モンスターハンター ~恋姫狩人物語~   作:黒鉄大和

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第99話 誇りの傷 壮絶な死闘の果ての想い

 ドスランポスの鳴き声を合図に、ランポス達は一斉に動き出した。尖兵としてまず二匹がクリュウ達に襲い掛かる。だが、うち一匹はルフィールの的確な射撃によって行動を封じられ、最終的には頭部を貫かれて倒れた。

 残る一匹はそのまま突貫を続け、先頭に立つクリュウに襲い掛かる。

「ギャァッ」

 鋭い爪で襲い掛かって来るランポスに対し、クリュウはその一撃を右に回避。すかさずルーキーナイフを振るって反撃を試みるが、ランポスはそれをバックステップで回避した。しかしすぐさまそこへサイクロプスハンマーを構えたシャルルが突撃し、ランポスに襲い掛かる。

「うおりゃあああぁぁぁッ!」

 超重量武器であるハンマーを振り上げ、ランポスに向かって振り落とそうとする。だがその直前でドスランポスの命令を受けた別のランポスが横から襲い掛かった。シャルルはとっさにハンマーを真下へではなく横へ振り払う。実際には重力の重さが加わって斜め打撃になったが、その一撃で襲い掛かって来たランポスは吹き飛んだ。そこへクリュウが追いつき、本来彼女が狙っていた方のランポスにルーキーナイフを振るう。だが、クリュウの動きを読んでいたのか、ランポスは後退して事なきを得る。

 シャルルに吹き飛ばされたランポスは地面に転がるもすぐに起き上がって後退。再び双方のギリギリの間合いが生まれる。

「やっぱりドスランポスがいるとランポスの動きが正確になるから厄介だね」

 どんなに数が多くてもリーダー格がいなければただの烏合の衆。だが、例え少数でもしっかりとしたリーダーがいればそれは精鋭へと変化する。ドスランポスの指揮能力の高さはクリュウ達の予想を超えていた。

「ランポスの数が少ないのは助かったっすけどね」

 シャルルはそう言ってサイクロプスハンマーを構える。その横ではルフィールも新たな矢を三本引き抜いて弦に番える。

「いざとなったら撤退すればいいだけです。無理や深追いはせず、慎重にやれば大丈夫です」

 ルフィールは冷静にそう言うと、番えた矢を撃ち放った。その一撃は吸い込まれるようにしてドスランポスに襲い掛かる。だが、その直前で横からランポスが移動してドスランポスを守る盾となった。

「なッ!?」

 三本の矢は全てランポスに命中。ランポスは悲鳴を上げて吹き飛んだ。先程シャルルの一撃を受けていたそのランポスはついに力尽き、動かなくなった。

 地面に倒れて動かなくなったランポスを一瞥し、ドスランポスは今まで以上の怒号を上げ、辺りに暴風のような殺気を撒き散らす。ランポス達もまた仲間の死を見て怒り狂う。そのあまりの迫力にクリュウ達は呑まれ、一気に場の空気はドスランポス達に傾いた。

 硬直するクリュウ達に先手を打つように、今度はドスランポス自らが突撃して来た。狙うは仲間を殺したルフィール。

「くッ!」

 ルフィールは後退しながら矢を撃つ。だがドスランポスはそれを紙一重でかわしてルフィールに接近。ついに目の前にまで追いつかれてしまった。ドスランポスの鋭い爪が、ルフィールに襲い掛かる。

「ひッ!?」

「このぉッ!」

 巨大な爪がルフィールを引き裂く寸前、クリュウが横からドスランポスに向かってタックルした。だが、人間の大人よりも重い体重のドスランポスに対し、クリュウは平均的な男子より小柄な為に押し倒す事はできなかった。しかしほんのわずかだがドスランポスを動かした事によって爪の軌道がズレ、爪はルフィールの顔のギリギリ横を通り過ぎた。髪の毛が若干切れてヒラヒラと落ちるのを見てルフィールは真っ青になった。

「今のうちに離れてッ!」

 クリュウの言葉にルフィールは慌てて逃げ出す。だが、背を向けた事で後方が見えなくなり、次の瞬間ジャンプして来たランポスの蹴りを受けてルフィールは悲鳴を上げる事もできずに倒れた。その上に、ランポスが圧し掛かって動きを封じる。

「ギャアッ! ギャアッ!」

 今度こそ仲間の仇。ランポスは爪を振り上げてルフィールに襲い掛かる。

「い、嫌ぁッ!」

「うおおおりゃあああああぁぁぁぁッ!」

 爪がルフィールの背中を切り刻む寸前、突撃して来たシャルルのハンマーがランポスに横薙ぎに襲い掛かる。その圧倒的な質量と威力にランポスは簡単に吹き飛ばされた。

「何してるっすかッ! グズグズすんなっすッ!」

 サイクロプスハンマーを構えるシャルルに並ぶようにルフィールは立ち上がると、すぐに矢を弦に番えて構える。

「少し油断しただけです」

「フン。その油断が狩場では命取りになるんすよ」

「油断時々真面目なシャルル先輩に説教されるなんて、ボクもう日の下を歩けません」

「……ほぉ、ケンカ売ってるっすか?」

「半額セールなので」

「ずいぶんと安売りじゃないっすか。それなら買ってやるっすよッ! ただし――」

 迫り来るランポスにシャルルはサイクロプスハンマーを横薙ぎに振るって吹き飛ばす。地面を二転三転したが起き上がるランポスを見詰めながら、ニッと口元に笑みを宿す。

「――この戦いが終わった後っすけどね!」

「えぇ。その時は容赦しませんから」

 番えた矢を背後から迫っていたランポスに撃ち放つルフィール。三本のうち二本は外れたが一本は見事にランポスの体を貫いた。仰け反るランポスに再び矢を構えて威嚇する。

「そんじゃ、シャルが泣かせる前に死ぬなっすよ?」

「もちろんそんなつもりは全くありませんのでご安心を。シャルル先輩こそ今日の夕食の煮込みハンバーグを食べる前に死なないように」

「何すかそれッ!? シャルはそんなに食い意地は張ってないっすよッ!」

「そうですか。ではせっかく奮発したロイヤルチーズと一日じっくり旬の野菜やガブリブロースの骨などで煮込んだダシを加えた特製ソースを絡めた絶品煮込みハンバーグ、シャルル先輩はいらないんですね?」

「いるっすよッ! 何すかその滅茶苦茶うまそうなハンバーグッ!? 絶対食べるっすッ!」

「よだれ垂れてますよ」

 慌ててよだれを拭き取るシャルルを見てルフィールは小さく笑みを浮かべると、表情を硬くして正面から威嚇してくるランポスをその鋭いイビルアイで睨む。

「行きますよシャルル先輩」

「お前が仕切るなっすッ!」

 そう言い残し、シャルルはサイクロプスハンマーを構えて突撃した。目指すはドスランポス。その針路を塞ぐように先程ルフィールを押し倒したランポスが立ち塞ぐが、シャルルは「邪魔っすッ!」とハンマーを横薙ぎに振るってこれを吹き飛ばす。二発もシャルルの破壊力抜群の打撃を受けたランポスは沈黙した。

「うおっしゃぁッ!」

 シャルルは勝利のガッツポーズ。だが、その背後から別のランポスが襲い掛かって来る。

「ギャアッ!」

 その声に驚いて振り返ると、まさにその時ランポスがジャンプしてシャルルに飛び掛って来た。声を上げる事も逃げる事もできない。その鋭い牙と爪が自分の体に突き刺さる瞬間を覚悟した時、横から五本の矢が襲来。全本ランポスに命中し、その衝撃でランポスは横に吹き飛ばされた。

 地面を二転三転し、より深く矢が刺さるもランポスは起き上がる。恨むような目で見詰める先には、弓を構えたルフィールが立っていた。シャルルは自分を助けてくれた彼女に向き直る。

