モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

181 / 251
第176話 クリュウとイリス 二人を結ぶ奇跡の紋章物語

 翌日の夜、クリュウは再び女王の間にいた。その背後には彼に連れられてフィーリア、サクラ、シルフィード、エレナの四人。対面には三獣士の面々とその娘達、アリア、シグマ、フェニスの三人。さらに相変わらず無愛想な顔で立つジェイドとその背後にはエイリーク。そして、そんな彼らに囲まれた玉座に君臨するはアルトリア王政軍国女王、イリス。今日も荘厳な女王としての正装を身に纏い、幼いながらも女王としての存在感を放ちながら玉座に座っている。だが少々大きめな冠を慣れないように被っている様はちょっと愛らしい。

 女王の間にいるのはこの十四人だけ。昨日のように居並ぶ軍人も小間使い達もおらず、何より今回は最初からイリスは姿を表している。そのせいか、昨日よりは場の空気が若干ではあるが柔らかいようにも感じる。

「すまんのぉ、政務に手こずってこんな時間になってしもうた」

 そう言って申し訳なさそうに謝るイリス。実は早朝の段階でもう一度会えないかと打診したのだが、今日は夜までずっと政務があったので抜ける事ができず、結局こんな時間になってしまったのだ。

「いえ、こうしてお目通りさせていただいているだけでありがたいです」

 クリュウの言葉にイリスの隣に立つジェイドが不機嫌そうに鼻を鳴らす。本当は夜は夜で別件の仕事があったのだが、イリスがどうしても夜は空けたいと懇願した為、仕方なくスケジュール調整して空けたのだが、その懇願した理由がこれだった為にあまり快くは思っていないらしい。彼は典型的なアルトリア人らしく、大陸人を毛嫌いにしている。さらに昨晩の出来事がすでにエイリークから報告されているだけあって、クリュウに対しては特に厳しい。

「っていうか、今日も一日城にいたけどよ。お前母親の手がかりをを探さなくていいのかよ?」

「そう、ですわね。今日も図書室に篭っていたそうですけど……」

 シグマとアリアが不思議そうに彼を見詰める。実はクリュウ、イリスとの対面が夜になるとわかるとアリアに頼んで城内の図書室でずっと調べ物をしていたのだ。それが彼女達にとっては意外だったのだろう。

「ちょっと調べ物をしてたんだ」

「調べ物って……、城の図書室なんか一般人の情報を探すにはお門違いな蔵書しかないぞ」

 街の図書館ならそれこそ新聞の保存や一般の情報が多く保存されているが、城の図書室はそれこそ政治、経済、軍事、歴史書物、王家についての本などばかりな上に機密上閲覧できる量も限られる。そうアリアがアドバイスしたのだが、クリュウはここがいいと言って城の図書室にずっと篭っていた。

「でもおかげで、確証を得る事ができたんだ。ありがとう、アリア」

 クリュウにお礼を言われてちょっぴり嬉しいアリア。だが、彼女もシグマと同じ疑念を抱いているので心からは喜べず、何だか微妙な表情を浮かべている。

「それで、その確証というのは……」

「――母さんについての事だよ」

 クリュウの答えにその場にいた全員が少なからずざわつく。その反応は予想済みだったのか、クリュウは大して驚く事もなく前を見据え続ける。すると、そんな彼の肩を掴む者がいた。振り返ると、そこには訝しげな表情を浮かべたエレナがいた。

「アメリアさんの事、何かわかったの?」

「うん。一日図書室に篭ってたおかげで、色々と確証を得られたよ」

「そう、案外簡単に見つかったわね。それこそ何週間かかるかわからないと思ってたのに……」

 エレナは少しばかり肩透かしを食らっていた。何せ、わざわざこんな遠い国にまで来たのだから、それがたった一日で情報を得られたのだ。昨日まであんなに彼が相談してくれなくて悩んでいたのに、何だかバカバカしくなってしまう。

 少し不満げに唇を尖らせるエレナ。そんな彼女の肩を優しく叩きながら苦笑するのはシルフィードだ。

「まぁ、気持ちはわかるが今は陛下の御前だ。文句は後にしよう」

 シルフィードの言葉に渋々という感じでエレナは引き下がる。それを見て再び前を向く彼の背中を、同じように少し不満げに見詰めるフィーリアと、何を考えているか悟らせない無表情を貫いているサクラ。そんな彼女達を背に、クリュウは一人イリスと対峙する。

「して、何か手がかりを得たらしいが、それはお主が求めていた物に相当するのか?」

「はい。むしろマカライト鉱石を求めてたのにエルトライト鉱石を手に入れたくらいです」

「ほぉ、それは重畳。わざわざ図書室の入室許可を出した甲斐があったものじゃ」

 そう言って喜ぶイリス。何事においてもこの国での最高責任者は彼女だ。アリアの入室申請が難なく受理されたのは、どうやら彼女が裏から手を回してくれていたかららしい。予想していたとはいえ、クリュウは改めて彼女に対して感謝の気持ちでいっぱいになった。

「ありがとうございます、陛下」

「うぬ。礼には及ばんよ」

 イリスは本当に清々しいくらいに良い人だった。クリュウはそんな彼女の姿を見て小さく微笑むと顔を伏せ目を閉じた。そんな彼の様子を見て、周りにいた面々は訝しげに彼を見詰める。

「クリュウ様……?」

 そのままの状態で一度大きく深呼吸し、覚悟を決める。顔を上げ、再び瞳を開いた時には、それまでの彼とは明らかに雰囲気が違っていた。柔らかく、優しげな印象だった彼が突然真剣な表情になって、何かを決意した瞳で前を見据えている。その変化に、この場にいる全員が一人残らず困惑し、驚く。

