倒れ伏した刹那を、涙を流す木乃香に預け、クウネル・サンダースことアルビレオ・イマは、後ろの二人を守るように白峰の眼前にて仁王立つ。それを黙って目配りしていた白峰だが、ふとアルビレオのみに目をやった。瞬間、凄まじい重圧がアルビレオを叩き潰そうと覆い被さる。
アルビレオは苦痛に声が漏れそうになる。が、けしてそれを表に出さず、飄々と人をからかう普段の態度を捨て去り、白峰をにらみ返す。
「邪魔立てするか。貴様は我らと同一なのに」
肩越しに背後を見やる。
気を失った刹那を抱えた木乃香が、肩を震わし唯々謝罪の言葉を嗚咽と共に漏らしている。
アルビレオはこんな悲嘆に暮れる人間の姿を見るのが嫌いだった。趣味の悪戯とて、人々が伸び伸びと感情を爆発させる様を見るのが好きなのであって、今の木乃香のように冷え切った闇に覆われていくのは、見るに堪えない。苦痛であり、いつまで経っても慣れることの出来ない四苦八苦だ。
故に告げる。
「貴方が若い芽を腐らせるならば」
それだけはけして許さない。アルビレオの端正な顔立ちが変わる。阿修羅をも上回る鬼面だ。涼やかな心を怒りが、否、憤怒が煮えたぎらせ、その身体をせっつく。
「それに貴女方と同じ? 冗談じゃありません。反吐が出る。私はアルビレオ・イマ。赤き翼のアルビレオです」
だからこそ英雄の教示を高らかに名乗り上げる。
強きをくじき弱気を助くる。英雄の全てを誇りとして。
「貴様は賢しいと考えていたが、存外愚かであったようだ。そんな身体で私と戦うか?」
白峰がにたりと嘲る。
確かにアルビレオは、隠していたが疲弊しきっており、まともな力なぞ残されていなかった。
麻帆良武道会後、アルビレオは黒に襲われ敗北し、捉えられていた。
武道会を監視していた黒に気がつき、その正体を感づいたまでは良かった。しかしそれは黒もまたアルビレオに気がついたのと同義であり、襲われたのだ。抵抗虚しく捉えられ、時間軸すら異なる異界の牢獄へ閉じ込められ、漸く脱出したばかりだ。休む暇さえなかったアルビレオの身体には、黒との戦いや脱出を拒むために仕掛けられた罠によるダメージがあり、さらにはそれらにより殆どの力を使い果たしてしまっていた。
その結果、本来ならば大海を思わせる魔力は水滴ほども残っていない。
万全な状態ですら大妖怪を相手にするとなれば、その命は覚悟しなければならない。だというのに、疲弊しきった身で戦うなぞ、正気の沙汰ではない。
しかし。しかしそれでも。それでもだ。今戦わなければならないのだ。後ろで倒れ伏している少女二人を守るためには。
「馬鹿で結構。時にはその馬鹿が信じられない事をなし遂げる。世界とはそういうものです。私はナギにそれを教えられました」
視界を遮るフードを降ろす。辷らすようにして左手に仮契約カードを取り出し構える。
「アデ――」
アーティファクトを具現化する文言。それを言い切るよりも早く白峰の姿がかき消える。それを理解するより早くアルビレオの身体はアーティファクトの具現を中断し、回避動作へ移行した。
「遅い」
経験による人智をも越えた判断。それを持ってしても、白峰の速度を勝ることは出来ない。
白峰の蹴りが左手首を粉砕する。鈍い音が響き、次いで血が辺りを舞う。ぼとりと、白峰の蹴りで引きちぎられた手首が地面にぶつかる。鮮やかすぎる赤が、辺りを彩る。
それだけの一撃を受けてなお、アルビレオは苦痛のうめき一つ漏らさず、右手へ別の武器を辷らす。
握られるは銀色の短剣だ。
「お得意の魔法はどうした? 使わないのか?」
安っぽい挑発だ。いくら怒りに身を投げたといえども、その程度で理性を投げ出すアルビレオではない。白峰の速度を相手に悠長に呪文を唱える余裕はない。例え無詠唱の魔法を放てたとしても、白峰ならば視認してから悠々と避けるだろう。
