モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

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第196話 少年にとって忘れられない悪夢のような一日

 翌朝、クリュウの姿は市場にあった。朝市を利用して定価よりも安く色々な道具(アイテム)を買う為にここを訪れたのだ。ちなみにシルフィードはまだ部屋で眠っている。彼女は頼もしいリーダーなのだが、致命的にまで朝が弱い為に朝市は参加できず、クリュウ一人に買物が任せられていた。

「えぇっと。あと閃光玉の安売りがあったよなぁ」

 事前に街の掲示板に貼ってあった広告から欲しい商品の情報をピックアップしたメモ書き片手にクリュウは買い物を進める。ショルダーバッグには今回の買い物で手に入れた戦利品が入っている。周りは同じように安売りを狙って買い物を進めるハンターの姿が多い。皆防具姿なので、少々物々しい光景だ。ちなみにクリュウはいつも市場に来る際は防具姿だが、朝市となると起きてすぐに部屋を出る為に着やすくて動きやすいTシャツにケルビの皮の上着に長ズボンという姿だ。

 閃光玉を売っている露天で一人五個までという安売りの閃光玉を購入し、これでようやく買い物は終了だ。しかも同時に昨日手に入れた鉱石のうち、売却用としていた物を一気に売り払った為、少し手持ちにも余裕がある。

「うーん、どっかで朝食でも食べようかなぁ」

 何を食べようかと考えながら朝の賑わいに満ちた市場を歩いていた時、前方の人ごみの中にある人物を発見した。

「あれは……」

 それは間違いなく、デスギアシリーズを着たトリィだった。彼女はこちらに気づいた様子はなく、市場の中を歩いている。日常生活が繰り広げられる市場で、彼女の死神のような出で立ちはかなり目立つ。事実、周りの人も彼女の不気味な装備を見て距離を置いているので余計だ。そんな彼女の姿を見たクリュウは、見失わないように後を付け始めた。昨日、散々シルフィードに罵声を浴びせた相手だ。そのせいでシルフィードは落ち込み、泣き崩れてしまった。彼女の事情もわかるが、それでも文句の一つくらい言ってやろうと思ったのだ。

 距離を詰めるようにトリィの後を追いかけると、突然トリィは横道に逸れてしまった。まるで一瞬で姿を消したかのような錯覚にクリュウは慌てて走って彼女が消えた場所にたどり着く。そして彼女が向かったであろう横道に入るが、彼女の姿はなかった。慌てて走って進むが、一行に姿は見えない。そのうち、市場の喧騒がずいぶんと遠くなってしまった。それでもトリィの姿は見つけられず、クリュウは荒い息を繰り返しながらその場で立ち止まる。

「おっかしいなぁ……」

 ここまでは一本道だったはず。見失う訳ないのだが、いくら走ってもやはり彼女の姿はなかった。もしかしたらそもそもこの道には入ってないのかもしれない。そう思い元来た道を戻ろうと振り返ると――まるで退路を断つかのように背後に探し求めていたトリィの姿があった。

「うわッ!?」

 突然の事にクリュウは驚いてすぐさま彼女から距離を置く。そんな慌てる彼の姿を嘲笑うかのように鼻で笑いながら「コソコソと私の後を付けて来て、何の用?」と尋ねるトリィ。思わぬ形で遭遇してしまったとはいえ、ひとまず落ち着きを取り戻したクリュウはすぐさま「昨日の事です」とハッキリとした口調で答えた。

「昨日の事?」

「シルフィに罵詈雑言を吐いた事です。事情は昨夜シルフィから直接聞きました。そこで改めてシルフィは人殺しなんかじゃないって言いたかっただけです」

 相手はシルフィードにも匹敵するような凄腕のハンターだが、クリュウは臆する事なく自分の考えを言った。自分の事なら臆したかもしれないが、仲間の事となれば強気なクリュウだった。そんな彼の言葉にトリィの眉がピクリと動く。

