を捏造するのはやめてくださいッ!」
まるでライトボウガンの速射のように連続で撃ち出されるフィーリアのツッコミの数々。そりゃこれだけツッコミを入れれば息も切れる。ぜぇぜぇと荒い息を繰り返して息を整えているフィーリアを見て、サクラは「……朝っぱらから騒々しい」と他人事のように一言。
「だ、誰のせいだと思って……ッ」
息を整えながら羽音のような小さなツッコミを入れるのは忘れない。最近、サクラのせいでツッコミ属性が自分に身についている事に気づいて少々ショックを受けたフィーリア。これでも一応貴族家出身なのだが、すっかり世俗に染まってしまったようだ。
「う……ん……?」
すぐ隣でそんな風に二人が――特にフィーリアが――騒いでいれば、どんなに熟睡していても起きる。クリュウは陽の光に眩しそうに目を擦りながらゆっくりと目を開く。
「あ、おはよぉ……って、何事ッ!?」
寝起きは頭が回りにくいものだが、目覚めてすぐに隣で寝間着姿の美少女が座っていて、そのすぐ横にエプロン姿で立っている美少女が立っていて、その二人が睨み合っていれば大概は驚きの余り目も覚める。
「あ、クリュウ様おはようございます」
「……おはよう、クリュウ」
「あ、おはよう……って、律儀に挨拶してくれたのは嬉しいけど、どういう状況?」
寝起きのクリュウは今自分を取り囲んでいる状況に困惑する。何がどうなれば朝っぱらからこんな修羅場のような状況になるのか。凄腕の脚本家もビックリな展開だ。
「……クリュウ、覚えてないの?」
なぜか振り返ったサクラはショックを受けたような表情で問うて来る。クリュウが「何が?」と彼女の問いの意味がわからずに聞き返すと、サクラはポッと頬を赤らめて、
「……昨日は、あんなに激しかったのに」
「はいストォーップッ! それ以上はアウトですから一ミリたりとも口を開かないようにッ!」
サクラが爆弾発言しそうな雰囲気を感づいたフィーリアはすぐさま二人の間に割って入ってサクラの口を塞ぐ。ピュアなクリュウ相手によくもまぁそんな爆弾をぶっ込めるものだと、感心半分呆れ半分という感じでため息を零すと、今の自分の状況に気づく。
「あ、えっと……」
元々隣同士だったクリュウとサクラ。その間に割って入ったのだから、当然自分とクリュウの距離はものすごい近い訳で――というか、息が掛かるような距離だったり。
「す、すみませんッ」
顔を真っ赤にしてフィーリアは慌てて離れる。クリュウは何が起きたかわからず、頭の上に疑問符を浮かべていた。
「と、とにかくッ。もう朝食の準備はできていますので、お二人ともリビングへ来てください。それと、サクラ様は後で説教ですッ」
「あ、うん」
「……受けて立とう」
「……状況がまだわからないんだけど、とりあえず説教に対して受けて立とうっていう返しはおかしいと思うよ?」
クリュウの朝一番のツッコミが炸裂した所で、クリュウはベッドから降りる。口元を押さえながら大きなあくびをし、その場でうーんと体を伸ばす。そんな彼の体にサクラが無言でピタリと抱き付き、フィーリアがどこから出したのかわからないハリセンでド突いたりと、相変わらずルナリーフ家の朝は騒々しい。
寝起きのクリュウの右腕をフィーリア、左腕をサクラが掴む形で彼を誘導する。二人の美少女に抱きつかれているというのに、当の本人はまだ眠そうだ。自分の幸せ過ぎる状況に全く自覚がないのは、彼の天然のせいか、それとも日常過ぎて麻痺しているのか。どちらにしても、何て贅沢な日常を過ごしているのやら。
二人に先導されながらリビングへと顔を出すと、そこにはすでにツバメとオリガミがそれぞれ席に腰掛けていた。
「何じゃ。やっぱりサクラはお主の所におったか」
部屋がもぬけの殻だったので、何となくそう予想していたツバメは特に驚いた様子はない。これもまた日常の光景なのだろう。
「シルフィード様は?」
姿が見えないシルフィードを探すフィーリアだったが、それに対してオリガミの返答は、
「無理ニャ。全く起きる気配がないニャ」
お手上げだとばかりに両前足を挙げるオリガミ。シルフィードの朝の弱さはかなりのものだ。狩人モードがオンになる狩場なら平気だが、オフになる日常では本当に起きない。
「やはりシルフィードを起こせるのは、クリュウくらいじゃな」
「え? 別に僕は普通に起こしてるけど」
「お主に起こされるとなれば、すぐ目も覚めるじゃろうて」
「そうなの?」
「そうなのじゃ」
