モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

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第178話 ロレーヌ・アルトリア・ティターニア

 東の空が明るい朝日に染まっていく。新たな一日の始まりを告げる静かなる朝。

 眠る事なく夜を明かした二人はまずイリスが部屋を出て行った。一緒に現れては兵士達に不審がられるからだ。イリスが出て行ってからしばらくしてクリュウも部屋を出て行く。向かう先は事前の打ち合わせ通り艦橋だ。

 当直の兵士を除けば、多くの兵士が起床を始める頃合いで艦内が騒がしくなる。慌ただしく軍服を着こなして廊下を走る兵士とすれ違いながら艦橋に到着すると、そこには艦長や副艦長を始めとした艦橋常駐兵士の他に、簡易的ながら動きやすいドレスを身に纏ったイリスの姿もあった。

「おはようございます」

 クリュウが挨拶すると壮年の優しげな艦長が笑顔で挨拶を返してくれる。艦長だけではなく他の兵士達も口々に挨拶をしてくれた。さすがにエルバーフェルドからアルトリアまで一週間もの間一緒にいただけあって、『シェフィールド』の兵士達とは気まずい雰囲気はほとんどなくなっていた。

「イリスも、おはよう」

「うぬ。昨日はよく眠れたか?」

「まぁね」

 お互いに見え透いた芝居をし合う。表情にこそ出さないがその胸中ではお互いにこの見え透いた小芝居に苦笑し合っていた。二人の会話を訝しがる事もなく、兵士達は慌ただしく朝の仕事へと戻る。

 窓の外を見下ろしているイリスの横にクリュウがそっと並び立つ。

「それでイリス。アーク・ロイヤル城にはあとどれくらいで着きそう?」

「――何を言うておるか。もう見えておろうが」

 そう言ってイリスが指差した方向を見ると、確かにそこには城があった。

 アルトリア城に比べれば大きさもデザインも全く異なる城だ。城と言うよりは大きな別荘と言うに相応しい規模のもの。レンガ作りの巨大な横長の箱状の建物と庭園。その二つで構成されたのが、アーク・ロイヤル城だった。

「あれが、アーク・ロイヤル城……」

「艦長。シップポートへ降下してくれ」

「ハッ。降下準備、急げぇッ!」

 艦長の号令一下、兵士達の動きが慌ただしくなる。着陸警報が鳴り響き、『シェフィールド』はゆっくりと降下を開始する。その最中、イリスとクリュウはその場から動く事なく目指すアーク・ロイヤル城を見詰め続ける。

 重々しい音と共に艦が着陸すると、二人はまるで合図をしたかのように同時に互いの方へ向く。そして一つうなずき合い、着陸作業を指示している艦長の前に立つ。

「お主達はこのままここで待機しておれ。城には、妾とクリュウだけで出向く」

「護衛の兵士は?」

「いらぬ。あそこには聖騎士団の中でも選りすぐりの兵士達が待機しておる。お主達の手を煩わせる事はない」

「……わかりました。お気をつけて陛下。ルナリーフ殿も、陛下をお頼みしましたぞ」

「わかりました」

 艦長は見事な敬礼で二人を見送る。出口へ向かうとすでに入口に移動式のステップが横付けされており、クリュウがまず先導するようにステップへ移る。そして、イリスの手を握り締めて彼女をゆっくりとリードする。

 ステップから降りると、数人の『シェフィールド』の兵士が見慣れぬ服装の数人の武装した男達と何事かを話していた。しかしイリスの姿を見るとどちらも一斉に見事な敬礼をしてみせた。

「お主達は下がっておれ」

 イリスは『シェフィールド』の兵士達にそう言って下がらせると、全身真っ白な礼装を纏い、剣を携えた男達の前に立つ。クリュウはそんな彼女の付き人のように背後を陣取っていた。

「事前連絡もなく、気持ちのいい朝に騒々しい出向き方をしてすまなかった。母上の容態はどうじゃ?」

「……正直に申しますと、日に日に弱っていらっしゃいます。医師も、そう長い命ではないと」

「そうか……。今、母上に謁見する事は可能か?」

「少々お待ちください」

 そう言って男は部下らしき男を宮殿の中へ走らせた。しばらくして、男が戻って来た。小声でイリスに謁見可能だと伝えると、イリスは一つうなずく。そして、ゆっくりとクリュウへと振り返った。

「覚悟は良いな。クリュウ」

「う、うん……」

「では、参るぞ」

 そう言ってイリスはマントを翻して歩き出す。その後をクリュウが続く。

 朝露が葉を濡らし、辺りは妙な湿気を帯びている。小鳥や虫もまだ眠っているのか、彼らの耳に聞こえるのは自分達の足音と時折辺りを吹き抜ける風の音だけだ。

 ゆっくりと門を潜り抜けると、中央庭園へと足を踏み入れる。庭園はきれいに手入れが行き届いており、美しい花々がきれいに花壇で咲き誇っていた。

「きれいな庭園だね」

「優秀な庭師が手入れをしておるからな。半年前までは母上が自らしていたのじゃが、もはや外を歩く事も母上はできないのじゃ」

「そっか……」

 気まずい雰囲気を打破しようと話題を振ったのだが、彼の思惑と外れて空気はより重くなる。イリスは構わず歩き続け、宮殿への扉の前に至った。門番二人が彼女に対して敬礼を行い、すぐに扉を開く。イリスは無言のまま開かれた扉の中へと入り、クリュウもそれに続いた。

 城の綺羅びやかな装飾とは違う、物静かな装飾だが決して質素という事はなく所々に高そうな装飾品が並び、落ち着いた豪華さを静かに表している。

 扉を入ると、中央に階段があり、中程で左右へと分岐する形だ。だがイリスは階段へ行く事はなく、そのまま左右に分かれた階段の下の、右側の入口へと進む。

「二階じゃないんだね」

「なるべく母上に負担にならぬよう、一階で療養してもらっておるのじゃ」

 イリスは短く答えると、慣れた様子で中へと進む。何度か道を折れた先は行き止まり。ただし、そこには扉が一つあった。イリスはその前で立ち止まると、後から続いているクリュウへと振り返った。

