陽を隠すほどの木々の重なりが、風を受けて乾いた音を鳴らしている。その最中で大きな渓流が絶えず飛沫を散らしていた。
その脇を一つの影が進む。落ち葉を踏み分けながら軽快な足取りで歩みを続けるヴァルバトーゼ。
彼は今、目当ての山を登っていた。
「しかし、妖怪の山というわりには拍子抜けの場所だな」
凄まじい魔力が覆うこの山は、妖怪の山と呼ばれているらしい。
何故それをヴァルバトーゼが知っているのかは、少々時を遡る必要がある。
それはチルノから幻想郷という地名(あるいは世界の名前)を聞いた後のこと。
別れの挨拶を告げたヴァルバトーゼに、チルノはどこへ行くのかと問いかけた。ヴァルバトーゼが目の前の山を指差すと、チルノが妖怪の山と呟いたのだ。
ヴァルバトーゼが「それは知らなかったな、良いことを聞いた」と笑うと、慌ててチルノは口元を押さえて前言を撤回したのだが。
ともあれこれまでの情報を統合すれば、この山には高い魔力を持った妖怪が生息しているのだろうことは容易に分かる。
だからヴァルバトーゼはさぞ凄まじい魑魅魍魎が跋扈しているのだろうと期待していた。
だが予想に反して変わったことなど見受けられる妖精の数が若干増した程度で、それ以外には何の存在も見つからない。
「む。……ほう」
麓の湖から水源を辿るように登山していたヴァルバトーゼだが、眼前にそびえた大きな障害に足を止める。
それはまさしく大瀑布と呼ぶべきモノだった。
高空から落ちる水流が常に轟音を撒き散らし、叩きつけられて飛散した水がヴァルバトーゼの頬を叩く。
その壮大な光景に、思わずヴァルバトーゼは感嘆の息を零した。彼の記憶にもここまでの滝は存在しない。
しばし自然の極致に目を奪われたヴァルバトーゼだが、本来の目的を思い出し周囲を見渡す。
いつの間にか森を抜けていたようで、滝つぼの周りは開けた空間になっていた。近くに迂回できそうな道は見つからない。
ならばとヴァルバトーゼは大きく息を吐いた。両足に力を込めて、解放する。
その寸前のこと。
「そこで止まりなさい」
声の出所はヴァルバトーゼの頭上から。
見上げた先には一つの影がある。しかし逆光でそれ以上はわからない。
しかしどうやら相手はその場で話を続けるつもりはないらしく、ゆっくりと下降していく。地面に降り立つと、黒いスカートがなびいた。
ようやく姿を確認できたヴァルバトーゼの心境は、安堵と落胆が半々といったところだろう。
安堵の意味は単純で、話が通じそうな相手ゆえに。有り体に言えばただの悪魔にしか見えなかったのだ。
服装が陰陽術師と意匠が近く、容姿は殆ど人間そのもの。しかし両手に持つ剣と盾がただの人間であることを否定している。そして小さな赤い帽子の下、白い髪の中から小さく覗く獣耳は人ですらないと主張していた。
見た目から伺える年はヴァルバトーゼの仲間であるフーカと同じ程度。彼女の言葉を借りて評するならば中学生ぐらいといったところだろう。とはいえ相手がヴァルバトーゼと同じような存在ならば見た目から推測できる年齢など何の基準にもならないのだが。
何にせよ、彼女こそこの山に住む妖怪とやらなのだろう。
そしてだからこそヴァルバトーゼは落胆の念も抱いた。妖怪などとカテゴライズされているからには、言葉では表現できない凄まじさを彼は期待していたのだ。
そんな彼の心境を無視して、目の前に立つ少女は淡々と言葉を連ねていく。
「私はこの山の哨戒を勤めている犬走椛と申します。ここから先は許可なく通すことはできません。まずは貴方の素性を。そしてこの山に住む誰かの友人あるいは知人であり、用があるというのでしたらその方の名前を述べて下さい」
突きつけられる剣は、彼女の警戒を表しているのだろう。通らば斬る、といわんばかりの勢いである。
まさしくヴァルバトーゼは招かれざる客といったところだろうか。