首を傾げるクリュウを前に、ツバメは呆れたようにため息を零した。フィーリアとサクラと視線が合うと「お主達も大変じゃな」と同情する。そんなツバメの言葉に二人は苦笑を浮かべた。
「僕が行けばシルフィは起きるの?」
「まぁ、十中八九間違いないじゃろうて」
「そっか。じゃあ起こして来るよ。せっかくだからみんなで食べたいし」
そう言ってクリュウは一人二階へと消えた。応援に行った方がいいか迷うフィーリアに対して、すでに席に座っているサクラとツバメ、オリガミは平然とお茶を飲む。皆、手助けがいらない事は十分わかっているのだ。
「あの、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫じゃよ。好きな男に起こされれば、どんな寝起きの悪い女娘(おなご)でも起きるものじゃ」」
「……寝ているなら、フィーリアと違って着替えを見られる心配もない」
「それだとまるで私が毎回のようにクリュウ様に着替えシーンを見られてるみたいじゃないですかッ!」
そんなやり取りを三人と一匹がしていると、程なくしてクリュウが戻って来た。その背後には髪を下ろした状態でのシルフィードの姿が。それを見てツバメは「ほらな」と一言。
「おはようございますシルフィード様……あれ? 何だか顔が赤くありませんか?」
確かにフィーリアの言う通り、シルフィードの頬は妙に赤い。フィーリアの問い掛けに対してシルフィード「あぁ、まぁ色々あってな」と何とも煮え切らない反応を見せる。
「……クリュウ、何があったの?」
さすがサクラ。音もなくクリュウに忍び寄ると直球勝負な問い掛けをする。彼女の容赦のない問い掛けに対し、クリュウもまた若干頬を赤らめながら「いやまぁ、事故というかそのぉ……」と視線を逸らす。そんな彼の反応を見てサクラは一言。
「……フィーリアよろしく、シルフィードの生着替えでも見た?」
「なぜそこで私を比較対象として出すんですか。それと、着替えの前に余計な単語を入れるのはやめてもらえませんか? 何かものすごく卑猥に聞こえます」
「いや、そういう訳じゃないんだが……」
「何じゃ。ハッキリせぇ」
痺れを切らしたツバメの促しに、いよいよ観念したのかシルフィードは言いづらそうに話す。
「……起こしに来てくれたクリュウに、寝惚けて抱きついてしまって」
「そのまま、押し倒されたというか……」
二人共恥ずかしそうに頬を赤らめながら互いに背中を向け合う。そんな微妙に桃色な雰囲気に包まれた二人に対し、三人と一匹は呆れたように見詰める。正直、バカップルのラブラブ話にしか聞こえないので、特にフィーリアとサクラは妙なイライラ感を抱いて仕方がない。
「本当に寝惚けておったのか? お主、どさくさに紛れて欲望を剥き出しておらんか?」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら言うツバメの言葉にフィーリアとサクラの目が鋭くなる。そんな二人の反応を見て「ば、バカな事を言うなッ! 二人も本気にするなッ!」と怒鳴る。そんな皆の様子をクリュウは不思議そうに傍観する。
「とにかく、食事にしますよ。支度してください」
ぷくぅと頬を膨らませて少しいじけてしまったフィーリアの言葉に、ツバメとオリガミは席に着き、クリュウとサクラ、シルフィードの三人は洗面所に消える。食前の歯磨きを済ませ、洗顔してサッパリして戻って来る頃にはシルフィードの頬の赤らみも取れ、いつものピシッとした凛々しい顔立ちが戻る。
戻って来た三人と全員分のコップに北風みかんジュースを注ぎ終えたフィーリアがそれぞれ席に着く。そしてようやく食事が開始された。今日の朝食は昨日から煮込んでいるポポノタンシチューと焼いた頑固パンの組み合わせに付け合わせに季節のサラダとポポノタンシチューは、フィーリアは渾身の手料理だ。
フォークで切れる程トロトロに煮込まれたポポノタン。口の中に入れた途端、デミグラスソースをベースにしたシチューの味と肉の旨味が口いっぱいに広がる。それはまさに絶品と言うに相応しい料理だった。
「うん、おいしいよこれ」
「えへへ、喜んでもらえてがんばった甲斐がありました」
クリュウに褒められてフィーリアは上機嫌だ。この時期はポポが冬に備えて秋のおいしい草や木の実を食べて肥え太っているので、生肉もポポノタンもそれぞれ脂ものっていて最も美味しい季節なのだ。
「ポポノタンがこのように柔らかくなるとは、不思議じゃのぉ」
「ポポノタンの塩焼きとビールの組み合わせは最高だが、ポポノタンのシチューもいいな」
「シルフィード、それじゃとお主おっさんっぽいぞ」