「――この奥に母上がおる。妾が呼ぶまでここで待機しておれ」

 クリュウがゆっくりとうなずくのを見てイリスはドアをノックする。

「……誰?」

 ドア越しに聞こえたのは女性の声。その声色はどこかクリュウの記憶の中にあるアメリアの声に似ていた。姉妹だからなのだろうが、その声にクリュウの胸の中に懐かしさが広がる。

「イリスです。母上」

「イリス? そう、入りなさい」

「……失礼します」

 イリスが扉を開けて入ると、そこはそれほど広くはない部屋だった。落ち着いた装飾を施し、物静かな雰囲気が広がる部屋。生活感があまり感じられないのは衣装棚やテーブルといったものがないからだろう。そういったものは別の部屋にあってメイドが持って来るのだ。ここはあくまで、ベッドから動けない彼女の為の寝室兼治療室。

 部屋の奥、長閑な森を眺められる大きな窓の横に置かれたベッドの上。そこに彼女はいた。

 少し細めな体にあまり太陽の下に出た事がないだろうと予想できる程に白い肌。年で言えばもう四〇歳を超えているはずなのにその美貌はそんな年齢を感じさせない。だが纏う雰囲気は逆にどこか疲れ切った老人に近い。

 くすんだ銀色の長い髪はその輝きを失いつつあるが、イリスの美しく輝く銀髪とどこか似ている。髪と同じくどこか光が鈍い碧眼も、今まさに希望に満ち溢れて光り輝いているイリスの瞳とよく似ている。

 文字通りイリスの三〇年後の姿と言っても通じるようなイリスに良く似た女性。ただお転婆なイリスと違って彼女は物静かで大人びた貴婦人という印象を抱かせる。

 彼女こそアルトリア王国最後の女王にしてアルトリア王政軍国初代女王。富国強兵を掲げて国民に重税を課し、逆らう者は容赦なく排除して独裁的な政治を行い、アルトリア王政軍国を世界一の科学大国にして世界最強の軍事国家へと変貌させた人物。《暴君》《冷酷王》《氷の女王》《独裁者》など数々の汚名を受けながらも、ただ国の為に不器用なりに全力を尽くした元女王にしてイリスの母――ロレーヌ・アルトリア・ティターニアだ。

 ロレーヌはイリスを見ると読んでいた本をパタンと閉じて娘を出迎える。その姿は一人の母親そのもの。ただ決して笑顔は浮かべる事はなく、考えを読ませない鉄の表情を崩さぬまま娘を見る姿は引退したとはいえ元女王としての風格に満ちていた。

 イリスは部屋へ入ってベッドの正面に立つと、膝を折って敬々しく跪いた。一国の女王が見せる最上敬礼。それはまさにロレーヌの偉大さを物語っているかのようだった。

「顔を上げなさいイリス。アルトリアの王たるあなたが、私のようなもはや何の権力も持っていない者相手にそのような姿を見せてはいけません」

「……失礼しました母上」

 イリスはどこか緊張しているように見える。大好きな母を前にしても、同時に相手は自分が最も尊敬し、最も偉大な元女王。全くもって頭が上がらないという感じだ。

「……イリス。今は国会が開いている最中のはず。そのような時期に私を訪ねる余裕もなければ、そのような軽率な行動をすべきではない事、あなたならわかりますね?」

「はい……」

「……そのような時期に、それも『シェフィールド』を用いてまで私を訪ねる必要性――何か緊急の用件でもありましたか?」

 女王が国政の忙しい時期に危険を冒してまで行動する。イリスの行動を見てロレーヌは尋常ではない国難が発生しているのではと危惧する。大陸情勢の変化、テティル連邦共和国の動向、モンスターの異常発生、重大な事故の発生、経済を揺るがす出来事。様々な予想を立ててイリスへと尋ねるロレーヌだが、イリスの回答は彼女のどの予想にも当てはまらないものだった。

「その、母上にぜひ会わせたい者がいるのじゃ」

「私に……?」

 イリスの答えに鉄の表情を崩さないロレーヌも一瞬だけ困惑したような表情を浮かべた。だがすぐに一瞬前までと同じような凛々しさを取り戻す。

「……イリス。私が今、どういう身であるか、わかりますね?」

「はい――ロレーヌ・アルトリア・ティターニアはすでに死亡している」

 緊張した様子で答えるイリスの回答にロレーヌは「そうです」と短く答えてうなずいた。そして、突如としてそれまで幾分か穏やかだった雰囲気が一転して厳しいものに変わった。その原因は言うまでもなくロレーヌの目付きが変わったからだ。それまでと違う鋭い眼光は、冷酷王とも称された冷徹な王に相応しい魔剣のように鋭く、怪しく煌く。

 母親の雰囲気が変わったのを見て、イリスがビクッと震え、怯える。まるで部屋の室温が急に氷点下になったかのような錯覚に陥る程に、体の震えが止まらない。実の親相手とは思えない程の恐怖だ――それが、ロレーヌ・アルトリア・ティタ―ニアという人間だ。

「ならば、あなたの行動は軽率としか言いようがないわね。それほどのリスクを冒してまで会わせたい人物など、私には思い当たらないわ」

「……確かに軽率な行動だった事は反省しておる。じゃが、どうしても母上に会ってほしい人がいたのじゃ。妾は、それだけのリスクを冒してでも会わせるべきじゃと判断している」

