「剣聖ソードラントって……」
突如目の前に現れた青年、アイン・ヴォルフガング。シルフィードは彼の事を剣聖ソードラントのリーダーと言った。それはかつてシルフィードが属していたチームであり、実力はあれど悪逆非道とも称される、田舎者のクリュウでも知っている程の有名チームだ。
まるでクリュウを守るように彼の前に立ち塞ぎながらキリサキを構えるシルフィード。そんな彼女を嘲笑いながら声を掛けて来たアインに対し、シルフィードは嫌悪感むき出しで構える。他人に対してそんな反応を見せるシルフィードの姿にクリュウは困惑しながら彼女の背後から事の成り行きを見守り続ける。
「……なぜ貴様がここにいる」
「おいおい、ここはハンターの都ドンドルマだぞ。全てのハンターが居ても何の不思議もない場所のはずだが」
意地の悪い笑みを浮かべながら言う彼の返しにシルフィードは短く「……そうだったな」と答える。彼女が訊きたいのはそういう事ではない。ハンターが依頼を受注したりするのは大衆酒場が基本だが、キングクラス以上ともなると別の場所で行うのが通例だ。これはレベルの違うハンター同士のいざこざを防ぐ目的や、下位ハンターなどには機密事項の依頼などがある為だ。
もちろん、エンペラークラスのアインがここに来る必要はない。彼女が言っているのはそういう意味なのだが、彼の人をバカにしたような笑みを見て全てを悟る――下等な連中の奇異や畏怖の視線を楽しんでいるのだ。
シルフィードは一度小さくため息を零すと、構えたキリサキをしまう。狩場以外のでの武器の使用は厳禁であり、抜刀行為も基本的には許されていない。今の場合は正当防衛だが、それでもいつまでも出し続けるのは良くはない。
だが武器をしまったシルフィードと違って、デスギアのハンターは依然として鎌威太刀を手に持ったままだ。
「噂には聞いてたぜ。お前、今じゃ蒼銀の烈風なんて呼ばれてるらしいな。大した二つ名を持ったもんだぜ」
「……別に二つ名をほしくてハンターをしている訳ではない」
アインの言動一つひとつに厳しい口調で帰すシルフィード。いつもの冷静沈着な、大人びた振る舞いからは想像できないような感情的な返し。それほどまでに、シルフィードはアインという存在に対して嫌悪しているのだ。
「つれねぇな。久しぶりに会った仲間じゃないかよ」
「貴様の事を仲間などと思った事はこれまでもこれからも一抹たりともない」
「ちょっとシルフィードッ。あんた天下のアインお兄様に何て口利いてるのよッ」
二人のやり取りの間に突如入って来たのはアインと同じ銀レウスの防具を纏った少女。ツインテールをフリフリと揺らすその姿は実に可愛らしいが、シルフィードを睨みつける表情は背筋も凍るような憤怒に満ちていた。憎き仇敵と相対したかのような、嫌悪と嫉妬に狂った表情。だがシルフィードは短く「ツヴァイか。何の用だ」と同じく嫌悪の対象を見る目で相対する。
ツヴァイと呼ばれた少女はアインの前に立ち塞がるとシルフィードを睨み上げる。身長が高いシルフィードに対してツヴァイは頭ひとつ分くらい小さく、身長で言えばクリュウと同じくらいしかない。
「あんた、どの面下げてお兄様の前に立ってんのよ」
「言いがかりだな。最初にケンカを吹っ掛けて来たのは貴様らの方だろうが」
「あぁ? んなの知らないわよ。今の問題は勝手にお兄様の前に立つなって言ってんのよ」
「……相変わらず貴様は無茶苦茶な事を言うな」
下から睨み上げて来るツヴァイに対してシルフィードは呆れ返る。全く成長の見られない生意気な悪ガキを相手にするかのような、そんな見下した態度。それが余計にツヴァイの癪に障ったのか、ツヴァイは突然シルフィードの頬を叩いた。パンッという軽い音が、不気味なくらいに静かな酒場全体に広がる。
