モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

179 / 251
第174話 お姫様と狩人の秘密のデート 真実と直面する決意

 アルステェリアの城下町は今まさに活気に満ちていた。

 夜になると工業地帯で働いている労働者が一斉に市街地へと帰宅する為、それを出迎える飲食店などを中心に活気に満ちる。

 誤解されるが、アルステェリアは何もこのラミリーズ湖に浮かぶ島だけが都市ではない。ここは都市計画での区画名は《城下市街地》と呼ばれるアルステェリアの中心部だ。だがアルステェリアという街はこの他にラミリーズ湖の対岸側にも街は広がっている。王軍艦隊根拠地であるロサイス軍港や他の軍隊の駐留基地、景観の関係から中心部から離れた場所に作られている工業地帯、治安の関係から中心部には作れない為に歓楽街もこの外周区画と呼ばれる場所に置かれている。要するに繁華街と市街地は本島に、歓楽街と工業地帯と軍事基地などは外周区画に。それぞれ住み分けが行われており、アルステェリアという街はラミリーズ湖を中心としたその畔の市街地と中心の本島を含めた部分全てを含んだ都市なのだ。

 工業地帯は労働基準法を厳守して、一斉に同じ時間帯に終了する。その為、その時間帯を過ぎると工業へ勤めに出ていた労働者が一斉に本島の市街地や繁華街、または外周区画の歓楽街へと流れ込む。歓楽街にとっては、ここからが営業開始のようなものだ。

 そんな活気に湧くアルステェリアの城下町に、クリュウとイリスという妙な組み合わせのコンビが紛れ込んでいた。

 彼らが現れたのは繁華街だ。さすがに歓楽街は遠いし、そもそも子供が行くような場所ではない。イリス自身脱走するたびに基本繁華街にしか来ない。

 昼間とは様子が異なる繁華街の中、クリュウはその人の多さにクラクラしそうだった。昼間見た際は主婦などが中心に談笑を楽しみながら優雅に買物や食事をしている風景が目立ったが、夜になると今度は男達の姿が目立つ。男向けのガッツリ系の料理を出す店は、今の時間帯がピークを迎えているはずだ。でもだからと言って女性の姿がない訳ではない。半数とまではいかないが、それでも女性も多い。これが歓楽街の方なら女性の姿は売り子などを除けばほとんど見受けられなくなる。

 子供連れの家族や夫婦、恋人など、ファミリーで動く姿も目立つ。昼間の穏やかな雰囲気もいいが、こういう活気溢れた姿もまた一つの街の一面なのだ。

 大通りの一〇〇メートル程の長さでイージス村の人口を軽く超えるような人数が行き来している夜のアルステェリア市街。ドンドルマという都会慣れしたはずのクリュウも、その賑わいを超える賑わいを見せるアルステェリアには度肝を抜かれていた。それもそのはず。アルステェリアの人口はドンドルマの人口よりも多い。大陸も含めて、アルステェリアは世界最大の都市という一面も持っているのだ。

 真っ直ぐ歩く事ができない程に賑わった道をクリュウは右へ左へ回避しながら進む。その後を目元を隠すくらいまでフードを被ったローブ姿のイリスが続く。その華奢な手はしっかりとクリュウに握られていた。先程あっという間にお互いに迷子になりかけたので、それを防ぐ為にもクリュウが彼女の腕を強引に掴んだのだ。こんな所で女王様を見失うような大失態は決して冒せないのだ。

 一方、強引に腕を掴まれたイリスは困惑していた。女王として生まれてこの方、こんなにも無礼で大胆に腕を引いてくる人に会った事がなかったからだ。幼少の頃から教わったダンスの相手役の引き方と全然違う、無作法な腕の引っ張り方。でもなぜかその手はとても温かくて、アルステェリアにしては珍しく冷え込んでいる夜で冷えた手を優しく温めてくれる。その温もりが新鮮で、こそばゆくて、ちょっぴり嬉しくて、イリスは自分の中で渦巻く妙な感情に困惑していた。

「それで陛下――」

「あ、阿呆ッ。こんな誰の耳が立てられているかわからん場所で陛下など呼ばれては正体がバレるではないかッ」

「あ、そうですね。すみません……では、何て呼べばよろしいのでしょうか?」

「う、うぬぅ? そ、そうじゃなぁ……い、イリスで良い。それに敬語もなしじゃ。年下の妾相手に敬語を使っておっては、それだけで周りに怪しがられる」

「そ、そうですか? 陛下がよろしいのでしたら……」

「良い。今宵のこれはひと時の夢じゃ。無礼講といこうではないか」

 そう言ってイリスはフードを少し上げて顔を見せると、ニッと健康的な白い歯を見せて笑った。頼もしげに微笑む彼女の笑顔を見てクリュウも安心したように微笑むと、そっと彼女を――自分なりの接し方で呼ぶ。