「人殺しじゃない? 自分の都合のいいように脚色したのね、あの女」

「全て話してくれました。ウソなんかじゃないって事は、瞳を見ればわかります」

「ウソね。あの女は人殺しなのよ。ネリスを殺した、罪深い女よ」

「……どうやらあなたとは話は平行線になるみたいですね。とにかく、シルフィに二度と近づかないでください。これ以上彼女を傷つけたくないので」

 言う事は言ったとばかりに話を切り上げ、クリュウは彼女の隣を抜けて元来た道を戻ろうとする。だが、彼女の横を通り抜けようとした瞬間――クリュウの腹に強烈な拳がブチ込まれた。突然の事にクリュウは悲鳴を上げる事もできずに吹き飛ばされ、地面に倒れてしまう。

 殴られた腹を押さえ、激しく咳き込む。痛みに顔を歪め、脂汗を垂らしながら、突然襲い掛かって来たトリィを見上げる。ゆっくりとした足取りで歩み寄って来たトリィは、地面に倒れている彼を静かに見下す。

「な、何するんですか……ッ!?」

「ふぅん、あんた意外とタフね。今の、普通の奴なら気を失ってもおかしくないのに」

 少し感心したように言う彼女の言葉に、クリュウは自らのタフさを少し呪った。常日頃からエレナの飛び蹴りを受け続けていた体は、自分が思っていたよりも丈夫だったらしい。今の一撃で気絶できていれば、こんな痛みを感じなくても済んだだろうに。

 動けないでいるクリュウに近寄ると、そのがら空きの脇腹目掛けてトリィは容赦なく蹴りを入れる。デスギアフォルゼは骨で補強されたブーツだ。その硬さは飛竜の攻撃に耐えられるような設計な為、当然つま先は異常に硬い。そんなものを、防具もなしの脇腹に受けたクリュウは悲鳴も上げられずに激痛に苦しむ。

「……ぁッ!?」

 体を丸めて痛みに耐えるクリュウ。だがトリィはそんな彼の姿を嘲笑うと、その胸倉を掴んで持ち上げる。

「痛い? でもね、きっと死ぬ時ってもっと痛いのよ」

 そう言ってトリィは彼の体を投げ飛ばして壁に叩きつける。背中に強い衝撃を受けて咳き込んだクリュウが頭をもたげると、間髪入れずに頬を殴られた。口の中が切れ、痛みと共に熱、そして血の味が広がる。視界が一瞬歪むと、今度は反対側の頬に拳が。側頭部、腹部、再び右頬へと次々に拳がブチ込まれ、全身に激痛が走る。

「あ……ぅ……」

 ぐったりと壁際に横倒しに倒れ、全身を襲う激痛に身動きできずにいるクリュウ。そんな彼の姿を楽しげにトリィは見下す。クリュウはこめかみを殴られた事でまだ歪んでいる視界の中で、彼女の嘲笑をぼんやりと見上げる。

「な……んで……?」

「――何で? うふふふ、そんなの、あんたをボコボコにすればあの女の悔しがる姿が見られるからよ」

 目の前にいるトリィの声ではない。視線を彼女の後方へと向けると、そこには仁王立ちで自分を侮蔑の眼差しで見詰めるツヴァイの姿があった。昨日と同じように銀レウスの装備を纏った姿は神秘的に見えるが、そんな出で立ちに反して表情はトリィ以上にこの状況を楽しんでいるかのように、愉悦に満ちている。恍惚とした表情はまさに獲物を見つけた肉食獣そのものだ。

「あらあら、可愛い顔が台無しじゃない。わざと顔を狙うなんて、トリィにしてはいい計らいじゃない」

「……この方が、シルフィードに対する脅しになるかと思って」

「――どうかしら? あなた、あえて顔に傷をつけて殴る回数を減らそうとか考えてるんじゃない?」

 ゆっくりと近づきながら、下から見上げるように覗き込むツヴァイの視線に、トリィは「そんな事ないわよ」と否定するものの、視線を外した。それが意味するものを理解して、ツヴァイは「ふぅん、まぁいいわ」と興味無さげに話を終えると、「変わりなさい」と言って彼女を下がらせる。