「う、うるさい」
「でもポポノタンを柔らかくする為にビールで一度煮込んでいるんですよ、これ」
「ニャー、これは姉御にも食べさせたいニャァ」
「もちろん、エレナ様やリリアちゃん、アシュア様にもお裾分けしますよ」
おいしい料理を囲んでの朝の何気ない会話は弾む。狩場に出れば常に緊張の連続なハンター達にとって、こうした平凡な休日は貴重であり、何にも代えがたい幸せな日々と言える。
だが、そんな朝の幸せな雰囲気に一人だけ乗り遅れてしまった者がいた。
「……ごめんフィーリア。私はパスするわ」
そう言ってサクラは立ち上がる。驚いてフィーリアが見ると、サラダとみかんジュースはなくなっているが、シチューだけは一口も食べていないように見えた。
「え? あ、あのお口に合いませんでしたか?」
いつもは何だかんだ言っても好き嫌いせずに食べてくれるサクラの予想外の反応に、フィーリアはおろおろと狼狽してしまう。そんな彼女を気遣うように「……別に、たぶんおいしいと思う」と珍しくサクラがフォローする。
「じゃ、じゃあ何で……」
フィーリアの当然の疑問に対し、サクラは目を伏せながら「……ポポノタンは、ちょっと苦手」と答えた。
「そ、そうだったんですか? す、すみません。全く知らなくて」
「……いい。今まで言う機会がなかったのだが悪いだけ」
「サクラって、ポポノタン嫌いだったっけ? 昔は村の名産だからって一緒に食べてた記憶があるけど」
クリュウも昔の記憶を思い返しながらが、サクラのポポノタン嫌いに疑問を抱く。すると、彼の言葉にサクラは一瞬何かを逡巡した後、言いづらそうに答えた。
「……あの事故を、思い出すから」
「あ……」
サクラの言うあの事故とは、彼女が両親を失った事故の事だ。あの時、サクラの両親率いる商隊はポポに竜車を繋げていた。しかしモンスターの襲撃に遭い、ポポ達は全て目の前で無惨に食い殺された。その惨劇が目に焼き付いてしまっていて、サクラはポポノタンが食べられなくなってしまったのだ。
「ご、ごめん……」
嫌な事を思い出させてしまったと謝る彼の言葉に、サクラは首を横に振る。
「……クリュウは悪くない。私の方こそ、食事中にする話じゃなかった。忘れて」
そう言って、サクラは自分が食べ残した分と空になった食器を持って台所に消えた。残された面々は、いずれも食事の手が止まってしまっていた。特に知らなかったとはいえ、サクラに嫌な事を思い出させてしまったと落ち込むフィーリアに、シルフィードは優しく「気にするな」と気遣う。
「で、でも……」
「そうじゃ。サクラは強い娘じゃ。あれくらいで落ち込むような奴じゃなかろうて」
ツバメもまたフィーリアを気遣うように言う。そんな皆の励ましもあってフィーリアも少し元気を取り戻し「今後は、ポポノタン料理はやめますね」と空笑いを浮かべる。そんな彼女の言葉にポポノタン好きなシルフィードがちょっとショックを受けたりと、少しずつ平穏を取り戻す食卓。
それから十分程で、全員が朝食を食べ終えた。皆が自分の使った食器を持って台所へと移動する中、同じように食器を持ったクリュウはふと窓の外を見る。遠くに見えるイルファ山脈は常に五合目より先は雪が積もっているのだが、冬になれば麓まで白色に染まる。まもなく冬に入ろうとしている秋だと、三合目辺りまで雪が積もり、周りの木々が紅葉していてイルファ山脈が最も美しい季節だ。ポポやガウシカが平穏に暮らす、長閑な雪山がそこに広がっていた。
「……あ、手紙書かないと」
先日エルバーフェルド帝国政府を経由して届いたアルトリア王政軍国現女王にしてクリュウの従兄弟のイリス・アルトリア・フランチェスカ女王からの手紙。そこには現在の近況と自分を気遣うような言葉に溢れていた。待ち望む彼女の為にも早急に返事を書かないといけない。が、
「……えぇっと、イリスにアリア、ルフィールにシャルル、あとカレンとルーデルからも来てたっけ」
まるで狙ったかのように遠くにいる友人五人からも一斉に手紙が来ていて、それらに全てに返信しないといけない為、返事をするのも一苦労となる。ちなみに届く手紙の全てが彼に好意を抱いている美少女から送られたものであり、普通の人生を歩んでいては絶対に得られない超がつく幸せな状況なのだが、残念ながら彼にそういう自覚はない。
台所に食器を戻し、食器洗いは本来の食事当番である自分が引き受ける。川から引いている冷たい水に震えながら食器を洗う最中も、クリュウは一人それぞれの返信の内容を必死に考えるのであった。