令さま・由乃さん姉妹が破局した。そして由乃さんが怪我を負い病院へ搬送された。
この一連の事件が起きて数日が経過したが、当人の由乃さんは入院していて、未だ解決の兆しは見えていない。この事件、やはり目撃者はかなりいたようで、噂は瞬く間に広まった。
何故か新聞部は由乃さんが怪我を負って入院したという記事だけをかわら版に掲載し、二人の破局については何も報道しなかった。
だから、想像で話を膨らませるしかない生徒たちは好奇心が満たされない。
では、満たすために彼女たちはどうするか。
それを祐巳はこの数日、嫌というほど思い知らされた。
「祐巳さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「あの、由乃さんのことなんだけれど。祐巳さん、ご存知ないかしら?」
「え、えっと……」
「新聞部も今回の一件については報道する気がないようなの。でも私、気になって気になって夜も眠れないんです」
祐巳は、その日の朝校門をくぐってマリア像でお祈りを済ませたところで、噂好きの乙女たちの悪意ない質問攻めに追い立てられた。
「ごめんなさいっ。私もよくわからなくて」
それだけ言い捨てて逃げ出し、息も絶え絶えに桃組の教室へ辿り着いたものの。
「祐巳さん、ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう……」
そこで、また別勢力に襲われてしまった。表面上は笑顔で取り繕っているけれど、そこには打算が隠れている。
「令さまと由乃さんのこと、祐巳さんは何かご存知ないかしら」
と言われましても。
祐巳だって、昨日桂さんから聞いた以上のことは何もわからない。
何度もそう説明しているのに。
でも気になってしまう気持ちもわかるから、強く言えないのだった。
「申し訳ないけれど……」
だからそう言って何も知らないことをやんわりと告げるしか、祐巳にはできなかった。
「でも、山百合会で何か聞いているんじゃないの?」
しかし妙に諦めの悪いクラスメイトたちは、スッポンみたいにしつこく食らいついてくる。
「ごめんね、詳しいことは何も知らないんだ」
「そう、何か分かったらすぐに教えてちょうだいね」
「あ、あはは……分かったらね」
ふう、ようやく解放された。
ほっと一息つく間もなく、彼女たちは思うままに語り始めた。
「本当に、一体お二人に何があったのかしら……」
「由乃さん、令さまのことを誰より慕っていらっしゃるはずなのに」
「ロザリオを投げつけるなんて、相当よね」
「ええ。お姉さまにそんな真似、私にはできないわ」
当人の由乃さんが学校にいないから、皆憶測で好き放題言っている。
真相はどうあれ、由乃さんは上級生のお姉さまにロザリオを投げつけるという暴挙に出たことには変わりない。だからどうもリリアンの世論としては、ちょっぴり由乃さんが悪者って感じになっているようだ。由乃さん自身も怪我をしているから、なんとか緩和されているけれど。
それでも令さまとしては辛いだろうな。
本当に、どうなってしまうのだろう。
祐巳は不安を隠しきれず、クラスメイトの前で大きくため息を吐いた。
「大変ね、祐巳さん。ごきげんよう」
同じ山百合会の一員であるのに、やけにほんわかとした雰囲気で志摩子さんが話しかけてきた。
「ごきげんよう。志摩子さんは平気そうだね」
「ええ、まあね」
涼しい顔で答える志摩子さん。何でそんなに平然としていられるんだろう。志摩子さんだって、質問攻めの被害に遭っているはずなのに。
「あら、志摩子さん。ごきげんよう」
ほら、こうしている間にも魔の手が志摩子さんに迫っている。
「ごきげんよう、皆さん」
たちまち志摩子さんは、クラスメイト数人に囲まれた。
あーあ、御愁傷様。祐巳は心の中で合掌した。
「ね、志摩子さんは例の件……」
しかし志摩子さんは、にっこりと素敵なスマイルを振り撒きつつ、その言葉を一刀両断した。
「存じません」
「志摩子さんでも知らないの?」
「存じません」
「で、でもちょっとくらい……」
「存じません」
