体が熱を帯びている。
熱い、熱い……。
「んっ……」
息苦しさに身をよじった際、全身が鈍痛に悲鳴を上げ、私は深い眠りから覚醒した。
そこは現世に蘇ってから何度も過ごした、見慣れた病室だった。
自分がベッドで寝ている以外、他に人は誰もいない。
しかし熱のせいもあってか意識が未だに目覚めきっていない私は、ぼんやりとした心地で虚空に尋ねた。
「令ちゃん……は?」
当然返事などあるはずもない。
次第に頭もすっきりしてきて、私はようやく思い出した。なぜ自分が病室にいるのかとか。あとは令ちゃんとの一件も、鮮明に。
ああ、死ななかったんだなって。自分は生きているのだと、どうしようもなく実感させられた。
「……なんでもない」
目覚めたばかりだから、どこか会話が覚束ない。いや、会話というか独り言か。
体は起こさずに目だけを動かして周りをよく見てみると、お母さんの鞄が置いてあることに気がついた。今この場にいないのは、お手洗いだろうか。飲み物を買いに行ったのか。お見舞いに本でも買いに行ったのか。
ともかくお母さん、来てくれているんだ。
……なのに、何で令ちゃんはいないのだろう。
やはりあの時の、令ちゃんは私が嫌いになったのだというのは間違いではなかったと確信してしまった。
だから、お母さんが来てくれているという喜びはあまりなかった。
「……っうぅ」
不意に、頭部に軽い痛みが疾る。私は思わず頭に手を当てた。
それ自体は一時的なものですぐ治まったのだが、頭に触れた時額の辺りに違和感を覚えた。明らかに人肌とは異なる感触だったのだ。
「由乃っ、目が覚めたの?」
と、そこに扉が開かれ、お母さんが戻ってきた。その手には何も持っていないから、おそらくはお手洗いから。
私が目を開けているのに気付き、お母さんは声を荒げた。扉を閉めることも忘れて駆け寄ってくる。
「ああっ……いけない、つい大きな声を」
すぐに気がついてぱっと口を抑えたが、もう声は発せられてしまったんだから意味のない行動だ。
その後、お母さんは泣きそうな顔で私を見つめた。いや、実際泣いていたのかもしれない。
「良かった……目を覚ましてくれて。私気が気じゃなかったのよ」
あの時のように、私はお母さんに優しく抱きしめられた。
「……ごめんなさい、心配かけて」
「ううん、いいのよ。由乃が無事でよかった」
それから、お母さんから色々な話を聞いた。
みんな心配しているよって。怪我が治ったらお祝いするねって。
私は令ちゃんの話を意図的に話題に出さずに、お母さんと語り合った。
いつも令ちゃん大好きな私だったから、お母さんはその奇妙な違和感を感じ取ったのだろうか。
「ねえ、由乃。令ちゃんのことなんだけど……」
「えっ」
唐突に令ちゃんというワードが飛び出してきて、どきんと心臓が高鳴る。
思わず私は体を起こしかけたけれど、全身に痛みが走ったために、くぐもった声をあげるだけにとどまった。
「ああ、もう。無理して動いちゃだめよ」
お母さんに促され、体に布団を被せられた。
お母さんによると私の怪我は、頭――正確には額のところの裂傷、そして全身打撲ということだった。
内出血で腫れちゃって、痣だらけで大変だった、って。
頭の裂傷は五、六センチほどのもので、十四針縫ったらしい。一週間くらい経ったら抜鈎を行うという。
それに加えて発作だって起きていたわけで、体調が思わしくないのは当然だ。
とまあこれだけ色々あったんだから、お母さんは気が気じゃなかったんだろう。心労がたたったのか、お母さんの顔はやつれていた。歳の割には綺麗な顔立ちだったのに、隈もできちゃって今では年相応かそれ以上なくらいに老け込んでしまっている。
「大丈夫? 貴女は女の子なんだから。嫁入り前の体に傷ついたら大変よ。これからは気をつけなさいね」
「……うん」
申し訳なく思ったが、ともかく先程のお母さんの言葉に対して、私は答えねばならなかった。
「あの、令ちゃんがどうしたの? 令ちゃん、何か言っていた?」
「……いいえ。何でもないわ。ごめんなさい、忘れてちょうだい」
