リリアン女学園高等部、一年桃組の教室。
深い色の制服に身を包んだ無垢な天使たちが、学校新聞「リリアンかわら版」を手に、机を囲んで何やらきゃいきゃいやっている。
「聞きました? 黄薔薇のつぼみが由乃さんを妹にしたんですって」
「ええ、もちろん!」
「由乃さん、お美しくていらっしゃるものね。あの凛々しい令さまにお似合いですわ」
「でも由乃さんって、病弱でよく学校をご欠席なさるのよ? そんな人に黄薔薇のつぼみの妹が務まるのかしら」
「そうなの?」
「ええ、由乃さんは原因不明の病にかかっているそうよ」
「まあ、原因不明だなんて。お可愛そうに」
「あら、確かに由乃さんは病気で学校を休みがちだけれど、とっても頭がいいのよ。今まで常にトップの成績でしたし、問題ないのではなくて? それに由乃さんは、中等部の剣道部でマネージャーとしてずっと令さまを支えていたもの。由乃さん以外に令さまに見合う方なんていないと思うわ」
「まあまあ、そんなに熱くならないで。彼女令さまのファンだから、由乃さんに嫉妬しているだけなんです」
噂好きの乙女たちが、言いたい放題言っている。
「早くも黄薔薇のつぼみの妹誕生」のニュースがかわら版で報道されてからというもの、高等部はこの話でもちきりだ。
いかに由緒正しいお嬢様学校の生徒といえども、噂話とは無縁ではいられない。
噂というものは得てして、当事者の預かり知らぬところで膨らんでいくもの。
はてさて、この次はどんな噂が生まれることやら。
――
春。
高等部入学式が終わってすぐに、黄薔薇のつぼみ――支倉令は一年生の島津由乃を妹にした。
病弱で人と接するのも得意でない従姉妹を山百合会に引きずり込むのは心苦しかったが、お姉さま方は無理させなくてもよいと言ってくださった。
だから令は安心して、発熱のために入学式すら参加できなかった由乃の首にロザリオをかけてやり、姉妹の契りを交わしたのだ。
今のところ、由乃はよくやってくれている。
その身体のせいで休みがちだったにも関わらず、由乃はずっとトップクラスの成績を維持していた。無理して夜遅くまで勉強しているのではと心配したこともあったが、どうやらそうではないらしい。
由乃曰く、毎日ちょっと予習・復習をすれば問題ないのよ、とのことだ。本当に、勉強面に関してはあの愛しい従姉妹に全くかなわない。
それに加えて、由乃は生粋の読書家で知識も豊富だから、そつなく仕事をこなしている。
はじめは知らない人に囲まれ身を固くしていた由乃だったが、令が見守ってあげる形で隣に座ってあげたから、なんとか馴染んできていた。
だから。
――由乃も山百合会でうまくやっていけそう。
令はそう一安心していたのだった。
――
由乃が紅薔薇さまと黄薔薇さまに呼び出されたのは、新入生歓迎会から一週間ほど過ぎたある日の放課後のことだった。
今日は由乃共々剣道部へ赴くつもりだった。令はもちろん、部員として。由乃はマネージャーとして。その出鼻を、見事挫かれた形である。
召集を受けたのは由乃だけだったのだが、由乃のことが心配なのに加えて少し嫌な予感がしたから、当然のように令も付き添った。
ただでさえ、同じ校舎に由乃のいない一年間を過ごしてきたのだから、少しでも由乃と一緒にいたいという思いもあったから。
そして、薔薇の館にて由乃はお茶さえ入れる暇もなく、頼まれたのだ。新入生の藤堂志摩子さんを薔薇の館へ連れてくるように、と。
「由乃が藤堂志摩子さん……を?」
一番動揺したのは、当人の由乃よりも令の方であったかもしれない。
そりゃ。
由乃は山百合会唯一の一年生だから。新入生の志摩子さんを薔薇の館に招待するのならば、由乃が駆り出されるのは当然の話だ。
でも、由乃は……。
「なに、不満なの、令?」
令がわずかに顔をしかめたのを見逃さなかったであろうお姉さまが、訝しげに尋ねた。
「い、いいえ……そういうわけでは」
「そもそも、今日令は呼んでいなかったわよね?」
「それはっ……その……」
お姉さまに言われ、令は恐縮するばかりだ。
「なぁに、そんなに由乃ちゃんが心配なの? 私、嫉妬しちゃいそう」
姉バカねえ、とお姉さまはからかうように笑い飛ばす。