「わ、分かったわ。ごめんなさい、失礼しました」
ついに彼女たちは諦めて、すごすごと引き下がっていった。
なんという鮮やかなやり取りであろうか。
志摩子さんったら、にっこりと笑って最後まで「存じません」だけで通してしまった。
いつも通りの穏やかな微笑みのはずなのに、どこか冷たく見える。
美人って得だなと思った。こんなきれいな顔できっぱりと言い切られたら、普通の子なら何も言えなくなってしまうだろうから。
――
そんなこんなで忙しなく時間は過ぎていき、ようやく迎えたお昼休み。
根掘り葉掘り尋ねてくる人たちから逃げるため、祐巳は薔薇の館を訪れた。
二階のいつもの部屋には二人の薔薇さまがいらしていた。ちょっと暗い顔してお弁当を食べている。
「ごきげんよう、紅薔薇さま、白薔薇さま」
「あら、祐巳ちゃん。ごきげんよう」
「ごきげんよう。疲れた、って顔してるね、祐巳ちゃん」
白薔薇さまは祐巳の顔を見て苦笑しつつ言った。
けれど白薔薇さまだって、ついでに言えば紅薔薇さまも、どこかぐったりしている。
「……はい。お二人も疲れていらっしゃいますね」
「分かる?」
「朝からずっとクラスメイトから質問責めだもの。嫌になるわ」
そう言って、同時にため息をついた。
どうやらお二人も、薔薇の館に逃げ込んできたらしい。
「時に志摩子は、一緒に逃げてこなかったの?」
「存じません」
「え?」
「そう言えば、みんな引き下がりますから」
「あははは、なるほどね。美人は得だわ」
白薔薇さまは口を空けて笑った。
「はい、本当に。あ、私お茶入れますね」
「悪いね。濃いのをお願い」
「紅薔薇さまは何になさいます?」
「そうね……できればオレンジペコ」
「わかりました」
祐巳は弁当箱を机においてから、お茶の準備に入った。
日本茶とオレンジペコ、ついでに自分の分のお茶を茶碗とカップに注いで、それぞれの前に置く。
椅子に座り、祐巳は弁当を開ける前にあつあつのお茶を一口飲んだ。
「はぁ……」
思わずため息が溢れる。
午前中の授業を受けただけで、ひどく気疲れしてしまったから。
ちょっと穏やかな心地で、祐巳は弁当箱を開く。
「それにしても」
そしてカニさんウィンナーを口にした時、紅薔薇さまが言った。
「築山三奈子さんがあれだけの記事で済ませるなんて、意外だったわね」
紅薔薇さまが言っているのは、事件の翌日に発行されたリリアンかわら版の号外のことだろう。
「うん。どんなゴシップ記事になるかと思っていたのに、拍子抜けした」
白薔薇さまが答えた通り、実際に掲載されていたのは、由乃さんの怪我についての記事と、お早い復帰をお祈りしているというメッセージだけだったのだ。
逆に不気味だ。少し警戒しておいた方がいい。
それが薔薇さまお二人の、今のところの見解だった。
「まあ、余計な騒ぎを起こされるよりはましよね」
紅薔薇さまがそう締めて、この件に関する話は幕を閉じた。
白薔薇さまに絡まれたり、紅薔薇に救い出されたり。そんな賑やかに談笑しながらの楽しい昼食タイムの到来である。
祐巳たちは静かなこの部屋で、穏やかな時を過ごした。
午前中は少し騒がしかったから余計に、この安穏な平和が愛しく感じられる。
これで由乃さんが無事に復帰して、令さまとの姉妹関係も復縁、となれば万々歳なんだけれど。
仲違いの理由すら知らない祐巳には、行く末を憂うことしかできない。
「さて、そろそろ戻ろうか」
白薔薇さまが言う。
そうこうしている間に昼休みも残り五分を切っていた。
予鈴が鳴るまでには教室へ戻らねばと、祐巳も弁当箱を片付けて席を立つ。
白薔薇さまと、紅薔薇さま。すごいお二人と肩を並べて、祐巳は薔薇の館へ出たのだった。
「ここにいたんだね、祐巳ちゃん」
しかし廊下を歩きはじめたところで、声をかけられた。見ると、声の主は令さまだった。
昨日までは、表面的には元気だけれどどこか無理しているのが見て取れて、それがかえって痛々しい様子だったのに。
今日の令さまは見違えるようだ。どう見ても、凛々しいいつも通りの令さまである。
「令、そろそろ予鈴鳴るわよ。 大丈夫?」
