入院して、一週間が過ぎた。
元々の体の弱さは当然あるんだろうけれど、それにしても怪我の治りが遅い気がする。
全身打撲による腫れが未だ完全に引いてなくて、体を動かすと少し痛みが走る。
そんなに長引いているのなら、本来はもっとひどい症状を懸念するらしいんだけど、私の場合そうではないみたい。だから本当に単に治りが遅いだけなんだって。
ただ体調に関していうならば、今は調子がいい。入院してしばらくは吐血が続いたりしたけれど、昨日今日はそんなこともなく容態は落ち着いている。せいぜい三十八度手前の微熱があるくらい。
これなら、退院して自宅療養もできるだろうって。まあ、もう少し様子を見る必要があるみたいだけれど。
これで油断するとまたぶり返してしまうから気を付けなければ。
いずれにせよ、まだ学校をお休みすることにはなりそうだ。
「それにしても……退屈」
私はぽつりと愚痴をこぼした。
お母さんもお昼には帰ってしまったから、今病室には誰もいない。
だからとにかく、暇なのだ。
退屈を紛らわすためにお母さんが買ってきてくれた文庫本も、もう読み終えてしまった。
テレビ番組には前世の時からとんと興味がなく、見るものといったらニュースくらいである。剣道の試合の中継をしてくれるのは喜んで視聴するだろうけれど、実際そんなのほとんどない。
暇潰しのために興味のない番組を見るのも、体を動かすのも億劫だったから、私はぼんやりと令ちゃんを思い浮かべて妄想を楽しんでいた。
「ごきげんよう、由乃さん。また来ちゃった」
そんなときに、祐巳さんはやってきた。人懐っこい笑顔で近づいてきて、傍の丸椅子に腰かけた。
「あ……ゆ、祐巳さん。ごきげんよう」
祐巳さん二度目の来訪である。
昨日は言い争いがヒートアップした挙句、私がダウンしてしまっておしまいになったから、少し気まずい。それに醜い部分を見せてしまっているから、恥ずかしかった。
あの時のこと、祐巳さんはどう思っているんだろう。
「あの、祐巳さん。昨日はごめんなさい」
「え?」
まずは昨日の非礼を詫びなければと思ったのだけれど、祐巳さんは何故か驚いていた。
目を丸くして口を開け放し、とてもわかりやすい表情で。
「ううん。私の方こそ、由乃さんを興奮させてしまったから……ごめんなさい」
しかし私は私で逆に謝られるとは思っていなかったから、頭を下げる祐巳さんを前にどうしていいかわからずあたふたしてしまう。
「そんな。私が悪いのに」
「ううん。私が悪かったの」
そんな終わりの見えないやり取りが暫し繰り返され、やがてどちらからともなく笑いが起こった。
「やめよう。きりがないよ」
「そ、そうだね」
お互い悪かった。そういうことにしようって。
祐巳さんはそう言って笑った。
「今日はね、由乃さんとお話ししたいと思って来たの。ほら、昨日はほとんどできなかったから」
「お話……?」
きょとんとして祐巳さんを見る。
「そう、お話」
お話だなんて。
前世では言わずもがな、現世では両親と令ちゃんくらいとしかまともにしたことがない。だから祐巳さんがお気に召すようなお話はできないかもしれない。
そう思ったけれど、祐巳さんの笑顔を見たら断れなかった。
退屈していたのは事実だし、それに、私も……。
「……う、うん」
とは言ったものの。
お話って、どうすればいいのだろう。
自分から積極的に話題提起すればいいのだろうか。
ずっと一緒にいる令ちゃん相手なら考えなくてもお話できちゃうけれど、なんたって人見知りなもんだから。慣れない私はテンパるばかりだった。
情けない私を前に、祐巳さんは「何から話そうかなぁ」って無邪気に笑っている。
そんな祐巳さんが羨ましいと思っていたら、その張本人は何か閃いたって顔をした。
「そういえば、ね」
「な、なに?」
「あのね……」
何故だかわけもなく緊張している私とは裏腹に、祐巳さんはどこかテンションが高い気がする。
「さっき、私黄薔薇さまを見たの」
「……黄薔薇さまを?」
黄薔薇さま……令ちゃんのお姉さま。
何かのご病気なの、と聞こうとしたら、祐巳さんはあらぬ方向へ舵を切った。
「そう、あれは黄薔薇さまだったんだわ。黄薔薇さまの幽霊!」
興奮気味に語る祐巳さんだったが、私には何が何だか、全く訳がわからない。
黄薔薇さまが出てきたと思ったら、今度はその幽霊だって?