だが彼の目的は登山そのものではなく、無理して通る理由はなかった。
何故ならば、この段階で半ば達せられたようなものだから。
「俺の名はヴァルバトーゼ。この場所へ訪れたのは今日が初めてだ。顔見知りすらいはしまい」
「ではどういったご用件でこの山へ来たのですか?」
「それを一口に説明するのは少々難儀でな。俺の状況を把握して貰う必要があるゆえいささか長くなるのだが、構わぬか」
「……まあ、いいでしょう」
不承不承、といった様子で剣を下げた椛に対しヴァルバトーゼは事情を語る。
気づけば幻想郷にいたこと。何らかの結界によって帰還が阻まれていること。手がかりを求めてこの山へきたこと。
それらを話して一度言葉を区切ったヴァルバトーゼだが、もう一つ聞かねばならないことを思い出して付け加える。
「それともう一つ、弾幕ごっことやらのルールが知りたい」
「……はあ。何でまたそんなことを」
「大したことではない。ある相手にそのルールで勝負をすると約束したのでな」
疑問を呈する椛に、ヴァルバトーゼはありのままの理由を答えた。
しばらく眉根を寄せていた椛だが、追求を諦めたのだろう、表情を切り替えると話を戻す。
「まあ、事情はわかりました。私では貴方の疑問に答えきれるか怪しいですが、幻想郷の事情に詳しい方を知っています」
「ほう」
「特に悪意がありそうな要求でもないですし、紹介して差し上げても構いません。ですが個人的な事情により、その方に話を通すことをしたくありません」
そう述べる椛の表情は険しい。体のいい断り文句というわけではなさそうだ。
だが彼女の事情がどうであれ、ヴァルバトーゼもまた容易く身を引ける状況ではない。
どうにか紹介してもらう術はないかと頭を悩ませていると、椛は表情を崩して口を開く。
「そこで一つ提案があります。私と一戦交えませんか?」
「……何?」
思わぬ提案、それも予想外の内容に疑問の言葉が口から零れる。
「……ここ、幻想郷は非常に平和です。ある種の理想郷といってもいいでしょう」
唐突に関係のない話を始めた椛にヴァルバトーゼは眉をひそめた。
だが彼女はそんなヴァルバトーゼの様子に意を介した様子はなく、朗々と話を続ける。
「私もこうして武器を持ち、哨戒係を務めてはいるものの実際にその任務を果たしたことなどありません。来る日も来る日も哨戒と鍛錬を繰り返して、たまに何かあったとしても迷い込んだ人間を送り返すぐらいのことしかないものでして。ようするに退屈なんです、ここは。悪いことだとは思いませんけれど。まあ若干話がそれてしまいましたが、つまりは私の暇つぶしに付き合って欲しいということです。その上で私に勝ったのなら、例の方に話を通しましょう」
「成る程」
つまりは交換条件というわけだ。
悪くない。一方的に施しを受けるよりはそちらの方が余程ヴァルバトーゼの性に合う話だ。
何より幻想郷の妖怪とやらの実力、大いに興味がある。
「いいだろう。その話、のろうではないか!」
「ではルールの方ですが――貴方は『スペルカードルール』、なんて知りませんよね?」
「うむ。聞いたこともない」
「まあ弾幕ごっこを知らないのであれば当然でしたか。ではどちらかが気絶、あるいは降参した場合に決着とします。――おっと、貴方が負けた場合の話を忘れていましたね。そのときは素直に下山していただくということでどうでしょう」
「それで構わぬ」
では、と椛が構えた。片刃の西洋剣は前に、紅葉をあしらった円盾を後ろに。
その構えにヴァルバトーゼは疑念を浮かべる。盾を持ち、前に出さない相手は彼の数多い戦歴においても珍しい。
しかし考えたところで答えが見つかるわけもなく、思考を打ち切り剣を抜いた。右手で持ち、剣先を下げる。
椛の表情もまた、訝しげに歪む。おそらくは虚空から剣を取り出したさまを見てだろう。
「覚悟はいいですか?」