 震えながらも、決して視線を逸らす事なく恐るべき母親と対峙しながら必死になって彼と会うよう説得するイリス。母親に逆らえばどんな目に遭うか、幼い頃から散々怒られてきたイリスはそれを痛いくらいに知っている。だが、その恐怖を押し殺してでも、どうしてもロレーヌに彼を会わせたかった。

 イリスの一生懸命な姿をしばし見詰めた後、ロレーヌはふぅと肩の力を抜くようにため息を零した。その瞬間、部屋の空気が少しだけ和らいだのをイリスは肌で感じていた。

「……よろしい。ならば、あなたが言う会わせたい者を呼びなさい」

「は、母上……ッ」

「――先に言っておくが、彼氏を連れて来たとかではありませんよね?」

「にゃッ!? ち、違うッ! 彼と妾はそういう関係ではないッ!」

「……彼?」

「ぬおッ!? 母上の目がまた恐ろしいものに変わっていく……ッ! く、クリュウッ! さっさと入って参れッ!」

 再び表情が変わっていくロレーヌに怯えながら、イリスは震える声でドアの向こうに待機しているクリュウを呼ぶ。すると、ゆっくりと扉が少し開き、その隙間からそぉっと彼が顔を出す。

「……えっと、入って大丈夫?」

「無論じゃ。さっさと入って来るのじゃ」

 イリスの許可を得てクリュウは今度こそ扉を大きく開いて部屋へと足を踏み入れる。そんな彼の様子をロレーヌが訝しげにイリスの肩越しに見詰める。

 ゆっくりとした足取りでクリュウはイリスの横、ロレーヌの前に立つ。その瞬間、クリュウとロレーヌの目が初めて合った。

 見る見るうちにクリュウの瞳が大きく見開かれる――そこにいたのは、記憶の中にしかいない母親によく似た女性、ロレーヌ。

 記憶の中の母の姿に比べると、少し痩せこけて無駄に明るかった雰囲気はまるで感じられないし、言うまでもないが老けている。それでも、記憶の中の母親と今目の前にいる女性はよく似ていた。

 ジッと見詰めてくるクリュウの視線を不審に感じながら、ロレーヌは静かに口火を開く。

「其方(そなた)は?」

「あ、その……」

 ロレーヌの厳しい視線を前にクリュウは緊張のあまり黙ってしまう。当然そんなハッキリとしない彼の態度にロレーヌは不審に思い、慌てて隣に立つイリスがクリュウの脇腹を小突く。

「何をしておるか。しゃんとせい」

「う、うん」

 イリスに怒られ、クリュウはその場で大きく深呼吸。何度かそれを繰り返して気持ちを整えると厳しい目つきでこちらを見詰めているロレーヌと対峙する。母親によく似た人、叔母を相手にするというのは妙な気分だ。しかも相手はこちらの正体を知らないのだから、これから打ち明ける身としては緊張も相当だ。

「は、初めましてロレーヌ陛下」

「陛下はイリスに向ける敬称よ。私に向けるものではない」

「す、すみません」

 すっかり雰囲気に呑まれてしまって出鼻を挫かれてしまって黙ってしまうクリュウを前にイリスはため息を零す。するとロレーヌの目線はそんな彼女へと切り替わった。

「イリス。彼は私に関わる全ての事情はすでに熟知しているのね?」

「は、はい。全て話しました」

「……あなたは、彼を信頼しているのですね?」

「――もちろんじゃ」

 迷う事なく堂々と宣言するイリスの自信満々な横顔とそんな彼女の返事にクリュウは思わず胸が熱くなった。まだ会って間もなく、交わした会話も決して多い訳ではない。それでも彼女は自分を信じ、堂々と自分を信頼していると言ってくれた。そんな彼女の姿が輝かしく見え、何より心の底から嬉しい。

 クリュウの感動した視線にイリスは頬を赤らめながら「そのような目で妾を見るな。小恥ずかしいではないか」と照れ笑いを浮かべる。

 そんな二人の様子を見ていたロレーヌは終始表情を崩さない――だが二人が見詰め合った一瞬だけ、ロレーヌの口元が綻んだ事に二人は気付いていない。

「娘が信頼しているのなら、私も信頼しても大丈夫ね。改めて名を名乗ろう、私が前アルトリア王政軍国女王、ロレーヌ・アルトリア・ティターニアだ」

 ロレーヌが名乗ると、今度は彼女の視線がクリュウの一点に注がれた。相手から名乗られたのだから、こちらも名乗るのは礼儀だ。だが彼にとって、彼女に名を名乗るというのは並大抵の勇気ではできない事。喉が痛いくらいに渇れ、ツバを呑み込むたびに痛みが走る程。唇は震え、視線は今にも彼女から逸らしてしまいそうなくらい、彼は緊張していた。だが――

「……イリス」

 ――震える彼の手を、イリスはそっと握り締めた。優しく包み込むような小さな手。視線を向けると、イリスはジッとこちらを見詰めていた。大丈夫じゃ、そんな言葉を込めた瞳が、彼を励ます。

 クリュウはイリスの応援する視線にうなずき、改めてロレーヌに向き合う。まだ緊張はしている。それでも、手を通して繋がるイリスの存在が、彼を奮い立たせた。

「僕の名前はクリュウ・ルナリーフ。二五年前にこの国を飛び出したあなたの姉――アメリア・アルトリア・フランチェスカの息子です」

 