「な、何だクリュウの奴。何か雰囲気が変わったんじゃねぇか?」

「えぇ。あれって……」

「何だか、ルフィールを守る時に似ている――クリュウの本気の顔ですわね」

 アリア達もクリュウの様子が変わった事に気づいてざわついている。それは彼の背後にいる四人も同じだ。ただ一人、サクラだけはジッと彼の背中を見詰め続けている。

「クリュウ、どうしたのじゃ……?」

「――陛下、僕はあなたに一つウソをつきました。申し訳ありません」

「な、何じゃと?」

 クリュウの突然の爆弾発言にイリスは目を丸くして驚く。それは他の面々も同じた。一般人が、一国の国家君主に向かってウソをついた。しかもそれを本人の前で堂々と言い張るのだから、常識外れにも程がある。

「貴様、偽証罪で牢にブチ込まれたいのか?」

 動揺するイリスの前に立ってクリュウを威嚇するのは総軍師のジェイド。厳しい瞳で眼下にいるクリュウを睨みつけるが、クリュウはその視線を避ける事なく受ける。

「平民の、それも汚れた血の大陸人の分際で……」

「ジェイド。まだあなたが出るべきタイミングではありませんよ」

 アルカの声にジェイドはフンと鼻を鳴らし、不満を残しながらもイリスの後ろへと下がる。アルフとオメガは事の成り行きを静観する事にしたらしく、今は黙っている。その娘達はまだ動揺しているが、それ以上に動揺しているのはイリスであった。

「お主……妾にウソをついたと申すか?」

「申し訳ありません……」

 愕然とした表情のまま、震える声で尋ねるイリスの声にクリュウは顔を罪悪感に染めながら頭を下げた。彼にとって人を騙すというのは耐え難い苦痛だ。それをしてしまった。しかも相手は自分を信頼してくれていた小さな女の子だ。その苦しみは、並大抵のものではない。だが、本当にショックを受けているのはイリスだという事もわかっているから、クリュウは黙って頭を下げる他はなかった。

 しばしの沈黙の後、ようやく動揺を振り払ったイリスがゆっくりと口を開いた。

「お主がついたウソとやらは、どのようなものじゃ? 妾を前に懺悔したのじゃから、説明できるものであろう?」

 それまでの優しげな声から一転して、相手を威嚇するような厳しい声色に変わっていた。自分への信頼が失われた声に胸が苦しくなるが、自業自得。クリュウはその苦しみに耐えながらゆっくりと口を開いた。

「クリュウ・フランチェスカ。僕は陛下にそう名乗りましたよね?」

「そうじゃが。お主のウソと言うのは、偽名を名乗っておったという事か?」

「はい」

 即答するクリュウの返事に、イリスの表情が少しだけ柔らかくなった。どんなウソをついたかと思えば、偽名だったというだけ。確かにウソだが、別段大きなウソというものでもない。騙されていた、そんな気持ちが彼女の中で少し薄れたのだ。

「偽名を名乗っておった。なぜ偽名を名乗る必要があった」

「昨日の段階では、そうしなければいけない理由があったんです」

「……という事は、今は本名を隠す理由はないと――では、お主の真の名を問おう」

 真っ直ぐとクリュウを見据えながら名を尋ねるイリス。その表情は少しだけ柔らかくなったとはいえそれでも尚厳しいままだ。そんな彼女の視線から逃げる事なく、クリュウは対峙すると――静かに本名を名乗った。

「僕の本当の名前は――クリュウ・ルナリーフです」

 何気ない、ただの名乗り。それで全てが終わるはずだった――だが、

「な、何じゃと……ッ?」

 イリスは、明らかな動揺を見せた。それはイリスだけではない。背後に控えるジェイド、そしてアルカも同じように驚愕に満ちた表情を浮かべていた。そんな三人の反応を見て他の面々は訝しげに首を傾げる。

「どうしたんだ坊主。何をそんな幽霊でも見ているような目をしてやがんだ」

「アルカ? どうしたんだ?」

 オメガとアルフの問いかけも聞こえていないのか、ジェイドとアルカは信じられないものを見るような目でクリュウを見詰めたまま固まってしまっている。そんな三人の反応を見て、クリュウは一気に攻勢に出た。

「僕の父の名はエッジ・ルナリーフと言います。訓練学校時代に、一度交換留学という形でこのアルトリアへ来た事があるはずです」

「交換留学? あぁ、シェレス陛下の代の時にあったあれか。俺がまだ士官候補生だった頃の話だな」

「そういえばそんな事があったな。でもロレーヌ陛下に代わった際の鎖国政策で中止になったと聞いているが」

 オメガとアルフが互いに話すのをその娘達が興味深げに聞いている。初耳の者もいれば、詳しい内容を知らない者もいる。そんな彼女達にとって二人の話は貴重なものだ。

「だがよ、それがどうして本名を隠す事になるんだ?」

「さぁ? アリア、どういう事かわかるかしら――アリア?」

 ただ一人、アリアだけはこの短いやり取りの間に全てを理解していた。母親と同じように驚愕に満ちた瞳で見詰める先には、恐れる事なく堂々と立つクリュウの姿。その横顔が一瞬、イリスと重なる。

「クリュウ……もしかしてあなた……ッ!?」

 アリアの震える声を耳にした瞬間、クリュウは一つうなずく。そして、驚愕のあまり固まってしまっているイリスを一瞥し、そっと腕を胸元へ突っ込む。そしてそこに隠された母の形見である、王冠を被った金火竜に騎士が乗って天を翔ける姿を模した金色のペンダント――それは、このアルトリア王政軍国において失われた金火竜の王紋そのもの。