予鈴間近に話しかけてきた令さまに、紅薔薇さまは三割訝しげに、七割心配そうに尋ねた。
「はい。すぐ済みますから」
紅薔薇さまにことわってから、令さまは口を開いた。
「突然ごめんね、祐巳ちゃん」
「いえ……その、ご用件は?」
「今日の放課後、空いてない?」
委員会も部活もやっていない身の上だから、放課後は薔薇の館へ行く以外にすることはない。
この間もこんなことがあったなと思いながら、祐巳は頷いた。
「じゃあ、放課後、剣道場に来てくれないかな」
「はあ、構いませんけど」
「ごめんね、稽古があるから来てもらわなくちゃいけないけど」
由乃のことについて話したいんだ。そう話す令さまは、とても真剣な表情を浮かべていた。
自分なんかでいいんですか、とは聞けなかった。
令さまは、明らかに祐巳を求めているらしかったから。
――
そして、放課後。
掃除を済ませてから、祐巳は小走りで道場へと向かった。少し時間がかかってしまった。
時間の指定はなかったけれど、上級生との待ち合わせで下級生が遅れるのはいただけないから。
帰宅部の祐巳とは無縁の場所だから、少し緊張する。
「お、お邪魔しまーす」
恐る恐る道場の扉を開け、中へ入るとそこでは既に稽古が始まっていた。
道着と防具を身に付け、竹刀を交わせる乙女たち。
面を着けているから表情は見えないけれど、気迫のこもった発声からはその真剣さが伝わってくる。
テレビでさえ見たことがない剣道だけれど、こうして見るととても格好いい。
「祐巳ちゃんっ」
麗しい女剣士たちの内の一人がこちらを見て、名を呼んだ。面をつけているから顔が分からないけれど、おそらく令さまだろう。思わず祐巳は一礼した。
すると令さまは群れから離れ、隅で面を外してこちらへ歩いてきた。
――なんだ、この美少年っ!
祐巳は心の中で叫んだ。
ピンと背筋伸ばして颯爽と歩く令さまはいつも以上に凛々しく、もはや綺麗な男性にしか見えない。仄かに滲む額の汗が光に照らされて艶やかに輝き、令さまを彩っていて。
それを手拭いで拭き取る所作がまた美しいから、惚れ惚れする。
「ごめんね、先に稽古を始めていたから」
「いえ、そんな。私剣道には疎いんですが、格好よかったです」
「はは、ありがとう。まぁ、ちょっと外に出ようか」
苦笑しつつ、令さまは扉を開け祐巳をエスコートして外へ出る。
入口付近で立ち止まり、令さまは「さて」と話を切り出した。
「本題に入ろうか。由乃についての話なんだけど。ちょっと長くなるかもしれない」
「は、はい」
そう言った後、令さまは黙りこんでしまった。
長くなるとのことだから、どこから話したものか頭の中で考えているんだろうか。
急かすわけにもいかず、祐巳は口をつぐんで次の言葉を待った。
「格好よかったって、言ってくれたよね」
「へ? ……あ、は、はい。とても!」
由乃さんの話というから身構えていたのだが、早々に脱線かと拍子抜けしてしまった。
けれど令さまの顔は真剣そのものである。
「確かに剣道やっているし、強そうに見られがちだけれどね。私なんて、本当は気が小さい臆病者。ミスターリリアンなんかとは正反対なのよ」
「は、はぁ……」
突如自虐に走る令さまに、祐巳は何と答えてよいものか困ってしまった。
令さまが臆病者かどうかはともかく、ミスターリリアンとは正反対という件については、祐巳も同意できないわけではなかったから。
リリアンかわら版のアンケートで令さまの趣味が編み物と判明した時には、クラスの令さまファンがきゃーきゃー言っていたものだった。
ギャップがあっていいわね、って。
「でもね。由乃がいてくれたおかげで、私は強い子でいられたの。由乃が、私に勇気をくれていたから」
こうして聞いていると、分かってはいたが令さまの中での由乃さんの大きさを思い知らされる。
「幼い頃から一緒に過ごしてきたからね。病弱な由乃を守らなきゃって思いがあったのよ。けれど、守られているのは私も同じだった」
「令さまも?」
「そう。由乃がマネージャーとして、剣道部に在籍していることは知っているよね?」
