島津由乃に転生   作:琉命

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「先生にもちゃんと言ってあるから、由乃は気にしなくていいからね」

 

そんな令ちゃんの声に背中を押され、舌の根も乾かぬうちに私は教室を出た。一見説得されたような形になったが、納得はしていない。

令ちゃんは祐巳さんと何のお話をするというのだろう。せっかく迎えに来てくれたのに、わざわざ私を放ってまでしたい話とは一体何なのだ。

ぐるぐると、終わりのない思考に捕らわれる。

剣道部へ向かうその足取りは、石のように重い。

 

 

――

 

 

令さまとは知り合ってまだ間もないけれど、いつになく真剣な表情をしているから祐巳の表情も固くなった。一体どんな話をするというのだろう。

ドキドキしながら令さまの言葉を待つ。

 

「祐巳ちゃん」

 

「は、はいっ」

 

名前を呼ばれただけで、その溢れ出る凄みに祐巳は思わず一歩後ずさってしまった。

 

「由乃とお話していたよね?」

 

しかし令さまが言ったのはちょっとした確認のような質問でしかなくて。ちょっと拍子抜けした心地である。

だから祐巳も、気の抜けた返事しかできなかった。

 

「へ? ……あ、はい。ちょっとだけ」

 

「どんな話をしたの?」

 

「えっと、その、他愛もない話ですよ」

 

久しぶりだね、とか。ノート写すの大変だね、とか。

そんな社交辞令的な話をしただけ。

 

「あとは、その、ちょっとした愚痴をこぼしていました」

 

「へえ……由乃が。どうだった?」

 

三度繰り返される質問はどうも掴み所のないものばかりで、答える祐巳も困惑しっ放しだ。

話をしているというより問い詰められている感じで、やっぱり居心地の悪さは拭いきれない。

 

「どうだった、とは?」

 

「その……印象、とか」

 

ああ、なるほど。

つまり令さまは、由乃さんのことを心配しているのだ。

 

「まだそんなに話したわけではありませんから、偉そうなことは言えませんが……仲良くなりたいとは思っています。だって、一緒に山百合会で働く仲間なんですから」

 

「っ……そう」

 

令さまは祐巳の発言で一瞬目を丸くし、そして凛々しく微笑んだ。それは花開くような笑顔だった。例えるなら、向日葵のような。

 

「令さまも、由乃さんのことが大好きなんですね」

 

「ええ……もちろん。大好きよ」

 

令さまは胸を張ってそう言う。

 

「由乃さんも、令さまのこと大好きって言っていました」

 

「うん、知ってる」

 

すごいな、この姉妹。

由乃さんは令さまのことが大好きで、令さまも由乃さんのことが大好きで。

祐巳も祥子さまのこと好きだけれど、この二人ほど通じあっているとは手前味噌でも言えない。

お互いのことを大好きだと胸を張って言えるって、いいな。

 

「良かったら、また由乃の愚痴聞いてあげてくれる?」

 

「聞くだけでいいんですか?」

 

「十分。由乃にはそういう友達がいなかったからね」

 

「そうなんですか……でしたら、私なんかでよければお引き受けします」

 

あっさり答えてしまったけれど、つまり由乃さんは、クラスメイトに心を開いていないということ?

共に幼稚舎からリリアンに通っている身でありながら一度も同じクラスになったことがなくて、祐巳は由乃さんの人となりはよく知らなかった。

体育の授業は見学ばかりで、遠くから座って眺めている由乃さんの姿を何度か見たことがあるくらいで。

ともかく、令さまは周りに心を開いていない由乃さんを心配しているわけだ。

 

「ありがとう、祐巳ちゃん」

 

「いえ、そんな。というか、私なんかでよろしかったんですか」

 

「うん、祐巳ちゃんでよかったよ。由乃と仲良くしてあげてね。人見知りするけど、可愛くていい子だから」

 

そう自慢の妹を誉めちぎる令さまの表情は、とびきり素敵だった。蔦子さんがここにいたら、きっと迷わずカメラに納めていただろう。

学園の令さまファンや蔦子さん、そして新聞部には申し訳ないけれど、このかわら版にも載らないようなご尊顔はこの不肖福沢祐巳が独占させてもらおう。

 

「ごめんね、時間とらせちゃって」

 

言いながら令さまはふと壁掛け時計をちらりと見て、きっと思った以上に長引いたんだろう、「わっ」と小さく声を上げて立ち上がった。

 

「いえ、急ぎの用事があったわけではないですから、気にしないでください」

 

「うん、ありがとう。そうだ、薔薇の館に行くんだったら、お姉さま方によしなに伝えて」

 

試合が済むまで我が儘させてもらってすみません。

祐巳はそんな伝言を申し使った。

 

「じゃあ、私も剣道部行くから。ごきげんよう」

 

そういって、どこか清々しい表情で去っていく胴着姿の令さまは本当に格好いい。

 

「あ、はい。ごきげんよう」

 

背中に向かって声をかけると、令さまは振り返ることなく手を振って「ごきげんよう」と返してくれた。あまりに堂に入った仕草にぽーっと見とれてしまう。

 