「――それじゃイリス。まずはどこに行けばいいのかな?」

「う、うぬ? そ、そうじゃな。今宵は四丁目の大衆食堂に新メニューが出たという噂があるから、そちらに顔を出してみよう」

「え? さっきこんがり肉食べたよね?」

「妾は育ち盛りだから体が栄養を欲しておるのじゃ」

「そ、そうなんだ。それじゃ、四丁目ってまずどっち方面?」

 そんなこんなでおかしな組み合わせのコンビはひと時の夢を楽しむ事になった。

 何でもない平民と一国の女王様の秘密のデート。それはまるで恋愛小説の中の展開だ。そういうつもりじゃなかったのに、一国を束ねる女王でも乙女なイリスはいつも読んでいるそういう類の小説とまるで同じような展開に心を弾ませていた。許される事ではない、それが余計にドキドキ感を踊り立てる。しかも相手もなかなかの美形ときているのだから、乙女のドキドキは止まらない。

 繁華街へ抜け出して来る事は時たまあったが、誰かと一緒というのはこれが初めてた。いつも見ている光景も、背中越しに見るだけでとても新鮮に見えるから不思議だ。

 人でごった返す道を歩きながら、クリュウとイリスは同じように道を行き来したり露天で元気良く呼び声を掛けている人々をキュロキョロと見回す。そうしていると突然二人の視線が吸い寄せられるように重なり、見詰め合う形になった。途端に何だか恥ずかしくなって互いに頬を赤らめ、苦笑いを浮かべた。

「誰かと一緒にこうして繁華街を歩くのは初めてじゃから、何だか妙な気分じゃの」

「そうなんだ。僕は単純に人の多さに慣れてないだけ。人口一〇〇人くらいの村出身だから」

「それはまたずいぶんと田舎じゃの」

「そりゃもう。ついこの前まで王軍艦隊だって知らなかったんだから」

「……それはまた、本当に田舎なのじゃな」

「――でも、いい村だよ。みんな家族みたいなんものだから、助け合って生きてる。だからかな、僕はやっぱりこういう栄えた街より小さな村の方が性に合ってるみたい」

 笑顔で言う彼の言葉に、イリスは静かに「そうか」とだけ答える。周りを見渡しても、ここが大都会だという事がわかる程に人の数は多い。皆楽しげに笑いながら道を行き交い、露天では飲んで大声を上げている者もいるなど、賑やかな街の光景が広がっている。

「確かに、小さな村というのは都会よりも固い絆で結ばれた者達の集まりじゃ。お互いをお互いを支え合うには、それほどの規模が理想的じゃ。じゃがな――こんなにも多くの赤子達に囲まれ、妾を笑顔で迎え入れてくれる。都会というのも、それはそれで良いものじゃよ」

 そう言いながら、イリスはフード越しに笑顔で夜の街を歩く人々を愛おしげに見詰める。その視線はまるで子供を見詰める母親のような慈愛に満ちたもの。彼女が、どれだけ国民を愛しているかがわかる。

 同じ国家君主でも、やはりフリードリッヒとイリスは違うようだ。フリードリッヒも国民の事は愛しているだろうが、目的の為ならその大切な国民である兵士を戦場に投入する事も厭わない冷酷さも持つ。王としては、おそらく彼女の方が正しいのだろう。しかしイリスは違う。本当に国民全てを家族のように想い、愛している。彼女の優しげな瞳からそんな事が見て取れる。まだ幼いからこそ、理想に向かって正々堂々と挑もうとしている。そんな彼女が国民を愛し、国民も彼女を愛する。そんな国なのだ、今のアルトリア王政軍国は。

「イリスはきっと、いい女王様になれるよ」

「な、何じゃ突然。それではまるで今の妾がまるでダメ女王とでも言いたいのか?」

「そういう訳じゃないよ。きっと、もっといい女王様になれるって事」

 笑顔で心から思った事を言うと、イリスは一瞬面くらったような顔になると、ボンッと顔を赤らめて「も、もちろんじゃ。妾はアルトリア史上最高の女王になってみせる」と照れ隠しなのか、妙に自慢気にそんな事を言ってみる。彼女にしてみれば無作法に腕を引っ張ってくるのと同じように、面と向かってこんな事を言ってくる相手が初めてだった為に、いつもと違う扱われ方に困惑しているのだ。

 そんな彼女の手を引きながら、クリュウは目的地である店を目指して歩き続ける。と言っても、彼自身はその店を知らないので、後ろから続くイリスの指示に従って歩いているに過ぎないが。

「あ、すみません」

 人ごみに慣れてないせいか、クリュウは先程からちょこちょこと歩いている人と肩がぶつかってしまう。そのたびに謝っているのだから、礼儀正しくはあるが情けなくもある。一応そんなつもりはないが結果的に騎士役となっているクリュウがそんな情けない姿なのだから、イリスは少し不満げだ。

「先程から人にぶつかり過ぎじゃ。もう少し考えて歩かんかい」

「ご、ごめんね」

 クリュウは苦笑交じりに謝りながら、人の間を縫うようにして進む。が、結局その後も何度もぶつかってしまう。あまりにも動きが悪いので、注意してやろうかとイリスが口を開きかけた時、気づいてしまった。