「ま、まさかお主は……ッ」

 掲げられたペンダントと彼の顔を交互に見ながら、体と声を震わせるイリス。その目は信じられないものを見ているかのように大きく見開かれる。そんな彼女の問い掛けにクリュウはこくりとうなずくと、静かにとどめの一撃を放った。

「僕の母の名前はアメリア・ルナリーフ。旧姓は――アメリア・アルトリア・フランチェスカ」

 

「衛兵ぇッ!」

 突如響いた怒鳴り声に驚いて音源の方へ目をやるとこちらを威嚇するように睨みつけながらイリスを守るように立つジェイドの姿。遅れてけたたましい音と共に背後のドアが蹴り開けられる。反射的に振り返ると、どこに控えていたのか十数人の兵士達が現れた。

「この者達を捕縛せよッ!」

「な……ッ!?」

 驚くクリュウがジェイドの方へ振り返ったと同時に兵士達が一斉にクリュウ達へ襲い掛かる。だが、それよりも早く動く者がいた。得意の突貫で男達の懐へ潜り込むと、走って来る勢いを利用して一本背負い。難なく兵士の一人を投げ飛ばした挙句、背後から迫った兵士の股間を的確に蹴り抜き、よろめく兵士の襟元を掴んで別方向から迫る兵士二名の方へ投げ飛ばし、兵士三人を撃破。

 あっという間に兵士四人を返り討ちにしたのは迅速の戦娘――サクラ。

 サクラは出端を挫かれて遠巻きに包囲網を敷く兵士達を睨みながら意識を背後、司令官たるジェイドの方へ向ける。

「……ずいぶん乱暴な歓迎ね」

「……ッ!? 何をしているかッ! 小娘一人に臆するなッ!」

「――生憎、私達はただの小娘ではないのでな」

「――女の子相手に寄って集って、ずいぶんと情けないご身分じゃない」

 そう言いながらサクラの横に並び立つシルフィードとエレナ。シルフィードは胸元のスカーフを解きながら、エレナは握りしめた拳をゴキゴキと鳴らしながら。無双の姫三人が立ち上がった四人を含めた十数人の兵士達に向き合う。一行に攻めに転じない兵士達を見て苛立ちが募ったのか、ジェイドが激昂する。

「えぇいッ! 付近を固めている兵士全員呼び戻せッ!」

「どういう事ですかッ!? いきなりこんな乱暴な事を……ッ!」

 フィーリアが泣きそうな声で叫びながらジェイドに駆け寄ろうとする。だがそんな彼女の前に立ち塞がる者がいた――エイリークだ。

「長官に近づく者は、私が斬り伏せる」

「そんな……ッ!」

 腰に下げた剣の柄に手をやるエイリークを見てフィーリアは愕然としながら半歩引く。動揺する彼女の肩をそっと叩いて前に出たのはクリュウだ。

「クリュウ様……」

「予想していたとはいえ、ちょっとやり過ぎなんじゃないですか?」

「……貴様、何が狙いだ」

 激昂するジェイドの刃物のような鋭い視線を前にクリュウは真剣な表情を崩さない。フィーリアはそんな彼の背後に隠れてジェイドの視線から逃げる。それ程までにジェイドの視線は恐ろしいが、クリュウは一歩も引かなかった。

「何が狙い? 言ったはずです。僕は母の事を知りたいだけです」

「……世迷い言をッ! 貴様、くだらん妄言で我が王政府を潰そうという気かッ!?」

「だから、そんな事考えてないって言ってるでしょッ!」

「黙れッ!」

「――黙れジェイドッ!」

 怒鳴るジェイドを怒鳴りつけたのはイリスだった。驚いて振り返る彼の手を掴むと、無理やり下がらせる。少女の腕力相手だ。男一人をどうこうできるものではない。だが驚きのあまりジェイドは体に力を入れる事ができず、簡単に後ろへ追いやられた。

 目の前にまで近づいているクリュウを前にして、イリスはジッを彼を見詰める。その瞳は驚いているとも困惑しているとも敵視しているとも、何の感情も窺わせないものだった。だからこそ、クリュウも逃げる事なくそんな彼女の瞳を見詰め返す。

「……お主のペンダント、よく見せておくれ」

 クリュウはうなずくと、ペンダントを首から取り払って彼女へ渡す。イリスはそれを丁寧に受け取ると、ジッとそのペンダントを見詰める。そして、そっと首元から自身の持つ銀火竜のペンダントを取り出すと、横に並べて見比べる――素人目に見ても、それが同じ職人が作った姉妹作だという事がわかる。

「……確かに、デザインを見る限りでは妾の銀火竜の紋章と同系統の紋章じゃな」

「陛下ッ! このような戯言に耳を傾けてはなりませんッ!」

「ジェイド、少しお主は黙っておれ」

「陛下ッ!」

「――妾に逆らうと申すかジェイドよ」

 幼い少女としてではなく、一国の長たる女王としての問い掛けにジェイドは黙るしかなかった。何か言いたそうな表情のまま下がり、隣に立つエイリークが不安そうに彼を見詰める。

「……クリュウ。少しお主と二人だけで話したい。ついて参れ」

「わかりました」

 立ち上がったイリスはクリュウを連れて歩き出す。それを見て慌てて追い掛けようとするフィーリアだったが、クリュウはそんな彼女に振り返ると小さく首を横に振る。ついて来ないで、そう瞳が言っていた。

「クリュウ様……」

 フィーリアは歩みを止めて去って行くクリュウの背中を見詰める。そんな彼女の不安げな瞳にクリュウは振り返ると大丈夫だよと言いたげに微笑んだ。そんな彼の笑顔を見て、フィーリアも安心したようにこくりとうなずく。

