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――あれ?
覚醒して最初に覚えたのは、体が自分のものでないような、奇妙な違和感。
意識ははっきりせず、どことなくもやもやしている気がする。
体も思うように動かない。
それでも――私には意識があったのだ。
私は助かったのだろうか。すると、私はまだ剣道を続けられる?
小さな希望が芽生えかけたその時、
「女の子ですよ!」
祝福するような、優しい声が近くで聞こえた。
知らない人の声に、私は盛大に驚いた。
だ、誰?
「ええ! 私の娘――」
今度先程とは違う、慈愛に満ちた聖母のような声がかけられた。
やはり体は動かないが、そっと視線を声の主の方へと向けると、まだ若々しい女性の姿があった。
「名前はもう決めてあるの。由乃――あなたは由乃よ」
その女性は花が開くような微笑みで私を見つめている。
ど、どなた?
ここ、どこ?
私は――誰なの?
――
しばらく考えていたからか、次第に心は落ち着いていき、冷静になれた。
周りの様子を鑑みるに、どうやら私は今赤ん坊になっているらしい。
どこからどうみても、正真正銘の赤ん坊になってしまった。自分の目で確かめたのだからそれは間違いない。
つまり、私はやっぱりあの時死んだのだ。
そして再びこの世に生を受けた。そう考えるべきではないだろうか。
それならば、あの事故で助からなかったことも、もはやそれほど悲しくはない。
いずれにせよ、剣道を再びやることができるなら、それでいいのだ。
私の生活の中心には常に剣道があって、剣道をやらなければ生きていけないほどだから。
もう一度剣道をやる機会を与えられた。これが嬉しくないわけがない。
転生なんていう非現実的なものを体験してあまり戸惑わずにいられたのは、そういうわけだった。
現世での私は、島津由乃というらしい。
お母さんが嬉しそうに何度も名前を呼ぶし、看護婦さんも「良かったですね、島津さん!」なんて祝っているから、もう覚えてしまった。
島津由乃として、これから私は第二の人生を歩んでいくことになる。とても楽しみだ。
それから、ひどく慌てた様子でお父さんもやってきた。
「由乃、僕がお父さんだよー」
などと緩みきった威厳の欠片もない顔つきで話しかけてくるもんだから、どうしたらいいか分からず困っていると、
「まったく可愛いなあ、僕たちの娘は!」
なにもしていないのに誉められた。何でもいいのか。
「ふふ、甲太さんたら親バカね」
そう笑うお母さんも幸せそうで、あんたも親バカだと言ってやりたくなった。
まあ、そんなこんなで騒々しい時間を過ごし、一週間ほど経って、私たちは退院した。
お母さんとお父さんに連れられて、自宅へと向かう。
到着した家は――なんというか、すごかった。
家が二つあって、それぞれの門はあるんだけれど、一歩入るとその敷地は中で繋がっているのだ。
共通の庭とか、すごく密な二つの家族とか。
ちょっとした二世帯住宅みたいな感じで、私はあまりよく思わないんだけれど、一般的には魅力的なんだろう。
一つはもちろん、我らが島津家。
もう一つが、嬉しそうに語っていたお母さんとお父さん曰く、支倉さん一家の住まいらしい。
話によれば、令という名の一つ上の娘さんがいるのだという。きっと仲良くなれるよ、なんて呑気に言っていたけれど。
……うわあ、嫌だ。
まだ顔も知らないけれど、仲良くなれる気がしない。前世でも、結局友達なんて一人もできなかったのだ。
帰宅する前に憂鬱な案件を持ち込まれて、すっかり気分は落ち込んでしまった。
でも、嫌なことばかりじゃない。
自宅での生活が始まり、早速隣の支倉一家が訪ねてきた。
その時に支倉家の一人娘令さんとも対面を果たしたのだけれど。
まだ相手も一歳だからどんな子かよくわからないが、将来有望な感じの可愛い子供だった。
それよりも重要なのは、その時大人たちとの間で交わされていた会話。それを盗み聞きした限りでは、どうやら、支倉家のご主人は剣道の道場をやっているそうなのだ。
それを聞いた時、私は心から歓喜した。
なんたる幸運か!
ここは剣道をやるにあたって、最高の環境ではないか。
ここでなら、私はもっと強くなれる。そんな確信ができた。
それにしても、赤ん坊は不便だ。
前世の時、赤ちゃんは何も考えず、ただされるがまま、身を任せていればいいのが羨ましいなんて思ったことがあった。それが間違いであったと、年不相応な精神を持って転生した私ならわかる。
誰かの助けがなくてはなにもできないのだ。そのもどかしさを、精神年齢とのギャップ故に感じてしまうのだ。
まだはいはいもろくに出来ないし、用を足すのもできないし、言葉はわかるのに上手く喋れないし――と、ストレス源は列挙すればきりがない。
なにより恥ずかしかったのは、もちろん授乳だ。
なにが悲しくて、他人の乳房を吸わなくてはならないのか。
しかし赤ん坊にとっての栄養源はこれであるとわかっているから受け入れているが、つらい。これ以上の羞恥プレイがあるだろうか。
そして極めつけに、赤ん坊は非常に退屈なのだ。
剣道はもちろん、読書だってできない。お母さんとお父さんが色々構ってくれるけれど精神年齢十八、それも普通の十八ではない私には壊滅的なまでにつまらない。
それをなんとか楽しんでいる風を装うのがまた大変で。それなりに付き合ってあげてから、寝た振りをするのだが、これが面倒臭いとしかいいようがない。
現世のお母さんとお父さんについてだけれど、私にとってはやっぱり他人としか思えない。でも向こうからしたらもちろん、かわいい娘。この壁はどうあっても埋まらないと思う。
でも家族として、それなりには付き合っていかなくちゃいけない。
「うぅ……」
そんなことを考えていると、再び目覚めた時の激しい頭痛がぶり返してきた。
軽快にリズムを刻んでいるみたいに、痛みが押し寄せてくる。
耐え難いものへと、その痛みは強さを増していく。
「うああっ!」
さすがに堪えきれなくて、私は無様に甲高い声を上げた。
「由乃っ! どうしたの、大丈夫?」
異変に気付いて、台所にいたお母さんが血相を変えて駆け寄ってきた。心配そうに、不安の色をその目に湛えている。
自分を案じているその声もどこか遠くに聞こえる。
ふと、額に手を当てられた。
お母さんの手はひんやり冷たくて、辛いのにふっと微笑んでしまった。けれどその笑みも、すぐに苦痛に歪んでしまう。
「すごい熱じゃない……」
お母さんが驚愕して瞠目した。無理もない。
先程まで普通にしていたところに、突然の発熱ときたもんだ。驚かないわけがない。
慌てて冷蔵庫へと走ったお母さんは、私の額に冷えぴたシートを貼ってくれたけれど、それも焼け石に水。
大した効果もなく、すぐに温くなってしまった。
熱い、熱い……。
「はぁ……はぁ……」
体が異様なまでに熱を帯びていくのが感じられる。珠のような汗がぶわっと全身を駆け巡っていく。
熱い、熱い……。
「うあああぁっ!」
柄にもなく、けれど年相応に、私は泣きわめいた。声をあげずにはいられなかったのだ。あまりに苦しくて、辛くて。
「由乃っ! 由乃っ!」
ああ、そんなに強く揺すらないで。
熱い、熱い……。
赤ん坊の私の体では、その激しい頭痛と熱に耐えきれなかったのだろう。
私は前世の最期のごとく、再び意識を失った。
その瞬間。
死――。
その言葉がまた脳裏に過った。