人工灯が発達していない幻想郷の夜は暗い。
ましてや深夜ともなれば人里の明かりも全て落ち、欠けた月と無数の星のみが幻想郷を薄く照らす。
そんな夜空に、眩いばかりの光が一点。
その光源は一人の少女の影がある。
博麗霊夢。発せられている光は、高純度かつ高濃度の霊力ゆえに起きる現象。
やがて光は彼女の右手、その指先にある霊符へと収束していく。
「『二重結界』」
短期決戦。
そう決意した霊夢の戦術はやはり自身が誇る結界術を用いるしかないと考えた。
捕まえて叩く。シンプルであるが非常に有効な手段。
スペルカードルールならばこの手段は使えない。何故なら縛撃が成功した瞬間に結界はその効力を失うゆえに。
だがこの勝負はスペルカードルールによるものではない。ゆえに縛撃が成功しても結界は解けず、何度でも追撃が可能となる。敵手が離脱に成功するその時まで。
しかしそのためには成さねばならぬ前提が一つ。
「あら、芸がないのね。そもそも、捕まえられると思っているのかしら?」
紫の指摘は正しい。
境界操作による亜空間移動を可能とする彼女を相手に、結界で捕らえるなど愚の骨頂。
事実、これまでの戦闘においても幾度となくその能力によって離脱を図られたのだ。彼女の見下したような視線も当然と言えるだろう。
だがその彼女の境界移動――その実体は一般的な空間転移とは少し異なる点がある。まさしく消えるように移動する空間転移とは違い、彼女のそれは空間の裂け目を通って擬似的に空間転移をしているに過ぎない。
つまり空間の裂け目に自ら入らなければ移動ができないのだ。ならば一度身動きを封じてしまえさえすれば、追撃を入れる余地は十分に在ると霊夢は睨んでいた。
問題はその手段。
紫が述べるとおり、このまま結界を締めたところで到底捕まえうるとは思えない。彼女の移動手段にラグがあるのは事実だが、こちらの縛鎖にもラグが存在しているのだから。
無論霊夢とてそんな分かりきった行動をするつもりはない。策はある。バレさえしなければ成功する自信もあった。
紫とて霊夢が何か策を練っているのは理解しているのだろう。それでも彼女は動かない。霊夢の出方を伺っているのか、それとも単に舐めているのか。霊夢にとってはどちらでもよかった、どうせやることは変わらないのだから。
右手で結界を維持したまま、彼女は左手で印を結んでいく。彼女の左手が流れるように次々と形を変えていった。
それを見た紫は目を細める。術式の並列起動という技術を霊夢が用いたからか。否、今彼女が編んだ術式を見破れなかったからに他ならない。
これまでと比較にならないほどの膨大な数の印。この場で霊夢が用いるそれは、正しく博麗の秘儀が一つであった。いかに様々な術式に精通している『妖怪の賢者』といえども、容易く見抜けるものではない。それでもあるいは彼女ならば、術式の系統程度は判断できるかもしれないが――
「『夢想妙珠』」
紫の周囲に現れた数多の霊弾が、それ以上の解析を許さなかった。
しかしそれを見た紫は眉根を寄せて霊弾を見据える。違和感があると、その正体を見透かさんと強く目を凝らした。
「――滅!」
それを拒むように、霊夢は霊弾を解放する。
虹色の軌跡を描いて、その全てが紫へと迫った。
だが彼女に届く寸前、ずるりと彼女は虚空へと沈んでいく。
「まあどんな小細工にしても、避けてしまえば意味はないわ。貴女に残された手段はその結界で私を捕まえることだけれど――」
声は響けど姿は見えず。
遮るものなど何もない空の上だというのに、反響して届く声は出所を掴ませない。
「できるかしら? 貴方が私の出現を感知して結界を閉じる。いつどこに現れるかもわからない私を――きゃ、あっ!?」