 足下で動けずにいるクリュウを見て、ツヴァイの恍惚とした表情はさらに狂気に満ちる。

「ねぇ、ガキ。今のこの状況、どう思う?」

 クリュウの頭をSソル・Zレギンスで踏みつけながら、ツヴァイはゆっくりとした口調で尋ねる。だが尋ねていながらもクリュウが声を出そうとするとあえて体重を乗せて口を開けさせないという非道っぷりだ。何も答えられずにいるクリュウを見て、ツヴァイの口端が不気味に吊り上がる。

「こんな絶世の美少女に頭を踏まれて、最高の気分でしょ? こんなご褒美、下々の下等な人間じゃ大金を叩いても味わえないのよ。感謝しなさい。ねぇ?」

 まるで道端のクソを踏みつけるようにグリグリと靴底を擦り付ける。クリュウはまだ体の自由を完全には取り戻した訳じゃないが、それでも抵抗する。彼女の足を掴んで引き剥がそうとするが、その瞬間、

「汚い手で私の足に触ってんじゃないわよッ!」

 突然激昂した彼女はクリュウの顔面を蹴り飛ばした。それは後ろで見ていたトリィが思わず顔を背けるような光景だった。鼻を蹴られたクリュウは鼻血を出して顔面を押さえる。手のひらの間から見える目元には痛みのあまり涙すら浮かんでいる。

 言葉にならない苦悶の声を上げながら苦しむ彼を、ツヴァイは容赦なく蹴りつける。顔はもちろん、腹や足、腕や肩。その蹴り方はまるで容赦がない。地面を転がる彼の体は服は汚れ、擦り切れ、手足についた傷跡や鼻から出た血で赤く染まる。

 散々蹴りつけた後、乱れた呼吸をツヴァイは整える。そんな彼女の足下には、ぐったりと倒れたクリュウの姿があった。鼻血と吐血で顔は赤く汚れ、瞳は生気を失ったように濁っている。

「あら、思ってたよりは脆いわねコイツ」

 期待はずれとでも言うように吐き捨てると、ツヴァイは彼の髪を掴んで顔を持ち上げる。痛さと苦しさで何も言えずにいる彼の顔に唾を飛ばし、地面に捨てる。そして再び最初と同じように彼の頭を踏みつけ、優越感に浸る。

「シルフィードなんかに肩入れするから、こんな目に遭うのよ。あの女に関わり続ける限り、あんたはこうして私の前で跪く事になるのよ」

「ツヴァイ。もうその辺でいいでしょ」

 ボロボロになった彼を見てさすがに居た堪れなくなったのか、トリィが止めに入る。だがツヴァイは、

「はぁ? これからが楽しいんじゃない。こいつに残った亀裂に入ったプライドを完全に粉々にするのよ」

 そう言う彼女の顔は、もはや病んでいるとしか思えない程狂気に満ちた、恍惚とした表情を浮かべていた。こうなった彼女は、もう止められない。トリィは諦めるように「好きにしなさい」と言って背を向ける。

「えぇ、そうさせてもらうわ」

 そう答えて再び彼の方を振り返る。その時、歪む視界の中で彼は見た。そして感じた。

 ――今まで、こんなにも胸が苦しくなるような恐怖を感じた事がなかった。彼女の顔は、壊し甲斐のあるおもちゃを見つけたような、狂気一色のある種の無邪気な顔だった。おどろおどろしいまでに恍惚とした表情を浮かべながら、ツヴァイの不気味に吊り上がった口から、狂気の言葉が零れる。

「――今日一日、たっぷりと可愛がってあげる」

 クリュウの中で、何かが壊れる音がした……

 