「クリュウ、お主……」

 よくよく考えてみれば、自分だって人の事を言えたものではない。いつも一人で来る時は彼ほどひどくはないが、それでも人によくぶつかっていた。それが今日は一度もぶつかっていない事に気づいたのだ。そして、それを前提に考えれば、彼の行動も理解できた。

「お主、妾をかばって……」

 そう。クリュウは自分一人ならそれこそほとんどぶつからずに動く自信はあった。ハンターとして培ったステップならこれくらい造作も無いからだ。だが今自分の背後には女王様が、一人の少女がついて来ている。だとすれば、動き方は自然と彼らしいものに変わっていった――つまり、自分はともかく後ろのイリスが人とぶつからないような道を選んで進んでいたのだ。

 それに気づいてしまうと、ぶつかるたびに相手から睨まれたり鬱陶しげに見られたりするたびに謝る彼の姿も変わって見える。そんな情けないだけの姿の彼が、たったその前提条件が変わるだけで、すごくかっこ良く見えてしまうのだ。そう気づいてしまうと、自然と胸はドキドキと高鳴る。イリスは妙に鼓動を早める胸に手を当て、困惑しながらも彼の手を握りながらその横顔をほんの少しの笑みを浮かべて見詰めていた。

 そうこうしているうちに、二人は目的の店に到着した。石造りの大きな建物で、店の入り口の両脇にはオシャレなオープンテラスが広がっていて、すでに満席だ。中を見ればそちらも人でごった返していた。

「結構混んでるみたいだよ?」

「時間帯が時間帯じゃからな。じゃが、こういう雑踏も一興じゃ」

 そう言ってイリスは今度は逆にクリュウの手を掴んだまま店の中に入る。表から見た通り中は大勢の客で賑わっており、窓側の席もテーブル席、カウンター席も満席。空席を待つ人の数も二〇人近い。それを見たクリュウは思わず苦笑を浮かべた。

「ほんとに人気の場所なんだね。すごい人だよ」

「ここは数ある飲食店の中で最も労働者に人気のある店じゃ。値段も手頃でボリュームもあって、しかもうまい。そりゃ人気があるのも当然じゃな」

「……僕は逆にドンドルマでは人気のある店よりも、あまり人が来ない店の方が結構穴場だったりして好きだったな」

 学生時代ドンドルマで過ごしていたクリュウは時々街へ出る事もあった。シャルルは友達と一緒に出て人気のカフェに行った所一時間以上も待たされたと憤慨していたが、クリュウは逆にルフィールを連れて大通りから外れた場所にある喫茶店をよく利用していた。ここの初老のマスターはとても人が良くて、ルフィールのイビルアイを恐れも軽蔑もしない人だった。その為ルフィールも外では基本片目を眼帯で隠していたがその店では外していた。しかもこのマスターの淹れてくれるカフェオレや手作りのケーキがまたおいしい。味や値段に対して人があまり来ないのもいい所で、現在その店を知っている面子は自分とルフィールだけだ。

「うむ、妾は結局は下町に住む人間ではない。じゃから、あまり噂を耳にする機会がないから、そういった店を探すのにも苦労するのじゃ。まぁ、ない事もないのじゃが、今日は新メニューとやらを食べに来たのじゃから、ここで良いのじゃ」

「まぁ、待つ時間が長い程実際に食べた時の感動も大きいしね」

「そういう事じゃ」

 シャルルなら五分で暴れるような理屈で二人の意見は一致する。

 結局、二人が窓側の二人席に通されたのはそれから一時間近く経った頃の事であった。小さなテーブルを左右の席が挟む形の二人席。クリュウとイリスは当然その左右に席に分かれて座り、向かい合うような形になる。

 給仕の女の子が額にきれいな汗を浮かべながら気持ちのいい笑顔と共に水を置き、去って行く。クリュウはその水を一口飲むと同時にイリスはメニューと睨めっこを開始する。

「……おぉ、これじゃな新メニューとやらは。何なにぃ……ふたごキノコクリームシチューポットパイ。ほほぉ、何やら面白そうな料理じゃの」

 イリスは目的の物を見つけたらしく嬉しそうにメニューを見て笑っている。そんな彼女の姿に思わず見とれていると、そんな彼の視線に気づいたイリスが静かに顔を上げた。

「な、何じゃ。妾の顔に何か付いておるのか?」

「え? いや、何でもないよ」

「何じゃ。妙な奴じゃの。それより、お主もさっさとメニューを決めい。遠慮するな、ここは妾が払うぞ」

「いや、そういう訳には……」

「夕餉に誘ったのは妾じゃ。それなら妾が払うのが道理であろう? 遠慮するでない、ほら選ぶのじゃ」

 どうやら彼女が払う事は決定事項らしい。芯が真っ直ぐしているというか、単にわがままなのだろうか。でも何だか、一度決めた事は絶対に曲げない妙な頑固さは、どこか自分と似ているような気がした。

「じゃあ僕は兜ガニとホタテチップのシーフード炒飯にする」

「決まったな? では店員を呼ぶとしよう。おい給仕ッ、注文じゃッ」

 慣れているのか、大声で店員を呼ぶイリス。確かにこの喧騒の中では大声でないと店員に声が届かないだろう。だが一国の女王が大衆食堂で大声で店員を呼ぶ……何とも奇妙な光景に思わずクリュウは苦笑を浮かべた。

