そして、いよいよその日はやってきた。
私の体調を考慮しての調整だったから、令ちゃんが一足先に剣道を習いはじめることになってしまったのは残念だったというほかない。
稽古を終えて帰ってきた令ちゃんがへとへとに疲れきっているのを何度か見ていたから、心の奥から沸き起こるワクワクを抑えるのは大変だった。 だから今日という日を、私は今か今かと待ち望んでいたのだ。
朝、令ちゃんの迎えで家を出て、道場へと向かう。
その更衣室で、令ちゃんはぴかぴかでまだ解れひとつない新品の剣道着に着替えて、私はジャージに着替えた。さあ、準備万端だ。
「お互い、頑張ろうね」
なんて笑いかけてくれる令ちゃんの手を握りしめる。
道場に入っていく令ちゃんの隣について、私も中へ足を踏み入れた。
そこではすでに、稽古が始まっていた。
「わ……」
幾人かの男性女性が入り交じって、打ち込み稽古を行っている。気迫のこもった発声と、激しい剣戟の音が道場に響く。
剣士たちの汗が染み込んだ、独特の匂い。
前世の時散々堪能していた、そして今でもなお渇望する懐かしき雰囲気が、そこにはあった。
素晴らしい光景を目にし、一筋の涙が流れる。抑えつけてきた剣道への欲望が、ここにきて一気に解放されたのだ。
ああ、剣道って、やっぱりいい。
「由乃、どうしたの? 怖くなった?」
一歩入ったところで立ち尽くし、涙までこぼす私を心配してくれたのか、令ちゃんがこちらを見つめている。
余計な不安を与えてしまったと、私はあわてて首を横に振った。
「ううん……大丈夫」
「そっか、辛くなったらすぐ言ってね?」
令ちゃんが殊更に真剣な顔になるから、私も顔を強張らせて頷く。
二人で見つめあうのもそこそこに、私たちは指導を行っている叔父さんのもとへ向かった。
「由乃ちゃん、よく来たね」
いつもと違って、年季の入った胴着を着て防具をつけた叔父さんが、笑って迎えてくれた。その口許なんかが、令ちゃんそっくりだ。
「由乃ちゃん、絶対に無理は禁物だよ。君のお母さんにも、しっかり念押しされたからね。厳しくいくよ」
私のこと、お母さんはちゃんと根回ししてくれていたらしい。またも釘をさされてしまった。
そして叔父さんは、道場に置いてある竹刀を快く貸してくれた。邪魔にならないように、空いているところで竹刀を握り、構えてみる。
ぎゅっ。
手に馴染む竹刀の感覚が、ひどく懐かしい。元々自身の一部だったように、身体に浸透していくような心地だ。
「おっ、由乃ちゃん、構えは綺麗だね。姿勢もいい」
叔父さんからはお褒めの言葉を頂いたけれど、それに返答する余裕は私にはなかった。一瞬にして、魅せられてしまったから。竹刀を握り、そして再び振ることができる、その幸福に。
いち。
に。
さん。
竹刀を振り上げ、まっすぐ降り下ろす。
その一連の動作に、全神経を費やす――ああ、気持ちいい。
「ふむ、中々筋がいいね」
やはり返事はできない。
はあはあと荒い呼吸をしながら、静かに、私は振り続けた。
一通り私に軽く教えてから(既に知っていることだったけれど)、叔父さんは「さて」と表情を変えた。
「では、皆の指導に戻るとしよう。何かあったらすぐにいいなさい」
「気をつけてね、由乃」
そうして各々の稽古のため離れていく背中を見送り、素振りを再開する。
いち。
に。
さん。
私は無心になって、ひたすら竹刀を振った。
素振りだけでも、ここまで気持ちが昂るのだ。
ああ、防具を着けて打ち込むことができたら、どんなに楽しいだろう!