「遅いな……」

 短くそう呟いて、シルフィードは読んでいた本を閉じる。窓の外を見ればすでに日は落ちて、通りは夜の活気に満ち溢れていた。

 だが朝早くに出掛けたはずのクリュウは未だに戻って来ていない。朝市に行くとしか昨日聞いてはいなかった。自分が起きたのは昼頃だったので、その時にはすでに帰っているとばかり思っていたが、そこに彼の姿はなかった。

 この街は彼にとって第二の故郷とも言える場所だ。数年間この街で過ごしている為、通りを歩いていれば見知った顔で再会する事もあるだろう。その人物と意気投合して遅れる事もあるだろうし、そもそも休日の彼を束縛するつもりもない。だが、だとしても一言くらい書き置きや言伝があってもいいものだろう。彼はそういう配慮ができる人間だ。だが、連絡もなく彼は戻って来ない。日が落ちると、さすがに不安になる。

「……探しに行った方がいいか」

 椅子から立ち上がると、寒空の下に出る為に厚めの上着を着る。休日はさすがに防具では過ごさない為、今の彼女は長ズボンに長袖のシャツ、外着程ではないが少し厚めの上着を着ているのだが、外に出るとなるとこれでは寒いのだ。

 袖を通してしっかりと着終え、貴重品をポケットなどに入れた時だった。隣の部屋のドアが開く音が聞こえた。それはクリュウが取っている部屋だ。

「何だ、帰って来たのか」

 シルフィードはやれやれとばかりに着たばかりの上着を脱ぎ捨てて部屋を出ると、彼の部屋の前に立つ。一応マナーとして髪型を整えたり服の乱れをチェックした後に、ドアをノックする。

「クリュウ? 私だ。帰って来たのか?」

 ドアの向こうにいるはずの彼に声を掛けるが、なぜか返事はなかった。不思議に思って「クリュウ?」と彼の名を呼びながらドアを開けようとすると、

「入って来ないでッ!」

 突然彼の悲鳴にも似た大声が轟くと共に、わずかに開けられた扉が閉められる。

「お、おいクリュウ。どうかしたのか?」

 いつもと異なる異常とも言える反応にシルフィードは不安に陥る。だがドア越しに「だ、大丈夫。何でもないからさ」と答えるクリュウの声は、明らかにおかしい。

「こんな時間までどこにいた? 何があった?」

「な、何でもないよ。ほんと、何でもない」

 ドア越しに聞こえる彼は平静を装ってはいるが、その声が震えている事などシルフィードには丸わかりだった。そんな彼の声に、いよいよ尋常ならざる事態だと察したシルフィードは「クリュウッ。ここを開けてくれッ」とドアを強く叩きながら開けるよう言う。ドアノブを捻っても鍵が掛けられていて開かないのだ。

「おいクリュウッ!」

「な、何でもないってばッ! お願いだから、ちょっと一人にして……ッ!」

 叫びながらも語尾は弱々しく、どこか濡れた声。それは彼が泣いている事を意味していた。それを理解した時、シルフィードの中で冷静な部分が吹き飛んだ。一度自分の部屋に戻り、何かを持って戻って来た。それは剥ぎ取り用ナイフ。鋭利な刃先をドアに向けると、頭の中でライザに一度謝ってからドアに突き刺した。