お母さんは何も汗でベタつく私の髪を、いとおしそうに撫でた。
令ちゃん。
その言葉が飛び出してきたからか、否応にも令ちゃんの姿を思い浮かべてしまう。
少年みたいなベリーショートヘアとか。
高く座った鼻梁とか、艶やかな柔肌とか。
私よりも一回り高い背丈とか。
そんな男性みたいなルックスのくせして乙女なところとか。
そんな令ちゃんを構成する全ての要素を、私は等しく愛している。
想像していたら、それだけで涙がにじんできた。でもそれを拭うことすら、自分ではできない。
「けほっ、けほっ」
体調のせいなのか、あるいは悲しみのせいなのか。それは定かでないけれど、ひどく胸が苦しい。
咳が止まらなくなり、その反動で体が微動するたびに鈍い痛みが駆け巡る。
「由乃、大丈夫?」
お母さんが呼んでいる。
「ぐ……っ」
気持ちの悪い嘔吐感が上ってきた。
これはまずい、と思って我慢しようとしたが堪えることは叶わず、咳をすると同時に吐いてしまった。
「かはっ!」
しかし、吐いたのは吐瀉物ではなく血だった。純白のベッドが朱に汚される。
そこまで多量ではないけれど、お母さんは青ざめていた。
「由乃っ」
「だい……じょうぶ」
お母さんが叫んでいるが、そこまでのことじゃない。
大袈裟だなあ、お母さんは。
今までだって血を吐くことは何度かあったんだから。
そんなことより、私は令ちゃんのことを考えていた。
……ああ、令ちゃん。
令ちゃんっ。
どうして令ちゃんはあんなことを言ったの?
どうして私を嫌いになったの?
どうして?
心の中でどれだけ問いかけても、令ちゃんは何も答えない。
――
「由乃ちゃん、目を覚ましたって」
その日の夜、叔母さんから支倉家に電話がかかってきた。由乃が目を覚ましたらしい。母は受話器片手に、嬉々として令に報告した。
それを聞いて令は返事も忘れてリビングから飛び出し、受話器を引ったくった。
「もしもし!由乃は」
「わ、びっくりした。令ちゃんね」
叔母さんの声に令は少々落ち着きを取り戻した。
「ごめんなさい、突然。由乃のことが気になって」
「ううん。それくらい由乃のことが心配だということだものね。それで、由乃のことなんだけど――」
そうして叔母さんは語り始めた。
それによれば、頭部の裂傷と全身打撲で全治一週間ということだった。命に別状はないらしい。
しかし、発作もあったから体調がかなり悪いらしいのだ。目覚めた後、咳が止まらなくなり、挙げ句に吐血したという。
熱も下がらないから、しばらくは入院することになりそうだって。
最近は体調を崩すことがあっても、発熱程度で済んでいたのに。ここにきて病状が悪化してしまった。
「由乃の今の病状って、ストレスによるところが大きいみたい」
ストレス。
由乃はきっと、それを捌け口がないまま溜め込んでしまっている。
由乃はあの時、令ちゃんは私のことが嫌いになったんだ、と言った。
令が由乃を嫌うなど天地がひっくり返ってもありえないが、由乃にそう思われてしまう原因を作ったのは自分だったのだ。
「ごめんなさい、私のせいで」
「……あのね、さっきも言ったけれど、令ちゃんのせいじゃないわ」
さっきとは由乃が病院へ搬送され、叔母さんに電話をかけて謝罪した時のことだろう。経緯を告げて謝った際にも、叔母さんは詰ることもなく、そう言って慰めてくれた。
「応急処置をしてくれたから、由乃は助かったのよ。ありがとう、令ちゃん」
「いえ、そんな……」
「それに、私だって責任感じてるのよ。最近、由乃が何か悩んでいたのは私も気づいていた。けれど由乃は自分からはあまり話さないし、聞いても何でもないとしか言わないから」
結局何も出来ずに手をこまねいていて、こんなことになってしまった。
叔母さんはそう嘆いた。泣いているようだった。
「……由乃が」
最近。
それがいつからかは分からないけれど。少なくとも、以前から由乃は令とのことで悩んでいたのだ。
「ええ。母親失格ね」
「そんな、私こそ……」
だったらそれに気づくことすら出来なかった自分はもっと駄目だと、令はそう言おうとした。