「好きなタイミングで来るがいい」
「――では遠慮なく」
その声よりも早く、ヴァルバトーゼの頭上で銀が煌いた。
「――ッ!」
響いたのは金属音。
かろうじてヴァルバトーゼの反応が追いついた。どうにか剣を合わせられたのだ。両者の剣が大きく後ろに弾けるが、大きく体勢を崩したのは椛だった。
道理で考えるならば紙一重の対応をしたヴァルバトーゼが崩れてしかるべきだが、二つの要因がそれを覆している。
一つは椛のそれは速さを重視した一閃であり、鋭くはあったが同時に軽かったこと。
もう一つは彼女の攻撃が空中からのものであったことだ。大地を支えにしたヴァルバトーゼと違い、椛の支えは大気しか存在しなかった。その差は歴然。
ゆえに必然であったこの結果を見逃さず、一瞬早く持ち直したヴァルバトーゼはすかさず踏み込み剣を薙ぐ。しかしその軌跡は突如現れた円盾に阻まれた。甲高い音が周囲に弾ける。
しかしこの交錯もまた、二者の差は明白であった。しかと踏み込み振り抜いたヴァルバトーゼの剣に対し、差し出しただけの椛の盾はあまりにも頼りない。ヴァルバトーゼがさらに力を込めると、拮抗は呆気なく終わった。椛が大きく吹き飛ばされる。
「……む」
すかさず追い討ちを、と判断したヴァルバトーゼだがその足はその場から動かない。彼を阻んだのは一つの疑念だった。
その予感は正しかった。弾丸のように後方へ飛んでいた椛が、突如慣性を無視して空中で静止する。ダメージを受けている様子はない。しかし彼女は少し驚いたように目を開いていた。
「てっきり追撃が来ると思ったのですが」
「手応えが軽過ぎる。自分から後ろに飛んで衝撃を殺したのだろう」
つまりはそういうこと。どうやら椛は自在に空中で姿勢を制御できるらしい。
いや、それだけではない。あの状況から後ろに飛んだということは自在に加速もできるということだ。
「……どうやら、少し貴方のことを舐めていたようです」
「それはお互い様だな」
正直なところ、ヴァルバトーゼも椛を舐めていた。
チカラを失って以来極力そういったことは控えていたはずなのだが、チルノの一件が尾を引いていたのと――この場所の雰囲気だろう。魔界に比べてあまりにものどかなこの幻想郷とやらは、いささかヴァルバトーゼから緊張感を奪っていたらしい。
山に渦巻く魔力を見ておきながらなんて愚かだと、ヴァルバトーゼは気を引き締めた。左足を引き、剣を構え直す。
再び迫り来る椛。変わらずどころかさらに速度を増した彼女は、刹那の間に間合いを詰める。
だが意識を切り替えたヴァルバトーゼの目は、しかとその姿を捉える。完璧なタイミングで剣を合わせた。両者の間で火花が散る。
ならばその一合を制すのはやはりヴァルバトーゼ。大きくぐらいついた椛目掛けて剣を右から薙ぐ。やはり盾を合わせてくるが、力で押せぬ道理はないと構わず彼は振りぬいた。
しかし焼き直しのような情景はそこで終わる。
「ふっ!」
激突の瞬間、椛が前方へと加速。軌道修正をする間も与えられず、剣の根元を盾で受けられた。
斬撃とは即ち『線』の攻撃である。そして効率よく威力を乗せるために、その軌跡の殆どは孤を描く。ならば必然その威力は、大きく孤を描く得物の先端に迫るほど増していく。言い換えればいかに十二分の威力を秘めた剣閃といえど、根元で受けられてはさした威力を発揮できない。例えば、今のように。
結果、二人の武具は拮抗した。しかし彼らには明確な違いが存在する。
ヴァルバトーゼは剣を止められ、その左手には何もない。
しかし椛は盾で受け止めただけであり、その右手には――
「くっ!」
苦悶の声はヴァルバトーゼ。その左肩には切り裂かれたような傷があった。
血の雫を散らしながらヴァルバトーゼは背後へと振り返る。彼を斬り抜けていった椛は、宙に浮かんで動かない。それは余裕からか警戒からか。何にせよ追撃を行うつもりはないらしい。