「姉上の、子供……?」

 これまで彼らの前では厳しい表情を変える事がなかったロレーヌだったが、クリュウの言葉に初めて戸惑ったような表情を見せた。

「はい。僕の母はアメリア・アルトリア・フランチェスカ。二五年前に父さんと一緒にこの国を飛び出した、あなたのお姉さんです」

 クリュウは改めて自分の母の正体を明かした。そんな彼の言葉に最初こそ戸惑っていたロレーヌだったが、次第にその表情が険しいものに変わっていく。

「……イリス。あなたは私にこのような妄言を聞かせる為に国政を放り捨てて、わざわざ私の前に出向いたのですか?」

 明らかにこれまでよりも鋭い眼光に射抜かれたイリスはビクリと体を震わせて怯えるが、一瞬だけ同じように緊張している彼の横顔を見て恐る恐るうなずく。

「はい……」

「話にならないわ。さっさと出て行きなさい」

「母上ッ。彼は、クリュウは本当に妾の従兄弟なのじゃッ」

「あなたまで何を言っているのよ。そんなの信じられる訳ないわ」

 目尻を釣り上げて妄言だと吐き捨てるロレーヌ。だがそんな彼女の反応は二人共予想していた。クリュウとイリスはお互いに目を合わせてうなずき、イリスは自分の懐から母から受け継がれた銀火竜の紋章を印したペンダントを取り出す。

「母上。これは母上から譲り受けた、金火竜と対を成す銀火竜の紋章じゃ」

「えぇ、私があなたに王位を継承する際に渡したもの。世界に二つとしてない、王族の証」

「そして、対を成す金火竜の紋章は叔母、アメリアが持っているのじゃったな?」

「そうです。姉上の部屋を探しても見つからなかったのだから、今も姉上が持っているとみて間違いないわね」

「……クリュウ」

「う、うん」

 イリスの言葉にクリュウはゆっくりと自らの懐に腕を伸ばした。そしてそこから取り出したのは母の形見、金火竜の紋章が印されたペンダント――イリスの持つ銀火竜の紋章と対を成す、もう一つの王族を記す証。

 美しく光り輝く金火竜の紋章の煌きを見た瞬間、ロレーヌは我が目を疑った。厳しい表情を崩し、先程以上に動揺した様子で金火竜のペンダントとクリュウの顔を何度も見比べる。

「ま、まさか……ッ。いや、偽物という可能性も……ッ」

「ならば、自分の目で確かめてみるのじゃ母上」

 イリスの言葉にクリュウはそっと自分の持つ母の形見を渡す。受け取ったロレーヌは震える手の上で何度もペンダントを転がしながらその正体を探る。

 しばしの無言。だがそれはポツリと零れ落ちたロレーヌのつぶやきが終わらせる。

「本物……よ」

「当然じゃ。何せそれは本物じゃからな。クリュウの母上が妾の叔母である何よりの証じゃな」

「う、ウソよ……ッ。まさか、そんな……ッ」

 信じられない。ロレーヌは震える手の上で輝く金火竜のペンダントを何度も見るが、それが偽物ではないという事は彼女自身が誰よりもわかっていた。

「う……ッ」

「は、母上ッ!?」

 突如ロレーヌは胸を押さえて苦しみ出した。蹲るように体を折って痛む胸を押さえて苦しむ。突然の出来事にクリュウは驚きながらも「い、医者を呼んで来るッ」と急いで部屋を飛び出した。

 すぐにクリュウが連れて来た医者が薬をロレーヌに呑ませた。服用してから数分は苦しんでいたロレーヌだったが、次第に痛みは引いて落ち着きを取り戻す。

 医者が大丈夫と判断して部屋を出て行くのを見送って振り返ると、ベッドに横になっているロレーヌと目が合う。

「……すまなかったわね。驚かせて」

「いえ、それより、大丈夫ですか?」

「もう慣れた……私は昔から心臓が弱くてね。子供の頃は医者から三〇歳まで生きられないって言われてたけど、意外と長生きしたわ」

「そんな、ロレーヌさんはまだまだ若いですよ」

「……十分長生きしたわ。それにもう、私の心臓は長くは持たない。それは本人が一番よくわかっているもの」

 そう言いながら、ロレーヌは自らの胸に手を当てた。自分でもわかる。胸の鼓動が弱まっている事など、自分が一番理解している。

「――本当に、姉上の子なの?」

 心配そうに自分を見詰めていたクリュウに向かってロレーヌは尋ねる。だがその問い掛けにはもはや疑心の念はなく、ただ確認したい、そんな想いが込められていた。クリュウは静かにうなずく。

「はい」

「……そう」

 ロレーヌは静かに天井を見上げた。何かを考えるように一瞬目を閉じる。そして、その頬をゆっくりと涙が流れた。

「そう、姉上は生きてたのね……」

 安心したようにロレーヌは言葉を零す――そして、それまで一切浮かべる事のなかった笑顔を浮かべた。それはほんとうに綺麗な笑顔だった。澄み切った、心の底から安堵したような笑顔。まるで、何十年とあった心残りが取れたような、そんな安心しきった笑顔。

 イリスはそんな母の笑顔を見て嬉しそうに頬を上気させながら何度もうなずく。

 だがクリュウだけは、ロレーヌの言葉に複雑そうな表情を浮かべていた。するとそんな彼をロレーヌは無言で手招きする。誘いに従って彼女のすぐ脇に立つと、そんな彼の頬をロレーヌは優しく撫でた。頬に触れる温かくて柔らかな感触、そして傍に寄ればわかるいい香り。それは記憶の奥底にある今は亡き母のそれとよく似ていた。まるで、本当に母に頬を撫でられているような、そんな錯覚に陥る程に温もりも柔らかさも匂いも、アメリアとロレーヌはよく似ていた。

「……ほんと、よく見れば姉上によく似てるわね。目元なんてそっくり」

「母親似とはよく言われます」

「そう……」

 そっと頬から彼女の手が離される。クリュウは消えた温もりに少しの寂しさを感じながら、ベッドに横たわるロレーヌを見詰める。そのどこか安堵した表情を見れば、彼女が心のどこかで自身の姉の事を心配していた事が窺える。息子として、母の身を案じてくれていたロレーヌには感謝の気持ちでいっぱいだ――だが、だからこそ言わないといけない事もある。