 店員に注文を済ませると、今度はその待ち時間が暇になる。が、それを無駄にする暇もなく昼間の続きとばかりにクリュウに色々な話を迫るイリス。嬉々として自分の話を聞いてくれるので、最初はあまり乗り気ではなかったクリュウも自然と楽しく話してしまっていた。

「なるほどのぉ。両親を失っても、そんな二人と同じ道を志したのじゃな」

「二人の背中を見て育ったからね。子供の頃からハンターになるって決めてたし」

「自分で決めた夢なら、辛くても結局は楽しめるものじゃ」

「イリスはどうなの? 女王って、結局は生まれた時から決まってたんでしょ? 自分で決めた訳じゃないのに、それって辛くないの?」

 クリュウは確かに両親共にハンターだったので夢の方向性がある程度決まっていたとはいえ、自由に夢を選べる身だ。そして今は両親と同じハンターとなった。だがイリスは生まれた時からすでに次期女王として育てられてきた。今の自分は、そんな昔の自分が夢見た姿なのだろうか。

 クリュウの問いかけの意味を理解したイリスは一度考え込むように黙ると、しかしフッと口元で笑ってみせた。

「確かに妾はお主と違って今の自分の立場を、自分で決めた訳ではない。じゃがな、妾は今の自分を、女王としての自分に誇りを持っておるんじゃ。自分の力量如何で国の行く末が変わる。責任も大きいが、その分やり遂げた時の喜びも大きい。そして何より、妾を温かく歓迎してくれる国民がいる限り、妾はその期待に応えたい」

 真っ直ぐ先を見詰め、真っ直ぐな言葉でイリスは言う。それだけで、彼女が心からそう思っている事が伺える。例え元から決められていた道だとしても、それは決して苦ではない。むしろ自分に他の誰にもできない役目を神様から与えられた。そう思っているからこそ、彼女は本気でいられる。女王として、数百万の国民の為に尽力できる。

「それに、どんなに国民から軍拡の暴君とまで呼ばれておっても、妾は知っておる。母上が、どれほどに国を想って、国の為に尽力したかを――妾は、そんな母上が必死に守り抜いて、妾に残してくれたこの国を宝物だと想っておる。じゃから、その宝物をもっと輝かせたい。まだ妾は経験もなく実力もあまりないかもしれない。じゃが、国を想う気持ちだけは歴代のどんな女王よりも強いと信じて疑ってはおらん」

 眩しいほどに真っ直ぐな生き様。自分で決めた事は決して曲げず、全力で頑張り、必死になれる。イリスというのは、そんな誰よりも真っ直ぐな女の子。誰よりも国を愛するアルトリア人。誰よりも人々を愛する少女王なのだ。

「すごいんだね、イリスは」

「何じゃ、突然」

 思わず思った事がそのまま口から飛び出してしまった。イリスはそんな彼の零した言葉に反応し、不思議そうに首を傾げている。どうやら自分がどれだけすごい事なのか、気づいてもいないらしい。表裏などなく、常に頑張れるというのは本当にすごい事なのに、だ。

「絶対、歴代最高の女王様になってね」

「う、うぬ? と、当然じゃッ。妾に不可能な事などないのじゃッ」

 そう言って照れ隠しなのか、妙に胸を張ってそんな事を言うイリス。が、残念ながらその胸はまだまだ成長途中の為に迫力はあまりない。と、そんな事は口が裂けても言えないクリュウであった。

 そうこうしているうちに料理が届いた。イリスには新メニューのふたごキノコクリームシチューポットパイが。クリュウには兜ガニとホタテチップのシーフード炒飯がそれぞれ届く。

 ふたごキノコクリームシチューポットパイはシチューの入った皿の上を薄いパイ皮で覆った一品。食べる際には覆っているパイ皮をスプーンで崩して中を開いて食べるという、実にオシャレな一品だ。

「大衆食堂でこんなオシャレなものが出るんだね」

「うぬ? そうでもないぞ。我が国ではポットパイは一般的な家庭料理じゃからな」

「そうなの? ずいぶんオシャレな家庭料理だね」

「クリュウの所は違うのか?」

「……うーん、チーズフォンデュかな」

「何じゃそれは?」

「鍋いっぱいに溶かしたチーズを入れて、それにパンとか肉を浸してチーズを絡めて食べる料理だよ」

「何とッ!? それはまた聞くだけでうまそうじゃなッ」

 見事にテンションが高くなるイリスに苦笑しながら彼が説明したのはイージス村というか、周辺地域一帯の家庭料理となっているチーズフォンデュだ。北国のイージス村では冬になると周辺での食料調達が難しくなる。その為に長期保存できるチーズとパン、加工肉、乾燥させて長期保存が可能となった乾燥野菜などが主役になる事から、自然とこの組み合わせでできる料理が栄えたのだ。今でこそドンドルマとわずかながら物流が通っている為に冬でも野菜などを食べる事はできるが、今でもイージス村での家庭料理と言えばチーズフォンデュというのが定着している。