語りの途中で突如紫は悲鳴を上げた。その声には先程までのような反響効果がかかっていない。
霊夢はその発生源、自身の背後へと反射的に振り返る。
はたしてそこに紫はいた。苦痛と驚愕に顔の色を染め上げている彼女は、上半身だけ裂け目から出したまま逆さづりの状態になっている。
当然その隙を逃す霊夢ではない。即座に右手の霊力を解き放つ。
「――縛ッ!」
「っ、あ……! いつ、の間に……!」
渾身の捕縛結界が紫をとらえた。まず一機。
理解が追いついていないのだろう、理由を求めるように視線を彷徨わせた紫はある一点でその動きを止めた。
「まさか、貴方……!」
「『陰陽宝玉』」
確認するように詰問する紫に、しかし霊夢は言葉を返さない。
代わりとでもいうように、スペルを宣言した。橙色の霊力が牙を剥く。
これで二機。まだ手を止めない。霊力を練り上げ術式を編む。
「『拡散結界』ッ!」
荒れ狂う結界の奔流が紫を襲った。
これで残り二つ。瞬く間に霊夢は手の届くところまで紫を墜としてみせた。
ここまで劇的に形勢を変えたのは、最初に紫を捉えたあの一撃。二重結界よりも早く発動し、紫を捉えた謎の術式、その正体こそが――
八方鬼縛陣。侵入反応型の不可視結界である。
霊夢が結界行使のために組んでいた長い印は、これを展開するためのものであったのだ。
鬼縛陣は結界を張った後に新たに現れた生命エネルギーを捕縛対象とする。
しかし結界を発動した瞬間、紫は結界の範囲内にいた。よって彼女は捕縛対象とはなりえず、事実発動した瞬間は彼女が捕縛されていない。
だが彼女は一度別の空間へ姿を消し、再び現空間に現れた。この時彼女は新たに結界に侵入した存在と感知され、攻撃を受けたのだ。
鬼すら縛ると冠された退魔陣の威力は伊達ではなく、電撃に似た性質を持つ霊波が対象を痺れされる。この際対象の妖力の流れを乱し、一時的にではあるが妖力行使を制限することが出来るのだ。無論紫の境界操作とて例外ではない。鬼縛陣の効果が切れるまでは、いかに彼女とて動くことは出来ないだろう。
この通り、一見極めて強力な術に思える八方鬼縛陣、実は使いどころが非常に難しい。発動さえすれば効果は絶大なものの、その発動条件を満たすことが困難なのだ。
不可視とはいえ、結界の境界は少し感知に優れた妖怪程度にすら見抜けてしまう。しかし結界で飲み込むように発動してしまえば捕縛対象足りえない。つまり空間移動を用いる相手でもない限りは有用に用いることが難しいのだ。
その点に関して言えば、紫は条件を満たしていた。だが彼女は結界術に造詣が深い。馬鹿正直に印を組み宣言したところで、見切れられてしまうだろう。それでも境界移動を制限できるのはアドバンテージ足りうるが、劣勢であることや結界を維持しなくてはならないことを考えると勝機は見えない。それに境界移動を完封できるわけではないのだ。効果範囲が有限である以上、移動先を結界外にされては何の意味もなさない。
ゆえに霊夢は宣言を放棄した。撃墜カウントこそされないが、そもそも決まらなければ何の意味もない。
問題は印であった。省略して発動することも可能ではあるものの、やはり威力は落ちる。紫を墜としきるまで捕縛するには、やはり印を省略することはできないと霊夢は判断した。
しかし印を結んだはずなのに何も起こらなければ、間違いなく紫は警戒するだろう。よって何かしらの偽装策をとらなくてはならなかった。
その答えこそが先程紫が目を向けた先、霊夢の右手の中にある。
ひらひらと夜風に揺れる一枚の霊符――二重結界の媒体であるその影に隠れるように、一枚のカードが見えていた。