「……ほんと、貴様は相変わらずだな」
頬を叩かれたシルフィードは叩かれて赤くなった箇所を手のひらで押さえながらツヴァイを睨みつける。それに対してツヴァイも「あぁ? 何私を見下しやがってんのよ。ぶっ殺されたいの?」と激怒しながら睨み返す。このまま殴り合いに発展しかねない二人の雰囲気に、今まで入る余地がなくて右往左往していたクリュウが慌てて止めに入った。
「ちょ、ちょっとやめてくださいッ」
「お、おいクリュウ……ッ」
シルフィードの制止を振り切ってクリュウは彼女とツヴァイの間に入り込んだ。当然、その場にいた全員の視線がクリュウに集中するが、彼は構う事なく振り返ってシルフィードと対する。
「だ、大丈夫?」
「あぁ、別に問題ないさ」
彼を安心させるように微笑みながら言うシルフィード。クリュウが安心したのを見て改めて彼を下がらせようとしたが、それよりも早くクリュウが動いてしまった。
「ちょっと一体何なんですかあなた達はッ!?」
少し怒りながら恐れる事なくアイン達に文句を言う彼の姿に、周りのハンター達は彼の事を勇気あると評価するものやただのバカと評価するものまで様々だ。エンペラークラスのハンター相手にビショップクラスのハンターが抗議するのは前代未聞の出来事だ。というかそもそもこれほどまでにクラスに開きのある者同士が絡む事自体少ない。
一瞬虚を突かれたツヴァイだったが、すぐに「あぁ? 何なのよあんた。ガキに用はないのよ」と関わんなと言いたげにあしらう。そんな彼女の言動にさすがのクリュウもムッとする。
「ガキって、君とそう変わらない年齢だと思うけど」
「あぁッ!?」
「やめろツヴァイ。見苦しいぞ」
今にもクリュウに向かって殴りかかりかねないツヴァイをアインが一喝する。するとこれまでの好戦的な態度から一転して「ご、ごめんなさいお兄様」とまるで怒られた小さな子供を彷彿させるようにしゅんと落ち込む。感情の高低差があまりにも激し過ぎる。
アインはクリュウを見ながら「こいつは?」とシルフィードに問い掛ける。シルフィードは彼をアイン達に紹介するのはあまり気が乗らない様子だったが、この状況ではもうどうしようもなく、半ば諦める。
「クリュウ・ルナリーフ。私のチームメイトだ」
「チームメイト? こいつが?」
シルフィードの紹介にアインは興味深げにクリュウを見詰める。何だか自分の事を値踏みされているような彼の視線に、クリュウは居心地の悪さを感じながら彼と対する。しばらく彼を観察した後、アインは一言。
「弱そうだな」
容赦のない一言を、嘲笑いながら言うアイン。クリュウは一瞬イラッとしたが、相手は素行はどうであれ実力では自分よりもずっと上な存在だ。弱いとバカにされても、言い返す事はできない。何も答えない彼を見て、アインは言葉を重ねる。
「俺から逃げ出した後、ずっとソロ狩りしていたお前が最近チームを組んだって噂があったが――このガキの事か?」
「ガキじゃない、クリュウだ。私の頼れる相棒だ。彼と私、あと二人仲間がいて四人一隊(フォーマンセル)のチームだよ」
「あぁ知ってるよ。隻眼の人形姫に桜花姫だったか? どっちもちょっと実力があるからってちやほやされてるルーキーだろ?」
口元に不快な笑みを浮かべながら嘲笑する彼の暴言にはさすがのクリュウも怒りを覚えた。自分の事ならまだしも、仲間をバカにされる事だけはどうしても許せなかった。しかし文句を言おうと前に出掛かった彼をシルフィードが押さえ込む。「どうしてッ!?」と声を上げるクリュウの方を一瞥すると、代わって彼女の方が一歩前に出た。
