エレンは女となり、
壁の内側に閉じ込められて、
リヴァイに育てられました。
リヴァイさんは執事だ。だからと言って身の回りのこと全てを、何でもしてもらっている訳じゃない。一緒に掃除をしたり、一緒に料理を作ったりして、オレ一人でも出来る事を増やして行った。あれはリヴァイさんによる教育だったのだろうと思う、リヴァイさんは優しく、オレに沢山の事を教えてくれた。
その一つに紅茶のいれ方がある。巨人のいる世界で、紅茶は珍しい物だった。それが今では、いつでも好きな時に飲める。こっちには飲み物だけじゃなくて、食べ物も十分にあった。おかげでオレは飢えた事がない。だけど、この状況をオレに言わせれば「おかしなこと」だ。
壁の内側で野菜を育て、家畜を飼育して、そうして食料を生み出している。遺伝子操作という技術があるらしく、巨人のいる世界の野菜や家畜に比べて効率良く生育していた。その代償として急速に失われた土の栄養は、壁内の施設の一つによって生産される肥料で補われている。これを怠ると野菜の成長が止まるようだ。
食料事情は壁内で完結していた。外から食料が運び込まれる事はない。巨人のいる世界を知らなければ、そんな光景に疑問を抱く事はなかっただろう。だけどオレは、この光景が普通じゃないと知っている。野菜や家畜が異常な早さで生育する様を、不気味に感じる事もあった。
あれは巨人のいる世界の話だ。一番外側の壁であるウォール・マリアが陥落した後、食料事情は如何しようもないほど悪化した。難民に対する配給の食料は、1人にパン1つ。それも全員に行き渡る量はなかった。口減らしのためにウォール・マリア奪還作戦と称して25万人が送り出され、100人しか帰って来なかった。その時に比べてオレは恵まれている。居心地の悪さすら覚えるほどだ。
別に豊富な食料を。誰かに分け与えるべきだなんて思ってはいない。幼馴染のアルミンやミカサが、兵団の仲間達が、あるいは執事のリヴァイさんが飢えているのならば兎も角、オレは自分の食料を他人に分け与えるべきだなんて思わなかった。顔も名前も知らない連中に、食料を恵んではやろうなんて思わない。
巨人のいる世界は残酷だった。あちらと比べれば、こっちは楽園だ。ただし、壁に閉ざされている。そこがオレにとって、引っかかる所だった。土に生える草を家畜が食べ、その家畜をオレが食べる。その"オレ"が誰かにとっての家畜ではないと言い切れない。いつかオレの意思なんて無視されて、食料として収穫される恐れがあった。
いったい何時からオレが……人類が生態ピラミッドの頂点と決まっていたのか。壁の内側にいるオレは、飼育されているに等しい。それはエレン・イェーガーにとって我慢がならない。落ち着いていられない。壁の向こうにある不安を解き明かさなければ、穏やかに眠れない。
リヴァイさんによると外の世界は滅びたらしい。外は危険だからオレを外に出せない。だからと言って、一歩も外に出さない様子に疑問を覚える。高い壁で遮って、外を一目見る事すら許さない環境に不審を覚えた。もしかするとリヴァイさんの言う通り、本当に外は危険なのかも知れない。だけどオレは知識だけで、オレを納得させる事はできなかった。
リヴァイさんは「旦那様」という人に命じられ、オレに仕えている。リヴァイさんはオレを「エレン様」や「御主人様」と呼ぶけれど、「旦那様」の命令だから壁の外に出してはくれない。だから不安に思うんだ。「旦那様」に命じられれば、リヴァイさんは相手がオレであっても……。
こわいな……とても怖い。どうか私を裏切らないで欲しい。そう願ったとしても現実は厳しい。オレを育ててくれた相手を疑わなければならない。リヴァイさんの向こう側にいる、会ったことも顔を見たこともない、「旦那様」と呼ばれる箱庭の管理者に、リヴァイさんは従っている。
