モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

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第148話 剣想撃突 月下に確かめ合う幼なじみの絆

 エレナの部屋を訪ねても、彼女はそこにはいなかった。シルフィードやサクラに訪ねても、彼女の居場所はわからなかった。

 途方に暮れていると、ルーデルから貴重な情報を得られた。

「エレナならさっきセレスティーナさんと一緒に中庭の方に行くのを見かけたわよ」

 もうすっかり名前で呼び合う仲になったらしい。幼なじみとして嬉しくは思うが、今はそれどころではない。ルーデルにお礼を言って、クリュウは急いで中庭へと向かう。

 美しい花々が咲き誇る中庭には、優雅に一人で紅茶を飲むセレスティーナがいた。しかし、エレナの姿はない。

 セレスティーナに尋ねると、彼女は微笑みながら一通の手紙を差し出した。受け取り、読むとそれはエレナからの手紙だった。

 ──竜小屋で待つ。

 至極簡潔に、それだけ書いてあった。さながらそれは決闘状に見えなくもない。

 セレスティーナにお礼を言い、クリュウは急いで竜小屋へ向かった。

 

 月明かりに照らされる竜小屋にはアニエスと、レヴェリ家所属のアプトノスが静かに寝息を立てている。

 そんな竜小屋から少し離れた所に、エレナはいた。

 こちらに背を向け、神々しく輝く月を無言で見上げている。

「エレナ……」

「何しに来た訳?」

 近づこうとするクリュウだったが、それを拒むようにエレナが冷たく問う。

 やはり、怒っている。クリュウはその冷たい声にそう確信した。だから、すぐに自分がすべき行動はわかっていた。

「さっきは、ごめん……」

 クリュウはそう切り出し、素直に頭を下げる。しかし、エレナはこちらに振り向こうとすらしないで、ずっとこちらに背を向け続ける。

「何で謝ってんのよ?」

「だって、さっきは僕の言動で君を怒らせちゃったし」

「──何で、私が怒ってるか、わかる?」

 月を見上げながら、静かに問う。その口調から、彼女の怒りの強さを計る事はできない。ただ、いつもなら激怒するはずの彼女が、こうして平静を装えるという事は、常の彼女の怒りとは次元が違う。

 クリュウの頭の中には、先程のフィーリアとのやり取りが思い出されていた。

 自分の自信のなさが、彼女の怒りを買った。自分を信じてくれている彼女の想いを、裏切った。改めてその事実を認めると、胸が痛くなる──だが、きっと彼女の受けた痛みはこんなものじゃない。

 クリュウは静かに、唇を動かす。

「──僕の情けなさが、君を傷つけたから。だよね?」

 エレナは、何も答えない。否定も肯定もせず、無言を貫く。先程のフィーリアと、そして彼は知らないがセレスティーナと同じで、聞き手に徹する。

「調子に乗れとか、過信しろって訳じゃない。でも、僕はもう少し自信を持つべきだ──って、フィーリアに言われた」

 エレナの肩が、ピクリと動いた。

「優柔不断で、情けなくて、女々しくて。僕を侮蔑する言葉は大概的を射てる。みんな、僕の自信のなさが招いた言葉だ。僕は、その言葉に正直慣れていたのかもしれない。自分はこういう人間だって、見限ってた」

 高望みはせず、自分のできる範囲で努力する。聞こえはいいが、彼の場合は目標とすべきハードルと怪我をしない高さに設定しているに過ぎない──失敗を恐れるあまり、挑戦を拒んだ。

 何かに失敗する──それは、命を落とす事。両親は、失敗の中で死んだ。ずっとそう思っていた。

 でも、幾分か成長した自分ならわかる。

 母は失敗した訳ではない。文字通り命を懸けて守るべきものを守り抜いた。きっと父も、失敗しての殉職ではない。

 自分は平凡で、自信を持つ事を拒んでいた。

 でも、仲間達はそんな自分について来てくれた。

 学生時代はルフィール、シャルル、クロード。他にもアリアやシグマ達も自分を信じてくれた。

 フィーリア、サクラ、シルフィード、ツバメ、ルーデル。他にも色々な人が自分を信じてくれた──エレナもまた、その一人だ。

 いつの間にか、自分はたくさんの人に頼られるようになっていた。なのに、そんな皆の想いを裏切るように、自分は自信を持つ事を相変わらず拒み続けていた──それが、どれだけ非道な事なのかも気づかずに。