「お前……」

「先程の先輩の言葉、そのまま返させてもらいます――その油断が狩場では命取りになるです」

 そう言ってルフィールは矢筒から矢を一本引き抜き、弦に番える。グイッと腕を引き弦を限界まで引き伸ばし、ランポスに狙いを定めて撃ち放つ。その最大威力の一撃はランポスの体を易々と貫き、ランポスは吹き飛び動かなくなった。

「これで先程の借りはなしです」

「フン。わかったっすよ」

 その時、二発の銃声が轟いた。一発は外れたが、もう一発はランポスの頭部を見事に貫いた。どうやらようやくクードの支援射撃が始まったらしい。

 続いてさらに三発がドスランポスの体を貫いた。ドスランポスは銃弾が飛んで来た密林の方をどこか戸惑ったような感じで一瞥した後、慌てて逃げ出した。慌ててクリュウが追い掛けるが、残っていたランポスがその針路を塞ぐ。命懸けの殿役だ。

 最もドスランポスに接近していたクリュウが動きを封じられたので、残る二人もドスランポスを追う事はできない。だが、ドスランポスが現れたのとは違う方向の密林に消える寸前、クードが撃ち放った銃弾が命中した。途端に独特の匂いが辺りに流れ出す。どうやらクードは追跡用のペイント弾を撃ったらしい。これでしばらくの間はドスランポスを見失わなくて済む。

 ドスランポスは密林の中に消え、殿役のランポスは三人掛かりであっという間に討伐された。

 クリュウ、ルフィール、シャルルの三人はランポスの剥ぎ取りを終えるとそれぞれの装備の確認や手入れを行う。クリュウとシャルルは武器に砥石を当てて切れ味を回復させた。

 しばらくして、森の中からクードが現れた。いつもと変わらずにニコニコと笑っているが、彼の防具には所々擦り傷や泥が付着していた。

「ど、どうしたのクード?」

「いえ、大した事じゃありません。ドスランポスはどうやら後方に増援を用意していたらしく、その増援勢力と交戦した為にこんな状態に。まぁ、全部討伐したので問題ありませんが」

「そ、そうだったんだ。ヘビィボウガンのクードには荷が重かったでしょ? 何匹だったの?」

「四匹です。間合いを確保しながらの戦闘だったので多少苦労はしましたが」

「本当にお疲れ様」

「例えどんなに疲れていても、クリュウの可憐な笑顔を見る事ができれば元気百倍です」

「……ごめん。それ以上僕に近寄らないで」

 いつものようなやり取りをする二人を見て、ルフィールとシャルルは苦笑を浮かべた。一瞬、ここが狩場であるという現実を忘れそうになるが、そこは卵とはいえハンターの端くれ。しっかりと周りに危険がない事を確認しているからこその余裕の現われでもあった。

 だが、まだ気を抜くのは早い。今回のクエストはドスランポスの討伐。まだドスランポスは討伐していない。気を抜くのは奴を討伐してからだ。

「クードのペイント弾のおかげでドスランポスの場所は把握できるね。匂いの強さや向きから見て、おそらくこの辺だと思うけど」

 そう言ってクリュウは地図を取り出してドスランポスがいるであろう場所を示す。だが、ここで彼らは一つの大きな決断をしなければならなかった。

 それは、大本の作戦をどうするかである。

 本来、今回の狩りではこの川辺を決戦場として待ち伏せ及び撃滅を想定していた。だが、ドスランポスもバカではない。敵が出た場所は迂回する可能性だってある。そうなれば、ここで待機するのは無意味となってしまう。

 だが、だからと言って追撃戦やドスランポスが来るであろう場所での待ち伏せての迎撃戦だとしても、本来の待ち伏せ場所であるここに比べたら地形の制限などや思いもよらない事態になる事もあり危険度は上がる。

 安全を選ぶか、確実を選ぶか。クリュウ達第77小隊は決断を迫られる。そしてそれは、リーダーであるクリュウの一存で決定すると言ってもおかしくはない。

「シャルは追撃戦がいいっすッ! こんな所で来るかわからない敵を待つのは性に合わないっす!」

「ボクはここでの迎撃戦が一番安全な戦いが展開できると思います」

「私はどちらかと言えば追撃戦以外の迎撃戦がいいですね。ヘビィボウガンは動かないで戦うのが最も良いですから」

 三人はそれぞれの主張をリーダーであるクリュウに言う。だが、結果的に決断を下すのはリーダーであるクリュウだ。三人は主張をしっかりと言うが、クリュウの判断に全てを任せていた。彼が決めた事を、全力遂行する。それが三人一致の想いであった。

 そんな三人の視線と想いに対してしばし目を瞑っていたクリュウであったが、ついに決断を下した。開かれた瞳は美しい翡翠色。その煌きは、迷いなどない。

「ドスランポスの動きを予測して別の場所で待ち伏せしよう。これは今までの僕達の訓練や知識を試す最終試験。安全なのもいいけど、実戦では安全なんて結局は存在しない。だったら――本物のハンターらしく戦ってみよう」

 クリュウの真っ直ぐな言葉に、三人は一斉にうなずいた。

 作戦方針は決まった。クリュウ達はドスランポスの動きに注意しながらその動きを予想し、奴が来るであろう密林地帯で待ち伏せする事にし、川辺を後にした。

 

 密林地帯は日の光が鬱蒼と生い茂る木々の葉が塞いでしまうので、木漏れ日だけが照らす為に薄暗い。だが、決して暗過ぎない為に視界は十分に確保できる。視界での問題があるとすれば、やはり密集している木や藪(やぶ)によって遠く所か近くすらも見えない場所がある事だろう。

 そんな密林地帯で、一つの戦いが起きていた。

「ギャオワッ! ギャオワッ!」

 怒号を撒き散らすのは傷だらけのドスランポス。体には無数の傷や矢が突き刺さり、かなりのダメージを受けている。だがその瞳には並々ならぬ怒りと闘志が宿っている。その先には四人のハンターの姿があった。

 先頭に立つのは全身泥や掠り傷だらけで大きく肩を上下させて息をするクリュウ。握っているルーキーナイフも刃零れし、これまでの戦闘の激しさを物語っていた。

 そんな彼の背後には同じように全身泥と掠り傷だらけのルフィール、シャルル、クードが立っている。三人とも息が乱れている。特に重量武器であるハンマーを振り回し続けていたシャルルの疲労はもう限界に達しており、重いハンマーは地面に落ちている。柄を握る腕には、もう力は残されていなかった。

 ルフィールも矢筒の中にはもうほとんど矢は残っていない。それどころかドスランポスに突撃され、とっさに盾にしたハンターボウ1はドスランポスに噛み砕かれ、原型を残しているのが不思議なくらいにボロボロ。弦は切れて弓としての機能は残っていない。

 クードもすでに弾切れ。さすがにもう余裕もないのか、クードの顔には笑顔はない。ただ疲れたように辛そうな顔がそこにあるだけだ。

 周りには激戦を物語るかのように数匹のランポスの死骸が転がり、無数の矢が地面に突き刺さっている。

 やっとの思いで四対一にまで追い込んだのに、すでに二人が事実上の戦闘不能。残る二人のうち一人は本来の戦い方ではない矢による近接戦闘のみ。つまり、まともに戦う事ができるのはクリュウのみとなっていた。

 だが、そのクリュウももはや限界に達しつつあった。機動力がある為に戦闘の際は縦横無尽に動き回って時には遊撃、時には囮となって戦う片手剣使い。その体力の消耗の激しさはかなりのものだ。事実、ルーキーナイフを握る手にはもうほとんど力が込められていない。取りこぼさないでいるのが不思議なくらいであった。

 ほとんどの戦闘能力を削がれているクリュウ達ともはや満身創痍のドスランポス。幸か不幸か、どちらもギリギリの状態で拮抗していた。その為に攻勢に出る事も逃げ出す事もできず、こうして膠着状態が続いている。