油断なく椛を見据えながら、ヴァルバトーゼは表情を苦く歪めた。
傷は浅い。著しく劣化しているヴァルバトーゼの再生力でも、数分もあれば治癒するだろう。ゆえに問題はそこではない。
彼が苦慮しているのは、椛の飛行能力だった。あのような飛び方をする相手と戦った経験は、彼においても存在していないのだ。
確かに魔界においても空を飛ぶ悪魔は多くいる。しかしそれは翼を用いた――いわゆる物理法則にのっとったものでしかない。
もちろん魔法や魔力を用いて空中機動を可能にする手段は存在する。例えば麓の湖で用いたのもその一つだ。足裏で魔力を固めて足場にすれば空中を跳びまわるというもの。
だが所詮直線移動しかできないそれで空中戦を挑むには、明らかに不足している。
ならば、と――そんな思慮に耽るヴァルバトーゼに椛はため息を一つ吐いた。
「どうしました? そちらからは攻めてこないのですか? まさか――怖気ついたわけじゃありませんよね?」
「……安い挑発だな。だが、乗ってやろうッ!」
手の内を一つ見せる事を決めて、椛へと駆け出す。愚直に見えるほどの直進。対する椛は半身を入れ替え盾を前へと押し出した。
構わず突撃の勢いを乗せて地面を強く踏み切ったヴァルバトーゼは、矢を引き絞るように腰を捻る。そして椛の目前へと迫ったその瞬間、溜めたエネルギーを全て剣先に乗せて突き出した。
冷たく笑みを浮かべてそれを見た椛は、刺突の軌道を撫でるように盾を合わせた。するりと、まるで舐めるようにヴァルバトーゼの剣は盾の表面を滑り進む。
その最中、小さく椛は盾を押した。正面への大きなベクトルを横にずらされたヴァルバトーゼは、それだけで隙だらけの脇を椛に晒す。致命的な隙。
それを迎えるように椛は剣を横へ薙いだ。二人の影が交差した瞬間、ヴァルバトーゼは薄く笑ったことにも気づかずに。
「な――」
狼狽する声を椛が漏らす。目の前でヴァルバトーゼの姿が消えたともなれば当然のことだろうが。
その彼は椛の背後、その上方にいた。圧倒的有利な位置を確保した彼は、そのまま剣を振り下ろす。
だがその位置こそが仇となった。彼の体は陽の光を遮って、椛に大きな影を落としている。それこそが、椛の反応を間に合わせた。
落ちるように下方へと加速した椛は、くるりと体を回転させると剣と己の間に盾を差し込む。
驚異的な反応といえよう。しかし今度こそ衝撃を殺すことは叶わなかった。
「が、っ……!」
背中から地面へと叩きつけられた椛は、苦悶の声を零す。
跳ねたその体に容赦なく迫ったヴァルバトーゼが二の太刀を落とした。しかし紙一重で剣閃を避けるように椛は加速する。
そのままどうにか持ち直した椛は、大きく咳き込んだ。
「大したものだな」
ヴァルバトーゼは椛への追撃を止め、代わりに賞賛の言葉を送った。
何故なら彼女は、初見では間違いなく対応できないだろうと放った一手を凌ぎ切って見せたのだから。
すなわち――
「げほっ、瞬間移動とは流石に予想外でした」
「こちらもな。今ので決まると思っていたのだが」
「影が差さなければ、多分間に合いませんでしたよ」
吸血鬼だから太陽が苦手、などというものはヴァルバトーゼに存在しない。しかしどうやら味方をしてくれることはないようだ。
そんな冗談を差し置いても、今の一合で決められなかったのは痛手だった。基礎能力で負けていると判断したからこそ勝負をかけたのだ。まさか二度同じ手が通用するとは思えない。そもそも、今の彼には転移を簡単に連発できるほど潤沢な魔力が存在しないのだが。
加えて相手はそれらしい手は一つも出してきていない。あるいは武芸と空中機動のみが手札なのかもしれないが、安易に決め付けるのは愚考だろう。
まずはそれを探る。そう判断したヴァルバトーゼは剣を握る手に力を込めて、一歩踏み出す。
よりも、早く。
「――ッ!」
