「由乃っ!?」
その叫び声を聞いて、令は真っ先に部屋を飛び出した。先ほどの白薔薇さまさながらの勢いである。
「志摩子さん、どうしたの!」
焦っていたせいだろうか、怒鳴り付けるような声色になった。志摩子さんを脅えさせてしまったら申し訳ないが、それを配慮してはいられない。
部屋を出て、周囲を見渡し――いた。
歩く度に軋み、悲鳴を上げる年季の入った階段を数段降りたくらいのところで、由乃は志摩子さんにもたれかかり、苦しんでいた。
「あの、由乃さんが……」
聞くまでもなく、令には状況がわかった。発作が起きてしまったのだ。しかも、場所がまずい。
ここで志摩子さん共々倒れてしまったら、そのまま階下へと転がり落ちてしまうであろうことは想像に難くない。
「由乃!」
恐ろしい想像が頭に浮かび、令は古い階段への配慮はどこへやら、音を立てて駆けだす。
志摩子さんを押し出すようにして、由乃の身体を抱いた。
そのまま抱えて、床に寝かせる。
「はぁ、はぁ……れ、令ちゃん……令ちゃん……」
動悸が激しい。
うわ言のように何度も何度も令の名を呼ぶ痛ましい様子に、自然と由乃を抱く手に力が籠った。
「令ちゃん……助けて……令ちゃんっ」
「大丈夫、私がついてるから、安心して。私はここにいるよ」
落ち着け。自分が取り乱しては由乃が危ない。
まずは薬を飲んでもらわなくてはならないのだ。
努めて冷静を装い、由乃の背中をさすってやりながらも令は口を開く。
「ごめん、志摩子さん。部屋にある私と由乃の鞄を持ってきてくれないかな」
「は、はい!」
志摩子ちゃんはすぐに部屋へ走っていった。物分かりがよくてありがたい。間もなく彼女は鞄を二つ持って戻ってきた。
お礼を言い、中から常備している錠剤を取り出す。由乃の症状を和らげる薬だ。
「ほら、由乃。薬飲める?」
「んぅ……令ちゃん……」
首をもたげて、その口に薬を含ませる。吐息を漏らしながらも飲んでくれた。
発熱もしているらしく、顔が赤い。タオルで汗を拭いてやると、気持ちよさそうに微笑んだ。
「あの、由乃さんは……」
志摩子さんが心配そうに由乃の顔を覗きこむ。
「大丈夫、ちょっとした発作が起きただけだから。由乃を助けてくれてありがとう」
「い、いえ……」
志摩子さんはほっと安堵の表情を浮かべた。心配してくれたのだ。将来山百合会の一員になったら、由乃の友人になってくれるだろうか。
ともかく今日はもう、由乃は帰ってベッドに横になっていた方がいいと判断する。
「ほら、由乃、立てる?」
「れ、令ちゃん……っ」
薬を飲んで少々落ち着いた由乃をゆっくり立たせてやると、令の腕に甘えるように抱きついてきた。途方もない愛情がこの妹に沸き上がってくるが、いつまでも惚れ惚れとはしていられない。
「お姉さま、私たちは帰宅しても……」
「え、ええ。早く病院へ連れていってあげて」
お姉さまも少々困惑気味だった。
由乃の身体が弱いということはもちろん薔薇さまもご承知のことだが、由乃に発作が起きたり、倒れてしまったりというのをお三方が実際に見たのは今が初めてだったから。
「はい、申し訳ありません。では失礼します。ごきげんよう」
一礼してから、令は由乃を連れて薔薇の館を出ていく。
自分が由乃を護ってあげなくては。
その強い思いが、令を突き動かす原動力となる。
――
その場に残された、由乃を抱き抱えるようにして去っていく令を見送る三人の薔薇さま。
「由乃ちゃん、大丈夫かな……」
「ふう……令の懸念が、見事に的中してしまったわけね……」
「身体に大事なければいいけれど……」
白薔薇さまも黄薔薇さまも、紅薔薇さまも。皆、その表情は暗い。
三人共身の回りに重い病気にかかった人がいるわけではない。知識が浅かったが故に無理をさせてしまったのかもしれない、と。
一見薔薇さまとしてしっかりしているように見えても、たかだか高校生だから臆病なのだ。
「……由乃ちゃん」
紅薔薇さまは険しい表情で、ぼそりとそう呟いた。
それに端を発して場が静寂に包まれるが、志摩子の声によって破られた。
「あ、あの……」
「あら、あなたまだいたの?」
やはり志摩子には冷たく接する白薔薇さま。
「早く出ていきなさい」
「……行きましょう」
紅薔薇さまの何か言いたげな視線に頷いて、黄薔薇さまが志摩子を連れ出した。
二人の姿が見えなくなって、ようやく白薔薇さまは落ち着きを取り戻した。
「……助かったわ」
「……はぁ」
白薔薇さまが素直にお礼を言うのを聞きつつ、ここにきて問題が積み重なってしまった、と紅薔薇さまは憂鬱な思いに駆られ、溜め息。
全く今年の山百合会は大変なことばかりだ。思いながらも紅薔薇さまは、笑みを浮かべる。
まあ、それも仕方ない。
損な役割を引き受けるために、友達はいるのだから。
――
雨降りしきる、湿気の強いじめじめした朝。
「おはようございます」