 だから、ほんの少しだけ、勇気を出して、自信を持とう。それが、フィーリアに相談して自分が導き出した結論だ。

「──エレナに怒られないよう、少しだけ自分に自信を持ってみるよ。いつまでも、頼りない男じゃダメだからね」

 そう言って、クリュウは微笑んだ。その笑顔はどこかスッキリしていて、清々しい。何か、付き物が取れた、そんな感じの笑顔だ。

 エレナは振り向かず、何も言わず、彼の結論を聞く。月明かりが、美しくそんな彼女を照らす。

「……何でよ」

「え?」

 風に乗って、彼女のつぶやきが届く。しかし、それが意味する所がわからず、クリュウは首を傾げた。

 ゆっくりと、エレナが振り返る──その表情は、先程までの穏やかな声と違い、憤怒に染まっていた。

「何で、あんたはいつもいつも……ッ!」

「え、エレナ?」

 足下に何かが転がる音がした。見ると、それは一本の長い木の棒──否、木刀だ。

「──拾いなさい」

 静かに届く、彼女の憤怒の声。それを聞き、そして足下に転がっているそれを見て、クリュウは全てを悟り、真っ青になる。

 子供の頃、エレナと本気でケンカした事があった。その時、彼女は「決闘で決着をつけるわよッ!」と言い出し、木刀で勝負した。

 ──エレナが、再び自分に決闘を挑んでいる。そう気づいたクリュウは慌てて彼女を止めようとする。

「ちょ、ちょっと待ってエレナッ!」

「──そっちにその気がなくても、こっちはその気が有り余ってるのよッ!」

 クリュウの制止など聞かず、エレナは自身の足下に隠していた木刀を手に取り、瞬間駆け出した。

 単純な身体能力ではハンターのサクラにも匹敵するエレナの突進はあっと言う間に二人の間を潰す。

 迫り来るエレナに対して避けるのは不可能だと経験が叫ぶ。クリュウは反射的に木刀を拾い、大剣で防御するようにガードの構えを取った──直後、防御に構えた木刀に鋭い衝撃が迸る。

 女の子の振り下ろした一撃とは思えない力強い一撃に、クリュウは歯ぎしりしながら耐える。伊達にモンスターと戦って筋力はつけていない。

 ギリギリと木の刀同士がぶつかり、擦れ、悲鳴を上げるまさに鍔迫り合い。足を踏ん張って耐えるクリュウと、そんな彼の防御を突破しようと力の全てを前進に注ぐエレナ。

 目の前に二本の交差する木刀越しにエレナの顔が見える。突撃を阻止された事を悔しげに歯ぎしりしながら、睨むようにクリュウを見詰める。

「ま、待ってよエレナッ。何で決闘になるんだよ……ッ」

「うるさいッ! あんたは言ってわからないッ! だから、体に教え込むだけよッ!」

 無茶苦茶な言い分だ。クリュウは説得しようと口を開くが、それを見ぬうちにエレナが動く。

 クリュウの戦い方は対モンスター戦用のものだ。しかし、エレナは違う。そんな縛りを受けない、もっと自由なバトルスタイル。

 エレナは踏ん張るクリュウの足を狙って得意の蹴りをお見舞いする。完全に不意を突かれたクリュウはその一撃に悶絶し、膝を折る。その隙にエレナはクリュウを押し倒すように刀に力を入れる。

 体勢を崩されたクリュウは舌打ちし、エレナの木刀を自身の木刀で力を流すように滑らせる。

 転びそうになるエレナを横目にクリュウは横へと転がって危機を脱する。が、エレナは転ぶ事なく地面に木刀を突き刺すと、それを軸にして無理矢理体を動かして跳躍。転がって逃げるクリュウの脇腹に必殺の跳び蹴りを叩き込む。