 無言で見送るフィーリア達の方へ一度振り返って微笑むと、クリュウはイリスと共に女王の間を出て行った。

「……さて、ヴィクトリア大公。話せる範囲であなたが知っている事を話してもらいたいのですが」

 二人が消えたドアから振り返り、開口一番に言うシルフィード。その視線の先ではアルカが先程から目を瞑って沈黙を貫いている。その横ではシルフィードと同じような目で見詰めるアリアも。

「お母様、どういう事かお教え願えますか?」

「……王家の恥を晒すけど、仕方ないわね」

「ヴィクトリア議長ッ!?」

「――ジェイド。こうなってしまえば、いつまでも隠し通せません。全てを話すしかないわ」

「し、しかし……ッ!」

「俺達にも詳しく教えてもらおうか。武官と一介の文官には、そういった機密事項はなかなか伝わって来ないんでな。俺達だけ仲間外れってのは気に入らねぇ。なぁアルフ」

「アルカ。差し支えない程度でいいから、教えてもらえるか?」

 事の真相を一切知らないのは何もシルフィード達だけではない。武官のオメガも文官のアルフも王家に関わる機密事項など知る訳もない。三獣士の中で知っているのは王家に最も近しい血族であり、イリス政権の左腕とも呼ばれる彼女だけ。

 二人の問い掛けにアルカはゆっくりと厳かにうなずいた。それを見てジェイドも説得はできないと悟ったのだろう。それ以上抗議する事はなく、ただ悔しげに顔を歪めながらイリスとクリュウが去った方向を見詰める。そんな彼の横顔をエイリークが心配そうに見詰めていた。

 オメガやアルフだけではなく、その娘達、そしてシルフィード達も目を閉じて沈黙しているアルカを固唾を飲んで見詰める。そんな彼らの視線を一身に受けながらアルカはゆっくりと瞳を開けて話し始める――二五年前のあの事件を。

 

 無言で歩くイリスの後ろを、同じようにクリュウが無言で続く。お互い特に声を掛け合う事なく黙って広い廊下を歩き続ける。前を歩くイリスの背中に何度声を掛けようかと思ったが、結局掛けられずにいた。

 そうこうしているうちに歩みは進み、その途中何人もの衛兵とすれ違う。それだけで自分が次第に警備の厳しい場所へと連れられている事がわかる。若干の不安や恐怖はあるが、相手はイリスだ。彼女を信じて、今はただ彼女の背中に続くしかない。

 そして、女王の間を出て十分程が経過した頃、長い廊下や階段の先に到達したのは一つの扉の前だった。女王の間と同じようにユクモの堅木を用いてはいるが、こちらは普通の大きさ。だがその装飾はまた見事。扉に絡まるようにツタが伸び、花がが美しく咲き誇る金色の鉄細工。それが純金でできている事は、何となくだがわかった。

「ここは……」

「妾の部屋じゃ」

 そう短く答えると、イリスはドレスに隠されているポケットから鍵を取り出し、ロックを解除する。ガチャンという小さな音と共に解錠されると、縦に備え付けられたドアハンドルを持って扉を開いて中へと入る。そんな彼女の後ろ姿をぼーっと外から見ていたクリュウに、イリスが振り返る。

「早う入れ」

「え、でも……」

「家主が入れと言うておるんじゃ。それとも何か? そこに立っていて衛兵に不審者として拘束される方が良いのか?」

「……お、お邪魔します」

 クリュウはどこか緊張しながらイリスに招かれて彼女の部屋へと入る。中に入ると、やはりと言おうか中は実に豪勢な作りだった。まず入口が高台に位置していて、そこから緩やかな曲線を描く階段を降りた先にリビングが広がっている。そのリビングも普通のサイズの五倍近くはあるだろう。そのリビングの真ん中にはテーブルとソファが備えられ、部屋の壁面全体にはところ狭しと本棚が並んでいて、収められている冊数は実に千冊を優に超えるだろう。

 天井には女王の間にあったシャンデリアをそのまま小型化したような豪勢なものが光り輝き、部屋を照らす。部屋の奥には暖炉もあるが、元々常春の国。あまり使われる事がないのかきれいに掃除されたままだ。

「何をしておるのじゃ。さっさとこっちへ来て座らぬか」

「あ、はい」

 クリュウは慌ててドアを閉じて部屋の中に本格的に踏み入る。階段を降りていくと、それを見てイリスは羽織っていたマントを服掛けに下げ、被っていた王冠を置いて一人隣の部屋へと消える。ソファの前に立ったクリュウはとりあえず手前のソファに腰掛けた。そこで改めて部屋を見回していると、隣の部屋からイリスがひょっこりと顔を出した。

「紅茶で良いか?」

「あ、はい。いいですけど、大丈夫ですか?」

「何がじゃ?」

「いえ、何かお手伝いした方がよろしいのではないかと……」

「構わん。この部屋ではお主は客人じゃ。そこで休んでおれ。これくらい一人でできる」

「はぁ……」

 そう言って再び部屋の奥へ消える彼女を見届け、クリュウは言われた通りに黙ってソファに腰掛けて待つ。だが気になるのかチラチラと彼女が消えた方を見てしまう。きっと彼の頭の中ではイリスが一人でお茶を淹れられるのかという心配があるのだろう。だが彼女が来るなと言っているのだから行く訳にもいかない。実に彼らしい葛藤だ。

 落ち着きなく部屋の中を見回していると、ある物に目が留まった。

「あれは……」

 それはちょうど入口のドアの真下。階段の横に飾られた一枚の肖像画。純白の荘厳な正装を身に纏い、大きな青い宝石を上にはめ込んだ杖の天辺に両手を添えるようにして凛々しく立つ女性の肖像画だ。イリスのような長い銀髪を優雅に腰元まで流し、周りを寄せ付けないような意志の強い鋭い碧眼。美しい顔立ちは本当に人形のように完成された美しさ。王冠を被って立つその姿はまさに女王。