スペルカード。僅かな霊力と、宣言をキーにして発動する見せ掛けだけの術法。だがそのカードに刻まれた術式は神秘の極致とも言えるほどで、脅威を孕んだ攻撃かと錯覚させるほどに凄まじいものであった。
今や異変解決の主流ともなった『スペルカードルール』に必要なカードを、博麗の巫女たる彼女が常備してないはずもない。当然スペルもプログラムされており、残る発動条件は後二つ。
霊力を流し込むことは造作もなかった。元より右手には二重結界の維持霊力が充満している。ゆえに残り一つ、スペル宣言をするだけで組み込まれた弾幕が現出する状態だったのだ。
ゆえに霊夢は八方鬼縛陣の発動に合わせて手に持つカードのスペル宣言を行った。紫からしてみれば、印を組んで宣言を行い術を発動させたようにしか見えないだろう。
それでも懸念が二つ、霊夢には存在した。
一つは霊夢の印を紫がどこまで見抜けるか。もし術式を見切られてしまえば、即座に仕込みに気づいただろう。しかしどうにか違和感を覚える程度で済んだらしい。時間を与えてしまえば気づいたかもしれないが、即座に攻撃することでそれを防いだ。
もう一つは、紫が結界の範囲外に出ないかどうか。鬼縛陣は二重結界と同程度の大きさで展開していたため、二重結界を避けるように移動された場合霊夢の目論見はかくも儚く破綻しただろう。しかし霊夢を試すなどと宣言した紫が、そんな安全策を取るとは思えなかった。伊達に長い付き合いではない。
あとはこのまま決めれるかどうか。
こんな奇策が二度も紫に通じるとは思えない。そもそもタネが割れてしまった。
ゆえに自力で劣る霊夢は、この一手で決められなければ確実に敗北する。
「『封魔陣』!」
霊力波動。これで四機。
鬼縛陣こそその効力を失ったものの、未だ二重結界は紫は縛り続けている。
速度を重視した術式展開ということもあり、ダメージの程には自信がない。しかしこれはスペルルール。五回あてれば霊夢の勝利で幕を閉じる。
「『夢想封印』」
祝詞の応じて紫の周囲に十の虹弾が現れた。
霊弾一つ一つの威力を底上げした、霊夢が得意とする妖魔覆滅最大の奥義。
手を前にかざし、叫ぶ。
「――集!」
紫目掛けて収束していく弾幕。
未だ二重結界に囚われてる彼女には回避ができない。例え即座に抜け出したとて、境界移動では間に合わない。
勝利を確信した霊夢の口端がつりあがる。
だがその刹那。かの大妖怪、八雲紫は妖しく笑った。
「『弾幕結界』」
紫を包むように現れたのは、彼女の名と同じくする色の壁。
術式を視認できないほどの超速展開。一瞬で展開されたそれは、霊夢の攻撃よりも僅かに早い。
だからこそ、霊夢は勘違いをした。紫は障壁を展開したのだと。スペルルールにおいても防御はご法度。撃墜扱いで自身の勝利となる。
まさしく油断。例え一瞬に満たない間の出来事とはいえ、目を凝らせばしかとそこには継ぎ目のようなものが見えたはずだというのに。
理解してれば対応ができた。だが光が収まる瞬間まで、霊夢は動かなかった。ゆえにその報いは、視線の先で姿を見せる。
「な……!」
いくつか穴の開いた壁――否、超々高密度の妖弾群を見て霊夢は驚愕とともに何が起こったかを悟った。
あれは
慌てて回避に転じるも既に遅い。
はち切れたように高速で、放射状に射出された紫弾を霊夢は回避しきることができなかった。思わず反射的に展開した障壁も呆気なく数発で砕かれて、数多の妖弾が霊夢を叩いた。
「ぐ、う……っ」
如何に博麗の巫女と言えども、所詮は人間の少女である。妖怪とは耐久力の桁が違う。
ゆえにたったこれだけの攻撃で、彼女の意識が一気にかすれていく。飛行状態を維持する余裕など当然ありえず、ぐらりと体が重力に引かれていくのを霊夢は感じた。