 苦しむクリュウ。しかし真上からエレナの木刀が襲う。またも転がってその一撃を回避し、クリュウは痛む脇腹を押さえて立ち上がった。

「……攻撃のどれもが直撃したら大怪我ものだよ」

 苦痛に顔を歪めるクリュウの言葉に、エレナは乱れた髪を直しながら平然と答える。

「言ったでしょ? あんたは言ってもわかんないんだから、体に教え込むって。それくらいの方がちょうどいいのよ」

 他に言う事はないと、エレナは再びクリュウに襲い掛かる。ここに来てようやくクリュウも説得は不可能だと悟り、仕方なく防戦に徹する覚悟を決める──が、相手が悪すぎた。

 次々に全身を使って木刀を乱舞させるエレナ。クリュウはそれらを身だけで回避したり、木刀で防いだり完全な防戦となる。武器の扱いに関してはクリュウの方が一日の長がある。だが体術という面では一歩エレナに遅れてしまう。

 木刀だけで戦うクリュウに対してエレナは木刀を陽動にして執拗に自身の得意技である蹴りを連発する。クリュウは木刀だけではなく彼女のそうした変則的な攻撃にも苦しめられる。木刀が襲って来るのを同じく木刀で受け止めてもそうしてがら空きになった脇腹に向かってエレナは的確に蹴りを入れて来る。いつも自分の使い慣れた片手剣と使い方が異なる太刀のような木刀で戦っているという点でもクセの違いが彼を苦しめる。

 襲いかかる木刀に対してクリュウは反射的に片手剣の時と同様に左腕を前に出すが、その腕に盾は備えられていない。当然エレナの一撃をまともに左腕で受けてしまい激痛に苦しむ。

「他所見してんじゃないわよッ!」

 怒号と共にエレナは地面を蹴って突貫。ランスの突き攻撃のように鋭く木刀を貫くようにして突き出す。クリュウは眼前まで迫る一撃をとっさに首だけ動かして突きの一撃を回避した。だが、強烈な一撃もエレナから見れば陽動に過ぎない。すぐに本物の一撃である膝蹴りを腹部に叩き込む。

「あぐッ!?」

 激痛に腰を折るクリュウを前に一歩下がったエレナはそのまま体を回転させて回し蹴りを放つ。激痛に苦しむクリュウはその一撃を避ける事も防ぐ事もできずに脇腹に受けて吹き飛ぶ。

 地面に転がるようにして倒れるクリュウ。だがエレナはそんな倒れている彼に向かって容赦なく飛び蹴りを放つ。クリュウはまたしても転がってそれを回避して立ち上がると痛みを堪えながら勢い衰えずに襲い掛かるエレナの攻撃の嵐を防ぎ続ける。

 戦いの最中、ようやくクリュウもエレナの動きを見切れるようになって次第に決定打を受けないようになる。

 このままなら何とか反撃ができる。そう油断がクリュウの頭を過ぎった――だが、その油断が彼の決定的な敗因だった。

 エレナの戦い方はスポーツでもなければ武道でもない。故にルールもなければ卑怯もない。そんな彼女の型にはまらない戦い方が彼との決定的な差だった。

 エレナは地面に木刀を突き刺すと、そのまま抉り飛ばす。飛散した砂は放射状に散らばり、クリュウに襲いかかる。

「め、目潰しッ!?」

 砂が目に入り、視界を封じられるクリュウ。エレナはその隙にがら空きの彼の胴に蹴りを入れる。腹を押さえて屈む彼の顎に、今度は膝蹴りを叩き込む。

 痛みと衝撃でフラフラになるクリュウの胸倉を掴み、そのまま突き飛ばし、背中から木の幹に叩きつけ、木刀を首元に突きつけて動きを封じる。その動作の間に足で彼の持つ木刀を払い飛ばすのも忘れない。