 何度も何度も、ドアノブ付近にナイフを叩き込む。元々ビショップクラス程度のドアなんて、少し硬めな木製のドアだ。ドアノブを破壊する事など、それほど難しくはない。

 ドアノブを破壊し、鍵を壊して彼女は無理やりドアをこじ開けた。開かれたドアの向こうで彼女が見た光景は、言葉を失うには十分過ぎる光景だった。

「クリュウ……?」

 足下に倒れているのは確かにクリュウだった。だがその姿は自分が知っているいつもの彼とはあまりにも程遠いものだった。

「シルフィ……、違う、これは……」

 現れた彼女の姿に思わずクリュウは顔を伏せる。だがその顔はいつもの愛らしさと違って異様に膨らんで見えた。頬は腫れ上がり、口元には痛々しい青あざが浮かんでいる。

 服はすっかり汚れ、所々乱暴にされた事で破けている箇所もある。右腕は肘付近から先が破れてしまっており、そこから見える腕もまたアザや傷だらけだった。

 そこにいたのは確かにクリュウだった。しかしその姿はまるで誰かに暴行を受けた後のようなボロボロの姿だった。そんな彼の姿を見てシルフィードは取り乱しながら慌てて彼に駆け寄る。

「ど、どうしたんだクリュウッ!? その怪我は一体……」

「……別に、何でもないよ」

 そう言ってクリュウは顔を背ける。彼の惨状を前に狼狽する彼女は気づいていないが、彼の声のトーンや背けた際の表情は、いつもの彼らしくない程に暗かった。

 シルフィードの問い掛けを無視しながらフラフラの状態でゆっくりと立ち上がろうとするクリュウだが、うまく体に力が入らないのか倒れそうになる。それを間一髪のところでシルフィードが支えて、何とか倒れずに済んだ。

「お、おい本当にどうしたんだ。何があったんだ?」

「……何でもないってば」

「何でもない訳ないだろッ! 何がどうなって――」

「――何でもないって言ってるでしょッ!」

 悲鳴にも似た彼の大声にシルフィードはビクッと震え、思わず手を引っ込める。怒鳴られ呆然とするシルフィードを前にクリュウはゆっくりとした歩みで部屋の奥へと向かうと、ベッドにゆっくりと腰掛けた。シルフィードは気まずそうにしながらも部屋のランプに火を灯して明かりつける。部屋が明るくなると、改めて彼の惨状が目につく。

「クリュウ。本当にどうしたんだ? 何があったんだ?」

 怒鳴られた事もあり、先程までのような強引な訊き方はせずに少しボリュームを下げて問う。その姿は彼の惨状はもちろんだが、彼に怒鳴られるという異例な状況に戸惑っているように見える。

 だがクリュウはシルフィードの問い掛けに何も答えない。口の端に付いた血を拳で拭い取ると、狩猟の際に持ち出す救急箱を取り出す。

「あ、私が手当するよ」

「……いいよ。自分でやる」

 ぶすっとした、彼らしくない返答だ。先程から可能な限り彼はシルフィードと目を合わせようとしない。ずっと憮然と沈黙を続けながら傷に消毒液をつけたカットされた綿で消毒する。染みるのか、その顔が痛そうに歪む。

「クリュウ……」

「……ほんと、何でもないから。もう出てって」

「いや、しかし。君をこのまま放置はできない」

「いいから、出てってよ」

「しかしだな……」

「出てけって言ってるんだよッ!」

 絶叫にも似た彼の怒鳴り声に、シルフィードは再びビクッと身を震わして半歩引く。いつもは凛々しい彼女も、彼に怒鳴られるという異例を前に困惑と不安で暗いものに変わる。

「クリュウ……」

 いつになく暗い表情の彼女を見て、クリュウは気まずそうに視線を逸らすと小さく「ごめん……」と謝る。だがそれ以上何も語らず、互いの間に気まずい沈黙が続く。

「何でもないからさ。ほんと、ちょっと出てって」

「しつこい事は重々承知している。だが、君をそんな状態で放置できる程、私は非情にはなれない。そもそも、君がどうしてそのような有様なのか、知る必要がある」

「別に、シルフィには関係ないよ」

「関係あるかないかは私が決める」

 シルフィードは諦めずに彼から事情を聞き出そうとする。だがそんな彼女のしつこい態度にさすがのクリュウもイラッとしたのか、歯をギリッと歯軋りすると、反射的に叫んでしまった。

