結局私が退院したのは、令ちゃんの試合当日のお昼のことだった。午前は学校で普通に授業があるから、 令ちゃんに会うのは試合が終わった後になるだろう。
私が令ちゃんにロザリオを投げつけてから、今日で十日になる。こんなに長い間互いに顔を合わせなかったことなんて、今までなかった。
でも今なら、それがあったからこそ、私たちの関係はいい方向へ進んだのだと思える。
お母さんに連れられて、私は自分の部屋のベッドで横になった。
退院できたとはいえ、体調が万全になったと浮かれてはいられない。ちゃんと体を暖かくして睡眠を取らないとすぐにまた悪化してしまうから。
だから寝てなさいって、お母さんにも言われていたんだけれど……。
「ね、寝れない……」
とりあえず布団をかぶって寝る態勢にはなったけれど、いかんせんドキドキしてしまって目が冴えている。
大会があるとき、私はいつも令ちゃんのために気合いを入れてお弁当を作っていた。令ちゃん、これを食べれば絶対勝てる気がするって大会の度に言っていたけれど、今日はそれもないわけで。
ああ見えて結構緊張しがちな令ちゃん、大丈夫だろうか。
そんな後ろ向きな考えが次から次へと沸き上がってくるから、眠気など吹き飛んでしまう。
羊を数えたりと古典的な方法も試してみたけれど、うまくいかなかった。
とにもかくにも眠ろうと、目をつむる。
令ちゃん、頑張って。
ああ、今すぐにでも会いたい。試合を見届けたい。令ちゃん……。
――
「……由乃」
どこか遠くで、誰かが私を呼んでいる気がする。
誰だろう。お母さんだろうか。
何か意識もはっきりしないから、よくわからない。
「んぅ……」
軽く肩を揺すられた拍子に、私はゆっくりと覚醒した。
そして目を開けると、そこにいたのはお母さん――ではなく、令ちゃんだった。
なんとベッドのそばに立って、私を見つめているではないか。
「……え?」
理解が追い付かない。
あんなに待ち望んだ令ちゃんが今目の前にいるのに、全く現実味がない。もしかして、私はまだ夢を見ているんだろうか。
「……久しぶり」
優しくにこりと微笑む令ちゃん。この綺麗な笑顔は、流石に夢じゃないような気がする。
ようやく意識もはっきりしてきて、私は理解した。同時に飛び起きる。
「れ、令ちゃんっ!?」
「わっ!」
体調も考えずがばっと飛び起きてしまって、令ちゃんは驚いていた。
「な、なんで?」
「落ち着いて。試合が終わって帰ってきたんじゃない」
そう諭されて、はたと気づく。
「私……寝てたの?」
「うん」
令ちゃんが頷くのと、私が時計を見て現時刻を確認するのはほぼ同時だった。
いつのまにか寝入ってしまっていたのだ、私は。
そのうちに試合も終わって、令ちゃんは帰ってきたというわけか。
令ちゃんがいなくなって散々悩んでいて。
そうして、今ようやく再会できたのに。ああ、何かすごく恥ずかしくなってきた。
「もう、寝ぼけてるの?」
「令ちゃん……」
呆然と呟くと、令ちゃんはベッドに座って私に寄り添った。
「ただいま」
「……おかえりなさい。こんなに会わないでいたの、初めてだね」
後れ馳せながら、私は令ちゃんの「久しぶり」の返事をした。たった十日ほど顔を会わせなかっただけなのにひどく懐かしく思える。
「うん」
……もう、離れたくない。
「令ちゃん、ごめんね。本当にごめんなさい。令ちゃんの気持ちを全然分かってなくて、私あんなこと……」
とにかく謝りたいという思いだけが先走り、言葉が上手くまとまらない。
勝手に思い込んで、突っ走って、怪我して。本当に私は、迷惑も心配もかけまくりだった。
わたわたしてる私の頭を、令ちゃんは久しぶりに撫でてくれた。その優しい手つきも、眼差しも、すべてが懐かしい。
「……今なら、信じてくれる? 私は由乃のことを嫌いになったわけじゃないって」
「うん、わかってる……」
令ちゃんは私を心配してくれたんだ、って。
あのままの関係じゃよくないと思ったから。だから令ちゃんは距離をとろうって言ったんだ。
久しぶりに、私は令ちゃんの腕に抱きついた。
大好き。
ううん、そんな言葉じゃ令ちゃんへの想いは言い表せない。
「世界で一番、令ちゃんが好き……愛してる」
「……私もだよ」