 そして何より、その顔立ちにクリュウは見覚えがあった――否、似ているのだ。

 凛々しくて厳しい顔つきをしているが、その根本の顔立ちはそっくりだ。瞳をもっと穏やかに曲線を描かせ、口も真一文字ではなく無邪気にカーブを描かせれば、いつも無邪気に笑っていたあの人そっくりだ。

「母さん……?」

「――そうじゃ。その絵の人は、妾の母君。ロレーヌ・アルトリア・ティターニアじゃ」

 驚いて振り返ると、そこにはティーセットを携えたイリスがちょこんと立っていた。手にしたティートレイにはティーカップと茶器、それにクッキーの盛られた皿が置かれており、茶器の注ぎ口からは微かに湯気が揺らめいているのが見える。

「この人が、ロレーヌ陛下?」

「そうじゃ。一年程前に崩御した、先代女王。妾の母、そしてお主にとっては叔母になる人じゃな」

「叔母さん……」

「……まぁ、ゆっくり茶でも飲みながら語り合おうではないか。実は妾もまだ状況を理解できてなくてな、正直混乱しておるのじゃよ」

 そう言ってイリスは苦笑しながらクリュウが座っていたのとは反対側のソファに腰掛けた。手でクリュウに対面に座るように促し、彼が席に着くのを待って茶器からカップへ紅茶を移す。その間は何もしゃべらず、お互いに無言だ。

 クリュウの前に置かれたティーカップがカチャリと音を立てて皿の上で踊る。

「あ、ありがとうございます」

「――クリュウ。いつまで敬語を使っておるつもりじゃ?」

「え……」

 変な緊張のせいか妙に喉が乾いていたので早速飲もうと手を伸ばした彼に向かって、イリスはどこか不機嫌そうにそう言った。驚きのあまり間抜けな声を上げて彼女の方を見ると、声と同じように彼女の表情もどこか不満そうだ。

「あの……」

「二人きりの時は敬語はなしじゃ。昨夜のように」

「いや、しかし……」

「お主は妾の従兄弟なのだろう? なら、気にせず普通に話せ。お主に敬語で接せられると腹が立つし――何じゃか悲しいのじゃ」

「わ、わかり――わかったよ」

「うぬ」

 クリュウの敬語が抜けるとイリスは笑みを浮かべて満足そうにうなずいた。それを見てクリュウは一瞬呆けてしまったが、彼もまた安心したように微笑む。正直、彼自身もイリス相手に敬語を使うのに違和感を感じていただけに、彼女の申し出は助かった。

「あの、イリス。その、何て言うか……」

「ちぃと待つのじゃ。まずは一服しようではないか。話はその後じゃ」

「そ、そう? そうだね。せっかくイリスが淹れてくれたんだから」

「うぬ? ま、まぁそうじゃな」

 クリュウはとりあえずまずは紅茶本来の味を楽しむように一口飲んだ後、角砂糖を一つ手に取って紅茶に入れて落ち着く。喉が一気に潤うと共に優しげな甘さで少し緊張が解ける。自分でも思っていた以上に実は緊張していたらしい。

 しばし二人して無言で紅茶で喉を潤す。クリュウはチラチラとイリスの方を見ては話し出すタイミングを探っていた。そんな彼の様子にとっくに気づいているイリスはカチャリを音を立ててカップをテーブルに戻すと、自ら口火を切った。

「さて、一体何から話せば良いかのぉ……」

「そ、そうだね」

「何を他人行儀な事を言っておる。お主も当事者なのじゃぞ?」

 イリスに怒られ、クリュウは「ご、ごめん」と小声で謝る。そんな彼を見てイリスは「しっかりせい」と苦笑しながら言う。彼女の方が年下なのに、これではどっちが年上なのかわからない。

「まったく、お主は頼りにならないのぉ」

「面と向かって言われる事はそうないけど、自覚はしてるつもり」

「……不憫じゃな」

「お願いだから、哀れまないで」

 ころころと笑いながらがっくりと肩を落とす彼の反応を楽しむイリス。その笑顔はかわいくもどこかイタズラっぽく、よく見ればその笑顔はどこかイタズラ好きだったアメリアのそれと似ているような気がした。そして何より、彼自身は自覚はないがその屈託の無い笑顔もまたクリュウによく似ている。

「――さてクリュウ。そろそろ本題に入ろうと思うのじゃが、どうじゃ?」

 紅茶を飲んでのどを十分潤すと、イリスはそう切り出した。その表情は先程までの子供っぽい笑顔ではなく、アルトリアの女王――イリス・アルトリア・フランチェスカとしての真剣な表情。その年下のはずなのに、気を抜くと呑み込まれてしまいそうな迫力にクリュウはゴクリと唾を飲み、うなずく。

「ひとまず、お主がアメリア君(ぎみ)の子息だという事は事実か? まずはその大前提を確認しておきたいのじゃが」

 イリスが口にしたまず最初の疑問は、まさにこの問題の根本だ。クリュウが本当に二五年前に国を飛び出したアメリア・アルトリア・フランチェスカの子供なのか。疑うというよりは確認しておきたいというような問い掛け。事前に彼が持っていたペンダントを見ているからこその、比較的穏やかな問い掛けだ。

「正直、証拠を見せろと言われたらさっき見せたペンダントくらいしかないのが現状だよ。物証がないからこそ、状況証拠を揃えるしかなかったんだけど」

「状況証拠。ではその証拠とやらと申してみい」

 表情を変える事なく、淡々と問いかけるイリス。彼女としてはまだ信じ切れるような事ではないし、もしも事実だとすればこの問題は是が非でも公(おおやけ)にはできないものだ。女王として、この問題をどう対処するのか。彼女にはその責任と義務がある。だからこそ、楽観的な表情を見せられないのだ。