羞恥で令の頬が、かあっと赤くなった。
「お、お姉さまっ」
「……まあまあ、当人を無視して熱くなるのはやめましょう。改めて確認するけれど、由乃ちゃん。今日は体調いいのよね?」
紅薔薇さまが、論点がずれてきているのをすかさず修正してくださった。正直、助かった。
面白そうなモノを見つけたお姉さまはもう、止まらないから。
「は、はい」
由乃はか細い声で頷いた。確かに由乃のいう通り、体調が悪いわけではないのだ。
「じゃあ、問題はないわよね、令?」
紅薔薇さまが再び了解を求める。
令としても、もとより薔薇さま二人を相手に声を大にして反対するつもりはなかった。
ちょっと由乃が心配なだけだったから。
「そうですね……大丈夫? 由乃、行ける?」
「う、うん……」
戸惑いぎみに答える由乃を見て、令はふと、思い付いた。
しかと薔薇さま方に向き合い、口を開く。
「あの、私も付き添ってよろしいですか」
いいながら令は席を立ち、由乃の腰に手を回し、抱き寄せる。
「だめよ」
しかし紅薔薇さま、にこりと笑ってこれを切り捨てた。
「なぜです?」
「あなたには別の仕事をしてもらいたいのよ」
お姉さまにもそう言われ、渋々腰を下ろす。
「別の……?」
「ええ。そうね……志摩子ちゃんにもてなす紅茶の準備とか」
明らかに今思い付いたような口振りだが……仕方ない。自分が我が儘を言っていることも分かっているので、令は潔く引いた。
「……わかりました」
令たちの問答が終わり、場の空気を見計らっていたのだろう由乃は、ゆったりと足を踏み出した。
「では……志摩子さんを連れてきますね」
「由乃、気を付けてね」
何をそんなに心配しているのだろう。自分でも思う。薔薇の館から桃組の教室へ向かうだけだし、目的は一年生を連れてくるだけなのだ。何も懸念する点などないはずだ。そうだ、問題ない。
きぃー……ぱたん。
考えているうちに、由乃は部屋を出て行ってしまった。
なるべく音をたてないよう努めたのだろう。扉はゆっくりと閉じられた。
古びた階段が軋む音が、だんだん遠ざかっていく。
その音も聞こえなくなってから、令はようやく席をたった。
仕方ない。さて、流し台でお紅茶の準備だ。
由乃は温かいアールグレイティーをとても気に入っていて、令がよく入れてあげている。由乃はティーポットでちょっと長めに置いておいた濃い目の紅茶が大好きだ。
だから、薔薇の館で私が用意する時は、ついつい由乃好みの濃い紅茶を入れてしまうことがままある。
志摩子さんの好みがどんなものかわからない以上、癖の強いのはやめておいたほうが無難だ。普通に入れて、普通の紅茶を堪能してもらおう。
なんて考えていたら、自然と顔が綻んだ。
紅茶とかお菓子とか好きな令だから、何だかんだいっても、この時間を楽しんでいるのだった。
そうしているうちに、十五分ほどたった頃だろうか、ちょっと遅いなと思い始めた時に、扉がノックされた。
「あ、あの……藤堂志摩子さんをお連れしました」
外からは、儚さすら覚える声。由乃が帰ってきたのだ。
「ご苦労様、入っていただいて」
紅薔薇さまのやわらかい返事の後、ゆっくりと扉が開かれる。おずおずと、その後ろの少女――藤堂志摩子さん――が由乃に促されて入ってきた。
「藤堂志摩子です」
そう挨拶して、志摩子さんは綺麗にお辞儀した。
ふわふわ巻き毛のブロンドヘアーに加えて、その非常に整った顏は、そう、まさに西洋人形のよう。由乃ほどではないが、美しい女の子だった。
紅薔薇さまと黄薔薇さまが立ち上がり、志摩子さんを迎え入れる。令もそれに続けとばかりに席を立った。
「お呼びだてして、ごめんなさいね」
「ちょっとお話を伺いたくて」
お二人が客人を半ば強引に座らせている間に、令は紅茶の準備に取りかかる。
そこに、背後から由乃に声をかけられた。
「あ、私が……」
紅茶を淹れるのは自分の仕事なのでは、と思ったのだろう。
「いいから。由乃は座っていて」
しかし令はそれを突っぱねて、志摩子さんの席から一つ飛ばして右隣の椅子に座らせた。
最近由乃には山百合会という慣れない場所で無理させているから、志摩子さんと一緒に紅茶を飲んで、日々の疲れを癒してもらいたいと思ったのだ。