令ちゃんの笑顔が、今はより一層輝いて見えた。
――
その後、令ちゃんから試合の結果を報告された。なんと見事勝利をおさめたらしい。それを聞いて私は心から喜んだ。
「お祝いに、令ちゃんにマフラー編んであげるね」
これから寒くなる時季にぴったりの暖かいマフラー。令ちゃんのために、時間をかけていいものを作ろう。
「いいの?」
「うん。お詫びもかねて、ね」
「それはありがたいけど……無理はしちゃだめだからね。夜更かしなんてもってのほかだよ」
「……はあい」
令ちゃん、まるでお母さんみたい。
ちょっと拗ねて頬を膨らませてみせると、令ちゃんはぷっと吹き出した。つられて私も笑ってしまう。
私は今、すっごく幸せだ。
幸せついでに、令ちゃんにちゃんと言っておかなくちゃ。
「令ちゃん……私、頑張るからね」
山百合会も、部活も、勉強も、友達付き合いも。みんな頑張ってみせる。
胸を張って、令ちゃんの隣に立つために。
「そっか。じゃあ、私はちゃんと見守っててあげる」
「えへへ……それなら百人力だよ」
それから。
私が休んでいる間にあった出来事とか、部活のこととか、色んなことを令ちゃんと語り合った。
空白の時間を埋めるように、ずっと。
「あのね。入院してた時、祐巳さんがお見舞いに来てくれたの」
「うん。今回、祐巳ちゃんにはお世話になったよ」
「祐巳さん、憧れるなぁ」
しみじみと思う。祐巳さんは素敵な人だと。
愛嬌があって、優しくて、すぐ顔に出るところも面白くて。
天使みたい。
「祐巳ちゃんと仲良くなった?」
「うん。祐巳さんって、面白いよね」
祐巳さんは自分にないものをたくさん持っていて、強く惹かれる。
いや、祐巳さんだけじゃなくて、志摩子さんも祥子さまも、白薔薇さまも紅薔薇さまも黄薔薇さまも。
私が目を向けてなかったから気付かなかっただけで、みんな素敵な人たちなんだ。
世界は、こんなに輝いている。
「由乃。あの、これなんだけど」
「あ……」
令ちゃんが鞄から取り出したのは、私が考えなしに投げつけた、あのロザリオだった。
それを両手に持って、令ちゃんは私をじっと見つめた。
「また、かけてもいい?」
そんなの。
聞かれなくとも、私の答えはイエスしかない。令ちゃんがいいというなら、それで。
「私でいいの?」
「私の妹は、由乃しか考えられないよ」
「じゃあ、えと……ふつつか者ですがよろしくお願いします」
そうして、私は本当の意味で黄薔薇のつぼみの妹になったのだった。
――
休日明けの月曜。
ロザリオをしっかり首にかけて、私は令ちゃんと一緒に登校した。しっかり指を絡めて手を繋ぎ、肩を寄せあって。令ちゃんを傍に感じながら歩くのは幸せだった。
そんな私たちを見たリリアンの生徒たちは、ひどく驚いていた。しかし面と向かって問い詰めてくる者はいない。
聞いたところによると、私と令ちゃんの一件は生徒たちの間でとても騒がれていたらしい。だからその二人が復縁し、仲睦まじくしているというのは、それだけで注目されてしまう。
マリア像の前でお祈りする際にも、小さな騒ぎになったほどだ。
それから逃げるようにして菊組の教室に入っても、やはり多くの視線が注がれた。皆、令さまとの一件はどうなったのだと聞きたげな表情を浮かべている。
今回のことについて、ちゃんと皆さんに報告したほうがいい。
自分の机に鞄を置きながら、私は覚悟を決めた。
そのまま席を立って、クラスメイトの視線が集まる中、皆の前に歩み出る。
ごくりと唾を呑み込んでから、私は緊張を押し殺して話しだした。
「皆さま、ごきげんよう。この度はお騒がせしてしまって、申し訳ありませんでした」
深々とお辞儀をする。
何を言われるかな。皆の反応はどうなんだろうと、不安に駆られながらゆっくり顔を上げると。
「令さまとは仲直りなさったの?」
「お怪我はもう大丈夫なの?」
待っていたのは、クラスメイトたちの心配そうな表情だった。
戸惑いつつも、説明を続ける。
「私が至らぬゆえにお姉さまと仲違いしてしまいましたけど、先日再びロザリオをかけていただいたの。怪我も、しっかり治りました」
そう告げると、みんなホッと胸を撫で下ろして微笑んだ。
何か、じわりと涙が滲んできた。
