ヴァルバトーゼは結界を踏み越えた直後、明確に空気が変わったことを知覚した。
振り返ればそこには獣道と木々の群れしか見当たらず、霊夢の姿も文の姿も見当たらない。
「外に出れた、ということか」
そう呟きながら、ヴァルバトーゼは周囲を見渡した。特別景観に変化はない。
しかしあることを思いついたヴァルバトーゼは、歩んできた方向――博麗神社があった場所へと向かっていった。
重なり合う枝葉の奥に見える建物の影。その正体が明確になった瞬間、ようやくヴァルバトーゼは確信を得ることができた。
「成る程。重なっている、というのはこういうことか」
確かに、そこは博麗神社が存在した。
形も大きさも全て同一。だがそれは彼の知っているそれとは違う。ところどころに虫食いや腐食が見られるその寂れ具合は、人の手が入らなくなって久しいことを示しているのだから。
しかしこれはすなわち外に出れたという証明に他ならない。ならばヴァルバトーゼの転移は今度こそ阻まれずに発動するはずである。
ゆえに彼は、己の魔力を脈動させた。特殊な条件も複雑の術式も必要ない、まさしく瞬間移動に相応しい転移術が今次元の壁に亀裂を刻み――
「…………やはり、か」
だが、ヴァルバトーゼの姿はそこに在り続けた。
転移失敗。だが結界ではない。そんな手ごたえは感じておらず、しかし答えは知っている。
魔力の不足。それこそがヴァルバトーゼの帰還を阻んだ原因であり、致命的な原因でもあった。
しかしそれでは道理が通らない。転移でこれたのならば、転移で戻れるのは当然の理屈なのだから。
言い換えればそれは、ヴァルバトーゼは転移の結果としてこの世界に訪れたわけではないということになる。
だがヴァルバトーゼに驚愕はない。ここが異世界であると確信した瞬間から、予想はしていたのだから。
そもそもからして、吸血鬼のチカラを失っている彼に次元間転移を成し遂げる魔力が存在するはずなどない。
例えそれが転移の失敗の結果によるものだとしても、行き着く先は消費した魔力量に応じるのだから。
それでも、あるいは、万が一。この世界が彼の世界と極めて近い位相に存在しているのだとしたら可能性はあった。
やはりというか、そんなことはなかったのだが。
「さて、どうするか」
これで振り出しへと戻ったことになる。手がかりなど何一つ存在しない。
しかしどういう過程を経たにせよ、ヴァルバトーゼが現れたのは幻想郷だった。ならば帰還の手段、あるいは手がかりがあるのはやはり幻想郷だろう。
そして幻想郷に戻る手段は聞いている。この場所で瞑想でもすれば、おそらく中へと戻れるだろう。
だがその手段を即座に取れない事情が、ヴァルバトーゼにはあった。
文から聞いた話が、彼の脳裏を掠める。それは彼女が幻想郷の成り立ちを説明したときのこと。
『幻想郷はとある島国の山奥に存在していました』
そしてそれはごく狭い範囲であるとも言っていた。
ならばほぼ確実に、幻想郷には海が存在しないだろう。それこそヴァルバトーゼが迂闊に戻れぬ最大の理由。
何故ならば、幻想郷には海水魚であるイワシがほぼ確実に存在していないからだ。
これはヴァルバトーゼにとって死活問題と断じていいだろう。イワシとはヴァルバトーゼにとってただの大好物というわけではないのだから。
かつて吸血行為を断った彼は、長きにわたる断血の影響で著しく弱体化している。一番酷い時期では碌に肉体活性もできなかった程だ。
そんな彼が今ではまともな戦闘行為に耐えうる魔力量を確保し、短距離とはいえ転移すら複数回行使が可能となっている。
ヴァルバトーゼはそれこそがイワシの力だと断じた。まともな思考の持ち主ならば、一笑に付すような話だろう。
だが恐るべきことに彼の魔力が上昇傾向を示し出した時期と、彼がイワシを食べ始めた時期が一致しているのだ。
それだけではない。ヴァルバトーゼがこれをイワシの力だと強く信じていることも重要なのだ。
人間とは違い天使や悪魔といった存在は己の精神状態に強く能力を左右される。当然プラシーボ効果も、人間のそれとは桁違いに強い。