 クリュウも何となくだが彼女の心中を悟っていた。ジェイドが言っていた通り、自分の存在は決してこの国にとって良いものではない事くらい自覚している。でも、だからと言って黙っている事など彼にはできなかった。

「まず、僕の母は父さんと結婚する前はアメリア・フランチェスカと名乗っていた。そして、先のロレーヌ女王の姉君の名前もまたアメリアだった。これはさっき図書室で確認した事だよ」

「確かに、妾の伯母上はアメリア・アルトリア・フランチェスカじゃ。じゃが、あの忘れたい過去の事を記した書物は一般図書とは区別して厳重に機密区画に収めていたはずじゃが」

「そこはまぁ、その、人には言えないような行いで打破したというか……」

「……今、妾はお主を重要機密漏洩罪で処罰する事もできるのじゃが。まぁ良い、聞かなかった事にする」

「あ、ありがと」

「それで? 状況証拠とはそれだけか?」

 イリスの問いかけに、クリュウは首を横に振るととりあえず自分が集めた情報をできる限り整理して彼女に話した。

 父、エッジ・ルナリーフと母アメリア・フランチェスカ。

 エルディンが言っていた、アメリアが元はアルトリア人だったという事。

 エッジはエルディンやフリードと共に今のクリュウと同じくらいの頃にハンターズギルドの命令で留学経験があるという事と、アメリアとはそこで出会ったという事。

 母としてのアメリアと、聞いたり読んだりしたアメリア王女との性格や行動パターンがよく似ている事。特に底抜けて明るくて、少々天然が入っている所など。

 そして、時々夜に見かけたどこか寂しそうな母の横顔と、その時に口にしていた《ロレーヌ》という名前。その人に対していつも謝っていた事。

 クリュウはできるだけ自分が集めた情報を並べてみたが、改めて並べてみてもどれも根拠も証拠もない証言や情報ばかり。とてもじゃないが、状況証拠と言うには乏しいものだ。

「だから、正直決め手はやっぱりこのペンダントしかなかったんだよね」

 そう言って彼は首に下げた母の形見の金火竜のペンダントを眺める。彼の言う通り、決め手になるのはやはりこれしかなかった。あとは、イリス達が持っている情報とどれだけ一致するかという問題。

「……エッジ・ルナリーフ。確かに、伯母上はその名前の若いハンターと駆け落ちして国を出た。そう、言われておるな」

 イリスは特に迷う事なくさらりとそれを口にした。その驚くくらいあっさりとした回答に正直クリュウは肩透かしを食らっていた。何せそれは王家に泥を塗るような情報だ。正直、彼女はこちらの考えを黙殺する事も封じる事もできるし、王家の過去の大失態を隠すにはむしろそれの方が正しいはずだ。

 幾分か驚いているクリュウを前にしてイリスはそんな彼の心中を悟ったのか、フッと口元に笑みを零した。

「今更隠しても、隠し通せるものではないからのぉ。それに、お主にウソを言うのは何じゃか気が引けるからのぉ」

「イリス……」

「まぁ、妾は兄弟がいない身。親族と言える連中も皆欲に溺れた連中ばかりじゃから――こうして損得勘定抜きで話せる親族がいるのは、妾にとっても良い事じゃからのぉ」

 そう言って、本当に嬉しそうにイリスは笑った。その笑顔の奥にある、血を分けた親族も信用出来ない女王としての苦悩があると思うと、クリュウは少しばかり胸が痛んだ。

 権力者というのは、常に周りが欲に塗れた者達で囲まれているものだ。わずか十歳の少女王の周りでもそれは同じ事だ。真に信頼出来る人間はそう多くはない。そういう者達は腹心と呼ばれ、彼女のそれはきっとジェイドや三獣士などがそうなのだろう。

「親類には恵まれなかったが、妾はその分信頼出来る家臣に恵まれておるから何も問題はない。それに、今日から信頼出来る親類もできた事じゃしのぉ」

 クリュウを見ながら、幸せそうにイリスは笑う。そんな彼女の前向きな考え方にクリュウもまた微笑んだ。自分にできる事は大した事ではないが、それでも自分の存在一つでイリスの肩の荷が少しでも落ちるのなら、この国へ来た甲斐があったというものだ。

「でも、総軍師は僕の事かなり嫌っているようだけど」

「奴は大陸人を嫌っておるからのぉ。まぁ、大方の国民は大陸人に対して良い感情は抱いていないのじゃがな」

「そんなに嫌われてるの?」

「無論じゃ。我がアルトリアは大陸人によって一体何度侵略を受け、何千人の兵士が海の戦で命を落とした事か。最後の戦から半世紀程が経ったが、アルトリアの民は大陸諸国から受けた非道な行いを決して許す事はないからのぉ」

「……そっか」

「まぁ、経済の面から考えれば大陸諸国と貿易を円滑に進めた方がプラスなのじゃが。いくら国を豊かにする為とはいえ国民感情を無視できるものではないからのぉ。その見極めが難しいのじゃ」

 イリスは難しいとばかりに腕を組みながら考え込む。彼女の様子を見るに彼女自身は大陸人に対して憎しみや敵意、軽蔑といった感情は伺えない。好意を抱いているとまではいかなくても、経済の面ではアルトリアと大陸諸国は友好的である事が一番と考えているのだろう。一国の長として、国の繁栄を導くには経済の考え方も必要なのだ。

「経済とか、僕にはよくわかんないなぁ」

「まぁ、お主には無縁の学問じゃな」

「だよねぇ」

「――エルバーフェルドの攘夷思想は国の復興及び繁栄の為の原動力じゃが、アルトリアの攘夷思想は単なる国民感情じゃ。目標のない攘夷思想程、厄介で危ういものはないのぉ」