「いえ……やめましょう。互いに嘆いてばかりいても、虚しいだけね」
会話は暗くなるばかりだった。叔母さんにそう言われなかったら、どこまででも落ち込んでいただろう。
「私は由乃についているから。ちゃんと気持ちの整理つけておいて。ね?」
「……はい」
「それじゃあ、お母さんによろしくね」
電話が切られた。
受話器を置いて、ぼんやりと部屋へ戻る。
「気持ちの整理、か」
宙に向かって囁いた。
由乃のために、自分はなにが出来るだろう。
――
そうして考えすぎたせいだろうか。山村先生に怒られてしまった。
それは翌日の放課後、悲しい思いを押し殺して部活動に励んでいたときのことだった。
きっかけは大したことではない。竹刀を握る手にも力が入らず、格下の一年生部員に一本とられてしまったのだ。
父にお前の剣は情に流される女の剣だと言われたことがある通り、本当に心ここにあらずって感じだったから、見事にお叱りを受けたのである。
騒動は聞いているけれど、そんな気持ちで剣道やってたら怪我の元だ、と。
そして、腑抜けている令に先生はさらに言葉をかけてくれた。
「支倉さんさ、島津さんがいないとだめなわけ?」
「……っ」
令にとっては耳が痛い言葉だった。それは雨の日に紅薔薇さまに言われたのと同じだったから。
由乃には自分がいないとだめ。そう思っていたけれど、反対に自分も由乃がいないとだめだったのだ。
図星を突かれて答えられずに黙っていると、更なる言葉が降りかかってくる。
「確かに島津さんはマネージャーとして、あなたの相棒として、ずっと一緒にやってきたんでしょうけれど。でも、彼女がいなくなってあなたがあなたじゃなくなるのはおかしくない?」
「……はい」
ぐうの音も出ない。それは、本当にその通りだったから。
紅薔薇さまに言われて分かった気になっていただけで、結局由乃がいないとこのざまなのだ。
何が少し距離を置いたほうがいい、だ。偉そうに言っておいて、自分が一番その覚悟ができていなかったではないか。
あ、またもや涙が流れてきた。最近どうも涙もろいみたいだ。どんどん、際限なく溢れてくる。
「私たちは、互いに寄りかかっていました。私、こんななりで本当は臆病で寂しがり屋なんです。けれど、由乃がそばにいてくれたから。だから、私は強くいられたんです。きっと、由乃も同じだった」
自分たちは互いにないものを求めて、互いに寄りかかっていた。
「うん」
先生は何も言わずただ頷いて、優しく肩を抱いてくれた。そんな大人の温もりに抱かれ、安心していたからだろうか。心の深淵に潜む思いを、令は正直に吐露することができた。
「このままじゃいけないと思って、でもその気持ちが空回りしてしまって。きっとそれが、由乃を不安にさせてしまったんです」
「……うん」
「私が由乃を傷つけたんだ」
自分を責めることで、令は自我を保っていた。
「支倉さん。そうやって自分を責めていても、何も始まらないでしょう?」
黙って聞いてくれていた先生は、そこでようやく口を開く。
「でも!」
令も嗚咽交じりに反論するが、更なる勢いをもって先生はそれを遮った。
「自分の行動が間違っていたと思うなら、それを修正する努力をすればいいじゃない。島津さんは怪我をしてしまったけれど、でも、死んでしまったわけではないんだから。まだやり直せるわけでしょう?」
「……はい」
「ね。だから、支倉さん。向き合うことから逃げてはだめよ」
ぽんぽんと令の肩を叩き、最後に「そこで素振りやってから帰っておいで」と言い残して先生は剣道場へ戻っていく。
「はい。ありがとうございます」
その実際より幾倍も大きく見える背中に、令は声を張り上げた。ちょっとだけ心が晴れた気がする。
先生を見送ってから、先程とは正反対の心持で令は竹刀を握りしめた。
前に構え、大きく振り上げ、そして振り下ろす。
「一! 二!」
由乃が倒れて以降初めて、令は澄んだ気持ちで竹刀を振ることができた。
……やり直す。まだ、自分にそれが許されるだろうか。
心にはまだそんな不安が蟠ってはいたものの、それでも、なんとか頑張ってみようと思った。