「少なくとも、貴様らよりは世間では必要視されている二人だ。桜花姫には多くのガンナーが憧れ、隻眼の人形姫には多くの商隊が信頼関係を築いている。貴様らのようなただ壊すだけしかできない連中より、よっぽど支持はあるさ」
冷静に、淡々と彼の暴言を跳ね返すシルフィード。大人びた振る舞いやその余裕を持った言動にアインは一瞬呆けたが、すぐにいつもの調子を取り戻す。
「まぁいいさ。だが、蒼銀の烈風に桜花姫、隻眼の人形姫と名だたる二つ名持ちがいる中で、全くの無名がいるって噂だったが、どうやら真実らしいな。なぁ、坊主?」
上から人を見下すかのような視線で見下ろし、口元には嘲笑を浮かべながらアインはクリュウの方を見やる。そんな彼の視線、そして言動にクリュウは思わず視線を逸らした。居心地の悪さに、反吐が出そうだった。
アインは容赦なくクリュウが最も気にしている事を突いて来た。普段笑っていても、どうしてもそれだけは胸の奥にあった想い――有名な女子三人に囲まれた実力もなければ無名な自分の存在。周りは気にするなと言ってくれても、どうしても気にしてしまう事実。
気まずそうに黙る彼の姿を見てニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるアインだったが、そんな彼の前にまたしてもシルフィードが立ち塞がる。視線を彼女に向けると、心なしかさっきよりも怒っているように見える。
「世の中には無名でも実力があるハンターも大勢いる。彼は十分私や二人に並ぶだけの実力を持っているさ。何も知らない無知が、彼を勝手に評価するな。見下すな、見限るな、見誤るな、愚か者が」
堂々とした立ち振舞いで立ちながら、シルフィードはアインを一喝する。その勇ましい姿は相手が誰もが恐れるソードラントのリーダーだという事を忘れさせる程だ。誰もアイン相手にこんな風に食って掛かるような態度は取らない。唯一の例外こそが、シルフィードだけだ。
シルフィードの反撃にツヴァイが言葉にならない奇声を上げるが、グラビドSの男に止められる。デスギアのハンターは全く微動だしない。そんな背後の連中の動向を無視し、アインはシルフィードと睨み合う。しばらくそうして双方が沈黙していると、突然アインは面白おかしそうにクククと笑う。
「何がおかしい?」
「いや、お前変わったなぁと思っただけだよ」
「……そうか。自分では自覚はないがな」
「あぁ――つまらなくなったな」
それまでの嘲笑がウソのように、アインは突如感情を全て殺したかのような無表情になった。突然豹変した彼を前に警戒するシルフィードに対して、まるで全ての興味が失せたかのようにアインは彼女に背を向ける。
「昔のお前は近付くだけで斬り刻まれるような鋭さを持っていたが、今のお前からはその鋭さが感じられない。少し会わない間に、腑抜けたな」
「……あぁ、そうかもしれないな」
シルフィードをバカにされ文句を言おうとクリュウが口を開きかけた瞬間、シルフィードが静かにそう言った。驚く彼の視線に気づく事なく、シルフィードはゆっくりと語る。
「昔の私は無謀な憎しみに染まって、周りが見えなくなっていた。力を貪欲なまでに求める覚悟は昔の方がそれは強かっただろう。だがな私は今の自分の方が《自分らしい》って思う――私は今の方が幸せだという感じがするな」
そう言ってシルフィードはクリュウの方へ振り返ると、短くウインクする。そんな彼女を見て、クリュウもまた安堵したように微笑んだ。