「……僕はそういう発想は嫌いだなぁ。何だか、人の気持ちを利用するのってあまりいい気はしないよ」

「クリュウ。お主は従う側の人間じゃからそう思うのじゃ。人を従える側の人間は、良くも悪くも統率しなければならない。感情とは人を操る中で最も原始的で、最も有効的で、最も扱いづらいものじゃ」

 紅茶を口に飲みながら語るイリスの言葉に、クリュウは微妙な表情のまま首を傾げた。そんな彼の様子を見てイリスは「まぁ、確かにお主の言う通り他人の感情を利用するというのは道義的には許されんものじゃしな。お主の気持ちもわかる」と苦笑しながら答えた。その笑顔と言葉に奥には道義的には正しくないとわかっていても、王として国を統治する為にその正しくはない事を利用しなければいけない自身の醜さと矮小さがある。

「お主のように人を心から信用できる人間に、妾もなりたかったのぉ」

「大丈夫だよ。イリスならきっと」

「何じゃ。根拠もなしにそのような事を……」

「根拠ならあるさ」

「何じゃ?」

「――イリスはそんな卑怯な子じゃないからさ」

 迷う事なく笑顔でそんな事を言ってのけるクリュウ。そんな彼の言葉と笑顔にイリスは一瞬面食らったようにキョトンとするが、すぐに顔を真っ赤に染めて狼狽しながら「な、何を言うておるんじゃお主は……ッ!?」と声を震わせる。

「え? 思った事を普通に口にしただけだけど」

 一方のクリュウは平然としている。本人の言っている通り、彼はあくまで思った事をそのまま口にしているだけだ。そこに何の計算も世辞も含まれてはいない、飾り立てられていない本当の言葉。だからこそ余計に威力は絶大であり、容赦がない。事実、イリスはそんな事を言われ慣れていないせいか頬を赤らめたまま彼を直視できずに視線を左右に彷徨わせてしまっている。

「どうしたの?」

「お、お主はいつもそんな風に思った事を平然と口にしておるのか?」

「え? うん、基本そうだね」

「……なるほど。道理でお主の周りには女子が多いのじゃな」

 全てを納得したと言いたげにうなずきながら、イリスは感心半分呆れ半分という具合にため息混じりに言葉を零す。そんな彼女の言葉の意味がわからずに首を傾げているクリュウを見て、さらに大きなため息を一つ。

「そういえば、以前母上から聞いていたな。伯母上は心に思った事を何の躊躇もなく口にするから、いつも問題発言をするのではないかとハラハラしておったと」

「あぁ、うん。確かに躊躇せずに何でも言っちゃう人だったな……」

 まるで他人事のようにクリュウは母の躊躇せずに本心をしゃべってしまうクセに悩まされていた事を思い出す。アメリアはクリュウに輪をかけて本音をしゃべってしまう人だったのだ。カツラを被っている近所のおじさんを見て「クーくん、あの人カツラだね。面白いねッ」と満面の笑顔で言ってのけるのだから、子供ながらクリュウはその対応に奔走していたのだ。

 そのおかげか、クリュウは実に立派に成長した。ただ一点、女子に対する事柄だけは母の遺伝が大きく影響してしまったのだが。

「妾は母上から頑固さを受け継いだと言われておるの。ジェイドからは少し融通を利かせと言われておるが、妾にそんな器用な真似はできんからのぉ」

 苦笑しながらイリスはそう言った。確かに、まだ決して長い時間を一緒にいる訳ではないが、それでも何となく彼女は頑固な感じがしていたクリュウ。そうでもなければ、外部の人間を招き入れるという事を腹心の反対を押し切ってまで強行する判断の説明がつかない。

 頑固者というのは臨機応変に対応できないというイメージがあるが、イリスのように自分の信念を貫く事もまた頑固と言える。だがそれは、決してマイナスではない。

「自分が一番だと思える事を徹底的にやるのが最良だと思うよ? 変な妥協をして後に後悔するのが一番ダメだからね。やってから後悔するよりもやらないで後悔する方が何倍も質が悪い。イリスはイリスのやりたいようにすればいいさ」

 頑固とは、それだけ自分がやりたいと思う強い気持ちがある表れだ。事なかれ主義に比べれば何倍もマシであり、その強い想いはきっとどんな力よりも頼もしいだろう。

 クリュウも妙な所で頑固だったりするからわかる。自分が貫きたい事があれば、それは決して妥協なんてしてはならない――やらないで後悔するよりもやってから後悔する。それがクリュウの信条だ。

 クリュウの言葉に呆けたように彼を見詰めたまま話を聞いていたイリス。じっくりと味わうように彼の言葉を噛み締めた後、彼女はゆっくりと何度かうなずき、顔を上げた。その表情は実に晴れ晴れとした見ていて清々しいものだった。

「うむ。お主の言う通りじゃクリュウ。やらないで後悔するよりもやってから後悔する方が断然いいに決まっておる。何せ実行して失敗してしまった事は次に必ずや活かせるからのぉ。何もせず、頭の中で自分の都合のいいように解釈されたイメージなど雑巾程にも役に立たぬからのぉ――うぬ、お主は実に良い言葉を妾に教えてくれた。礼を言うぞクリュウ」

「……と、言ってもこれは母さんがよく言ってた事なんだけどね。後悔するならやれる事を全部やり尽くしてからにしろって。やれる時にやらずに年老いた後に後悔するのだけはしたくないってね」

「前向きというか、本当に噂通りの人物のようじゃな。妾の母上とは似ても似つかん性格じゃな」

「そうなの?」

「妾の母上は寡黙な人じゃったよ。滅多に笑う事もなければ表情そのものを変える事なくいつも無愛想。母上を嫌う者からは《冷徹王》とも称され、妾も母上の笑った顔を見たのは数える程しかないのぉ」