こんなに案じてくれていたんだって。こんなに想われていたんだって。
「あの……皆さまにはご心配おかけしたみたいで」
「ううん、本当によかったわ」
「由乃さんの隣にいる時の令さまって、いつも素敵な顔をなさっているのよね」
「ええ。だからお二人が仲直りしてくださって、本当にうれしいわ」
どうやら、この方々は私たち姉妹を目の保養にしていたらしい。いつも私たちを眺めて、癒されていたんだって。
令ちゃんファンなのだと勝手に思っていたけれど、そうではなかった。彼女達は、自身を黄薔薇のつぼみ姉妹のファンだと言ったのだ。
ともかく、祝福してくれるのはありがたかった。
「あの……令さまと何があったのか、聞いてもいい?」
「……大したことじゃないの。私が勝手に勘違いして、錯乱して、あんな真似をしてしまったんです」
悪かったのは、私だ。そう言うと、深くは追及されなかった。
ともかく解決して本当によかったわ、って。
それでこの件についての話は終わった。そこからは皆さんの雑談に加わって、授業が始まるまで談笑した。
こんなにクラスメイトとお話したのは、初めてだった。
騒がしいのも、案外悪くない。
そうしていつになく楽しい一日は終わり。
放課後、私は薔薇の館目指して廊下を歩いていた。
「由乃さん」
そこに凛とした声がかかる。
「志摩子さん……ご、ごきげんよう」
声の主は、志摩子さん。突然だったから、少々驚かされた。
「ごきげんよう」
私のそばに歩みよって、志摩子さんは微笑んだ。
「今日から復帰なのよね。良かったわ、本当に」
「う、うん。色々と迷惑かけてしまって。ごめんなさい」
「そんな、謝らないで」
「じゃあ……ありがとう」
心配してくれて。
そう言い直すと、志摩子さんは「どういたしまして」って、また笑った。
「薔薇の館に行くの?」
「うん、薔薇さま方にもちゃんと謝らなくちゃ」
「じゃ、一緒に行きましょう」
歩き出す志摩子さんについて、私も足を踏み出したけれど。
ふと疑問が沸いて、ぴたりと足を止めた。
「そういえば、祐巳さんは?」
志摩子さんは祐巳さんと同じ桃組のはずだ。
「ああ。祐巳さん、今日は掃除当番なの」
「……なるほど」
納得して、再び歩き出した。
隣で綺麗なふわふわ髪を揺らす志摩子さんを、なんとなく見つめる。
志摩子さんって、どんな人なんだろう。
私は、志摩子さんのことをほとんど知らない。祐巳さんが祥子さまの妹になるまで、山百合会の一年生として二人でやってきたはずなのに、だ。
いつも凛としていて、上級生相手にも物怖じしないところはすごいと思っていたけれど。知っていることといえばそれくらいだ。
仕方がない。自分から閉ざしていたんだから。
でも、これからは知っていきたい。仲良くしたい。
「あの、志摩子さん」
薔薇の館の前までやってきたところで、私は扉を開けようと手をかける志摩子さんに声をかけた。
「どうしたの?」
「……私、頑張るから」
「え?」
「だから、これからもよろしくお願いします」
軽く頭を下げながら、手を差し出す。
「ふふ。こちらこそ、お願いします」
一瞬面食らったようだけれど、志摩子さんは手を握り返してくれた。
そして気を取り直し、扉を開けて館内へ。
薔薇さま方にご報告したら、次は新聞部にも行こう。
令ちゃんの話によれば、私と令ちゃんの破局に関して、新聞部は何も記事にしなかったらしい。
私が怪我をしたという記事と、お早い復帰をお祈りしているというメッセージだけだったそうだ。
だから、山百合会の面々は皆拍子抜けしてしまったって。
いずれにせよこうしてかなりの騒ぎになってしまったんだから、結局は同じだ。
むしろ、心配してくれたんだから、ちゃんと復帰しましたって報告とお礼をしに行かなくちゃ。
――頑張ろう。
明日への展望は開けた。
決意を胸に、二階へ上がる。部屋の中からは何やら話し声が聞こえた。どうやら、もう山百合会の面々は揃っているらしい。
扉を開けて、中にいらっしゃる方々に声をかける。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
中から、爽やかな声が返ってきた。
本編終了です。ありがとうございました。