結果、『イワシを摂取できなければ、イワシパワーがなくなってしまう』――そうヴァルバトーゼが思ってしまえば、それが現実の結果として現れかねないのだ。非常に馬鹿げた話ではあるが。
何にせよイワシを断つということは、ヴァルバトーゼの精神に多大な影響を与えることだけは紛れもない事実なのだ。
「何にせよ、まずはイワシだな」
ゆえに彼が幻想郷への帰還を後回しにしたことは決して愚かとは言えないだろう。
目的地を海とした彼は、まずは下山だと一歩足を踏み出した――その瞬間だった。
「な」
ヴァルバトーゼの足は、何故か大地の感触を伝えてこなかった。それだけではない。まるで何もないかのように、際限なく足が沈んでいく。
異常事態に目を向ければ、そこには『裂け目』が存在した。物理的なものなどではない。おそらくは空間的なものだろう。
深い闇と、無数の目玉。その裂け目の奥には、その二種類だけが存在した。
マズい、とヴァルバトーゼは直感的に確信する。だから彼は軸足に力を込めてその場から離脱を試みた――みようとした。
未遂に終わった理由は、裂け目がより大きく口を開いたゆえに。力を込めた軸足もまた、闇の底へと飲み込まれていく。寒々しい浮遊感がヴァルバトーゼを包み込んだ。
ならばと彼は転移の術式を編み出した。
理解できない異常事態。秒にも満たない僅かな猶予。それでも動揺を最小限に抑え、迅速に離脱を選択した彼の意志力はまさしく剛毅果断といえるだろう。
だが、彼を襲う『それ』はさらにその上に達していた。
「んだとォォォォォ!?」
転移失敗。
確かな結界による妨害の感触に、今度こそ彼は絶叫した。もがく余裕も与えずにあっさり彼を飲み込んだその裂け目は、目的は果たしたといわんばかりにその口を閉じる。
こうして彼は亜空間へと閉じ込められた。
重力が存在しないため上下左右の感覚が掴めない。加えて無数の紅い目玉がところ狭しと周囲を覆うこの異界。常人ならば数分と持たずに発狂してもおかしくない。
だがヴァルバトーゼはこれを好機と判断した。
何故ならこれはこの世界へ訪れて、初めて彼を襲った作為。あるいは彼を、この世界へとつれてきた張本人の仕業かもしれないのだから。
来るなら来いと、そう不敵に笑うヴァルバトーゼを襲ったのは下へとかかる力の流れだった。
「む――?」
視界が明転したことで、ようやくそれが重力であることに気づく。
どうにか平衡感覚を取り戻せたヴァルバトーゼは、紙一重の差で足から着地することに成功した。
「……何事だというのだ、一体」
空を見上げる。青い。ならばここは中か外か。何故己は異界から放り出されたのか。
状況を把握せんと、彼の思考が高速で回る。その、最中。
「――ようこそ私の屋敷へ、歓迎しますわ」
「――――」
例えるなら、それはまるで意識の隙間に差し込まれたかのように。
そう評するほどに絶妙なタイミングであった。思わずヴァルバトーゼが飛び退いたとしても無理もない。
油断なく声あるほうへと目を向ければ、そこには大きな屋敷があった。その縁側。一人の女性が優雅に腰を下ろしている。
今話しかけてきたのは彼女に違いないだろう。
「何者だ、キサマ」
誰何を行いながらも、ようやくヴァルバトーゼは現状を把握しつつあった。
どうやら己はこの屋敷の庭へと落とされたらしい。誰によってなどというのは、無用な思考というものだろう。今目の前にいる、右手の扇子で口元を隠して見透かすように紫眼を向ける金髪の女。彼女の他に誰がいるというのだ。
だがこの気配。ヴァルバトーゼは彼女の気配をどこかで感じた覚えがあった。それもつい最近に。
「はじめまして。私の名は八雲紫、よろしくヴァルバトーゼ……でよかったかしら?」
「何故俺の名を……そうか――キサマは神社で感じた気配と」
博麗神社に訪れてから、ヴァルバトーゼは奇妙な違和感を覚えていた。
その違和感が最大に膨れ上がったのが、まさしく霊夢が術を行使する間際のこと。ゆえに彼女が原因だと納得していたのだが、どうやら違ったらしい。
「あら、いい勘してるわね――って言ってあげたいけど貴方を見ていたのはもっと前からよ、吸血鬼」
「フン、悪趣味だな」
ヴァルバトーゼが己の種族について話したのは未だ文のみ。その情報を知っているということは、それ以前から覗き見ていたということだろう。