そもそも魔法使いの尤も苦手とするのが速度のあるインファイターであり、その極致が白峰だ。魔法使い殺しとも言える相手に無策のまま魔法で挑もうなど、アルビレオはそんな馬鹿を通り越して考えることを放棄した無謀はしない。
とはいえそれでも彼我の速度差は絶対的な隔たりがある。此方は蟻の歩み。彼方は隼の飛行。追いすがったとしても影すら踏めない。故に必然的にアルビレオが採れるのは、カウンターを主体とした待ちの姿勢だけだ。
ナイフを片手に、待ち構える。
「キツツキを知っておるか? やつらは奇妙な鳥でな。幹を叩いて餌の虫を捕らえる。そのときただ叩くのではなく、木の穴の反対側から叩いて、獲物が外へ出るよう誘導するのだ」
アルビレオは悪寒が走り、その感覚に従い身を投げ出す。次の瞬間、上空からヘドロのような粘性をした
「そうら。身体を出した」
そして呪いを回避したアルビレオは、体の良い的と化した。体勢を立て直す猶予もなく背後から白峰に蹴られ、吹き飛ばされて地面を転がる。その勢いがまだ止まぬうちに正反対の方角から蹴り飛ばされる。
それが幾度も繰り返される。
「蹴鞠を思い出す」
遊ばれている。麻帆良の魔法使いの中でも最強に相応しい実力者が、手玉に取られる所か、遊び道具にしかなりえない。
圧倒的なまでの実力差に、アルビレオは分かっていたことであるが、それでも歯ぎしりを禁じ得なかった。
しかしそれでも諦めることだけはない。転げながらもナイフを振るう事で、一時の隙を作り立ち上がる。
アルビレオの息をつく暇もなく、白峰が五つの羽根が投じられた。黒い羽根が突如円形状に広がり、逃げ場を奪うように挟み込んでくる。それに対しアルビレオはナイフを背後に振るった。
鮮血が舞う。五つの羽根が、アルビレオに食らいついていた。
「ほう。見破ったか」
アルビレオの足下に、六つ目の羽根が斬り落とされ転がっている。その羽根は、呪いを纏っており、今もなお触れたものを溶かしている。
アルビレオがナイフを投げ捨てた。投げ捨てられたナイフは、すでに刃が溶けきっており、瞬く間に柄までも煙を立てて消えていった。
それを見届けることなくアルビレオは突き刺さった羽根を引き抜く。
そこまでして、アルビレオの膝がくずおれる。蓄積したダメージが滔々足にきたのだ。そしてそれだけの隙を白峰が見逃すはずもなく、アルビレオが体勢を立て直す前に、その周囲には黒い風が渦巻いていた。その風は超音速で飛び交う白峰そのものだ。
囲まれたことに気づいたアルビレオは、咄嗟になけなしの魔力で障壁を貼る。次の瞬間、削岩機を数十台同時に使ったような爆音が鳴り響いた。白峰が超高速で動くことで生み出された鎌鼬が、アルビレオの障壁を削っている。見る見るうちに障壁が薄くなっていく。障壁が破られたら、そのままアルビレオが全身を切り刻まれるだろう。
アルビレオが歯をむき出しにして障壁を維持する。破られるわけにいかないのだ。死力を振り絞った甲斐もあり、徐々に障壁が持ち直していく。
とはいえこのまま鎌鼬から身を守っていても、勝機はない。故に囲まれたこの状況から一度脱出しなければならない。残り僅かな魔力がさらに減ってしまうが、短距離転位魔法を行おうとした。
しかしそのときアルビレオがふと気づいた。何時の間にか風の音が止んでいたことに。
なりふり構わず前へ転がる。後ろからジュッという音がした。振り返れば、先程までアルビレオがいた所に、障壁を溶かした呪いが留まっている。
八方ふさがりだ。
白峰の余りの速さにアルビレオは護りを固めるしかない。しかしいくら護りを固めても、その護りを無に帰す呪いが白峰にある。
なんとか速さか呪いのどちらか一方でも無効化しなければ、アルビレオに勝ち目はない。
「ふ、ふふ。あのときの光景が今思えば楽に見えてしまい困りますね」
ならばそれをするだけだ。アルビレオは覚悟を決めた。
最後の詠唱を高々と謳う。