 武器を失い、動きも封じられた。それは文字通り一瞬の出来事であった。

 たった一瞬、勝てるかもしれないという油断が生まれた。その隙を、エレナは見逃さなかった。

 ギリッと首筋に当てられる木刀が、自身の敗北を見せつけているかのよう。──クリュウの完敗だ。

「……僕の負けだよ。エレナ」

 降参、そう示すようにクリュウは両手を上げる。だが、首をロックする木刀は微動出せず、エレナは動かない。

「あのさ、放してほしいんだけど」

 クリュウの言葉も聞かず、エレナは彼を解放しようとしない。

「え、エレナ……」

「……言ったじゃない」

「え?」

 バッとエレナは顔を勢いよくもたげた。そこで初めて、クリュウは彼女が怒っているのではないとわかった。だって、怒っているなら──何で泣いているのか。

「言ったじゃない……ッ。困ってたら、相談してって……ッ! なのに、なのに……ッ」

 悔しげに、悲しげに、彼女は頬を涙で濡らす。見ているこっちの胸が痛くなるくらい……

「──何で、私じゃないよッ!」

 悲痛に顔を歪め、泣きながら彼女が叫んだのがそれだった。

 彼女の言っている意味が分からず困惑するクリュウの首元に、エレナ突きつけられた木刀に力が入る。クリュウは苦しさに少し表情を険しくさせるが、文句の言葉が出て来なかった──出て来るはずが、ないじゃないか。

「何であんたは、いつもいつも私が二番とか三番なのよッ! あんたの隣にいたのは、いつも私なのに……ッ! 何で、あんたはいつも私じゃないのよッ!」

 泣き叫ぶエレナの言葉は全て比喩的で、意味がつかめない──だが、クリュウはこんな彼女の怒りと悲しみを以前にも見たような気がした。

「今回のアルトリア行きの事だってそうッ! あんたは、私よりも先にシルフィード達に相談したッ! アメリアさんの事を知ってる私じゃなくてッ!」

 エレナは次々にクリュウが自分よりも先に誰かに相談した出来事を挙げていく。それらは、次第に幼い頃へと遡り、

「──ハンターになるって言い出した時もッ! あんたは私じゃなくてキー姉に相談した……ッ!」

 ──やっと、思い出した。

 子供の頃にも、彼女に同じ理由で泣き叫ばれた事があった──何で、いつも傍にいる自分じゃなくて、他の誰かに相談するのか。

 まだ今の半分くらいの身長しかなかったような子供の頃にも、彼女にそうして泣きながら詰め寄られた。

 特に理由があった訳ではない。ただ、誰に相談した方が良いアドバイスをもらえるか、子供心に考えて行動していたに過ぎない。だが、エレナは納得できなかった。

 沈黙を続けるクリュウを見て、エレナはギリギリと歯ぎしりする。

 ──本当は、許すつもりでいた。

 彼の傍にずっといた自分だから、彼がああも自分に自信を持てない理由は何となくわかっていた。ついカッとなって怒ってしまったが、冷静に考えればそれは彼の自分を守る為の防御線だった。