「誰のせいでこんな目に遭ったと思って――ッ!?」

 慌てて口を塞ぐが、もう遅い。彼の言葉を聞いた瞬間、シルフィードは全てを理解した。そして、不安に満ちた表情を一変させ、激しい憤怒に染まった。

「奴らか……ッ!」

 激しく激昂するシルフィードを前に、クリュウは気まずそうに沈黙を貫く。だがそれを許さぬシルフィードは彼の肩を強引に掴むと、一気に詰め寄る。

「奴らかッ!? ソードラントの奴らにやられたのかッ!?」

 シルフィードの激しい問い掛けに、しかしクリュウは沈黙を貫く。だがその無言は結果として肯定の意味として彼女に伝わってしまい、シルフィードは短く「そうか……」と答えると踵を返す。

「ま、待ってッ!」

 立ち去ろうとするシルフィードの腕をクリュウは慌てて掴んで彼女を止める。振り返らずに「放してくれ」と短く言う彼女の言葉に、クリュウは決して手を離そうとはしなかった。

「どこに行く気なの?」

「……決まってる。奴らを殴り飛ばしに行く」

 そう答えて振り返る彼女の目は本気だった。本気で怒り、本気で連中の所へ強襲を掛ける気でいた。見る者全てがビビってしまうような激怒に満ちた彼女を前に、クリュウはしかし決してその手を離す事はない。

「それって、連中の思う壺だと思うけど」

 激しい激痛の中で微かに聞こえた彼女の言葉の中に「ひどい顔してるわね。今のあんたの姿を見たら、あの女はどんな反応を見せてくれるかしらね?」と嘲笑しながら言った事を覚えている。自分が狙われた理由も含めて推測するに、連中は自分が襲われた事を知ったシルフィードが取るであろう行動――襲撃を期待しているのだ。

「僕の姿を見て君が怒るのを見て、楽しむつもりなんだよ、連中は」

「……実にツヴァイが考えそうな下衆な発想だな。その言葉を聞くに、君を襲ったのはツヴァイか?」

「……あと、マクガイア」

「彼女もか……」

 ある程度予想はしていたのだろう。特に驚く事はなかったが、それでもあのトリィがこのような事に加担するとは。自分の記憶の中にある彼女は真っ直ぐな少女だった為に、正直そのギャップに困惑している自分がいる――だが彼女をそんなにも歪めてしまったのは、自分の責任だ。

 責められるべきは自分のはず。だが彼女達は自分ではなくてクリュウを襲うという非道な手段に出た。シルフィードにとって、このようなやり方が最も好まない。嫌悪すら抱くような所業だ。

「罵倒されようが暴力を振るわれようが、それは全て私自身の責任だ。クリュウは全く関係ない。全く関係ない君にこのような悪行……決して許せる所業ではない」

 静かなる怒りに燃えるシルフィードの吐き捨てるような言葉には、彼女の言葉には表現しきれないような憎悪に満ちていた。瞳は激しい憤怒に鋭く細まり、唇は怒りに噛み締められて真っ白に染まる。表情はこれまでクリュウが見た事もないような憤怒と憎悪に黒く染まっていた。

 氷の激怒と称するに相応しい彼女の激昂に、クリュウは息を呑む。いつも冷静で大人なクールな彼女の、本気の怒りを前に体が震える。

 このままだと本気で連中に殴り込みをしかねない彼女を前に、クリュウは痛む体に無理やり力を入れて起き上がる。

「お、おい無理するな。座っていろ」

 すると先程までの怒りが消え、シルフィードは慌てて彼の肩を支える。その表情は彼の身を案じるような、どこか不安そうなものに変わっていた。そんな彼女の表情を見て、クリュウは不謹慎だとわかっていてもちょっぴり安心してしまった――だが同時に、自分の中に芽生えてしまった醜い感情と直面する事になる。