前にエルディンが言っていた。昔の彼女はモンスターに対する憎しみに染まり、力に溺れていたと。でもいまのシルフィードはエルディンに救われ、自分達と出会った事で一人の少女らしさを取り戻したと――昔よりもずっと、輝いていると。
彼は自覚はないが、エルディンとの出会い、そしてクリュウとの出会いがシルフィードを変えたのだ。今の彼女は数年前のような憎しみに突き動かされる事はなく、自分の意志で幸せの為に剣を振るっている。恋する狩人(ハンター)だ。
「ふん、やっぱり今のお前は興味がねぇな。さっさと失せろ」
「言われなくてもそうさせてもらうさ」
シルフィードもこれで終わりだとばかりにそう吐き捨てるとクリュウの方へ振り返る。そして「行くぞクリュウ」と微笑みながら彼の手を握り締めた。クリュウも大きくうなずいて彼女に連れられて歩き出す。そんな二人の様子をもう興味を失って見向きもしないアインと未だ憤怒に満ちた視線で睨むツヴァイ。
遠くで入るに入れなくて事の成り行きを見守るしかなかったライザもほっと胸を撫で下ろす――その時だった。
「あ……あああ……あああああ……ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
突如デスギアのハンターが狂ったように叫ぶと、手に持っていた鎌威太刀を上段に構えながら跳び上がると、この場から去ろうとしていたシルフィードに背後から襲い掛かる。とっさにシルフィードはクリュウの腕を引っ張って再び自らの背後に収めるとキリサキを構えてガード。刃先同士がぶつかった瞬間、すさまじく甲高い音が酒場中に響き渡った。
「なッ!? 貴様正気かッ!? 今のは明らかに私を殺す気だっただろうがッ!」
未だに力押しで太刀に力を入れるデスギアのハンターの剣をキリサキで押さえながらシルフィードが怒鳴る。ギリギリと切迫する鍔迫り合いは、少し剣が動くだけで火花が飛ぶ。さすがのシルフィードも先程までのような余裕は一切無く、混乱しながらも何とか相手の攻撃を防いでいた。
脂汗を浮かべながら「やめないか貴様ッ!」と叫ぶシルフィード。だがデスギアのハンターは何も答えず、奇声を上げながらさらに力を込めてシルフィードを押し倒そうとする。そこへさすがに危険だと感じたクリュウが転がっていた椅子をデスギアのハンターに向けて放り投げた。突如飛来する椅子を前にデスギアのハンターは飛び退いてこれを避ける。同時にシルフィードも動きを取り戻せた。
「助かったぞクリュウ」
彼に礼を述べながらも、シルフィードの視線はデスギアのハンターに向けられたままだ。相変わらず武器を構えたまま、こちらを襲う気満々で隙を探っている。シルフィードは隙を見せないようにしながら、改めて問い掛ける。
「貴様、どういうつもりだ? 事と次第によってはただではすまんぞ」
シルフィードの少々焦りながらも威圧するような問い掛けに対しても、デスギアのハンターは何も答えない。だが再び問おうとシルフィードが口を開いた瞬間だった。
「……ふざけんじゃないわよ」
デスギアのハンターは小さくつぶやくようにそう言った。その声は明らかに女性のもの、それもかなり若い。てっきり男だと思っていたクリュウとシルフィードは一瞬面食らったようだったが、すぐに気を張り直す。
「何を言っているんだ貴様。貴様は一体……」
「ふざけんじゃないわよ。人殺しの分際で、何あんただけ幸せとか言ってんのよ。ウチはそんなの、絶対に認めない……絶対に認めないわッ!」
激しい憤怒と共に吐き出された怒号は、その場にいた全員を威圧するような激しいものだった。クリュウは彼女の言っている意味がわからず困惑していたが、シルフィードだけはようやく彼女の正体に気づいたようだった。だが、その顔は信じられないとばかりに驚愕に染まり、先程までとは違った狼狽を見せる――その姿を見て、アインの口元に意地の悪い笑みが戻るのをツヴァイは見逃さなかった。