「あの、ロレーヌさん。実は、母さんは――」

「――もう、亡くなってるのですね?」

「……え?」

 これから言おうとしていた事を逆に問われ、クリュウは驚きのあまり呆然とロレーヌを見詰めたまま固まってしまう。そんな彼の反応を見てロレーヌは静かに「そう……」とだけつぶやいた。

「どうして……」

「わかるわよ。もし国に戻って来る事情があれば、姉上はその先陣を切ってやって来る。代理人を使うような人ではありませんから。そんな姉上が来ずにあなたが来た。この事実を見れば、姉上が今どういう状態なのか、察する事は難しくない」

 そう言って、ロレーヌは表情を変える事なく淡々と答える。一見すると淡白に見えるが、それが素の彼女なのだろう。サクラだって今でこそあの無表情の細かな動きをクリュウは理解できるようになったが、他人が見たらただの愛想のない子だ。

 むしろ、迷う事なくアメリアの行動心理を完全に把握しながら語る彼女は、本当にアメリアの妹だ。自分以外に母の事をよく理解している人、クリュウはそれが嬉しかった。

「母さんって、昔から本当に考えなしに行動する人だったんですね」

「……どうやら、姉上は死ぬまでバカが抜けなかったみたいね」

 そう言ってロレーヌは口元にわずかな微笑を浮かべた。それが彼女なりの笑顔だったのだろう。だがそれもすぐに引っ込む。続いて現れたのは、一切の笑みが消えた真剣な表情。自然と、クリュウの表情も引き締まる。

「姉上は、何で死んだのですか? あの人の事だから、私より先に病気とかで死にそうにはないけど」

「その、母さんは僕が生まれる前まで父さんと一緒にハンターをしていました」

「……あのお転婆な姉上なら、実にやりかねない職種ね」

「僕が生まれてからはハンターは引退して専業主婦になっていました。でも、九年前に父さんは殉職しました。そして母さんも、七年前に……」

「姉上は、ハンターをやめていたのではなかったのですか?」

「……その、嵐の日に森で迷子になった子供を助けに行って。そこでその子供を庇ってモンスターに殺された、と」

「……そう。最期の最期まで、実に姉上らしい生き方ね」

 ロレーヌは目を伏せ、小声でそうつぶやいた。彼女はクリュウよりもずっと長い間、アメリアと一緒にいた。だからこそ、彼女のお人好しな性格を理解してたし、そんな彼女の最期もまた、ある意味納得できていた。

 愛想がなくて物事を淡々とこなしていた自分と、天真爛漫で人の為に一生懸命になれる姉。昔から、ロレーヌは姉に憧れていた。あんな風に笑ってみたい、あんな風にみんなの為に一生懸命になりたい。でもそれは、自分には不向きな事。でも――

「――困っている人を放ってはおけない。それが姉上の信条だったから」

 

 城を抜け出す姉に引っ張られて近所の公園で同世代の子達と遊んだ事があった。

 アメリアは男の子達と一緒にサッカーをして、自分は一人だった。学校の宿題をテーブルに広げながらも会話中心で遊んでしまっている女子の輪に入れなかったからだ。そもそも、今時の女子の話題なんてそれこそロレーヌには暗号にしか聞こえず興味もなかった。

 そんな時、頬に土汚れを付けたアメリアがにっこりと微笑みながらやって来た。

「――そんな所で一人でいないで、こっちにおいでよッ」

 そう言ってアメリアはあっという間に女子の輪にも入ってしまった。そして輪に入れなかったロレーヌを迎え入れ、彼女にもできる役回り――教師を任命した。この時点ですでに彼女達が教わる基礎科目はとうに終えて応用科目も終盤に入っていたロレーヌにとって、彼女達が理解に困る分野は完全理解していた。

 たどたどしく一人ひとりのわからない所を聞き、適切に答えを導き出す方法を教える。決して答えを言って楽させる事はなく、ちゃんと理解する道筋を立てる。自分にも他人にも厳しいロレーヌらしい教え方だ。

 ロレーヌの説明に少女達は次々に難題を解読していった。

「ロレーヌ様すごぉいッ!」

「本当に頭いいんだねぇッ。私にもちょっとでもいいからロレーヌ様の頭の良さがほしいよぉ」

「爪の垢を煎じて飲めばいいって、おばあちゃんが言ってたよ?」

「ロレーヌ様ッ! 是非あなた様の指を舐めさせてくださいッ!」

「……あぁ、この子は放っておいて。男の子に興味のない子なので」

「ロレーヌ様、ここ教えてもらえませんか?」

「あ、私も私もッ!」

 あっという間にロレーヌは少女達の中心に位置してしまった。戸惑いつつも、皆が自分を頼ってくれる事がロレーヌにとっては少し嬉しかった。自分一人では、絶対こんな風に自分の周りに人は集まらなかった。

 そんな自分じゃできない事を、意図も簡単にやってのけた。人を集めるカリスマ性、それが自分にはなくて彼女にある力。

 問題の解き方を教えながら、ふとロレーヌはアメリアの方を見た。すると彼女は自分に向かってニッコリと微笑んだ。その優しくて頼もしい笑顔は、今でも忘れられない。

 彼女はあっという間に友だちができない自分に友達を作り、そして同時に宿題に困っていた少女達をも救ってみせた。二兎を追う者は一兎をも得ずと言うが、彼女はその二つを同時にやってのけてしまう。それが、アメリア・アルトリア・フランチェスカという女の子だった。

 そして、城を抜け出した事がバレた時もアメリアは自分で全部の責任を背負った。元々彼女に無理やり連れ出されたのだから自分は怒られる謂れはない。だが、楽しい時間だった事には変わりはない。だからこそ自分にも責任があると言ったが、アメリアは首を横に振った。