 だが、クリュウにはまだ秘策が残されていた。盾が付けられている左手をそっと道具袋(ポーチ)に伸ばす。道具袋(ポーチ)もすっかり軽くなり、もう回復薬や応急薬、携帯食料などもほとんど残っていない。だが、その中に一つだけこの状況を打開できる最後の切り札が残されていた。クリュウはそれを掴むと一気に引き抜いた。それは一個の玉。ルフィール達もそれを確認し、身構える。

 クリュウはその玉に付いているピンを引き抜くと、ドスランポス目掛けて投擲した。そして、クリュウ達は一斉に瞳を閉じる。

 ――直後、すさまじい威力の光が炸裂した。

 最後の閃光玉は見事に炸裂し、ドスランポスの視力を潰した。ドスランポスは突然視力を封じられてその場でもがき苦しむ。そしてそれは視界を潰されただけではなく、動きまで封じられた事を示す。

 クリュウは残る力を振り絞って右手に力を込め、ルーキーナイフを強く握る。振り返ると、ルフィール達と目が合った。皆、疲れている。だが、もう戦いはこれで終わる。皆、クリュウに向かって静かにうなずいた。それを見て、クリュウもうなずき返す。

 そして、クリュウはドスランポスに向き直ると走り出した。

 迫るドスランポス。

 これで終わり。全ての力を込めてルーキーナイフを振り上げる――

 

 ――突然、木々が押し倒されて激しい音が響き渡った。

 

 あまりにも突然の事でドスランポスに振り下ろすはずだったルーキーナイフを止めてしまったクリュウ。他の三人も突然の事に驚いているようだ。

 突然、クリュウ達の左側に位置する少しは離れた所にある木々が薙ぎ倒されたのだ。

 一体何事かと四人はその場所を見詰め――絶句した。

 

 そこには巨大な重戦車があった。

 小柄なシャルルよりも大きな牙を二本備えた、前方突撃に特化したそれは猪突猛進という言葉の究極形態。

 茶色の硬く厚そうな全身を覆う毛はまるで装甲。白い飾り毛は長としての風格をまざまざと見せ付けられる。

 そして、その鋭い瞳は自らのテリトリーを侵す不埒な輩に対して全力の怒りを放っている。

 ちょっとした木くらいに太い足を何度も地面で擦るその仕草は、登場してすぐだというのに戦闘準備を終えている事を示していた。

 それは、通常のブルファンゴよりも二倍以上大きな体を持つブルファンゴの長――ドスファンゴであった。

 

「な、何で……」

 突然のドスファンゴの襲来に、クリュウ達は驚きのあまり動けなかった。皆、瞳を大きく見開いて現状を理解できず、その場に呆然と立ち尽くす。

「ブフォッ!」

 動けないクリュウ達に対し、ドスファンゴは先手必勝とばかりにいきなり突撃して来た。

 迫り来る強大な突進力。ブルファンゴの比ではない筋肉量から為せるブルファンゴを凌駕する速度での突進。一瞬にしてクリュウとの間合いが詰まる。

「うわぁッ!」

 恥も外聞もなくとにかく横へ逃げるように跳ぶクリュウ。顔面を地面に強打して一瞬クラッとしたが、おかげでドスファンゴの突撃を回避できた。

 ブルファンゴなら訓練で倒した事は何度もある。その経験から、突進の後の隙をついて態勢を立て直そうとクリュウは考えていた。だが、それは大きな間違いであった。

 突進したドスファンゴは予想を裏切って滑走距離が短く、しかも巨大な体からは想像もできないような俊敏さで牙を振りかざして反転。地面に転がったクリュウを再び射程に捉えた。

「は、早いッ!?」

 再び猛突撃を仕掛けてくるドスファンゴに、クリュウはまたしても横に体を投げ出すようにしてこれをギリギリで回避した。すぐ横をその一撃で簡単に人間を牙で貫けるドスファンゴが通り抜ける瞬間、今まで感じた事のないほどの恐怖が襲いかかる。

 二度に渡る体を投げ出してのギリギリの回避。もう次の一撃は避けられない。

 クリュウの横を通り過ぎたドスファンゴはその背後にあった木に激突。いとも簡単に薙ぎ倒してしまった。もしもその一撃を受ければ、大怪我は免れない。

 しかも、ドスファンゴの登場によって隙が生まれたドスランポスはこれ幸いと身を翻して逃げ出した。慌ててクードがその前に立ち塞がるが、ドスランポスは止まる事なくクードに突進して彼を吹き飛ばして逃走。見失ってしまった。

 吹き飛ばされたクードは地面に転がった。だが、彼は起き上がれずにその場でうずくまって動けないでいる。見ると、彼の肩口からは血が流れ出していた。ただの突進かと思ったその一撃だったが、どうやらあの一瞬でドスランポスの爪が肩を切り裂いたらしい。ハンターシリーズ程度では、ドスランポスの爪を完全に防ぐ事はできないのだ。

「ランカスター先輩ッ!」

 慌てて駆け寄るシャルルにクードは「だ、大丈夫ですよ」と額に脂汗を浮かばせながら無理して笑う。だがすぐに激痛が襲い掛かり、その場にうずくまってしまう。

 ドスランポスを逃がしてしまった上に負傷者が出た事に状況は最悪の方向へ転がっていく。

 一方、ドスファンゴに狙われているクリュウはそれどころではない。すでにこれまでの戦闘からの疲労で足はガクガクで、すぐに立ち上がる力も残されていない。だが、そんなクリュウをドスファンゴは確実に狙っている。

 ドスファンゴとクリュウが一直線に並ぶ。絶体絶命と思われたその時、ドスファンゴのこめかみにゴツッと小石がぶつかった。厚い毛皮と筋肉の鎧を持つドスファンゴに対しては何のダメージにもならないわずかな衝撃。だが、その一撃でドスファンゴの意識の矛先が変わった。

 荒々しい鼻息を吹かせながら振り返った先には、ルフィールが立っていた。手には数個の小石が握られており、そのうちの一つがドスファンゴに投げつけられたのだ。

「ルフィールッ!?」

「早く逃げてください先輩ッ!」

 クリュウはすぐには起き上れそうにない。それは彼のフラフラの動きを見れば一目瞭然だ。ドスランポスとの戦いで最も相手と肉薄して危険な戦いを繰り広げていたのは機動力があり攻撃から支援まで幅広く担当した彼であった。その疲労が相当なものであろうという事は容易に予想できる。

 だったら例え本来の攻撃手段が失われていても、現在チームで唯一まともな攻撃力と機動力を残している自分がドスファンゴを引きつけて彼への脅威をなくすしかない。

 自分がドスランポスに想定以上に接近されて危険に陥った時、彼は危険を顧みずに自分をかばいながら全力攻撃して間合いを確保できるだけの時間を確保してくれた――今度は、自分が彼を助ける番だ。

 こちらを向くドスファンゴの圧倒的な強大さに、本能的に恐怖を感じる。その恐怖に体が強張って動かなくならないうちに無理やり足を動かして移動する。ドスファンゴに対して、正面に立つのは危険行為そのものなのだ。

 ドスファンゴの動きや生態は教科書を丸暗記している。ドスファンゴはブルファンゴと違って旋回速度が速く、ブルファンゴのように走り出したら勢いがなくなるまで止まれないという事はなく、その圧倒的な筋力で無理やり自らの巨体を停止させる荒技を持っている。それらを駆使し、ドスファンゴは短距離の連続した突進が可能なのだ。

 だからこそ、ドスファンゴと戦う場合は正面は危険。必ず斜めに自分の位置をキープして向き合わなければならない。

 斜めに動いた直後、ドスファンゴが一瞬前まで自分がいた場所に突撃して来た。直前に動いていたので何とか回避できたが、一瞬でも遅れていたらあの大きく鋭利な牙の直撃を受けていただろうと思うと血の気が引く。