自身の種族は文にしか話していない。つまり博麗神社に向かっているときも見ていた、と言いたいのだろう。
何にせよ、上から目線で話しかけられるのはいい気分ではない。敵対も辞さない構えを見せながら、ヴァルバトーゼは目的を問う。
「それで? 何が目的だ」
「そういきり立たないの。別に貴方と敵対するつもりはないわ。今のところはね」
「何?」
おそらくは彼女こそがヴァルバトーゼをこの世界へと連れてきた元凶である。
そう考えていたヴァルバトーゼにとって、紫の答えは予想外もいいところだった。彼の眉間に強く皺が寄っていく。
それでも紫は口元に湛えた笑みを崩さずに言葉を紡いだ。
「ただ一つ、貴方に確認したいことがあるわ。答えてもらえるかしら」
「言ってみるがいい」
「なら遠慮なく。何故貴方は、故郷へと帰らなかったのかしら? 私はね、貴方が素直に故郷へと帰るなら邪魔をするつもりはなかったわ。だというのに貴方は何故かどこかを目指して歩き始めた。だからこちらへ――幻想郷へとお帰り願ったのよ。それともまさか、異世界へ行くのに歩いていく必要があるなんて言わないわよね?」
口調こそ柔らかいが、紫の目は鋭く細められている。奥に灯る紫の光は、虚偽は認めないと強い意志を発していた。
しかし成る程。幻想郷、言われてみれば確かに空気の感じがそれらしい。そして紫の言葉が事実なら、確たる正当性は彼女にあるということになる。疑うのは当然だろう。
無論、ヴァルバトーゼにそんなつもりはなかったのだが。
「帰らなかったのではない。帰れなかったのだ。どうやら魔力が足りぬようでな」
「確かに、貴方からは別の世界にいけるようなチカラを感じないわね。その言、信じましょう」
理屈は通ると、紫は小さく頷いた。
しかし未だ彼女の放つ圧力は途絶えていない。
「――ではどこへ行こうとしていたのかしら? 幻想郷と外の関係について話を聞いていた貴方なら、外では大した手がかりが望めないことなどわかるでしょう?」
道理を通せと、見下すように紫は告げる。
だからヴァルバトーゼもまた、堂々と即答した。
「無論――イワシだ」
だというのに、どうして紫は豆鉄砲を受けた鳩のような面をぶら下げ出したのか。
それでもどうにか笑みで取り繕った紫は、聞き間違えたというようにこめかみに指を当てて問い直す。
「……ごめんなさい。私ちょっと耳が遠くなってしまったみたい。もう一度言ってもらえるかしら?」
では仕方ないなと、ヴァルバトーゼは頷いた。
「イワシを補給するつもりだったと、そう言ったのだ。……待て。まさか! この世界にはイワシが存在していないのか!?」
この世界は、同一世界だと言われれば納得してしまうほどに酷似している。ゆえヴァルバトーゼはイワシもまた存在するものだと思ったのだが。
イワシのない生活に戦慄を覚えながら、渋面を浮かべて答えを待つ。
しかし中々その答えが返ってこない。紫を見れば、その表情に確かな困惑が透けて見えた。
「ねえ、まさかイワシって……魚の?」
「うむ! その通りだ! そしてその口ぶりから察するにどうやらきちんと存在しているようだな。安心したぞ。だが流石はイワシ。異世界においてもしっかりと存在を保っているとはな」
うむうむと頷いていたヴァルバトーゼだが、ふと紫の様子がおかしいことに気づく。
見れば頭を押さえて顔をしかめている。
「どうした。頭痛でもするのか?」
「……いいえ。大丈夫よ。それより貴方、吸血鬼なのよね?」
「当然だ。自分の種族を偽う理由などなかろう」
「だから私はてっきり人間の血を吸うために外で活動するつもりなのかと思っていたのだけど」
なるほど、とヴァルバトーゼは手を叩いて納得した。吸血鬼が人間界で何をするかを考えれば、確かに至極妥当な推察だろう。
もっとも、常識を当てはめるにはいささか相手が悪かったようだが。
「……まあいいわ、納得しましょう。それで、貴方はこれからどうするつもりなのかしら?」
「無論、帰る手段を探すとも」
「――もし幻想郷に住むというなら歓迎するわよ? ある程度なら便宜を図ってあげてもいいわ」
「……どういう風の吹き回しだ」