「お主はそれを作る事はできるのか?」

「一応ね。これでも母親の代わりに料理を一手に引き受けていただけあって一通りはできるよ」

「そうか。では今度妾に馳走してみんか? 褒美は出すぞ?」

「そんな言い方しなくても、別に作って欲しいならいつでも作るよ」

 苦笑しながらクリュウがそう答えると、イリスは満面の笑みを浮かべて「それは真かッ!? ヌフフフ、楽しみにしておるぞクリュウ」と期待に胸を膨らませる。

「まぁ、それは追々ね。とりあえず今は目の前の料理を食べようよ。せっかくの料理が冷めちゃうからさ」

「ハッ!? それもそうじゃな。せっかくの料理を冷ましてしまってはシェフに失礼じゃしな」

「そういう事」

 意識を再び目の前の料理に戻すと、そこにはおいしそうな料理が食べられるのを待っているかのように温かな湯気を上げながら置かれている。クリュウが頼んだ炒飯は兜ガニとホタテチップを混ぜ込んで一緒に炒めた炒飯に、その上から餡を掛け、彩りを良くする為に最後に西国パセリを載せた一品。カニの匂いが香ばしく、その香りを嗅いだだけで口の中に唾液が溜まる。

「それじゃ、いただきます」

 手を合わせて礼儀良くそう言うと、クリュウは早速レンゲで餡と一緒に炒飯を一口分すくい、適度に息を吹きかけて冷ましてから頬張る。口の中に入れた瞬間にカニの風味がふわっと広がり少し濃いめ餡が絡みついたご飯はパラパラで程良い味付けで、二つが合わさると何とも言えない絶品の味に変わる。しかも噛めば噛むほどホタテチップから味が染み出すので味わい深い――要するに滅茶苦茶うまいという事だ。

「うはぁ、これすごくうまいや」

「妾のポットパイもなかなかの美味じゃぞ」

 皿を覆っているパイ皮をサクッとスプーンで崩し、中のクリームシチューとその破片を混ぜて食べるポットパイ。パイの皮から顔を出すシチューは野菜も豊富に入っていて栄養バランスを考えてある。さすがレディース料理と言った所か。

「うむ。実に美味じゃな。じゃが事前にお主の焼いた肉を食べておって正解じゃな。何も食べずにこれだけではさすがに満腹にはならんかったぞ」

 苦笑しながら言うイリスの言葉を聞いて、クリュウも思わず苦笑が浮かぶ。レディース料理が足りないとは、さすが育ち盛りと言った所か。ちなみに最近のフィーリアならこの量でも十分かもしれない、なんてクリュウが内心思ったり――言うまでもないが、最近フィーリアはダイエット中の為、食事を我慢しているに過ぎない。

「まぁ、それはどちらかと言えばセットメニューっぽいからね。他に何か一緒に頼んで食べるものなんだよ」

 実際、これを注文する際に店員が「単品でよろしいですか?」と訊いてきた。確かにセットメニューでは他にもスープやサラダ、小さなパンが付いたりするのだがイリスは単品でチョイスした。曰く「美味な物で腹を満たしたいのじゃ。サラダや安物のパンで無理に腹は膨らませたくない」だそうだ。何とも贅沢な思考だ。

「お主のも実にうまそうじゃな」

 半分程食べ進めた時、おもむろにイリスがそんな事を言い出した。視線を上げると予想通りキラキラとした瞳で食べかけの炒飯を見詰めている。クリュウはそんな彼女の視線に苦笑を浮かべるとそっと彼女の方へ自分の皿を向ける。

「食べてみる?」

「良いのかッ?」

「別にいいよ。食事代は君のおごりなんだからさ」

「う、うぬ? そうか。お主はいい奴じゃな。うむ、ではいただくとしよう」

 イリスは皿を引き寄せると自分の使っていたスプーンで飯をすくい、口に運ぶ。その瞬間、あからさまに彼女の顔が輝いた。比喩ではなく、本当に笑顔がキラキラと輝いている。何ともわかりやすい子だ。

「おいしい?」

「うぬッ。カニとホタテチップがいい味を出しておるのぉ……じゃが、他に何か手を加えているような味付けじゃな。はて、これは一体……」

「たぶん牛脂を使ってるからだと思う。シーフード炒飯にしてるけど、肉の旨味も両立させる事で単純な味わいに深みを出してるんだね」

 いつもエレナとドンドルマなんかで外食をした際にする、料理の味付け議論。そのクセでつい思った事を言ってしまったが、今目の前にいるのはエレナではない。それを思い出して慌てて炒飯から視線を彼女へと向けると、予想通りぽかんとした顔でこちらを見詰めていた。