そこで祐巳は、由乃さんと話した際に剣道部のマネージャーを務めていると聞いたことを思い出した。
「はい、由乃さんも言っていました。少しでも一緒にいたいからって」
そう言うと令さまは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「うん。由乃は小さいときから、何故か剣道の知識が豊富だったのよ。的確なアドバイスもしてくれたし、叱られたことだって何度もある」
叱るだなんて。
由乃さんが誰かを叱責するなんて、全く想像できない。
「剣道部では有名な話なのよ。由乃は剣道のことになると人が変わるって」
驚く祐巳に対して、令さまはくすくすと笑った。
「ともかくね。由乃はずっと、良い相棒として私の剣道を支えてくれていたわけ」
「由乃さんが……」
令さまのために剣道について勉強したのだろうか。
それほどまでに令さまの支えになりたいという思いが強いわけだ。
「だからね、私は今まで大会でもいい成績を修めてきたけれど、それはすべて由乃と二人で共に勝ち取った結果だと思っている」
由乃さんはマネージャーとして、令さまは選手として。
二人三脚でこれまでやってきたのだと、令さまは言う。
「由乃と一緒にいれば、どこまででも強くなれる気がしていたの」
過去形でそう言ったのが、祐巳は気になった。
「今は違うんですか?」
「違うとまでは言わないけれど。実際のところ私は、由乃がいないと駄目だったの」
「そんな」
否定したものの、確かに、と思わないでもない。
由乃さんが倒れて以降の令さまの憔悴ぶりを見ていたから、そうと言われれば頷ける言葉ではあった。
「そして由乃もまた、私がいないと駄目だった」
だんだん、祐巳にも令さまの言いたいことがわかってきた。
令さまには由乃さんがいないと駄目で、由乃さんには令さまがいないと駄目。
騎士がお姫様の身体を護り、お姫様が騎士の心を護る。
そんな風に互いに寄りかかっていることを、今の令さまは不安に感じている。
その思いの強さが、祐巳にはわかった。
「でも、このままの関係を続けるのはよくないと思うようになったの。由乃はこれから先もずっと、病と付き合っていかなきゃいけない。体が弱いからこそ、心は強く在って欲しいと思ったから。けれど、由乃はそうではなかった」
「……それが、由乃さんとの言い争いの原因ですか」
「そうなるね。このままじゃいけないという思いが先走って、由乃を傷つけてしまったというわけ」
そうして苦笑する令さまは、笑っているのに悲しそうだった。
騒動が起こって以来ようやく、祐巳はお二人の破局の原因を知った。
もちろん、知りたがりのクラスメイトに話すつもりはない。
想いあっているのに、それがお互いのためにならない。そんな関係があるなんて、祐巳には想いもよらなかった。
「……私がいると、由乃がだめになると思うの。由乃には、私がいないと何もできないような子でいてほしくない。だからここで踏ん張って、私なしで病気に立ち向かってほしい。強くなってほしいのよ」
さっき令さまはご自分を気が小さい臆病者と言ったけれど。
悲しいのを堪えて、それでも強い意思を持って前を向いている令さまは十分格好よかった。
「私は、どうすれば?」
「うん。時間があるときでいいから、由乃のそばにいてあげてもらえないかな」
そう言う令さまに手渡されたのは、由乃さんが入院している病院の住所と病室が書かれたメモだった。
お見舞いに行きたいとはかねてより思っていたから、吝かではない。
それに、これほどまでの令さまの想いを、ちゃんと由乃さんに伝えなくてはいけないと心から思った。
だから祐巳は、自分でよければと笑って首肯した。
「ありがとう。由乃を独りにさせてしまうけれど……由乃にだけ苦しませやしない。私だって、独りで試合に望む。そして、強くなってみせるから。きっとこれは、それぞれが乗り越えなければならない問題なのよ」
令さまの由乃さんへの深い愛情を見て、祐巳は二人が無事に元の鞘に収まってくれればいいと思った。
だって二人は、こんなにも想いあっているんだから。報われなくては悲しすぎる。