暗転していく視界が夜の闇によるものなのか、断絶していく意識なのかも分からない中、紫の声が妙な鮮明さを持って霊夢の耳を鋭く叩いた。
「貴方の敗因を教えてあげましょう。それはね――気合よ、き・あ・い」
今の霊夢はまさしくボロボロである。とても声など出せる状態ではない。
それでも、それでも霊夢は突っ込みの衝動を抑えることができなかった。
「――アホか! ……ってあれ?」
がばりと起き上がってから、霊夢が現状が認識できずしばし周囲を見渡した。
襖に障子に畳にと、見慣れた日本家屋の一室である。手足で感じる柔らかい感触は、やはり見慣れた布団のそれだった。
まさか夢かと自身を見下ろした霊夢は、ズタボロになった巫女服が目に映る。
ここでようやく、彼女は夢と現実の区別がついた。
あれは現実にあって、挙句に夢でもみたということだろう。その証拠に、最後の紫の言葉は聞き取れた記憶と、聞き取れていない記憶の二つがある。
ここにいる理由は、おそらく意識を失った霊夢を紫が運んだのだろう。
「……はあ」
ため息をつきながら外を見れば、既に日は沈みかけていた。
どうやら半日以上寝ていたらしい。
今更日課の掃除やら何やらをやる気にならなかった霊夢は、本日の巫女業を完全休業することに決めた。
そうと決まればまずは饅頭でも食べよう。そう思いつつ立ち上がった霊夢の耳を遠くからの声が揺さぶった。
「霊夢さーん! いますかー?」
どうやら来客らしい。
正直なところ居留守を使いたいところだが、どうせ気配でいることはばれているのだろう。
ゆっくりすることを諦めて、霊夢は神社の境内へと足を向けた。
「生憎だけど、無理ね」
相手の要望を却下しつつ、霊夢は目の前の相手が語った内容を反芻する。
突然現れた訪問者は二人。一人は霊夢もよく知る天狗の射命丸文。
だがもう一人、ヴァルバトーゼと名乗った妖怪は霊夢の全く知らない男だった。
どうやら霊夢に用があるのはこの男らしい。常ならば赤の他人、ましてや妖怪の話など聞く耳すら持たない霊夢だが、知人の紹介ということもあったので一応話だけは聞いてあげることに。
結果、話を要約すると突如幻想郷に迷い込んだこのヴァルバトーゼとかいう妖怪は、故郷へ帰るために空間転移をしようとするもおそらくではあるが博麗大結界に阻まれて失敗。ならば結界の外にでてから転移すればいいという結論になったらしく、結界の管理者である霊夢を訪ねてきたという流れらしい。
残念ながら、その希望が叶えられることはないのだが。
「何だと……!?」
「でも霊夢さんが
どうやら彼女らはそれなりの根拠があってここを訪れたらしい。
しかし文の言うことは的外れもいいところであった。
霊夢はあくまで外に帰る手伝いをしているに過ぎない。彼らにとって大事なのは、巫女ではなく場所なのだから。
「博霊大結界が外と中の常識を入れ替えてるって話は知ってるわね?」
「ええ」
「で、結界の基点がここ博霊神社なのよ。基点だけあってここは少々特殊でね、ここだけ外と中が重なっているわけ。わかる?」
懇切丁寧に説明する気はなかったため、大雑把に要点だけ解説する。
案の定ヴァルバトーゼの方は首を捻ったが、文は納得したように頷いた。
「……どういうことだ?」
「私は聞き覚えがあります。確か……博霊神社だけ外にも中にも存在する、ということでしたか」
「そう。でも私たちは今間違いなく幻想郷の博霊神社に立っているわ。何故それが成立すると思う?」
「何故ってそれは博霊大結界が……ああ、そういうことですか」