いち。
に。
さん。
いち。
に。
さん。
物足りなさは感じつつも、私は夢中で素振りを続けた。
空気を裂く音が、私の感情を揺さぶる。
――楽しい、楽しい!
その思いだけが、私の心を支配していた。
「……っあ……」
しかし限界は、突然やってくるものだ。
唐突に腕に力が入らなくなって、握っていた竹刀はあっさりと床に落ちた。
腕が痙攣し、ぷるぷると震えている。
私は、立ち眩みを起こしてしまったのだ。体調は良かったはずなのに、視界がぐらつき、足元はおぼつかなくなる。
倒れる――!
そう思った瞬間、私は令ちゃんに肩を抱かれていた。
令ちゃんは叔父さんに指導を受けていたはず。それを中断してすぐに駆けつけてくれたわけだ。助かったという喜びより、申し訳なさが先に立つ。
「っと……大丈夫、由乃? もう、無理しないでって言ったじゃない」
「ご、ごめんなさい……」
「由乃ちゃん、大丈夫か?」
令ちゃんだけでなく叔父さんまで心配して来てくれて、完全に稽古は一時中断してしまった。
二人に添われて、私は道場の隅に腰を下ろす。
喉元まで嘔吐感がのぼってきて――うう、気持ち悪い……。
「ほら、これ飲んで」
あらかじめ用意しておいたスポーツドリンクを令ちゃんに飲ませてもらう。冷たい液体は喉を潤し、気分を幾分か楽にしてくれた。
でも。
きっと――今日はもう、素振りも厳しいだろう。
「由乃ちゃん、お家帰るかい? 送って行くよ」
叔父さんは親切にそう言ってくれたけれど。
せめて、稽古の様子を見学するくらいはしたいと思った。
「いえ……まだ、皆さんの稽古を見たいから」
「そうか、体調が悪化したらすぐ言いなさい」
令ちゃんに背中を擦ってまでもらって、だいぶ楽になったのはいいけれど――気持ちは落ち込む一方。次第に暗鬱とした思いに、囚われていく。
せっかくお母さんに許してもらったのに、って。
それでも私の事情で、令ちゃんの邪魔だけはしたくなかった。
「ありがとう……令ちゃんのおかげでだいぶよくなったよ」
「もう、大丈夫?」
「うん、もう平気。稽古に戻っていいよ。私は……見学してるね」
それでも渋る令ちゃんだけれど、結局、叔父さんに言われて仕方なく私の側を離れた。
一人になって、私は道場を見回す。
皆、汗水流して熱く剣を振り交わしている。そのなかで、私という存在だけが異質だった。
――そのうちに、打ち込み稽古は終わり、次の稽古へと移っていく。熟練者は掛かり稽古を行い、その間に初心者は素振り・踏み込みの基礎練習を行うようだ。
もちろん令ちゃんは後者。熟練のおじさまから直々に、指導を受けるわけだ。
通常の正面素振り、跳躍素振り、上下素振り、左右素振り等一連の素振り練習とか。
真っ直ぐ竹刀を振りながら、足を踏み込む練習とか。
そんな基礎中の基礎だけれど、だからこそ将来的にも活きてくる、とっても大事な練習だ。
なのに令ちゃんときたら、何か余所見していたりと心ここに在らずって感じで、すごく危なっかしい。
それに、まだ始めたばかりだから当然と言えばば当然なんだけれど、構えも姿勢も拙い。
踏み込みは浅いし、左の踵も床に着いちゃってる……もう、もう!