「あ、いや、その……」

「……なるほどのぉ。お主が料理に心得があるのは事実のようじゃな。しかしよくわかったのぉ。妾はそこまでは気づけんかった」

「ううん。何か普通と違うなぁ、って気づくだけイリスはすごいよ。料理が大好きな人の証拠さ」

「うぬ。古今東西において衣食住のうち最も人を幸せにするのは食と決まっておる。妾はその真理に従っているだけじゃ」

「難しい事言ってるけど、単純に言えば食べるのが大好きって事か」

「むむむ、至極簡潔にされてもうたがその通りじゃ」

 もう少し言いようはなかったのか、と不満げに零す彼女の拗ねた横顔を見て苦笑を浮かべながらクリュウは水を一口飲む。水を飲む事で口の中に溜まっていた味が全て消え去るので、同じ物を食べても少し新鮮さを感じられる……ような気がする。

「好きなだけ食べていいよ」

「いや、それではお主の分がなくなるからのぉ。それに妾は自分の行動に責任を持つ人間じゃ。それは自分で選んだ料理も然りじゃ」

 要するに自分の物は自分で責任をもって食べるという事らしい。こんな所でそんな妙な生真面目さを出してどうするのやら。何というか、本当にイリスは背伸びをしている子供という言葉がピッタリな子だ。

「クリュウ、妾のポットパイを一口どうじゃ?」

「いいの?」

「無論じゃ。お主のを頂戴しておいて妾が拒否する謂れはないし、妾はそんなケチな人間ではないのじゃ」

 ムフフフと、なぜか自信満々に胸を張るイリス。そんな彼女の姿を微笑ましげに見詰めながら、クリュウは「それじゃお言葉に甘えて」とポットパイに手を伸ばす。が、手がそれを掴む直前でなぜかイリスは取り上げてしまう。

「え? 何で?」

「一度やってみたかったのじゃが――妾が直々に食べさせてやろう」

 これまたなぜか威厳のあるように、でも実際はない感じに自信満々に胸を張る。クリュウは困惑しながら「え? 何でまた……」と困惑げに彼女を見やる。するとなぜかイリスは頬を赤らめながら視線を外した。

「その、何じゃ。時々こういう店にいるカップルがこういう事をやっておったのを思い出してのぉ。その、いい機会じゃから妾も試してみようかと……」

「別にいいけど」

「ほ、本当かッ!?」

「ちょッ!? イリス静かにッ! 正体がバレたらマズいでしょッ!?」

 突然大声を上げるイリスに慌てて小声で怒るクリュウ。イリスはすぐに片手で口を塞ぎつつもう片方の手でフードを深く被る。だが幸いな事に周りの喧騒は思いの外大きく、中には酔って騒いでいる連中も見えるのでそちらの方が声は目立ったらしく二人を見ている人間など誰もいなかった。

 二人は一斉に安堵のため息を零し、それがおかしくてどちらからとなく笑みが零れた。

「それでは、準備は良いか?」

「そんなに緊張するような事?」

 苦笑しながらクリュウは静かに口を開く。そこ目掛けてイリスはスプーンでシチューとパイを一緒に載せて彼の口へと運ぶ。もちろん事前に食べられる温度に冷ましておくのも忘れない。

「行くぞ」

 クリュウは首の動きだけで答える。そのすぐ後に口の中へ金属の平たい物、スプーンが入る感覚。同時に口の中いっぱいに熱と香りが広がり、それが逃げる前に口を閉じる。完全には閉じずに、スプーンが後退できるだけの隙間は残して。

 スプーンがゆっくりと引き抜かれる。途端に下ろされたシチューが舌に触れ、味覚がその能力を遺憾なく発揮する。コクのある旨みととろみ。口の中いっぱいに広がるのは、そんな《おいしさ》だ。

「ど、どうじゃ?」

 黙って味わうクリュウを、なぜか自分が作った訳でもないのに緊張した面持ちで見詰めるイリス。クリュウは首を傾げながら「おいしいけど」と答えるが、イリスは不満げに唇を尖らせる。

「そういう事を問うた訳ではないわ。その、どうじゃ?」

「何が?」

「じゃから、女の子にアーンをされる気分はどうじゃと聞いておる」

「どうって……別に普通だけど」

 素直に答えると、イリスはガクリと肩を落とした。そんな彼女の反応にクリュウは戸惑うばかりだ。

 ちなみにクリュウが動揺しない理由は二つある。第一に、イリスはまだ子供だ。クリュウが男としてそういう目を向けるには早過ぎるし、そんな事になれば彼は犯罪者予備軍という嬉しくない称号を得る事になるだろう。後の二つ名が『ロリコン』では天国にいるであろう両親にも顔向けできない。

 第二に、クリュウは超がつく程の朴念仁ながら周りには彼に好意を寄せる美少女が数多い。結果的に、《この程度》の事は彼の生活では日常に近い為、そもそも何か特別な事だという意識が抜け落ちているのだ。何とも贅沢且つ羨ましさを通り過ぎて腹が立つ理由だ。

「良い。次は主の番じゃ」

「僕も?」

「当たり前であろう? 妾だけにやられておいて、自分はしないというのは失礼じゃ」

「そういうものかな。別にいいけど」

 これまた上記の二つの理由から快諾してしまうクリュウ。特に食べさせてもらうより、食べされる方が彼は慣れている。実際慣れた手つきでさっさとイリスの口に炒飯を載せたスプーンを向ける。口の中に入れてタイミングよく引き抜くと、なぜか頬を赤らめながら無言で咀嚼するイリス。ごくんと呑み込み、ポツリと零す。