とてもではないが、先程まで一触即発の空気を作っていた相手とは思えない。
だというのに紫はその返答に不服そうな表情を見せている。
「別にそう不思議なことでもないでしょう。ここは幻想郷、受け入れる相手の出自は問わないわ。例えそれが異世界であってもね。貴方が悪意持つ妖怪ではないことが理解できた以上、拒む理由はないわよ」
「……ふむ。だがその話、断らせて頂こう」
「別に今結論を出せとは言わないわよ。もし帰る手段が見つけられなかったら、という話で構わないわ。悪い話ではないと思うのだけど」
いまいち心の奥で何を考えているのが分からない相手だが、それでもその提案は紫の善意によるものだろうとヴァルバトーゼは思った。
だがしかし、彼女の話は論ずるにすら値しない。
「そういう問題ではない。故郷には絆がある。果たさねばならぬ約束も残している。ならば必ず帰らねばならぬ。事の可否など問題ではない。帰らねばならぬ以上は必ず帰る。それが約束を果たすということだ。そもそも、現実に膝を屈して怠惰を貪るなど――例え神が許そうともこの俺自信が断じて許さんッ!」
そしてそれは自身を探すために手を尽くしているだろう仲間たちへの最大の侮辱であると、ヴァルバトーゼは知っていた。
ならば彼に諦観など生まれる余地すらありはしない。この程度の無理難題など、かつて幾度も乗り越えているのだから。
だからこの話はなしだと、ヴァルバトーゼはそう告げた。
だというのに、何故紫は笑みを浮かべているのか。しかも今まで彼女が見せていた、貼り付けたような笑みではない。柔らかな、暖かい笑みだった。
「――気に入ったわ。手を貸しましょう」
「む。いいのか?」
「ええ、私もね、幻想郷には愛着があるの。だからもし私が貴方のような立場になったら、決して帰還を諦めないでしょう。端的に言えばね、共感したの。でも貸し一つよ。必ず返しにきなさい」
そう言いながら、紫は妖艶に笑う。
そんな彼女にヴァルバトーゼもまた笑みを返した。
「フ……よかろう。必ず借りは返す。約束しよう」
「期待しておきましょう。――さて、貴方の帰還について話す前にいくつか聞いて貰いたいことがあるのだけど」
「ほう。何だ」
「幻想郷の常識よ。文から多少は聞いたでしょうけど、全然足りないわ。あまりトラブルを起こされても面倒だし、できる限りここで覚えていって貰うわよ」
「成る程。よかろう、聞こうではないか」
こうして、紫による幻想郷レクチャーが始まった。
幻想郷の成り立ち、スペルカードルールを初めとする特殊決闘法についてや妖怪と人間の関係、妖怪同士のルール。
知っておくべきこと、知っておいて欲しいことを彼女は時間をかけてゆっくりと語っていく。
そしてその話の多くに関わる、一人の妖怪がいた。その名を八雲紫――すなわち彼女だ。
どうやら彼女はこの幻想郷においてかなり重要な位置を占める妖怪らしい。本人談だというのがいまいち信用に欠けてしまうが。
だがいくつか納得がいく点もあった。例えば先程ヴァルバトーゼに幻想郷の定住を勧めたことだ。まるで紫がある程度の権力を持っているかのような語り口だったが、幻想郷の歴史に深く関わっているならば頷ける話である。
幻想郷に愛着があるのも当然だろう。成り立ちから、あるいはそれ以前からこの地にて過ごしてきたのだろうから。
そして紫はこれが最後と前置きして、ある一つの契約について語り始めた。それが――
「……吸血鬼との契約だと?」
「そう、以前この幻想郷で吸血鬼が暴れたことがあったのよ。勿論結果としては鎮圧したのだけどね。お咎めなしとはいかないし、禍根を残したくなかったからいくつか約束事を決めたのよ。吸血鬼を対象としてね。幻想郷にはその契約を遵守させる結界が存在するのだけど、貴方に効果が及ぶかは怪しいしね。一応貴方も吸血鬼である以上その契約は守ってもらわなきゃいけないのだけど――」
「ひとまず、内容を聞かねば判断できんな」
「では挙げていきましょうか。一つ、勢力の拡大禁止」
当時幻想郷で暴れた吸血鬼は、幻想郷内の弱勢力を片っ端から傘下に収めたらしい。そしてその手段がまた問題だったとも。