「流石、察しがいいわね。そっちのアンタはさっぱりわかってないようだけど」
ヴァルバトーゼはこれでもかというほどに眉根にしわを寄せて唸っている。
いささか可哀想に思えたので、霊夢は肩をすくめて少しだけ話を掘り下げた。
「博霊大結界は常識と司る論理結界。じゃあ常識ってのは何なのか、それは個人個人の中にある『あたりまえ』よ。当然人によってそれは違うわ。つまり私たちがこちら側に立ち続けていられるのは――」
「俺たちの中にある『あたりまえ』がこちら側だから、というわけか」
「そういうこと。まあだからといってここに来るだけで外の人間が帰れるとまではいかないけどね。ただ目を瞑らせて、そいつの信じる現実ってやつを思い返させるだけで勝手に外へ帰っていくわ」
ここまで話したところでようやくヴァルバトーゼの表情が変わった。どうやら何故、霊夢がヴァルバトーゼを外に出すことができないのかを理解したらしい。
しかし疑問が解決したはずの彼の表情は、決して晴れやかなものではない。まあ仕方のないことだろう。無理だということが、より深く理解できてしまったのだから。
「つまり俺が外に出れない理由は、俺の常識がこちら側だからというわけか……!」
「残念だったわね。大人しく別の方法を探しなさい」
悪いわね、と霊夢は心中でのみ謝った。
実のところ眼前で渋い顔をしている妖怪を外に出す方法はあるのだ。
ただその方法はとてつもなく疲れる。紫に敗北し機嫌が最悪に近い今、見ず知らずの妖怪のためにそこまでする気は霊夢になかった。
そもそも彼女は妖怪退治が生業なわけでもあるし。
「仕方あるまい。話を聞いてもらっただけでも感謝せねばな」
そんな霊夢の心中を知る由もないヴァルバトーゼは、納得したように感謝を述べた。
これで話が終わり、今度こそのんびりできる。そう思った矢先のことであった。
『そうはいかないわよ、霊夢』
「んな……!」
今一番聞きたくない声が、霊夢の鼓膜を刺激した。
厄日というのがあるならば、霊夢のそれは間違いなく今日のことだろう。
というか大体全部彼女のせいなのだが。声の主――八雲紫の。
『悪いけど、彼を外に出してあげてくれないかしら。ああ、まさか私にまで出来ないなんて妄言を吐いたりはしないわよね?』
突然表情を変えて呻いた霊夢をヴァルバトーゼと文はきょとんとした目で見ている。
つまりこの声は霊夢にしか聞こえていないということだ。性質の悪いのことに。
ここで紫の声に答えてしまうと霊夢は明らかな変人扱いをされてしまう。別に紫のことを話してもかまわないのだが、事態が悪化する予感がしたため霊夢は黙って言葉の続きを待った。
『まあ、一応私も手伝ってあげるわ。これも負けたペナルティだと思いなさい』
「勝手なこと言ってんじゃないわよ!」
ぶちんと、霊夢はそんな音を聞いた気がした。
霊夢からしてみれば、突如紫に勝手な言い分でぼこぼこにされた挙句、降ってわいた面倒事をどうにか流せると思えば邪魔されたのだ。それも紫に。
擦り切れる寸前だった彼女の忍耐が断ち切れるのもやむなし、というところだろう。
しかしそんなことは霊夢の前にいる二人には関係のないことで。
はっとした霊夢が二人を見ると、明らかに可哀想なものを見る目を彼女に向けている。
やり場のない激情に歯噛みしつつ、霊夢はどうにか飲み込んだ。
「ヴァルバトーゼ、って言ったわね」
「うむ」
「前言撤回するわ。アンタを外に出してあげる」
「……何?」
「理由は聞かないこと。これが条件よ。いい?」
有無は言わさない。
その意思だけを言葉に乗せて、霊夢は淡々とヴァルバトーゼに告げた。
「いいだろう。その条件で構わぬ」
即答。