 だから、謝ってもらえれば許すつもりでいた。きっと、彼も反省していると思っていたから。

 ──でも、そんなのもうどうでもいい。

 今こうして怒り狂っている原因は、そんな些細な事を吹き飛ばすだけの要因だ。

 胸の中に渦巻くのは、怒りと悲しみの二色。嫉妬心にも似た、許せなくて、寂しくて、裏切られたような気がして──胸が、張り裂けそう。

「エレナ……」

 ──木刀が、乾いた音と共に地面に落ちる。

「悩んだら、真っ先に私に相談してよ……ッ。じゃないと、私の幼なじみとしての立つ瀬が、ないじゃない……ッ!」

 うつむきながら叫ぶエレナの頬を、涙が流れる。ポタポタと地面に落ち、跡を残す。

 ──こんなにも弱々しい幼なじみを見るのは、いつ以来だろうか。

 いつも人一倍明るくて、人二倍くらいの努力家で、人五倍くらい勝ち気で、人十倍くらい負けず嫌いで──優しい幼なじみ。

 そんな彼女を苦しませ、泣かせているのは、自分だ。

 嗚咽を漏らす幼なじみの姿に、クリュウは掛ける言葉を失ったまま、呆然と立ち尽くす。

 こんな事、ついこの前もあったような気がした。

 彼女のようにバカみたいに明るくて、バカみたいに努力好きで、バカみたいに勝ち気で、バカみたいに負けず嫌いで──バカみたいに優しい後輩。

 ……シャルルの姿と、エレナの姿が、重なる。

 自分は、またあの時と同じように、女の子を泣かせてしまった。人前で、決して涙を流さないような子に……

「ごめん、エレナ……」

 胸が痛くなる程の罪悪感。でも、言葉にできうのは結局その三文字だけだった。

 人間の使う言葉というのは実に軽い。こんなにも胸の奥が痛くて、苦しくて、冷たいのに、言葉にすればその三文字でしか謝罪の気持ちを表せない。何て不便なのだろうか。

「ごめん。君の気持ちも、何にも考えてなくて……」

 頭を下げて、誠意を見せて謝るしか、方法なんてないではないか。

 エレナが土下座しろと言えば、躊躇なくする覚悟はあった。でも、返って来るのは不気味な無言の沈黙と、彼女の嗚咽だけ。

 気まずい沈黙が、一体どれだけ続いただろうか。

「……許さないから」

 エレナはうつむきながら、クリュウの土で汚れた服の裾をそっと掴む。弱々しく、放さないという意志の表れ。

「エレナ……」

 コツン……と、クリュウの胸にエレナの額が当たる。

「……私って、そんなに頼りにならない?」

 小さな、つぶやくような問いかけ。その声には常の彼女にあるような勢いはない。自信を失ったその問いかけに、クリュウは慌てて否定する。

「そんな事ないッ!」

「……だったら、何で私に頼らないのよ」

 彼女の問いかけに、クリュウは黙ってしまう。それを見て、エレナの表情が曇る。

「……答え、られないじゃない」

「それは……」

「……わかった。あんたが私の事をどう思ってるか、よぉくわかったわ」

 エレナはそう吐き捨てるように言うと、そっとクリュウから離れる。顔を隠すように垂れる前髪のせいで彼女の表情はわからない。でも、その唇は震えていた。

「あんたを信じてた私が、バカだったのよ……ッ。もういいッ、勝手にしなさい……ッ」

「エレナッ!」

 走り出すエレナの腕をクリュウはとっさに掴んだ。腕を掴まれたエレナは当然動けないのだが、エレナはまるで狂ったように「放してッ! 放しなさいよバカぁッ!」と叫びながら暴れる。クリュウはそんな彼女を必死に繋ぎ止める。