一陣の風となって椛が切り込んできた。三度目の仕掛けは振り降ろしからではなく刺突の一撃。
機先を制された形となったヴァルバトーゼはその一撃に反応が遅れる。加えて最短速度で己が身に迫る突きの一手。迎撃が間に合わない。剣先が彼の腹へとめり込んでいく。
ヴァルバトーゼはその鋭い痛みを無視しながら、懐の椛を袈裟懸けに斬る。
しかし脇をくぐるようにかわされ、そのまま椛は剣を薙いで斬り抜けた。
「が、ァッ!」
腹部から零れた鮮血が地面を濡らす。
だが苦痛に喘いでる暇はない。背後より迫る追撃の刃をどうにか振り向きながら剣で受ける。
体勢とダメージ、その二つの要因からヴァルバトーゼは力負けした。彼の右腕が剣とともに大きく後ろへと跳ね上がる。踏みとどまれず、一歩右足が後ろに下がった。
そんなヴァルバトーゼの姿を見たからだろう。勝利を確信したかのような笑みを浮かべながら、椛は刃を返す。
対するヴァルバトーゼは、間違いなく剣の戻しが間に合わないだろうことを悟っていた。
銀閃が迫る。
だがその間際において、彼の口元は歪んでいた。
「――――」
ぽたり、と一滴の血が刀身を伝って地面にたれる。
椛は剣を腰溜めに構えたまま、目を見開いて動かない。
その理由は驚愕による硬直ではない。椛の喉元に突きつけられた一振りの剣が、彼女の行動を阻んでいるのだ。
あの瞬間ヴァルバトーゼが行ったことはそう難しいことでない。
ヴァルバトーゼは大きく右半身を仰け反らせていた。それは言い換えれば左半身が前に出ているということ。
だから彼はそのまま左手を前に突き出し、右手の剣を左手に持ち替えた――正確には、右手の剣を消して左手に顕現させたのだが。
椛からしてみれば、突如喉元に切っ先が現れたのだ。反応できるはずがない。
だがヒントはあった。彼が闘いを始める前に虚空から剣を出すのを見ていた彼女は、ヴァルバトーゼが左手を動かしたときに気づくことは可能だったのだ。
しかし椛には圧倒的に欠けているものがあった。彼女曰く退屈な幻想郷では決して培えないもの――すなわち経験。二人の明暗を避けたのはまさしくそこだった。
「さて、まだやるか?」
その声は口内から溢れる血のためか、濁りを見せている。それだけではない。肩の傷は既に塞がりかけているが、腹部の傷は未だ血を零し続けていた。
しかしヴァルバトーゼはその明らかにボロボロの風体でありながら、揺らぐことなく泰然と椛の返答を待っている。
そんな彼に椛は苦笑すると、武具を落として両手を上げた。
「参りました。私の負けです」
椛に宣言に応じて、ヴァルバトーゼは剣を引く。
口内の血を吐き捨てた彼は、腹部の傷を撫でた。
「大丈夫ですか?」
「この程度ならば問題ない」
例えチカラを失っていようとも、ヴァルバトーゼは悪魔である。
彼女の斬撃が速く鋭かったこともあって、多少深くて広かろうと切り口自体は綺麗なもの。ならば半刻と経たずに全快するだろう。
「それよりも約束を果たしてもらおうか」
幻想郷に詳しい相手を紹介する。その約束の履行をヴァルバトーゼは椛に求める。
本当にそれが嫌なのか、椛の表情が少し暗くなった。
だが小さく顔を振って表情を払うと、彼女は力強く頷いてみせる。
「わかりました。では伺いを立てに行ってきますのでしばらくお待ち下さい」
「――その必要はありません」
今にも飛び立たんとした椛を制したのは空より届く一つの声。
それに少し遅れて、一人の少女が風と共に彼らのそばへと降り立った。
当然というべきか、その相手にヴァルバトーゼは見覚えがない。だが予想はついた。
何故なら少女の頭の上にある特徴的な赤く小さな帽子は、椛が被るそれと同じものだったから。何より、椛の苦渋に満ちた表情を見ればおのずと知れるというものである。
同じく苦渋に満ちた椛の声が、少女の名前をぽつりと漏らした。
「射命丸、文……」