「……ぬぅ、何じゃかドキドキするのぉ」

「慣れない事をしたからじゃない? それより、残り少ないしさっさと食べちゃおう。並んで待っている人達の為にも早くテーブルを空けないと」

 そう言って彼が視線を送った先には先程と変わらずに長蛇の列が食堂に入るのを待っている。それを見たイリスも同意権だったらしく、一度仕切り直す為に水を飲んだ後に残りを一気に片付ける。

 二人して食事を同時に終えて、お勘定は有言実行でイリスが支払い、店を出る。

 夜の繁華街は相変わらず人でごった返している。その中を、クリュウとイリスは来た時と同様に手を繋いで、クリュウが先導する形で歩く。

 人が多いのでそれを避ける事に集中しているクリュウとは、当然道中の会話は少ない。そもそも店の中で散々話したので、特筆して話題もない。それに加えて、イリスの意識は街の群衆の会話に注がれていた。

「……ふむぅ、やはり小麦の値段が上がっておるか」

「小麦?」

「うむ。最近我が国の主要小麦生産地であるオーランドを結ぶ海域に海竜ラギアクルスが出現してのぉ。シーレーンが寸断されてしまって、オーランドから小麦を海路で輸送する際にその海域を避けて通っておる上に納入量も減った為、どうしてもコストが上がってしまってのぉ」

「ラギアクルス? それって、モンスター?」

「そうじゃ。何じゃお主、ラギアクルスを知らんのか?」

「う、うん。聞いた事ない名前のモンスターだよ」

「……むぅ。まぁ、通常ラギアクルスは東方大陸周辺海域に住むモンスターじゃからな」

「ふぅん、東方大陸の固有種のモンスターか」

 クリュウが知らないモンスター。それが、東方大陸にはいる。

 昔授業で聞いた事がある。東方大陸と中央大陸では住むモンスターも大きく異なり、同じ種でも生態や行動が若干の違いがあるそうだ。生き物とは環境に応じてそれぞれに特化した進化をし、同じ種でも住む地域で違った生態や行動を持つ場合がある。

 ならば、東方大陸には自分の知らない世界が広がっている。何となくワクワクを感じたが、まだ中央大陸にも自分の知らない事はたくさんある。それに、自分の目的は村の為にがんばる事。村を離れる気は、今の所彼の中には存在しない。

「今海軍を派遣して追い払おうとしておるのじゃが、如何せん相手が相手じゃからのぉ。ジェイドの奴、兵器研究所で開発中の新型対艦兵器を投入するとか言っておったが……」

 ひとりごとをブツブツと言うイリスの口から何か物騒な言葉が聞こえたが、国防に関わる機密であろうからあえては問わなかった。ちなみに彼女が言う新型兵器とは後の世で海戦の主役の一つになる魚雷の事だ。

「それにしても、どうしてまた急に小麦の話を?」

「うぬ? あぁ、先程露天酒場で話している者達が愚痴っておったのじゃ」

「ふぅん、よくそんな話が聞こえたね」

「忘れたのか? 妾はひと時の休息の為だけにこうして城外に出ている訳ではない。こうして民の声を直に聞いて政に反映させる為でもあるのじゃぞ」

「そう、だったね」

 それにしてはずいぶん楽しげに食事をしていたように見えるが、それはあえてツッコミは入れなかった。何となく、それは言ってはいけない気がしたのだ。

「じゃが、今宵は実に楽しかったぞクリュウ。お主のおかげじゃ」

 そう言って嬉しそうに微笑むイリス。その笑顔を見てクリュウは静かに微笑み「僕も楽しかったよ」と答える。するとイリスは「そうかそうか」と何度もうなずいた。

 繁華街の中央を過ぎ、次第次第に喧騒は落ち着いていく。その先には貴族区画がある為、庶民の騒がしさが届いて来ないのだ。静まり返った高級住宅街を抜け、元来た道を戻る。一度通った道なので覚えている為、クリュウも迷わずに彼女を先導する。もう人はいないのでぶつかる心配はないのだが、なぜかイリスは引き続きこうして手を繋いでいる。

 そして外周の城壁へと至り、そこの裏門を使って同じように城壁の中へ入る。同じように内壁も突破して、本当の意味での城の敷地内へと入ると、つい数時間前に彼女と出会ったあの場所へと戻った。

「……それじゃ妾は戻る。そろそろ姿を見せないとジェイドの奴に勘ぐられるかもしれんからな」

「その方がいいと思うよ」

「うむ。改めて礼を言うぞクリュウ。今宵は良き夢を見れた。楽しかったぞ」

「うん。僕もだよ。誘ってくれてありがとう」

「う、うむ。それではクリュウ、お主も早う部屋に戻って休め」

「――はい。イリス陛下」

 無礼講はここまでだ。これからはまた、平民と女王の関係に戻る。あれは、ひと時の夢に過ぎないのだから。元の、本来の姿に戻るだけ。クリュウも、こうするべきだと思っていた。だから、