……うーむ。

いつぞやに桂さんが言っていた、「黄薔薇は三年二年一年、すべて安泰」という言葉は的を得ていたと、祐巳は改めて思った。

だって、あんなに想いあっているんだもん。

 

けれど、祐巳の心には一つ疑問が残った。

令さまはなぜあんなにもすっきりした表情を浮かべていたのだろう。

 

 

――

 

重く垂れ込む不安の雲は、いつまで経っても晴れることはない。闇に包まれた心を照らしてくれるのは、世界中でただ一人令ちゃんだけ。今令ちゃんはここにいないのだから、それも当然だ。

令ちゃんのそばにいたい。今はその思いだけを拠り所にしていた。

 

その日、私には定期検診のため病院へ行く予定があった。

だから私は休まざるを得ないけれど、剣道部は例日通り稽古が行われる。試合が近いからもちろん令ちゃんだって参加するだろう。でも私は令ちゃんにそばにいてほしいと思った。一緒についてきてほしいと思った。

私は心から令ちゃんを渇望していたのだ。私の心の安定は、令ちゃんの存在によるものだから。

我が儘なのは分かっているけれど、令ちゃんの腕に抱かれて安心したかった。

だから私は今、令ちゃんに会うため二年菊組の教室目指して廊下を歩いている。

 

ああ、大好きな令ちゃん。どうして私たちは一年違いで生まれてきてしまったんだろう。

同じ学年であったなら、こうして令ちゃんを求めて二年の教室まで遠出する必要もないし、先に令ちゃんが卒業しちゃって、寂しい思いをしたりせずに済むのに。体裁の為にわざわざお姉さまって呼んだりもしなくて済むのに。

――とそこまで考えて、私は思い直した。

その場合、令ちゃんは別の妹を作っていただろうと。それは本当に嫌だなあって思ったのだ。いつからか私は、嫉妬深くなってしまったらしい。空想でしかないその妹にまで嫉妬心を覚えるとは。

それもこれも、最近令ちゃんがちょっと素っ気ないせいだ。令ちゃん分が足りないんだ。

そうやって令ちゃんのことを思いながら歩いている最中。剣道部へ向かう大好きな令ちゃんの姿を見つけ、私はすぐさま駆け寄った。

 

「令ちゃんっ」

 

「由乃? 今日は病院で検診があるんじゃ」

 

「う、うん。そうなんだけど……」

 

早く行った方がいいよって。気を付けてねって。もしかして体調悪くなったのって。

ううん、そういうわけじゃない。

心配してくれるのは嬉しいけれど、せっかくこうして会えたのに私の顔を見て一番に言うのがそんな言葉だなんて。

 

「えっと、その……令ちゃんも一緒に来てくれないかなぁなんて」

 

「私も? いや、でも私稽古が」

 

むっとして私は、渋る令ちゃんに迫った。

 

「い……嫌なの」

 

「え?」

 

「令ちゃんが一緒じゃなきゃ嫌なの。お願い令ちゃん、そばにいて。令ちゃんっ」

 

私は令ちゃんの腕にしがみついて懇願した。行かないで、ってひたすらに。

令ちゃんは優しく頭を撫でてくれたけど、やんわりと断られてしまった。

「剣道部の試合が近いならそっちの方に集中してって、由乃が言ったことでしょ?」

 

それはその通りだった。頑張って稽古して、悔いのない試合をしてほしかったから。剣道には真摯に向き合って欲しかったから、幼い頃から基本的にそういうスタンスでいた。そういうときは病院へも頑張って一人で行ってみせる、って約束したのだ。

けれど今はそれが裏目に出てしまっている。

 

「そうだけど……でも、今日だけは」

 

それでも無様にしがみつく。私には令ちゃんしかいないのだ。

 

「ごめん。私、由乃に甘えられるのは好きだけれど、お願い、今は我が儘言わないで」

 

「令ちゃん、お願い……そばに」

 

ごめん。

嫌だ、そばにいて。

そんな結論の出ない押し問答を何度も繰り返し、ついに令ちゃんは大きくため息を吐く。私を撫でる手も、放されてしまった。

 

「……ごめん」

 

私の口上を断ち切って言い放った謝罪はそれまでと同じ三文字の言葉ではあったけれど、そこに含まれる感情の度合いが違った。だって令ちゃんは真摯な目つきでこちらを見据えていたから。

私は何も言えず、口を閉ざす。

怒られる。

そう思って、私はぎゅっと目をつむった。

 

「由乃、前から思っていたんだけど、私たち、少し距離を置いた方がいいのかもしれない」

 

けれど令ちゃんは怒るのではなくあくまでも冷静に、そう言ったのだ。

その瞬間、心臓が停止したかと思った。

キョリヲオイタホウガイイ。

何だ、それは。そんな言葉、知らない。

その理解不能な言葉で身体機能に支障が起きたらしく、私はぴたりと動きを止めた。

 

「え……?」

 