「……僕は君に心配される権利なんてないよ」

「どういう意味だ?」

 首を傾げるシルフィードを前に、クリュウは片手で自分の顔を隠すように塞ぐ。その指の間に、ランプの明かりに照らされて煌めく雫をシルフィードは見る。

「クリュウ……」

「……二人に捕まって、殴られたり蹴られたりしている最中。一瞬だけだけど、君の事を恨んだんだ。僕は何も悪い事はしてないのに、何でこんな目に遭っているだろうって。その原因が君だって事はわかってた。わかってたから、君のせいで僕はひどい目に遭っているって。そう、一瞬でも思って――君の事を恨んだ。最低だよ……ッ」

 クリュウにとって、二人に暴行を受けた事よりもずっと彼自身を苦しめていたのは、一瞬でも抱いてしまった、自分の中に存在した黒い感情だった。自分に限って、こんな感情はないと思っていた。あったとしても、仲間に向けるべき感情ではない。なのに、一瞬とはいえそれが仲間に、シルフィードに向けられてしまった。

 心から信じられる仲間だと思っていたじゃないか。なのに、自分はそんな彼女を一瞬でも恨んでしまった。それが情けなくて、許せなくて、合わせる顔がなくて……

「……ごめん」

 零れるように漏れた彼の謝罪の言葉に、シルフィードは短く「気にするな」と声を掛けてそんな彼をそっと抱き寄せた。頭に腕を回して、包み込むように彼を抱き締めながら「元はといえば、私の責任だ。君を巻き込むつもりなど、一抹たりともなかったんだ」と、元は自らの責任だと言い切る。二人に彼が暴行された事も、自身の中に生まれてしまった感情に彼自身が苦しむ事になった事も、元は全て自分の責任だ。だからこそ、

「……やはり、私は奴らを許せん」

 ギリッと歯を噛み締めて軋ませる。再び顔は憤怒に染まり、彼女の凛々しい顔を黒く歪める。それを見たクリュウは彼女の服の裾をギュッと握り締めた。裾を引っ張られる感触に視線を下げると、クリュウはゆっくりと首を横に振った。

「ここで連中の場所に行けば、それこそ連中の思う壺だってば。何も相手の手のひらの上で踊らなくてもいいよ」

「しかし……ッ!」

「――明日、ドンドルマを出て行こうよ。村にさえ帰れば、もう関わる事はないでしょ?」

 クリュウが選んだ選択は――逃げ出す事だった。

 本当は彼自身も文句の一つは言ってやりたいし、自分がシルフィード側なら自分だって殴りこみだって掛けてやるつもりだ。だがここで対策を講じているであろう相手の居城に殴りこみを掛ければ、自分はともかくシルフィードにより負担を掛ける事になる。これ以上彼女を悲しませない為にも、ここは撤退するのが得策だと彼は考えたのだ。

 だがシルフィードは撤退という選択に納得はできない。仲間を襲われて、文句の一つも言わずに撤退する事は自身のプライドや信念に背くような行為だ。だが、

「僕は大丈夫だからさ。ね、シルフィ」

 服の裾を掴んだまま、不安そうな顔で見上げて必死に止める彼を振り切って連中の所に行ける程、シルフィードは薄情にはなれなかった。

「……わかった」

 悔しげに唇を噛みながら、納得はできなくても彼の願いを聞き入れる事にした。自分のプライドや信念も大事だが、それ以上に彼の事がシルフィードにとっては大事だった。彼の悲しむ顔は、もう見たくはなかった……

 互いが互いを思いやるが故の、互いが我慢するというある種最悪に等しい決断がされてしまった。

「とにかく、今は君の傷の手当てをしよう。幸い、リリアの薬品類は豊富にある。半日あれば動く事自体に支障は出ない程には回復するだろう」

 そう言ってシルフィードは途中で放置されている救急箱から適切な道具を取り出して彼の手当てを始める。先程と違って彼も抵抗する事なくそれを受け入れる。

「さっきはごめん。君に合わせる顔がなくて、つい……」

「いいんだ。君が謝る事は何もないんだ。だから……謝らないでくれ」

「……シルフィ」

「今回は撤退するが、いずれ連中との決着はつけてやるさ。いつまでも元ソードラントという汚名を背負い続けるのはごめんだ」

 上着を脱いで半裸になりながら手当てを受けるクリュウは、背後で背中に消毒液のついた布で消毒をしてくれているその時の彼女の顔を見る事はできなかった。どんな表情をしているのか、想像もできない。彼女が背負い続けるものの大きさは、自分が想像していたよりもずっと大きく重い。