「き、君はまさか……」
「……忘れたなんて言わせないわよシルフィード」
ゆっくりと、デスギアの女はフード状のデスギアゲヒルを脱ぐ。現れたのはシルフィードと同い年くらいの美しい金色の髪をショートカットに整えた少女だった。凛とした勝気な紅蓮色の瞳が彼女の力強さを表しているかのよう。だがその瞳に燃えるのは邪悪な憎しみに染まった黒炎。その並々ならぬ憎しみは、全て目の前で驚いたまま硬直しているシルフィードに向けられている。
「トリィ……」
驚愕に満ちたシルフィードがトリィと呼んだ少女は不機嫌そうに鼻を鳴らすと「へぇ、一応記憶には留めといてくれたんだ」と驚嘆しつつも、その表情は明らかに興味がなさげだ。瞳は相変わらず鋭くシルフィードを睨みつけている。
一方のシルフィードは突如現れたトリィの存在に驚愕するあまり、まだ目の前の状況が理解できずにいた。
「トリィ。な、なぜ君がソードラントにいるんだ……?」
「はぁ? 決まってるじゃない――昔のあんたと同じ理由よ」
「……ッ!?」」
不敵な笑みを浮かべながら語る彼女の台詞に、シルフィードは顔の驚きは極限状態となる。まるで信じられないものでも見るかのようにトリィから目を離せずにいる彼女の横顔を、クリュウは不安そうに見詰めるしかできなかった。
驚くシルフィードの表情が余程面白かったのか、トリィは愉快そうに笑う。
「何バカ面引っ提げてんのよ。何もおかしい事ないじゃない――憎しみに狂い、力に溺れ、非道な事でも平気でできる。昔あんたがやってたのと何も変わらないじゃない」
「そ、それは……」
「――ウチはネリスを殺したあんたを絶対に許さない。ウチはあんたなんかよりもずっと強いハンターになってやるわ。その為なら、どんな非道な手段でも構いやしない」
憎しみの炎を瞳の奥で燃えたぎらせながら、トリィはシルフィードを睨みつけたまま、覚悟に満ちた表情で語る。その単語ひとつひとつにシルフィードは返す言葉もなく、ただただ苦しそうに唇を噛んで無言を貫き続ける。
「……何か言いたい事、ある?」
鼻を鳴らし、相手を見下しながら問いかけるトリィ。シルフィードは彼女の視線を向けられず、斜め下の方へ視線を落とすと、うなだれたままただ一言「すまなかった……」と謝る。驚くクリュウの目の前で、突如トリィはシルフィードの胸倉を掴んだ。その表情は憎しみに歪み、瞳の鋭さも増していた。
「――っざけんじゃないわよッ! 今更謝られたからって、ネリスが生き返るとでも思ってるのッ!? あんたの身勝手で死んだネリスを、ネリスを殺したあんたを、許せる訳ないでしょッ!? すまないの一言で逃げられるなんて思うなッ!」
胸倉を掴みながら顔を限界まで近づけ、至近距離で怒り狂いながら怒鳴り散らすトリィ。だがシルフィードはそんな彼女に何も返す事なく、視線すら合わせられずにうつむき続ける。そんな弱々しい彼女の姿を初めて見たクリュウは最初こそ驚いていたが、慌てて二人の間に入り込んだ。事情はまだよくわからないが、仲間が罵倒されていて黙っていられる程クリュウは非情にはなれない。
「ちょ、ちょっとやめてくださいッ! シルフィを放してッ!」
クリュウはシルフィードの胸倉を掴むトリィの腕を引き剥がすと、二人の間に器用に潜り込む。突然の乱入者であるクリュウの登場に意表を突かれたトリィは簡単に下がる。二人の間に入ったクリュウはすぐにシルフィードの方に振り返り「大丈夫シルフィ?」と尋ねるが、シルフィードは何も答えない。焦点を失った瞳はどこを見ているかもわからなかった。彼女のそんな姿をクリュウは初めて見た。