「エレナッ、ちょっと僕の話を聞いてよッ」

「うるさいッ! あんたの事なんかもう知らないッ! 放しなさいよ変態ッ!」

「エレナッ!」

 クリュウは勢い良くエレナの腕を引っ張り、そのまま彼女を抱き寄せた。逃がさない、そんな意志が感じられるようにしっかりと抱き締める。

 エレナは突然の事態に一瞬呆然とそれを受け入れていたが、すぐにカァッと月明かりの下でもわかる程に顔を真っ赤にして暴れ出す。

「は、放しなさいよ変態ッ! 痴漢ッ! セクハラッ!」

「ひどい言われようで泣きそうだよ……」

「う、うううぅぅぅるさいッ! 今更何をされたって無駄なんだからッ! 私はあんたを信じて──」

「──僕はエレナを信じてるよ」

 耳元でささやかれたその言葉に、エレナの罵声が止まる。一瞬にして辺りは静けさに包まれた。

 エレナは瞳を大きく見開いて彼を凝視する。そんな彼女を見て、クリュウはホッとしたように微笑む。

「やっと、僕を見てくれたね」

 そんな彼の笑顔に、エレナは顔をボンッと真っ赤にすると「う、うるさいッ!」と怒鳴り彼の鳩尾に一発拳を入れる。

「避けられないこの状況でそれは卑怯だって……ッ」

「そういう状況にしてるのはあんたでしょ」

 痛む鳩尾を押さえながら訴えるクリュウの意見を一蹴するエレナ。だが、その表情に幾分かいつもの彼女らしさが戻っている事にクリュウは気づいて、内心安心していた。

「やっぱり、そういう怒り方じゃないとエレナらしくないね」

「な、何よそれ。それじゃまるで私がいつもいつも怒ってるみたいじゃない」

「比率で言えば限りなく常時怒り状態だと思う」

 ──容赦なく、一切の予備動作なくエレナはクリュウの股間を膝で蹴り上げた。今まで、何だかんだで急所を狙う事がなかったエレナだったが、今回ばかりは躊躇なく蹴った。

 声も上げられないような激痛に無言で耐えるクリュウ。彼女を放さなかったのはある意味奇跡と言えるだろう。

「お前、それは本気でなしだって……ッ」

「こんな状況、私だって一杯いっぱいなのよッ!」

 顔を真っ赤にしたまま怒るエレナ。その瞳の縁には先程までとは違う涙が溜まっている。

「な、何が「僕はエレナを信じてるよ」よッ! 言ってる事とやってる事が噛み合わな過ぎよッ!」

「……確かに、そうかもしれない──ごめん」

 心からの謝罪。クリュウは小さく頭を下げた。そんな彼の至近距離からの謝罪に、エレナが少し慌てる。

「な、何よそれッ? い、今更謝られても無駄なんだからッ」

「それでも、謝らなくちゃいけないんだ」

 頑固に頭を下げ続けるクリュウに、エレナはしばし狼狽していたが、いよいよ諦めたのかため息を零す。

「……とにかく顔を上げなさい。話はそれからよ」

 エレナの言葉に、クリュウはやっと下げていた頭を上げる。その表情はいつになく悲痛そうで、エレナは呆れる。

「泣きたいのはこっちなんですけど」

「ごめん……」

 クリュウの力ない謝罪の声に、エレナは何度目かわからぬため息を漏らす。

 ──不思議と、さっきまで胸の中で爆発していた感情が収まっていた。理由はきっと、この頼りなくて情けない幼なじみの、この表情。

 昔から、彼がこんな表情になった時は傍にいて、励ましてきた。幼なじみとして当然の役目だと思ってたし、自分は子供心にクリュウの姉だと信じて疑わなかったからだ。

 彼にとっての本当の姉は自分ではないとわかっている。でも、自分は彼の姉だと自負している。情けない弟の背中を支え、泣きべそをかく弟にそっとハンカチで涙を拭い、弟を襲うもの全てに彼の前に立って守ってきた。

 今では身長も力も追い抜かれてしまい、どちらかと言えばすっかり自分は守られる側になってしまった。それでも、彼の心を支えられるのは姉である自分しかいない。その想いは、変わらない。