その「旦那様」をオレの親と思い込むのは早計だ。オレと血の繋がりのない全くの他人であるという可能性もある……本当は「旦那様」なんて、とっくの昔に亡くなっていて、リヴァイさんにとって、オレが唯一の「御主人様」であれば良かった。だけど、もしも「旦那様」が居なくなったら、リヴァイさんもオレの前から姿を消すのではないか……。
……なんて顔をしているんだか。水面に映った自分の表情に、フタを被せて隠した。リヴァイさんによって手入れされているティーカップは、少しも染みがない。その白いティーカップの中には、たった今いれたばかりの色の濃い紅茶が入っていた。それにフタを被せている間に、リヴァイさんを呼びに向かう。
その部屋の扉が開いている事に、オレは気付いた。開いていると言っても、少しだけだ。中にリヴァイさんが居ると思って、オレは声を掛けようとした。だけどオレは、扉の隙間から見えた光景に目を奪われる。リヴァイさんを呼びに来た事も忘れて、それに見入った。
いつもの執事服をリヴァイさんは脱いでいた。着替えている途中で、下着姿だった。それを見たオレは、カァッーと頭が熱くなる。出直そうかと考えつつも、その肉体から目を逸らせなかった。そうしているとリヴァイさんが、こちらに歩いてくる。覗いている事に気付かれた。違うんだ、そんなつもりじゃなかった。なんて言い訳を考えている間に、扉は内側から開かれる。
「なにか用か? エレン様」
「あっ、えっ? リヴァイさんために紅茶をいれたんです。よければ一緒に飲まないかって……だから、こんなつもりじゃ……なくて」
「了解した。すぐに行こう。少し待っていろ」
「あっ、はい。分かりました」
あっけなく扉が閉まる。オレの不安は何だったのか。オレの目前まで迫ったリヴァイさんの肉体が、まだ頭に焼き付いている。まだ体に熱が残っていた。その輝きにオレは、心を囚われる。オレは意味もなく、自身の下腹部を手で払った。かつて失った肉体が、すぐ側にある。
体が熱くて、胸が苦しい。この扉の向こうにある、失ったオレを取り戻したい。欠けた体を取り戻したかった。その点で言えば、エレンとエレン・イェーガーの望みは一致している。だけどリヴァイさんに嫌われたくはなかった。こんな思いを抱いている事を知られたくない。
失った輝きを取り戻したい——あの烈火、エレン・イェーガーを。エレン・イェーガーが巨人を憎むように、それはエレンにとって唯一の熱い願いだった。オレの体が欲しい。渇いた欲求を満たしたい。オレにとってリヴァイさんは父であり、兄でもあり、そして男性だった。
オレのいれた紅茶をリヴァイさんが飲む。その様子をオレは見守っていた。リヴァイさんはティーカップの取っ手ではなく、カップの口を上から覆うように持っている、巨人がいる世界のリヴァイ兵長と同じ持ち方だ。顔や名前だけではなく、変な所のクセも似ている。リヴァイ兵長ご本人じゃないかと疑った事もあった。
だけどリヴァイ兵長はオレを「エレン」と呼び捨てる。こっちのリヴァイさんは「エレン様」や「御主人様」と呼んでいた。尊敬しているリヴァイ兵長に様付けされるんだ。気まずいなんて物じゃない。リヴァイさんは喋り方を崩してくれたけれど、様付けは外してくれなかった。リヴァイさんなりの拘りがあるらしい。ちなみにオレは、リヴァイさんに対して言葉を崩すなんて事はできなかった。
これから死ぬまでリヴァイさんと共に過ごすのか。それとも、いつか終わりの時が来るのか。巨人のいる世界で女型の巨人に追われた時、リヴァイ兵長に言われた事がある。それは「悔いが残らない方を自分で選べ」だ。あの時のオレは仲間の力を信じて、巨人化を選ばなかった。いつか訪れる終わりの前にオレは、リヴァイさんと向き合わなければならない。だけど、それは互いに傷付け合うことを覚悟しなければならなかった。