令は勝手知ったる由乃の家の玄関を開ける。由乃の様子を確認したかったのだ。
「あら、令ちゃん」
叔母さんが顔を見せたが、その表情は贔屓目に見ても明るいとは言えない。叔母さんは、大事をとって今日も学校を休ませる、と悲しげに告げた。
「そうですか……じゃあ、ちょっと由乃の顔見てから行きますね」
返事を聞く間も惜しい。令は早々に由乃の部屋へ赴く。
あの後帰宅してすぐに身体を暖かくして寝かせてやったから、大事にはならなかった。それは本当に幸運だったのだが、その後由乃は体調を崩したため、以降学校を欠席することとなる。
由乃の落ち込みようは凄まじく、せっかく体調が良かったのに、発作を起こして令ちゃんに迷惑をかけてしまったと嘆いていた。
「っあ……令ちゃん……」
令の顔を見るや、由乃は赤らむ顔に笑みを浮かべた。
「おはよう、由乃」
熱を帯びた手を握ってやり、朝の挨拶をする。
「おはよう……え、えへへ……今日も一緒に学校行けないね……」
「仕方ないよ……ゆっくり寝て、身体休めてね」
「うん……迷惑かけてごめんね」
由乃はきっと、休んでいるせいで山百合会の仕事ができないから、申し訳なく思っているのだろう。とにかく今は、身体を癒すことだけを考えてほしかった。
「もう、由乃は気にしなくていいの。……じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
由乃に送られ部屋を出ていくその背中越しに、声がかかった。
「……気をつけてね」
その優しい声に令は振り返って微笑みかけ、そして今度こそ部屋を出た。
ざあざあと耳障りな音を響かせながら、雨が降っている。その中を、傘差して令は歩き出した。
雨の日は嫌いじゃない。雨を口実に、由乃のそばにいられるから。
例えば、相合傘して一緒に登校したりとか。
その際、あえて小さめな傘を持っていくのだ。そうすれば、自然と肩を寄せ合うくらい近寄ることになる。互いの顔が近くなって、使っているシャンプーの香りが分かるくらいに。車に水をかけられたりしないよう、令が車道側を歩いたりして。
リリアンへ登校するまでの、ほんのつかの間の幸せなひとときだ。
ああ、なんて素晴らしいのだろう。
よし。
今度雨が降ったときは実践してみよう。
と、その日の朝は由乃がいないながらも気持ちは少々弾んでいたのだが。
――
「あなたと由乃ちゃんについてなのだけれど」
数日前由乃が呼び出された時のごとく、令がお姉さまと紅薔薇さまに召集されたのは、その日の放課後のことだった。
お姉さま方の呼び出しを断れるはずもなく、授業後薔薇の館へ赴くと、お二人はいつになく真剣な顔で待ち構えていた。
椅子を温める暇もなく、紅薔薇さまはそう言ったのだ。
「私たち……の?」
何か問題があっただろうか。まずそれを考えた。
由乃は仕事に関して問題などなに一つないことは先に述べた通りであるし、令も呼び出されるほどのことをしでかした記憶はない。
そんな当惑を見てとったのか、紅薔薇さまはさらに言葉を続ける。
「ええ……あなたたち、一度関係を見直すべきではないかしら」
「……は?」
しかしそれは、令の戸惑いを解決する言葉にはならなかった。
このお方は、今なんと仰った?
一瞬、自らの時間が停止したような錯覚に陥る。それほど、理解しがたい言葉だったのだ。
数秒経過してようやく、脳内にその意味が伝播する。
それは、つまり……。
「それはつまり、由乃との姉妹関係を解消しろということでしょうか」
「……そこまでは言ってないわ」
このお二人に対し、失礼な態度を取っていることは分かっていたが、自らの発する言葉に怒りがはらむのを令は抑えられなかった。
「では、なぜですか。お姉さまも蓉子さまも、私が由乃を妹にすること、反対しませんでしたよね。それに、由乃は仕事だってちゃんとやっています」
「そうね。由乃ちゃんは頑張ってくれているわ」
お姉さまも紅薔薇さまも、令の態度を前にして冷静を保っている。
二人とも、どうやら由乃の仕事ぶりを否定しているわけではないらしい。
それを知り、令も怒りの刃を鞘に納めた。
「でも、そういうことじゃないのよ」
「では、どういうことです?」
どうにもお二人の発言の意図が読めず、質問ばかりを繰り返してしまう。
「今の貴女たちの関係は、決して良い方向には向かわないと思うの」
「だから、一端距離をとって互いを見つめ直せ、と?」
発言の意味は汲めても、その理由はわからなかった。なぜ、お二人はそんなことを言うのだ。離ればなれになる必要はあるのか。
第一、そうなったとして、由乃はどうなる。
由乃と距離を置くなんて、今まで生きてきて考えたこともなかった。
だって。
「……私がついてあげないと、由乃はだめなんです」
真顔で答える令に対し、お二人は呆れた表情を浮かべて、声を揃えた。
「それよ!」
「……は?」
令はまたもや、呆然とした。