重力魔法。それもアルビレオの使える魔法の中で最大規模且つ最大重力を生み出す魔法だ。
「乾坤一擲の大博打か。武士のようで見苦しい」
その隙を白峰が見逃すはずもなく、アルビレオの背後に回った白峰が、最後の一撃を繰り出す。
『呪詛 安元の大火』
爪から血の呪いが溢れ、白峰の手を覆う。赤い呪いは今までの呪いと比べても桁違いの純度で、触れてもいないのに無差別に近くの命という命を殺していく。それだけの呪いが黒く染まり、炎が上がる。かつて太郎焼亡とも呼ばれた、京都を焼き尽くした大火が。
炎を纏った腕がアルビレオの脇腹を貫いた。
白峰の顔が楽しそうに歪む。口角はつり上がり、感動しているのか身体を震わしている。
しかし、その表情が困惑に変わる。
「なぜ貴様はまだ存在する?」
存在するはずがない。呪いの大火を浴びて、存在を許されるものなどいない。白峰の呪いとはそんなやわなものではない。祟り神の中でも尤も恐れられた白峰の呪詛が、死にかけている存在を滅ぼせないなどありえない。
「どうやら賭けは勝ったしたようですね……。貴方の事です。危険を避けるため背後から、そして最後の最後まで私を痛めつけるのを目的に、脇腹を貫くだろうと予想しましたが。……ここまでうまくいくとは」
アルビレオが微笑んでいる。
「まさか……、馬鹿な……、貴様!」
ローブが風に翻る。
「自分から腹に穴を開けたというのか!!」
アルビレオの脇腹があるはずの場所が、人の頭ほどもぽっかりと消えてなくなっていた。
「その通りですよ。貴方を倒せるなら、私の腹なぞいくらでもくれてやりましょう!!」
アルビレオは、最強の魔法を詠唱しながら、無詠唱の魔法で自らの腹に穴を開けていた。その風穴を白峰は穿ち抜いたのだ。
逃げようとする白峰。しかしすでに隼は罠に引っかかったのだ。ならば後は逃げられぬよう罠の口を閉ざすだけ。詠唱を終えて遅延していた魔法が、重力魔法最大規模の魔法が、アルビレオによって僅か数メートルの規模にその密度を凝縮させ発動する。
頭上から瀑布の如くのし掛かった重力が、アルビレオごと白峰を押しつぶす。
「何故だ、何故だ! 何故貴様は見も知らぬ子供のためにそこまで出来る!? 私は、私は……血族に悔いることすら許されず虐げられたというのに!! 何故なのだ……貴様は何故見も知らぬ小娘を助けるためにそこまで必死になれる!?」
凄まじい重圧に押しつぶされながらも叫ぶ白峰に、アルビレオは笑ったまま答える。
「そんなこと簡単です。助けたいからですよ。貴方にだっていたはずです。貴方を助けようと、貴方の元に集った人々が」
そして白峰が押しつぶされるほどの重力の中、振り返り白峰を掴みあげる。
「それすら忘れ果てた貴方に負ける道理などない!!」
正真正銘全ての魔力を込めた拳が白峰の頬に突き刺さる。
吹き飛んだ白峰が地面に転がる。
「……よくも」
白峰の身体から呪いが溢れ出す。それは明らかに白峰のコントロールから外れていた。のたうち回り、周囲を滅ぼしていく。
「よくもほざいてくれものよ。我が憎しみを。我が憎悪を。知った口を。許さぬ。けして許さぬ。我は日本国に住まう大魔閻! 全ての者に厄災を!」
倒れ伏したまま白峰がアルビレオを睨んだ。それと同時に呪詛がアルビレオへと近づいていく。
「覚えておれ。貴様は私が呪う」
突風が吹く。重力魔法が破られ、魔力が辺りに散る。白峰が倒れていた場所には誰もいなかった。
それを見届けたアルビレオが、仏倒しに倒れ込む。もはや虚勢を張ることすら出来なかった。魔力を、力の全てを使い果たし、しかしそれでもアルビレオは満たされていた。
「守れ、ましたか。……そうですね、ふふふ。今度、キティにでも猫耳白スクハイニーソで労ってもらうとしましょう……か……」
空から降り注いだ一枚の羽根がアルビレオの背に乗る。
ばたんと音が響く。
そこには、一冊の本だけが転がっていた。