――令さまと由乃さん姉妹が破局し、錯乱した由乃さんが発作を起こして階段から転げ落ちて怪我を負い、病院へ運ばれた。
祐巳がそんな荒唐無稽な話を聞いたのは、由乃さんや令さまとお話しをした日から数日か経ったある日の放課後。教室で掃除をしていたときのことだった。
こんな眉唾物の話を我が桃組にもたらしてくれたのは、クラスメイトの桂さん。
「ええっ!? それ、本当?」
その内容に驚くあまり祐巳は、リリアンの淑女たる嗜みなどあっさり忘れて乱暴に詰め寄ってしまった。それこそ、飛びかからんばかりの勢いである。
「きゃあっ、祐巳さん。お、落ち着いて」
「あ、ご、ごめん」
そんな桂さんの悲鳴で我に返り、すぐに謝った。なんたる不覚か。
「まあ、動揺する気持ちはわかるから」
そう言って気を取り直し、桂さんは事の顛末を語りだした。
桂さん曰く、二人は校舎内で衆目の中かなり激しく言い争いをしていたらしい。それで怒り狂ったか錯乱状態になったかで由乃さんは、なんと令さまにロザリオを投げつけたんだって。
で、由乃さんはそのまま令さまから逃げるようにして駆け出した。そして、階段を降りようとして発作が起きた、と。
「由乃さん、今日は調子良かったらしいんだけど……そりゃもう凄まじい勢いで走っていたそうだから」
だから、発作は起きてしまった。
由乃さん……どうして、そんなことを。
一通り話を聞いてもまだ、祐巳は信じられなかった。でも桂さんは実際に見た生徒に聞いたというから、きっと事実なんだろう。
事実は小説より奇なりとは言うけれど、こんなことが起こるなんて。
それも由乃さんと令さまが破局したなんていう話だから、全く現実味がないのだ。
凛々しく妹を護る令さまと、ちょっと儚げに微笑む由乃さん。そんなお二人が喧嘩している姿が、祐巳には全く想像できないから。
「それで、由乃さんは大丈夫なの?」
発作が起きたのと、階段から落ちたのと。
どちらか片方だけでも苦しいだろうに、それが両方ともあの華奢な身体に襲いかかってくるなんて。
そう心配したのだが、どうも容態は想像以上に芳しくないらしい。
「どうかな……血も流してたらしいし」
「血っ!?」
物騒な言葉を聞いて、祐巳は青ざめた。
「それ、かなりまずいんじゃ……」
「ええ……意識もなかったみたいだからね」
ありがたいことに今まで大きな病気も怪我もしたことがないから、それがどれだけ辛いのかは想像するしかない。けれど、少なくともかなりまずい状況なのはわかる。
由乃さん、学園祭が終わってからこっちずっと休んでいて、ついこの間ようやく学校に来れるようになったというのに。
どうして。
本人のいない場で考えても仕方ないが、それでも解のない疑問が浮かび上がってくる。
「無事、だよね」
「だといいね……」
それは確信ではなく、願望だった。
内容が内容だから、お互い暗くなってしまう。
うん、お見舞い、きっと行こう。
そうしたら元気な姿を見れるといいな。
祐巳はそう決めたものの、やはり腑に落ちないところがある。
「それにしても……あのお二人が言い争うなんて、何があったんだろう」
「さあ……そこまでは」
桂さんも事の発端までは知らないらしい。
まあ、きっと論争が白熱していって初めて、何だ何だと人が集まってきたんだろう。
喧嘩とは無縁そうな姉妹だし、元々の注目度も相まって、こっそり見ていた野次馬は相当の数に上るだろうと容易に想像できる。
「それで、令さまは?」
由乃さん大好きな令さまのことだから、由乃さんを心配して共に病院へ付き添ったのではないか。祐巳はそう考えていた。
「それが……あの後すごくショックを受けてしまったらしくて、私が見た時は校庭を亡霊みたいに歩いていたわ。あまりの落ち込みように、とても声はかけられなかったけど。……あんな令さま初めて見た」
「えっ……わ、私、見てくる!」
「祐巳さんっ?」
こうしてはいられない。後ろから桂さんが声をかけてきたが、「ごめん」とだけ返して祐巳は教室を飛び出した。
階段を降りて最寄りの扉から外に出る。
靴も履きかけのまま校庭へ走って、令さまの姿を探したが見当たらない。