 今の自分に、そんな彼女を支える事はできるのか。仲間として、家族として、彼女の信頼に応える事はできるのか。正直自信がなかった。

 それからは無言で手当てをするシルフィードと、掛けるべき言葉が見当たらずに結局黙ってしまうクリュウ。二人の間には、ずっと重苦しい空気が流れ続けていた。

 

 その夜、眠らぬ街ドンドルマの歓楽街は賑わいを見せる頃、クリュウは小さな寝息を立てていた。眠らぬ街でもイージス村にとっては深夜の時間帯だ。そこで生まれ育った彼にはそこでの生活習慣がすっかり身についているのだ。

 頭に包帯を巻き、頬にも湿布を貼った状態で眠るクリュウ。毛布に隠れた体も至る所に包帯が巻かれている。相当な暴力を振るわれたのだという事は、彼の無数のあざを見れば一目瞭然だ。手首にはロープのようなもので長時間縛られていた跡も残っていた。

 食事はもちろん、水さえも与えられなかったらしく、ボロボロでも彼は握り飯だけは一つ食べた。慣れない作業のせいで歪な形になってしまった握り飯を、飯を丸めて塩を掛けただけのものを、あんなにも嬉しそうな顔で食べるクリュウの顔を見て、嬉しさと共に虚しさが胸をいっぱいにした。

 ベランダに出て夜風を浴びながら、シルフィードは一人月を見上げながら考えに耽る。二人の顔が頭を過ぎった瞬間、手すりを握り締める手に力がこもって真っ白に染まった。

 彼をひどい目に遭わせた二人の事を、どうしても許せなかった。彼の必死の言葉に断念こそしたが、気持ちでは今からでも連中のいる場所に殴りこみたい気分だった。場所なんて、価値もわからないのに高級好きなツヴァイの事だ。エンペラークラスの宿にでも泊まっているんだろう。

 数年前までは、自分もその中にいた。最低な連中と行動を共にしていた昔の自分。今思い出すだけでも反吐が出る。冷静に考えれば、自分が周りに迷惑を掛けながら復讐に狂う事を両親や弟が願うはずもないではないか。なのに当時の自分は、そんな簡単な事もわからない程に、復讐に狂っていた。

 脱したと思っていた。もうソードラントとは関わらないと、心のどこかで思っていた。だが自分は再びソードラントの連中と出会ってしまった。しかも、最悪とも言っていい形で。

 振り返ると、クリュウは心地よさそうに眠っている。痛み止めが効いているようで、シルフィードはほっと安堵の息を漏らした。

「……リーダー、失格だな」

 自らの過去すらも決着をつけられなかった自分が、彼らを率いている資格などない。

 それどころか、自らの醜い過去を隠し続けてきた自分は彼らの期待に応えるべき人間ではないし、応える事などできない人間だ。

 きっと、敗走した自分の事をサクラは強く非難するだろう。フィーリアもきっと、自分を軽蔑するに違いない。エレナもアシュアも、自分の体たらくに怒る事だろう――たった一度の失敗。だがそれは、周りから自分に掛けられていた期待や信頼を失わせるには十分過ぎるような大失態だ。

 引くも地獄、進むも地獄。シルフィードは自らの八方塞がりっぷりに自虐的に笑う。

「……自分のクズっぷりに、反吐が出る」

 片手で顔を押さえながら自虐的に笑う彼女の頬を、月明かりに照らされて煌めく雫が一筋流れた。


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