 恐怖で逃げ出したくなる気持ちを無理やり押し込み、ルフィールはドスファンゴに肉薄。手に持っていた矢をドスファンゴに向かって突き出す。鏃(やじり)は深くはないにしてもドスファンゴに突き刺さり、血が爆ぜた。

 だが、その一撃は大したダメージではない。ドスファンゴは何事もなかったかのように身を翻してルフィールに正面を向く。しかしその直前でルフィールは何とか斜めに移動し、ギリギリでドスファンゴの突進を回避した。

 ギリギリの連続。ここまで無傷で回避できたのが奇跡なくらいであったがそろそろ限界に近づきつつあった。足がフラつき、ついに躓いて転倒してしまった。

 膝を強打し、激痛が走る。何とか身を起こそうとするが、膝が痛くて立ち上がれない。腕だけで何とか起き上がろうとするも、やはり立ち上がれない。その間にもドスファンゴはルフィールに狙いを定める。

「ひぃ……ッ!?」

 頭を振って突進する構えをするドスファンゴを見て、死という恐怖が襲い掛かった。ドスファンゴの鋭い眼光が射抜かれ、指一本すらも動かせなくなる。

「ブモォッ!」

 荒い鼻息と共に走り出したドスファンゴに、ルフィールは殺されると覚悟した。その時、

「うおおおりゃあああああぁぁぁぁぁッ!」

 突進するドスファンゴの横から現れたのはサイクロプスハンマーを振り上げたシャルル。もうハンマーを持ち上げる力すらも残っていなかったはずの、無理やりの突進攻撃。

 自らの体を軸にし、重いハンマーをブン回す。その一撃は多少のブレはあるも見事にドスファンゴの横っ腹を打ち砕いた。

「ブモォッ!?」

 突然の横からの衝撃にドスファンゴは怯んだ。その一瞬が、ルフィールが起き上がる時間へと繋がった。無事にルフィールが立ち上がった事を確認し、シャルルはフッと小さな笑みを浮かべるとその場に倒れ込んだ。重々しい音と共にサイクロプスハンマーが地面に落ちる。

「シャルル先輩ッ!?」

 だがドスファンゴが怯んだのは一瞬の事。自らを攻撃して倒れたシャルルに向かってドスファンゴは容赦なく突進の構えを見せる。しかしそこへ先程のルフィールと同じようにクリュウが石を投げて注意を引いた。単純なドスファンゴはすぐにクリュウの方へ向き直って突進する。迫り来る明確な殺意に恐怖しながらも再び身を投げ出して何とか回避。

 一方、ルフィールはうつ伏せに倒れたシャルルに駆け寄ってすぐ横に膝をついて起き上がらせる。仰向けになったシャルルは激しく肩を上下させて荒い息を繰り返している。どうやら怪我をしている様子はないが、疲労困憊という状態であった。

「シャルル先輩……、何で……」

 ――何で自分なんかの為に。そう言おうとしたルフィールの口をシャルルの拳が塞いだ。

「うるさいっすよ……。シャルはただ……当然の事をしただけっす……」

「当然の事……?」

 左右で色の違うイビルアイでじっと見詰めて来る、生意気でいつも自分に反発して来るかわいくない後輩。だけど同時に、彼女は自分にとっては大切な――

「――仲間を助けるのに、理由なんてないっす……」

 その言葉に、ルフィールの中で何かが弾けた。瞳から無意識に涙が流れ出し、頬を垂れる。これに慌てたのはシャルルであった。

「な、何で泣くっすかッ!?」

「な、泣いてません。これは目にゴミが入ってですね……」

 そう言って必死に涙を拭うルフィールを見て、シャルルは「ほんと、素直じゃないっすねぇ……」と少々呆れながらも小さく苦笑した。そして、必死に涙を拭うルフィールの頬に垂れる涙をグシグシと拳で拭うと、フラフラの体にムチを打って無理やり立たせる。

「う、動かないでくださいッ!」

「……戦力外になったシャルは負傷したランカスター先輩を連れて離脱するっす。その間の足止めと――兄者を任したっす」

 そう言って拳を突き出すシャルル。ルフィールはその意味を悟るとグシグシと涙を拭い、同じく拳を突き出す――二人の拳が、コツンと当たった。

 この瞬間、二人の友情は誰にも負けない確固たる絆へと変わったのであった。

 

 ドスファンゴとクリュウ・ルフィールとの戦いは実に十分以上も続いていた。すでに疲労困憊のシャルルと負傷したクードはエリアからの離脱を終え、あとは二人が撤退するだけであった。しかし、ドスファンゴはその撤退すらも許さない。間髪入れずに突撃を繰り返す為、いまだに二人は逃げるに逃げられない状況が続いていた。

 しかも、クリュウのルーキーナイフはすでにドスファンゴの表皮に弾かれるまでに疲弊し、弓を失ったルフィールはひたすら矢での直接攻撃のみ。これではいくら攻撃してもドスファンゴにまともなダメージを与える事はできない。

 一方、無尽蔵と言っても過言ではないほどにスタミナを持つドスファンゴにしてみればまだまだ全然余裕の状況。長く立ち回れば立ち回るほど、クリュウとルフィールが不利になっていく。

 閃光玉はすでにドスランポスとの戦いでもうない。もしあったとしても、ドスファンゴには閃光玉が通じない為意味がない。シビレ罠でもあれば良かったのだが、今回の狩りでは持参も支給もしていなかったので手元にはない。

 すでにドスランポスとの長期戦とドスファンゴとの戦いで二人の体力は限界に達しつつあった。幾分か余裕のあった回避も、すでに本当にスレスレでの紙一重の回避に変わり、いつその巨大な牙に貫かれてもおかしくないような状況に変わっていた。

 ドスファンゴを挟んで両側に位置するようにクリュウとルフィールは展開していた。これが最も回避しやすい陣形(フォーメーション)であり、二人が何とか生き延びている確固たる安全性の証拠でもあった。

 すでに息が荒く、肩を激しく上下に動かして呼吸をする二人。のどは水分を失い、痛いくらいに乾いている。唾を呑むのも苦しく、肺は度重なる激しい伸縮運動に悲鳴を上げていた。

 足はガクガク。走り回るどころか立っている事自体が奇跡とも言えるような状態であった。

 特に、一般的に男子に比べて女子の方が体力は少ない。その為にルフィールの疲労は同等以上に動き回っているクリュウよりも危険な状態。いつ倒れてもおかしくはなかった。

 フラフラの状態のルフィールを見て、クリュウは苦しげに唇を噛んだ。もう、ルフィールは限界だ。これ以上この戦闘と言うにはあまりにも一方的過ぎる状況が続けば、確実に彼女は力尽きる。

 グッと、ボロボロのルーキーナイフを握る手に力が込もった。その脳内に、故郷の村に残して来た幼なじみの少女の言葉が過ぎった。

 

 ――男ならか弱い女の子を命懸けで守りなさいよッ!――

 

「ルフィールッ! 僕が囮になるから、その間に逃げろッ!」

 そう叫び、クリュウは突進した。いつも作戦をじっくり考え、的確な攻撃を重視する彼からしてみれば異例の何の考えもなしの一直線突撃。それだけ、彼は追い詰められていたし、仲間を守りたいという気持ちが強い表れでもあった。

 クリュウはドスファンゴの背後から接近すると、ルーキーナイフを叩き込んだ。だが、刃先がボロボロのルーキーナイフはいとも簡単に弾かれてしまい、刃は硬い皮の下の肉には届かない。

「クソッ! このッ! このぉッ!」

 それでもクリュウは諦めずにルーキーナイフを振るい続ける。そんな小ざかしい敵の執拗な攻撃にドスファンゴも鬱陶しくなって、その小さな敵に向かって体と頭を使って牙を叩き付けた。