正直なところ断ってくれればいいと思っていた霊夢にしてみれば残念な結果と言える。
しかし応否の如何はともかくとして、即座に返答されるのは予想外だった。普通はもう少し悩む素振りを見せるだろうと。
「……アンタ、裏があるとか普通思わない? それとも考えなしバカなの?」
「フン、ではキサマは何か企んでいるのか?」
「そりゃ違うけど……って、だーかーらー! そういうことを言いたいんじゃなくて!」
「違うのならよいではないか。俺を外に出してくれるのだろう?」
「~~っ!」
話が通じない。霊夢はこれまでの人生で一番理解できない存在は八雲紫だと思っていたし、事実そうであった。だが、この妖怪も負けず劣らず凄まじい。
言葉にできない感情を胸中で渦巻かせながら文を見ると、彼女は肩をすくめて首を振った。彼女もこの妖怪に煮え湯を飲まされたのだろう。
しかし理解できない存在との付き合いが長い霊夢は、こういうときの対処法を知っていた。真面目に相手をしないことである。
「はあ……もういいわ。ついてきなさい」
同意を待たず、霊夢は背を向けて歩き出した。
神社の裏手へと進んでいく霊夢を、慌てて二人が追ってくる。
それから数分、目的地へと辿りついた霊夢はその足を止めた。
「ここは……?」
神社の裏手にある、一見何の変哲もない森。
実際、余程感覚が鋭敏な手合いじゃなければ何の違和も感じ取ることはできないだろう。
だがここは博霊大結界の物理的境界線である。ここから先に進むと内側に戻されるようにできているのだ。
「黙って待ってなさい」
ヴァルバトーゼを外に出す手段というのは非常に単純である。
力ずくで結界に穴を開け、固定する。その間にヴァルバトーゼを通せば彼は外の森にでるというわけだ。
だが擬似的にとはいえ世界を隔てる結界である。そこに穴を開けて固定するなどという行為は決して容易なことではない。
本来ならば綿密な準備をし、最高のコンディションでようやく十秒あけられるといったところだろう。
しかし今回ばかりは事情が違った。
『私の方は準備いいわよ』
八雲紫。霊夢と同等かそれ以上に結界術に通じた術者であり、境界を操る特殊な能力を持つ妖怪。
彼女の境界操作で結界の境界を都合のいいように改竄すれば、ことは簡単に済ませられるだろう。
そもそも彼女の能力で簡単にヴァルバトーゼを外に出せるはずなのだが、何かそうしたくはない理由があるらしい。
どうせ考えても理解できない。そう判断した霊夢は思考を打ち切り、術の行使に集中することにした。
「そろそろいくわよ。準備はいい?」
「待て、その前に一つ聞いておきたいことがある。再びこちら側へ入るにはどうすればいい?」
やはりこの妖怪も理解できない。霊夢は心からそう思った。
「……何、アンタまたくるつもりなの?」
「無論だ。ここには約束をした相手がいる。借りを作った相手もいる。それらを放置したまま悠々と生きるつもりなど毛頭ない。必ずそれらを清算しに訪れるとも」
妙に律儀な妖怪もいたものだ。
霊夢は呆れたようにため息を零した。どうにもこの妖怪と出会ってからはため息が多い。
「……さっき、外の人間の戻し方を話したわね?」
「うむ」
「その逆よ。中の常識を持ってるアンタなら、外の神社でここを想うだけでこっちにこれるわ」
「成る程。道理だな」
「じゃ、今度こそやるわよ」
「待て」
「っ、今度は――」
前を向き術を行使しようとしたのを再び制されて、苛立たしげに振りむいた霊夢が見たものは彼女の想像を超えるものだった。
頭を下げている。ヴァルバトーゼが。
糾弾も忘れて絶句する。これまで多種多様な妖怪と交流してきた霊夢だが、人間相手にこうまで律儀に謝罪する妖怪など見たことがない。