「……う、うぬ。それでは、な?」

 ――イリスが最後、少し寂しげな表情で別れの挨拶を言ったのは少し意外だった。

 しかし、元々二人が親しい会話をすれば今日の事がバレてしまう。そうなれば、彼女がこうして城下街へ抜け出す事が叶わなくなってしまう。だからこそ、これで正しいのだ――いや、それは詭弁でしかない。なぜならこれは、《合法の脱走》なのだから。

「――そろそろ姿を見せてくれませんか。あまりコソコソされるのは好きじゃないんです」

 イリスが姿を消すと同時に、クリュウは振り返ってそう言った。その表情は先程までの優しげなものから打って変わって、彼らしくない険しい表情に変わっていた。口調こそいつもの彼らしいものだが、雰囲気はまるで異なる。

 クリュウが威嚇するように闇を睨みながら待っていると、近くの木陰で微かに何かが動く気配がした。そこへ視線を向けると、先程まで姿を見せていなかった者が現れる。

「驚いた。まさか気づかれていたとはね」

「これでもハンターですからね。気配とかそういうのに敏感なんです」

「そう、いつから気づいてた?」

「大衆食堂を出た辺りかな。喧騒の中にうまく紛れ込んでたみたいですけど、視線ですぐにわかりました」

「そうか……」

 そう言って闇の中から姿を現し、月の光に照らされたのは赤髪をポニーテールに結った、まるで剣士のような雰囲気を持った女性軍人――エイリークであった。瞳は厳しく、向こうもこちらを警戒しているのが伺える。

 互いに牽制し合いながらの対峙。あまり心地いいものではないが、相手が相手だけに気を許す訳にはいかない。

「僕を見張ってたんですか?」

「それもある。だが、本来の私の任務は城下街へ夜な夜な繰り出す陛下の護衛だ」

「やっぱりね……」

 苦笑しながら彼が思い出したのはイリスのあの勝ち誇った笑顔。残念ながら、それは幻の勝利だったらしい。

 そもそもクリュウはかなり以前の段階からこれが仕組まれた脱走だと気付いていた。それはそうだろう。いくら安全な国とはいえ、女王が抜け出す事ができるなんてあまりにも警備がザル過ぎる。あの裏門だって、普通は兵士の一人くらいは立っているはずだ。なのに、それが外されているという事は配置命令に細工がされているとしか考えられない。

「総軍師さんの命令?」

「その通りだ。長官は陛下がこうして時々城を抜け出す事を黙認していた。お転婆な陛下は諦めが悪いと知っているし、息抜きは必要だと考えている。それに加えて陛下の行為が、政をより細かく行う為の情報収集も含んでいるとあれば、止める事もできない。だからこそ、私がこうして遠巻きに護衛する事でその行為を黙認していたのだ」

 要するに、イリスがただの息抜きだけではなく、民の声を聞いてより良い政治を行おうとしていると知っているからこそ、あえて止めはしなかった。せめて、腕利きの兵士を護衛としてこっそり付けていただけ。何とも女王想いな総軍師様だ。

「でも、今日はそれだけじゃないですよね。だからこそ、陛下がいなくなった後も僕を監視していた。違います?」

「その通りだ。では、私も単刀直入に言うが、今回の事、おそらく長官はあまり快くは思われないだろう。君のような平民、それも外国人相手に陛下が近づく事は極めて異例であり、禁忌だ。陛下が貴様に興味を持っている以上、無用な接触は避けたい――金輪際、陛下に近づくな」

 それは何とも一方的で高圧的な命令だった。彼女の部下になった記憶はないのに、まるで格下を相手にするかのような言い方。少しばかりクリュウはカチンと来た。

「そんなの、当人達の勝手だと思うけど」

「陛下は我がアルトリア国の長だ。貴様のような下賎な人間が触れて良いお方ではない」

 エイリークの物言いに対して、クリュウの中で疑問が浮かんだ。確かにイリスはアルトリアの女王様だ。だが、一緒にいたわずかな時間でもわかる。彼女はまだまだ子供で、普通の女の子だ。そんな彼女と接する事に、身分の違いなんて壁はあまりにも無慈悲で無機質で、無意味な物だ。

「――女王とハンターが関わるのは、そんなに許しがたい事なんですか?」

 思わず零れた言葉にクリュウは慌てて口を塞いだ。幸い、エイリークはこの件に詳しい人間じゃなかったらしく「当たり前だ。貴様のような存在は陛下の健やかな成長を阻害するものでしかない」と言葉通りの意味で解釈して、それに対する罵倒を返す。クリュウは安堵しつつも、やはりその言い方が気に入らなかった。

「とにかく、今後一切陛下には無意味に近づくな。関係のない奴は大人しくしていろ。いいな?」

 そう一方的に残して、エイリークは去って行った。一人残されたクリュウは数時間前にそうしていたように地面に腰を落とすと静かに月を見上げた。胸の奥に隠しておいた金色の、母の形見のペンダントを取り出して、そっと握り締めながら。

「……イリスと僕は、関係なくなんかないんだ」

 ギュッとペンダントを握り締めながら、クリュウは震える声でそうつぶやいた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。