 迫り来る重槍。クリュウはとっさに盾を構えた。何とかガードはできたが、圧倒的な力によってクリュウの体は簡単に吹き飛ばされてしまう。地面を二回転ほど転がり、全身に鈍痛が走る。

「先輩ッ!」

 慌てて駆け寄ろうとするルフィールにクリュウが「来るなッ!」と怒号を放つ。いつもは優しい彼の本気の怒気と剣幕に、ビクッとルフィールは震えてしまい、踏み出した足をそれ以上先に進める事ができなくなってしまう。

「いいから、早く逃げてッ!」

「で、でもぉ……ッ」

「行けえええぇぇぇッ!」

 怒号と共にクリュウは再び突進する。そんな彼の姿を見て、ルフィールはグッと感情を押し込んで彼とは反対方向に走り出した。

 後ろではクリュウが死闘を繰り広げている事が感じられた。自分を逃がす為に、彼はボロボロの体に無理をさせて必死に奮闘している。

 ――逃げたくない。

 彼を危険な目に遭わせて自分だけが助かるなんて、そんな事は絶対に嫌だった。

 本当は、背なんか向けたくない。今すぐにでも引き返して彼と一緒に戦いたい。

 でも、もう自分にはドスファンゴと立ち回るだけの体力は残っていない。助けたいと思っても、こんな自分では足手まといになってしまう。だから戦力外の自分を離脱させるのは最善の選択だ――そんな事を冷静に考える自分は、本当に最低な奴だ。

 でも、彼は自分に逃げろと言った。必死になって、自分を逃がそうと今でも後ろで戦っている。そんな彼の想いを、無碍(むげ)にする事はできない。

 逃げたくない。でも、彼の気持ちを無視したくない。二つの相反する想いが、ルフィールの中で渦巻く。その葛藤が、足枷(あしかせ)となって足を鈍らせる。

 走って行くルフィールの背中を見詰めながら、クリュウは荒い息を繰り返してドスファンゴと対峙していた。

「ブモォッ」

 興奮状態のまま勢い良く突撃して来るドスファンゴ。クリュウは右へ走ってそれを回避しようとするが、完全には回避できずとっさに盾でガード。直撃こそ避ける事ができたが、その圧倒的な突撃力の前では人間の子供程度簡単に吹き飛んでしまう。

「かはッ!」

 吹き飛ばされたクリュウはドスファンゴがへし折った木の幹に背中から激突。その衝撃と激痛に肺の中の空気を全部吐き出して地面に倒れた。

「先輩ッ!」

 その光景にルフィールは慌てて引き返した。冷静な部分が引き返してはダメだと警鐘を鳴らしているが、そんなのは無視だ。

 確かに、今更戻っても自分は足手まといにしかならないだろう。でも、だからといって倒れた彼を放ってはおけない。大好きな彼の危機を無視できるほど、彼女は薄情にはなれなかった。

「先輩から離れろぉッ!」

 クリュウに再び突進を掛けようとするドスファンゴに向かって、ルフィールはとっさに足元に落ちていた石ころを拾って投擲。その一撃は威力こそないものの見事にドスファンゴのこめかみに命中した。

「ブホォッ!?」

 突然の予期しない一撃に、何の威力もないものの驚くドスファンゴ。しかしすぐに驚きは怒りに変わり、巨大な牙を振りながら振り返る。怒り狂う殺気の漲(みなぎ)る鋭い眼光は、しっかりとルフィールを捉える。

 荒い鼻息を吹き荒らし、猪突猛進で突撃するドスファンゴ。ルフィールは横へ何とか回避するが、それは紙一重での回避であった。どうやら疲労は自分の思っていた以上に体を鈍らせているらしい。

 横を通り過ぎたドスファンゴに向かって、ルフィールは矢筒から数本纏めて矢を引き抜くと腕を振り上げてドスファンゴに叩き付けた。ほとんどの矢が折れてしまったが、何本かはドスファンゴの体に突き刺さる。ダメージは然程ないだろうが、それでもドスファンゴは驚いたように身を震わせる。

 ルフィールがドスファンゴを引き付けている間に立ち上がったクリュウ。すでに残る体力はわずかしかないが、それでも自分の体にムチを打って無理やり立たせた。立っているのもやっとな足を気合だけで突き動かして前に進む。

 手に握るルーキーナイフはもう切れ味はないに等しいほどにボロボロだ。これではドスファンゴの厚い毛皮に傷をつける事も叶わないだろう。それでも、これだけが自分を守る唯一の武器には違いない。

 自分の失態のせいでせっかく逃げていたルフィールが再び危機に晒されてしまっている。状況はまたも振り出しに戻ってしまった。その責任は、クリュウの背に重く圧し掛かる。

 この絶体絶命な状況をどうにかしないといけない。クリュウは今まで様々な危機を乗り越えてきたように必死になって考えを巡らせる。だが、これほどの窮地は今までなかった。いくら考えても、いい案は浮かばない。

 逃げた二人がクロードを呼んだと仮定しても来てくれるのはいつになるかわからないし、そもそも二人がクロードと合流できたのかも不明。そんな不確かで当てにならない希望ではこの状況はどうする事もできない。

 自力で何とかするしかない。でも道具も体力もほとんど残っていないし、お互い武器はもう使い物にならないような状態。こんな状況を打開できる策など――思い浮かばなかった。

「くぅ……ッ!」

 この時ほど自分の無能さを呪った事はない。必死に考えても何も浮かばず、時だけが過ぎていく。その間、ルフィールの危険度はどんどんと増している。

 ついに持っていた最後の矢も折れてしまった。それでも、ドスファンゴの毛皮には何本か矢が突き刺さっている。しかしそれはこの状況を打開できるだけの威力はない。むしろ、ドスファンゴの怒りを激増させるだけ。

「ブフゥッ!」

 荒い鼻息を吹き、ドスファンゴは右足で何度も地面を擦る。狙いを定め、全力突進する構えだ。

 対するルフィールは肩を上下に激しく動かしながら荒い息を繰り返している。もう、今にも膝をついてしまいそうなくらいに疲労困憊。立っているのはいつも自分が非科学的だと断言している気合だけだ。

 そして、動けないルフィールに向かってドスファンゴは全力突撃して来た。迫り来る絶体絶命、必死、死そのもの。

 確実に殺される。そう、覚悟して瞳を閉じた――その時、

「ルフィールぅッ!」

 そんな彼の必死な声と同時に、自分の体は横からの強い衝撃に抱かれ、そのまま吹き飛ばされた。だがそれは想像していたドスファンゴの突進にしては痛くない。むしろ、慣れ親しんだ温かさと匂いであった。死と隣り合わせだというのに、なぜか安心感が胸を満たしてくれる。

 彼の温もりと、彼の匂い。そうわかるのに時間は掛からなかった。だが、その匂いの中に異臭が加わっていた。鉄の嫌な臭い――違う、血の臭いだ。

 そこまで気づいて慌てて目を開けると、そこには彼の胸があった。見上げると、そこには苦痛に歪む彼の顔。そしてピッと頬に飛んで来た――血。

 直後、ルフィールの背に鈍痛が走った。地面に背中から激突し、一瞬肺の中の空気を全部吐き出して目がくらくらしてしまう。だがすぐに新しい酸素を補給するとそのめまいも治り、視界がハッキリとする。ゆっくりと、起き上がる。

 そして、全ての状況が目の前に広がった――

 自分を抱き締めながら倒れるクリュウ。瞳を閉じ、口からは血が垂れ、ぐったりとしている。そして、彼の背中が、信じられないほどに真っ赤に染まっていた。

 ハンターメイルの背の部分は強烈な一撃を受けて砕け、彼の白い肌を晒している。そして、その肌には見るも無残な裂傷が走り、そこから真っ赤な血が溢れ出ている。

 頬に付いた彼の血を拭う。指に付着した赤い光景に、体が震えだす。圧倒的な恐怖が、彼女の理性を砕いた。

「い、嫌ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」

 ルフィールは絶叫しながら倒れているクリュウの体にしがみ付いた。いつも自分に優しげな笑顔を向けてくれる彼の顔には表情はなく、キラキラと輝く瞳は閉じられている。そして、背中からは血が溢れ出している。