「……それはまた、僕の母さんとはずいぶん違うね」

「姉妹なのになぁ」

お互いの母親を比較すればするほど、本当に姉妹なのかと思ってしまう程に二人はまるで正反対だ。アリアが言っていた通り、アメリアとロレーヌは互いが互いの持たぬ部分を持ち、互いを支え合える姉妹だったのだろう。

 だとすれば、その支え合う役目を放棄して国を飛び出したアメリアはどんなに罪深いのか。

 ロレーヌの政策や評判は国という規模で考えれば優秀な女王だったと言えるだろう。彼女の性格がそのまま表れたかのような効率的で富国強兵に特化した政策だ。だがその反面国民には一方的な重税を課した為に支持率は低く評判も良くはなかった。

 それはおそらく、彼女が影型の人間だったからだろう。表に立たずに裏から国を支える方が彼女には向いていたのだ。だからこそ周囲はアメリアを女王に据えてロレーヌを宰相にする事を望んでいたのだ。国民受けが良くてカリスマ的な指導力を持つアメリアと、裏で実質的な国の運営を行うロレーヌ。この双頭体制が二人での国の統治だったのだろう。

 だが実際はアメリアがエッジと駆け落ちした事でその双頭体制は空中分解。結局はリーダーには向かないロレーヌが女王となった。政策や評判を見るに国民や身内からの反発も大きかっただろう。それを全て一身に受けられる程彼女は体が丈夫ではなかったはず。苦しい想いをしながら政を行なっていたとすれば、アメリアは自身の役目を放棄したと言える。

 しかし、自分はそんな役目を放棄したからこそエッジとアメリアの間に生まれた子供だ。アメリアの行いを批判すれば自分の存在の否定となるし、そもそも大好きな母親を批判できるような人間では彼はない。

 調べれば調べる程に、本当に何も考えずに飛び出したのではないか。クリュウは嫌なはずなのに少しずつだが母親への不信感を募らせてしまっていた。

「……そのように悲しい顔をするでない」

 自分でも気づかないうちに表情を翳らせて視線を下げていただろう。気遣うようなイリスの声に現実へと引き戻され、ハッとなって顔を上げると声と同じようにこちらを心配そうに見詰めるイリスと目が合った。というか、ずいぶんと至近距離な事に驚いた。自分と彼女の間にはテーブルを挟んでいたはずだが、見れば彼女はテーブルに両手をついて覗き込むようにしてこちらに顔を近づけていた。

 一瞬の沈黙。クリュウが「イリス、顔がちょっと近いよ」と困ったように言うと、イリスも無自覚だったらしく慌てて腰を落とす。さっきまで元気に揺れていた輝く銀髪も、今は心なしか光が鈍いようにも見える。

「す、すまぬ……」

「あ、いや、別にいいんだけど」

「その、クリュウが何やら悲しげな顔をしていたので、つい……」

 恥かしげにほんのりと頬を赤らめ、少し下向きの視線からチラチラとこちらを盗み見ながら言うイリス。その愛らしくも心優しい姿にクリュウは自然と口元を緩める。

「ありがとイリス。僕の事、心配してくれるんだ」

「と、当然じゃ。妾とお主は、従兄弟なのじゃからな」

 なぜそこで威張るのかわからないが、まだ成長未発達の平らな胸を張りながら言うイリスにクリュウは苦笑を浮かべた。だがしかし、それはすぐに先程のような翳りの見える表情へと変わる。

「あのさ、ロレーヌ陛下は母さんの事、恨んでたりとか、してたのかな……」

「何じゃ、突然そんな事を」

 本当に藪から棒にという具合だったのだろう。イリスは不思議そうに首を傾げながら彼の質問の意図を掴めずにいる。そんな彼女の真っ直ぐな視線を直視できず、クリュウは逃げるように少し視線を下げた。

「いや、だって、母さんが国を飛び出したせいですごく苦労したんでしょ? だったら、やっぱり恨まれてるのかなぁって」

「あぁ、そういう事か……」

 クリュウの質問の意図を理解すると、イリスは紅茶を一口飲んだ。口の中で数回紅茶を転がして味わい、小さなかわいらしい音を立てて喉の奥へと納める。味わう際に閉じていた瞳をゆっくりと開き、彼を見据える。

「さぁな。母上は人前で弱音を吐くような人間ではなかったから、妾にはわからぬ」

「そっか……」

「――まぁ、そういう事は本人に聞いてみるのが一番じゃな」

 空になったカップがカチャリと小さな音を立てて受け皿に置かれるのと同時に、クリュウは彼女が言った意味がわからずに思わず「え?」と声を零した。

 呆然としている彼を前にイリスは静かに立ち上がると、先程掛けたマントを羽織り、再びそのサイズが合っていない王冠を被る。だが先ほどまでと違い、なぜか王冠はしっかりと彼女の頭の上で美しく乗った。さらには衣装棚から一本の杖を取り出した。それはロレーヌの肖像画に描かれていた青い宝石を埋め込んだ杖だ。

 振り返り、呆然としている彼の前でカツンッと杖の先端が床を鳴らす。両手を添え、威風堂々と立つ様はまるで母ロレーヌ・アルトリア・ティターニアのように美しくも凛とした――真の女王の出で立ち。

「イリス……?」

「アーク・ロイヤル城へ向かうぞ。飛行船なら半日の距離じゃから、簡単な旅路の支度をしてこい」

「アーク・ロイヤル城? どうしてそんな所に……」

 困惑する彼を前にイリスはニッと健康的な白い歯を見せながらイタズラっぽく笑った。

「――お主には、母上に謁見してもらうのじゃ」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。