それは、小学部に入ったばかりの頃の話だ。
令ちゃんには私が必要で、私には令ちゃんが必要なんだって、改めて認識させてくれた、かけがえのない思い出。
私たちは付かず離れず一心同体なのだと、あの時は心から思うことができたのだ。
――
「え……剣道を?」
その日、令ちゃんは学校から帰ってきてすぐに私の部屋へやってきて告げた。
剣道を始める、と。
「うん、今度から家の道場で、ね」
分かってはいた。支倉家が剣道道場をやっている以上、遅かれ早かれ、いつか令ちゃんは剣道をはじめることになると。
なにもおかしくない。
ないのだけれど、何かすごくもやもやする。
「……私もやりたい」
仕方のないことだと分かってはいても、令ちゃんだけずるいという思いは隠せなくて。
気付けば、私はそれを口に出していた。
「えっ」
令ちゃんがぽかんとしている。
なにもかもさらけ出している私と令ちゃんだけれど、異常ともいえるであろう剣道への執着を話したことはなかった。
「だって……私もやりたいもん、令ちゃんだけずるい」
だから、そんなに剣道やりたいの、って驚いてるんだろう。
頬を膨らませて、私は令ちゃんの腕を掴み、抱き留めた。私の弱い力じゃ何の拘束力もないけれど、それでも、ぎゅっと包み込む。
剣道ができなくても、令ちゃんがいたから私の心の平穏は保たれていた。
けれど、令ちゃんが剣道、を始めるとなったら、嫉妬心が芽生えてしまうのはしょうがない。
だって、剣道と令ちゃん、どちらも好きなんだから。
そして、私の預かり知らぬところで令ちゃんが熱く打ち込んでいるのがいやなんだ。
私も同じところで、同じ空気を吸っていたかった。
「だって、由乃は……」
令ちゃんはそうやって言葉を濁した。
由乃は身体が弱いから無理だよって、正面切って現実突きつけるのは憚られたんだろう。
身体が弱いのは、当人である私だってよくわかってる。ましてや剣道なんて、できるわけないって。
それについてはもう、虚弱体質が判明した時点でさんざん泣きはらしたくらいには思いしらされている。
「わ、分かってる。分かってるけど……でも、私だって」
「……はぁ」
寄りすがってさんざんごね続ける私を、重い溜め息をついて見下ろす令ちゃん。困っているのがありありと分かる。
令ちゃんを困らせたかったわけじゃないのに。
「あのさ、由乃……」
令ちゃんはきりりと真剣な表情を浮かべた。
なにを言われるのだろう。
嫌われるかもしれないと思うと怖くなって、令ちゃんの言葉の途中で手のひらを返すように謝った。
「……わがまま言ってごめんなさい、令ちゃん。嫌いにならないでっ」
怯えるあまり、令ちゃんの腕を一層強く抱きしめる。
暫し間をおいてから、令ちゃんは再び溜め息を吐いて、もう片方の手で私の頭を撫でてくれた。令ちゃんの繊細な指が、私の髪一本一本の間をさらさらと流れていく。
その心地よさに私は思わず目を細めた。
「……嫌いになんか、なるわけないじゃない。それだけは、絶対にありえない」
「うん……ありがとう」
私よりも背が高くて体格のいい令ちゃんの四肢は、ぽかぽかあったかくて、抱きしめられるととても気持ちいい。お母さんには悪いけれど、人肌が恋しくなったら、私はお母さんよりも令ちゃんに抱きしめてもらいたいと思う。
令ちゃんの包容力は、この年にして私のお母さんを越えているんじゃないだろうか。いや、それは言い過ぎか。
ほら、いつしか潤みかけていた涙もひっこんでいる。
「あのね、私だって由乃と剣道の稽古を一緒にできたら嬉しいよ。でも、そのせいで由乃が倒れちゃったら、みんな悲しむよ」
令ちゃんは優しい声音で語りかけてくる。
こんな風に諭されると、はいと言わざるを得ないような妙な説得力を感じる。
「……ごめんなさい」
「でも」と令ちゃんは言葉を継いだ。
「……まあ、ちょっと素振りするだけとかなら、叔母さんだって許してくれるんじゃない?」
甘える私に、令ちゃんは妥協案としてそう言ってくれた。
「そ、そうかな?」
恐る恐る令ちゃんの顔を見上げる。
「私だって一緒に頼んであげるから」
「……ありがとう、令ちゃん。大好きっ」
「ただ、先に言っておくけれど、絶対に無理は禁物だからね。約束できる?」