令ちゃんに抱きついていた手が抜けて、だらりと脱力する。

心が乾いていくのが自分でもわかった。

胸にぽっかりと大きな穴を穿たれたかのように空虚な心地で、令ちゃんを見上げる。

 

「令ちゃん、何言ってるの……? そんなの、おかしいよ。何でそんなこと言うの……?」

 

ごめん、嘘だよ。

そう言ってくれればまだ笑い話で済むのに、令ちゃんはそれを撤回することなくさらに言葉を続ける。

 

「私もお姉さまたちに言われるまで気がつかなかったんだけど、私たちは距離が近すぎて、互いの姿しか見えていないような気がするの。それじゃあ良くないと思う」

 

お姉さまたち。ほとんど聞き流してしまったが、その言葉だけは胸に響く。

薔薇さま方が令ちゃんに何か吹き込んだの?

だから令ちゃんはおかしくなったの?

 

「何で……」

 

「よ、由乃?」

 

「何で、何で何で何でっ!」

 

差しのべられた令ちゃんの手を振り払い、今までにない熱量で喉を震わせる。

もう正常な思考はできなくなっていた。沸き上がる激情に身を任せて、私は思いの丈を叫び続ける。

 

「そうだ……この間だって、その前だって。ずっと令ちゃんはおかしかった!」

 

「由乃、落ち着いて!」

 

肩を揺さぶってくる令ちゃんをよそに、私は一つの結論に辿り着いた。

 

「ああ、そっか。令ちゃんは……私のこと嫌いになったんだっ!」

 

そうだ。

令ちゃんがあんなこと言うなんてそうとしか考えられない。

 

「そ、そんな訳ないじゃない!」

 

この期に及んで令ちゃんは何やら言い訳している。

中途半端に気を遣われるくらいなら、いっそ嫌いって言ってくれた方がよかった。

 

「あはは……そっか。そうだよね……そうとしか考えられないもの」

 

あはは。あははは。あはははは。

何かすごく可笑しくなって、狂ったように哄笑した。いや、比喩でなく既に狂っているのかもしれない。

 

「あはは……もう、どうでもいい。私にはもう令ちゃんしかいないのに……」

 

「由乃……」

 

剣道を失った私を救ってくれた、令ちゃん。

私は令ちゃんに生きる希望をもらったのだ。令ちゃんがいてくれることが、今生の幸せだった。

けれど令ちゃんに嫌われた今、どうでもよくなってしまった。

剣道部も。

山百合会も。

令ちゃんとの姉妹関係も。

何もかも、全てが。

 

「もう、こんなもの……いらない!」

 

自分の首にかけられているのは、姉妹の契りを交わしたロザリオ。入学式の日に令ちゃんがかけてくれたものだ。

姉妹の証のロザリオなど、もはや何の意味もなさない。

私はそれを力任せに首からはずした。そのまま、立ち尽くしている令ちゃんの体に思い切り投げつける。一瞬令ちゃんが怯んだその間に、私は気づけば駆け出していた。

スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないようにゆっくりと歩く――そんなたしなみなど唾を吐き捨て、不格好に全力疾走する。

令ちゃんに何度となく可愛いって褒められたお下げ髪も振り乱して、無茶苦茶に走る、走る。

目的地などあるはずもない。私はただ令ちゃんから逃げたいという思いだけだったから。そして、同時に現実からも。

 

「由乃! 待って、そんなに走ったら!」

「こないで!」

 

息も絶え絶えに、追っ手を振り払うため必死に声を張り上げる。

体に差し障る?

それがどうした、構うものか。

 

放課後間もない時間のため、校舎内の人通りも決して少なくない。

歩く生徒の肩にぶつかったり、騒ぎを聞いて集まってきた生徒が目を丸くしてこちらを見ていたり。注目される要素は揃っている。

そんな生徒たちの間を縫って、無我夢中で疾駆する。

呼吸が乱れるのも構わず、勢いに任せて階段を駆け下りようとしたときだった。

 

「ぐっ……!」

 

令ちゃんの懸念通り、発作は起きた。

激しい動悸はそのままに、鋭い胸の痛みに襲われる。そして、多量の発汗とこみ上げてくる吐き気。

あ、これはまずいやつだ。自分の身体のことだ、嫌でもわかる。

思わず胸に手を当てるも、くらっと足元がふらつき、前につんのめった。さて、今自分がいるのは果たして何処であったか。

階段である。

そんな場所にいて、かつこの覚束ぬ足取りでは安定をとれるはずもない。案の定私は足を踏み外し、頭から転げ落ちた。

一回転そして二回転してようやく勢いは止まり、床に倒れ伏す。反射的に腕を回して頭を守ったけれど、それでもかなりの衝撃だった。

きっと、かなりの激痛だったんだろう。何となく血が流れているような気もしたが、それも実際のところはわからない。

それを実感するよりも先に、私の意識は遠のいていったから。

 

その時私は、もうこのまま死んでもいいかなって、ぼんやりと思った。

 

「由乃っ!」

 

そんな声も遠く、遠く――。

 

 


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