「……やっぱり、あんたは変わらないわね──ううん、本当に変わってないのは、私の方なのかもね」

「エレナ……?」

 腕の中で、エレナの表情が柔らかくなる。一体、彼女の中で何があったのか。察する事もできぬクリュウは困惑するばかり。そんな彼の唇に、そっとエレナの人差し指が触れる。

「そんな情けない顔されたら、まるで私がいじめてるみたいじゃない。感じ悪ぅ」

「エレナ……」

 エレナはそっと、クリュウから離れる。離れる彼女の体を追うようにクリュウの腕が伸びるが、その手は空を切ってしまう。

 月明かりの下、エレナは軽い足取りで小さな花々が咲き連ねる野原へと歩む。草を踏んだ瞬間、隠れていた光蟲が一斉に飛び立ち、彼女の周りを浮遊する。

 柔らかな光を纏う光蟲が無数に羽ばたく中心に立つエレナ。さながら、その姿はまさに月下に煌めく女神。背中に煌めく翼が見えたのは、幻か。

「ねぇ、クリュウ」

 背を向けたまま、エレナは彼の名前を呼ぶ。クリュウはそんなエレナを無言で見詰める。

「──今度は、ちゃんと私にも相談してくれる? もう、一番とは言わないわ。でも、ちゃんと相談して──私を、頼ってくれる?」

 振り返り、エレナは静かに問う。その表情は真剣で、誤魔化したり言い淀む事は許されないゆな雰囲気。だから、クリュウは真剣に答える。

「約束するよ」

「本当?」

「幼なじみだからね。ウソを言うはずがないでしょ」

 しばらく、二人は黙ったまま見詰め合う。まるで、互いの瞳を見て確認し合うように、黙って瞳を見詰め合う。

「……そっか」

 二人の沈黙を破ったのは、彼女の小さなつぶやき。

 フッと、口元に優しげな笑みを浮かべたエレナは両腕を広げ、その場で回転。浮遊する光蟲を纏いながら、笑顔を振りまく。

 光輝く光蟲が、風と共に空へ上る。その先にあるのは、満天の星々が煌めく星の海。

 光蟲が消え、月明かりだけが彼らを淡く照らす。その光景に、どこか寂しさを感じずにはいられない。

 背を向けたまま、彼女は星空を見上げる。

「エレナ?」

「──言っておくけど、別に許してあげた訳じゃないわよ」

「えぇ?」

 てっきり許してもらえたと勝手に思っていたクリュウはそんな彼女の発言に困惑する。

 くるりと振り返ったエレナはうつむき、その表情は見えないままゆっくりとした足取りで近づいて来る。

「え、エレナ?」

「──そうね、許してほしかったらキスしなさい」

「は、はぁッ!?」

 エレナの突拍子もない発言にクリュウは驚愕する。すぐさま顔は真っ赤に染まり、狼狽。

「ちょッ!? 何でそういう話になる訳ッ!?」

 一人慌てまくるクリュウに、エレナはするとおかしそうにお腹を抱えて笑う。

「バァカ、冗談に決まってるでしょ? 何テンパってんのよ、おかしいのぉ~」

「え、エレナぁ……ッ!」

 からかわれたとわかるや否や、顔をさらに真っ赤に染めて拳を震わせるクリュウ。そんな彼を見ておかしそうにエレナは笑い続ける。

「わ、笑うなよ……ッ」

 怒るクリュウに謝罪の気持ちゼロの軽く「ごめんごめん」と謝りつつ、瞳の縁に溜まった涙を指で拭い取る。

「じゃあ、一つだけ訊かせて。それで許してあげる」

「な、何だよ」

 ふて腐れ気味のクリュウに対し、エレナはそれまでの笑顔を一転させて、真剣な表情で彼を見詰める。そんな彼女の様子を見て、クリュウの表情も変わる。

「訊きたい事って?」

「うん。あんたさ、私の事──好き?」

「え……?」

 突拍子もないという点では先程と変わらない問いかけ。しかし、クリュウはその問いかけに対して慌てる事も狼狽する事もなく、呆然とその場に立ち尽くす。そんな自分を見詰める彼女の瞳が、先程と違って真剣なまま。

「え、エレナ……?」

「答えて」

 有無を言わせぬ迫力に、クリュウは頬を赤らめながら恥ずかしそうに答える。

「そりゃまぁ、その、好きかと訊かれれば──好き、かな?」

 最後の方は耳をすまさないと聞こえないような声だったが、エレナにはその声はしっかりと聞こえていた。

 しばしの無言。クリュウは気まずそうに視線を逸らし、一言も離さない。エレナも、ずっと沈黙を続けている。

「そっか……」

 そっと、エレナがつぶやく。

「え、エレナ?」

「まぁ、あんたに無理難題を求めても無駄だって事はわかってたけどね……今は、それで良しにする」

「は、はぁ?」

「こっちの話。あんたに言ってもム~ダ」

「何だよそれ……」

 意味がわからないと言いたげにため息を零すクリュウ。そんな彼の様子を見て、彼とはまた別の意味でエレナはため息を零した。

「……まったく、成長してるんだかしてないんだか」

「え? 何か言った?」

「何にも~。お子様クリュウにはわかんない話よ~」

「だから、さっきから何なのそのトゲのある言い方はさ。言いたい事があるなら言えばいいだろ」

「……それが言えたら苦労しないわよ」

「え?」

「あぁもぉうるさいなぁッ。もういいわよッ、私帰るッ!」

 突然怒り出したかと思うと、エレナは困惑する彼を置いてさっさと城へ戻ろうとする。それを見て、クリュウが慌てて追いかける。

「ちょっと待ってッ。結局許してくれたのッ!?」

「知らないッ」

「えぇッ!? 無茶苦茶だよエレナッ!」

「あんたにだけは言われたくないわよッ!」

 困惑するクリュウと怒るエレナ。それは程度は違えど先程までの二人と変わらない。しかし、そのどちらの表情にも、先程まではなかった明るさ──いつもの二人らしさが戻っていた。

 背を向け合い、剣を振るい合い、本心を見せ合い──そして今は、笑い合い。

 二人は並び歩きながら、残り少ない春の夜空の下、月の光や星の煌めきに祝福されながら、子供の頃と同じように家路を目指す。

 子供の頃と変わらない。一方はこのままずっとと願い、一方はもっと先を願い──二人の距離は、少しだけ縮まった。

 二人の背後の星空に、そっと流れ星が一つ零れ落ちる。


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