「……はーい」
「じゃあ、お願いしに行こっか」
「うんっ」
二人寄り添って、私たちはうきうきと部屋を出た。
――
「剣道をやりたい?」
そんなこんなで令ちゃんと一緒にお母さんに直談判しに行ったのだけれど、やはりというか何というか、お母さんは難色を示した。
「う、うん……」
激しい運動はもっての他な私だから、何寝言言っているんだという感じで、お母さんは明らかに否定的だ。
素振りとかちょっとしたものに参加するだけだからと、懸命に説得を試みる。
「ぜ、絶対無理しないから……」
「私からもお願いっ」
令ちゃんまで、しっかりと頭を下げてくれた。二人して、それこそ土下座せんばかりの勢い。
それに圧倒されたのか、お母さんは押されぎみだ。
「令ちゃんまで……私も、いい、って言ってあげたいけれどね……」
令ちゃんの妥協案も提示して、いい流れになっていたのに、お母さんはやはりどこか不安そうだ。
やっぱり母親としては心配なんだろうな。なにせ、こんな身体だし。
「私がちゃんとそばについているから! それに、お父さんだっているし」
令ちゃんはまるで自分のことのように必死で、それにつられて私の語気も強まった。
「……お、お願い!」
深々と頭を下げる。
思えば、生まれ変わってからここまで必死に頼み事をしたことはなかった。
らしくないと怪しまれているかもしれない。
なんて考えてたら、頭をわしわしと撫でられた。
令ちゃんにお母さんにと、私は何かと撫でられやすいらしい。心地よいからいいんだけど。
訝しんでいると、お母さんは何故か笑いかけてきた。
「はぁー……分かったわ」
いよいよ根負けしたのか、お母さんはついに認めてくれた。表情がぱっと華やいでいくのが自分でも分かる。
「貴女がここまで頼んでくること、今までなかったものね」
「ほ、本当にいいの?」
「ええ、いいわよ」
「ただし」と、お母さんは真剣な表情で付け加えた。
「絶対に、無理しちゃダメよ。ちょっとでも辛くなったら、すぐやめなさい。もちろん、貴女がさっき言った通り、やるのは、素振りとか簡単なものだけ。大丈夫そうだからって調子に乗ったりしないこと。いい、約束できる?」
「う、うん」
「それなら、よし! 頑張りなさいね。令ちゃん、よろしくね」
「はい、ありがとう、叔母さん」
「令ちゃんっ」
嬉しさのあまり、私は半泣きになって令ちゃんに抱きついた。
認めてもらえないだけならまだしも、叱られたらどうしようって、かなり気を張っていたのだ。
緊張の糸が切れて、涙が溢れだす。
「良かった、良かったよぉ……」
「うん……良かったね、由乃」
「大袈裟ね、由乃は……むしろ、もっとわがままを言ってくれてもいいのよ?」
令ちゃんからも、お母さんからもなでなでされて。
私は幸せ者だなあって心から思った。
転生してから、この私にはもったいないくらい素敵な家族に、不満なんて持ったことはない。あるとすれば、剣道ができないことだけだから。
だから我が儘言ったことなんて、殆どなかった。
でもそれは、私が精神的には子供じゃなかったから、年相応に駄々をこねたりしなかっただけの話。
「貴女は本当に手がかからない子だわ。いつも落ち着いているし、体調がいいときはお手伝いだってしてくれる。貴女みたいな娘を生んで、私は本当に幸せ」
なのに不相応に褒めちぎられて、私は嬉しいというより困惑していた。
「けれど、私はもっと由乃の我が儘を聞きたいの。あれがほしい、あれが食べたいって、もっと言ってくれていいのよ」
「えと、うん……が、頑張るね」
戸惑いの中なんとか言葉を紡ぎ出すと、今度は令ちゃんがぷっと吹き出した。
「ふふ、由乃はいつも文句一つ言わないものね。だから今日、あんな風に我が儘言われて新鮮だったよ」
令ちゃんまでお母さんの言葉に乗っかって、からかってくるから。
「も、もう、令ちゃんまでっ!」
むきになって声を荒げるも、「はいはい、かわいいかわいい」って軽くあしらわれる。
挙げ句にまた頭を撫でまわされて、あっさり尻尾振ってしまう私……なんて情けないんだろう。
「うふふ……」
お母さんはそんな様子を、温かく見守っていた。