「令ちゃん……右手に力が入りすぎてるよ」
見かねて、思わず私は口に出してしまった。
「え?」
まさかまさかの私からのダメ出しに、令ちゃんは開いた口がふさがらないご様子。
それを良いことに、私は更に続けた。
「それに、左の踵は床についていたら駄目だよ。あと、令ちゃん。もっと声出さなきゃ。それじゃあ試合で一本なんて取れないでしょ。気合いが足りないよ、気合いが。それに――」
剣道に関することになると饒舌になってしまって、収拾つかないくらいべらべらと語り尽くしてしまう。
「よ、由乃?」
そんな戸惑いを含んだ令ちゃんの声に、ようやく我に帰ったけれど。
気づけば、怪訝そうに私を見つめる――視線、視線、また視線。まさに今、自分は注目の的となっているのだと、否応にも悟らされる。
どくん。
私は心臓が途端に早鐘を打ち始めるのを自覚した。
――やってしまった。
剣道の事となると、つくづく私は周りが見えなくなるらしい。
初めて竹刀を握った、それも病弱で剣道とは無縁であろう少女が偉そうに指摘するなんて。
不審に思われないわけがない。
敵意とも取れる数々の視線に脅え、一挙に顔が赤らむ。
やめて。
お願いだから、そんなに見ないで。
怖い。
怖いよ……。
「由乃、分かるの?」
「え?」
本人にその気があったかはわからないけれど、救いの手を差しのべてくれたのは令ちゃんだった。
それこそ数秒間は理解が追い付かず、言葉を発することが出来なかった。
「あ……う、うん……えと、ほ、本で読んだことがあって……。えへへ、自分では出来ないんだけどね」
ようやく理解してもなお、言葉が出てこず返答に窮してしまって、自分でもよくわからないことをぼそぼそと呟いた。
「ほう……由乃ちゃん、やるじゃないか。さっきの指摘は的を射ていたよ」
叔父さんに言われて、ますます赤くなる。
「令、稽古はちゃんと集中してやりなさい」
叔父さんの標的は、今度は令ちゃんへと移った。
令ちゃんはしゅんとなって、「はい……」と落ち込んでしまった。肩を落として悲しげに叔父さんの言葉に耳を傾けている。
悪いことをしてしまった、なんて、ちょっぴり罪悪感に駆られたけれど。
令ちゃんの言葉と叔父さんのお説教のおかげで、私への視線はいつのまにか散り散りになった。
だから、私はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
反省した私は、余計な口出しをしてしまわないよう努めて、その場に静静と座し、沈黙を保っていた。口を閉ざし、無心になって稽古を眺める。
そうして、三時間ほどが経過して。
叔父さんの声かけにより、ついに稽古は終幕を迎える。幸いなことに、その間に体調は朝の良好状態と何ら遜色ないくらいに回復していた。
「令ちゃんっ。はい、これ」
汗で前髪が額に張り付いているのも、これはこれでなかなか蠱惑的で良いなと内心思いながら、稽古終わりのお疲れ令ちゃんにタオルを手渡す。
「ありがとう」
令ちゃんの汗を拭いて、乾いた喉も潤したら、早々に更衣室へ。
着替えを済ませて道場を出れば、いよいよお待ちかね、昼食のお時間だ。
令ちゃんと私、二人での初稽古はこうして終わったのでありました。
――
次の日。
案の定、私はがっつり体調を崩した。高熱に倒れ、朝からずっとベッドから出られずじまい。当然リリアンには行けるわけもなく、お休みすることとなった。
お母さんにはこっぴどく叱られた。無理しないって言ったでしょ、って。
私自身反省していたから、それも甘んじて受けた。
言い訳にしかならないけれど、私としては無理をしたつもりはなかった。
お母さんや令ちゃんと約束した通り、やるのは素振りだけに留めていたのに。
それも、それすらも満足に出来ないのは、この忌まわしき弱い体。この身体のことを、私は分かっているつもりで全然分かっていなかった。
ああ、身体が熱い。
さっき体温を測ったときには、四十度一歩手前だった。
呼吸は乱れ、思考はぐちゃぐちゃに混濁している。
薄ぼんやりとして朧気な視界に、ふと、人間の輪郭がぼおっと浮かび上がった。
誰――?