突拍子もない祐巳さんの言葉に、私は戸惑うばかり。
「ど、どういうこと?」
そうして聞いてみたところによると。
祐巳さんは今日、私の病室に来る途中に黄薔薇さまらしき人を見かけたというのだ。黄薔薇さまは今熱で学校をお休みしているらしいんだけれど、それで入院までしているとは思えない。だから、自分が見たのは黄薔薇さまの幽霊だったのだと、祐巳さんは主張しているのである。
しかしその話には矛盾がある。
「……でも、黄薔薇さまは生きてるよ?」
だから、幽霊にはなりえない。そう指摘したのだけれど。
「じゃあ、えっと……生き霊とか」
どんどん話が飛躍していく祐巳さんに、私は怯えるどころかむしろ笑ってしまった。
ここにきて私はようやく得心がいった。祐巳さんは怪談話をしたかったのだ。
それなら、私にもできる。
前世の時から怪談の本とか読みあさってきたから、怖い話の一つや二つ、空で語れるだろう。
いくら臆病な私といえども、得意分野はある。幼い頃には令ちゃんを泣かせてしまったこともあるくらいだ。
それにしても黄薔薇さまの幽霊を見たなんて話で、怖がってもらえると本気で思っているんだろうか。
「ふふ、祐巳さんたら。怪談だったらもっといい話があるよ?」
「え?」
一瞬顔を引きつらせる祐巳さん。案外怖がりなのだろうか。
さて、何の怪談を語ろうか。此処は病院だから、病院に関する怪談がいいかな。
そう決めて、なんとかそれっぽい雰囲気を醸し出しつつ話し始める。
「えっと、とある病院にね。入院している女の子がいたの」
「あ、あの……由乃さん?」
おどろおどろしい語りを意識して、低いトーンで静静と語った。
「隣のベッドには優しそうなお婆さんが入院していて、とっても可愛がってもらっていたんだって。……ある日、その子、夜中に目を覚ましてしまったの。そして何気なく隣のおばあちゃんを見たら――」
「ス、ストーップ!」
「え、え?」
突然の祐巳さんの静止に、私は驚くと同時にちょっとがっかりした。まだ続きがあるのに。
話すのに夢中になっていたから気がつかなかったけれど、ふと見ると祐巳さんは涙目になっていた。それはつまり怖がってもらえたということだ。
話は遮られてしまったけれど、これは怪談としては成功でいいのかな。
「あの、最後まで聞かなくていいの?」
「も、もうやめてっ」
祐巳さんは目をうるうるさせながら、必死に懇願してきた。
こうしてみると、祐巳さんって面白い。
祐巳さんは喜怒哀楽がはっきりしていて、すごく表情に出るからわかりやすいのだ。まさに百面相。
白薔薇さまが祐巳さんをからかうのも分かる気がする。
ずっと気持ちの余裕がなかったから気づかなかったけれど、祐巳さんってとっても魅力的だ。
――由乃さんの世界には令さましかいないの?
あの時、祐巳さんはそう言った。こうして他にも目を向けてみれば、確かに世界は輝いている。
令ちゃんが一番大好きなのは揺るがないけれど、祐巳さんも私の好きな人ランキングに入賞できるかもしれない。
くすりと笑ったら、祐巳さんは何故か苦笑した。
「由乃さんって、天然?」
「え? どういうこと?」
「……ううん。なんでもない」
祐巳さんは、令ちゃんがいなくなって勝手に絶望していた私を勇気づけ、気付かせてくれた。そばにいてくれた。
ここまでしてくれた人は、前世を含めてもそうそういない。それくらい、私は他人を拒絶していたから。
――ああ、そっか。きっと、これが友達なんだ。
何か清々しい気分だった。
祐巳さんに、この気持ちを伝えたい。私は思いきって口を開いた。
「あの、祐巳さん。この間も今日も、私迷惑ばかりかけてしまって」
「もう、それは気にしなくていいってば」
「う、うん。だからね……」
そうだ。友達には、ごめんじゃなくてこう言うべきなのかな。
「ありがとう。その……私、頑張るね」
どう頑張っても病気とはこの先もずっと付き合っていかなければならないけれど、気の持ちようでだいぶ変わる気はする。病は気からっていうもんね。
祐巳さんからの話によれば令ちゃんは、体が弱いからこそ心は強く在ってほしいって言っていたらしい。
いつまでもうじうじしていたら、今度こそ令ちゃんに見放されちゃう。
黄薔薇のつぼみの妹。その肩書きを背負える人でありたい。紅薔薇のつぼみの妹として立派にやっている、祐巳さんのように。
「うん……どういたしまして。早く治して、学校に来てね。みんな待っているよ」
嬉しそうに、祐巳さんは顔を綻ばせる。それは私までつられてしまうような、気持ちのいい笑顔だった。
「それで、その、一つお願いがあるの」
「お願い?」
「うん……あの、もし暇だったら、明後日の令ちゃんの戦いを見に行ってもらえないかな」
「令さまの?」
「うん、私は……遠くから応援しているから」
だから、私の分まで代わりに見てきてほしい。そこまでは言わなかったけれど、きっと思いは伝わった。
「……わかった。見てくるね」
「ありがとう、祐巳さん」
――
その後、祐巳さんは夕食の時間だからと名残惜しそうに帰っていった。入れ違うようにお母さんもやってきて、色々とお世話してくれた。
そんな騒がしさも過ぎさって、夕食も済ませた夜八時頃。
「ふふ。この時の令ちゃん、可愛かったな」
お母さんが私の部屋から持ってきてくれた写真を眺めていた。思い出が蘇ってきて、思わず笑みがこぼれる。
それは、写真立てに入れて大切に飾っていたものだった。中等部の入学式に参加したときに撮ってもらった、令ちゃんとのツーショット。高等部の入学式は欠席したから、貴重な入学式の写真である。
写真の中の令ちゃんは、凛々しい微笑みで私の腰に手を回している。幼い顔立ちの令ちゃんは格好よいというよりも可愛いって感じだった。
ああ。
今、令ちゃんはどんな気持ちでいるのだろうか。
「……令ちゃん、がんばって」
私にできるのは、こうして祈っていることだけ。
今までのようにそばにくっついてアドバイスすることも、汗を拭いてあげることも、できないのだ。
それがこんなにもどかしく、辛いなんて。
令ちゃんの実力であれば、気持ちで負けていない限りは勝てるはず。
それは今までそばで見てきたから分かる。 けれどそんなことで安心なんてできなかった。
――マリア様、お願いします。
私は手を合わせて、祈りを捧げた。