 目の前の地獄に、ルフィールは半狂乱になった。

「先輩! 先輩ッ! クリュウ先輩ッ!」

 必死になって彼の名を呼ぶが、クリュウの瞳は閉じられたまま開かない。

 一瞬見えたドスファンゴの牙は、真っ赤に染まっていた。あの凶悪な牙が、クリュウの背中を貫いたのだ。

 自分がもたもたしていたから。そんな自分なんかを守る為に、彼は自らを盾にした。おかげで自分には怪我はない。でも、その代わりに守ってくれた彼自身が大怪我を負ってしまった。その現実に、ルフィールの目の前は真っ暗になった。

 ポタポタと涙が零れ落ちる。

 自分の無能さが、世界で誰よりも大切に想っている彼を傷つけた。もしかしたら、命すらも危ういかもしれない。

 何が校内首席だ。何が優等生だ。自分の力は、彼を守るどころか足手まといにならないだけの力もない。知識だけ無駄に詰め込み、技術ではシャルルにも劣る。その結果がこれだ。

 知識がなくても並外れた技術を持つシャルルは、自分を救う為に残っていた力を使い果たして力尽きてしまった。そして、クリュウもまた自分をかばって大怪我を負ってしまった。

 結局、自分は皆の足手まといにしかなっていないじゃないか。そのせいで、こうして大好きな彼を傷つけてしまった。その現実が、ルフィールの心に恐怖と絶望となって襲い掛かる。

 もうドスファンゴの事など頭からなくなっていた。激しい後悔と絶望、恐怖、自己嫌悪。吐き気までする程に追い詰められる。イビルアイからは、留め止めなく涙が溢れ出ていた。

 行動不能に陥ったクリュウとルフィールに、ドスファンゴは容赦なく突進の構えを見せた。そして、力を存分に溜めて突撃を仕掛けようとした時、どこからともなく飛来した投げナイフがドスファンゴの側面に突き刺さった。

「ブホォッ!?」

 突然の予想外の一撃にドスファンゴは仰け反った。そこへ現れたのはハンターSシリーズを纏ったクロードであった。

「お二人とも、ご無事ですかッ!?」

 そう言って二人の様子をすぐに確認すると、ドスファンゴと対峙するような位置に移動して腰に下げたタツジンソードを構えた。煌くタツジンソードの刃はドスファンゴの毛皮も切り裂きそうなくらいに鋭い。

「ルクレール君ッ! 二人を連れて逃げてくださいッ!」

「うっすッ!」

 すると、藪の中からシャルルが飛び出して来た。戦線を離脱した時とは違い、いつものような元気に溢れている。

 シャルルは二人に駆け寄ると改めてクリュウの具合を確認して唇を噛んだ。本当は藪に隠れていた時もすぐにでも助け出したかったのだが、クロードの指示で隠れ続けていた。今ではよく耐えたと自分をほめたいくらいだ。

 クリュウの容態は一刻を争うほどに切羽詰っている。シャルルはルフィールからクリュウを奪い取ると背中に背負った。自分よりも身長も体重もあるクリュウの体を脅威の怪力で担ぎ上げると、今度はルフィールの手を握り締めた。

「さっさと逃げるっすよッ! ほら立つっすッ!」

 だが、いくら手を引いてもルフィールは立とうとはしなかった。

「何してるっすかッ! 早くするっすッ!」

 まるでシャルルの声など聞こえていないように、ルフィールはうつむいたままブツブツと何事かを呟いている。よく聴くと、それは自分を責める言葉ばかり。シャルルが一番嫌いな後ろ向きな発言の数々だ。

 クリュウが命の危機に瀕しているというのに、勝手に自分の世界に入り込んで迷惑を掛けるルフィールに、シャルルはカッとなって彼女の頬を殴りつけた。ここで平手打ちではなく拳というのがシャルルらしい。

 突然殴られて驚いたようにシャルルを見詰めるルフィール。だが、その瞳はしっかりと自分を見詰めている。それを確認し、ほっと内心一安心。だが、表情は相変わらず険しいままだ。

「過去を悔やむ暇があったら今を必死になって未来を変えろっすッ! 今お前がやるのは、兄者を助ける事じゃないっすかッ!?」

 シャルルの純粋で真っ直ぐな言葉は、凍り付いていたルフィールの心を動かした。ゆっくりと氷が解け、瞳に生気が戻る。

 ――そうだ。今自分がやらなくてはいけない事。それは、クリュウを助ける事だ。

「……そうですね。シャルル先輩の言う通りです」

「――やっといつもの憎たらしい目になったっすね。やる気が戻ったらさっさと逃げるっすよッ!」

「はいッ!」

 走り出すシャルルの背を追うようにしてルフィールもまた走り出した。後ろではクロードとドスファンゴが戦闘を行っているが、クロードが完全に場の流れを掴んでいた。さすが教官という所か。まぁ、彼は助教官だが。

 そんな事を考えられるだけ平静さを取り戻すと、改めて前を走るシャルルの背に背負われたクリュウの容態を見てみる。

 こちらに向けられている彼の背は血で真っ赤に染まり、直視できないほどひどい怪我であった。

 自分のせいで、彼を怪我させてしまった。そう想うと胸が引き裂かれるような想いがする。

 ――でも、今は後悔よりも先に自分が出来る事を最優先にしなければならない。今自分がやる事は、彼を助ける事に他ならない。それ以外の事は全て後回しだ。

「……先輩ッ。必ず助けますッ」

 シャルルとルフィールは全速力で狩場を駆け抜け、拠点(ベースキャンプ)へと走った。

 

 拠点(ベースキャンプ)には二匹の救護アイルーが待機しており、到着したルフィールとシャルルはすぐさま彼らに負傷したクリュウを預けた。

「頼むっすッ! 必ず、兄者を助けてくれっすッ!」

「お願いしますッ!」

 二人の強い願いに、救護アイルーは「任せるニャッ!」「絶対助けてみせるニャッ!」と言ってクリュウを荷台に乗せて拠点(ベースキャンプ)から飛び出して行った。ルフィールとシャルルは、彼らが見えなくなってもじっとその方向を見詰め、クリュウが助かる事を祈った。一応、頭の片隅程度にクードの無事も祈ってはいたが。

 

 それからすぐ、日が暮れた頃にクロードが戻って来た。どうやらドスファンゴは彼によって討伐されたらしい。装備が不十分だった上に連続戦闘での疲労を差し引いても、やはり本物のハンターの実力は訓練生とは桁違いだと改めて感じた。

 二人の事が気になって落ち着かない二人に、クロードは自ら夕食の支度をした。本来はこういう部分でも訓練生に任せるのがこの試験の一環ではあったが、今回は特別だ。このままでは二人は食事すらもしないだろう。

 クロードが作ったのは山菜鍋であった。季節の野菜や野草をふんだんに入れ、モスのバラ肉もたっぷりと入っているボリューム満点の料理。味も野菜や野草の味や肉の旨味が汁に溶け込んでいて美味である。

 ルフィールとシャルルはとても料理を食べている余裕はなかったが、せっかくクロードが作ってくれたという事もありとりあえずもそもそと食事をする。あの大食漢であるシャルルが勢い良く食べない辺り、やはり二人の心労が相当な事を表していた。

 元気のない二人の女生徒を前にし、クロードは小さくため息した。こういう時、フリードなら一体どんな言葉を掛けるのか。経験の浅い自分では、掛ける言葉も思い浮かばない。助教官ではあるが、教官には違いない。なのに、教官なのに生徒に掛ける言葉がないなんて、情けなかった。