「――私はバカだから、これくらい大丈夫。ロレーヌは私みたいにバカになっちゃダメ。お母様が困っちゃうからね」

 笑顔でそう言うアメリアの姿は、子供ながらにすでに輝いて見えた。この輝きが、自分と姉の決定的な差。そして、姉を尊敬する最大の理由だった。

 アメリアが自分にないものを持つように、自分もアメリアにはないものを持っていた。それが勉強だった。アメリアはお世辞にも頭がいい子ではなく、皇宮学校ではいつも赤点かそのギリギリという点数でよく補修を受けていたが、自分はいつも学年トップだった。

 元々頭が良かった事に加えて、日々の努力がその実績を作り上げた。でも別にトップになりたくて勉強をしていた訳ではない。ましてや国の為だなんて、その頃の自分は考えもしなかった。

 ――ただ単に、姉に頼られたかったからだ。

 勉強がまるでできないアメリアはことある事に自分に勉強を教えてほしいと言う。ロレーヌにとって、大好きな姉に頼られる事は何よりも嬉しかった。姉に何を尋ねられても答えられるように勉強し、いつの間にか人に教えるのもうまくなっていた。

 姉はバカだけど人を集め、その中心で皆を笑顔にさせる人。自分はそんな姉の輪の中で彼女を頭脳的に支える参謀役。二人はお互いにないものを、お互いで支え合って生きてきた。

 ――あの日、大好きだった姉の笑顔がどこかへ行ってしまうまでは。

 

「――母さんの事、恨んでますか?」

 どこか遠い目をして黙り込むロレーヌを前に、クリュウは不安げにそう尋ねた。恨んでいると言われても、クリュウはそれに対して返す言葉がなかった。

 母は役目を放棄して父と駆け落ちして、その重責の全てを妹のロレーヌに押し付けたのだから。でも、例えそうだとしても彼女に伝えたい事が一つだけあった。

「でも母さんは――」

「――別に、恨んでなんかいないわ」

 ロレーヌの静かな声に、クリュウは自然と伏せていた視線を驚いて上げる。視線の先で、ロレーヌはジッとこちらを見詰めながらハッキリと言った。

「私は、姉上を恨んではいない」

「どうして……」

「……まぁ、最初こそ勝手にいなくなった事に腹は立ちましたけど」

 その言葉にクリュウの表情は曇るが、そんな彼の様子を見てロレーヌは静かに苦笑を浮かべる。でもそれはすぐに口元にわずかな微笑を浮かべた、とても穏やかな表情へと変わった。

「――あなたを見ていればわかります。姉上はきっと、幸せだったはず。妹として、姉の幸せは何にも代えがたいもの。だから、恨んでなどいません」

 真っ直ぐとクリュウを見詰めながら、ロレーヌは静かに、しかしハッキリと言った。その瞳の真っ直ぐさ、強い信念を抱いた瞳を見てクリュウの目が大きく見開かれる。

 ――容姿が似ているとか、声が似ているとか。そういう部分ではなく、ロレーヌとアメリアは似ている。心の強さ。意志の強さ。真っ直ぐ前を見て、己が信念を貫き、全力でぶつかっていく所。

 性格は全く似ていない、正反対と言っても過言ではない二人。だけど、そんな二人の心の煌きは同質の輝きを持つ。その輝きはアルトリア王家の誇り高い血筋の為か。それとも、同じように自信を持って誇れる信念を、二人が持っているからか。

 常に何事においても全力で生きていたアメリアの姿と、ロレーヌの姿が重なる。懐かしさや嬉しさで、彼の頬はわずかに緩む。

「父さんも母さんも僕が子供の頃に死んでしまったから、確証はできません。でも――息子である僕から見て、父さんも母さんも幸せだったと思います。僕の瞳には、二人の笑顔がしっかりと焼き付いてしますから」

 クリュウもまた、迷う事なく言い切った。その瞳の輝きもまた、ロレーヌのそれとよく似ている。その輝きに何を見たのか、ロレーヌは静かに微笑んだ。

「……本当に、姉上によく似ている」

 ゆっくりと、ロレーヌは体を起こした。慌ててイリスが背中に手を回して補助しようとするが、ロレーヌはそれを断り、再び彼を見詰める。

「そう、姉上は幸せだったのね」

「でも、時々悲しそうな目で月を見上げていた事がありました。その時に母さんはよく「ごめんね、ロレーヌ」と零していました。幸せの中で、一人残したあなたの事を心配していました。僕が知っている限り、母さんの悲しげな横顔は父さんを亡くした時とその時しかありません」

 クリュウの言葉にロレーヌは一瞬瞳を見開いたが、しかしそれはすぐにいつもの細さに戻る。ただ「そう……」とだけ零し、視線を下げて毛布の上に置かれた自らの手を見詰める。

「……バカね姉上は。私にいつも「後悔のないように全力で生きなさい」って言ってたくせに、当人が後悔してちゃ説得力に欠けるじゃない」

「ロレーヌさん……」

「――でも、私の事を気に掛けてくれていた事は、ちょっぴり嬉しかったかな」

 そう言ってロレーヌは微笑んだ。それは今までクリュウが見た彼女の笑顔の中で、一番嬉しそうに見えた。そんな彼女の笑顔を見ていると、こっちも自然と幸せな気分になってしまう。

「……もう、姉上には会えないとどこかで思って、諦めていたけど。でも、姉上に会えなくても、あなたに会えて良かったです。クリュウ」

「ロレーヌさん……」

「もっとこっちに来て、顔を見せてください」

 クリュウはゆっくりとベッドへ近づき、脇にある椅子の上に腰掛ける。スッと伸びたロレーヌの手が優しく彼の頬を撫でた。その温もりや優しさは、やっぱり母親のそれとよく似ていた。