「うん……ごめんね」
令は四人分の紅茶 ――茶葉の芳しい香り漂うあつあつのアールグレイを、カップに注ぎ、皆様に提供する。
そしてすぐさま令も、由乃の隣の席についた。お二人に余計な口も挟まず、黙ってお話の行く末を見守る。
令も何故志摩子さんを此処へ呼び出したのか知らずにいたのだが、どうやら彼女に山百合会のお手伝いをしてもらいたいという話らしい。
しかし志摩子さんの表情を見る限り、どうも開口一番に「わかりました」では終わりそうになかった。その顔には明らかに戸惑いがある。
「お話はわかりました。でも、なぜ私が」
訳もわからず薔薇の館に連れて来られた哀れな一年生は、当然の疑問を口にした。しかし悪戯好きなお姉さまは、それを自らが楽しむ機会と見て、からかいにかかる。厳正なる抽選で選ばれた、とかなんとか。志摩子さん、見事にお姉さまの術中に嵌まってしまった。
そんな中。
由乃は、空になった自らのティーカップを手に取った。同じく中身のなくなった志摩子さんのカップも持って、立ち上がった。
それはもちろん、流し台で洗うためであろう。
「お下げしますね」
にこりと微笑んで、歩きだす。
その時だった。
ばん! と先程由乃がゆっくりと閉めていった扉が、今度は乱暴に開かれた。あわやおんぼろ扉が壊れてしまったのでは、と危惧するほどの凄まじい勢いである。
「ひっ!」
令でも思わずびくりとするほどだったのだ。
元々ちょっと臆病なところがある由乃は、非常に驚いたんだろう。小さく、それでいて明確な脅えを感じ取れる悲鳴を上げた。
「なにやっているのよ!」
同時に、部屋へ入ってきた白薔薇さまの絶叫が部屋に轟く。
唐突な白薔薇さまの登場、そして怒りを孕んだ声に、由乃の驚愕はいよいよピークに達してしまったのだろう。
内心はどうあれ表向きは優しいリリアンの乙女たちに接してきた由乃が、ここまでの怒気を目の当たりにするのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。
持っていたティーカップは見事に由乃の手をすり抜け、床に直撃し――ばらばらに割れてしまった。
「由乃っ!」
白薔薇さまの乱入に戸惑っている余裕は、令にはなかった。
割れた食器の破片が、由乃の柔肌を傷つけてしまったら。
その傷口から菌が感染してしまったら。
そんな恐怖が、真っ先に令の心に芽生えたから。
「ご、ごめんなさい、令ちゃん。ごめんなさい……」
取り乱した由乃は令のことを「お姉さま」と呼ぶことすら失念してしまっていたが、流石にこの状況で注意する者はいない。
「ううん。それより、怪我はない?」
「あ、う、うん……」
幸いなことに由乃の身体には傷一つなく、令はほっと安堵の息を吐き出した。
「良かった……」
令の安堵の一声に、一瞬固まっていたお姉さまと紅薔薇さまも事態の収拾を図るため、すぐさま立ち上がる。
この騒ぎにより、白薔薇さまの怒りもある程度収まったようだ。我に帰り、由乃を心配する余裕すら見せている。
「由乃ちゃん、ごめんなさい、驚かせてしまって……大丈夫?」
「はい……すみません」
白薔薇さまはとりあえず由乃を座らせて、何が起きたのか分からず呆然としている志摩子さんを睨み付けた。
「とりあえず……出て行ってもらえない?」
「は?」
「あなたよ。聞こえないの?」
「でも」
「お願いだから……出て行って」
目を丸くしている志摩子さんにそう命じる白薔薇さまの声は、悲しげで泣いているようにも感じた。
そんな白薔薇さまを見かねた紅薔薇さまが、口を挟んだ。
「言う通りにしてあげて。こんな騒ぎになってしまって、ごめんなさいね。由乃ちゃん、志摩子ちゃんを送ってあげてもらえるかしら」
頷いて、由乃は再び立ち上がった。
「はい……い、行きましょう、志摩子さん」
志摩子さんを連れて、由乃が外に出て行く。
片付けに集中していたのと、由乃に怪我がなかったことに安心しきっていたのと相まって、令は由乃の表情に陰りが見えたのを気づくことができなかった。
「よ、由乃さん!」
――志摩子さんの焦燥を含んだ叫びを聞いたのは、それからすぐのことだった。