 気まずい沈黙だけを残した夕食を終え、それぞれが無言で時の経過を待っているとアイルーの鳴き声が聞こえた。その声に三人は驚くべき俊敏さで拠点(ベースキャンプ)の入口に目を向ける。すると、狩場の方から二台の荷車がやって来た。二匹ずつのアイルーが押した荷車には、それぞれ包帯とインナーと姿のクリュウとクードが横になっている。

「あ、兄者ッ!」

「先輩ッ!」

「ニャニャニャッ! そこをどくニャッ! どっせぇいッ!」

 全速力で突撃して来たアイルーは突然荷車を急停止させ、押していた腕を一気に上に挙げて荷台を勢い良く傾けた。慣性の法則に従って二人の体は勢い良く投げ出されて地面に転がった。それを確認し、アイルー達は仕事をやり遂げたような清々しい表情を浮かべて荷車を回れ右させる――直後、シャルルの見事な跳び蹴りが炸裂した。

「「ウニャアアアァァァッ!?」」

 吹き飛ばされた二匹のアイルーはそのまま地面に突き刺さった。吹っ飛んだのはもちろんクリュウを投げ飛ばした方のアイルー二匹。クードを投げ飛ばした方の二匹のアイルーは慌てて逃げ出した。もちろん二人はそちらは追わない。用があるのは突き刺さった方のアイルーのみだ。

「な、何をするニャッ!? それが義理堅い救護アイルーにする仕打ちかニャッ!?」

「鬼ニャッ! 人間は鬼なのニャッ!」

 頭をズボッと引っこ抜くと、アイルーはすぐさま激怒して非難の声を上げる。だが、その頭をグワシッとシャルルに鷲掴みにされる。両方の手でそれぞれのアイルーを持ち上げるシャルルの表情はブチギレる一歩手前。ビキビキとこめかみには青筋が浮かび、つい本気でアイルーの頭を握り潰しそうになる。

 ぶらぁんと揺れるしかないアイルーはそんなシャルルの激しい怒気に身を震わせた。

「な、何ニャッ!? 何でそんなに怒ってるニャッ!?」

「オイラ達はあんたの連れを治して連れて来たのにッ!」

 意味がわからないとテンパりまくる二匹。何せ自分達はマニュアル通りの見事な救護アイルーっぷりをしたというのに、殺され掛けているのだ。そりゃ理不尽に思うのも仕方がないだろう。だが、論理とか常識とかが通用せず感情だけで猪突猛進。それがシャルル・ルクレールであった。

「怪我人の兄者を投げ捨てる奴があるっすかッ!?」

「だ、だからそれはマニュアル通りの事なのニャッ!」

「投げ捨てて目が覚めてようやくオイラ達の仕事が終わりなのニャッ! 言うなれば、ちゃんと治ったのかという確認なのニャッ! これは救護アイルー法第二章第五項の――」

「シャルは難しい事はわかんないっすよッ!」

 見事なブチギレ。シャルルはフルスイングでアイルー二匹を全力投擲。アイルー二匹は悲鳴を上げながらどっぽぉんッと天幕(テント)の横にある池に突っ込んだ。

「ニャニャァッ!? お、溺れるニャァッ!」

「肉きゅうが濡れるのは嫌ニャァッ! 気持ち悪いニャァッ!」

 池で溺れる二匹。慌てて岸に上がろうとすると、そこには左右で色の違う瞳をした少女――ルフィールが立っていた。すると、スッと手を指し伸ばしてきた。二匹はパァッと笑顔を華やかせると、その手を取る。

「ありがとうニャ」

「た、助かったニャ」

 口々に感謝の言葉を述べるアイルー二匹。ルフィールは無言でうなずくと、二匹を引き上げる――そして、シャルルに負けないフルスイングで再び池に放り投げた。

「「ニャニャニャァアアアアアァァァァァッ!?」」

 どっぽぉんッ!

「……怪我している先輩に対する非道な仕打ち、許しません」

「珍しく意見が合ったっすね。シャルも絶対に許さないっす」

 恐ろしい同盟が締結され、二人の鋭い眼光は溺れる二匹に向けられる。アイルー達は泣きながら必死に助けを求めるが、二人は助ける気などさらさらない。クロードは急変した状況について行けずに呆然としている。

 四面楚歌。まさにそんな状態であった二匹のアイルーに、意外な救いの手が現れた。

 投げられたのはロープ。二匹は慌ててそのロープを掴んだ。ルフィールとシャルルは驚いたように振り返ると、そこにはロープを掴んだクリュウが立っていた。

「せ、先輩ッ!?」

「あ、兄者ぁッ!」

「……頼むからさ、僕が意識を失っている間に問題を起こすのだけはやめて本当に」

 苦笑しながらロープを引くクリュウ。彼の助けを得て、二匹のアイルーはようやく救出された。二匹ともぜぇぜぇと激しく荒い息を繰り返している。わずかな間に、完全に疲労困憊となっていた。

「大丈夫?」

「し、死ぬかと思ったニャぁ……」

「助けてくれてありがとうニャ」

「お礼を言うのは僕の方だよ。手当てしてくれてありがとう」

 クリュウの言葉にアイルー達はクリッとした瞳を向けて嬉しそうに笑みを浮かべた。

「お礼なんて必要ないニャ。これがオイラ達の誇りある仕事なのニャ」

「元気になって良かったニャ」

 二匹とも本当に心から嬉しそうな笑みを浮かべると、ブルブルと体を震わせて毛に付いた水を吹き飛ばす。そしてある程度水気を取り除くと、「そんじゃ、オイラ達は行くニャ」「もう無茶はしちゃダメニャよ」と言って荷車を押して拠点(ベースキャンプ)を出て行った。クリュウはその背中が見えなくなるまでずっと感謝の言葉を述べながら手を振って見送っていた。

 二匹が森の向こうへ消えるのを確認してから、クリュウは二人に振り返る。彼の美しい翡翠色の瞳に見詰められ、ルフィールとシャルルは言葉を失う。さっきまで、最後に見た血だらけの彼の姿が頭の中から離れなかった二人にとって、今のクリュウはあまりにも呆気なく復活したので少し現実について行けていないのだ。

 そんな二人の心内を知ってか知らずか、クリュウは二人の姿を改めて確認するとほっとしたように優しげな笑みを浮かべた。

「良かった。二人とも、怪我はないみたいだね」

 クリュウのそのいつもと変わらない優しげな言葉に、ようやく二人は今目の前に広がっている現実を理解した。

 ――クリュウが、無事に帰って来てくれた。

「先輩ッ!」

「兄者ぁッ!」

「え? ちょ、ちょッ――」

 ルフィールとシャルルは一斉にクリュウに抱きついた。突然の少女二人のタックルに等しい抱きつきに対し、全く警戒していなかったクリュウは耐える事ができずに二人を巻き込んで後ろに倒れた。

「痛ぁッ!」

 背中を地面に強打し、クリュウは悲鳴を上げて悶えた。普通に動けるまで回復したとは言っても、彼はまだ怪我人に変わりはない。完全には治ってはいない背中を強打すれば、そりゃあ悶絶する。

「あ、兄者ぁッ!? 大丈夫っすかッ!?」

「しゃ、シャルル先輩がタックルするからぁッ!」

「なぁッ!? シャルのせいだって言うんすかッ!?」

「当然ですッ」

「ひ、ひどいっすッ! お前だってものすごい勢いで兄者を押し倒したじゃないっすかッ!」

「お、押し倒したなんてそんな……ッ!」

「……あの、どっちでもいいけど早くどいてもらえるかな?」

 その言葉に二人は一斉に下を向く。そこには自分達の下敷きになって苦笑している彼の姿があった。二人は一瞬固まった後、カァッと顔を真っ赤に染める。

「ご、ごめんっすッ!」

「すみませんッ!」

 二人は慌てて退くと恥ずかしくてその場で縮こまってしまう。クリュウはそんな二人の姿に苦笑しながらを身を起こす。すると、そこへクロードが歩み寄って来た。

「ルナリーフ君。怪我はもう大丈夫なのですか?」

「はい。まだ若干痛みはありますが、もうこうして動き回る分には回復しました」

「それは良かった。あれだけの怪我でしたから、アイルーの医学でも完全には治らないのではないかと心配していましたが、どうやら杞憂だったようですね」

「――いえ、やっぱり完治とまではいきませんでしたよ」

 クリュウのいつもとは違うどこか弱々しい声にクロードだけでなくルフィールとシャルルも不思議そうに彼を見詰める。そんな三人の視線に対し、クリュウは小さく力ない笑みを浮かべた。