リリアンの敷地は広いから、闇雲に探し回っても時間を浪費するだけだ。そう考えた祐巳は、頭の中で令さまがどこにいるのか推理した。
かなりのショックを受けてしまっただろう令さま。きっと一人になりたいと思っているにちがいない。だから一人になれる場所にいるのではないか、と。
そう当てをつけ、学園祭の前日に祥子さまも逃げ込んだ古い温室へ向かう。
中へ入ると、確かに令さまはいた。
――
由乃が病院へ運ばれた。それは令にとってひどく心を揺さぶられる出来事だった。
由乃が発作を起こし、階段から転落した時。頭から決して少なくない量の血が流れているのを見て、令は発狂したように何度も、意識を失った由乃の名を呼んだ。
偶々そこに居合わせていた子――錯乱していたからもう誰だったか覚えてはいないけれど――が冷静に応急処置を手伝ってくれていなかったら、令は落ち着いて救急車を呼ぶことすら出来なかっただろう。
やはりあんなことを言うべきではなかったのだろうか。
自分は一体どうすべきだったのだろうか。
そんな自問は何度も繰り返された。自答はないままに。
自分のせいであんなことになったのだと思う度に、胸が苦しくなる。
由乃のことを思うならば、いつかは言わなくてはいけなかったと思う。
けれど、それは何も今でなくともよかったのだ。
いや、むしろ先伸ばしにしてきたのがいけなかったのか。そうやって無駄に意識してしまったために、由乃を不安にさせていたのかもしれない。あまり胸の内を語らない子だから、ずっと溜め込んでいたのだろう。
そうして今日、令はついに引き金を引いてしまったわけだ。
気が気でなくなるくらい心配だったが、結局令は由乃に付き添って共に救急車に乗りはしなかった。
令は何度も考えたのだ。
もう一度由乃のもとへ行って、ちゃんと謝り、ロザリオを再びかけてあげれば、それで丸く収まるだろうかと。
しかしそうしたら、もう二度と関係は修復できなくなるかもしれない。
だから狂おしいほどの由乃への思いを押し殺して、令は救急車を見送ったのだ。令に出来たのは、叔母さんに電話をかけて由乃が病院へ搬送されたと伝え、かつそれについての謝罪をすることだけだった。
令だって、確かに由乃を愛している。それこそ由乃以上に大切な存在などこの世にはいないと断言できるくらいに。きっと、それは由乃だって同じだろう。
けれど自分がいなければ何もできないというのでは薔薇さまとしてやっていけないだろうし、何よりこれから先の由乃の人生が心配だ。
……そうはいっても、結局は今の由乃と向き合うのが怖いだけなのかもしれない。
その時は気が回らなかったが、由乃との一幕はかなりの生徒に見られていたらしい。そうでなくとも山百合会の一員が大怪我をして病院に搬送されたのだ、注目されないわけがない。
ぼんやりと校庭を歩いていると、心配して声をかけてくれる子たちに何度も出くわした。それはありがたいが独りになりたくて、令は何となく古い温室へと足を伸ばした。
中には誰もいなかった。
鉢棚に腰掛け、何をするでもなくぼんやりと薔薇の花を眺める。
ゆったりとした時間が流れる中、令は由乃のことばかりを考えていた。
「令さま」
そこへやってきたのは、祐巳ちゃんだった。
「ああ、祐巳ちゃん」
彼女はおそるおそる中へ入ってきたが、令の顔を見るなり目を丸くした。
「令さま、泣いて……?」
「え?」
言われて目元に手を当ててみると、確かに両の瞳から一筋の水滴が流れ落ちていた。
気づかぬうちに泣いていたらしい。
自覚した途端に、悲しみの滴は堰をきったように溢れだしてきた。
「は、はは……私……」
言葉も思うように出てこない。出てくるのは涙だけだった。
それを拭うこともせずに、令はその場で頭を抱えてしゃがみこんだ。
祐巳ちゃんは黙ってそこに佇んでいる。何も言わずにそばにいてくれるのが心地よかった。
静寂の中で、令の慟哭だけが温室に響いている。
暫しの時間が過ぎ、機を伺っていたのか、祐巳ちゃんは令の嗚咽がおさまった頃合いに口を開いた。
「……あの、令さま。お話伺いました。由乃さんが病院へ運ばれたって」
「ああ、うん……私のせいでね」