「睡眠薬」
「え!?」
「いや……眠れないと言っていたからエレン様にやった睡眠薬だが、もう飲んだのか?」
「あっ、はい……大丈夫です」
突然の言葉に驚いた。リヴァイさんの持ってるティーカップに、オレの意識は集中している。リヴァイさんは自然な動作で、紅茶を口に含んだ。再び紅茶がリヴァイさんの口へ運ばれて、それを止めるようにオレは話題を振る。こんな事は止めるべきではないかと、オレは悩んでいた。
「あの、リヴァイさん。オレ、何時になったら外に出られるんですか?」
「それは旦那様が……」
「やっぱり、おかしいと思うんです」
「ほぅ、なにがだ?」
「屋敷にリヴァイさんと2人きりで、周りを高い壁に囲まれてて、一歩も外に出られない。その旦那様っていう人にも、オレは会った事すらありません」
「外は危険だからな。エレン様の体を守るためだ」
「だからって……おかしいです。こんな所に、ずっと閉じ込められて……リヴァイさんは……」
「オレが、どうした。エレン様、続きを言ってみろ」
リヴァイさんに促される。だけどオレは言葉を紡げなかった。この閉ざされた世界でオレ以外に存在する、たった一人の人間がリヴァイさんだ。それが何れほど重いことか、オレが一番よく知っている。オレにとってリヴァイさんは、全てとも言える存在だ。リヴァイさんとの関係が壊れてしまえば、これまでのような平穏な生活は望めない。
その言葉を吐き出すには勇気が必要だった。もしかすると明日から、急にリヴァイさんが居なくなるかも知れない。誰もいない屋敷で、外に出る事もできず、たった一人で生きていく事を強いられる。そんな事になれば、死ぬほどの苦しみを味わう。孤独に殺される。
そうして思うんだ。もしも外に出られたとして、オレは生きて行けるのか。壁の中にあった全てを捨てて、自分の足で歩いて行けるのか。自由とは、それほどに価値がある物なのか。子供みたいに小さな我がままで、全てを失って、オレは後悔しないのか。暗闇の中に見える、外へ繋がる扉を見ただけで、オレは恐くて動けなくなった。
——戦え!
オレの頭の中に、怒号のような声が響き渡る。命なんて惜しくないとオレは言う。魂の鼓動を感じて、オレは右手で胸に触れた。オレの中に巨人がいる。身に余るほどの大岩を持ち上げ、扉に向かって歩いている。右手を心臓の前へ持って行くのは兵団の敬礼で、「心臓を捧げる」という意味だ。人類の希望となったエレン・イェーガーは、ずっとオレの中にいた。
あたたかい。全身に熱が灯る。零れそうになった涙を、オレは我慢した。今この時に泣いてはいけないと、そう思った。オレの背中を、オレが押してくれる。これほどに心強い味方はいない。オレは一人じゃない。弱い私も今は戦士になれる。自由のために一歩踏み出す力を得られた。
目の前にいるのは、人類最強の兵士だ。オレの小さな世界に限って言えば、やはり最強の執事だ。戦う相手としては強大すぎる。捨てられるのが恐い。殺されるのが恐い。嫌われるのが恐い。その恐怖を今この瞬間だけは忘れて、前に進む事ができる。だから、オレは、言った。
「……リヴァイさんは、オレの事が嫌いなんですか?」
本当に小さな一歩だった。言ってから気付いたけれど、まるで子供の問いかけだ。だけど、これがオレにとって初めての反撃だった。オレは子供なんだな。リヴァイさんに依存しなければ生きて行けない子供だ。エレン・イェーガーが壁に閉じこもる事を嫌っていた気持ちが、エレンにも少し理解できた。
卵から出れば死ぬと分かっていても、人は世界に生まれたいと思うものなんだ。卵のまま死ねば、緩やかな死と暗闇しかない。大きな喜びを感じないまま、一生死に怯え続ける。卵に閉じこもって生きるだけならば、それは腐った死体だ。この世に生まれてすらいない。