「何なのあんた?」
一方、突然クリュウに乱入されたトリィは不機嫌そうに鼻を鳴らす。さっきのアインとのやり取りを見ていた彼女が自分の事を知らないはずはない。この問いかけは正体を尋ねているのではなく、勝手に割り込んで何様のつもりだ、という意味だ。
自分よりも年上の女性に睨まれるという状況。クリュウは一瞬気圧されそうになるが、勇気を奮い立たせて彼女の前に立ち塞がる。
「それはこっちの台詞です。一体何なんですかあなたは。いきなりシルフィに襲いかかって来て、どういうつもりなんですか?」
「……部外者は引っ込んでなさい」
「部外者じゃないッ! 僕はシルフィの仲間ですッ! 関係なくなんかありませんッ!」
力強く宣言するクリュウの言葉に対し、トリィは小さく舌打ちすると未だ沈黙を続けるシルフィードに向かって「仲間、ね。偽善にしても悪い冗談ね」と鼻で笑う。それに対してもシルフィードは何も答えなかった。
「シルフィもシルフィだよッ。何で言い返さないのさッ。シルフィが人殺しな訳ないでしょッ!」
シルフィードの方に向き直って怒るクリュウだったが、シルフィードはそんな彼にすら視線を合わせられずにいた。するとそんな彼の様子を見たトリィの口元に不気味な笑みが浮かぶ。
「へぇ、あんた自分の過去の事この子に黙ってるんだ。ふぅん、ずいぶん便利な《仲間》ね」
「か、過去の事は過去の事です。僕は今のシルフィを信頼してるんですから」
「ふぅん、ならあんたは人殺しのこいつを信頼できるって言うんだ」
「だ、だからシルフィは人殺しなんかじゃ――」
「――人殺しなのよ。こいつは四年前に、ウチの幼なじみを殺したのよ」
思い出すのも吐き気がすると言いたげに吐き捨てるトリィの発言にクリュウは押し黙る。心ではシルフィードがそんな人間じゃないと思ってはいても、彼女の真剣な声を前にそれを妄言だと切り捨てる事は、どうしてもできなかった。だから、
「シルフィ、この人が言ってる事って、もちろんウソだよね?」
確認するように振り返って尋ねたクリュウだったが、シルフィードは視線すら合わせる事なく、何も返してくれなかった。その無言が意味するもの、それは――
「ウソ、だよね……?」
信じられないとばかりに声を詰まらせながら、すがりつくように尋ねる彼の問いかけにシルフィードはようやくその重い口を開く。だが、そんな彼女から発せられたのは――
「……すまない」
――クリュウが信じていた言葉ではなかった。
愕然とするクリュウの姿を見て、トリィは愉快そうに笑う。
「ウチが言った通りじゃない。こいつは――人殺しなのよ」
「う、ウソだッ! シルフィはそんな事をする人じゃないよッ!」
動揺しつつも、クリュウは断固シルフィードを信じるとばかりにトリィの言いがかりを突っぱねる。そんな彼の姿をゆっくりと顔を上げたシルフィードが見詰める。
クリュウの反撃にトリィは鼻を鳴らすと「何も知らない奴が、知った風な口叩くんじゃないわよ」と威嚇する。それでもシルフィードを擁護しようとするクリュウに、さすがのトリィも鬱陶しくなったのか、「うっさいわね。いいから部外者は引っ込んでなさいよッ!」とクリュウの肩を掴むと、彼の体を易々と跳ね飛ばした。突然の事に対処できなかったクリュウはそのまま倒れ、テーブルに頭を打ち付けて悶える。それを見た瞬間、それまで炎を失っていたシルフィードの瞳に火が戻る――それも怒りの炎だ。
「貴様……ぁッ! クリュウに何をするッ!」