「あなたに会えて、良かった……」

「僕も、ロレーヌさんに会えて嬉しかったです。両親を亡くした僕には、親族なんていないと思っていましたから。こうして血が繋がっいたイリスやロレーヌさんと会えた事、本当に心から嬉しいです」

「……妾も、お主と会えた事、この出会いに導いてくれた神へと感謝しよう」

 クリュウの隣にイリスは立ち、そっと母親の布団越しの膝の上に頬を寄せる。ロレーヌはクリュウの頬に当てていた手を今度はそんな彼女の髪の上へ置き、優しく撫でた。

「イリス、ありがとう。最高の贈り物です」

「母上……」

 目元に涙を浮かべて満面の笑顔で微笑むイリスを優しく抱き締めるロレーヌ。そんな二人の様子を微笑ましく見詰めていたクリュウだったが、そっと手を引かれた。見ればロレーヌの手が腕を掴んでいた。戸惑っているとスッと引かれる。それは決してお世辞にも強い力ではなかったが、なぜか逆らう事ができずに布団の上に頬を着く。目の前には驚いたイリスの顔があって、するとロレーヌは二人の背中に腕を回し、優しく抱きしめた。背中に伝わる彼女の温もり、鼻をかすめる柔らかな銀髪。その隙間から見える彼女の横顔には幸せそうな笑みが灯っていた。

「……夢だった。こうして、姉上と私の子供を抱きしめる事。もう叶う事はないと思ってた夢が、叶った」

「母上……」

「ロレーヌさん……」

「……イリス、クリュウ。生まれて来てくれて――本当にありがとう」

 満面の笑みを浮かべるロレーヌの頬を、輝く涙が一筋流れた。それはまるで、夜空に煌く流れ星のように、美しくも儚い、一瞬の出来事だった。

 

 その後、クリュウはイリスの指示で一人先に『シェフィールド』に乗り込んでアルステェリアへと戻る事になった。

 去って行く『シェフィールド』を窓越しに見送り、残ったイリスはそれに別れを告げるとゆっくりと振り返る。

 ベッドの上で、ロレーヌは幸せそうな笑みを浮かべて眠っていた。弱った体であれだけ色々な出来事があったのだから、相当無理があったのだろう。でも、その寝顔を見れば自分が行った行為は決して間違ってはいなかった。そう、信じられる。

 その幸せそうな笑顔を見詰めるイリスの頬を――涙が流れた。大粒の涙が、ボロボロと零れ落ちた。

 ――イリスは知っていた。ロレーヌの命はもう、いつ死んでもおかしくはない程に弱っている事を。

 あと一ヶ月生きれるかわからない状態。だからこそ、彼女が生涯心残りとしていた大好きだった姉の現状を知るクリュウが来た時は本当に心から嬉しかった――同時に、これは神様が与えてくれた奇跡。そしてそれは、母の最後の心残りを取り除く事。母が天に召される時が来た、そう思えた。

 そっと近づき、眠る母の手を握り締める。子供の自分と比べても、少し大きいだけの手。決して健康な大人の女性の大きさではない。

 この細い体で、必死になって国を護り、自分を守ってくれた偉大な母親。大好きな母親に、自分は恩返しができたのだろうか。

 母の手を握り締めながら、イリスはそっとベッドの横に置かれている箱を取った。その箱は横からハンドルが出ていて、上蓋を開けるとガラスの下には幾つもの歯車と無数のピンが付いたシリンダーが組み込まれている。イリスはそのハンドルを掴み、グルグルと回す。カチカチカチという小さな音が何度も聞こえ、しばしそうして回した後にベッドの脇へと置く。するとハンドルが勝手に逆周りを始め、中のシリンダーや歯車が回転を始めてシリンダーに備えられたピンが櫛状の鉄板を弾く。その瞬間、心地の良い金属音が部屋の中へと響いた。

 無数のピンが様々な音色で音を立てると、それは一つのメロディーになる。オルゴールと呼ばれる、ゼンマイ動力で動く自動演奏機だ。

 奏でられるメロディはアルトリアでは一般的な民謡曲。大人から子供まで知っている、故郷と家族の幸せを願った美しい一曲だ。

「……姉上が大好きだった曲ね」

 目を瞑りながら、ロレーヌは静かに言った。

「起きてたのじゃな」

「何だか眠れなくてね」

「そうか……」

 イリスはそっと、母であるロレーヌのベッドの片隅に腰を落とした。そんな彼女の手に、ロレーヌは自らの細い手をそっと重ねる。

「……クリュウには言ってなかったけど、実は姉上が国を飛び出したのにはもう一つ、理由があったのよ」

「――クロムウェルじゃな」

 辛そうに語ろうとするロレーヌの言葉を制して、イリスは静かにその男の名を言った。その名前に、ロレーヌが少し驚いたように目を見張った。

「……気づいてたのね」

「奴は母上の代より以前から、国を乗っ取ろうと暗躍しているような奴じゃ。双頭体制のような権力分立は、奴にとっては面倒この上ない」

 悔しげに唇を噛みながら、イリスは語る。その表情はこれまでクリュウに見せていた少女らしいものから、一国の王としての厳しさと覚悟に満ちたものに変わっていた。

「……妾は決して、奴に屈する事はない」

 イリスは知っていた。アメリアがどうして国を飛び出したのか。必死に調べて、一つの可能性を見出していた。

 アメリアは確かに底抜けに明るくて、ちょっとバカな所はある王女だった。だが王としての素質は彼女の方が大きく、その先見の明は策士である妹のロレーヌをも凌駕していた。

 当時、現在は貴族院議長を務めるオスカー・クロムウェルはすでに暗躍をしており、王位継承権第一位のアメリアに擦り寄っていた。彼女を傀儡(かいらい)として、アルトリアを乗っ取ろうとしていたのだ。