疑問が浮かぶも、すぐに氷解する。それは私を深き安堵へと誘う、令ちゃんの顏だった。
「由乃」
その瑞々しい唇から、私の名前が紡がれる。
「れ、令ちゃん……?」
発する声すら震えてしまい、その響きも明瞭としない。
けれど令ちゃんは、私の手を握ることでしっかりと答えてくれた。
そこでようやく、ここにいる令ちゃんは幻影ではなく本物なんだって、気づくことができた。
「令ちゃん、私って本当にだめだね……ちょっと素振りしただけで、こんなになっちゃうんだもん。笑っちゃうよね」
本物の令ちゃんに、私は胸に蟠る思いを苦しみの中、吐露する。
「そんなことない、由乃はすごいよ」
「……えへへ、ありがとう。慰めてくれて」
「慰めなんかじゃない、本当のことだよ。由乃は私なんかより剣道のこと詳しいじゃない。あんなに的確なアドバイス、私にはできないもの。だから、由乃はすごい」
「……そ、そんなの」
前世でやってきたのだから当たり前だ、なんて言えるわけない。
いまいち納得のいっていない私に、令ちゃんは「由乃は」と笑った。
「自分を過小評価しすぎ」
「……え?」
「由乃はそうやって自分を卑下するけれど、じゃあそんな由乃が大好きな私はどうなるの」
その言葉に反論できずに口をつぐんでいると、令ちゃんは更に続ける。
「そりゃ、由乃の身体が良くなるなら、それに越したことはないけれどね。そうならなくたって、由乃には良いところが沢山あるじゃない」
「わ、私に……?」
「ええ、例えば……ほら、そのきょとんとした表情とか。すごく可愛いよ?」
「え、あ、う……」
「あ、赤くなった」
そう言われてから、令ちゃんにからかわれたのだと気づいて、更に顔が紅潮した。
「ごめん、冗談よ。でもね、わかる? 私、由乃がいてくれるおかげですごく勇気づけられてるの。由乃のためなら、なんだって出来そうな気がする。私は、由乃の分まで強くなりたい。きっと由乃を守れるくらい、強くなってみせるから」
令ちゃんはそこで一拍おいてから、私を真っ直ぐ見据えた。令ちゃんの瞳に、私の顔が揺れている。
「だから、由乃は私のそばで、昨日のようにアドバイスをしてほしい。そして、時には叱りつけてほしい」
「え、えっと……わ、私でいいの……?」
「うん、由乃じゃなきゃ嫌なのよ」
「そ、そっか……ありがとう、令ちゃん。私、頑張る……頑張るねっ!」
令ちゃんに必要とされるのが嬉しくて、私は頬を緩ませる。
喜びのあまり声を大にしたのがいけなかったのか、
「う……けほっ、けほっ!」
痰の絡んだ咳が連続し、令ちゃんは顔色を変えた。
「大丈夫? ごめんね、寝てなきゃいけないのに」
邪魔してごめん。しっかり寝て、早く良くなってね、って。
私の髪を一撫でして、令ちゃんはそう言った。
邪魔なんて、とんでもない。私だって、令ちゃんがいてくれたおかげで、何度救われてきたことか。
――ありがとう、令ちゃん。
「おやすみ、由乃」
令ちゃんの暖かな腕に抱かれ、私は穏やかな心地で眠りについたのだった。
――えへへ、ご指名受けちゃった。いわば私は、令ちゃん専属のマネージャーになったわけだ。
前世では全然やらなかったけれど、これからは料理も本腰入れて覚えなくては。令ちゃんに差し入れもできないようじゃ、マネージャー失格だもんね。
私はもう、剣道をすることは叶わない。それは分かっている。
でも、前世で参加すら出来ず終わった全国大会だって、令ちゃんならきっと代わりに成してくれる。だから、私はそのお手伝いをするのだ。
令ちゃんという美しい女優を照らす、舞台照明。私はそれになろう。
令ちゃんの剣道を支える、裏方。そんな道も、案外悪くないかも。
だって、ずっと令ちゃんと一緒にいられるんだから。