そんな事を考えつつ現実逃避をしているオレの前で、リヴァイさんが席から立ち上がっていた。リヴァイさんはオレの背後へ回る。まさか、これから首をコキッと折られるのではないか。そう思っていたオレの体に、リヴァイさんが寄りかかる。後ろから抱きしめられて、心臓が止まるかと思った。
「何を馬鹿なことを言っていやがる……御主人様はオレの全てだ」
恐怖とは別の意味で動けない。リヴァイさんに抱き締められたショックで、オレは息を止めていた。リヴァイさんに殺す気はないのだろうけれど——これは死ねる。指の一本すら動かせない。リヴァイさんには見えないだろうけれどオレの顔は、とてもリヴァイさんに見せられない表情のまま固まっていた。
「旦那様の命に背かない限り、オレは御主人様のためなら何でもする。この身の限り、おまえの命令に従い尽くそう。それで御主人様の気が晴れるのならば、どんな奉仕でもしてやる」
——旦那様の命に背かない限り
これまでの人生の中で頂点を極めていたオレの感情が、その言葉を聞いて急速に冷める。恐れていた事が現実の物となった。リヴァイさんの言葉として、目の前に現れた。リヴァイさんにとってオレの命令は、"最上位ではない"。その事実だけで、全ての言葉が無意味になった。
「なんでも言う事を聞く」なんて誤魔化しだ。条件付きの忠誠なんていらない。「御主人様はオレの全て」と言いながら、オレだけの物でない事が許せなかった。結局リヴァイさんは、この屋敷にオレを閉じ込める事が目的なんだ。それが悔しくて、涙を止めるために目を伏せる。
いつの間にか、体の熱も冷めていた。下腹部から暗い感情が、ドロリと零れ落ちる。感情が頂点を極めていた分、その反動も大きかった。感情が底を突き、反転の衝動を引き起こす。希望は絶望へ変わった。リヴァイさんに顔を見られていなくて、本当に良かったと思う。
「リヴァイさん……セックスって知ってますか?」
「ああ、知識だけは知っている」
「本で読みました。この世界には女と男がいて、愛し合う事ができるって……」
「ああ、その通りだ」
「リヴァイさんは男で、オレは女で……リヴァイさんはオレの命令なら何でも聞いてくれるんですよね?」
「ああ、違いない」
「だったら……紅茶、ちゃんと全部のんでくださいね」
——プロローグ「リヴァイと電話部屋(中)」
執事は部屋から出ると、ハンカチを口に当てる。そこへ溶けかけた固形物を吐き出した。ラムネ菓子のような物体は、執事がエレンに渡した睡眠薬だ。それは執事が口に含んだ紅茶に混ぜられていた。執事は当然、それが何であるか知っている、しかし、エレンを問い詰める事はなかった。
執事はエレンの問いかけを思い出す。まるで子供のように、エレンは口を尖らせていた。あれでも精一杯の反抗であった事を理解している執事は、微笑ましく思う。それも監禁に近い環境であれば無理もない。ようやくエレンは自らの意思で、欲する物を求めるようになった。
エレンの遺伝子は、そのように出来ている。"正統な血"を継承するエレンには、求められている役割があった。敷かれたレールの上を、エレンは少しも外れていない。外部から隔離された屋敷で飼育されたエレンは、やがて家畜のように"ガーデン"へ出荷される事だろう。他ならぬ、執事の手によって。
現在公開可能な情報:『美少女クラブ』は月刊COMIC MUJINで連載されていた「赤月みゅうと氏」の作品である
野菜と家畜の遺伝子操作は捏造設定です。
『美少女クラブ』の食料事情が良く分からなかったので捏造しました。
プラント(食料生産設備)で済ませようかと思ったけれど、
世界観としても遺伝子操作の方が合っているでしょう。