 しかし当時、宰相に最も近しいと思われていた彼を妨害する者がいた。それが、自分と同じような策士の素質に溢れていたロレーヌだった。大衆もアメリアを女王として、ロレーヌを宰相とした双頭体制を熱望しており、いくらすでに大きな権力を持っていたクロムウェルも民意を無視して宰相になる事はできなかった上に、アメリア自身がすでにロレーヌとの双頭体制の調整を始めていたのだ。

 そこで当時、クロムウェルはある作戦を練っていた――それが、ロレーヌの暗殺だった。

 元々病弱だったロレーヌに毒を盛って暗殺する計画を、クロムウェルは立てていた。急死しても病弱だった為に誰も疑わない。さらに裏から手を回して真実を握りつぶす算段もついていたのだ。それだけの事をやれる程、すでに当時の彼は絶大な権力を持っていた。

 だが、そんな彼の計画に気づいている者がいた――それがアメリアだった。

 しかしアメリアにはその計画を阻止する術はなかった。否、できたとしても第二、第三の暗殺を止められる確証がなかったと言える。

 例え一度目の暗殺を阻止できたとしても、奴はトカゲのように手下を尻尾のように切って自らは法の届く範囲外に逃げてしまう。確たる証拠がなければ、彼を政界から追放する事もできない。

 ロレーヌに話せばもしかしたら何か対抗策もできたかもしれない。彼女はアメリアと違って非情な決断を下せる人間だ。女王の特権でクロムウェルとその息の根の掛かった者を追放する事はできたかもしれない。だが当時、大臣などの多くがクロムウェル派だった為、その全員を追放しては国の運営ができなくなる可能性があった。それに元々病弱だった彼女にそんな負担を強いる事は、姉としてできなかったのだ。

 アメリアは悩んだ末、当時禁断の恋人関係であったエッジとの駆け落ちを選んだ。

 自分が姿を消す事で双頭体制構想自体が消える。王位継承権は妹のロレーヌへと移り、ロレーヌなら自分と違ってドジは踏まずに国を運営できる。そう信じていた。

 確たる証拠がない為に憶測の域を出ないが、おそらくそれが真実だ。

 でなければ、いくら好きな人と一緒にいたいが為に妹との約束や国民の期待を裏切ってまで国を飛び出すとは、あのお人好しでは到底思えない。

 それが、妹であるロレーヌと、その娘であるイリスの辿り着いた答えだった。

「……だから、恨んでなんかないわ。むしろ、あの人の決断のおかげで、私はここまで生きられた。あなたという大切な愛娘を、生む事ができた。恨むどころか感謝してるくらいよ――まぁ、何も相談しないで全部一人で決めていなくなってしまった事は、今でも不満だけどね」

 穏やかな表情のまま、ロレーヌはそっとイリスの頬を撫でる。その細い手は、かつてはもう少しふくよかで、柔らかかった。彼女の命が、残り少ない事を表すかのように、彼女の手はあまりにも細い。それでも、その温かさが、彼女が今を生きている何よりの証。

「……クロムウェルも老い先が短い。そんな奴に見切りをつける者も出始めている。妾は、ジェイドと共に奴を完全無力化してみせる。そして、真の意味でこの祖国を統治してみせる」

「あなたならできる。私は、無理やり押さえつけていただけだから、あなたに背負わせてしまう事になっちゃったけど。あなたなら、きっとこの国を守っていける。私は、そう信じている」

 愛娘イリスの頬を優しく撫でながら、ロレーヌは確かな確信と共に言った。この子なら、自分の娘なら、きっと大丈夫。きっと、やり遂げてくれる。そう、信じていた。

「妾は必ず、アルトリア史上最高の女王になってみせる。妾が、この国を必ずや良き未来へと導いてみせる。それが妾の責務であり、妾の夢じゃ」

 満面の笑顔と共に、イリスはそう宣言した。後の事は全部自分に任せてほしい。母が残したこの国を、きっと守り抜いてみせる。そんな想いが込められた言葉に、ロレーヌもまた優しげに微笑んだ。

「……生き別れた姉上が幸せに生きた事を知れて、そんな姉上の息子であるクリュウと会えて。何より、あなたの確かな決意を聞けて、良かった――これで、私の心残りは全部なくなった」

 その温かくもどこか寂しげなロレーヌの声に、イリスの肩がピクリと震える。

「な、何を言っておるか。母上にはまだ、元気でいてもらわなければ困る」

 背を向けて、顔を見せないままに強がるように語るイリス。だがその背中は小刻みに震え、何かを必死に堪えているように見える。それが何かなど、母であるロレーヌは全てお見通しだ。

「イリス……」

 そっと、ロレーヌは彼女の手を掴んで抱き寄せる。彼女の弱々しい手でも簡単に引ける程に、イリスは脱力していた。そして抱き締めた彼女の体は、震えていて、耳元の口からは微かに嗚咽が零れる。

「……ほんと、あなたは泣き虫さんね」

「な、泣いてなどおらぬ……ッ」

「……ウソ、相変わらず下手ね」

 そう言ってロレーヌはイリスの体を強く抱き締めた。それは、彼女に残された最後の力に等しい。母にこれほどまでに強く抱き締められたのはいつ以来か。イリスは、溢れ出る涙を我慢する事ができなかった。

「母上、妾は母上の事が大好きじゃ……」

 嗚咽混じりでも、その言葉はハッキリとロレーヌの耳に届いた。娘の必死の言葉を、ロレーヌは噛みしめるように味わった後、一度うなずき、そっと彼女の頬に唇を触れる。

「私も、大好きよイリス――ありがとう」

「母上……ッ」

 泣きじゃくるイリスを前にロレーヌは、優しく微笑んだ。それはイリスが知っている母の笑顔の中で、最も美しい笑顔だった。

「……音楽が終わったら、明かりを消してちょうだい」

 ――それが、ロレーヌの最期の言葉だった。


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