「傷は残るそうです。それも、背中全体を覆うような大きなものが」

 ――その瞬間、場の空気が凍りついた。誰もが言葉を失い、驚きを隠せないでいる。そんな皆の反応を予想していたのか、クリュウは驚く事もせずに立ち上がる。

「まぁ、傷なんてハンターという職業柄あって当然の事ですからね。別に構わないんですけど」

「そ、そんなのダメっすッ! 兄者の真珠のように白くてきめ細やかな肌に傷なんて、絶対にダメっすッ!」

「……いや、そんなに肌の事をほめられても、僕男だから気にしないし。むしろ少しは小麦色になってほしいの願うんだけど」

「ダメったらダメっすッ! シャル、今からあのバカアイルー達を追って傷を消すように言うっすッ!」

「ちょっと待てぇッ! 君の場合《言う》じゃなくて《脅す》でしょッ!? それに無理なものは無理なのッ!」

 まるで自分の事のように大激怒し、クリュウの手を離れて本当にアイルー達を追いかけて行きそうな勢いのシャルル。そんな彼女をクリュウは必死にって抱き止める。これ以上問題を起こされる訳にはいかないのだ。

 そんな二人の押し問答を、ルフィールは少し離れた場所からじっと見詰めていた。シャルルを羽交い絞めにして押さえているクリュウの背中、まるでその奥にあるものを隠すように巻かれているその白い壁。その奥には、自分の一生を懸けても消える事のない失態が刻まれている。

「だからぁッ! 落ち着いてって――る、ルフィール?」

 暴れるシャルルを羽交い絞めにして何とか押さえていたクリュウの背を、いつの間にか近づいたルフィールはそっと指先で撫でる。この奥に、自分の消す事のできない失態が刻まれている――自分のせいで、彼にその傷を負わせてしまった。

「る、ルフィール……」

 左右で色の違う瞳、イビルアイからボロボロと涙を流すルフィールに、クリュウはシャルルを放して振り返る。解放されたシャルルも泣いているルフィールの姿を見ると急に大人しくなった。

 顔を隠すようにうつむきながらさめざめと泣くルフィール。そんな彼女を目の前にし、クリュウは慌てる。

「ちょ、ちょっとルフィール。な、何で泣くの? 僕何か君に悪い事した?」

 突然泣き出された事に慌てまくるクリュウ。そんな彼の背後にいるシャルルは慌てる彼の姿を見て小さく苦笑しながらも何の言葉も発しない。いつもなら真相がわかっていても「何女の子を泣かしてるっすかッ!」とからかって来るお調子者であるが、ちゃんとふざけていい時と悪い時の区別はできるのだ。

 小さく嗚咽を繰り返しながら泣き続けるルフィールに、クリュウはどうすればいいか困惑する。

「……ごめんなさいッ」

 シャルルに助けを求めようとした刹那、ルフィールのそんな小さな声を聞いて振り返る。すると、先程までは下げられていた彼女の顔が上がり、赤く腫れたイビルアイでルフィールはじっとこちらを見詰めていた。

「ルフィール……」

「……ボクのせいで、先輩に一生消えない傷を負わせてしまいました」

 ルフィールの言葉に、クリュウはようやくルフィールが泣き出した理由に気づいた。彼女を助けた際に負った背中の傷。アイルー達の懸命な治療の甲斐あって傷口は塞がり、今ではほとんど痛くないまでに回復した。しかし、傷跡だけはどうしても残ってしまうという。

 ハンターという過酷な道を選んだ時からこれくらいの傷なんて覚悟していた。でもルフィールは、そんな自分の傷に対して責任感を感じてしまっているのだ。

 確かに彼女を助けた事で傷を負ってしまったのは事実だ。でも、これは自分から進んで彼女を助けた為に負った傷。つまりは自分の責任だ。むしろなぜあそこで完全に回避できなかったのか。そっちの方が悔やまれる。

 彼女が責任を感じる必要なんて全然ないのに、根が真面目なルフィールにとっては自分の失態が犯した大きな責任となって重く圧し掛かっているのだろう――何というか、本当に彼女らしい。

 今にも倒れてしまいそうなほどに弱々しいルフィール。涙は止まらず流れ続け、イビルアイは悲しく煌く。表情は悲痛なもので、激しい後悔と自責の念、罪悪感など負の感情がごちゃまぜになったような苦しいもの。今まで見て来た彼女の表情の中で、一番苦しげに見える。

「ごめんなさい……ごめんなさいッ……」

 そう何度も繰り返すルフィールの頬を流れる涙を、クリュウはそっと指先で拭い取った。驚いたように見詰めて来るルフィールが見たのは、いつもと変わらない大好きな彼の笑顔。自分を救ってくれた、太陽だ。

「クリュウ……先輩……?」

「――いいんだ」

 そう言って、クリュウはルフィールの小柄で華奢な体を引き寄せ、そっと抱き締めた。驚くルフィールの体を、両手でしっかりと、優しく包み込む。

「せ、先輩ッ?」

「――バカだな君は。傷なんて、ハンターを目指した時に十分覚悟していたさ。今更気にする事じゃない。ルフィールだって、覚悟の上の事だったでしょ?」

「そ、それはそうかもしれませんが……。でも、今回はボクの失態で先輩に一生の傷を――」

「――それに、僕は後悔なんてしてない。だって、ルフィールがこうして無事でいる。君を救う事ができた。それだけで、僕は十分だよ」

 クリュウの言葉に、ルフィールの瞳が大きく開かれる。じわりと目元に溜まる涙は、さっきまでのものとは違う。ずっと澄んでいて、きれいな涙。表情も先程までの苦痛は消え、頬を赤らめて感無量といった所か。

 クリュウはそんなルフィールをそっと抱き締めながら――断言する。

「この傷は僕の誇りになる――仲間を救った、勲章みたいなものだよ」

 ――その言葉に、どれだけ救われただろうか。

 気づいた時には、自分は彼に自分からも抱きついて声を上げて泣いていた。彼に許してもらって良かった、彼に嫌われなくて良かった、彼が無事で良かった――彼と出会えて、本当に良かった。

 感動、歓喜、安心。それらの感情が心の中で溢れ、涙となって溢れ出す。自分はこんなにも子供だっただろうか。常の自分ならきっと否定していただろう。でも今は、子供で良かったと思える。大人になったら、こんな素直な気持ちは消えてしまうかもしれない。

 でもきっと、この気持ちだけは大人になっても変わらない。そう断言できる。

 

 ――ボクは、クリュウ先輩が大好きだ――

 

 その後、クードもすっかり回復して一行はクロード引率でドンドルマへ戻った。

 クエスト自体は失敗してしまったが、これは予想だにしていないドスファンゴの襲来というイレギュラーのせいであり、一応ドスランポスを追い詰めていた事は確かな為、特例としてクリュウ達それぞれに合格点が与えられた。

 卒業単位を全て取得し、クリュウは大喜びした。そんな彼を、どこか素直に喜べないルフィール。

 ――でも、大好きだからこそ、大好きな先輩の卒業を、ちゃんと祝わなければいけない。

 ルフィールの心は、いつの間にか十分大人に成長していたのであった……


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