「令さまのせいって……」
「はぁ……何でこうなっちゃったんだろう」
弱音ばかりが口をつく。
由乃のことになると、どうにも冷静でいられなくなる。
祐巳ちゃんも再び口を閉ざしてしまった。何でこうなったなんて言われても、如何ともしがたいだろうから。
「令」
そんな祐巳ちゃんの背後から、凛とした声がした。
現れたのは、紅薔薇のつぼみ――小笠原祥子である。
「さ、祥子さまっ」
「ああ、祥子……」
「由乃ちゃんのこと、聞いたわ。ショックを受けるのは分かるけれど、こんな時に貴方がしっかりしていなくてどうするの」
未だ呆けている令に、祥子は毅然として向き合った。
「ほら、涙でせっかくの凛々しい顔が台無しじゃない」
祥子は懐からハンカチを取り出すと、屈みこんで令の顔を濡らす涙をそっと拭う。優しい手つきだ。
「とにかく、こんな所でふらふらされていたら迷惑なのよ」
そうして祥子に手を引かれ、令は半ば強引に薔薇の館へ連れ込まれた。
有り難かった。
こうして無理矢理にでも引っ張られなかったら、いつまでもうじうじと泣いていたかもしれない。
現に祥子に連れられている間にも、落ち着きを取り戻しつつあった。
――
令たち三人が薔薇の館二階の部屋へ入ると、そこには既に白薔薇さまと紅薔薇さまが揃っていた。優雅にお茶を飲んでいる。
令の顔を認めるとお二人は口を揃えて言った。
「由乃ちゃん、大丈夫なの?」
お二人共、既に騒ぎを聞いていたらしい。開口一番に由乃を案じてくれたことにどこか安心する。
まだ由乃は山百合会の一員であると思ってくれているんだって。
「は……はい。応急処置はしましたし、救急車も来るのが早かったので」
答えながら、祥子に促されて令は席についた。
「そう……良かったわ」
ほっと一息ついて紅薔薇さまはお茶をすする。
令も、此処へやってきてすぐ祐巳ちゃんが淹れてくれたお茶を口にした。
透き通るような風味は、令の心を幾分か癒してくれる。
「それにしても貴方たち、だいぶ騒がしくやっていたらしいじゃない」
そう言ったのは、白薔薇さま。
貴方たちというのは当然、令と由乃のことを指しているのだろう。
令はゆっくりと頭の中で整理しながら語った。
「ええ……まあ。私も由乃も熱中していましたので、注目を集めてしまったようですね。申し訳ありません」
「……まあ、新聞部は黙っていないでしょうね」
それまで会話を黙って聞いていた祥子が、苦々しく口を開いた。
確かに。
ここまでの騒ぎになっているのだ。新聞部は――いや、あの築山三奈子さんは、間違いなく記事にすることだろう。
「うん。ちょっとしたスキャンダルになることは確かだよ。それに加えて由乃ちゃんはかなりの怪我を追ってしまった。こりゃもう新聞部の格好の餌食だね」
そう言う白薔薇さまは、言葉こそ軽いものの、その語り口は神妙だった。
「そう……ですね」
あの時、少しでも周りを気にする余裕があったらここまでの騒ぎにはならなかったかもしれない。
今更言っても後の祭りだが、ともかく由乃が悪者にされることだけは避けたかった。悪いのは自分だ。
「記事の内容によっては、山百合会も動く必要がありそうね」
「ご迷惑おかけします」
自分たちのいさかいで薔薇さま方の手を煩わせることが心苦しかった。
だから、令は再度お二人に謝罪した。
「気にしないで。貴方と由乃ちゃんとのこと、私も少し責任感じてるの」
余計なことを言ったせいで、と紅薔薇さまは申し訳なさそうに言ったけれど、そうではないと思った。少なくとも紅薔薇さまが気に病むことではない。
「いえ、そんな。私が至らなかったせいですから……。きっと、これは自分自身が向き合わなくてはならないことなんだと思います」
「……そう。でも貴方が望むなら、相談にのるわよ」
「うん、私たちにできることあったら言って」
「……はい。その時期が来ましたら、ご相談したいと思います」
ここまで気遣ってくれるお二人に心底感謝し、その思いを込めて令は一礼した。
ある程度落ち着いたとはいえ、令はまだ混乱状態にある。
だから今はとにかく考えたかった。
自分のこと、由乃のこと、そしてこれからのことを。