同意を求めるように視線を彷徨わせると、同じく文も驚愕に目を見開いていた。
「世話になった。お前たちがいなければ俺はここを出ることはできなかっただろう。礼を言う。そしてこの借りは必ず返そう。我が名に誓って約束する」
「……そうかしこまられちゃうと、私としても困るんですけどね。知人の頼み半分、興味半分でしたから」
「私もよ。別に善意でやってるわけじゃないわ」
『ほんと、変な妖怪ね』
非常に癪だが、その声に霊夢は同意する。
もっとも、変なのはアンタもだと言い返したくもあったが。
「ただそうですね、もし借りを返していただけるのでしたら――何かこう、でかい異変でも起こしてくれると嬉しいんですけどね。記事のネタになりますから」
「博霊の巫女を前にそういうことを言うなんていい度胸してるわね、文。でもそうね、何か返してくれるっていうのならうちの神社に賽銭いれてくれると助かるわ」
「フ……よかろう、覚えておこう」
『境界を歪めたわ。いつでもやりなさい』
紫の合図をきっかけに、今度こそ霊夢は術を行使した。
目の前の空間に霊符を四枚、人が通れるぐらいの大きさの長方形を描くように配置する。
霊夢が印を結ぶと、四枚の霊符から伸びた光が四角く空間を切り取った。
「――解!」
宣言に応じるように、符で囲まれた空間が歪む。まるでそこだけ別の絵を張り合わせたように、景色がずれる。
それを確認した霊夢は、一歩引いてヴァルバトーゼに道を譲った。
「この先に進めば出られるはずよ」
その言葉に、ヴァルバトーゼは迷いを見せずに一歩踏み出す。
「そうか。ではな、また会おう」
「はいはい、じゃあね」
「また会いましょう」
別れの言葉を交わし、ヴァルバトーゼはあっさり向こう側へと消えていった。
それを見届けてから、維持していた術を解除する。同時に空中に固定されていた符が力なく地面に落ちた。
『じゃあ私も帰るわ』
「好きにしなさい」
疲れた。とにかく今日はもう何もしたくない。部屋に戻って今度こそのんびりしよう。
そんなことを考えながら霊夢は振り返った。
なぜか文がその場から動くことなくそこにいて、霊夢を見ている。
「では、そろそろ私の用件に入らせてもらってもよろしいでしょうか?」
「…………は?」
おそらく霊夢は、ここ数年でもっとも間抜けな表情を晒しただろう。
疲労で麻痺した思考は、何でどうしてと益体もないことをぐるぐると回し続けている。
「あれ? まさか霊夢さん私がわざわざヴァルバトーゼさんを連れてくるためだけにここまで来たと思ってるんですか?」
そんなわけないじゃないですか、と文は朗らかに笑った。
彼女は彼女で最初から霊夢に用があったというわけだ。
「ですから、さっきはちょっと焦りました。華麗にヴァルバトーゼさんを故郷に帰してそのまま記事のネタもゲット! そんな思惑が潰れそうでしたからね。後は任せてくださいなんていっておいて、ほっぽりだすわけにもいかないですし。まあそれはさておき本題に入りましょうか。実は昨夜、貴方が神社を発つところを目撃しまして――」
かーかーとわめき始めた鴉天狗を無視しつつ、霊夢はぐったりと肩を落とした。
早く部屋に戻って饅頭を食べたい。そのためにはまずこの天狗を追い出さなくては。
そんなことを考えながら、霊夢は袂から霊符を取り出した。
余談だが、今の霊夢はまだ知らない。実は彼女が楽しみにしている饅頭は既になく、残っているのが箱と『送り賃』などと書かれた一枚の紙だけであると。
つまるところ今日の幻想郷でもっとも災厄に見舞われたのは、どこぞの吸血鬼ではなく、とある白狼天狗でもなく、博麗の巫女――彼女だった。