突然怒り出したシルフィードは驚くトリィの胸倉を掴み上げると至近距離で激昂する。突如怒り出したシルフィードに驚きつつも、トリィの表情もまた怒りに染まっていく。
「ハッ、何ムキになってんのよ。自分の事は無関心を装って、お仲間さんの事になると見境がない訳あんたッ!?」
「私の事はどう罵倒しても構わんさ。実際、私はそれだけの大罪を犯したのだからな。だがクリュウは関係ないだろうがッ!」
「うっさいわね。たかがガキ一人に何ムキになってんのよ」
「き、貴様ぁ……ッ!」
いつもは冷静なシルフィードだが、今は完全にその冷静さを失っていた。今にもトリィに向かって殴り掛かりかねない勢いだし、トリィも殴られればすぐさま反撃に出る事も辞さない構えだ。そんな二人の様子をアインとツヴァイは面白おかしそうに見詰めていて、止める気配はない。クリュウも後頭部を襲った痛みのあまり動けずにいた。
誰も止められず、一触即発なシルフィードとトリィ。だがそんな二人の間に割って入る者がいた。二人の顔の間に鉄製の食器プレートをねじ込み、驚いて互いに半歩引く二人の間に割って入ったのはギルド嬢長のライザだった。
「はいはいそこまでにしてねぇ。ここは酒場だから騒ぐのは構わないんだけど、さすがに喧嘩となっちゃお姉さんも黙ってられないなぁ」
いつもと変わらぬ笑顔を振りまきながら現れたライザを前に、シルフィードはバツの悪そうな表情を浮かべると悶えるクリュウの方へ駆け寄る。それを見届け、ライザは改めてトリィの方へ向き直った。
「あなた達の過去に何があったかは、お姉さんわからない。でも、ギルド嬢長として酒場内で流血事件は起こしたくないのよねぇ。そんなに喧嘩したいなら、外でやってくれないかな?」
だがトリィもライザの乱入に興ざめしたらしく、「面倒だからパス」と身を引いた。それを見届けたアインは「何だ、つまらんなぁ」と残念そうにつぶやいた。
「あなた達も、ギルドマスターが呼んでるんだからさっさと行って来なさい」
ライザが注意すると、アインは「わかったわかった」と面倒そうに答えると「行くぞ」とだけつぶやいて歩き出す。その後「あぁん、お兄様待ってぇ~」と甘い声を出しながらツヴァイが、一度シルフィードの方を睨みつけてからトリィ、そして最後にずっと石像のように固まって黙っていたグラビドSの男が続いて酒場の奥にあるギルド本部へ通じる出口へと消えた。
四人の姿がなくなると、少しずつ酒場の喧噪が戻り始める。それを見届けほっと胸を撫で下ろしたクリュウとシルフィードの方へと振り返る。
「大丈夫かしらクリュウ君?」
「は、はい。何とか……」
後頭部を押さえながらクリュウはシルフィードに支えられながら起き上がる。シルフィードはそんな彼を心配そうに見詰めていたがライザと目が合うと気まずそうに逸らした。それを見てライザは小さなため息を吐く。
「さっきも言った通り、私はあなた達二人の過去は知らないわ。部外者である私がとやかく言える立場じゃないけど――せめてクリュウ君には、全部話してあげたら?」
ライザの言葉にシルフィードはビクリと震える。そんな弱々しい彼女の姿を初めて見たクリュウは不安そうにライザの方を見る。するとライザは「クリュウ君も、しっかりシルフィードを支えてあげなさい」と言って足早に立ち去ってしまった。
クリュウはシルフィードに支えられながらそんな彼女の背中を見送った後、そっとシルフィードの方を見る。いつもは頼もしい笑みを浮かべているシルフィードだったが、今は見ていられない程に弱々しい印象を抱く。
周りの喧噪がすっかり元に戻り始めた頃、クリュウはゆっくりと口を開く。
「……部屋に戻ろうか?」
「あぁ……」
返って来た返事も、また弱々しいものだった……