力で屈服させただけならばよかったのだが、件の吸血鬼は血液交換による傀儡化を多数の妖怪に対して行ったらしい。確かにこれは、禁じられても仕方ないといえるだろう。
もっともヴァルバトーゼには全く関係のない話であるが。勢力争いに興味などなく、シモベも仲間も十分以上に足りているのだ。ヴァルバトーゼがこの契約を破る理由などない。
「二つ、侵略行為の禁止」
これもまた問題はない。この幻想郷を侵略する理由など何一つないのだから。
そもそも侵略行為自体に興味がない。手段としてならあるいはとりうることもありえるが。
「三つ、人間を襲わないこと。これで最後ね」
幻想郷の人妖バランスは極めて際どいバランスで成り立っているのだと紫は言う。
そんな中ぽんぽん人間の数が減らされていってはすぐに幻想郷は崩壊してしまうのだと。
しかし当たり前のことではあるが、吸血鬼は人間の血を吸わなくては存在意義を失ってしまう。また他にも他の動物でもある程度代用は聞くとはいえ、人を食べる妖怪も存在する。
そこで外との流通を行える自身が、外の人間をさらってきた上で食料として提供しているのだと紫は語った。
「当然貴方にも血が必要でしょうから、提供するつもりはあるのだけど」
「無用だ」
「……? どういう意味かしら?」
鋭い目でヴァルバトーゼを射抜く紫。まさか貴方、などと言い出しかねない表情だ。
だが違う。彼女は大きな勘違いをしている。ヴァルバトーゼに血が必要ない理由は、もっと単純なものなのだから。
「俺は今、血を断っている。よって人間の血は必要ないというだけだ」
「…………貴方、本っ当に吸血鬼?」
「そうだと言ったはずだがな」
「種族の業に逆らう、というのはそんな簡単なものではないのだけど。貴方の世界では違うのかしら」
「いや、そんなことはないぞ? 事実今、俺は吸血鬼としての魔力を全て失っている」
とはいえ普通ならば存在の維持に関わるレベルの話である。種族の業に逆らうとは、自己の否定に繋がりかねないのだから。
ヴァルバトーゼがチカラを失うだけで済んでいるのは、おそらく彼が己を『悪魔』とカテゴライズしているからだろう。
「……待って。ということは、血を飲めば必要な魔力を得られるのではなくて?」
「生憎とその仮定には意味がない。血を飲まぬと、約束しているのでな」
「つまり断血は自分の意思、ということかしら」
「そういうことだ」
かつての事件――世界存亡がかかっていたときですら、彼は迷う素振りも見せなかったのだ。
今更この程度で血を飲むはずがない。
「……そう、わかったわ。ということはもしかしなくても、貴方って故郷だとさして強くないのかしら」
「当然だ。俺より強い奴などいくらでもいるだろう」
とはいえヴァルバトーゼを知る者ならば、この言を否定しかねないが。事実彼は魔界政腐を転覆させている。
しかしそれは『今の魔界』を基準にしてのこと。ヴァルバトーゼは『あるべき魔界』を基準にその言葉を述べていた。
人間を恐怖で戒めるという使命が果たされ、畏れエネルギーが満ちている魔界。ヴァルバトーゼが暴君と呼ばれていた時代の魔界こそが、おそらくは一番相応しい。
そしてそうなると道理が通る。彼が今の魔界で最強格を担っているのは、あるアドバンテージが存在するからに過ぎないからだ。
――すなわち、畏れエネルギーの影響を受けていないということ。
それはエネルギーの供給が著しく減少している今の魔界においてはメリットとなる。だが魔界にエネルギーが満ちれば話は変わる。他の悪魔たちが十全に力を発揮できるようになる中で、唯一ステータスが変動しないのだから。
そうなるとチカラの絶対量では殆どの悪魔に及ばなくなるだろう。技術と経験である程度の実力差は埋められるだろうが、やはり限度がある。
例えば当時最強を競った死神王ハゴスには到底及ばないだろう。事実畏れエネルギーの影響を露骨に受けたハゴスとの戦闘において、辛勝するのがやっとだったのだから。
「……そう。参考になったわ」
望む答えではなかったのか、紫の声がいささか硬い。
しかしヴァルバトーゼがそのことを言及するよりも早く、紫の口が再び開いた。
「それで、契約の内容については問題ないかしら?」
「ああ、そんな内容ならば問題はない。ただ一つ、頼みがある」
「何かしら」
「キサマは外へ自由に行けると言っていたな」
先程確かに外との流通を管理していると紫は言った。外の人間をさらっているとも。というかそもそもヴァルバトーゼを外から連れ戻したのも彼女であるし。
おそらく空間操作に長けているのだろう。それにしては些か特殊な分類のようだが。あのような亜空間などヴァルバトーゼをして見たことがない。
「ええ、そうだけど……まさか、イワシかしら」
「うむ。中々察しがよいではないか。その通りだ。可能ならばマイワシで頼みたい」
ヴァルバトーゼからすれば当然かつ真面目な話だったのだが、何故か紫は呆れたようにため息をついた。
「はいはい、わかりました」
「では、そろそろ俺は行くとしよう」
「待ちなさい。まだ貴方の帰還について話してないでしょうに」
「む、そうであったな」
しかし忘れたヴァルバトーゼを責めるのも酷というものだろう。紫の話がそれほどまでに長かったのだから。
日が沈んだあたりから話し始めたはずだというのに、既に空は白んでいる。つまり半日近くも話していたということだ。
とはいえ彼が忘れた理由の大部分は、イワシの定期供給が確定した喜びだからだろうが。
「大体どこへ行くつもりだったのかしら。ここが幻想郷のどこかもわかっていないでしょうに」
「……言われてみれば確かにその通りだな」
「全く。まあ話を戻しましょうか。もし貴方が帰れるとしたらその手段は大きく二つ。転移で帰るか、原因を突き止めるかのどちらかかしらね」
「そうだな。問題はどちらからあたるかだが……」
もし転移で帰るなら、魔力を不足を補う手段を探すことになるだろう。術式の効率化か魔力の増幅がもっとも単純な手段だろうか。
あるいは幻想郷に来てしまった原因を突き止めて、その原因を利用して戻るという方法もある。再発を防ぐためにも原因は極力解明しておくべきだろう。問題は原因がわかったところで帰還に繋がるかどうかがわからないところか。
何にせよ、どちらか一つを満たせば帰還できるのだ。並行して探す意義は薄い。一つ一つに集中して事に当たるべきだろう。
「何のアテもないのなら、紅魔館へ行くといいわ」
「紅魔館、だと?」
聞き覚えのない地名。響きからして何かしらの館であることは推測できるが。
「ええ。最近幻想郷に移住してきた妖怪たちなんだけど、その手段が中々珍しいケースなのよ」
「というと?」
「屋敷ごと外から転移させたのよ、そこに住む魔法使いがね。話を聞くことができれば助言を貰える可能性は高いわよ」
事実だとしたら相当な腕の持ち主だろう。己のみならず屋敷を含めて界渡りなど尋常ではない。ましてやここには博麗大結界も存在するというのに。
ならば少なくともヴァルバトーゼよりは転移に熟達していると見て間違いない。
「成る程。その紅魔館とやらはどこにあるのだ?」
「妖怪の山の麓の方にある、湖はわかるかしら? 昼間には深い霧がかかっているのだけど」
「うむ。覚えがある」
チルノと出会った場所だろう。地理的に一致するし、霧もかかっていた。
ちなみにこのことから、紫がヴァルバトーゼを監視し始めたのがそれ以降だと判断できる。
「その畔に赤い洋館が建っているの。そこが紅魔館よ。他に何もない場所だから間違うこともないでしょう」
「ではそこを目指すとしよう。……ところで、ここは一体幻想郷のどのあたりなのだ?」
目的が定まった以上は一直線に行きたいのだが、どこをどう進めばいいのかがヴァルバトーゼにはわからない。
そんな当然の疑問を、紫はあっさりと一蹴した。
「ああ、それについては心配無用よ」
「……何?」
何故か、嫌な予感が脳裏を走った。
地面の感触が消えたのは、その直後のことである。
「ぬおっ……!」
半ば確信しながら視線を落とせば、やはり裂け目が口を開けていた。
犯人へと視線を戻すと、紫はいつの間にか広げた扇子で顔を隠している。表情を隠しているつもりなのだろうが、ヴァルバトーゼにはその奥に描いた孤が透けて見えた。やってくれる。
「また会いましょう」
その紫の言葉を最後に、ヴァルバトーゼは再び異界の口へと飲み込まれた。